FC2ブログ

京都の清水寺は不思議なお寺(その4) 【ファイルMK16】2010.03.16 

【ファイルMK16】2010.03.16 京都の清水寺は不思議なお寺(その4)

音羽の滝は大行列だよ。

 その1から読まれる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/50277173.html

 まず、清水の舞台の土台です。





 とても高いねえ。

 清水寺のそもそもの由来の霊泉『音羽の滝(おとわのたき)』です。





 例によって、ここは善男善女で大行列です。

 よくガイドさんの説明では、向かって左から学問成就、健康(美容?)、長寿の御利益があるということになっています。

 真ん中が恋愛成就ということもありますが、それは縁結びの神様を祀っている地主(じしゅ)神社の管轄のようです。
 
 どれか一つしか飲んではいけないことになっていて、よくばって二種類以上飲むと御利益は無くなるんだって。

 予防接種でも三種混合ワクチンとかあるのに、ケチだねえ。

 とはいえ、三筋の滝は同じ水源で、それが霊泉であることが清水寺の由来なので、どれを飲んでも観音様の功徳があるはずです。

 ちなみに清水寺HPの説明を読むと、どれを飲んでも『六根清浄(ろっこんしょうじょう)、諸願成就(しょがんじょうじゅ)』の功徳があるようです。
↓↓↓↓↓↓
 こんこんと流れる出る清水は古来「黄金水」「延命水」とよばれ、 ”清め”の水として尊ばれ,開祖行叡居士・開山延鎮上人の滝行を伝統して水垢離(みずごり)の行場となり、またお茶の水汲み場となってきた。
今日、参詣者が行列をつくって柄杓に清水を汲み、六根清浄、諸願成就を祈る。滝祠に不動明王や行叡居士を祀っている。
 ↑↑↑↑↑↑

※ 六根清浄というのは、人間に具わった六根【眼根(視覚)耳根(聴覚)鼻根(嗅覚)舌根(味覚)身根(触覚)意根(意識)】を清らかにすることです。


 清水の舞台から阿弥陀堂(左)奥の院(右)を望みます。





 阿弥陀堂(あみだどう:江戸時代初期、重要文化財)は、寛永8~10 (1631~33) 年の再建で、内陣には丈六の阿弥陀如来坐像が安置されています。
 法然上人がここで日本最初の常行念仏を修したと伝わり、上人像もお祀りしています。

 奥の院(江戸時代初期、重要文化財)も、本堂と同様寛永10 (1633) 年に再建され、本尊千手観音と脇侍地蔵菩薩・毘沙門天、二十八部衆、風神・雷神を祀っています。
 清水寺開創を起縁する音羽の滝の真上に建ち、元祖・行叡居士と開山・延鎮上人練行の旧草庵跡と伝えられています。

 真言宗兼学兼宗を継承しているため、弘法大師像もお祀りしているそうです。


 地主神社へと続く階段の手前の本堂に、1周するの深い溝があります。
 本堂の爪跡です。





 アップの写真。





 ひどいいたずらだねえ!って思ったら、これもいわれがあるんだって。

 この傷は弁慶の指跡とも、「お百度参り」をする参詣者が、暗い夜お堂の周囲を回るときにたどった跡がえぐれてできたものとも言われているそうです。

「堂々めぐり」という言葉はこのように本堂の周りを巡って願掛けをすることに由来するという説があります。


 本堂から出てすぐ左手に地主神社(じしゅじんじゃ)の入り口があります。





 地主神社は明治時代の神仏分離令の発令までは、清水寺の鎮守社でした。

 大国主を主祭神とし、父母神の素戔嗚命・奇稲田姫命、奇稲田姫命の父母神の足摩乳命・手摩乳命を正殿に、大田大神(芸能と長寿の神)、乙羽竜神(旅行・交通安全の神)、思兼大神(知恵と才能の神)を相殿にお祀りしています。

 縁結びの神さまとして人気のスポットで若い女性であふれています。境内の「恋占いの石」は大人気なんだって。

 本来は縁結びの神様ではなくて、地主神を祀る神社であるとする説もあるそうです。

 地主神社の鎮座する辺りは、古来「名勝蓬莱山(宝来山)」と呼ばれ、 不老長寿の霊山として信仰を集めてきました。

 京都盆地が湖であった古代から、この蓬莱山は陸地で、信仰の場となっていたそうです。

 811(弘仁2)年、嵯峨天皇が行幸。地主桜の美しさに三度車を返され、『御車返しの桜』の由来となりました。

 清水寺、ことに地主神社あたりは昔から桜の名所で、室町時代の歌謡集『閑吟集(かんぎんしゅう)』に、『面白の花の都や、筆で書くとも及ばじ東には祇園清水落ち来る滝の音羽の嵐に地主の桜は散り散り・・・』とあり、以前珍皇寺でご紹介した、謡曲『熊野(ゆや)』も清水寺の花見のお話でしたね。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/50093835.html

 970(天禄元)年の円融天皇行幸の際、勅命により行われた臨時祭が大祭『地主祭り(神幸祭)』の起源となり、今に伝わっています(5月5日開催)。
 1082(永保2)年には白河天皇が行幸、17日間参籠(さんろう:神社で昼夜にこもっての祈願 )されました。

 本殿、拝殿、総門は清水寺本堂と同じく1633(寛永10)年の再建です。

 また、この前紹介した仁王門前にある阿阿形の狛犬は地主神社のものです。

 阿阿形の狛犬の記事はこちら
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/50159263.html

 清水寺といえば、縁日=縁結びで、元々は清水寺の鎮守社であったここ地主神社に由来するのですね。

『ものぐさ太郎』がお嫁さんを求めて縁日の日に訪れたのも清水寺でした。

 また、『義経記(ぎけいき)』では、五条天神の南の民家前で義経を取り逃がした弁慶が、きっと清水寺の縁日に義経があらわれると待ち構え、清水の舞台で対決。返り討ちにあって義経の家来になったという逸話も残されています。

 これなどは、武士の崇敬の対象で京都の守護神=征夷大将軍坂上田村麻呂公信仰と、結縁の信仰があった、清水寺・地主神社こそがそういう伝承に相応しい場だということを意味します。


 阿弥陀堂、奥の院の方角から清水の舞台(本堂)を一望します。





 本堂の屋根は寄棟造の檜皮葺きで、正面(南面)左右に入母屋造の翼廊が突き出しています。

 左側の渓谷が錦雲渓(きんうんけい)です。

 三重の塔も入れるとこんな感じ。





 木々が生い茂っています。





 石段をおりたらば、お地蔵さんがいました。





 下から見上げた清水の舞台。





 石垣もりっぱだねえ。





 ということで、清水寺でした。
スポンサーサイト



京都の清水寺は不思議なお寺(その3) 【ファイルMK15】2010.03.11 

【ファイルMK15】2010.03.11 京都の清水寺は不思議なお寺(その3)

清水の舞台だよ。

 その1から読まれる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/50277173.html

 拝観券を買ったらば、本堂=清水の舞台を拝観します。

 その前に身を清めないといけません。

 手を清め、口を漱ぎます。





 やっぱり水回りは龍です。

 それでもってこの手水鉢(ちょうずばち)の台座はフクロウさんなのです、





 日本ではフクロウは死の象徴とされ、フクロウを見かけることは不吉なこととされていましたが、他方「不苦労」、「福郎」のゴロ合わせから福を呼ぶ鳥ともされているそうです。

 フクロウは西洋ではミネルヴァといって、知恵の神様ですね。

 手水鉢で身を清めたら、轟橋(とどろきばし)を渡って本堂に向かいます。





 橋と言いながら、水は流れていません。

 轟橋は中央の板張りを舌、両端の石造部分を歯に見立てて、清水寺の「口」と言われます。
 だから「歯痛の人は渡ってはいけない」という言い伝えがあります。

 もともとは、水が流れていて、轟川が清水寺から三年坂・八坂の塔・建仁寺・鴨川まで続いていたそうです。

 今は暗渠(あんきょ:地下水路)になって、姿が隠されています。

 さて、拝観券をもぎってもらうと、回廊を通ります。





 本堂の入り口にあるのが、鉄製の巨大な錫杖(しゃくじょう:修行僧や、修験者が持つ杖)と鉄下駄です。





 弁慶さんが使用していたとも、音羽の滝の行者が満願成就のお礼に奉納したとも言われています。

 大錫杖は長さ2.6m重量96kg、小錫杖は長さ1.76m重量17kgになります。

 これを持ち上げるとご利益があるとされています。
 
 鉄下駄のアップです。





 巨大な鉄下駄のほうは、一足12kgもあります。

 こんなの履いたら、足首を骨折するねえ。

 大きな仏足石が置かれています。





 大きさは、一尺七寸(約50cm)あります。

 これは、『悪七兵衛(あくしちびょうえ)』の異名を持つほど勇猛であった藤原 景清(ふじはら の かげきよ:平景清)または、弁慶の足跡だとも言われています。

 いよいよ、本堂=清水の舞台です。





 清水寺の本堂は徳川家光の寄進により寛永10年(1633年)に再建されました。

 国宝に指定され、『清水の舞台』とも呼ばれ、とても有名です。


 本堂の内々陣には、3基の厨子が置かれ、中央の厨子には本尊の千手観音立像、向かって右の厨子には毘沙門天立像、左の厨子には地蔵菩薩立像をそれぞれ安置されています。

 三尊とも秘仏なので、当然写真はありません。本尊厨子の左右には千手観音の眷属である二十八部衆像を安置し、内々陣左右端には風神・雷神像が安置されています。

 このお姉さんは煙を頭にかけています。





 頭が良くなるねえ。


 舞台から見下ろした景色です。





 手前にあるのが坂上田村麻呂公に降参した阿弖利爲(アテルイ)さんと母礼(モレ)さんの供養碑です。

 良い眺めだねえ。





 向かいの山から南は、昔は風葬の場だったのですね。

 清水の舞台は人がいっぱいです。





 木組みが頑丈に支えています。

 本堂は急斜面に建ち、舞台を支えるため、床下は139本の樹齢400年を越すケヤキの大木の長い束柱(つかばしら)が釘を使わずに組み上げられていて、この工法を『懸(か)け造り』と言います。

 思い切って物事を決断することを『清水の舞台から飛び降りたつもりで』とい言います。

 その由来は、江戸時代に観音様に願掛けをして飛び降りる人が続出したことにあるそうです。

 約12メートルの高さの舞台から飛び降りて、生き残ったら、願いが叶うそうです。

 そんな無茶な!

 飛び降りた人の数は記録の残る148年間で234件にのぼり、生存率は85%だそうです。

 亡くなっても、観音浄土に行けるはずだからねえ。

 明治5(1872)年に明治政府から飛び降り禁止令が出され、その後は下火になったということです。

 神道を国家の中心に据えた明治政府は廃仏毀釈を行い、こういう迷信は排除したかったんでしょうね。

 といっても、こういう危ない願掛けは、はた迷惑だから禁止したほうが良いと思うねえ。


 次に続きますね。


京都の清水寺は不思議なお寺(その2) 【ファイルMK14】2010.03.27 

【ファイルMK14】2010.03.27 京都の清水寺は不思議なお寺(その2)

三重塔の龍の瓦だよ。

 前回の記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/50277173.html

 三重塔(重要文化財)と経堂(重要文化財)です。





 和様の塔で、内部には、曼荼羅の密教世界が造形され、中央には大日如来が安置されているそうです。

 四方角の屋根瓦には、厄払いの鬼瓦がついています。





 ところが、東南角の瓦だけが『龍』なのです。





 龍は、仏教の守護神であり雨を呼ぶ神なので、清水寺を火災から守っているのだそうです。

 では、どうして東南角なのでしょう。

 方位は下の図のように十二支が割り振られています。





 図の上が北=子(ね)の方角です。

 東南は辰(たつ=龍)の方角なのですね。

 それで、南東角だけ龍の瓦にすることによって、火災から逃れようとしているのですね。

 また、清水寺は音羽の滝が由来で、京都の南東にあるからという事もあるかもしれません。

 ついでに、四神相応(しじんそうおう)だと、西は青龍です。

 西=卯(う)の方向も雨を呼ぶ龍の方向です。

『うだつがあがらない』という言葉を聞いたことがありませんか?

 出世したり地位が上がったりしない。金銭に恵まれない等の意味でつかわれる言葉ですが、この『うだつ』は、隣家との境につける防火壁で、これを設置するのは裕福な家だということに由来するという説があります。

 平安時代は『うだち』と呼んでいたのが、室町以降『うだつ』と訛ったそうですが、思うに、ひょっとして、雨を降らせ火を防いでくれる龍を表す方位である『卯(う)』の方位と『辰(たつ)』の方位を並べて『うだつ』と訛ったのかもしれませんね。

 うだつは、木へんに、八に兄・卯建・宇立などの字が当てられるそうですが、『卯辰』という字を当てられたことはなかったのでしょうか。

 ついでに、北は子(ね)の方角で、南は午(うま)の方角です。

 だから、南極点と北極点を結んだ線を子午線(しごせん)と言いますね。

 イギリスの旧グリニッジ天文台を通る子午線がグリニッジ子午線でこの子午線を経度0度。日本標準時子午線(にっぽんひょうじゅんじしごせん)は、東経135度で、明石市を通り、世界の標準時より9時間進んでいます。
 

 話が脇にそれましたが、本堂を始めとする諸堂は現存する建物の多くは上記寛永6年の火災の後、寛永10年(1633年)、徳川家光の寄進により再建されたものですが、清水寺は火災、戦乱等により何度も焼失しています。

 だから、火災よけの龍の瓦があるのは

 切実な気持ちからなのでしょう。

 さらに、清水寺は焼き討ちにもあっています。

 清水寺のホームページから清水寺の宗派・宗旨を見てみましょう。

 清水寺の宗派は、北法相宗(きたほっそうしゅう)。単立の一寺一宗です。

 法相宗は、別名唯識(ゆいしき)宗ともいい、4~5世紀のインドの仏教学者、弥勒(みろく)・無着・世親が開立した瑜伽(ゆが)派の教理を戒賢論師らが整理し、それを苦難の旅行をして学んだ中国・唐の玄奘三蔵の弟子・慈恩大師が『成(じょう)唯識論』を基礎として開宗しました。

 奈良時代に唐に留学した奈良・元興寺の道昭が日本に初伝来し(南寺の伝)、さらに興福寺の 玄も伝来しました(北寺の伝)。

 清水寺は、開創以来、興福寺の北伝の法相宗を伝統してきましたが、1965年「北法相宗」として独立しました。「北」は、北寺の伝に立脚するとともに、南都・奈良に対して北の京都に立地するという意味です。

 独立に際し、大きな役割を果たしたのが、清水寺中興の祖とも言われ日本初の五つ子さんの名付け親としても有名な当事清水寺住職(興福寺も兼務)だった大西 良慶(おおにしりょうけい)さんです。

 北法相宗を設立した大西さんは初代の管長に就任しました。

 宗旨は、『万法唯識』『三界唯一心。心のほかに別の法はなく、心と仏および衆生、この三つは差別なし』、即ち、あらゆる現象(相)は唯(ただ)人間の心のはたらきの反映であるとするというものです。


 それで、清水寺は、大西 良慶貫主による独立以前は、北伝の法相宗の奈良興福寺勢力の京都の拠点として位置づけられていました。

 南都北嶺(なんとほくれい)という言葉がありますが、『南都』は奈良のことで、法相宗(ほっそうしゅう)興福寺は奈良仏教の代表的な勢力でした。他方、『北嶺』は比叡山延暦寺のことです。 

 延暦寺は『山法師』、興福寺は『奈良法師』という僧兵(軍隊)で武装し、互いに権勢を振るいました。

 お互いに軍隊を持って派を競っていたということは、軍事衝突も生じます。

 そうなると、京都では、延暦寺との軍事衝突に際して、興福寺の京都の出先として最前線に位置する清水寺が矢面に立つことになります。

 ついには、永万1(1165)年には額打論(がくうちろん)をきっかけに比叡山僧兵が清水寺に大挙来襲、本堂以下ことごとく焼き討ちしたという記録が残っています(清水寺ホームページの年表より)。

 額打論というのは、二条帝の葬送の夜、墓所の周囲に掛ける額を巡って起きた紛争です。

 東大寺の次に額を掛けるのは興福寺の順番だったにもかかわらず、延暦寺が先に掛けてしまったために、怒った興福寺の僧2名が延暦寺の額を打ち壊しました。

 これを遺恨にもった延暦寺が興福寺の京都の出先である清水寺を焼き討ちしたのですね。

 それにしても、順序を間違うのもどうかしているし、だからといって額を打ち壊すのはやりすぎだし、その仕返しに清水寺を焼き討ちするなんて、仏門に使える人たちのやることじゃないねえ。
 
 比叡山延暦寺と奈良興福寺・清水寺や三井寺は仲が悪かったからねえ。


 後年、太平記の注釈書である『太平記秘伝理尽鈔』には、山門(比叡山延暦寺)の僧兵による軍事力の行使を批判して、『仏教徒ならば釈迦の教えに従い二百五十の戒律を守るべきで、まず第一に殺生を禁じる殺生戒を守るべきなのに、今の比叡山の僧は、自分たちの利益のために仏法を守ると称して多くの人を殺している』と書かれています。
(後注※参照)


 比叡山の権勢の大きさは、白河上皇(法皇)をして「賀茂川ノ水、双六ノ賽、山法師ハ、是レ朕ニ従ハザル者」と言わしめた程です。


 京都の寺社というのは、宗教の場であると共に、狂信を伴う世俗的な権力抗争の場でもありました。

 織田信長の石山本願寺攻め、延暦寺の焼き討ちもそういう文脈で見なければ、歴史を誤ります。

 北法相宗を設立した大西 良慶貫主も、そういった歴史を慮られたのかもしれません。


 次回に続きますね。

 次回はこちら





※)後注

『太平記秘伝理尽鈔』2 平凡社 東洋文庫721  今井正之助 加美 宏 長坂成行
 校注
P208
◎ 山徒京都ニ寄スル事

 大塔宮【おおとうのみや=護良親王(もりよししんのう/もりながしんのう)】は、延暦寺の大衆に、幕府打倒への決起を呼びかけた。大衆はそれに応じて、三月二八日、京へ押し寄せ、法勝寺に勢ぞろえした。
これを聞いた六波羅方は、七千余騎で法勝寺へ押し寄せ、佐治孫五郎らが奮戦して、山門勢を山上へと追い返した。山門の有名な悪僧、豪鑑、豪仙の二人は、法勝寺前にふみとどまって、半時ほど大敵を支えて戦い、見事な最期をとげて、山門の名をあげた。

 山門、京へ寄するに付て。

○ 評伝、凡そ釈門(しゃくもん:仏門)の徒たらん者は、大聖世尊(だいしやうせそん:釈迦の敬称)の掟を背かざるを以て要(よう)とす。然るに(シカルに)二百五十戒等の諸戒を立テ給しに、殺生戒(せつしやうかい)を以て第一のいましめとし給へり。

 されば、心有る人は、諸人の苦(く)に替わりて、我(われ)一人悩(なや)まんとこそ思フべきに、今の山門の衆徒、慈恵僧正(天台一八世座主良源)、南都の六宗と法論の事に付て、合戦に及ビしより已来(このかた)、忍辱(にんにく)の衣(ころも)を脱いで、堅甲利兵(けんかうりへい:よろい・武器を身につけた兵)の形(かたち)と成り、仏法の怨敵(えんでき)に事を寄せ(かこつけて)、彼を非し、此を是す。

 加之(しかのみならず)、人の命を亡ぼす事を罪とせず。たまたま心有る人、「それは仏戒を破り給ふに成り侍(はんべ)るらん」と謂(い)へば、「仏(ほとけ)も魔(ま)を降伏(がうぶく)し、菩薩も慈悲の殺生(せっしやう)有り」と答ふ。大に非なり。

 仏の衆生を助けんがために悪魔を払ひ給ふと、菩薩の衆生を渡(ど:度)せんための慈悲の殺生とは、雲泥万里(うんえいばんり)の異(い)なり。其故は、仏菩薩は、魔を憎しと思ひたまはず。又、自(じ)の利養(りよう:利益)のためにしたまわず。今の山門の衆徒は、名利(めいり)の為に、事を仏法に寄せて、多くの人民を殺害(せつがい)す。

 外に(外面では)仏の三衣(僧の着した三種の衣)を着するは、仏弟子(ぶつでし)の様(やう)なれども、内心は堤波(だいば)〈闡(せん)堤(天理本)〉(堤波達多は、釈迦に背いた非道の弟子。闡堤は、正法を誹謗して成仏の縁を欠くもの)に似たり。

 因果の道理遁(のが)るる所なし。誠に以て浅間敷き(あさましき)事にや。然(シカラ)ば木食・草衣にして、外行(ぐはいぎやう)内学(ないがく)(仏教修行の行と学問)の道をこそ専ら(もつぱら)とすべき事なれ。


京都の清水寺は不思議なお寺(その1) 【ファイルMK13】2010.02.27 

【ファイルMK13】2010.02.27 京都の清水寺は不思議なお寺(その1)

征夷大将軍の坂上田村麻呂公ゆかりのお寺だよ。

 さて、室町時代に建てられた重要文化財の仁王門 -から清水寺にお参りします。

 鮮やかな朱塗りの仁王門。
 




 仁王門(重要文化財)は境内入口に建つ朱塗りの門。三間一戸楼門、入母屋造、檜皮葺きで、正面左右に鎌倉時代末期の金剛力士(仁王)像を安置しています。室町時代の建立で、馬駐(うまとどめ)、鐘楼とともに寛永6(1629)年の大火をまぬがれました。

 清水寺の正式名称は音羽山清水寺(おとわさんきよみずでら)です。

 古都京都の文化財の一部としてユネスコ世界遺産に登録されたこともあって、外国のお客さんも多いのです。

 本堂を始めとする諸堂は現存する建物の多くは上記寛永6年の火災の後、寛永10年(1633年)、徳川家光の寄進により再建されたものです。

 寺の縁起によると

※  ※  ※

 音羽山清水寺は、1200余年前、すなわち奈良時代の末、宝亀9年(778)の開創になります。

 奈良の子島寺の延鎮(えんちん)上人が「木津川の北流に清泉を求めてゆけ」との霊夢をうけ、松は緑に、白雲が帯のようにたなびく音羽(おとわ)山麓の滝のほとりにたどり着き、草庵をむすんで永年練行中の行叡居士(ぎょうえいこじ)より観世音菩薩の威神力を祈りこめた霊木を授けられ、千手観音像を彫作して居士の旧庵にまつったのが、はじまりです。

 その翌々年、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)公は、妻室の高子(こうし)の安産のためにと鹿を求めて上山し、清水の源をたずねて 延鎮上人に会い、殺生の非を諭され、鹿を弔うて下山し、妻室に上人の説かれたところの清滝の霊験、 観世音菩薩の功徳を語り、共に深く観世音に帰依して仏殿を寄進し、ご本尊に十一面千手観音を安置しました。

 その後、上人は坂上公を助け、協力して更に地蔵尊と毘沙門天(びしゃもんてん)とを造像してご本尊の両脇士とし、本堂を広く造りかえました。

 音羽の滝は、清水滾々(しみずこんこん)と数千万年来、音羽の山中より湧出(ゆうしゅつ)する清泉で、金色水とも延命水ともよばれ、わが国十大名水の筆頭にあげられます。これが「清水寺(きよみずでら)」の名の由来です。

※  ※  ※

 征夷大将軍となり、東国の蝦夷平定を命じられた田村麻呂さんは、若武者と老僧(観音の使者である毘沙門天と地蔵菩薩の化身)の加勢を得て戦いに勝利し、無事に都に帰ることができました。

 このことから、清水寺では行叡を元祖、延鎮を開山、田村麻呂を本願と位置づけています。

 蝦夷討伐の際に田村麻呂さんを助けた地蔵菩薩さんは、とくに合戦の仏、勝軍地蔵として武士の信仰を集めました。

 それはそうと、殺生の非を諭され観世音に帰依した田村麻呂さんが蝦夷征伐っておかしくない?

 第一、蝦夷(えみし)といっても、同じ日本人だったのです。

 7世紀半ばの朝廷勢力の北限は今の福井県と新潟県とを結んだあたりでした。

 国司の指導の下、朝廷が支配した地域で農業が盛んになると、北方から国司の支配下になるべく移住する者が増えていきました。彼らは、新たに天皇の支配を受けるようになった者という意味の『俘囚(ふしゅう)』と呼ばれます。

 陸奥や出羽の開発がすすむと、関東地方から東北地方に、武装した農民『柵戸(きのへ)』が移住するようになります。

 柵戸の中には俘囚を差別する者が多く、地方官も朝廷の威光をふりかざし俘囚を粗略にあつかい、俘囚の首長を押さえつけます。

 そこで、奈良時代末から俘囚の反乱が頻発するようになります。

 中でも胆沢(いさわ)の首領、阿弖流爲(あてるい)さんは朝廷の大軍を破り都は騒然としました。

 朝廷も経済的に逼迫していて、東北経営に関心を払っていたので、時の桓武天皇は有能な田村麻呂さんを征夷大将軍に任じ、蝦夷地の平定を命じます。

 そこで東北に向かった坂上田村麻呂公は何をしたかというと、それまでの討征軍のように力尽くで反乱軍を鎮圧したのではなく、国司の支配下にありながら賊と内通した者を罰し、功績を残した蝦夷の人に禄を授けると宣言しました。

 延暦19(800)年には、田村麻呂公は朝廷に、東北経営がうまく進み、蝦夷や俘囚が城柵に帰伏しているので、さらに人々の生活を安定させるため、田30町を開発したいと申し出ています。

 さらに延暦21(802)年に胆沢城(いさわじょう)、志波城(しわじょう)を築きました。

 城と言っても、実情は軍事的拠点ではなく朝廷の官衙(かんが:役所)で、農地を開発し胆沢周辺の人々を帰順させるための拠点といったものだったようです。

 もともと蝦夷の人たちが反乱を起こしたのは、過酷な支配に反発したからなので、反乱する理由が無くなった人々は、次々と帰順し、阿弖利爲(アテルイ)さんは孤立します。

 同年=延暦21(802)年にはついに阿弖利爲(アテルイ)さんも兵士五百余人を率いて降参しました。

 坂上田村麻呂公は兵士五百余人の帰農を許し、阿弖利爲(アテルイ)さんと彼を補佐していた母礼(モレ)さんの二人を従え上洛します。

 田村麻呂公は、二人の助命嘆願書をあらかじめ都に送っていたので、二人は天皇への忠誠を誓った上で蝦夷に帰されると思っていたようです。

 田村麻呂さんと阿弖利爲(アテルイ)さんの軍隊は一度も正面衝突していませんし。

 ところが、平安京の貴族は「野性獣心、反復して定まりなし」と反対し、処刑を決め、阿弖利爲(アテルイ)と母礼(モレ)は、河内国で処刑されました。

 田村麻呂さんの心配りが台無しです。

 貴族にしてみれば、阿弖利爲(アテルイ)さんを謀反を起こした悪人として処刑しなければ、彼らを反乱に追い込んだ側の責任を問われかねないので、二人を処刑しないわけにはいかなかったのでしょう。

 清水寺は、阿弖利爲(アテルイ)さんと母礼(モレ)さんを慰霊する施設でもあるのですね。

 延暦24年(805年)には太政官符により坂上田村麻呂が寺地を賜り、弘仁元年(810年)には嵯峨天皇の勅許を得て公認の寺院となり、「北観音寺」の寺号を賜ったとされます。

 当時、寺院の新設・移転は禁じられていて、京には東寺、西寺以外の寺院はありませんでした。その中で清水寺の公認というのは、いかに坂上田村麻呂公の東北経営が評価されていたか分かります。

 没後、田村麻呂公は甲冑を着け、立った状態で葬られ、京都の守護神として崇敬を集めます。
 
 征夷大将軍の坂上田村麻呂さんといえば、最近、そのお墓が京都市山科区で約90年前に発掘された「西野山古墓」である可能性が高いことが、京都大大学院の吉川真司准教授(日本古代史)の調査で分かりました。
 
 以前そのことは、京都大学の博物館の記事で紹介しています。
 http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/38678342.html

  西野山古墓というのは、清水寺から程近い場所にあります。

 前回、平清盛さんが清水寺に籠もって吉夢を見て鵺を捕らえ、安芸守(あきのかみ)になった話を書きました。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/50159263.html

 延鎮(えんちん)上人が「木津川の北流に清泉を求めてゆけ」との霊夢を見て訪れ、征夷大将軍の坂上田村麻呂さんにもゆかりのある清水寺に籠もった平清盛が吉夢を見て鵺を捕らえ、安芸守になったという逸話が残っているのは、武家の正当性は、征夷大将軍の坂上田村麻呂公を源流とするという当時の人たちの認識から来ているのです。

 平清盛さんの伊勢平氏の家系は、田村麻呂さんを征夷大将軍に任命した桓武天皇、桓武平氏の流れをくんでいますから、官位は征夷大将軍にこだわる必要はありません。清盛さんは武家として初めて太政大臣まで登り詰めました。

 源義経が弁慶と出会った場が、坂上田村麻呂公を本願とする清水寺、もしくは、清水寺の参道である五条の橋(現松原橋)あるいは五条天神だったという伝承も、源氏政権の正当性の根拠を坂上田村麻呂とのつながりで示したものでしょう。

 源頼朝が坂上田村麻呂公の征夷大将軍の位にこだわっていた以上、鎌倉幕府の成立年は清和源氏の源頼朝が征夷大将軍に任ぜられた1192(いいくに)年じゃなきゃおかしいのです。

 さて、前述の通り征夷大将軍の坂上田村麻呂さんは、蝦夷(えぞ)を平定し阿弖利爲(アテルイ)さんの本拠地の胆沢(いさわ)に胆沢城(いさわじょう)を築きました。

 胆沢城(いさわじょう)といえば、城跡のすぐ近くには西松建設が工事を受注するために民主党の小沢幹事長に献金したといわれる胆沢(いさわ)ダム(別名小沢ダム)がありますが、どういうわけかこのダムは事業仕分けのリストにすら入っていません。

 八ッ場(やんば)ダムの工事は中止なのにご都合主義もいいところです。

 民主党を支持している日教組は、天皇の存在価値を歴史から少しでも軽くしたいので鎌倉幕府の成立年を源頼朝が征夷大将軍に任命された1192(いいくに)年じゃなくて、1185年にしたがっています。

 坂上田村麻呂公、阿弖利爲(アテルイ)さんと母礼(モレ)さんに祟られるんじゃないのかな?


 仁王門のカンカン貫(ぬき)です。





 仁王門の東西には、このように磨り減った木口(こぐち)があります。
一人が耳をあて、反対側をもう一人が叩くと、「カンカン」と澄んだ音が聞こえるようになっています。

 西門(さいもん:重要文化財)の背後に聳え立つ三重の塔(重要文化財)





 鐘楼です。





 鐘楼の柱が6本あるのは珍しいそうです。

 鐘には、金剛杵 (こんごうしょ:密教の法具)が刻まれています。





 ということで、次回に続きます。


八坂の塔から清水寺へ 【ファイルMK12】2010.02.04 

【ファイルMK12】2010.02.04 八坂の塔から清水寺へ

二年坂・三年坂もあるよ。

 
 松原通を北に外れて、八坂通りを通ります。





 突き当りが京都のランドマークの一つ、八坂の塔です。





 女の子が人力車に乗っています。





 今はいろんな観光地に人力車はあるけれど、やっぱり京都が一番似合うねえ。

 見上げると立派です。





 傾いた八坂の塔を大峯や熊野で修行をして、類いまれな呪術を身につけた比叡山の僧、浄蔵(じょうぞう)が祈祷しもとどおりにしたという伝説があります。

 浄蔵さんについては、以前祇園祭の記事で20.『山伏山』の御神体として紹介したことがあります。

 20.山伏山  浄蔵の記事はこちら
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/41077517.html


 二年坂です。





 写真を撮って振り返ったら、みんな同じ場所で写真を撮ってたよお!

 二年坂の名の由来は、三年坂に比べて小さな坂だから二年坂という説と、大同2(806)年に出来たからとする説があるそうです。

 また、地元では二年坂で転ぶと二年後に死ぬと信じられているそうです。

『おまえはもう死んでいる』の北斗の拳みたいだねえ。

 二年後に突然『ひでぶう!』って叫びながら死ぬのは、かんべんしてほしいねえ。


 三年坂を登ります。









 京都の風情が堪能できる坂なのですが、なにせ大勢の観光客で芋の子を洗うような状態です。

 なお三年坂は産寧坂(さんねいざか)とも呼ばれ、その名の由来にはさまざまな説があるそうです。

 代表的なものでは、『お産が寧か(やすらか)でありますように』と安産を祈願するため、清水寺の子安観音にお参りする坂ということで産寧坂と呼ばれるようになったという説があります。

 他に、

 大同3年(807)年に完成したから三年坂。

 願いが叶った後、清水寺の観音様への御礼参りに再度登る坂であることから再念坂。

 清水寺に参拝した人がこの坂道を降りるとき、再び願い事を念ずるから再念坂。

 という説があるそうで、他には、

 地元の子供の間では、二年坂同様『三年坂で転ぶと三年で死ぬ』という言い伝えが有名なようです。

 石畳で転ぶと危ないから、走らないように、こう躾けているんだろうねえ。


 平安時代には、このあたりは葬送地の鳥辺野(とりべの)の北のはずれに位置しているので、荒涼とした眺めでした。

 この坂にはさまざまな理由で俗世間を離れた『坂の者』とよばれる下級の僧=『無縁の者』たちが住んでいました。

 彼らは清水寺の支配下に入ることで身分を確保し、亡くなって冥界に分け入る人たちのために、遺体処理や葬送の仕事を行う他、芸能や手工業・商業で生業をたてていました。

 芸能というのは、冥界との交信といった役割を持ちますし、手工業の匠の技というのは素材に命を吹き込む呪術性を帯びてきますし、商業というのは、まさに他国=異界との媒介的な役目を果たしますからね。

 ですから、坂というのも、川同様、異界との境界を形成する場所なのですね。

 そういえば、東京の上野の不忍池にも無縁坂がありますが、ここにも『無縁の者』が住んでいたのでしょうか?

 無縁坂の写真はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/39658356.html

 三年坂にまつわる話として、

 源平盛衰記に『毛朱一竹塚(もうしゅいっちくづか)』の伝承があります。

 平清盛が清水寺に参籠(さんろう)したときに夢を見ます。

 ある人に占わせると吉夢だということで、果報を待つこと7日、内裏の宿直(とのい)に当たっていたとき、鵺(ぬえ)とおぼしき怪鳥が出現し、闇の中を飛び回りました。

 清盛がこれを捕まえて博士(陰陽師)に占わせると、これも吉兆だということで、大きな竹筒に入れ清水寺の岡に埋めました。

 これによって清盛は安芸守(あきのかみ)に昇任したということです。

 また、天皇がご病気になられたときは、この塚に勅使が訪れ、病気平癒の祭儀を行いました。

 この塚は大正時代までは『一竹塚(いっちくづか)』『鵺塚(ぬえづか)』と呼ばれ、三年坂の崖にあったそうですが、今は存在していません。

 清水坂(きよみずざか)、松原通=六道の辻を降りたら、清盛邸のあった六波羅ですから、いかにもありそうな話ですね。


 それでもって、清水寺(きよみずでら)に到着。





 その前にお参りしたいのが、清水寺の手前、写真左手にある善光寺に祀られている首振り地蔵です。





 何故、首振り地蔵かというと、ほうら、このとおり。





 このお地蔵様の前で一礼してから、両手でお地蔵様の顔をはさみ、首をくるっと一回転させてからお願いすると願い事がかなうそうです。

 顔が一周するなんて、エクソシストみたいですね。

 六道の辻の突き当たりだから、お地蔵さん=閻魔様が願い事を聞いてくれるのかな?

 借金で首が回らない人なんか、願い事を訊いてもらえそうだねえ。

 それで、清水寺に参拝するのですが、その前に見ていただきたいのが仁王門の前に立っている二体の狛犬さんです。









 狛犬さんは、普通、口を開けている『阿形(あぎょう)』と、口を閉じている『吽形(うんぎょう)』で1対になっています。

 いわゆる『阿吽の呼吸(あうんのこきゅう)』ですね。

 しかしながら、ここの狛犬さんは、どうした訳か、どちらも口を開けた『阿形』なのです。

 不思議だねえ。

 まさか、注文を聞いた石工の人がどちらかを『吽形』のはずが『阿形』と間違えたわけでもあるまいし。

 なにかいわれがあるのかな?

 次に続きます。

プロフィール

眼とろん星人

Author:眼とろん星人
FC2ブログへようこそ!

年別アーカイブ一覧

訪問者カウンダ―

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR