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『江戸趣味小玩具仲見世 助六』に行ったよ。【ファイルET104】2016.07.02 

【ファイルET104】2016.07.02 『江戸趣味小玩具仲見世 助六』に行ったよ。

江戸時代からある老舗=世界の海洋堂フィギュアの元祖だねえ。


日本の小さいものカワイイものは、世界でブームになっていますが、これは日本の悠久の歴史の中で育まれたものです。


今回は浅草仲見世にある、今では日本で唯一の江戸趣味小玩具を売っている助六さんというお店に行ってきた時のことを記事にします。


このお店を知ったのは、『コメディーお江戸でござる』(NHK総合テレビ)にもご出演され、江戸学に詳しい故杉浦日向子さん【平成17〈2005〉年惜しくも46歳の若さで逝去されました】のエッセイ集というか画文集の『一日江戸人』で紹介されていたのを読んでです。


お店は、間口一間なのですが、そのお店の中に、江戸小玩具約3000点の小宇宙が広がっています。






実は、この4年ほど前にも訪れたのですが、その時買った玩具を紛失して、アップできない状態だったので、今回再訪したのを機に、記事にしました。


前回訪れた時は、学識が豊富な『浅草仲見世 助六』店長の五代目御主人、木村 吉隆さんが親切丁寧に応対していただきました。


とても気さくでお話が大好きなご主人です。

粋でハンサムかつスマートな江戸っ子の慶応ボーイなので、該博な知識でもって、次々と江戸小玩具の知識が泉のように、まさに立て板に水の江戸っ子口調で、いろいろと説明してくださいました。


杉浦日向子さんの本でこのお店を知ったと伝えると、山口瞳さんや池波正太郎さんもここの玩具に惚れ込んで、常連として買い集めていたんだって。


まず、私の最初のお目当ての『とんだりはねたり』の助六バージョン(幅30mm、高さ46mm、奥行き55mm:3,300円)。






こうやって遊ぶんですよって実演していただきました。


裏向きにして、レバーの切れ込みにゴムを引っ掛けて、逆方向に倒し、手で押さえつけるようにセットします。






そして、手をはなすと捩じられたゴムの反動で飛び跳ね、男子体操、オリンピック金メダリストの内村航平選手顔負けの宙返りをして着地します。

その時に、被っていた笠が飛んで、ハンサムな助六さんのお顔が拝めるという寸法になっています。






「待ってました、成田屋」と大向こうから声がかかるねえ。

この『とんだりはねたり』は、今からさかのぼること、240年ほど前の江戸小玩具の大ヒット商品だったそうです。


最近の例で言うと、妖怪ウォッチみたいなものですね。


『とんだりはねたり』については、『しめこの兎(うさぎ)』実演の動画があるのでご覧ください。

江戸趣味小玩具 助六 - 地域情報動画サイト 街ログ





 うまくみられないときはこちら。↓


歌舞伎の『法界坊』のなかで、法界坊たちが「しめたしめた しめこのうさうさ」と節をつけて唄う場面があって、これは「兎を絞(し)める」ことで食べ物をいただけるというお祝いの『絞める』と、ものごとがうまくはこんだという意味の「しめた!」をかけた地口なのだそうです。


当時としても、そんなに安いものではなかったはずで、それでも大ブームになったのは、子供にねだられると、甘いのは、江戸時代の親も一緒だったんだねえ。


この江戸時代の大ヒット玩具『とんだりはねたり』は、『助六』さんが店を構えるさらに以前の今から約240年ほど前の安政年間(1772~81年)、浅草田町に住んでいた亀屋忠兵衛というひとが当時評判の「亀山のお化け」という見世物からヒントを得て案出し、雷門のそばで売り出したのがはじめといわれているそうです。


やがて、天明時代(1781〜89)になると、雷門に定店が設けられるほどの浅草名物となりました。


私が買ったのは、店名にもなっている『助六』さんですが。現在江戸小玩具のお店として唯一残っているこのお店の歴史は、今からさかのぼること約150年前の江戸末期、慶応2年(1866年)の創業に始まります。


初代が八十八(やそはち)さん、二代目が巳之吉(みのきち)さん、子之吉(ねのきち)さん、卯三郎(うさぶろう)さんと続いて当代五代目が木村 吉隆(よしたか)さん。

ご主人が伝え聞くところによると、仲見世で店を始めた当初は餡パンを売っていたところうまくいかず、人形焼を「名所焼」といって売り出して評判になったそうです。


隣の人形焼「木村屋本店」は、この「助六」の御主人、木村 吉隆さんのお母様の御実家なんだそうです。


そういえば、以前、人形焼「木村屋本店」も記事にしたことがあったのですが、「助六」さんとそんなつながりがあったなんて、知らなかったよお。

 人形焼「木村屋本店」の記事はこちら。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/54026481.html

初代の八十八(やそはち)さんは、「最初、絵草紙などを売っていて、だんだんと小玩具を商うようになっていったようだ」ということです。

「とんだりはねたり」や「ずぼんぼ」など子供の手あそびおもちゃを並べるところから始めて、次第に江戸趣味の玩具になっていったのでは、というご主人の言。

昔仲見世には、「助六」さんの外にも「武蔵屋」「伊勢勘」といった江戸趣味小玩具の店が三軒あって、「助六」さんがいちばんの新規参入店であったそうですが、今では、助六さん一軒だけになったのは、寂しいことです。

江戸小玩具のお店は、薄利なうえに、商品の種類が多く、小さいので、管理だけでも大変なのだそうです。


「助六」という屋号の由来は、浅草寺の辰巳の方角という縁起のいい場所で店をはじめるにあたって、観音様の五臓六腑をお助けしようと思い、そして住まいが花川戸にあったため、歌舞伎十八番のひとつ「助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)」に登場する花川戸の助六にちなんでのこと。


画像検索をしたら、Amazonで、『写真集市川海老蔵 (十一代目襲名記念写真集)』を見つけたのですが、海老蔵さんが助六を扮していらっしゃる姿が表紙を飾っているので画像をお借りしますね。






江戸一番の男伊達(おとこだて)、強きを挫(くじ)き、弱きを助ける侠客助六(きょうかくすけろく)さんです。

このお店で売っているのは、江戸玩具という小さな玩具=ミニチュア玩具なのですが、小さくて可愛くて、手間だから少々値がはります。

小さいから作るのが難しいんだねえ。

=

狭いお店で写真を撮られると迷惑なこともあって、店内は撮影禁止です。

ご主人の撮影許可を得て、その時に写した木村 吉隆さんの写真です。






奥には助六の絵が

日除けを上げ下げする金属棒を持ったままだねえ。


御主人の木村 吉隆さんは、「職人で『徹子の部屋』に出たのは私ぐらいだ」って自慢していました。


日本の貴重な伝統工芸ですから当然ですね。

だから、皇太子殿下、雅子妃殿下もご来店なさったこともあります。

さらに国賓として来日したダイアナ妃(Diana, Princess of Wales)や、今、大統領選中のヒラリー・クリントン夫人(Hillary Rodham Clinton=第42代アメリカ合衆国大統領ビル・クリントン氏の妻)も訪れたことがある由緒のあるお店です。


旧大蔵省からも切手の図案に使わせて欲しいってお願いに来たんだって。


それでもって出来た切手がこれ。

【年賀切手】 昭和33年用 年賀切手 (犬はりこ)1958年発行

http://www.city.okayama.jp/museum/newyear-stamp/s33.html





江戸玩具のひとつである犬張子の起源は、平安時代に身の汚れや災いを取り除く祓いの具として用いられた狛犬の像にまでさかのぼります。


切手の絵のようにデンデン太鼓を背負ったものは子供の魔除けとして好まれ、デンデン太鼓に裏表が無い事から「裏表の無い素直な子供に育ちますように」との願いが込められているそうです。


平成19年用年賀50円郵便切手 江戸趣味小玩具「宝珠の猪

https://www.post.japanpost.jp/kitte_hagaki/hagaki/nenga_hakko/2007/hakko.html





先ほどの助六の『とんだりはねたり』は再購入だったのですが、もう一つ可愛い人形があったので、買いました。


豆まき人形です(幅40mm、高さ40mm奥行き30mm:3,300円)。





右手には鬼じゃなくて、お多福さんのお面を、左手には豆まきの桝を持っているねえ。


ちっちゃいのに、髷(まげ)が立派だねえ。










ところで、節分の豆まきですが、

江戸時代、神社仏閣のなかで節分会(せつぶんえ)の行事を大規模に行ったのはここ浅草寺(せんそうじ)が最初で、その様子は『江戸名所図会』にも描かれています。


 『江戸名所図会』より、浅草寺の節分会





その伝統はいまなお守り続けられ、この日の観音様の境内は、善男善女であふれかえります。

このとき、観音様の前に鬼はいないということから、「福は内、福は内」と大きな声でいいながら豆まきをします。

だから上の子も、お多福さんのお面を持っているのですね。

「福は内、福は内」ですから、桝のなかに於福やお多福豆が入っています。観音様の豆まきの桝には、「福は内」の『福』という字が書いてあるそうです。

そして桝には、福が“ますます”増すようにとの願いがこめられているそうです。


それにしても、世界の海洋堂のフィギュアは、こういう伝統の流れを汲んでいるのですね。


江戸小玩具がこんなに小さいのは、

江戸は享保時代(1716~36)のこと。八代将軍徳川吉宗公が享保の改革を実施し、贅沢禁止令が出されるご時世に、裕福な町民層が楽しんでいた大きくて豪奢な玩具が御法度になり、できるだけ小さくて精巧な細工を施し、風刺や洒落をきかせた粋な江戸趣味の小玩具が作られるようになったからだということです。


この精巧さなら、これはこれで、贅沢な話だと思うのですが。

ということは、海洋堂さんのフィギュアが世界で評判なのも、暴れん坊将軍徳川吉宗公のおかげなのかな?


 海洋堂制作サンシャイン水族館限定ガチャガチャ!を掲載した記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/54002739.html

そうでなくとも、もともと日本人は小さくて可愛いものを愛でる文化を持っていますよね。


助六さんで売っている江戸小玩具の写真集も出版されています。


『江戸の縁起物――浅草仲見世助六物語 木村 吉隆著 亜紀書房 (2011/12/20)』






今回の記事も、この本を参考にさせていただいています。


3000点ほどの小玩具のなかから、代表的な約200点を厳選してあり、巻末の「浅草仲見世 助六物語」では、ご主人が、関東大震災、東京大空襲という災禍のなかから復興し、暖簾を守り続けてきた約150年間の店の歴史や、今の浅草への思いを語っておられます。


前回、このお店を訪れた時は日除けが下りていました。






日除けのアップです。このデザインは、お店の袋にもあしらわれています。






 浅草仲見世のHPから、助六さんの紹介ページはこちら。
http://www.asakusa-nakamise.jp/store/pop.php?sid=95

ということで、伝統の江戸小玩具『助六』さんでした。

こういう文化はずっと続いてほしいものですね。

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平将門さんの首塚がある地区の再開発だよ。 【ファイルET103】2014.12.11 

【ファイルET103】2014.12.11 平将門さんの首塚がある地区の再開発だよ。

やっぱり、世界的大企業でも祟りは怖いんだねえ。

前回は、首相公邸(旧首相官邸)の幽霊にまつわるお話について書きました↓

【ファイルET102】2014.09.27 首相公邸(旧首相官邸)の幽霊にまつわるお話(下)。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/55216635.html

それで、東京の怨霊といえば、平将門公(画像は再掲)。






以前、当ブログにおいて、その平将門公の首をお祀りする首塚について3回にわたって連載しました。↓


【ファイルET63】2012.05 07 平将門の首塚は魔都東京一のパワースポット(上)
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53268939.html

【ファイルET64】2012.05.25 平将門の首塚は魔都東京一のパワースポット(中)
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53314297.html

【ファイルET65】2012.06.10 平将門の首塚は魔都東京一のパワースポット(下)
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53355022.html

それで、この首塚のある区画が再開発されるというニュースが入ってきました。

 ※    ※    ※

たたりを意識? 大手町再開発、「将門の首塚」は計画外

 上栗崇 2014年12月11日20時05分 朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com/articles/ASGDC5S17GDCULFA020.html

 三井不動産などは11日、東京・大手町の三井物産本社ビル、旧プロミス本社ビルなど3棟を再開発し、超高層ビル2棟を建てる計画を発表した。敷地の一角にある「将門の首塚」は計画に含めず、周囲は緑地にするという。「撤去しようとしたGHQ(連合国軍総司令部)の重機が横転した」など、たたりがあるという言い伝えがある。

 首塚は東京都指定の文化財で、敷地は都の所有。平安時代の武将、平将門の飛んできた首をまつったとされる。道路に囲まれた四角形の開発予定地の中で、首塚の一角だけが切り取られたように抜け落ちている。三井不動産広報にたたりを意識したか尋ねたところ、「神聖で大切な場所と認識している」と答えた。

 計画では、2万900平方メートルの敷地に41階建て約200メートルと30階建て約160メートルのビルをつくり、オフィスやホテル、コンサートもできる多目的ホールが入る。投資額は約1700億円。(上栗崇)

 ※    ※    ※(以上引用終わり)

↑ それにしても、この記事を書いた記者の方が “ 上栗崇 さん ”というお名前なんだねえ。

まさか、祟(たたり)さんと読むのではないでしょうね!?

 見出しは平仮名で『たたり』と表記してあるし。

良く見ると『祟(たたり)』じゃなくて、『崇』という字でした。失礼をばいたしました。上栗さん、本当にすみませんでした。でも、パソコンのディスプレイで見ると、区別がつきにくいほど良く似た字なのです。


山口崇(やまぐち たかし)さんという俳優さんがいらっしゃるから、たぶん『たかし』さんなのでしょうが・・・。


それで、以前の記事の首塚の記事の時に掲載した写真を再掲しますね。

首塚の碑の後ろに首塚があります。






首塚の写真(再掲)






皇居の大手濠端、三井物産本社ビル跡などの再開発計画の完成予想図(中央の2棟)【三井不動産作成のものを加工】






再開発の位置関係は、Google マップに落とし込むと、こんな感じなのだそうです。






↑ もう、はなから再開発の地域から首塚の敷地だけ外しているのです。

以前、三井物産のIJPC(イランジャパン石油株式会社)が昭和54(1979)年2月に起こったホメイニ氏のイラン革命で頓挫したのも新社屋を将門さんの首塚の上に建てようとした祟りだと言われたりしたようですし。


つい先日も、三井物産などの他社に金属分野、石油・ガス分野の権益で後れをとった住友商事が、米国のシェールオイルなどで2400億円の減損を負ったばかりです。

総合商社は、その職業柄、常にグローバルなリスクを負っていますから、やはり気になりますよね。↓


 住友商事、「資源」で高値づかみの大失敗
 米国のシェールオイルなどで2400億円の減損
 西澤 佑介 :東洋経済 編集局記者 2014年10月01日
http://toyokeizai.net/articles/-/49340

ということでやはり『さわらぬ神に祟りなし』というお話でした。

やはり、氏神様は大切にしなければいけませんね。

 次に続きます。

首相公邸(旧首相官邸)の幽霊にまつわるお話(下)。【ファイルET102】2014.09.27 

【ファイルET102】2014.09.27 首相公邸(旧首相官邸)の幽霊にまつわるお話(下)。

幽霊が出るか出ないか国会質疑になったねえ。

(上)の続きです。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/55216609.html

前回ご紹介したように、最初は、鳩山由紀夫首相の首相公邸の贅沢改築の話だったのが、安倍政権になって、安倍首相がなかなか首相公邸に移らないのは、幽霊の噂があるからではないかという話になってきたのですね。

最初は、くだらない子供のような質問から始まりました。

※   ※   ※

「そういう子供っぽいことやめて」首相、民主・小西氏にあきれ顔

 2013.3.29 22:20 産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130329/plc13032922230023-n1.htm

 




 参院予算委員会で質問に答える安倍晋三首相=29日、国会・参院第1委員会室(酒巻俊介撮影)

 「そういう子供っぽいことは、やめましょうよ」

 安倍晋三首相が29日の参院予算委員会で、憲法の条文に関する細かい質問を続けた小西洋之氏(民主)をたしなめる場面があった。

 小西氏から「包括的な人権規定といわれる憲法の条文は何条か」などと執拗(しつよう)に質問され、首相は「クイズのような質問は生産的ではない。聞かなくても調べればいいじゃないか」と不満顔。首相を指さして「知らないとは内閣失格だ」と挑発する小西氏に、「大学の講義ではない」「このやりとりに何の意味があるのか」とあきれていた。

 直後に質問した中西健治氏(みんな)が「第何条かという質問はしません」と宣言すると、首相は「予算委員会にふさわしい質問だ」と笑顔を見せた。

※   ※   ※

“決められない”公邸引っ越し、原因はアノ人の意向?

 2013.4.6 07:00 産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130406/stt13040607000000-n1.htm

 「100日前、われわれは政権につきました。その時は進まぬ復興、そして長引くデフレ、行き過ぎた円高、冷え込んだ日米関係、時計の針が止まったような状況でした。『この状況を変えよ』との国民の声でわれわれは政権につきました」

 「この100日間、何とか時計の針を動かすために、結果を出すために、懸命に頑張ってきました。国民の皆さまが少しでも時計は動き始めたと、そのように思っていただければ本当にうれしい限りでありますが、まだまだこれからわれわれ本格的な結果を出していくために、さらに努力をしていかなければならないと思っています」

 政権発足100日を迎えた4日午前、首相官邸に入る際に記者団から感想を問われた安倍晋三首相は、神妙な表情でこう語った。政権発足から100日までは「ハネムーン期間」と言われ、マスコミも政権批判を控え気味だ。“アベノミクス”の好調ぶりを背景に高い支持率を維持する首相だが、夏には参院選も控え、改めて気を引き締めているようだった。

 大胆な金融緩和、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)交渉参加入り表明、米軍嘉手納基地以南の施設返還計画策定など、この100日間でさまざまな政治決断をしてきた首相が、いまだに決め切れていないのが公邸への引っ越しだ。

 現在の公邸は延べ床面積約7000平方メートル。昭和4年に完成した旧官邸を、新官邸の建設に伴い約50メートル南へ移築して大改修し、小泉純一郎政権時代の平成17年4月から公邸として使用している。

 第1次政権では首相就任から62日目に公邸へ引っ越した首相だが、今回は100日を超えても、その兆候はない。渋谷区富ケ谷の私邸から約15分かけて官邸まで公用車での通勤を続けている。今月22日までに引っ越さなければ、現在の公邸で首相就任から公邸入りまでの期間が一番長かった麻生太郎元首相(現副総理兼財務相)の118日を超える。

 公邸入りのメリットとしては、官邸までの移動時間が省けるほか、首相を狙ったテロ行為に対しても万全の警備ができる。公邸は24時間態勢で情報収集できるなど官邸に準じた執務機能を有しており、非常事態への即時対応も可能だ。

 そんな公邸の危機管理上の利点を熟知する首相だが、首相周辺の1人は「首相から力強く『公邸に引っ越しする』という話を聞いていない」と説明する。4月中は土日のどちらかに公務があり、大型連休前半もロシア、中東訪問の日程が入っている。引っ越しのためのまとまった休みが取れず、首相が積極的に引っ越そうという気分にならないのも分からなくはない。

 さらに、引っ越しが決まらない大きな原因といわれているのが昭恵夫人の意向だ。首相の地元の山口で米作りに携わったり、東日本大震災の被災地支援に取り組んだりと、首相に引けを取らないほどの多忙ぶりで、「引っ越しにあまり乗り気ではない」(官邸関係者)という。第1次政権時にも話題になった昭恵夫人がかわいがるミニチュアダックスフントの愛犬、ロイの世話をどうするかという問題もある。

 その昭恵夫人の交流サイト「フェイスブック」には、モンゴル訪問から帰国する政府専用機の中で“爆睡”する首相の写真がアップされている。昭恵夫人が「総理大臣といえども一人の人間です」と書き込むなど、首相も陰では少しお疲れのご様子。公邸は「部屋が広すぎて落ち着かない」(首相経験者)との指摘もあり、体調管理に気を使う首相としては、昭恵夫人の意向も踏まえながら、慎重に公邸入りの時期を考えざるを得ないようだ。(桑原雄尚)

※   ※   ※

公邸に幽霊?「承知していない」政府、答弁書を閣議決定 民主の追及に

 2013.5.24 12:33 産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130524/plc13052412340009-n1.htm

 政府は24日、首相公邸に幽霊が出るとの噂について「承知していない」とする答弁書を閣議決定した。

 昨年末の就任以来、安倍晋三首相が公邸に引っ越さないことを踏まえ、「幽霊の噂は事実か。首相が公邸に引っ越さないのはそのためか」とした民主党の加賀谷健氏の質問主意書に答えた。

 公邸は昭和11年、旧陸軍の青年将校が起こしたクーデター「2・26事件」の舞台となっており、犠牲者の幽霊が出るとの噂話がある。答弁書は「危機管理については遺漏のないよう万全を期している」とした上で、首相の入居時期について「諸般の状況を勘案しつつ判断されるものと承知している」とした。

※   ※   ※

首相公邸:「幽霊は出ない」 政府答弁書

 毎日新聞 2013年05月24日 14時30分(最終更新 05月25日 00時40分)
http://mainichi.jp/select/news/20130524k0000e010273000c.html

 首相公邸に幽霊は出ない--。政府は24日、首相公邸にまつわる「怪情報」を打ち消す答弁書を閣議決定した。「2.26事件等の幽霊が出るとのうわさがあるが事実か」という加賀谷健参院議員(民主)の質問主意書に答えた。ただ、菅義偉(よしひで)官房長官は記者会見で「幽霊が出そうな気配はあるか」と問われ、「言われればそうかな、と思いました」と思わせぶりに答えた。

 公邸は旧官邸。1936年の2.26事件では陸軍の青年将校らが官邸を占拠し、岡田啓介首相の義弟で秘書だった松尾伝蔵大佐を射殺した。

 安倍晋三首相は就任以来、東京都内の自宅から通勤しており、官邸を公邸として使うようになった2005年以降、入居までにかかった日数の最長記録を更新している。加賀谷氏は「幽霊が理由か」とただしたが、答弁書は「承知していない」とにべもなかった。【中島和哉】

※   ※   ※

首相公邸で幽霊の気配? 「言われれば」と菅氏

 2013.5.24 19:58 産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130524/plc13052420010020-n1.htm

 菅義偉官房長官は24日午後の記者会見で、首相公邸に幽霊が出るとのうわさ話をめぐり「気配を感じるか」と問われ、「いろんなうわさがある。言われればそうかなと思う」と述べた。午前の閣議では、うわさについて「承知していない」とする答弁書を決定したが、これに冗談めかして“反論”した形だ。

 菅氏は、安倍晋三首相が21日夜、全閣僚を集めた食事会を公邸で開いた時に、出席者から幽霊の話題が出たことも明らかにした。

※   ※   ※

公邸の幽霊話再び 「おはらい」提案も

 2013.5.27 22:34産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130527/plc13052722440029-n1.htm

 安倍晋三首相が27日夜、首相公邸で開いた食事会で、幽霊話が再び持ち上がった。公邸に幽霊が出るとのうわさは、政府が24日に閣議決定した答弁書で「承知していない」と否定したばかり。ただ「政府見解」を信じ切れないのか、参加者から「おはらいをしましょう」との提案も出た。

 首相が公邸に招いたのは各府省の副大臣。出席者によると首相はそれぞれの労をねぎらい、参院選への協力を要請。自らが案内役になって公邸内の旧閣議室などを見学した。その際にまた幽霊話が出たため参加者がおはらいを進言すると、首相は笑って聞いていたという。
 幽霊話は今月21日夜、首相が全閣僚を公邸に集めた食事会でも出ている。

※   ※   ※

安倍首相「森元首相は足を見た」=自身は都市伝説と否定的-公邸の幽霊話

 (2013/06/01-11:34)時事ドットコム
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2013060100154

 「森喜朗元首相がお化けの一部を見たという話も伺ったことがある。(幽霊には)足がないと言われているが、足の部分だけを見たと(聞いた)」。安倍晋三首相は1日放映の読売テレビ番組で、首相公邸に幽霊が出るとのうわさに関してこんなエピソードを紹介した。
 もっとも、自身がうわさを信じているわけではないようで、番組で首相は「都市伝説」と指摘した。公邸に引っ越さずに私邸暮らしを続けていることと、幽霊のうわさ話との関係については「全く無い」と語った。

※   ※   ※

公邸入居しない首相「幽霊が出るから嫌。一緒に住もうよ」

 2013.7.30 23:07 産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130730/plc13073023070024-n1.htm

 「幽霊が出るから嫌なんです。一緒に住みませんか」。安倍晋三首相は30日夜、自民党幹部を公邸に招いた会食で、就任から7カ月経ても公邸に入居しないことについて「怪談話」を持ち出して笑いを誘った。

 かつて首相官邸だった公邸は昭和11年の「2・26事件」の舞台で「犠牲者の幽霊が出る」との噂話が絶えない。

 首相は6月、「都市伝説」と分析し、公邸に入居しない理由との関連性を否定していたが、「森(喜朗元首相)さんがお化けの一部を見たという話は聞いたことがある」と明かしたことも。

 同居を勧められた出席者は即座に返答した。「嫌です」。

※   ※   ※(以上引用終わり)

ということで、どうでも良いことなんですが、本当に悠長なものです。

幽霊はいません。もしいたとしても全然怖くありません。

幽霊がもしいたとしたら、無茶苦茶な構造改革や労働法改悪でデフレを悪化させた小泉純一郎元総理や、第6代 総務大臣をつとめ、思いっきり派遣社員増大施策を推進して、その論功行賞で、現在、賄賂職のパソナグループ取締役会長を務めている竹中平蔵氏なんかは、過労死者の怨霊によって、とっくの昔に、呪い殺されていないとおかしいのですから。


為政者の悪政は幽霊よりずっと悪質で恐いのです。


首相公邸(旧首相官邸)の幽霊にまつわるお話(上)。 【ファイルET101】2014.09.27 

【ファイルET101】2014.09.27 首相公邸(旧首相官邸)の幽霊にまつわるお話(上)。

幽霊が出るか出ないか国会質疑になったねえ。

 前回までは、『四谷から溜池山王までお散歩したよ』という記事を連載してきました。
(その1)から読まれる方はこちら。↓
 http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/54423550.html

その中で、旧山王ホテル(現山王パークタワー)が昭和11(1936)年)2月に、青年将校を中心としたクーデター、すなわち二・二六事件では、この山王ホテルが反乱軍に占拠されて、クーデター側の司令部となったという生々しい歴史があったということについて書きました。

http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/55189493.html

二・二六事件は、基本的に皇道派(こうどうは)と、統制派との派閥争いがあって、その中で、政財界(皇道派がいうところの『君側の奸【くんそくのかん:君主の側で君主を思うままに動かして操り、悪政を行わせるような奸臣】」』を排除して天皇親政による国家改造を目指す皇道派の中にあって、国体原理派を自認する青年将校を中心に1483名の兵を率い“昭和維新”と称して政府中枢を襲ったクーデター未遂事件です。

といっても、事件そのものの背景は複雑で、未解明な部分もあって、軽々には語れません。


まず、内閣総理大臣・退役海軍大将の岡田啓介氏は天皇大権を掣肘(せいちゅう)する「君側の奸」として襲撃の対象となりました。


全体の指揮を栗原安秀中尉が執り、第1小隊を栗原中尉自身が、第2小隊を池田俊彦少尉が、第3小隊を林八郎少尉が、機関銃小隊を尾島健次曹長が率いました。

反乱部隊が総理大臣官邸に乱入する際、官邸警備に当たっていた村上嘉茂衛門巡査部長(官邸内)、土井清松巡査(林八郎少尉を取り押さえようとする)、清水与四郎巡査(庭)、小館喜代松巡査(官邸玄関)の4名の警察官は拳銃で応戦しました。

4名は襲撃部隊の圧倒的な兵力により殉職されたのですが、この応戦の隙に岡田総理は女中部屋の押入れに隠れることができました。

その間に岡田総理の義弟で総理秘書官兼身辺警護役をつとめていた松尾伝蔵予備役陸軍大佐は、反乱将校らの前に自ら走り出て銃殺されました。松尾予備役大佐はもともと岡田総理と容姿が似ていた上、銃撃によって前額部が大きく打ち砕かれ容貌の判別が困難になったため将校らは岡田総理と誤認し、目的を果たしたと思いこみ岡田総理は危うく難を逃れました。


『二・二六事件 太平洋戦争研究会平塚 柾緒 著 (河出文庫)』より、P73から引用しましょう。

※   ※   ※

岡田大将記録編纂会編『岡田啓介』によれば、当の岡田首相は、この“首相殺害”場面を一部始終目撃していた。

【写真は、岡田首相(左)と間違われて反乱軍に撃たれ、壮絶な最期をとげた松尾予備役大佐:同著より】


 




「松尾は天皇陛下万歳を唱えて倒れた。この四、五人の一隊は中庭に出て、『これだ、これだ』と松尾の死体を自分の寝室に運び、自分のベッドに仰臥(ぎょうが)せしめた。この報告を聞いて、十五、六人の一隊が集まっていたようである。

自分は、この間に浴室を出て洗面室の電灯を消し、壁に倚(よ)りかかって、先方からは見えないようにし、自分の寝室を覗いた。十数人のものが集まっている。

一人が銃剣で寝室に次ぐ大広間に掲げてある自分の写真(夏の背広姿にて外務省の写したるもの)をとりはずし、これを松尾と見較(みくら)べ、『これだ、これだ』と松尾を自分と思い込み、みな、どこかへ立ち去った」


岡田首相がお手伝いさんの部屋に逃げ込み、押し入れの中に潜むのはこの後である。

しかし栗原中尉をはじめ襲撃部隊は、殺害したのが松尾大佐とは知らない。だから栗原の“首相確認”が終わった時、誰からともなく万歳が怒り、兵士たちは栗原が買って来させた清酒の四斗樽を車回しに運び上げて勝利の乾杯をしたのである。

※   ※   ※(以上引用終わり)

当時の首相官邸の見取り図。【同著より:現在は警備のためにレイアウトは変更されていると思われます】


 




それ以前にも、五・一五事件がありました。昭和7(1932)年5月15日、午後五時半頃、海軍や陸軍の軍人九名が総理大臣官邸に侵入し、応接間に招じ入れて話し合いで説得しようとした内閣総理大臣犬養毅(いぬかいつよし)氏を狙撃したのです。犬養首相は弾丸二発を頭部に受けて危篤に陥り、帝大の監田博士による治療、輸血の効もなく、同日午後午後十一時二十六分に亡くなりました。

この時に犬養総理が暗殺者に『話せばわかる』といった言葉は有名です。


事件のあった旧首相官邸は、現在南東隣に移築され、現在、首相公邸として使用されています。それで、旧首相官邸跡には、新しい、首相官邸が建っています。


『首相公邸』というのは、国家公務員宿舎法の規定に基づいた設備で、いわば、内閣総理大臣専用の国家公務員住宅、つまり居住スペースですね。一方首相官邸は、内閣総理大臣の執務室です。


首相官邸と、首相公邸が隣接しているのは、緊急事態があった時に、即座に内閣総理大臣が執務を行うことができるための配慮です。


ということで、旧首相官邸(現首相公邸:再掲)


 




 旧名称総理大臣官邸
 設計者下元連(しももと むらじ:大蔵省営繕管財局工務課第二製図係長、のち工学院大学教授)
 施工 清水組(現在の清水建設)
 構造形式鉄筋コンクリート構造
 延床面積7000平方メートル
 階数地上3階、地下1階
 竣工1929年3月18日
 改築2003年10月-2005年4月
 所在地東京都千代田区永田町2丁目3番1号

最初、この公邸については、鳩山由紀夫首相が、行政改革だ事業仕分けだと言っていた時に、贅沢改築をしたということで、問題になりました。

※   ※   ※

「公邸の浴室改修」…実は寝室改装

2010.2.12 23:02 産経msnニュース 
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100212/plc1002122304019-n1.htm

「風呂場と、それから洗濯機を変えたかもしれない。そのくらいかもしれない」

 鳩山由紀夫首相は12日の衆院予算委員会で、自民党の与謝野馨元財務相から昨年10月末に 首相公邸に入居した際の改修費について、「どこをどのように、どの予算で直したのか」と問われると、
こう答えた。
 
 ところが、首相は12日夜、記者団に対し、「調べたら風呂は改修していなかった。実は、和室を洋風に して寝室にしている。そのための改修費がかかっている。洗濯機もそうでもなかったみたい」と述べ、改修した個所を訂正した。

 首相は記者団から改修総額をたずねられても、「今、出す必要もない」と一蹴した。それどころか「毎年、公邸の主が代われば毎年、改修しなければならない。毎年のように首相が代わること自体を変えることが経費を節減する道だ」と開き直った。

 首相側近は「(民主党は)野党暮らしが長いから、国会で追及されるかどうかの基準で考えている。

改修費は過去の例と同じ水準に収めている」と強調したが、改修費の合計金額については明らかにしなかった。

※   ※   ※(以上引用終わり)

「麻生さん入った風呂はイヤ」 首相公邸改修乱れ飛ぶ憶測

 J-CASTニュース2010年02月24日20時17分
 鳩山幸首相夫人が「麻生前総理が入った風呂に入りたくない」というので、1千万円の税金を使い首相公邸の風呂場を改修工事したのではないかーー。自民党の高市早苗衆議院議員がこんな内容の質問主意書を提出した。これに対し鳩山由紀夫首相は風呂場の改修工事はしていない、との答弁書を出したが、幸夫人が公邸設備への不満を漏らしていたことなどから、「本当は改修したのでは」などとさまざまな憶測が乱れ飛んでいる。
内装補修や床改修には413万円かけた

 事の発端は10年2月12日の衆院予算委員会。自民党の与謝野馨衆議院議員が鳩山首相に対し、09年10月末に公邸に入居した際の改修について質問した。首相は「公邸のお風呂を改修した」と述べたが、同日の記者「ぶら下がり」では、「調べてみたところ、寝室は改修したが風呂は改修していない」と修正発言。「どのようにして、公邸を改修したか、という理解をしていなかった節がある」などとあやふやな答えだった。

 高市議員はこの日、「総理大臣公邸の風呂場改修工事について」の主意書を提出した。幸夫人が「麻生前総理が入った風呂に入りたくない」という理由から風呂場を改修。風呂場は05年3月に作られたまだ新しいものにもかかわらず、費用は内閣官房報償費(機密費)から捻出した。こうしたことは複数の国家公務員が証言しているものであり、「真偽をはっきりさせるため」政権交代後に行われた公邸の工事や新たに購入した全ての備品の名前、金額、代金支払いの原資を明らかにしてほしい、というものだった。

 鳩山首相は10年2月23日付けで答弁書を衆議院議長に提出。風呂場の改修工事の事実はない、とした。ただし、「経年劣化」に伴い内装補修や床改修は実施していて、合計で413万円。また、洗濯乾燥機2台を購入、61万円かかった。これらの経費は(項)内閣官房共通費(目)総理大臣官邸業務庁費から支出している、と書いている。

 ネットでは鳩山夫妻が風呂場を改修してもおかしくはない、という見方も結構目立つ。幸夫人が公邸に不満を持っていると報じられていたからだ。

 「週刊文春」(12月31日・1月7日新年特大号)によれば、

 「『広すぎてお化けが出そう』『誰かにみられている気がする』『4年間これが続くのね』などと、愚痴をこぼしています」という鳩山家知人のコメントが掲載されている。特に気に入らないのが台所だ、としている。

 ネットでは、「麻生総理が使った風呂場ならば、もっと毛嫌いしているのではないか」といった推測も出ている。

 風呂場改修に機密費1000万円を使ってしまった??

 鳩山首相も風呂場には関心が高いようで、「お風呂でマントラ(呪文)を唱える」習慣がある、と民主党の幹事長時代に受けたインタビューで答えている、メディテーションで何も考えない時間を持つとリフレッシュできるため、無になるためにお風呂でマントラを唱えるのだそうだ。そんな首相夫婦だから風呂場を改修してもおかしくないのでは、ということのようだ。

 高市議員は、2010年2月24日付けの自身のホームページ上のコラムで、「すっきりしない答弁書でありました」と書いた。風呂場改修の情報は09年12月に複数の官僚から提供されたもの。鳩山首相が機密費情報の公開を進める、とかねてから言っていたにも関わらず、機密費非公開に一転したのは、公邸の風呂場改修に機密費1000万円を使ってしまったからだ。こんな背景を官僚達から聞かされた、というのだ。

 ちなみに、安倍晋三元首相に官邸の風呂場について聞いたところ、小泉元首相から麻生前首相まで風呂場の改修は行っていなかったという。

 「風呂場の改修の有無については、麻生前総理大臣や安倍元総理大臣が視察することができたなら、すぐに判明することだろうと思います」

 とも書いていて、「風呂場騒動」の真相はやぶの中だ。

※   ※   ※(以上引用終わり)

 【先代:麻生太郎氏→ 第93代鳩山由紀夫内閣総理大臣:2009年 - 2010年→次代:菅直人氏】です。本当に馬鹿気た騒ぎでした。

 (下)に続きます。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/55216635.html

四谷から溜池山王までお散歩したよ。(その17) 【ファイルET101】2014.09.09 

【ファイルET101】2014.09.09 四谷から溜池山王までお散歩したよ。(その17)

山王パークタワーは、旧山王ホテルがあった場所。2.26事件の舞台にもなったんだねえ。

 四谷から溜池山王までお散歩したよ。(その1)から読まれる方はこちら。↓
 http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/54423550.html

 前回までは山王日枝神社についての記事を書きました。

山王さまの山王日枝神社は江戸城の裏鬼門を守っているよ(日枝神社その1)から読まれる方はこちら。↓

 http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/54811826.html

ということで、今回は、山王神社の神門側階段を降りてすぐの溜池山王(ためいけさんのう)にある山王(さんのう)パークタワーです。


 




上の写真右上隅に一部分写っているのが、

お隣さんのキャピトル東急ホテル(東急キャピトルタワー)です。【写真を撮り忘れたので、『東京・大阪 都心上空ヘリコプター遊覧飛行』のサイトよりお借りしました】

http://building-pc.cocolog-nifty.com/helicopter/2011/03/post-6eee.html

 




 左下に山王様の鳥居が写っています。

 下記はキャピトル東急ホテル(東急キャピトルタワー)の説明です。

東急キャピトルタワーの概要

所在地-東京都千代田区永田町二丁目10-3
階数-地上29階、塔屋3階、地下4階(法規上 地上28階、地下5階)
高さ-最高部120.30m(法規上 119.06m)
敷地面積-7,938.25㎡
延床面積-87,428.28㎡
構造-(地上部)鉄骨造、(地下部)鉄骨鉄筋コンクリート造、鉄筋コンクリート造
用途-ホテル(1~3階、14~15階、18~29階)、共同住宅(16~17階)、オフィス(4~13階)、店舗
総戸数-14戸
建築主-東京急行電鉄
設計・監理-東京急行コンサルタント、観光企画設計社
施工者-清水建設
竣工-2010年07月
オープン-2010年10月22日(ザ・キャピトルホテル東急)

それで、このビルの正式名は「東急キャピトルタワー」です。

 ホテル及び関連施設約38,000㎡、オフィス約31,000㎡、共同住宅約3,000㎡、駐車場他約16,000㎡となっています。

メインテナントの「ザ・キャピトルホテル東急」は2010年10月22日(金)に開業しました。客室数は251室で、1階~3階、14階~15階と18階~29階を占めます。

共同住宅の「ザ・キャピトルレジデンス東急」は総戸数14戸となっています。

家賃は月額105万円~240万円の超高級賃貸マンションです。

 

少し脱線しますが、キャピトル東急ホテルは、旧称の『東京ヒルトンホテル』時代に1966年6月30日から7月2日にかけて、東京・日本武道館において行われたザ・ビートルズの来日公演時に宿泊したことで有名で、ビートルズファンにとっては、聖地のひとつです。

公演会場の日本武道館からも近いからねえ。

 日本武道館の記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51479562.html

 ザ・ビートルズ宿泊当時は、大勢のファンがホテルの周りを取り囲んで、もしかしたら、窓が開いて、メンバーの顔を一目見ることが出来るんじゃないかと、ずっと待ち構えていたそうです。

羽田のJAL便からタラップを降りるビートルズ。


 




建て替え前の、営業最終日のキャピトル東急ホテルの写真。旧称の『東京ヒルトンホテル』の時代にビートルズが宿泊していたビル(Wikipediaより)


 




それで、お隣の山王パークタワーに戻ります。


 




名 称     山王パークタワー

 所在地 東京都千代田区永田町二丁目11-1
 階 数 地上44階、塔屋2階、地下4階
 建物高さ 最高部194.45m、軒高183.5m
 敷地面積 14,981.00㎡
 建築面積 6,075㎡
 延床面積 219,216.00㎡
 構 造 S造、一部SRC造
 用 途 オフィス、店舗
 建築主 永田町二丁目地区開発協議会(8社)
 設計者 三菱地所設計
 施工者 清水建設、鹿島建設、大林組、東急建設JV
 着 工 -
 竣 工 2000年01月
 オープン 2000年02月

首相官邸のすぐ西隣にある超高層ビルです。

こんなところに超高層ビルがあったら、首相は、ビルの窓から、ゴルゴ13のようなスナイパーの標的になります。

さすがに治安上ここでの超高層ビル建設計画が持ち上がった時、それが大問題になって、結局そのような事件が起きないように、ビルの方向を変更することによって、決着したということです。

というのも、ここの土地には以前は、山王ホテルがあったのですが、首相官邸のすぐそばにあるため、昭和11(1936)年に起きた二・二六事件では、この山王ホテルが反乱軍に占拠されて、クーデター側の司令部となったという生々しい歴史があるのです。


二・二六事件当時の山王ホテル(Wikipediaより)

 昭和11(1936)年)2月

 




山王ホテルは、 昭和7(1932)年、自動車・燃料関連企業である安全自動車の経営者であった中谷保によってこの場所で創業されました。

 建物は、地下にアイススケート場まで備えた近代的なもの、当時は日本を代表する高級ホテルのひとつであったとされています。開業当初の部屋数は80室でしたが、以後増築されて149室となりました。また、欧州風の鉄筋コンクリート建築の「本館」と、和風建築の「日本館」が併設されていました。

山王ホテル概要

 正式名称山王ホテル
 設計小笠原建築事務所
 階数地下2 - 4階
 部屋数149室
 敷地面積 13,000m²
 開業昭和7(1932)年
 閉業昭和21(1946)年9月
 床面積: 150,000平方フィート]
 初代支配人: 中谷保
 レストラン、喫茶、バー
 アイススケート場

 ここが舞台の一つになった二・二六事件は、戦前の歴史の転換点となる大事件なのですが、あまりにも大きな事件なので、ここでの説明は省きます。

また、戦前の山王ホテルは、リヒャルト・ゾルゲや、マックス・クラウゼンなど、帝国日本で暗躍した外国人スパイにも利用されました。

 ゾルゲは、祖国のソ連に、日本は南進戦略を取っており、北進してソ連を急襲することはないという重大機密情報を得、そのことによって、スターリンは、戦力を対ドイツ戦線に集中することができたのです。

スパイのゾルゲによる機密漏えいが無ければ、第二次世界大戦の戦局は大きく変わっていたでしょう。その舞台が、ここにあった山王ホテルだったのです。

山王ホテルは、戦後連合国軍に接収され、昭和21(1946年)年9月にホテルを閉業。その後も、なんと昭和58年(1983)年までの長きにわたって、在日アメリカ軍の施設として占拠され続けました。


昭和26(1951)年、サンフランシスコ講和条約が締結され、日本が主権を取り戻し、アメリカ軍によって接収されていた多数のホテルの大半が返還され、通常の商業ホテルとしての営業を再開した中、唯一山王ホテルだけは、その後もアメリカ軍の専用施設として供与され、日本政府が所有者(安全自動車ら)に、土地・建物の使用料を支払い続けたのです。

つまり、米軍が占拠している山王ホテルの使用料は、日本政府が日本国民の税金で肩代わりして、本来の所有者に支払い続けていたのです。

日本政府は昭和50(1975)年12月に在日アメリカ軍との間で、5年以内に山王ホテルを所有者に返還することを骨子とする合意を得たのですが、返還後アメリカ軍に供与予定の代替物件(ニュー山王ホテル)は、港区南麻布の安立電気本社跡地を敷地として確保した 昭和56(1981)年6月に至るまで着工されませんでした。

昭和58(1983)年、アメリカ軍向けの新施設が完成、旧山王ホテルは昭和58(1983)年10月5日をもって閉鎖されました。

昭和60(1985)年頃より、三菱地所と安全自動車、さらに隣接する日枝神社などの共同での再開発計画が持ち上がったのですが、平成8(1996)年頃の建設着工に至るまで、ホテル跡地は暫く更地のまま放置されていました。

そして、今建っているビルが、平成12(2000)年1月に山王パークタワーとして漸く竣工し、もとの民間施設として日の目をみます。本当に馬鹿馬鹿しい限りです。


それで営団地下鉄銀座線・南北線の駅名にもなっている溜池山王(ためいけさんのう)という地名のうち、山王(さんのう)は、勿論、これまでご紹介した日枝山王権現社(ひえさんのうごんげんしゃ)から来ているのですが、

溜池(ためけ)という名は、文字通り、ここに溜池(ためいけ)があったのです。


現代の地図に昔の位置関係を落としたもの(再掲)


 




 これをみると、今の山王パークタワーの南から外堀が膨らんで首相官邸の南あたりが溜池だったことがわかります。

歌川広重(うたがわひろしげ)の『名所江戸百景』から『赤坂桐畑(あかさかきりばたけ)』【夏52景】です。


 




『-江戸切絵図で歩く― 広重の大江戸名所百景散歩 -嘉永・安政 江戸の風景119- :堀 晃明著 人文者社』より、この絵の解説を引用させていただきます。

 ※  ※  ※  ※

日枝山王権現社(ひえさんのうごんげんしゃ)のある山王台地の西麓を取り巻くように、赤坂から虎の門まで、ひょうたんのように長い池があった。

もともとこの池は、麹町(こうじまち)、鮫(さめ)ヶ橋、清水谷の辺りから出る湧水【ゆうすい:後注1】や清水が溜(た)まって出来た天然の池であった。

江戸時代に入って、徳川家康に恩義を感じていた和歌山藩主浅野幸長(よしなが)が、この池に江戸城の外堀の役割を果たさせるため、慶長11(1606)年に、虎の門に堰(せき)を築いて水を堰き止め、この池の拡張を行った。そしてこの池が後に溜池(ためいけ)と呼ばれるようになった。

承応3年(1654)年に玉川上水(たまがわじょうすい)が完成し、その水が虎の門まで伏樋【ふせひ:後注2】で運ばれるようになるまでは、この溜池が上水の役目を果たしていて、ここより南の市中へ水を供給していた。

溜池の西岸、赤坂田町の先の空地には池の土手を補強するという理由で、桐(きり)の木が多く植えられ、桐畑(きりばたけ)といわれていた。広重はこの桐畑にあった桐の木2本を全景にして、赤坂方面から、東南方に広がった溜池の景色を描いている。

左手に見える岡が山王台地で、その麓(ふもと)には武家屋敷や寺の末寺が並んで立っていた。

溜池は、二代将軍秀忠(ひでただ)が琵琶湖の鮒(ふな)や淀川(よどがわ:琵琶湖から大阪へそそぐ琵琶湖淀川水系)の鯉(こい)を取り寄せて放したので鮒や鯉の名所になったといわれている。

また蓮(はす)が多く植えられていて、不忍池と並ぶ蓮の花の名所ともなっていた。

さらに池の洲には、白膠木(ぬるで)の木があって、楓(かえで)に先き立って美しく紅葉したという。


 ※注1) 湧水 【ゆうすい:地下水が地表に自然に出てきたもののことである。湧き水(わきみず)や泉(いずみ)、湧泉(ゆうせん)ともいう】

 ※注2) 伏樋 【ふせひ:土の中や水流の底に埋めて、水を流す樋(ひ)。「ふせどひ」とも。「ふせ樋は、久あらしめむとおもはゞ、石をふたをゝいにふすべし」〔作庭記〕「ふきわたしたる虹すごき梅/少(さ)々にごる伏樋に春の雫して」〔辰歳旦惣寄〕】

 ※  ※  ※  ※(以上引用終わり)

溜池は深くて広かったため、河童小僧が住んでいたとか、内藤家の屋敷の裏手で、幽魂が夜な夜な立ち現れるというので、溜池小舟を出して探ってみたら、荒縄で手足を縛られた年頃二十三四とも見ゆる町人風の男の水死体が上がったという話が残っているそうです。

この場所は、江戸時代において、それほど妖気の漂う怪しく、寂しい場所だったのですね。


その後、上記の説明にも触れていますが、承応(じょうおう)二(1653)年に玉川上水がひかれ生活用水が確保されるとともに溜池はその機能を失って、すでに承応年間(1652~55)にその一部の埋め立てがおこなわれています。

 明治5(1872)年正月には永田町と田町四丁目との間に渡船場ができ、交通の便が図られます。その後、明治八、九年ごろから排水して残された溜池のうち二万坪ほどを埋立、明治21(1888)年には埋立地の中の4000坪程度を中心として溜池町がつくられます。

そして、いろいろな計画があったようですが、結局明治37~42(1904~1909)年の工事によって、溜池は細流となるだけでなく、暗渠【あんきょ=地下に埋設された,あるいは地表にあっても蓋(ふた)をした導水路】となり、人々の前から姿を隠してしまいました。


 ということで、ここでひとまず、『四谷から溜池山王までお散歩したよ』を完結いたします。ご拝読ありがとうございます。

本当に歩いてもそれほどかからないこの一帯に、こんな濃密な歴史があるのです。江戸・東京という街の懐の深さを改めて思い知らされました。

 江戸・東京の部屋はさらに続くのでした。↓

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