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大阪にある大林組旧本店ビル【現ルポンドシエル ビル】だよ(その3)  ファイルF65】2014.10.21 

【ファイルF65】2014.10.21 大阪にある大林組旧本店ビル【現ルポンドシエル ビル】だよ(その3)

大林芳五郎さんが創業した大林組。

 前回の大林組旧本店ビル【現ルポンドシエル ビル】の中の大林組歴史館についての記事で、大林組創業者、大林芳五郎(由五郎)さんが。明治25(1892)年1月25日、齢(よわい)にして弱冠(じゃっかん)27歳で『土木建築請負業』として『大林店』の名を掲げ旗揚げしたという記事を書きました。


『大林組旧本店ビル【現ルポンドシエル ビル】だよ(その1)から読まれる方はこちら。 ↓

http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/55168456.html

それで、前回からの続きです。

大林組創業

阿部製紙工場に続いて、明治26(1893)年3月に朝日紡績の今宮(いまみや)工場を受注、さらに翌年にも阿部製紙と同族経営の金巾製織(かなきんせいしょく)四貫島(しかんじま)工場と大工事を請け負っています。


このとき芳五郎(由五郎)さんを助けた部下に、麴屋(こうじや)時代の同僚福本源太郎さんや小原伊三郎さん、下里熊太郎さんらがいました。


“事業は人なり”と言われますが、芳五郎(由五郎)さんが率いる大林組もその例にもれなかったのですね。

特に、大林店(大林組)創業当初から力を合わせた下里熊太郎さん、菱谷宗太郎さん、小原伊三郎さん、福本源太郎さんは『四天王』と呼ばれました。


また阿部製紙所の幹部松本行政さんは、26年にその甥の伊藤哲郎さんを由五郎(由五郎)さんに託して入店させます。

先ほどの四天王と合わせ、伊藤哲郎さんは、白杉嘉明三(初名亀造)さんとともに、やがて大林店(大林組)の柱石(ちゅうせき)となりました。


これら受注は、その技術において優れていたということは勿論のこと、芳五郎さん個人の人柄が信頼を得たことも大きいとされているそうです。

例えば、創業期に資金的に面倒をみてくれた亡父徳七さんの友人、片山和助さん、材木の供給や資金面で援助を惜しまなかった堀江の材木商佐々木伊兵衛さんなどがそうでした。

芳五郎(由五郎)さんは創業に際し、棟梁、親方の経験もなく、大資本や権力の背景もありませんでした。

ただ、なにがしかの経験による請負業の管理能力と先見性のみが頼みだったのです。

しかし事業には資金が必要です。

これを助けたのが片山さんで、創業に際し5,000円の資金を提供し、母美喜さんの蓄えと自己資金1,000円を合わせたものが、芳五郎(由五郎)さんの旗上げの資金となったのです。


芳五郎(由五郎)さんが当時常に標榜していたモットーは『施工入念』、『責任遂行』、『誠実勤勉』、『期限厳守』、『安価提供』。

当時の建築業界においては、これらは必ずしも守られていない風潮があり、そこに芳五郎(由五郎)さんは新風を吹き起こしたのですね。


また当時の記録には、芳五郎(由五郎)さんは『豪胆の人』、『熱誠の人』であったことも伝えられています。


明治30年に大阪舎密工業(おおさかせいみこうぎょう)、大阪製薬、毛斯綸紡織(もすりんぼうしょく)の各工場や九州倉庫会社の倉庫、阿部製紙所火災復旧工事、31年に大阪府第三尋常(じんじょう)中学校、同第四尋常中学校、日本繊糸寄宿舎(にっぽんせんしきしゅくしゃ)、京都の大日本武徳会演武場(だいにっぽんぶとくかいえんぶじょう)を請け負い、

そして同年6月には、大林組の歴史にとっても大きな意味をもつ大阪市築港 築港(ちっこう)の大工事を受託するに至りました。


大阪市築港の大桟橋(おおさんばし) 明治37(1904)年竣工/大阪府。






大阪市築港工事と並行して、31年住友銀行広島支店、32年日本銀行大阪支店本館基礎、日本繊糸麻工場(注1)、大阪市中大江尋常小学校、滋賀県尋常師範(じんじょうしはん)学校、京都蚕業(さんぎょう)講習所、住友本店倉庫、大阪府第二師範(しはん)学校、33年大阪工業学校冶金窯業(やきんようぎょう)工場、北酉島樋管(にしとりしまひかん)新設、大阪府第一師範学校(現・大阪教育大学 教育学部)、大阪府第七尋常中学校、東京倉庫大阪支店倉庫などの諸工事を請け負いました。

【※注1 日本繊糸麻工場の読み不明。繊糸の読みは『せんし』。日本製麻(にほんせいま)株式会社という会社が現存しているので、『にほんせんしまこうじょう』と読むと思われる】

これらの工事のうち、第一師範学校工事が図らずも重大な危機を招くことになります。それは工事の監督、用材の検査が常識を超える厳格なもので、不合格とされた木材は山をなしたといいます。

そのため、この工事によって莫大な損害をこうむったのですが、それは折悪しく大阪に始まった金融恐慌の最中でした。

大阪市築港工事と同時に多数の工事を施工中であった芳五郎(由五郎)さんも、この恐慌によって金融難に陥り、万策つきて築港工事返上を申し出ます。

これを聞いた築港事務所の西村捨三所長は大林なくしては工事不可能と考え、岡 胤信(おか つぐのぶ)工務部長、内山鷹二(うちやまたかじ)庶務部長その他幹部らとはかって救済策を講じ、その結果、金融の道が開けて、危機を突破することができました。


芳五郎(由五郎)さんが工事の返上を口にしたのは、生涯でこのとき以外にはありません。それほどの危機だったのです。

それを救ったのは西村所長以下の好意だったのですが、そこには仕事を超えた心の結びつきがありました。この相互信頼は後に内山さん、岡さんを大林の人として迎えるもととなったのでした。

さらに芳五郎(由五郎)さんは、明治37(1904)年2月に店名を正式に『大林組』と改名、同年6月には東京にも事務所を開きます。


同年には旅順口閉塞船(りょじゅんこうへいそくせん:注2)石材積込作業に従事したほか朝鮮軍用鉄道、捕虜収容所、駐屯軍兵営(ちゅうとんぐんへいえい)、陸軍予備病院等日露戦争を中心とした請工事を逐次(ちくじ)完成します。

つまり、大林組は未開だった朝鮮半島において、近代的インフラ整備に一役かっているのです。

【※注2 閉塞船(へいそくせん)とは、ある国が海軍力を用いて、他国、または自国の港湾や海域などに船舶が出入港や通過することを阻止する目的などで自沈させられた船舶のこと。海上封鎖の手法の一つで、閉塞作戦と呼ぶ。日露戦争中、失敗に終わった第一回旅順口閉塞作戦に続いて1904年3月27日に第二回旅順口閉塞作戦が4隻の閉塞船によって実行されたが、これも失敗に終わった】

明治37(1904)年頃の仁川(じんせん)支店(現在の韓国)【左端が芳五郎さんの右腕として活躍した当時29歳の白杉亀造さん】。






次いで翌年には本店を発祥の地、大阪市東区北浜2丁目27番地の乙(現在の中央区北浜2丁目5番4号)に移転。この際にまだ業界では珍しかった“設計部門”を社内に新設、西区境川にも製材工場を開設して、業容(ぎょうよう)を整えました。


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明治44年からの露戦争により中断されていた東京中央停車場(開業時、東京駅に改名)建設工事の3回に分けられた入札に際しては、大阪方では大林組だけ指命を受けて東京方大倉組、清水組、安藤組等と競争し、最後に清水組を破ってすべて落札。

大阪方新参の大林組がこの天下の大工事を取得したことは、当時、東都の建設業界に大きな衝撃を与えました。

明治44(1911)年2月のことでした。


これが全国的に大林組の盛名(せいめい)を大いに知らしめることになったのです。

東京駅丸の内駅舎は、明治建築界の重鎮、辰野金吾(たつのきんご)博士の設計になる名建築ですが、同時に大林組の施工も素晴らしく、辰野博士は大阪の大工・職人さんの腕を大いに絶賛しました。

東京中央停車場(開業時、東京駅に改名)建設工事については、以前東京駅についての記事を書いたので、こちらを参照してください。↓

http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53804685.html

大林歴史館に展示されていたパネルより、竣工当時の東京駅舎の写真。






大林歴史館には、創建当初の東京駅舎の煉瓦(れんが)が展示されています。






東京駅は、あの関東大震災でもまったく被害を受けず、昭和20年5月の東京大空襲の際に直撃されながらも、上部だけの被害にとどまり、補修・改築を経て今もその威容を誇っているということからも、その当時において、すでに高度な建築水準に達していたことが分かります。

他方、大林組は、地元大阪で第五回内国勧業博覧会(ないこくかんぎょうはくらんかい)の仕事を手掛けています。

第五回内国勧業博覧会 新世界「ルナパーク」明治45年5月竣工/大阪府






第五回内国勧業博覧会については、以前当ブログで記事を書いたので、ご参照ください。↓

http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53747059.html

あわせて明治45年7月には明治天皇が崩御(ほうぎょ)され、その伏見桃山御陵(ふしみももやまごりょう)造営の特命をうけました。

伏見桃山御陵【御歛葬(ごかんそう)前】 <京都府>大正元年9月竣工






宮内省出入の請負人砂崎庄次郎氏に師事して以来、大林組は皇室の施設とは縁が深いようです。


また並行してすすめられていた生駒隧道(いこまずいどう:トンネル)工事の崩壊(ほうらく)事故や、それにともない発生した北浜銀行の取り付け事件に、師とも芳五郎があおいだ同銀行頭取(とうどり)岩下清周(いわした きよちか)氏を助けて善後策に奔走(ほんそう)する中で大正4年頃から病に臥(ふ)し、一進一退のうちに大正5年(1916)1月24日夜9時, 西宮市夙川(しゅくがわ)の別荘でついに帰らぬ人となりました。享年52でした。そして、兵庫県御影町上ノ山(みかげちょうえうのやま)共同墓地に葬られました。

 

北浜銀行頭取岩下清周(いわした きよちか)氏






生駒隧道内部 <奈良県>大正3年4月竣工






社業ばかりでなく、同時期に箕面有馬電気軌道(みのおありまでんききどう)や広島瓦斯(ガス)、広島電気軌道、阪堺電気軌道((はんかいでんききどう)、京津電気軌道(けいしんでんききどう)など新会社の設立に多数援助・参加していることが、いかに芳五郎さんが時代の風雲児であったかということを物語ります。

ということで、大林組創業者の大林芳五郎さんの波乱の生涯を駆け足でご紹介しました。

 次回に続きます。
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大阪にある大林組旧本店ビル【現ルポンドシエル ビル】だよ(その2) 【ファイルF64】2014.09.15 

【ファイルF64】2014.09.15 大阪にある大林組旧本店ビル【現ルポンドシエル ビル】だよ(その2)

中にある大林組歴史館を訪ねたよ。

 前回は大阪にある大林組旧本店ビル【現ルポンドシエル ビル】の風格がある外観について書いていたのですが、↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/55168456.html

 大林組旧本店ビル【現ルポンドシエル ビル】中にはテナントの高級フレンチレストラン『ルポンドシエル(LE PONT DE CIEL Resturant Francais)』以外にも、

大林組歴史館という無料の博物館があります。

http://www.obayashi.co.jp/company/rekishi/

それで、さっそく中に入って行ってみました。






エレベーターで3階に上ります。






エレベーターの上のレリーフもデコラティブでお洒落です。






 人面犬(じんめんけん)とかいたけれど、人面鳥(バードマン?)の人が向かい合わせに羽ばたいています。

 ぱたぱた。

3階に到着。






 ご自由にお入りくださいと書いてあるので、お言葉に甘えて、ご自由にお入りすることにします。

大林歴史館の玄関正面に鎮座ましましているのが、鬼瓦です。






この鬼瓦は、創業当時【明治25(1892)1月~明治38(1905)年】、大阪市西区靭(うつぼ)南通り四丁目六十二番屋敷(現在の西区西本町(にしほんまち)2丁目5番24号)に在った「大林店」店舗の土蔵屋根を飾っていたものだそうです。


大林組歴史館に展示してあった大林店店舗の模型。(矢印の部分にあった鬼瓦だと思われます)。店舗は住居を兼ねていました。






同展示の大林店の位置図。






現在の地図におとしてみると、靭公園(うつぼこうえん)南西側のⒶと表示したあたりのようです。(グーグルマップより)






歴史館の入り口では、大林組の創業社主、大林芳五郎(おおばやしよしごろう)さんの大きなパネルがお出迎えです。

社員の方々にとっては、本当に神様みたいな存在なのでしょうね。世界に冠たるスーパーゼネコン大林組の礎(いしづえ)を築いた立志伝中の人ですから。






以下、大林組歴史館のHPの文章を参照して、補足解説しながら、大林芳五郎さんの足跡を辿っていきます。

http://www.obayashi.co.jp/company/rekishi/yoshigoro.html

 ※    ※    ※

創業者大林芳五郎(おおばやしよしごろう)さんは、元治元(1864)年生まれの、大阪人です。

その出自は、代々、帯刀(たいとう:武門の証である武具等を腰に帯びること)を許された淀川過書船(よどがわかしょぶね)の元締(もとじめ)・林家の家系で、その父親徳七さんの代に分家し、「林」に実家の屋号「大和家」の「大」を冠して「大林」という姓とし大林家の始祖となりました。

 淀川過書船(よどがわかしょぶね)というのは、大坂と京・伏見の間の貨客を運んだ特権川船のことをいいます。

 語源は過書(通行手形)を所持する船の意と思われますが、豊臣秀吉から1598年(慶長3)河村与三右衛門、木村惣右衛門が朱印状をうけ、徳川家康も1603年これを再認しました。
 
 享保初年において、乗客を主にした三十石船671艘、貨物運送した二十石船507艘が生業を営んでいました。ところが、元禄11(1698) 年伏見船の新設にともなって大きな打撃を被り、のち在方船の進出により両者とも衰退したそうです。

大林家は、江戸期以来、海産物の市場として賑わった靱永代濱(うつぼえいたいはま)において、『大徳』と称して塩・干鰯(ほしか)の問屋を営んでいて、幕末動乱の商人受難期にもかかわらず、間口15間(27m)の店舗をはるに至ったといいますから、父・徳七さんの持つ商才の高さをうかがい知ることができます。

ですから、大林芳五郎さんは、当時としては恵まれた環境に生まれ育ったと言えるでしょう。

由五郎さん、つまりのちの芳五郎さんは、幼児より眼光炯々(がんこうけいけい)、眉太く、丸顔で豊頬(ほうきょう)、際立った腕白ぶりであったといわれているそうです。

11歳の由五郎少年は大店の呉服商『麹屋(こうじや)又兵衛』さんの店に丁稚見習(でっちみならい)となりました。

明治6(1873)年に父・徳七さんが没し、同9年にお兄さんが僧籍に入ったため、由五郎【よしごろう:大林芳五郎さんの初名(しょ めい)】さんが家督を継ぐことになります。

芳五郎(由五郎)さんは家督は継いだものの、麹屋での奉公を続け、父譲りの周到綿密さと母譲りの果断機敏によって主人に認められ、13年16歳で三番番頭に抜擢されて徳助の名を与えられるほどに出世します。

主人夫妻に男子がなく、娘婿にと望まれたほどだったのですが、明治13年に生家『大徳』は人手に渡っていて、家名再興を期す芳五郎(由五郎)さんは明治15年、18歳になると、この申し出を断って麹屋を去ります。

このときの同僚福松こと福本源太郎さんは、後に大林組四天王の一人となります。

 

ところが、麹屋を去り小売り呉服商を自営するものの、折悪しく西南戦争直後の極端な緊縮政策下に、大阪の町は火が消えたような不景気で、事業は不首尾におわりました。

呉服小売りに失敗した芳五郎(由五郎)さんは、一転して請負師(うけおいし)を志します。「小売商売は自分の性格に適さない。かねてから有望視していた請負業こそ自分の性格からしても魂を打ち込んでやれる仕事だ」と思い定めたと、後に芳五郎さんは述懐しています。


それで、土木建築請負業の修行をしようと、上京し、遷都(せんと)にともなう皇居造営を請負っていた砂崎庄次郎(すなさきしょうじろう)さんの膝下【しっか:自分を庇護(ひご)してくれる人のもと】に入ります。

砂崎庄次郎さんは慈父(じふ)のごとき大人(たいじん:徳の高い立派な人)とされ、芳五郎さんは、この人の下で、造営から、工事や技術のことばかりでなく指導者としての在り方についても、学ぶことが多かったと記しています。


宮内省出入の請負人であった砂崎さんは当時のいわゆる請負人とは選を異にした紳士で多芸多趣味。詩歌、俳諧に長じ、茶も師匠格、画も齢玉と号して一家をなす程の教養人でした。

大林芳五郎さんの恩師、砂崎庄次郎さん。






大林芳五郎さんの、ダンディーな身だしなみも、師の砂崎庄次郎氏に大きな影響を受けたことであろうことは、想像に難くありません。

ダンディーな大林芳五郎さん。






当時の芳五郎(由五郎)さんは、もちろん何らの建設技術をもたなかったので、出面【で づら:建築などの現場に出た大工・左官など職種別労働者の一日当たりの人数。また,その労働者に支払われる日当】、帳付け、そろばんなどの人事管理、庶務、会計などを担当したのですが、これは後に経営者としての管理に役立ち、工事現場の荒くれ男たちとの付合い法も会得しました。持ち前の融和性と侠気、堂々とした態度は彼らを心服させたのです。

芳五郎(由五郎)さんは、砂崎さんのもとで、本格化した皇居造営工事に従事しました。すでに土木、建築の基礎知識をもった芳五郎(由五郎)さんは、砂崎氏の不在中、女官部屋の敷地盛土と地ならし工事の見積りを命じられ、積算して見積書を提出するまでに成長していたのです。

皇居は明治22(1889)年1月に完成し、歴史的な憲法発布式典がここで行われました。規模においても、材料、施工の面でも、木造建築では当時空前のものといわれ、この模範的大工事の体験が芳五郎(由五郎)さんに与えた収穫は大きいものがありました。現在の大林組に至るまで継承されている材料の精選と入念な施工は、ここに発しているといわれています。


このころ大阪鉄道会社の初期工事を請け負っていた水沢新太郎さんは、芳五郎(由五郎)さんの力量を耳にし、友人の砂崎さんに芳五郎(由五郎)さんの借用方を頼み、砂崎さんももこれを承諾したため、芳五郎(由五郎)さんは明治20年、4年ぶりに郷里大阪に帰ってきました。このときから芳五郎(由五郎)さんの大阪を地盤とした活動が始まったのです。


この鉄道工事は大阪と奈良を結ぶ難工事でだったのですが、工事もさることながら、多くの部屋の寄合い世帯である土工たちの紛争の調停、統制には大いに悩まされることになります。ところが、芳五郎(由五郎)さんは偶然この地で再会した麹屋時代の旧友、野口栄次郎(「木屋市」として知られた顔役)さんの有形・無形の援助を受けて、この仕事をやり遂げることができました。

もちろん、これは芳五郎(由五郎)さん自身の人物、力量によるところが大きかったのはいうまでもないのですが、土木請負が労働力の供給を主体としていたこの当時、こういった『顔役』の発言力は強く、彼らとつながりをもつことは力強い後楯をもつことでもあったのです。

土木作業こそ人が協力して初めて成り立つわけですから、こういった一筋縄ではいかない現場人たちの人心掌握術というのは、事業においてとても大きな役割を持ちます。


明治21年夏には、水沢さんの命により、呉軍港の築造に従事し、約3カ月の後、部下の労務者と技師長との衝突事件を機に帰京し、これを契機に砂崎氏の許も去り、大阪に帰ることになりました。

やはり何の世界でも人間関係というのは難しいものです。

芳五郎(由五郎)さんは、このようにして請負業者として独立するに至るのですが、砂崎家との交情は終生変わることはありませんでした。

砂崎さんの下での修行を終えて戻った大阪は、様々の事業の勃興期(ぼっこうき)にあたり、上京した頃とはすっかり様変わりして、建物や工場の新増設が相次いでいました。


明治25(1892)年1月18日、芳五郎(由五郎)さんは、近江出身の豪商阿部一族の総煉瓦(そうれんが)造り、阿部製紙所工場新設工事一式の落札に成功しました。請負金12万1,000円という大型工事でした。

阿部製紙所工場(明治25年8月竣工/大阪府)






同業者間でもほとんど名を知られていなかっにもかかわらず、落札に至ったのは、東京で当時最先端の工事を学んでいたため、一頭地(いっとうち)を抜(ぬ)いていたからだといわれています。

これを機に、芳五郎(由五郎)さんは『土木建築請負業』として『大林店』の名を掲げ旗揚げします。明治25(1892)年1月25日、齢(よわい)にして弱冠(じゃっかん)27歳でした。


大阪にある大林組旧本店ビル【現ルポンドシエル ビル】だよ(その1) 【ファイルF64】2014.08.26 

【ファイルF64】2014.08.26 大阪にある大林組旧本店ビル【現ルポンドシエル ビル】だよ(その1)

風格のある立派なビルだねえ。

 前回まで『大阪市民の生命財産より自分の人気取りが優先する元大阪府知事・現大阪市長』について書いていたのですが、↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/55098228.html

 大阪の優秀な西洋建築の遺産はまだまだあります。別に府立図書館を廃館して観光施設にしなくても、知っている人は知っているのです。

今回は、大林組旧本店ビルです。このビルも高級フレンチレストランが入って観光資源としても活用されています。






 わざわざ公(おおやけ)が、余計なことをしなくても良いのです。それこそ民業圧迫です。

竣工当時の大林組旧本店ビル【大林組HPより】↓

http://www.obayashi.co.jp/history/columns/back005





↑上記の記事から、一部引用させていただきますと。↓

※    ※    ※

 2009.11.05
  都市の過去と未来とを繋ぐ建築

      建築史家 橋爪紳也

大林組旧本店ビルは、時代の節目にあって、建築界における尖端を示した建物であった。

 ひとつには構造での取り組みがあった。1923(大正12)年9月、関東大震災によって帝都が壊滅的な打撃を被る。専門家たちは耐震耐火性能に優れた鉄筋コンクリート構造の重要性をあらためて確認する。

 大阪にあっても、百貨店や賃貸オフィスビル、ターミナルビルなど、数階から10階建て程度のビルディングを建設する動きがさかんになった。建設会社がそのノウハウを得ることを要請されたのは当然のことだろう。旧本店ビルの工事にあたって、大林組は社員をアメリカに派遣し最新の建築工法と建築機械の導入に力を入れた。

 いっぽう意匠面にあって、同時代の流行を採択したという点にも注目したい。土佐堀川の畔にあるモダンなビルディングは、大阪で創業した同社にとっ て、四代目の社屋である。腰壁には竜山石を用い茶色のタイルを張った外観は、1926(大正15)年6月の竣工時には、界隈のランドマークとなったことだろう。
 
(中略)

 旧役員食堂はカタロニア風、壁には中近東の諸国を思わせる模様や舵輪のレリーフがあった。要所に据えられた彫刻は、大林組設計部に所属していた彫刻家大塚尚武の作品である。

 外観には当時、アメリカで流行していたスパニッシュ・スタイルの影響をみてとることができる。

 意匠設計を担ったのは、設計部員であった平松英彦である。会社の象徴となるビルはどのような姿がふさわしいのか。小田島兵吉がまとめた平面計画に基づいて、社内で設計競技が行われた。審査の結果、毛利泰三、 木村得三郎たちの案を凌いで、平松の作品が一等に選定された。

 一期生として京都帝国大学工学部建築学科に学んだ平松は、在学中から大林組で実習した経験もあって、卒業後、入社する。師である武田五一ゆずりなのだろう、スパニッシュ・ミッション風のデザインを得手とした。

 もっともスパニッシュ・スタイルの案が選定された背景には、1921(大正10)年に米国に外遊した当時の副社長大林賢四郎の好みであったとも伝えられている。

 ※    ※    ※(以上引用終わり)

竣工当時の仕様はこうなっています。【『大大阪モダン建築』 橋爪紳也監修 青幻舎より】


 所在地:大阪市中央区北浜東6-9
 建築年:大正15(1926)年
 構造・規模:鉄骨鉄筋コンクリート造6階建 地下一階
 設計:大林組(小田島平吉、外観デザイン:平松英彦)
 施工:大林組
  

大大阪のモダン建築については、橋爪紳也先生にお世話になりっぱなしです。良書ですので、皆さんも興味があればぜひお読みくださいね。

このビルは、大正15(1926)年の竣工から、昭和48(1973)年、土佐堀通(とさぼりどおり)を挟んだ南側に大阪初の超高層として今の大阪本店ビルを建てるまで、半世紀の間、本社として使われてきました。

現在は、ルポンドシエル(LE PONT DE CIEL Resturant Francais)というリヨン近郊シャスレーにある2つ星レストラン「ギィ・ラソゼ」と提携した高級フランス料理店が、向いの大阪本店の超高層ビル30階から移転してきて、ルポンドシエル ビルとして蘇っています。

 フレンチ・レストラン、『ルポンドシエル(LE PONT DE CIEL Resturant Francais)』のHP↓
http://www.pont-de-ciel.co.jp/

現在の大林組旧本店ビル【現ルポンドシエル ビル】の全景(土佐堀通=南側から撮影)






 大林組のサイト、竣工作品のページに、改修されて蘇った、このビルが載っています。
http://www.obayashi.co.jp/works/1312

 ※    ※    ※

 ルポンドシエル ビル

 スクラッチタイルが印象的な、スパニッシュスタイルの建物です。大林組旧本店ビルとして一時代を担った建物を未来に残すため、耐震補強から設備まで全面的に改修し、ルポンドシエルビルとして生まれ変わりました。歴史的なファザードを残すため、既存の窓の内側に耐震壁を設けるなど、意匠性と機能性に配慮しています

 発注:大林不動産
 設計・施工:大林組
 竣工:2007年

 ※    ※    ※(以上引用終わり)

入り口周辺は、三連のアーチ風の意匠で正面中央の各階の窓を囲いこみ、随所に紋章風の意匠を配置しています。






左右一対の鷲(わし)さんがビルを守護しています。







 鷲さんといえば、辰野金吾博士が設計し、大林組が手掛けた東京駅舎の天井ドームにも鷲さんが鎮座ましましていましたね。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53889282.html

バルコニー風の窓がとってもお洒落。






紋章のようなレリーフが随所に配されています。






こちらのレリーフには、鷲さんと一対のイルカさん。






 ちょっと見には、三本足の八咫烏(やたがらす)のようにもみえますが、下の一本は、良く見たら。どうやら尾羽のようですから、これも鷲(わし)さんなのでしょうね。

 イルカさんといえば、旧横浜正金銀行本店(現神奈川県立歴史博物館)にも、伝説の神獣のようなイルカさんをあしらった彫刻があったねえ。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51820082.html

天神橋を渡って、中ノ島(北側)から土佐堀川(とさぼりがわ)越しに撮影した大林組旧本店ビル【ルポンドシエル ビル】。










 ↑ なお、上の写真の右端に移っている白いビルも、福原ビル(旧称:国光生命保険相互会社大阪支店)という昭和の名建築なのだそうです。背後の高層ビルが大林組大阪本店。

上方部の両端に掲げられているテラコッタの円形レリーフのアップです。






ラテン語で“ANNO DOMINI MCMXXVI=紀元1926年と竣工の年次を刻んでいます。

“ANNO DOMINI”が『キリスト紀元』で、良く『A.D.』と略されますね。 “MCMXXVI”が『1926』のローマ数字です。


レストランのルポンドシエル(LE PONT DE CIEL)の表記がされています。






写真右の茶色く映っている大林組旧本店ビル【ルポンドシエル ビル】に土佐堀通(とさぼりどおり)を挟んで建っている高層ビルが、かつての登記上の本店および大阪本店(大阪大林ビルディング、大阪市中央区)です。






法人登記上の本店は、今はここから東京都港区港南2丁目15番2号に移ってしまいました。

こんなことするから、大阪の地盤沈下、東京の一極集中だって言われるんですね。

国土交通省の許認可があるから、本社機能は東京に移した方が便利だとして、

 【国土交通省HP】↓
http://www.mlit.go.jp/index.html

法人登記ぐらいは大阪に残せばいいと思うのですが、法人税とかややこしそうですから、そうはいかないのでしょうね。本当に地方の復権とか言うのだったら、首都移転とか、大阪都構想とか、失敗することが明白な愚策よりも、こちらの方を何とかするのが手っ取り早いと思うのですがね。

ということで、大林組大阪本店です。






上述の通り、大阪初の超高層ビルでした。

 所在:大阪府大阪市中央区
 発注:大林組
 設計・施工:大林組
 竣工:1973年

このビルは、昭和の名建築として、BCS賞第15回受賞作品(1974年)に選定されました。

 
 ということで、次回に続きます。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/55198210.html

大阪市民の生命財産より自分の人気取りが優先する元大阪府知事・現大阪市長。(下) 【ファイルF63】2014.06.12 

【ファイルF63】2014.06.12 大阪市民の生命財産より自分の人気取りが優先する元大阪府知事・現大阪市長。(下)

本気で咲洲(さきしま)に府庁舎を全面移転するつもりだったんだ?


 (上)からの続きです。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/55098228.html

さらに咲洲(さきしま)庁舎の津波対策も検討されています。↓


 ※   ※   ※(引用再開)

想定を超える津波の対策

○ 津波高を現在の想定の2倍※と仮定しても、O.P.+6.9mであり、建物外周部付近の地盤高(O.P.+7.8m)はこれより高い位置にある。
 ・ 東南海・南海地震等でマグニチュード9.0規模の地震が発生すると、津波高は約2倍になるという専門家の意見もある。

○ なお、安全をみて、防災情報センター等の非常用発電機は上階(3階を想定)に設置する。

 → 発電機・一部電気室の上階への設置(追加対策約3億円(発電機6.4億円は予算化済み))
(発電機のオイルタンクは容量の増設を検討中)

○ さらに、庁舎1階及び地階への浸水を防止するため、地下駐車場の出入口など、地上面に近い位置にある開口部には止水対策を講じる。

 → 地盤・外構等の一部マウンドアップ
 → 防水扉への改修
 → 開口部への止水板取付け

対策のイメージ図






 ※   ※   ※(以上引用終わり)

咲洲(さきしま)庁舎に入居している府の組織はこうなっています。






いまだに未練がましく、31階に『府市統合本部』があるのが笑わせます。

大阪府の本庁舎とも、大阪市の庁舎とも遠く離れた“最果ての地”で何が統合本部ですか?

橋下氏は、仕事の合理性より、自分のメンツが大事な人なのですね。

何が『むだな出費を抑え、道州制をめざした投資会社大阪府庁』ですか?

 それで、咲洲庁舎の長周期地震動対策工事は、大林組が落札しました。
 
※   ※   ※

大林組が落札、咲洲庁舎の長周期地震動対策工事

 2012/5/2 23:00 日経新聞
http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK02025_S2A500C1000000/

大阪府は咲洲庁舎の長周期地震動対策工事を大林組が落札したと公表した。落札金額は8億6560万円(税抜き)。予定価格は10億1000万円だった。総合評価一般競争入札には、大林組と大成建設の2社が参加していた。

 (中略)

長周期地震動対策工事では、長辺方向に152台(76カ所)、短辺方向に140台(70カ所)の制振ダンパーを設置するほか、低層部の柱の補強、防火戸や天井、階段室の耐震対策工事などを実施する。

 (後略:日経アーキテクチュア 佐々木大輔)

※   ※   ※(以上引用終わり)

大阪市が持て余したビルを85億円で購入して、さらに9億の出費で、長周期地震動対策工事ですか?何が『むだな出費を抑え、道州制をめざした投資会社大阪府庁』ですか?

さらに、問題は津波だけではありません。

現在の大阪市庁舎、大阪府庁舎、咲洲庁舎の位置関係を見てみましょう。






全くの陸の孤島です。咲洲庁舎の部分を拡大しますとこうなります。





 

それで、府咲洲庁舎のアクセスについて(大阪府HPより)↓

http://www.pref.osaka.lg.jp/koho/location/location16.html

大阪府では、周辺の交通渋滞の緩和や自動車排気ガスによる環境問題を踏まえ、公共交通機関のご利用をお願いしています。

 支障のない範囲で公共交通機関のご利用にご協力ください。

 電車でお越しの場合
地下鉄中央線「コスモスクエア駅」下車、南東へ約600メートル
ニュートラム南港ポートタウン線「トレードセンター前駅」下車、ATCビル直結(約100メートル) 

 堺方面からお越しの方 
南海線「堺駅」もしくは「堺東駅」発のバスが運行しています。
南海バス南港線 「ATC」停留所下車すぐ(約100メートル) 
※帰り(復路)は「コスモタワー」停留所(約100メートル)もご利用いただけます。

 車でお越しの場合
「大阪港咲洲トンネル咲洲側出口」より約3分
「阪神高速湾岸線南港北出口」より約5分
「阪神高速湾岸線南港南出口」より約10分

↑こんな具合で、阪神高速湾岸線は咲洲には出入り口がないので、アクセスは大阪港咲洲トンネルか南港大橋になります。

それで、これについての対策は。

『咲洲地区へのアクセス路の耐震対策(大阪市作成)』です。

http://www.city.osaka.lg.jp/port/cmsfiles/contents/0000042/42034/taishintaisaku.pdf




 

私にはとても正気とは思えません。


大阪府の隣は、1995年(平成7年)1月17日(火)阪神淡路大震災があった兵庫県でしたよね?確か・・・。


この先例は、既に神戸のポートアイランドであったのですよ!


震災直後、神戸大橋も、ポートピア大橋も途絶し、全国でもトップクラスの高度医療センターである『神戸市立医療センター中央市民病院』は十分に機能しななかったのです。↓

『大震災を体験した市民病院からの報告:平成7年7月神戸市立中央市民病院』
http://chuo.kcho.jp/sites/default/files/kcho/department/secretariat/earthquake/siryou/earthquake.pdf

当時は、海底トンネルの神戸港港島トンネルはまだ完成していませんでした。(1992年に着工、1999年7月30日に開通)

でも、あの時は直下型で津波はありませんでしたが、海底トンネルって、津波が来たら水没しませんか?





 

ちなみに『神戸市立医療センター中央市民病院』のすぐ南西隣が、現在、小保方さんがSTAPの再現実験に参加している理化学研究所発生・再生科学総合研究センター』です。

http://www.cdb.riken.jp/jp/

小保方さんが今30歳ですから、19年前、彼女がまだ小学生の時に、勤務先の隣の『神戸市立医療センター中央市民病院』が修羅場だったということを、彼女は想像もつかないでしょう。


少し南東に離れてあるのが、例の蓮舫氏が「世界一になる理由は何があるんでしょうか?2位じゃダメなんでしょうか?」と事業仕分けで異常に愚かな質問をして、野依博士から批判を受けた後、理化学研究所(理研)と富士通が共同で開発し2011年6月にスーパーコンピューターの世界ランキングTOP500において世界一を獲得して大恥をかいた、

スーパーコンピューター『京(けい)』がある『理化学研究所計算科学研究機構』です。

http://www.aics.riken.jp/jp/map/

私はこの事実に、為政者の愚昧さを窘(たしな)める天の配剤というか、因縁めいたものを感じます。


この死者 : 6,434名、行方不明者 : 3名、負傷者 : 43,792名という大参事のことを大阪府民、市民はすっかり忘れて橋下氏を大いに支持したのです。マスメディアも同罪です。

なまじ近いものだから、震災について知ったかぶりをしていた大阪府市民にとって、阪神淡路大震災が所詮全くの他人ごとだったということを、この時私は痛感しました。

こんなはっきりした先例があって、大阪府咲洲庁舎移転なんて○○なことを言った橋下氏も橋下氏なら、それを歓迎した大阪府市民も、メディアも、言い訳の余地がない○○です。


現在、大阪府知事の執務する知事室は本来あるべき場所である、上町台地の大阪府本庁舎3階にあります。





 

大阪府の上町台地付近にある主要庁舎の配置図です。

【府庁への行き方(大阪府HP)を参考に作成】
http://www.pref.osaka.lg.jp/koho/location/




 

そして、同じく上町台地の大阪府新別館北館の低層階に防災拠点が配されています。





 

高台にある地盤が堅牢な上町台地ですから、電気が止まっても階段で行き来できる低層階に防災拠点があるのは合理的です。


というか、最初からこれで良かったのに、本当に橋下氏は膨大な費用と、職員の膨大な事務量を無駄遣いしたものです。

これを無能と呼ばずして、なんと呼ぶのですか?

さらに言うなら、災害の時に現場で活躍する基礎自治体の大阪市庁舎こそが、中之島から上町台地に移転すべきなのです。もちろん府市統合の都構想などと言う愚かな案は却下です。

女優の石川さとみさんが、朝の連ドラで思い出としてあげていた、谷四(たによん=谷町四丁目)から上町台地の坂を駆け上がった場所にあって、ろくな報道をしないNHKこそ咲洲に移っていただくのが適当かと思います。


大阪府新別館南館





 

大阪府庁別館





 

なお、咲洲の液状化想定図も参考に添付しておきます。





 

本当に、『何をか言わんや』です。(了)


 大阪の旅はさらに続きます。次回は大阪の素晴らしい近代建築群の記事に戻りますね。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/55168456.html

大阪市民の生命財産より自分の人気取りが優先する元大阪府知事・現大阪市長。(上) 【ファイルF62】2014.07.12 

【ファイルF62】2014.07.12 大阪市民の生命財産より自分の人気取りが優先する元大阪府知事・現大阪市長。(上)

本気で咲洲(さきしま)に府庁舎を全面移転するつもりだったんだ?

 前回は、大阪平野は昔は河内湾(かわちわん)という海で、鯨さんが泳いでいたというお話をしました。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/55064054.html

 それで、このことに関して、絶対に書いておかなければならないことがあるので、書きます。

 当アトモス部屋では、一貫して、橋下元大阪府知事、現大阪市長の批判を繰り返してきました。

そもそも、私はこの人の胡散臭さに気が付いたのが、2008年(平成20年)1月。最初の府知事立候補の時からだったのです。

橋下大阪府知事立候補時の選挙公約を引用しましょう。

 ※   ※   ※

4つのトライ

1 「子どもが笑う、大人も笑う大阪に」
 安心して子どもを産み育てられ、公立小学校に緑があふれ、食育教育の充実で子どもが伸びやかに育ち、明るく豊かな学校生活が送れ、多様な府立高校が選べ、ボランティア団体・NPOに活気があり、専門的な公立病院がある大阪に。

2 「人が集い、交わるにぎわいの大阪に」
 メリハリの利いた補助制度と、商業地域・市街地に人が集まる仕組みづくり。

3 「中小企業が活き活きし、商いの栄える大阪に」
 府庁全体が中小企業振興のサポーターとして働き、大企業の要望を取り入れられる。大阪府立大学というシンクタンクがある大阪に。

4 「府民に見える府庁で、府民のために働く職員と、主役の府民が育てる大阪に
」

むだな出費を抑え、道州制をめざした投資会社大阪府庁。

住民への直接サービスは市町村にどんどん権限を委譲し、府庁は、各市町村にまたがる事業や各市町村の調整、また大阪府の方向性
を決定する司令塔の役割に徹する組織を再編。現在の大阪府の事業は、効果が見えにくいプロジェクトや単なるお金貸しの事業ばかり。

今後は、効果がはっきり見える事業にしか投資しない。

府議会からのチェック機能、情報公開の徹底。大阪の笑顔のために、国とたたかう、府職員の士気が満ちあふれる大阪に。

  ※   ※   ※(以上引用終わり)
 
 あと、17の重点事業なる政策が続くのですが、初めて戦う選挙公約としては、こんなものでしょうが、この4つめの

『むだな出費を抑え、道州制をめざした投資会社大阪府庁。』

というのが、既に公(おおやけ)というものを勘違いというか、意図的に曲解して、日本を破壊した小泉政権そのまんまだったんですね。

そもそも、効果がはっきりせず、目に見える利益には繋がらないけれど、社会にとって必要で、民間企業が手を付けない儲からない仕事を税金を使ってするのが公共機関です。それを『投資会社』と言ってしまうところに疑問を感じずに大絶賛していた人たちのことが、私には信じられません。

事実、橋下氏は小泉元首相を『千年に一度の宰相』などと信じられない持ち上げ方をしています。


もともと、この道州制や後の大阪都構想というのが、元通産官僚の太田房江大阪知事が、日本を外資が乗っ取りやすくするために解体する目的で言い出した売国提案のパクりだったのです。


橋下氏がいかにひどい政治家であるかという事象は枚挙にいとまがないのですが、この場では一例として、私が本ブログで書いた、泉北高速の件を上げるにとどめます。

http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/54654413.html

 それで、前回、上町台地は、6000年前に河内湾があって、今の大阪平野に鯨が泳いでいた時代から、陸地だったということを書きました。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/55064054.html

 だからこそ、上町台地には、縄文時代の遺跡があって、難波の宮も造られ、石山本願寺も、豊臣氏大坂城も、徳川氏大坂城も建てられたのです。

それを知っていた偉大な先人は、昔の知恵に習い、大阪府庁舎をこの上町台地に建てました。














【国土地理院ホームページ掲載のデジタル標高地形図画像データ(図名等)を使用しました】

大坂城(現大阪城)敷地から望む大阪府庁舎。






なお、上町台地が大阪平野の真ん中に南北に直線状に突き出しているのは、豊中市から上町台地を経て岸和田市にまで至る上町断層の力によるものです。

断層の最新活動時期は、約28,000 - 約9,000年前と思われ、平均活動間隔は8,000年程度と推定されている警戒要の断層です。

仮に、上町断層帯全体が震源域の地震が起こった場合、マグニチュード7.5程度の地震が発生すると推定され、堅固な地盤の上町台地より軟弱な地盤の周辺低地に大きな被害が出ると想定されるため、上町台地に防災拠点を置くことが一番合理的なのです。


ついでに、大阪府庁舎の大阪府旗と日章旗。






この端がほつれたボロボロの日章旗を見れば、橋下氏の『国旗掲揚と国歌斉唱の重視』というのは、所詮、口先だけの人気取りだったことが分かります。

橋下氏は基本的に日本国と日本人が嫌いですから。

日本国民の財産である公共の電波を使って韓国の金妍児選手を持ち上げまくり、日本の浅田真央選手を苛め抜き、韓流ブームをねつ造し、視聴者に押し付けるという偏向放送をして、大規模な抗議デモを受けた『お台場フジテレビ』のボロボロの日章旗同様です。

これを見て、チャンネル桜の水島社長はどう思われるでしょう?


橋下氏は府知事に就任してすぐ、この防災拠点として最適の立地の大阪府庁舎を咲洲(さきしま)に移転するという正気を疑う愚挙を提案しました。

当時、大阪市が建てたものの、企業誘致に失敗して、大阪市の部局を入れて穴埋めしていた大阪ワールドトレードセンタービルディング(WTCコスモタワー)を買い取って、そこに老朽化が激しく改築が予定されていた大阪府庁舎を移転するというものです。

 大阪ワールドトレードセンタービルディング(WTCコスモタワー)については、かなり以前に、大阪海遊館に行ったついでにご紹介しています。【ファイルPho16】2008.07.04 ↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/43371559.html





既にこの時点で、私はこの建物の批判をしていたのです。

それで、6000年前の地図に、この大阪ワールドトレードセンタービルディング(WTCコスモタワー)=現大阪府咲洲庁舎を落とし込んでみます。






はるかかなたの海の中です。これで東南海・南海地震が発生したら、津波でひとたまりもありません。大阪府の罹災者救助・復興機能はストップしてしまいます。


この時の経緯を書いた記事を引用します。

 ※   ※   ※

「都庁舎」シナリオ崩れる 85億円で購入...

失策の声も 橋下知事咲洲全面移転を断念

20011.08.19 07:00 産経関西
http://www.sankei-kansai.com/2011/08/19/20110819-056715.php

 18日、2年ごしの庁舎の全面移転構想を断念した大阪府の橋下徹知事。大阪湾の人工島にそびえる超高層庁舎が、地震の揺れにもろい現実を専門家から突きつけられると「ご指摘は重く受け止めたい」といつになく神妙な表情をみせた。大阪市側から昨年6月に85億円で購入し、「将来は大阪都庁舎に」という構想も描いていた肝いり庁舎の活用策は、大幅な方向転換を迫られることになった。

■「倒壊」顔色変え

専門家との意見交換会で、防災拠点の複数化の必要性について、とうとうと持論を展開していた橋下知事の顔色が変わったのは、名古屋大の福和伸夫教授(建築学)が、咲洲(さきしま)庁舎について「倒壊の可能性も検討すべきだ」と発言したときだった。

福和教授が取り上げたのは、高さ256メートルの咲洲庁舎と、人工島・咲洲の固有周期がいずれも約6~7秒で一致するために共振してしまう―との問題。


3月11日の東日本大震災で、咲洲(さきしま)庁舎は、震度3だったにも関わらず、


10分間揺れが継続し、壁など計360カ所が損傷、最上階付近の振幅は約2・7メートルに達した。東海・東南海・南海地震が起きた場合、揺れは約5倍の12メートル以上になる可能性がある。

 橋下知事は「(防災拠点が)下層階なら大丈夫ですか」と質問したが、福和教授は「上層階がこれだけ激しく揺れれば下層階も使えない」と即答した。

 意見交換終了後、「庁舎として使えるかどうかはオール・オア・ナッシング」と言い残して会場を退出した橋下知事。

 報道陣の取材に「全面撤退の可能性も視野に入れる」と話したが、その後「災害拠点ではなく、一般のオフィスビルのような仕事を考えれば、ただちに全面撤退するわけでもない」と話すなど、発言は揺れた。

 「全面移転はないと思います。移転条例も出しません」。そう語る言葉にいつもの力強さはなかったが、「何が何でも庁舎移転は本末転倒」「専門家会議は有意義だった。自分の思いで突っ走らずに良かった」と、ふっきれたような表情もみせた。

■市長選影響は?

一方、複雑な対応を見せたのは大阪市だった。咲洲庁舎は、もともと大阪市の三セクが大阪ワールドトレードセンタービルディングとして建設。破綻処理のなかで当時は蜜月の間柄だった橋下知事と平松邦夫市長が連携し、府への売却に道筋をつけた経緯がある。

 平松市長は産経新聞の取材に「本当は本庁舎移転に踏み切りたかったのだろうが、防災拠点としての機能に専門家から疑問符が出されれば、橋下さんとしても抗しきれなかったのだろう」と心情を推し量り「ベイエリアを一層、活性化させるという方向性にはかわりはない」と述べた。

一方、大阪市議の一人は「府庁舎の全面移転構想は明らかな失策。これほどの失敗をしてしまえば、大阪市長選へのくら替え出馬に向けた意欲も少しは薄らぐかもしれない」と、橋下知事を牽制(けんせい)した。

 ※   ※   ※(以上引用終わり)

失策も何も、こんなこと最初から分かっていたことなのです。大阪府や市の土木技術系幹部は大反対していたはずです。諫言した良心的な幹部はどうせ橋下氏に左遷され、冷や飯を食わされているのでしょう。

大阪府の咲洲庁舎の検証については、大阪府の会議資料があるのでご参照ください。

咲洲庁舎の安全性と防災拠点のあり方等に関する専門家会議資料

「咲洲庁舎の安全性等についての検証結果」の概要

http://www.pref.osaka.lg.jp/attach/13203/00078593/230624file3-2.pdf
 
※   ※   ※

東北地方太平洋沖地震の影響

○ 平成23年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震では、咲洲庁舎において、長周期地震動の影響とみられる大きな揺れが生じた。

○ 咲洲庁舎において約10分間の揺れが生じ、最上階(52階)では、片側最大1mを超える揺れ(短辺方向137cm、長辺方向86cm)※が確認された。

・ 長周期地震動は減衰しにくく、震源から遠く離れた場所まで伝わり、固有周期の長い超高層建物と共振する性質がある。
○ 直接目視及び超音波探傷試験により構造躯体には損傷がないことを確認。
・ 超高層建物は、しなやかで粘り強い構造のため、倒壊・崩壊のおそれは殆どないが、大きな揺れが長く続くことにより、内外装材等に影響が生じることがある。

○ 内装材・防火戸等の損傷(360か所)、EVのロープ絡まりによる閉じ込め事象(4基)が発生。

・ 緊急補修工事(約1億円)を23年3月から5月末にかけて実施。

 ※   ※   ※(中略)

 以下、咲洲庁舎の安全性に関する多くの問題点が列挙されています。

それにしても、東北の震源から大阪までどれだけ離れているんですか?

たった震度3で、10分間も揺れ続け、片側最大1mを超える振幅で、エレベーターが4基ストップして、

内装材・防火戸等の損傷が360か所って!

(下)に続きます。↓

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