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京都『ぎをん 小森 (ぎをん こもり)』さんで、わらび餅をを食べたよ。 【ファイルS41】2017.01.08 

【ファイルS41】2017.01.08 京都『ぎをん 小森 (ぎをん こもり)』さんで、わらび餅をを食べたよ。


白川のせせらぎを聴きながら、京町屋で甘味を味わえるねえ。

今回は京都の「花街(かがい)」祇園新橋通り、伝統的な京の町家の保存地区にある『甘味処 ぎをん小森』さんです。

ということで、初春を寿ぐ(ことほぐ)場所として、これ以上の場所はない日本の古都・京都の甘味処についてご紹介しますね。


料亭の舞妓(まいこ)はんとかも、甘味が好きそうだし、観光スポットであることもあって、外国人観光客、女性客でにぎわいます。






紅柄(べんがら)格子、かわら屋根にすだれといったしつらえの建物に、柳の木の風情が1000年の古都にふさわしい、白川沿いのお茶屋さんの『粋(すい)』、情緒のある甘味処です。






『ぎをん 小森 (ぎをん こもり)』さんは、先の大戦後すぐにお茶屋として営業を始め、甘味処として現在の姿に形を変えた後も、この建物とそれが醸し出す独特の雰囲気、そしておもてなしの心をずっと守り続けて来られたそうです。

『ぎをん 小森 (ぎをん こもり)』さんのHPはこちら。↓
http://www.giwon-komori.com/

『ぎをん 小森 (ぎをん こもり)』さんの正面には、辰巳大明神があります。






辰巳(たつみ=巽=南東)の方角を守る神社として建てられた神社なのでしょうが、今では祇園の舞妓はんからの信仰を集める伎芸上達にご利益のある祇園のシンボルともいえる小社となっています。


『ぎをん 小森 (ぎをん こもり)』さんの室内はこんな感じ。






陰翳礼讃(いんえいらいさん)だねえ。

他のお客様が写るとまずいので、コントラストを強調しました。本当はこんなに暗くありません。

開店前に早めに行ったので、窓際の席を確保できました。






わーい!

白川のせせらぎの音を聴き、景色を見ること自体が、ご馳走です。

実は、このお店は何度も訪れていて、わらびもち1,100円とくり・もちぜんざい1,050円を頼みました。


どうして2種類注文したのか、そのへんの事情は後で書かせていただきます。


まず出てきたのが、わらびもちです。






私は黄な粉が大好きなので、もうこの黄金に輝く神々しいお姿を見ただけで、ぱんぱんと柏手を打ちたくなります。






ぷるるんと自重を弾力で支えています。健気だねえ。

黄な粉の風味と柔らかい食感がとても嬉しいのでした。

それもそのはず。わらびもちはわらび粉100パーセント。毎朝練って練って練って、つくっているのだそうです。


黒蜜をつけて味に変化をつけます。






濃密なとろっとした蜜なのですが、少し、しょっぱみが入っているのかな?例えば沖縄黒糖なんかは、ミネラル分が入っているというし。よけいに甘さが引き立ちます。


窓辺に鷺さんが遊びに来てくれましたよ。






酉(とり)年にふさわしい絵になりました。


次に、くり・もちぜんざいです。






お椀のアップです。






栗と、小豆を浮上させました。






東京では、こういうのを『田舎汁粉(いなかしるこ)』というのですが、関西では、『ぜんざい』です。

上野『『あんみつ みはし』の『田舎汁粉(いなかしるこ)』の記事はこちら。↓

http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/56028733.html

小豆が香ばしく、甘さも程よく、粘りのあるお餅と、大ぶりの甘い栗がほろっと割れて、とてもバランスが取れています。

桜の塩漬けが華やかでワンポイントになります。

小豆は十勝の大納言。一日使う量だけ毎朝炊いているそうです。

お味はとても結構なのですが、小豆は割れてお汁が濁っています。

ネットで調べると、こういったのが京都の「ぜんざい」の一般的傾向らしいのです。


ところが!

以前、ここに伺ったときの『くりもちぜんざい』と比較します。






上段Aが今回いただいた『くり・もちぜんざい』で、小豆が割れて汁が濁っています。


下段Bは、数年前に訪れた時にいただいた『くり・もちぜんざい』で、小豆がしっかりとそのままの形をとどめ、お汁は、澄まし汁のように、透明です。

見た目が新鮮で、しっかりした小豆も噛みごたえがあって、まさに絶品でした。

塩昆布も、少量ではありましたが、松葉の形で味に旨味とこくがありました。


ただし、この写真でさえ、閉店間際に伺ったせいか、更にそれ以前に午前中に伺った時よりは濁っていたので、写真もこんな感じで、ちゃんと撮らず、記事は、また午前中に伺ったとき、お汁の澄みきった善哉の写真をじっくり撮って改めて記事を書こうと思って、今回伺ったわけですが、

ぎをん小森さんは、完全に澄まし汁善哉という方向性を放棄しているようなのでした。もし、これが、方針転換ではなく、今回たまたまであったらと淡い期待でもって、食べログ等最近の他の方の記事を拝見しても、そういうことのようです。


初めて、今回のような『くり・もちぜんざい』を食べたのなら、十分に美味しい京風お勧め善哉として紹介できたのですが、

以前の絶品の善哉の記憶があるので、もしできることなら、以前の澄まし汁スタイルに戻していけたらと切望します。


私は、決してお店を責めているわけではなく、これが時代の趨勢といえば、しかたないと思うのです。


お店の外に、掲示してあったメニューがこれです。






この時は、秋季限定マロンパフェ1,650円がお勧めだったようです。これは、東京の高級テナントにも出店している他の某京都有名甘味処と同じ傾向で、パフェを主流にしたメニューが最近の顧客のニーズに合わせたものなのでしょう。

その、某京都有名甘味処の本店で、有名なパフェをいただいたときも、この素材でパフェはもったいないと思って、うちのブログでは記事にしませんでした。


客のニーズに合わせて、メニューを作れば無理が生じます。特にパフェを中心に作るとなると、手間がかかり、そうすると、パフェほど人気が無く、地味で伝統的なメニューに手間をかけて透明なお汁の善哉を作ることができなくなってきたのも無理はありません。


とても残念なことなのですけれど、私が、お店を責めるつもがない理由がもう一つあります。


というのは、


ぎをん小森さんさんの戸口には、祇園祭(ぎおんまつり)の宮本組の粽(ちまき)が飾られています。






京都祇園祭の粽(ちまき)は、

童謡『背くらべ【海野厚作詞・中山晋平作曲】』のような『粽(ちまき)たべたべ 兄さんが はかってくれた 背のたけ♪』の方の食べ物ではなく、

笹の葉で作られた厄病・災難除けのお守りです。


住所が、京都府京都市東山区祇園新橋元吉町61なので、ぎをん小森さんは、宮本組の町衆なのでしょうね。


宮本組が祇園祭で供奉なさっていたご神宝を当ブログでご紹介していたことがあります。

 ↓   ↓   ↓
去年の夏の京都祇園祭だよ。その35 神様が御旅所に出張してるよ。 【ファイルT44】2008.07.15 
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/43568851.html

御旅所に飾られた弓、矢、盾、琴などのご神宝。宮本組が供奉してきたものです。【再掲】







京都ブランド(管理運営: 株式会社フェイム)さんのサイトより、↓

http://kyoto-brand.com/index.php

以下の記事を引用させていただきます。↓


 ※    ※    ※

町衆が和御霊が合体するとき悪霊が退散する


祇園祭 清々講社 by 五所光一郎
http://kyoto-brand.com/read_column.php?cid=5394

(前略)

山鉾巡行の辻まわしを祇園祭のハイライトと呼ぶなら、石段下や御旅所での揃い踏みの神輿振りは祇園祭のクライマックスと呼ぶに相応しい。

静の山鉾、動の神輿といわれるが、祇園祭の真髄は神輿であって、山鉾巡行は元来付け祭であった。その付け祭が観光へのプロモーションの結果主体化し、マスメディアの偏向的な報道により、山鉾が祇園祭そのもののように誤解を招いている。


京都の祭礼において、神輿の行く手を剣鉾が祓い清め、そこへ神輿が巡幸するのは祭事の常套で、切り離してあることはなく一体のものである。

その剣鉾が巨大化し絢爛豪華になったものが山鉾であるから、山鉾は神輿の露払いなのである。そして、氏子町衆の神輿渡御への最大の歓待供応の一つである意味を持っている。

つまり、山鉾を見て神輿を知らぬことは、前座を鑑賞して語り、真打を知らず祇園祭りを語るに等しい。


平安時代の貞観11年(869年)、京で疫病が流行した際、神泉苑に66本の鉾を立て、祇園の神を迎えて災厄消除を祈った祇園御霊会をルーツとする祇園祭。

その御霊会の原点は、現在の7月24日(旧暦6月14日)の後祭(還幸祭)なのである。

町衆の鉾による露払いが巡行し、神輿が氏子町を練り歩き、あらゆる災厄を神輿に積み込み祓っていく重要祭事だったのである。


1100年を超える歳月の中、祇園祭にも浮沈や変遷の歴史はあった。

しかし、消滅することなく継承されてきたのは町衆の愛着と努力であったに違いない。時代が変わり人が変わっても、伝統は、新たな知恵と工夫を道連れにして脈々と引き継がれてきたのである。

中でも、八坂神社の氏子組織の結束と奉仕活動が、いつの世もそれを支えていたようだ。


例えば、豊臣秀吉が定めたという寄町制度がある。

鉾町の山鉾巡行を維持するため、鉾を保有する鉾町を補助する数ヶ町を定め、人力と財力を援助する義務を課したという。

祭の執行には最適で優れた制度であったところ、明治5年寄町制度が廃止となり、鉾町は経済的危機に見舞われ、鶏鉾や月鉾は質入、譲渡される事態に陥ったという。


その時、この危機を脱する為立ち上げられたのが、募金組織となる清々講社であった。

清々講社は氏子を駆け回り浄財を募り、没落した山鉾町の負債を救済し、この二つの鉾を守ったと聞き及ぶ。


清々講社とは、八坂神社の氏子区域全域に亘る旧25学区からなる京都特有の町衆組織である。

その町衆組織清々講社の一つに「宮本組講社」がある。八坂神社のお膝元である弥榮学区の住民、店主や地主で構成されている。

他学区に比較して歴史の古い講社で、平安時代より神社周辺に住んだ人たちの地域で、熱心に神社に奉仕してい由縁と誇りから、「お宮の本にある宮本組」と称され、清々講社のなかでもその重要な役割を担う筆頭の講社である。

神社に奉納されている石灯籠や建造物などを注意して見てもらうとよい。これらの講社の名を目にするはずだ。


これらの講社があるからこそ、祇園祭は年々歳々に執り行えているのである。


 ※    ※    ※(以上引用終わり)

当ブログでは、『祇園祭の部屋』を設け、祇園祭の概略についてシリーズ記事にしたことがあるので、こういったことの重要さを身に染みて理解できます。

 『祇園祭の部屋』はこちらから。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/34800676.html

『「宮本組講社」がある。八坂神社のお膝元である弥榮学区の住民、店主や地主で構成されている』ということですが、

ところが、弥榮(やさか)学区は、少子化で弥栄(やさか)中学校が平成22年度末(2011年3月)をもって閉校し平成23年度(2011年4月)から開睛中学校に統合されたということです。


それで、祇園・弥栄中学校跡は、現在、漢検 漢字博物館・図書館 『漢字ミュージアム』になっているようです。↓

http://www.kanjimuseum.kyoto/

つまり、京都都心は空洞化して、ますます、地元の伝統行事の負担は増していっているのです。

ですから、京都の文化という大切な日本文化の柱を守るには、費用と手間がかかるのは当たり前なのです。それを余所者がとやかく言うのは控えたいと思うのです。


私は『漢字ミュージアム』自体を否定するものではありませんが、地域社会や郷土文化を支えるコミュニティーを破壊して、少子化で廃校になった中学校跡地に『漢字ミュージアム』を建てて、外国人観光客のインバウンド消費だ、観光立国だもないだろう!?というのが私の率直な感想です。


祇園祭は地元の人々の誇りと努力によって支えられ引き継がれている神事なのであって、観光客のためにあるのではありません。

人々はその辺のところを勘違いをしているのではありませんか?


ということで、この問題については、別途記事にすることにして、

京都は良いねえ。ぎをん小森さんさんにもぜひお越しくださいね。

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浅草『甘味処 梅むら』さんで豆かん(豆かんてん)を食べたよ。 【ファイルS40】2016.08.04 

【ファイルS40】2016.08.04 浅草『甘味処 梅むら』さんで豆かん(豆かんてん)を食べたよ。


夏の涼感あふれる粋な甘味だねえ。

 以前、浅草の有名な甘味処、梅園さんをご紹介したことがあります。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/54095855.html

今回、ご紹介するのは、やはり浅草の名店、1968年(昭和43年)創業の「甘味処 梅むら」さんです。






お店は浅草寺の裏の言問い通りをさらに、北の路地に入ったとことにあります。場所は少し分かりにくいかも。


 有名店なのですが、14席 (カウンター6席、小上がり4席×2卓)のこじんまりしたお店なので、混むときは並ぶようですが、私が行った時間はいつも通り中途半端な時間だったので空いていました。

それで、でてきましたよ。ここのお店の代名詞のような存在の豆寒天の『豆かん』470円也です。






豆かんの豆は、甘味につきものの小豆(あずき)じゃなくて、北海道産で厳選した赤えんどう豆なのだそうです。

煮込んだ赤えんどう豆って、とっても綺麗!まるで宝石みたいだねえ。






この美しさだけでも値打ちがあります。

こんなに艶やかでピカピカに皮が張って破裂しない程度に煮るって難しいだろうねえ。

歯で軽く噛んで、ぷっちんと皮がはじけると、中の細かい粒子がほどけながら豆独特の風味が口の中に広がります。豆そのものの味はとても癖が無く上品であっさりしています。


角切りのカンテンは、伊豆七島で採れるイズクサと呼ばれる最高級の天草を使っているそうです。






適度な弾力があって、さっぱりしています。


それで、煮赤えんどう豆は、香ばしさと歯ごたえ、カンテンは食感と清涼感の担当で、お味は、甘い黒蜜で決まります。

口の中で、豆とカンテンを食べてかみ砕いていくうちに黒蜜が混ざり合い、その相乗効果を楽しむのが豆かんの醍醐味です。


実は暖かい田舎汁粉も食べたかったのですが、寒い時のシーズンの季節メニューのようでした。

豆かんは470円で持ち帰り購入もできます。(賞味期限3日)

おうちでゆっくり寛ぎながら味わうのも良いでしょうけれど、やはり、浅草の下町の雰囲気の中で食べるのもオツなものです。ただ、騒がしいお客さんがいたらぶち壊しですけれどね。


でも、この日は美味しく、浅草甘味を堪能できましたよ。


それで、付録です。


梅むらさんを出て、前の路地をそのまま東に歩いたらすぐのところに、『アニマル浜口トレーニングジム』がありました。






実は、随分と以前、浅草散歩をしたときに、雷門前に黒山の人だかりがしていて、男性のしわがれた野性的な咆哮が聞こえてきたことがありました。

その声は、

『嫌いだ~!』

と聴こえたので、てっきり酔っ払いが喧嘩でもしているのかと思って、恐いもの見たさの野次馬根性で近づいて行ったらば、その声の主はアニマル浜口さんで、『気合いだ~!』と叫んでいるのでした。

さすがにプロレスラーの体格で迫力のあるお父様の隣には、アテネ五輪銅メダリストの浜口京子さんが婦人警官の格好をして、佇んでいました。

浜口京子さんは、怪力と、俊敏さが自慢の世界トップクラスの格闘家なのに、こうやってみると、そんなことが信じられないような、ごく普通のとても感じが良くて、つつましやかな可愛い娘さんでした。

あとで調べたら、父娘で浅草署の一日署長を務められていたようです。


浅草に、『アニマル浜口トレーニングジム』があるから、地元なのですね。観光客も地元の仲見世の人も本当に暖かい激励とねぎらいとお祝いの声をかけておられました。

アニマル浜口さんも、浜口京子さんも、本当にみんなに愛されているんだなって、分かりましたよ。

アメリカ人観光客だと思われる若い女性が、『何の騒ぎ?一体だれ?』ってお店の人に聴いていました。

オリンピックのブロンズメダリストなんだよ。えっへん!


江戸の下町と言っても、由緒のある浅草寺、浅草神社の門前町で、やはり将軍様のおひざ元のプライドがありつつも、向こう三軒両隣といった昔ながらコミュニティーが残っている場所で、なおかつ日本を代表するような国際的観光スポットです。


技術立国で、世界一の債権国、つまり金貸し国家の経済大国である国の首都に、こんな場所があるなんて、日本人でも、新鮮なのに、外国から来られた方はさぞかし興味深いのだと思います。


今回は浅草の粋な甘味処の梅むらさんの豆かんでした。


ということで、浅草はまだまだ奥が深い街なのでした。これからもボチボチと紹介しますね。

上野公園前『あんみつ みはし 上野本店』だよ。 【ファイルS39】2016.05.06 

【ファイルS39】2016.05.06 上野公園前『あんみつ みはし 上野本店』だよ。

粒餡の田舎しるこ、おいしいねえ。

若冲展を堪能した後は、甘いものが食べたくなりました。


ということで、上野公園前の『あんみつ みはし』に行きました。






ガイドブックにも掲載されている人気店なのですが、平日の中途半端な時間帯なので、空いていました。


みはしさんのホームページにはこう書いてあります。

http://www.mihashi.co.jp/about/#prettyPhoto

   ※   ※   ※

みはしの店名の由来をご紹介します。上野広小路は江戸時代に開かれた東叡山寛永寺の領地でした。


お寺への参道を不忍池(しのばずのいけ)からの川が横切っていまして、3つの橋が架かっていました。3つの橋で三橋(みはし)、旧町名でもあります。


 みはしを見たり聞いたりすると自然に笑顔がこぼれ、お店に入るとほっとして、あんみつを召し上がるとそのおいしさに感動する、そんなお店でありたいと願っています。

 これからもご愛顧のほどよろしくお願い申し上げます。

 昭和23年3月、まだ戦後の混乱が残る上野公園前にあんみつ屋として創業しました。

 先代の話ではありますが、戦後直後の東京は農業生産力も低下して、天候不順もあり、食糧不足が深刻な時期でした。

 食糧管理法や配給統制法により、砂糖や小豆の入手に大変苦労したようです。

 その分、お汁粉やあんみつはお客様に大いに喜ばれ、大繁盛だったようです。(写真は創業当時の本店)





   ※   ※   ※(以上引用終わり)

それにしても、創業当時のお写真の昭和感がたまりませんね。女性のファッションはこんなのが流行っていたんだねえ。


こういうときは、あんみつより、お汁粉に限ります。それで、『田舎汁粉(いなかしるこ)』 580 円也を注文しました。

上野といえば、近くに寄席の上野鈴本演芸場(すずもとえんげいじょう)があります。ということで、連想するのが、よく“懐かしの昭和のCM”で紹介される初代林家三平師匠の『渡辺即席しるこ』です。






なお、渡辺製菓は、昭和48年(1973年)に鐘紡が渡辺製菓を吸収合併したことから、粉末の商品をクラシエフーズが引き継ぎ現在に至っているようです。

http://www.kracie.co.jp/release/10047395_3833.html

 ※   ※   ※

 即席しるこは、昭和30年・40年代に「渡辺ジュースの素」で大人気を博した渡辺製菓から発売され、半世紀が経過しました。

 発売当初のTVCMには、当時の人気落語家・(初代)林家三平氏を起用し、

 「おもちも入ってべたべたと~。安くてど~もすみません」

 のフレーズは一世を風靡しました。

 ※   ※   ※(以上引用終わり)

ということで、即席しるこのお話で脱線している間に、“みはし”さんの本格的『田舎汁粉(いなかしるこ)』が運ばれてきました。






関西では、こういった粒餡のお汁のお椀を“ぜんざい”と言い、漉し餡のお汁のそれを“おしるこ”と言います。

それで、漉し餡の方つまり関西では『しるこ』と呼ぶものは、江戸・東京では『御膳汁粉(ごぜん‐じるこ)』と呼ぶのですが、こちらの方はちょうど夏メニューに変わったところだったので、この時期はやっていませんでした。


例によってお椀を良く覗いてみましょう。






それぞれのお餅に、ちょこんと粒あんが載ったお洒落な盛り付けです。

粒餡はこんな具合です。






小豆色ってきれいだねえ。

ここのお汁粉は、白玉ではなく、焼餅です。






私は白玉より、焼餅の方が好きなんですよ。例えば、お正月の鏡餅の鏡開きの時は、缶詰の粒餡を適度に水で薄めて、焚いて、焼餅を入れて食べます。


甘味には絶対外せないのが、山椒です。これがあると、甘さが引き立つんですね。






それで、さっそく食べるよ。


粒餡は、程よい歯ごたえで、豆の中まで均等に火が入って甘さが染み込んでいるのです。それが、とろみのある、きめの細かいお汁の甘さと相まって、本当に和菓子の甘さなのですね。

口の中に嬉しい甘さが残りますが、後味はべたべたとしていません。

それから、やはりお餅ですね。表面に焦げ目があってパリッとしているのが私は好きなのですが、そこは銘店なのです。私にとっては少し残念なことに、体裁よく焼き方が上手なので特に強い焦げ目はなく全体的に腰があって良く伸びるお餅です。

お餅と餡子ってよく合うねえ。


江戸時代京都の天才画家若冲の展覧会の後に、江戸のお汁粉というのもオツなものです。

それにしても図録が重いねえ。その上に展覧会場ショップの一つ下の階では、若冲関係の書籍コーナーがあって、Amazonで品切れになっていた若冲を特集した和樂 2016年 4・5月号が普通に売っていたので、つい出来心で買ってしまったのです。


ということで、今回は、上野は “あんみつ みはしさん”の田舎汁粉でした。


 2016.06.20追記。

『みはし』さんの店名の由来である、現所在地に江戸時代にあった3つの橋が記された古地図を参考のため掲載します。【Google Earthより】






↑ 小さな三つの橋がちゃんと描いてありますね。それぞれ寄進した人が違うのかな?いまはここに『みはし』さんがあるのですね。

京都土産は『京とうふ きらず揚げ』だよ。 【ファイルS38】2014.11.20 

【ファイルS38】2014.11.20 京都土産は『京とうふ きらず揚げ』だよ。

『おから』の入った美味しいお菓子だねえ。

 京都駅から『梅小路蒸気機関車館』、『京都水族館』方面に徒歩で歩いていくとその途中の狭い道にビルが建っていました。

看板に、『京都豆腐会館』と書いてあるのです。






『京都府豆腐油揚商工組合』のビルなのだそうです。

京都は南禅寺を始め湯豆腐で有名です、とくに精進料理には欠かせません、だから、お豆腐油揚商工組合という組織があって当然ですよね。


『小売りいたします、どうぞ、お気軽にお入りください』とサッシの引き戸に張り紙がしています。『きらず揚げ』、『豆乳パウンドケーキ』、『とうふドーナツ』と書かれています。


『京とうふ きらず揚げ』






 『ポケット版商品カタログ 2014年 秋・冬』にはこう書かれていました。↓
 ほんのり甘くて、止まらないおいしさ!
 「京とうふ きらず揚げ」190円(内税)

 出来立てのおから(卯の花)と国内産の小麦粉を練り上げ、菜種油でカリッと香ばしく揚げました。歯ごたえが心地よく、あとをひきます。お茶受けやお子様のおやつにもピッタリ!

↑昔から、『おから』という呼び名は『空(カラ)』に繋がるので、忌(い)み言葉として、避けられていました。


ですから、関東では『おから』のことを『卯の花(うのはな)』と言い換えます。白くてぱらぱらして卯の花のようだからですね。

一方関西では、『おから』のことを『雪花菜(きらず)』と言い換えるようです。

上方落語の『鹿政談(しかせいだん)』という噺(はなし)に『きらず』のことが出てきます。

人間国宝の3代目桂米朝(かつらべいちょう)師匠による『鹿政談』の動画を見つけたので、ご紹介しましょう。




 うまく観られないときはこちら。


 江戸時代、奈良の鹿は、故意ではなく、誤って殺しても死罪になるという神聖な生き物でした。

 その奈良のお豆腐屋さんが、店先の『きらず』を食べている鹿を犬と間違えて殺してしまって、そのお裁きのお噺です。

米朝師匠のお噺では、「『豆腐』は切って食べるが、『おから』は切らずに食べる」。

 どうしてこんなに苦労して言い換えなければならないのか?

 『おから』の『カラ』は、あまりゲンの良いものではない。

 財布がカラだっら困るし、ことに、我々のような興行ものの世界では、客席が『空(から)』だというのは、こんな困ったことはない。

 昔、楽屋で「おから買(こ)うて来い」なんて言おうものなら、それだけで『どつかれた』ものらしい。

 「なんて、ゲンの悪いことを言いやがるねん」、あれは鍋で炒(い)り付けるようにして焚(た)くので、「『きらず』を買うてきて、『大炒り(おおいり=大入り)』にせい」と、芸人というのはこんなしょうもないことを言って喜んでいた。

 空(から)と大入りではえらい違いですからね。

 ↑ ということみたいです。

 米朝師匠のお奉行様の噺はさすがの貫禄ですね。

それで、『京とうふ きらず揚げ』を食べます。






 まず食感というか、噛みごたえが『かっぱえびせん』や『カールと』は違います。

 どちらかというと、八つ橋煎餅に似たカリッとした噛みごたえで、噛んで粉になっていく過程でシンプルな塩味をクリーミーな味わいの『おから』の名残りが、ほんのりと優しく包み込むといった感じです。

 さすがは京都、『おから』も上品なお菓子としてアレンジしているのですね。

 よくスナック菓子のことを、ひとくくりに高カロリー低栄養の代表として、過度の摂食を控えるように言われますが、これは、大豆たんぱくも入っているから健康に良いかも

 ◎原材料名:小麦粉、おから(国内産大豆)、粗糖、植物油(菜種油)、食塩、膨張剤(重曹) 
 ◎内容量:75g 
 ◎消費・賞味期限:80日 
 ◎保存方法:直射日光、高温多湿を避けて保存してください。開封後はお早目にお召し上がりください。
 販売者:京都府豆腐油揚商工組合Ⅰとあります。

 お店のお姉さんに、いろいろと試食を勧めていただいたのですが、私は、このスタンダードの『京とうふ きらず揚げ』の他に、その応用編として秋冬限定で、『季節限定 コーンポタージュ切らず揚げ』も買いました。

『季節限定 コーンポタージュきらず揚げ』






 私は、『株式会社 やおきん』の『うまい棒』もコーンポタージュ味が好きだからねえ。

 きらず揚げ
 (コーンポタージュ)
 1袋 330円(内税スイートコーンの豊かな味わいと香りが楽しめます)

 こちらは、内容量が140gで、スタンダードな『きらず揚げ』の75gより大入りです。

 販売者も、『京都府豆腐油揚商』ではなく、『(株) おとうふ工房いしかわⅠ(愛知県高浜市豊田町)』となっています。

『季節限定 コーンポタージュ切らず揚げ』のアップ






 外見は、スタンダードの『きらず揚げ』とほぼ同じです。

 食感は、先ほどの『きらず揚げ』のスタンダード版と同じですが、こちらは塩が前に出ず、トウモロコシとミルキーな味が控えめに申し訳ありませんが、私もいることに気が付いてね、という奥ゆかしい感じでかつ、しっかりと自己主張をなさっています。

 なんか、こういうお菓子をコンビニとかに売っていれば、「やめられないとまらない『かっぱえびせん』」となるのではないかと思います。

 この手の商品は、京都のブランド力なら、成城石井系が売ったら似合いそう。

 でも、よく考えたら、『おから』は、お豆腐を作る過程でできるものですから、お豆腐がたくさん売れないことには、量販は難しそうですね。

 私が日本人に生まれて得したと思うことは、お豆腐やお醤油やお米があること。良質な塩があって、美味しいアラレやおかきや御煎餅があること。

 そういうことを気づかせてくれる、懐かしいお味のお菓子でした。

 あと『きらず揚げ』には、カレー、マヨネーズ、ペッパー&チーズ、黒糖きなこといった豊富なラインナップがあります。

 梅小路蒸気機関車館や、水族館に行った時に、自分のためのお土産にすると自分がうれしいねえ。

 職場へのお土産用にするのなら、一人一人用の小袋に詰めて、小分けにして割れないように箱に入れて売っていただいた方が良いかもしれませんね。

 HPでも通信販売を行っているようです。↓


 名称:京都府豆腐油揚商工組合
・住所:〒600-8241 京都市下京区堀川通塩小路西入ル志水町133-2
・TEL:075-361-0068

 ただ、通信販売では、スタンダードな『京とうふ きらず揚げ』と『きらず揚げ(カレー) 』『きらず揚げ(マヨネーズ)』しか扱っていないみたいです。

 ということで、『京とうふ きらず揚げ』でした。

ついでに、京都府豆腐油揚商工組合ビルの近所にあった畳屋さん。






 「京都疊商工協同組合『畳』 加盟店 疊三商店」とあります。 

 左側の2階の壁がトタン張りになっていて、隣がビルになっているので、たぶん、同じような建物が長屋のように連棟になっていたのを、隣の建物が取り壊されて、この建物だけが、戸建てになって残っているのだと思います。





 窓の格子になった手すりがお洒落ですね。

 どういう訳か、右の看板の真ん中の大きな畳の字だけが『田が一つの『畳』で、それ以外は、『「田」が3つ』の『疊』なのです。

 最近は畳屋さんってあまり見かけないのですが、京都ではまだまだ需要があるのでしょうね。

 フランスでフローリングの部屋に畳を敷いて、裸足で寛ぐのが流行っているって聞きますけれど、あのイグサの香りは良いですよね。

 ちなみに京都の畳は、京間(きょうま)で、サイズは3尺1寸5分×6尺3寸(955mm×1910mm)と東京の江戸間(えどま)のほぼ2尺9寸×5尺8寸(880mm×1760mm)より大きいので、同じ間取りでも、東京より京都の方が広くてお得です。

 畳は、
① 京間(きょうま)=本間(ほんま)=関西間(かんさいま)、
② 中京間(ちゅうきょうま)=三六間(さぶろくま)、
③ 江戸間(えどま)=関東間(かんとうま)=田舎間(いなかま)=五八間(ごはちま)、
④ 団地間(だんちま)=公団サイズ(こうだんま)=五六間(ごろくま)の
 4種類が有名なのだそうです。
 
 京都は、観光地だけでなく、細かいところでも本当に独特な街ですね。

カフェーパウリスタ銀座本店で美味しい“ブラジルコーヒー(パウリスタオールド)”と“ザッハトルテ”をいただいたよ(下) 【ファイルS37】2013.07.09 

【ファイルS37】2013.07.09 カフェーパウリスタ銀座本店で美味しい“ブラジルコーヒー(パウリスタオールド)”と“ザッハトルテ”をいただいたよ(下)

幾多の文化人に愛された伝統があるカフェーなんだねえ。

 (上)からの続きです。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/54322899.html

カフェーパウリスタの歴史は、明治37(1904)年、世界最大のコーヒー生産国であるブラジル共和国サンパウロ州政庁が、明治の中頃日本移民を導入するに当たって、それに協力するため、初代社長の水野龍さんが皇国殖民合資会社を設立したことに端を発します。


 ところが、皇国殖民合資会社はブラジル移民事業の先鞭をつけたものの、社内に生じた内紛や事業に対する世間の誤解と猜疑、さらには不景気が追い打ちをかけ、頓挫します。

 このように一旦火が消えかけたかに見えた移民事業でしたが、水野龍社長と、松井淳平氏、寺田寛氏が提携した竹村植民商館がその志を引き継ぐことになります。

明治41(1908)年、青雲の志をいだいた水野社長は笠戸丸(かさとまる)に乗り込み初の移民団長としてブラジルの地に渡りました。


 『笠戸丸』というのは、多くの日系移民が神戸港からブラジルに渡った船として有名ですね。

皇国殖民合資会社設立から5年後の明治42(1909)年、水野社長は、ついにブラジル共和国サンパウロ州政庁よりサントス珈琲豆の継続的供与と、東洋における一手販売権を受けます。


それで、水野社長は大隈重信【おおくま しげのぶ:第8・17代内閣総理大臣、早稲田大学の創設者】の支援を得て、翌明治43(1910)年、合資会社ブラジルサンパウロ州政庁専属ブラジル珈琲販売所カフェーパウリスタを創立し、さらに翌年の明治44(1911)年、ついに京橋区南鍋(なべ)町(銀座6丁目)裏、現在の交詢社の真向い角に、白亜三階建ての洋館を建設します。

南米風のスタイルを加味した外観をもつ洋館は外側をイルミネーションで飾りつけ、パリの著名なカフェ、『プロコック』を模した斬新なカフェー(喫店)のカフェーパウリスタ銀座店併設し、朝野の名士を招いて華々しく開店します。


 水野社長はこの時「今日皆様に供する珈琲は日本移民の労苦がもたらした収穫物で、この一杯には、その汗の結晶が浸け込んでいる。準国産品ともいえる珈琲を普及するために、是非ご協力をいただきたい」と挨拶し、喝采を受けました。

 本当にブラジル移民の方々は苦労されたのですね。

 移民当初の苦労もそうですが、大東亜戦争時もとても苦労されました。

 後は、お店でもらった『創業百年 カフェーパウリスタ物語』からそのまま書き写しましょう。




  
※   ※   ※

 喫店(カフェー)では、一合たっぷりはいる厚手のカップ一杯の珈琲を五銭で提供し、特異な形をした陶器の砂糖壷(つぼ)と灰皿を配置した白大理石のテーブルに、パリー風の曲木椅子(まげきいす)四坐を配し、これを階下に七席、二階に十八席を置き、砂糖はお好み次第、米国風の暖かいドーナッツと数種類のサンドウイッチを供しました。

 その異国風な雰囲気と斬新な販売方法は人々の目を瞠(みは)り、珍しもの好きな都人に歓迎され、開店早々から多くの人々がこの店に集まり、朝九時より夜十一時に至る営業時間中、日々四千杯の珈琲が飲まれた程の盛況を呈しました。

 珈琲をはこぶ給仕は海軍士官の正装を模し、肩章をつけた純白の上着に黒ズボンで十五歳未満の清潔感のある少年達でした。大正の中頃には、横浜の西川楽器店から米国製の自動ピアノが持ち込まれ、カルメンやメリーウイドウの曲がながれ、珈琲の芳香にとけあい、紫烟(たばこ)のなかに、美しい旋律(メロディ)が溶け込み新しい時代風景を表現していました。




 
 宣伝方法も奇抜なもので六尺余りの巨漢(おおおとこ)が燕尾服を着用し、シルクハットに白手袋という正装で傍に紅顔の少年を伴い、銀座通りに立って「鬼の如く黒く、恋の如く甘く、地獄の如く熱き」のキャッチフレーズで路ゆく人に珈琲試飲券を配ったり、妙齢婦人に正装させ家庭を訪問して珈琲の淹(い)れ方を伝授したりしました。

※   ※   ※
 
 『銀ブラ証明書』に記されたキャッチフレーズ。




 
 大正初期、当時まだ珍しいトラックで製品を毎日配達していたそうです。





 これは良い宣伝になったのでしょうね。

 日本にコーヒーを飲む習慣を根付かせるために、淹れ方の出前指導までしていたなんて、びっくり!

 カフェーパウリスタは、当時の西洋文化移入の最先端だったのですね。

 米国製の自動ピアノって、ピアノロール式のものかな?
 

それでもって、ディアナ・ダービンによるレハール作曲『メリー・ウィドウのワルツ』のリンクを貼っておきました。(埋め込み禁止になっていたので、リンク先で聴いてね)

 DEANNA DURBIN SINGS WALTZ LEHAR LIVE 1937
http://www.youtube.com/watch?v=fqHT267vb2A&feature=fvwrel

 古い録音なので雑音が入りますが、昔のカフェの雰囲気がある音源です。

 ディアナ・ダービンは、1930~40年代のハリウッド映画で活躍した、カナダ人の女優・歌手で、世界中で大人気を博しました。

 『アンネの日記』の著者アンネ・フランクが、第二次世界大戦中に隠れ家の自分の部屋の壁にディアナ・ダービンの写真を貼っていたことでも、その世界的な人気の程が知れます。

 ディアナ・ダービンは、大指揮者のレオポルド・ストコフスキーと共演した映画『オーケストラの少女 【100 Men and a Girl (1937)】』で、日本でも大人気だったんだねえ。

 ちなみに、レオポルド・ストコフスキーさんは、ディズニーの音楽アニメーション映画『ファンタジア』にも出演演奏しているのでご存じの方は多いと思います。

大正時代、パウリスタは文化活動の拠点として、多くの著名文化人に愛されました。


 文壇では、水上滝太郎(みなかみ たきたろう)、吉井勇、菊池寛、久米正雄、徳田秋声、正宗白鳥(まさむね はくちょう)、宇野浩二、芥川龍之介、久保田万太郎、広津和郎、佐藤春夫、獅子文六、小島政二郎など。

 演劇界では、小山内 薫(おさない かおる)、上山草人(かみやま そうじん)などが常連でした。

 小山内氏は大谷竹次郎(おおたに たけじろう)が松竹キネマ合名社を設立した際に、創設されたキネマ俳優学校に招かれ校長に就任。

 松竹キネマ研究所を設立するなど、映画界に関わって多忙な日々を送っていた頃に、ここの珈琲で喉を潤し、心身の疲れをいやしたそうです。

 また、大正活映が朝野総一郎の後援で横浜の地に設立された時、米国帰りのトーマス栗原がパウリスタに同志を糾合し、また、『純粋劇映画運動』を唱え『近代映画協会』を主催し、日本に初めて『映画女優』を登場させた映画理論家、映画監督、脚本家の帰山教生(かえりやま のりまさ)など、日本映画に神風を吹き込んだ多くの人達もここに集いました。

 画壇では、帝劇で舞台装置の新機軸を模索すべく研鑽をつんでいた若き日の藤田嗣治(ふじた つぐはる:レオナール・フジタ)、村山槐多(むらやま かいた)、吉田博などが常連だったそうです。

 やわらかな 誰が喫(の)みさしし 珈琲ぞ
   紫の吐息 ゆるくのぼれる        白秋

“銀ブラ”という言葉の、『文化人がカフェーパウリスタ銀座店でブラジルコーヒーを飲む』という本来の意味からすれば、ここは芸術を志す若者の憧れの聖地でもあったのですね。


 そういう歴史を感じながら、いにしえのモダンな銀座に思いをはせるのも楽しいものです。

 ということで、カフェーパウリスタ銀座本店でした。

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