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梅観にいったよ 【ファイルC9】2007.02.27

【ファイルC9】2007.02.27 梅観にいったよ

梅って綺麗で良い香りがするけど、観るのは寒いねえ


 好物の梅干を食べる、『すっぱまん』のピコリンさん。





 この前の日曜日は、『梅が見ごろだよ』っていう情報を得て、近所の梅林に梅を観にいきました。
 近所といっても、電車にゴットンゴットン揺られていく近所だけどね☆

 休日の朝は、ずっと座れて楽チンだあー。

 梅林の最寄りの駅では大勢のお客さんが降りたけど、梅林に向うのは、家族連れとか、お年寄りとか、高級カメラを手にしたおじちゃん、おばちゃんの集団が多かったよ。地味だねえ。うへえ!

 櫻が視覚的に華やかなら、梅は香りで勝負だから、その分奥ゆかしくて上品だって聞いた事があるけど、宝寿司の梅さんは、厚かましいねえ!

 お食事なんか、松竹梅ってグレードがあるねえ。

 どうして、一番派手な梅が一番下なんだろう?

 あれって、宋の『歳寒三友(さいかんのさんゆう=松・竹・梅のこと)』がもとなんだって。

 宗の文人画では画題として松・竹・梅が好まれていたんだよ。

 松と竹は寒中にも色褪せないし、梅は寒いときに花が咲くでしょ。これが「清廉潔白・節操」という、文人の理想と合致したんだねえ。

 そういえば、日本画でも、雪景色に松とか竹とか梅のモチーフってあるものね。

 新潟には『越しの寒梅』っていうお酒があるしね。

 ずばり『松竹梅』ってお酒もあるけど。

『歳寒三友』が日本に伝わったのは室町時代で、江戸時代以降には庶民の間でも流行するんだけど、『松竹梅』って呼び方が変わって、意味も『目出度い』ことになっちゃったんだよ。

 だから、松竹梅の順でグレードが下がる根拠はないんだよ。

 グレードを『松・竹・梅』って言うのは、『特上・上・並』って言うと『並』って言うのが、恥ずかしいだろうって、使い出した符牒らしいんだけど、私が推測するに、竹・松の順だと、ちくしょう=畜生になるから、不味いので、梅・松・竹か、松・梅・竹か、松・竹・梅になるんだけど、『しょうちくばい』っていうのが一番語呂がいいから、そういう風に落ち着いたんじゃないかな?

 でも、『梅!』って頼むのも、十分恥ずかしいねえ!

 そういえば、一昔前に金竹小《こんちくしょう=金丸信・竹下登・小沢一郎》っていうのがあったねえ。

 ということで、梅林にとうちゃーく!

『梅林(ばいりん)』に来ると、頭が良くなってバイリンガルになれるかなあ?

 だって、学問の神様の菅原道真さんが大宰権帥(だざいごんのそち)に左遷された時に歌った

『東風吹かば にほひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ』

 は有名だものね。

 その梅は、京の都から一晩にして道真の住む屋敷の庭へ飛んできたんだねえ(飛び梅伝説)。

 ここの梅も何処かに飛んでかないかな?

 高そうなカメラをぶら下げていたおじさんが、『先週の方が香りは良かったけど、花は今日の方が見事だ』って言っていました。

 今日の梅は、見事だから、『松竹梅』でいうと『松クラス』の『梅』だねえ。

 ややこしくて良くわかんないよお!

 ブログの写真は香りが伝わらないから、この日に来たのが正解だったよ!よかったねえ。

 なるほど、梅の香りは微かで、気をつけないとわかりません。

 帰ってから、梅干の匂いでも嗅ごうっと!

 それで、沢山写真を撮ったけど、コンパクトデジカメは焦点を合わせるのが大変だよお。

 皆さんには雰囲気だけでもお裾分けさせてくださいね☆
 

















 この木だけ『楊貴妃』っていう札がついていました。花は少ないけど、枝振りがよくって、気品があります。↓













 ついでに、水仙も咲いていました。綺麗でしょ。



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『生について』 【ファイルC8】 2007.02.23




【ファイルC8】 2007.02.23『生について』

 上は『生きていくピコリン』の絵だよ!

 この前、風邪をひいて、自分が寝てる間に免疫系が戦ってるのに、意識だけが偉いと思っているのは、傲慢ではないかというような趣旨のことを書きました。

 先日、お友達のうたかげさんから、バトンをいただきました。

http://blogs.yahoo.co.jp/ephemeral06/45128464.html

 でも、それぞれのテーマが重いので、とりあえず、『生について』なら、この前の記事の続きを書いて、お茶を濁せるのかな?って思ったこともあり、それで、この前の続きで、少し書かせてください。

 命というのは、当たり前のことですけど、人間だけが持っているのではありません。


 ウイルスを生物と呼ぶかどうかという判断はここで下さないにしても、大腸菌なんかのバクテリアになると、もうこれは生物ですよね。彼等も生きています。

 単細胞生物は分裂して増えるだけなので、全滅しない限りどれかは生きているわけですから、ある意味で不死といえます。

 癌ウィルスなんかも不死なのかな?アメリカで1951年に31歳のヘレン・ヒーラという女性が子宮癌で亡くなりましたが、その癌細胞はそのまま培養されて研究用に今も生き続けています。

 一方、人間のような複雑な構造をもった生物は、個体の死があります。

 何故個体の死があるかというと、進化するためで、進化するには雌雄の別があって、遺伝子をシャッフルしないといけないので、シヤッフルし終えた個体は不要なので、死んでいくわけですね。人間や多くの哺乳動物はその後、育児という役目があるので、その後も寿命がありますけど。

 いわば、我々は、ある意味で男女の性と進化の代償に、個体の死というものを甘受しているわけです。それで極端な話、生物というのは、所詮遺伝子のための乗り物に過ぎないという学者もいるわけです。

 そうだとして、生きることに意味があるかということになるわけですよね。

 ここで、意味とか無意味とかいうことを言い出すのは、言葉・文字といった象徴的なコミュニケーション手段を手に入れた人間だけなのであって、それで、バクテリアまで含めた生物のもつ広範な生命の意味を問うこと自体が矛盾を孕んでいるわけです。

 そういうと話がそこでストップするので、それを不問に付すという留保をつけた上で、敢えて生命とは?っていうことを考えてみます。

 バクテリアまで行かなくても、植物なんかも生きているわけです。植物には神経も脳もありません。
 動物に脳があるのは、捕食したり、敵から逃れることによって、生命を維持するという戦略をとり、そのためのセンサーが末端に集まってできたアナラーザー(分析)やカリュキュレーター(演算)やコントローラー(統御)等の役目をするのが脳なわけです。

 それで、一切の出力は筋肉を介して行うわけです。

 昔、『ジョニーは戦場に行った』という映画があって、主人公は戦争で両手足、眼・鼻・口・耳を失って、チューブだらけになって生きているわけですけど、子供の頃ボーイスカウトで覚えたモールス信号を思い出して、しきりに首を揺すって、意思の伝達をしようとします。これで、首の筋肉も動かなければ、他人からみれば植物人間と区別がまったくつかないわけです。脳波を取れば多少は分かるでしょうけど。

 それから、脳死問題云々という話がありますが、心臓停止の後も脳細胞が全滅するまで時間がかかりますし、体の全細胞が全部死に絶える前に大抵は火葬にふすわけです。
 細胞の全滅という定義で死というものを考えると、ヒーラさんはまだ生きているわけです。

 そこまで極端なことは、普通は考えないので、心停止により医師が死亡を宣告してから、一定の時間が経てば、埋火葬許可がおりるわけです。

 逆に、私たちの体を構成する細胞は常に入れ替わっていて、子供の頃の自分と今の自分は細胞が入れ替わっているのに、脳、特に意識は同じ自分だと思っています。
 考えてみれば不思議なことです。

 免疫系なんか、私たちが意識しなくても、勝手に外から異物が入ると自己と他者を判別して、他者を攻撃します。
 ですから、臓器移植なんかは、薬で拒絶反応を徹底的に抑えるわけです。

 子供がおなかの中にいるお母さんにとってすら、胎児というのは異物なのであって、免疫系が攻撃しようとするのですが、胎児はその攻撃をかわす仕組みができているので、無事に育っていくわけです。そういった意味で胎児というのは、癌細胞みたいなものです。
 普通、そんなことを考えているお母さんはいないわけで、体が勝手にやっているわけですね。第一、そんなこと考えると胎教に良くありませんから。

 人間は大脳新皮質、即ち意識をつかさどる器官が他の動物とくらべると、異様なほど肥大しています。それでもって、人間は自分たちが偉いと思っているわけです。
 私とすれば、それは大いなる勘違いだと思うのですが。
 そして、文明というのは、その勘違いが極限まで進んでいる状態なのだと思うのですね。

 宗教なんかは、無意識というものに着目して、瞑想とか、座禅とかやるわけですけど、ある意味で、これは無意識をコントロールしようとしているわけです。

 ただ、無意識というのは、意識で知覚できないから無意識なわけですから、非常な困難を伴うわけです。近代でも、フロイトの精神分析以降、無意識という概念が出てきて、芸術でもシュールリアリズムというものが出てきたわけです。これらは、それなりに面白いわけです。
 それから、怨霊・物の怪とかブームですけど、これらも、人間の幻想世界とか無意識のありようを探る意味でとても興味深いものがあるわけです。

 ただ、やはり、それらを分析して、結局は無意識をコントロールするというのは少し無理があるのではないかという気がしてなりません。

 私は思うのですけど、現代は意識によるこうしてこうなったらこうなるっていう因果律による制約っていうか、マニュアル化っていうのが、きつすぎやしないかと思うことが多いのです。

 学問というのはある意味で、そういう方法論でなりたっているというのは百も承知なのですが。

 そういうと、昔に回帰しろっていうふうになりがちなんですけど、例えば昔の呪術なんかで雨乞いの祈祷なんか、あれはあれで『こうやれば雨が降る』っていう結構単純な因果律なわけです。

 最近はやりの心理テストや占いでも、これこれの人はこれこれで、こういう人生を送るっていうパターンが多いのですが、やっぱりあれはマニュアルなわけですね。ある意味で、大学入試のセンター試験より単純で、どうして今の人たちは受験制度を批判しながら、あんなのが面白いのかな?って首を傾げることが多いのです。

 今の人の絶望というのは、こうしてこうすればこうなるはずなのに、こうならないっていうのが多いのではないかということを感じてならないのです。

 例えば、生きがい論とか、恋愛論とか、世の中に氾濫していて、トーク番組で若手芸人ごとき(失礼!)が人生を語り、ブログで私もこういった文章を書いているわけですけど、なんか、そのへんをどうにかならないか思うことがよくあります。

 自分の人生がこうなるって分かってしまったら、つまんないと思うのですけどね。

 だって、こうなるって分かってしまったら、その後生きるというのは、分かったことの確認作業になってしまうので、意味がないのではないですか。

 例えば仏教みたいに悟りを開けば、後は生きてる必要がないから、輪廻から解き放たれて、彼岸に行くんでしょうけどね。

 捕食したり、敵から逃れるために、動物が出てきて、そのために脳が出来て、そこから意識が出てきたとして、生命にとって意識っていうのは、衣食住が足りて、外敵からの安全が確保されれば、さして必要ではないのですね。

 人間がものを考えるっていうのは、肥大した脳の新皮質を維持していくために、普段から活動させないと退化するってことのためだけかも知れません。

 だとしたら、生物としての人間にとって、ぼーっとしているのが、ベーシックな状態ではないのではないでしょうか。

 例えば、瞑想じゃなくて、ただぼーっとしているのはダメなのかとか、夢判断なんかしないで、ただ眠るのが気持ち良いとかいうのはどうなのかと思ってしまうのです。

 もちろんそんなことばかりしていたら、食べていけませんけど、人間以外の動物・植物は普段はただぼーっとしているわけです。そこに意味なんか全く無くて、それでも生きているわけです。

『へたな考え休むに似たり』っていいますが、『へたな考え』を一日中考えているのは、人間でも、ごく一部の先進国って呼ばれている国の人達だけでしょう。

 生き物すべてのベーシックな状態はぼーっとしているということですから、ひょっとしてこれが『生きる』ってこういうことで、このために生きているような気がしてならないのです。

 ここでは、『無為自然』というなんだかご利益のありそうな言葉も不要です。

 私は、仕事も一生懸命やりますけど、本を読んだり、文章を書いたり、好きな事をしたりすると、ぼーっとしたり眠ったりするのが気持ち良くなるので、そのために生きているような気がしてなりません。

 それを、経済成長とか効率とか、これは1960年代にさんざんやってきて、矛盾が出てきて反省したはずなのですけどね。

 わけの分からないビルがにょきにょき建ってるのに、それで不景気だって言われて、貧しかった時代よりこき使われて、更に労働者を守り、国民の健康を維持することが仕事であるはずの厚生労働省が、『ワーキングプア問題』や『過労自殺問題』を放置して、『ホワイトカラー・エクゼンプション』っていう、実質的には『過労死促進法案』を財界に味方して立案するんですから、狂気の沙汰です。

 眠る時間を削っても働けっていうわけです。これって、『生の否定』ですよ。

 だから、自殺者が増えて当然です。鉄道なんか『人身事故』でしょっちゅう停まっています。

 どうせ、財界からしこたま金なり、天下り先なり、政治家から議員のポストなりを斡旋してもらったんでしょうね。こんな税金泥棒は即刻全員クビですよ。

 彼らは結局、エコロジーとか福祉とかって、結局エコ産業や福祉産業の利権を生むだけで、そういう利権がらみ金がらみのことには熱心なのですけど、ベーシックな生命の営みなんてどうでもいいのですね。

 世の中の役に立つことって、往々にして、時代が変化すると役に立たなくなります。今の人は、役に立つことが好きですね。

 生命っていうのは、役に立つために存在しているわけではありません。生命はただ存在しているのです。それ以上の理由が必要なのでしょうか?

 私のブログは役に立たないことばかり書いています。

 でも、そういうことの方が、余程生命の有りように近いと思うので、今後とも、どうぞお付き合いくださいね。


マーラー 交響曲第6番イ短調(1904年) 佐渡裕指揮 兵庫芸術文化センター管弦楽団 【ファイルMU1】2007.01.13

【ファイルMU1】2007.01.13 マーラー 交響曲第6番イ短調(1904年) 佐渡裕指揮 兵庫芸術文化センター管弦楽団


実演で聴かないと、曲の全貌って分からないもんですね


 コンサートのチラシ





 今回は関西まで遠征です。
 
『アトモス部屋IN大阪』の取材も兼ねています。

 直前に酷い風邪をこじらせて、行けないのではないかと気を揉んだのですが、お陰さまでなんとかかんとか行くことができました。

 佐渡さんのコンサートは最近チケット入手が困難で、やっと取れたのです。その昔聴いたブラームスの第二交響曲は名演でした。それで、また聴こうと思ってから、ずっと切符がとれませんでした。

 以前はもっと簡単に取れたのですが、佐渡さんのメディアの露出が増えてから、とても人気です。

 特に本拠地の兵庫芸術文化センターは杮(こけら)落としから、ずっと切符が取れないのです。

 今回、チケットが取れたのは、きっと80分以上の大曲に恐れをなした人が多かったのでしょう。

 といっても、この人は実力が先行していて、大指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤン氏が、晩年小澤征爾氏に『日本の若手の佐渡裕と高関健の才能は素晴らしい』と頻りに話していたそうです。

 オーディオというのは、もともとハイフィデリティー(原音再生)を目指して発達してきたのですが、究極的には、ダイナミックレンジが大きいオーケストラの臨場感の復元を追及しているといって、過言ではないでしょう。

 因みにCD開発当時の最大収録時間74分のフォーマットは、SONYの大賀社長(元声楽家)と親しかったカラヤンが発した「ベートーヴェンの第9が1枚で収録できる様に」の鶴の一声で決まったそうです。

 ですから、CDが開発された時は、ダイナミックレンジが狭くて済むポピュラー音楽ファンのCD需要は全く想定していなかったのです。

 とはいっても、こんな100人以上の大オーケストラ(5管編成のフルオーケストラだけど、フレンチホルンはなんと8人いる)なんて、はなからオーディオ装置で再生不能ですから、生演奏を聴かなければ話になりません。

 兵庫芸術文化センター管弦楽団は比較的小編成のオーケストラですから、半数以上はエキストラ(客演奏者)になります。

 楽器編成
ピッコロ、フルート 4(ピッコロ持替え 2)、オーボエ 4(コーラングレ持替え 2)、コーラングレ、クラリネット 4(ソプラニーノクラリネット持替え 1)、バスクラリネット、ファゴット 4、コントラファゴット
ホルン 8、トランペット 6、トロンボーン 4、チューバ
ティンパニ 2人、グロッケンシュピール、カウベル、むち、低音の鐘(ティーフェス・グロッケンゲロイデ、複数)、ルーテ、ハンマー、シロフォン、シンバル、トライアングル、大太鼓、小太鼓、銅鑼、そりの鈴、ウッドクラッパー(振るとかたかた音の出る木のおもちゃ)
ハープ 2、チェレスタ
弦五部(1stヴァイオリン、2ndヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス)


 誰もいないステージにマイクを持った佐渡さんが登場しました。

 佐渡さんはラグビー選手みたいに体格が良いのです。マオカラー(詰襟)の黒スーツに身を固め(この服、カラヤン氏や小澤征爾氏、小泉和裕氏が良く着ていた)、何時もどおりの柔らかい京都弁のイントネーションで喋ります。

 別にカラオケを始めようということではなくて、曲の解説です。

 少し、お痩せになったのかな?

 佐渡さんは太るとホンジャマカの石塚さんに似てきそうな感じがするので、一安心です。

 被り物をして、エアーホッケーやってる場合ではありませんから。

 佐渡裕さんにとって、この曲は、恩師の大指揮者レナード・バーンスタイン(映画ファンの方は、『ウエスト・サイド・ストーリー』の作曲者としてご存知だと思いますが)が、ウィーンフィルハーモニーを指揮した時に勉強し、フランスのブサンソン国際指揮者コンクール(初代優勝者が小澤征爾氏)で優勝後、新日本フィルハーモニー交響楽団でプロ指揮者としてデビューした時演奏した思い出の曲だそうです。

 普通は、こんな大曲でデビューなんかしません。このへんが大物なのですね。

 大まかな曲の流れを解説した後、ステージに燕尾服を着た青年が呼ばれました。

 笑っちゃうほど巨大な大樽に柄がついたような木槌をもっています。これが『ハンマー』です。

 江戸時代の火消しが、類焼を防ぐために周囲の家屋を破壊するために大きな木槌を持っていましたよね。その木槌です。火消し装束を身に纏った赤穂浪士が吉良邸に討ち入るときに使った木槌です。

 青年は金髪の優男(やさおとこ)です。といっても、髪を染めた日本人ではなくて、本物の異人さんです。

 青年の名前はエリックさんといいます。

『ハンマー(木槌)』なんて楽器はありません。ハンマーはハンマーですから、楽器屋さんで売っていません。それで、劇場の大道具さんに特別に作ってもらったらしいのです。

 これを、ステージの一番高いところに置いてある、鏡餅を乗っける台を巨大にしたような台に叩きつけるのだそうです。

 佐渡さんはお客さんに特注の自慢の木槌を見せるように何回もエリック青年に持ち上げるように促します。最初のうちは笑顔だったエリック君の顔がだんだん引き攣っていくのが分かります。

 彼はパーカッショニストで、巨大木槌を打ち下ろすだけの役ではないのです。舞台裏で鉄板を叩いたり、ドラムロールとかもするのですから、演奏前に筋肉に乳酸が溜まってしまったら、演奏に差し支えるのですから、当然です。

 あと、この曲では、牛さんの首につるす大きな鉄のベル(カウベル)を鈴なりにして、カラコロ鳴らしたり、お好み焼き屋で使うような大きな鉄板を舞台裏に仕込み、教会の鐘のように響かせたりします。

 この曲の演奏はそのへんの準備からいるので、とても世話が焼けます。

 それで、佐渡さんの解説が終わって、袖に引っ込み、オーケストラの団員が入場して、チューニングを終えたところで、満場の拍手と共に、佐渡さんが颯爽と再登場しました。

 一瞬の静寂の後、チェロとコントラバスが叩きつけるようにリズムを刻み不吉な軍隊行進曲が奏でられます。

 わっ、マーラーの音だ!

 この瞬間って、とってもいいものですね。

 そして、マーラーの世界が陸続と展開していきます。

 マーラーの音楽は、現代人の持つ自意識がのた打ち回るさまを表現したような複雑な構造を持ち、さまざまな音響が輻輳(ふくそう)して一筋縄にはいきません。

 これが多彩で、好きだという人と、散漫でとっつきにくいという人がいます。私はどちらかというと後者で、同じ長大な曲なら、ブルックナーの方が余程聴きやすいのです。

 2楽章は、1楽章の雰囲気を残した、重苦しく引き摺るようなスケルツォです。

 3楽章は子守唄のようなメロディーが美しい幻想的な曲調です。

 ヴィスコンティの名画『ヴェニスに死す』ではマーラーの第五交響曲のアダージョの美しい旋律が繰り返し用いられ有名ですが、この曲のアダージョも、同様にマーラーの持つ耽美性の白眉とも言える名旋律です。

 カウベルがカラコロ鳴って牧歌的な雰囲気をいやがうえにも盛り上げます。

 さすがマーラーだけあって、ただ単に『美しい』だけではない毒がありますけど、それがスパイスになって妖艶さをかもし出すんですね。

 4楽章(最終楽章)は、しっちゃかめっちゃかです。華麗に錯綜する音響が堪能できます。

 ベルリオーズのアヘン妄想音楽『幻想交響曲』の5楽章『ワルプルギスの夜』を髣髴とさせるような悪魔的な音楽です。

 さて、問題のハンマーです。

 マーラーの自筆稿では、作曲当初にはハンマーの導入は考えられておらず、後にハンマーを加筆したときは、第4楽章で5回打たれるようになっていました。

 第1稿を出版する際にこの回数が減らされて3回とし、さらに初演のための練習過程で、マーラーは3回目のハンマー打撃を削除し、最終的に2回となった(第2稿)ということです。
 3回目の打撃を削除したのは、これがマーラー自身の命を絶つ運命の音を暗示するのだという強迫観念からではないかというようなことも言われているのです。

 佐渡さんの師匠のバーンスタインは3回目の打撃を復活させ、佐渡さんもそれに倣っています。マーラーさんは既に鬼籍に入っているわけですから、関係ありませんものね。

 明らかに、佐渡さんは、エリック青年の木槌を打ち下ろすタイミングを合わせるように指揮しています。

 振り下ろして、叩きつけるまで、相当なタイムラグがあるからです。

 観客も音楽どころではなく、息を殺してエリック青年に注目しています。

 それにしても、燕尾服で正装した、ハンサムな西洋人の青年が、満座の前で、ステージの一番高い場所で、巨大鏡餅台に巨大木槌を叩きつけるというのは、とっても不思議な光景です。

 生まれてこのかた、芸術というのは、とりもなおさず『狂気である』という事をこれほどまでに痛切に実感したことはありません。

 最後に、曲は中途半端に盛り上がり、ピツィカートの響きをのこして、ぷっつりと終わります。

 どんちゃかどんちゃか騒がしい全4楽章=80分以上の大曲にしては、あっけない終わり方です。

 この曲を聴く度に、遠くに連れて行かれてそのまま置き去りにされたような気分になります。

 おそらくマーラーの意図したことなのでしょうが、例えば、ベートーヴェンの交響曲を聴き終えたときのカタルシスとは全く異なる倦怠に似た感情の澱のような後味が残るのです。

 それにしても、佐渡さん、オーケストラの皆さんは大変な好演、熱演でした。とにかくお疲れ様でした。

 終演後、エリック青年が客席からひときわ大きな拍手を受けたのは当然のことでした。

 ちなみに『定期演奏会ではアンコールはしないんだけど』と言いながら演奏された故武満徹作曲の『波の盆』(TVドラマのための音楽)はとても美しい名曲でした。

※  ※  ※

 ハンマー(巨大木槌)を打ち下ろそうとするパーカッショニストのピコリン。ハンカチ王子ならぬ『トンカチ王子』です。大熱演だねえ。エリック青年の似顔絵は難しいので、許してね☆




 因みに、彼の師匠のレナード・バーンスタイン=ウィーンフィル、於:ムジーク・フェラインザールの同曲DVDライヴ映像を確認したら、ハンマーは確かに3回鳴らされていましたが、打ち付ける木の台は、今回ほど立派ではなく、ステージの床の上にそのまま置いたミカン箱の親分みたいのに木の板を重ねただけのものでした。

 佐渡さんが誇らしげに自慢する理由が良く分かろうというものです。

(2007.01.13兵庫県芸術会館大ホール)

 佐渡 裕さんのホームページ
http://www.maido39.net/youyouyou/

マンガ『ひな鳥ひなちゃん』(つくねちゃんシリーズ13~14) 【ファイルMZ7】2007.02.20

【ファイルMZ7】2007.02.20 マンガ『ひな鳥ひなちゃん』(つくねちゃんシリーズ13~14)


こっちに来てよ!(つくねちゃんシリーズ13)






お菓子を食べるよ(つくねちゃんシリーズ14)






―――― 愛とは決して後悔しないこと ――――

    映画『ある愛の詩(うた)』(原作・脚本/エリック・シーガル)より


 結局、この後、スジャータちゃんが、つくねちゃんにお菓子をあげていました。

 やれやれ、本当に世話が焼けるねえ。

『手持ちブタさ』ってなあに? 【ファイルWo1】2007.02.17



【ファイルWo1】2007.02.17 『手持ちブタさ』ってなあに?

 上は、『手持ち豚さん』のピコリンの図
 することが無く、退屈で退屈で、豚さんを手に持って遊んでいます。

 何時ものお店で、ランチパスタを食べ終わって優雅にコーヒーを飲んでいたら、前のテーブルに掛けていた3人連れのおばちゃんたちの一人が『手持ちブタさだから!』って言いました。

 コーヒーが口の中に無くてよかったよお!

『手持ち無沙汰(てもちぶさた)』なら、

 手持ち(てもち)=すること
 無沙汰(ぶさた)=ほおっておくこと
 だから、何もすることが無く暇を持て余して退屈なことですねえ。

『手持ちブタさ』ってどういう意味かなあ?

『ご無沙汰しています』は『ごブタさしています』っていうのかなあ?

 でも、面白いから書いちゃいました。嬉しいなっ☆
 外に出ると、こういう発見があるから楽しいなっ☆

『きらきらアフロ』で、笑福亭鶴瓶師匠と、松嶋尚美師匠が、『写真の焼き増し(やきまし)』のことを『焼き回し(やきまわし)』って思い込んでいたんだって。

 番組で、鶴瓶師匠なんか『焼いて回すんやから、焼き回しやろ!』って逆切れしていました。

『市中引き回し』みたいだねえ。『市中焼き回し』って刑があったら、恐いねえ。

 あと、『チャンピオン』のことを二人とも『チャンピョン』と言うと思っていたんだって。そういえば、『長崎チャンピョン』っていうラーメンがありましたねえ。
 あれ?『長崎チャンポン』でしたっけ・・・。

 えっ、何ですか?西出さん。

『関西では、プラスチックのことをプラッチック、カリフォルニアのことを、カルホルニアって言うねんで。ごっついやろ!』

ヴァンデンダーのプラリネショコラ [アトモス部屋のバレンタインデー] 【ファイルS9】2007.02.14




【ファイルS9】2007.02.14 ヴァンデンダーのプラリネショコラ[アトモス部屋のバレンタインデー]

 写真 
 
 上段、右から左へ
1 パヴェ トゥ ドゥー=アーモンド、ヘーゼルナッツ入りのさくさくした食感
2 マヤ=カカオ分の多いチョコレートを使った香り高いガナッシュ
3 クール フランポワーズ=フランポワーズの香り豊かなガナッシュをホワイトチョコでコーティング
4 ヴィオレット=ヴァイオレット(すみれ)の香りのガナッシュをダークチョコでコーティング

 下段、右から左へ
5 ラヴァンド=ラヴェンダーの香りのガナッシュをダークチョコでコーティング
6 フィーユ=アーモンドカラメルとプラリネ入りのさくさくした食感
7 バレオール=ノアール 酸味のあるガナッシュをダークチョコでコーティング
8 ロゼ=ほのかにバラの香りのするガナッシュをミルクチョコでコーティング 

 今日はバレンタインデーです。

 スジャータちゃんやメリーさんから、男性陣にチョコレートがプレゼントされました。

 ベルギー「ヴァンデンダー」のプラリネショコラだよ。

 エルマン・ヴァンデンダーさんは、ベルギー王室御用達のパティシエです。2003年の皇太子ご成婚ではウエディングケーキを担当したことでも有名です。

 チョコ好きのシルベさんは本当にうれしそうです。
 よかったねえ。今日は自分でチョコを買いに行かなかったのかな?


「実はねえ。スジャータちゃんが、こっそり、『バレンタインにチョコをあげるから、自分で買いに行かなくっていいよお』って教えてくれたんですよ」

「あったりまえだよお!シルベさんはスジャータの先生だから、女の人に混じって、自分のためのチョコレートを買いに行かなくてすむようにしたんだよ。スジャータちゃんって本当に優しいねえ。えっへん!」

「でも、姉貴は普段から、シルベさんには本当に世話になっていて、迷惑もいっぱいかけているんだから、それぐらいしてもバチはあたらないよ」

「ノレン、あんた生意気よ。チョコレートお返しなさい!」

「やなこったい!」

「まあまあ、二人とも、私のせいで喧嘩しないで下さいよ。スジャータちゃん、メリーさん、本当に美味しいチョコ、ありがとうございます。やはりねえ、チョコは、食べる人を選ぶんですよ。私は真にチョコレートを愛するものなんです。だからチョコの気持ちが分かるんです。チョコさんも、一度チョコとして生を受けた以上、本当に自分のことを美味しいと思って食べてくれる人に食べてもらいたいって言っていますよ。それを、自分の気持ちを伝える手段として、別にチョコのことを好きでもない最低の男に食べられるなんて、こんな屈辱的なことは無い。チョコは、『気持ちを伝えるための機械』ではない。チョコの人格を否定するような真似は絶対に止めて欲しいって言っていますよ。私にはチョコレートさんの気持ちが痛いほど分かるのです」

「あれえ?シルベさんたら、演説を始めちゃったよお!それにしても、こんなに喜んでもらえるなんて、スジャータ、嬉しいよお。贈った甲斐があるよ。ノレンこそ、シルベさんのことを尊敬しているなら、少しはシルベさんの感謝の気持ちを見習いなさい!」

「やだよ。チョコに人格なんか認めたくないよ」

 私もチョコのご相伴に預かりました。スジャータちゃん、メリーさんありがとうございます。ごちそうさまでした。メーター博士は甘いものがダメなので、ブランデーをもらって、さっそく酔っ払っています。

 それにしても、シルベさんは本当によかったねえ。


チョコレートの歴史 【ファイルS8】2007.02.12


【ファイルS8】2007.02.12 チョコレートの歴史

 シルベさんのバレンタイン記念講演から

 チョコレートの原料のカカオは、マヤの遺跡調査などから紀元前から、中央アメリカ及びメキシコ南部で栽培されてたことが分かっているそうです。
 15世紀まで、カカオは現地で貨幣として流通したほど重要な役割をになっていました。江戸時代の日本のお米みたいですね。カカオは粉にしてトウモロコシの粉や唐辛子などを入れ、水や湯に溶かして飲まれていました。

 最初にチョコレート(カカオの実)を見たヨーロッパ人は、1502年最後の航海のときのコロンブスだそうです。ただ、彼が実際に飲んだという記録はありません。

 当時、現地の人たちはココアのことをカカワトルと呼んでいました。
 その後、彼らは同じものをショコラテと呼ぶようになり、これがチョコレートの語源とされていますが、何故カカワトルがショコラテになったのかという経緯は、定かではないようです。

 16世紀、アステカ帝国を滅亡させたコルテスがチョコレートをスペインに持ち帰り、チョコレートはヨーロッパではスペインのみで普及しました。スペイン王朝がチョコレートを門外不出にしたからです。

 しかし、フランスのルイ13世がスペインのアンヌ・ド・オートリッシュ王女(スペイン読みはアンナ)と結婚したとき、チョコレート(ショコラ)を好むアンナが嫁入りのときに持参したので、フランスにチョコレートがもたらされることになったのです。
 次のルイ14世も1661年、チョコレート好きのスペイン王女マリア・テレサと結婚しました。マリアはまた、チョコレート道具一式と、チョコレート専門のコック(後にいうショコラティエ)を連れて嫁入りしました。
 それで、当時のフランス上流階級にもチョコレートを飲むことが流行り、それがヨーロッパ中に広がったのです。

 因みに、現在。スイスのアシュバッハチョコレートには、アステカ皇帝の名に因んだクリオロロという名前のチョコレートがあります。

 苦い飲料だったチョコレートに砂糖を加える製法は、16世紀にメキシコに渡った宣教師によって考案されました。

 イギリスでは1657年に、チョコレートショップと呼ばれるチョコレートを飲ませる店が開店しました。

 ただ、当時飲まれていたチョコレートは、あまり美味しくなかったようです。

 この問題を解決したのが、オランダのヴァン・ホーテン(『ヴァン・ホーテンココア』の創業者)です。1828年、ヴァン・ホーテンはチョコレートを粉末にする特許を取得したのです。
 それまでのチョコレートは濃密で、水なしでは飲めないものだったのですが、これにより口当たりがよくなりずいぶんチョコレートの普及が進みました。

 この製法は、ただ単に飲むチョコレートを美味しくしただけではありません。これはチョコレート史上画期的な事件ででもあったのです。彼はカカオペーストをプレスすることによって、油脂分を絞り出すのに成功ました。搾りかすの油脂のカカオバター(豆腐のオカラにあたる部分かな?)で、固形チョコレートを製造できることが分かったからです。

 1847年、イギリスのフライ社が食べるチョコレートを発売。これが最初の固形チョコレートとされています。しかしこれはまだ苦くて、一般の人たちに親しまれる程には、技術がこなれていませんでした。

 1876年、スイスのロウソク職人ダニエル・ピーターがミルクチョコレートを発明しました。

 この後、ざらざらした食感をなめらかにする工夫がされ、現在の固形チョコレートの原型が作られていきました。

 日本のチョコレートに関する記述は、18世紀の長崎の遊女がオランダ人から貰った物を記した記録に「しよくらあと」として登場するのを嚆矢とします。

 日本のチョコレート製造は、1878年に「米津月堂」が製造したのが最初だそうです。
 ただしこれは、輸入した原料チョコレートを加工したもので、カカオ豆からの一貫生産は、1918年、森永製菓によって開始されるまで待たなければなりません。

 今、フランスのチョコレートが人気ですけれど、これはスペインとの政略結婚によってチョコレートがもたらされたという理由からだけではありません。

 フランスはコートジボワール(現コートジボワール共和国=Republic of Cote d'Ivoire。フランス語cote=英語でcoast《海岸》、d'Ivoire=ivory《象牙》。とどのつまりは『象牙海岸』)を1960年まで植民地支配していたのです。コートジボワールでフランスは、中南米産のカカオを移植して現地の人たちに栽培・収穫させたのです。

 現在もカカオ豆の生産高は、コートジボワールが世界第1位です。

 一方、ロシア貴族はフランス文明にどっぷり染まり、フランス語で会話をしたり、小説を書いていたわけですから、後に白系ロシア人のモロゾフ、ゴンチャロフがチョコレートを神戸で作ることができたのです。

 それから、チョコレートといえば、ベルギーチョコレートも有名ですね。ゴティバとかピエール・マルコリーニとか。

 これも、ベルギーが現在のコンゴ民主共和国を支配し、カカオを栽培したことが最大の要因です。
 この地は、もともと13~17世紀にかけてコンゴ王国が栄えたほか、南部にはクバ王国があったのですが、1885年にベルギーの国王、レオポルト2世に征服され、レオポルト2世の『私有地』の『コンゴ自由国』(Congo Free State)となり、1908年にはベルギー政府に所有権が移され植民地になったのです。

 1950年代後半からジョセフ・カサブブのコンゴ人同盟、パトリス・ルムンバのコンゴ国民運動が独立闘争を開始。1960年6月30日にコンゴ共和国(のちコンゴ民主共和国に改称)としてベルギーから独立しました。カサブブは大統領、ルムンバは首相に就任。

 1961年、ルムンバ首相殺害で『コンゴ動乱』が始まりました。その後も政情は安定せず、1960年 - 1967年 コンゴ共和国 1967年 - 1971年 コンゴ民主共和国 1971年 - 1997年 ザイール共和国 1997年~コンゴ民主共和国。と変遷を繰り返し、依然として内戦状態は続いています。
 国内のダイヤモンドやコバルトなどの豊富な鉱産資源に関する利権も絡み、民族対立とも相まって東部は一種の無法地帯となっており、それに追い討ちをかけるように2003年、北部地方にエボラ出血熱が流行。死亡者は100名以上に及びました。また、同国を生息地とするゴリラへも感染が飛び火し、全個体数の2/3が死亡したと発表されています。


 ところで、バレンタインデーにチョコレートを贈る悪しき風習は、19世紀のイギリスのチョコレート会社キャドバリー社によって始められました。ただし、これは別に女性から男性に贈るということに限定されてはいません。

 そして、神戸のチョコレート会社モロゾフこそが商売のため憎っくき『バレンタインデーには女性から好きな男性にチョコを贈りましょう』などという下らない習慣を日本に広めたのです。

 私は恥ずかしながらウルトラマン第6話『沿岸警備命令』で登場したゲスラのようにチョコレートが大好物です。本当に困ったものです。それでも、例えチョコレートを食べた報いでウルトラマンのスペシウム光線を浴びて悶絶死しても、それはそれで本望なのですから仕方ありません。

 モロゾフのお陰でバレンタインデー前後にチョコレートを買うのが恥ずかしくてたまらないではないか!なにが『ご贈答用のラッピングをいたしましょうか?』だ。自分で食うんだよ。自分で。文句あっか!

「シルベさんが壊れたよお!まあくん、取り押さえてよお!スジャータ困ったよお!これでシルベさんのバレンタイン記念講演『チョコレートの歴史』は終了いたします。ご静聴ありがとうございました。うえーん」

生き仏になるのも楽じゃない。補陀洛渡海 【ファイルH7】2007.02.10

【ファイルH7】2007.02.10 生き仏になるのも楽じゃない。補陀洛渡海


最後は、お寺の宣伝のための生贄。限られた食料で小船に閉じ込められて、海に流されるんだよ!


 和歌山県は、那智の滝の程近く、補陀洛山寺(ふだらくさんじ)という天台宗のお寺があります。

 補陀洛山寺は、仁徳天皇の治世にインドから熊野の海岸に漂着した裸形上人(らぎょうしょうにん)によって開山されたと伝えられていて、平安時代から江戸時代にかけて人々が観音浄土である補陀洛山へと小船で那智の浜から旅立った宗教儀礼「補陀洛渡海(ふだらくとかい)」で知られています。

 補陀洛(ふだらく)とは、古代サンスクリット語の観音浄土を意味する「ポータラカ」の音訳だそうです。

 チベットのダライ・ラマの宮殿をポタラ宮と呼ぶのも同じ語源によっています。

 また、日光二荒山(ふたらさん)の『ふたら』も『補陀洛(ふだらく)』から来てるんだって。

 さてこの、観音浄土。『華厳経』ではインドの南端に位置するとされています。

 中世日本では、はるか南洋上に「補陀洛」が存在すると信じられ、これを目指して船出することを「補陀洛渡海(ふだらくとかい)」と称していました。

 記録に明らかなだけでも日本の各地(那珂湊・足摺岬・室戸岬など)から40件を超える補陀洛渡海が行われており、なんとそのうち25件がこの補陀洛山寺から出発しているのです。

 補陀洛山寺からの渡海が多かったのは、熊野から常世国に渡った神々などの信仰と観音浄土の信仰が習合したからではないかと思われます。
 
 このお話は、本で読んで、『へえー』って思って、覚えていて、那智方面に旅行に行った時、立ち寄りました。その時のお寺の写真を紹介します。





 いわば、『船の棺桶』である渡海船は、こんな様子だったそうです。

※  ※  ※

 渡海船船上に造られた屋形には扉が無い。屋形に人が入ると、出入り口に板が嵌め込まれ外から釘が打たれ固定されるためである。その屋形の四方に4つの鳥居が建っている。これは「発心門」「修行門」「菩薩門」「涅槃門」の死出の四門を表わしているとされる。

 渡海は北風が吹き出す旧暦の11月に行われた。渡海船は伴船に沖に曳航(えいこう)され、綱切島近くで綱を切られた後、朽ちて沈むまで漂流する。もちろん、その沈むさまを見た人も、渡海者たちの行く末を記した記録も存在しない。

 渡海者たちについて詳しく記した資料は残っていないが、初期は信仰心から来る儀礼として補陀洛渡海を行っていたと考えられている。平安・鎌倉時代を通じて6名が渡海したと、補陀洛山寺に建つ石碑に記されている。

 これが戦国時代になると60年間で9名もの渡海者が現れたという。このころになると、熊野三山への参詣者が減少したことから、補陀洛渡海という捨身行によって人々の願いを聞き届けるという形で宣伝され、勧進のための手段としての側面が現れたとされる。

 16世紀後半、金光坊という僧が渡海に出たものの、途中で屋形から脱出して付近の島に上陸してしまい、たちまち捕らえられて海に投げ込まれるという事件が起こった。後にその島は「金光坊島(こんこぶじま)」とよばれるようになり、またこの事件は井上靖の小説『補陀洛渡海記』の題材にもなっている。江戸時代には住職などの遺体を渡海船に載せて水葬するという形に変化したようである。

 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

※  ※  ※
 
 普通に考えれば、おかしいと分かりますよ。西方浄土っていって、極楽は西の方にあるのだし、第一インドの南って日本の西南なのに、南に連れて行かれて、そこから海流は明らかに、東北方面に流れているわけですから!

 井上靖さんの小説に『おろしや国酔夢譚』という難破漂流して、ロシアに渡り、エカチェリーナ女帝と謁見して、ロシアの使節団に加えられた大黒屋光太夫のお話がありますが、この人は和歌山沖から、カムチャツカの方に漂流したのですから。

 潮の流れを熟知したこの地方の人が、そんなことあるわけないって一番知っていたはずです。

 本当にみんながそれを信じていたら、この地方の人は全員、先を争って、渡海船にのるはずでしょ?

 第一、死後に極楽浄土が保証されていたら、だれがこんな住みにくい現世にしがみ付くものですか!

 仏教の四大苦痛は『生老病死苦』といって、一番最初に、『生きることそのもの』が苦痛だっていいますからね。

 最後には『勧進のための手段としての側面が現れた』ってあります。

『勧進』って早い話が、寺の建立・増築・修復等のための寄付集めのことですから、まあ、寺の宣伝のための一種の生贄ですよね。
 
 それとも、寺社内の権力争いに敗れたお坊さんに対して行われる、実質的な死刑だったりして・・・・。

 それにしても、現世との綱を切られるから『綱切島』って恐いなあ!

 逃げ出した金光坊さんの気持ちが良く分かります。

 渡海が本人の信仰から発した本意でなければ、陰謀ですよ!


 最後に補陀洛渡海を歌った御詠歌を紹介しましょう。

○ ふだらくや岸打つ波はみ熊野の那智のみ山にひびく滝つ瀬    


 金光坊さん他、渡海者の心からのご冥福をお祈りします。どうか成仏してください。


 最後に、補陀洛渡海に挑戦したピコリン上人様の勇姿。






付 記

 小松和彦著『日本魔界案内』には、もともと『水葬』の習慣があって、そのヴァリュエーションとして、この寺の住職たちが亡くなったとき、補陀洛山への往生を願って、遺体を棺に納めて船に乗せて流していたが、熱烈な観音信仰者の中から、『過激な補陀洛渡海者』があらわれ、生きながらに、補陀洛山へ渡ることを願い、釘を打ち込んで外へ出られなくした空舟(うつぼぶね=補陀洛船)の中に籠り海へ出て行くという信者たちが現れたと書いてあります。

 順序が逆だよお!

 ご丁寧に

 那智の浜に立って、澄み渡った水平線を眺めてみるがいい。きっと『南無阿弥陀仏』と書かれた白い帆をかけた補陀洛渡海船が、いまにも水平線の向こうから姿を現わすのではないかという思いになるはずである。

 って書いてあるよお!

 天台宗の補陀洛山寺の渡海船がどうして『南無阿弥陀仏』なのさあ!

 観音浄土にどうして阿弥陀仏がでてくんのさあ!

 釘を打ち込まれて乗組員(お坊さん)が閉じ込められているのに、どうして白い帆がかけてあるのさあ!

 小松先生の勇み足だよお!
  

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