FC2ブログ

彰義隊(しょうぎたい)の墓 【ファイルT91】2009.06.12 

【ファイルT91】2009.06.12 彰義隊(しょうぎたい)の墓

上野戦争の戦跡だよ

 上野の西郷さんの銅像の後ろにひっそりとお墓があります。

 彰義隊のお墓です。





 由来を書いた説明の看板が立っています。





***************
彰義隊(しょうぎたい)の墓(はか)(台東区有形文化財)台東区上野公園一番

江戸幕府十五代将軍徳川慶喜(よしのぶ)は大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸へ戻った。東征軍(官軍)や公家の間では、徳川家の処分が議論されたが、慶喜の一橋家時代の側近たちは慶喜の助命を求め。慶応四年(1868)二月に同盟を結成、のちに彰義隊と称し、慶喜の水戸退隠後も徳川家霊廟の警護などを目的として上野山(東叡山寛永寺)にたてこもった。
 慶応四年五月十五日朝、大村益次郎指揮の東征軍は上野を総攻撃、彰義隊は同夕刻敗走した。いわゆる上野戦争である。彰義隊士の遺体は上野山内に放置されたが、南千住円通寺の住職仏磨らによって当地で荼毘に付された。
 正面の小墓石は、明治二年(1869)寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が密かに付近の地中に埋納したものだが、後に掘り出された。大墓石は、明治十四年(1881)十二月に元彰義隊小川興郷(椙太)らによって造立。彰義隊は明治政府にとって賊軍であるため、政府をはばかって彰義隊の文字はないが、旧幕臣山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」の字を大きく刻む。
平成二年に台東区有形文化財として区民文化財台帳に登録された。

平成八年三月
台東区教育委員会
***************


 それはいいんだけど、もうひとつ別の解説の看板が立っています。





 こっちは誰が立てたか、記名がありません。

***************
彰義隊(しょうぎたい)の墓(はか)

十五代将軍徳川慶喜(よしのぶ)の一橋藩主時代の側近家来であった小川興郷(おきさと)らは、慶応四年(1868年)、大政奉還をして上野寛永寺に蟄居(ちっきょ)した慶喜の助命嘆願のために同志をつのった。そこには徳川政権を支持する各藩士をはじめ、新政府への不満武士、変革期に世に出ようとする人々が集まり、「彰義隊」と名乗り、やがて上野の山を拠点として新政府軍と対峙した。旧暦五月十五日の上野戦争は、武力に勝る新政府軍が半日で彰義隊を壊滅させた。
 生き残った小川ら隊士は、明治七年(1874年)にようやく新政府の許可を得て、激戦地であり隊士の遺体の火葬場となった当地に彰義隊戦死の墓を建立した。なお、遺骨の一部は南千住円通寺内に合葬されている。以後、百二十年余りに渡り、小川一族によって墓所が守られてきた。現在、歴史的記念碑としてその管理は東京都に移されている。

彰義隊奮戦之図





小川興郷が画家に指示した描かせたもので、他に存在する錦絵と違って、史実に忠実な絵と伝えられている。

***************


 微妙に叙述が違っていて、あとの説明文の方には小川一族が墓所を守ったということが書いてあって、山川出版社の『東京都歴史散歩(上)』には、「墓碑に向かって右手の資料室は、生き残った彰義隊組頭の遺志を継いで、その子孫の方が隊士の菩提をとむらうために開いている(木曜日休館)」とありますが、気がつかなかったねえ。


 それにしても、ひとつの史跡に二つの説明看板というのも変なの!


 幕府の墓所がある寛永寺の守護を名目に上野山に徳川側の彰義隊が陣取り、大政奉還後、新政府とにらみ合い、上野戦争に至ったというのは分かるのですが、その経緯がよく分かりません。


 それで、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を参考にまとめると、

 4月11日に江戸城が無血開城し、徳川慶喜が水戸へ移ったのちも、彰義隊は、寛永寺貫主を兼ね同寺に在住する日光輪王寺門跡公現入道親王を擁して徳川家霊廟守護を名目に寛永寺を拠点として江戸に残り続けました。

 勝海舟は武力衝突を懸念して彰義隊の解散を促しますが、東征軍(官軍)と一戦交えようと各地から脱藩兵が参加し最盛期には3~4千人規模に膨れ上がります。

 一橋家に仕えていた幕臣の渋沢成一郎は慶喜が江戸を退去したため、彰義隊も江戸を退去し日光へ退く事を提案しましたが、副頭取の天野八郎は江戸での駐屯を主張したため隊の意見は分裂します。

 天野八郎派の隊士の一部が渋沢の暗殺を図ったため渋沢は彰義隊を離脱(渋沢が一時期軟禁されたとの説がある)、一時姿を隠していましたが、同志とともに飯能(現埼玉県飯能市)の能仁寺で「振武軍」を結成し独自に活動を展開します。


 勝海舟は彰義隊の暴走に危機感を持っていたわけですね。江戸城の無血開城をした勝海舟にしてみれば、ここで新政府と戦端を開くと、なんのために西郷隆盛と話し合ったか分からなくなりますからね。それから、彰義隊は、水戸への退去か、駐屯か分裂していたうえに、いろんな思惑の人が集まって、統制がとりにくい情勢にあったわけです。規律も乱れていたようです。

 そこまでは分かります。それで次の叙述です。

――――――西郷隆盛が組織した御用盗は、江戸各地で放火や強盗を起こし、それを彰義隊の仕業としていた。江戸城も放火の被害に遭っていた。そのような理由から彰義隊士と新政府軍兵は小競り合いを起こした。――――――

 なんと、いきなり西郷さんが出て来るんだよ。この『西郷隆盛が組織した御用盗』というのがよく分からないのです。講談本の世界です。どうも、西郷さんが『征韓論』を唱えたという出鱈目と同じ出所の話だと思うのですが。

 第一、西郷隆盛さんは勝海舟と江戸城の無血開城を決めたのです。どうして、戦争が起きるように挑発行動をとらなきゃなんないの?そんなことする策略家が自分には何の得にもならない西南戦争の神輿に乗らなきゃなんないの?

 おかしいねえ。朝敵の彰義隊と新政府の上野戦争の原因を作ったのはやはり朝敵の西郷どんだっていうことになるでしょ。話ができすぎだよ。

 大政奉還で権力は新政府に移ったんだから、いちいち彰義隊が悪をはたらいたという罪をでっちあげなくても、規模が拡大して規律が無くなった彰義隊にじゃまだから解散して江戸から出てけって命じれば済む話でしょ?事実結局は、そういうことで戦争になったわけだし、幕府だって気に入らなけりゃ改易だ所払いだってやってたわけだから。

 それで『御用盗』で検索したら

「鞍馬天狗 御用盗異変(1956)」原作:大佛次郎、【出演】嵐寛寿郎/扇千景/松島トモ子/平田昭彦

 という有名なチャンバラ映画が出てくるのです。史実に基づいた記事が見当たりません。

 う~む。なんかフィクション臭いねえ。

 これは明治政府が、悪いのは全部朝敵のせいだって、罪をなすりつけたような気がしてならないんだよ。だから彰義隊の墓の看板にはこのへんのことは、微妙な問題なので書いていないのかな?


 新政府側は、1868年5月1日に彰義隊の江戸市中取締の任を解くことを通告、新政府自身が彰義隊の武装解除に当たる旨を布告します。

 これにより彰義隊との衝突事件が上野近辺で頻発。軍務局判事(兼江戸府判事)として江戸に着任していた大村益次郎の指揮で武力討伐が決定、同14日に彰義隊討伐の布告が出されるのです。

 それにしても、西郷さんの『御用盗』なるゲリラ組織が彰義隊と小競り合いをしていたなら、彰義隊の討伐は西郷さんが指揮した正規軍があたるべきだと思うんですけどね。官軍の大将の西郷さんがゲリラを組織してどうするの?

 新政府は彰義隊の存在が江戸の治安にとって脅威だから、解散・武装解除を命令したら、それに従わずに武力衝突が起きたので討伐を決定したというだけで十分でしょ?どこに『御用盗』が出てくる必要があるの?

 悪いのは朝敵の彰義隊と朝敵の西郷さん。討伐した手柄は大村益次郎さんなんて、おかしな話です。

 長州藩出身の大村益次郎さんは、維新戦争後に西からの反乱(西南戦争)を予言していたそうです。薩摩藩出身の西郷隆盛さんを全く評価していなかった一人で、西郷さんと反目していたんだねえ。

 このへんのところをいろいろ推理するのが歴史の面白さなんでしょうね。


 彰義隊の墓のアップ。小墓石の後ろに大墓石があります。





 大墓石のアップ。





 彰義隊は明治政府にとって賊軍であるため、政府をはばかって彰義隊の文字はなく「戦死之墓」とのみ、旧幕臣山岡鉄舟の筆により刻まれています。
彰義隊の名前は「大義を彰(あきら)かにする」という意味なので、新政府には大義がないってことになって不味いからです。

 それにしても、「戦士」じゃなくて「戦死之墓」だなんてひどいねえ。

 小墓石のアップ。





 明治二年(1869)寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が密かに付近の地中に埋納し、後に掘り出されたものです。「彰義隊戦死之墓」と刻まれています。だから埋められていたんだねえ。

 正面から見た彰義隊の墓





 それにしても、こんなところで戦争があったんだねえ。

 記録上の戦死者は彰義隊105名、新政府軍56名といわれているそうです。どちらも日本のために戦ったのですね。

 江戸の鬼門で上野戦争があって、その戦跡のお墓の前に西郷どんの銅像が建っています。

 いくら近代的な装いを凝らしてみても、本質的に東京は怨霊を封印し、守護神に祀り上げることで成り立っている魔都です。その怨霊の代表が平将門です。

 それでこそ日本の都なので、そういう幻想領域の装置に配慮しないで安易に遷都を考えるととんでもないことになります。

 激動の時代の大きな一こまでした。

葛西臨海水族館のアカシュモクザメさんは見ごたえ十分 【ファイルC125】2009.06.10 

【ファイルC125】2009.06.10 葛西臨海水族館のアカシュモクザメさんは見ごたえ十分

人気者だよ。

 以前大阪海遊館のアカシュモクザメさんを紹介したことがあります。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/44452378.html

 海遊館には一人しかいなかったし、水槽が大きすぎるので、なかなか近寄ってこなくて大変でした。

 でも葛西臨海水族館の水槽はちょうど良い大きさで、沢山泳いでいます。

 葛西臨海水族館といえば、人気なのはマグロの水槽で、そちらも紹介したことがあります。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/44964557.html

 でも、アカシュモクザメさんも負けてはいません。

 さっそくごあいさつにきました。

 




 上から見ると一番特徴が分かります。

 




 ハンマーヘッド・シャークという英名のとおり、金槌形の頭の両端に目がついていて、一度見たら忘れられません。


 この角度から見ると可愛いねえ。

 




 ツマグロさんと仲良く泳いでいます。

 




 背びれの端っこが黒いサメさんだから、ツマ・グロさんです。


 一人だけちゃっかり、写りに来ました。

 




 そしたらば、他の子も来て、大変です。

 




 人を襲ったという記録は無いこともないのですが、臆病なサメなので、こちらから危害を加えなければ、逃げていくそうです。

 口を大きく開けています。

 




 いかにも大きな頭が邪魔そうです。万が一のことがあっても、頭を蹴ったらなんとかなりそうな気がします。


 近くに寄ってくるので、超広角レンズを使います。

 




 ゆったりと泳げて、楽しそうだねえ。

 




 この角度で写すとかっこいいねえ。

 




 底の餌を探索しています。

 




 急浮上します。

 




 照明の下に来ると、体が光ります。

 




 元気でね。

 




 アカシュモクザメさんは人気者なので、ぬいぐるみも売ってるよ。

 




 もちろんマグロさんもあります。

 




 可愛いねえ。

上野といえば西郷隆盛さんの銅像 【ファイルT90】2009.06.08 

【ファイルT90】2009.06.08 上野といえば西郷隆盛さんの銅像

東京の守り神だよ。

 西郷 隆盛(さいごう たかもり)さん【本名: 隆永(たかなが)、文政10年12月7日(1828年1月23日)- 明治10年(1877年)9月24日)】は、上野の銅像で有名です。





 号は南洲(なんしゅう)さん。

 草履を履いて,単衣の着物に兵児帯を締めてワンちゃん(薩摩犬の雌犬「ツン」)を連れています。





 クイズ番組で上野の西郷さんは何を履いているのでしょうって問題が出されたりします。

 西郷どんは高名な彫刻家、高村光雲さんの作で愛犬ツンちゃんは後藤貞作さんの作だそうです。

 ツンちゃんは首輪じゃなくて、荒縄をそのまま首に巻いていますね。





 西郷どんの死後21年を経た明治31(1898)年にこの銅像は建立されました。除幕式は同年12月18日に行われています。

 西郷どんが1868 (慶応4) 年に江戸城を無血開城させ、江戸を戦火から救った功績を顕彰したものです。

 身長:370.1cm、胸囲:256.7cm、足:55.1cmだそうです。

 西郷どんには本人のものだという信頼性のある写真が一枚も残っていないので、高村光雲さんは肖像画や弟の西郷従道の風貌を参考にしたそうです。

 愛犬ツンちゃんは、銅像作成時には亡くなっていたため、海軍中将・仁礼景範の雄犬をモデルにして製作。本当は雌犬なのに雄犬として作成されたそうです。

 西郷どんのアップ。





 頭が大きいねえ。でも、これは奈良の大仏さんと同じで、下から見上げたときに遠近感で頭が小さく見えるのを防ぐための工夫です。

 
 除幕式に招かれた西郷夫人の糸子さんは「宿んしはこげんなお人じゃなかったこてえ(うちの主人はこんなお人じゃなかったですよ)」と腰を抜かし、また「浴衣姿で散歩なんてしなかった」と言ってしまい周囲の人に窘(たしな)められたというエピソードが残っています。

 まあ、銅像とかレリーフは、本人や身内は似てないと思うものですよ。

 以前も、東京駅の、第4代国鉄総裁十河信二(そごう しんじ)さんのレリーフを見た存命中のご本人が似てないって言ったという記事を載せましたよね。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/48098239.html

 弟さんをモデルにして、まだ西郷さんを知っている人がいるなかで作ったわけですから、そっくりではなくても、雰囲気は伝えているはずです。

 スケートの織田信成さんは、織田信長さんの肖像画にそっくりですものね。

 テレビで西郷さんの子孫を尋ねる番組をやっていましたが、やはりその方もこの銅像に雰囲気が似ていました。

 それから、実はこの銅像は糸子さんが不平をもらしたような散歩をしている姿ではなくて、愛犬をつれ、腰に藁の兎罠をはさんで兎狩りに出かける姿だそうです。

 この姿は大山巌(おおやまいわお:西郷隆盛、西郷從道の従兄で日露戦争で満州軍総司令官として奉天ほうてん大会戦に勝利した大山巌元帥)がガリバルディのシャツだけの銅像から思いつき、西郷の真面目は一切の名利を捨てて山に入って兎狩りをした飾りの無い本来の姿にこそあるとして発案したそうです。

 地元鹿児島市の銅像は軍服を着ています。

 まだ一度は朝敵になった西郷さんへの反感を持つ政治家が多かった当事は、明治政府の官位による正装をさせるわけにはいかなかった事情が背景にあったから着流しを着ているという説もあるそうです。

 でも、日本人の持つ西郷どんに対する親愛の情からして、私は上野の西郷どんは、とても好ましいと思いますよ。


 西郷どんは坂本竜馬の仲立ちで、対立していた長州藩の木戸孝允と薩長同盟を結び、倒幕運動の中心人物になりました。

 薩長の新政府軍は、武力によって旧幕府軍を破ろうとしていたのですが、江戸城攻めの際、西郷どんが新政府の代表として幕府側の勝海舟と話し合い、江戸城での武力衝突を避け無血開城させたのです。

『江戸を戦火から救った功績』とありますが、新政府軍と旧幕府軍が総力戦で戦い、日本が疲弊していれば、漁夫の利を狙っていた列強がここぞとばかり日本を乗っ取って植民地支配を敷き、いまだに世界は西洋列強の植民地支配が続いているの違いないのです。

 西郷どんは日本の恩人です。本当に偉いねえ。

 明治新政府の指導者の一人となってからは、廃藩置県などの改革を進めましたが、『いわゆる征韓論』で、大久保利通らと意見が対立して政府を去ったとされています。

 しかしながら、実情はこうです。


 朝鮮は江戸幕府がアメリカやロシアといった欧米列強諸国の圧力に負け、通商条約を結んだことにより、日本との国交を断絶していました。

 江戸幕府が倒れ、明治新政府が樹立されると、新政府は対馬の宗氏を通じて、朝鮮に国交回復を求めました。
 しかし、当時の朝鮮政府は、明治政府の国書の中にあった『皇上』や『奉勅』という言葉に難癖をつけ、明治政府から送られてきた国書の受け取りを拒否したのです。

 清の属国として冊封下にあり事大主義に陥っていた朝鮮政府は『皇上』や『奉勅』といった言葉は、朝鮮の宗主国である清国の皇帝だけが使う言葉であると考え、日本のことを見下していたからです。

 いまだにこの国の人たちは、日本人のことをチョッパリ、倭奴(ウェノム)と差別し、日本の天皇陛下のことは『天皇陛下』と呼ばず非礼にも『日王』と格下げして呼びます。

 明治政府はその後も朝鮮に国書を送り続けましたが、拒絶されました。
 
 明治6(1873)年、釜山の日本公館駐在の係官から、朝鮮側から侮蔑的な行為を受けたとの報告が入りました。外務省は、西郷中心の太政官の閣議に、朝鮮への対応策を協議するよう要請しました。

 こうして明治6(1873)年6月12日、初めて朝鮮問題が正式に閣議に諮られることとなったのです。

 参議である板垣退助は閣議において居留民保護を理由に派兵を主張し、西郷隆盛は派兵に反対し、『自分自身が開国を勧める遣韓大使として朝鮮に赴く』と主張し、後藤象二郎、江藤新平らもこれに賛成しました。

 いったんは、明治6年(1873年)8月に明治政府は西郷隆盛を使節として派遣することを決定したのですが、同年9月に帰国した岩倉使節団の大久保利通、岩倉具視・木戸孝允らは時期尚早としてこれに反対、同年10月に遣韓中止が決定され、収拾に窮した太政大臣三条は病に倒れました。

 その結果、西郷や板垣らは一斉に下野(明治六年政変)し、明治7(1874)年の佐賀の乱から明治10(1877)年の西南戦争に至る不平士族の乱や自由民権運動の起点となったのです。


 教科書などには『征韓論を主張して敗れ、西郷・板垣とともに下野する』などと出鱈目が書かれたりします。ひどい話です!


 故郷の鹿児島に戻った西郷どんは、士族の教育・軍事訓練・開拓を進める機関として、学校を設立します。

 しかし、明治10(1877)年1月、大久保利通は政府に抗し続ける鹿児島を屈服させるため、先ず、鹿児島草牟田の火薬局と磯の造船所にあった弾薬や武器を大阪に移そうと図りました。

 同時に、私学校の生徒達を思想的に攪乱し、仲間同士を離間させることを画策する一団を東京から送り込みました。

 大久保利通が当時の警視庁大警視・川路利良(としなが・薩摩藩郷士出身)に送らせた一団は全員が鹿児島の「郷士」出身者で、私学校に属する「城下士」に対して強い対抗意識を持っていました。
 
 大久保のこうした処置に憤った私学校の生徒達は火薬庫を襲撃して移送中の武器・弾薬を奪い、政府から送られてきた一団を捕らえて西郷暗殺計画を自白させました(後に、暗殺計画はなかったという裁定が下ります)。

 騒擾事件の連続に、ついに西郷どんも私学校のいきり立つ生徒達を抑えきることが出来ず、青年達に担がれて立ち上がり、明治10年2月15日、西南戦争へと突入しました。

 西郷どんは熊本鎮台のある熊本城を攻めました。国民皆兵制度によって誕生した素人の農民・町民兵士が守る熊本城を、旧薩摩藩の士族で組織された軍隊が攻めるのですから、早々に城は落ちると思われました。

 しかし、熊本城は持ちこたえて2ヶ月後に政府軍が入城、兵力・武器・弾薬の補給にまさった政府軍が優勢になり形勢は逆転します。

 熊本城、田原坂、山鹿での激戦の後、西郷軍は退却を余儀なくされ、政府軍に追われて政府軍の攻撃に敗走します。

 結局西郷どんは、9月に鹿児島に戻り城山の岩崎谷に本陣を構え、最後の5日間を西郷洞窟で過し、9月24日、ついに自刃しました。

 享年49才でした。

 西郷どんは、明治天皇発意により、地元の鹿児島の南洲神社で手厚く祀られています。

 また、西郷どんは西南戦争で亡くなったため、国のために亡くなった人を慰霊する靖国神社本殿では祀られていません。ですが戦後、靖国神社の境内にある鎮霊社(本殿でまつられていないすべての日本人戦没者と世界中の戦没者や白虎隊が祀られている)で慰霊されています。

 そして何よりも、この銅像が日本を守護するため、上野に建てられています。


 西郷どんの座右の銘は『敬天愛人』です。

『敬天』は天をおそれ敬うこと。『愛人』は人をいつくしみ愛すること。

 そのとおり、西郷どんは器の大きい誠心誠意の人だったんだねえ。

 うへえ、頭の上にハトさんが乗っかったよお!



追悼 神戸市立王子動物園の白いシンリンオオカミのクィーンさん 【ファイルC124】2009.06.06 

【ファイルC124】2009.06.06 追悼 神戸市立王子動物園の白いシンリンオオカミのクィーンさん

お疲れ様でした。

 神戸市立王子動物園HPで赤ちゃんゾウの王子くんのことを調べたとき、こんな記事が載っていました。

「1頭だけ飼育していましたシンリンオオカミの「クィーン」(メス)が死亡しましたので、オオカミの飼育展示は無くなりました。」

 私はしばし呆然としてしまいました。

 ということで、今回は順番を飛ばしてクィーンさんの記事です。というよりも、本当は先に載っけるはずだったのに、旭山と円山のオオカミさんを紹介したので、後回しになってたんだよ。ごめんね。


 会いに行ったときクィーンさんはお昼寝していました。

 




 寝顔のアップです。
 
 




 そのうちむっくり起きて、伸びをしました。

 




 こっちにごあいさつ。

 




 クィーンさんは、白くってきれいだけど、お年を召しているかな?


 くるくると歩いています。

 




 大きなお口だね。

 




 おすまししてポーズ。

 




 アップで写します。

 




 このときは少し寒かったので、お日様のあたる場所に陣取ります。

 




 また眠くなったのかな?

 




 オオカミさんはどこの動物園でも人気です。ワンちゃんの祖先で、少し怖くって威厳があるからねえ。

 家族連れの親御さんは、必ず『ほら、オオカミだよ』って小さいお子さんに言いますからね。怖がる子もいたりしてね。

 クィーンさん、このときは元気そうだったのにね。

 本当にご苦労様でした。

 天国でゆっくり楽しく暮らしてくださいね。

池袋サンシャイン60は巨大な墓石。 【ファイルH20】2009.06.04 

【ファイルH20】2009.06.04 池袋サンシャイン60は巨大な墓石。

日本には法的に「戦争犯罪人」は存在しません。

 池袋サンシャイン60の裏の東池袋中央公園に「永遠平和を願って」という意味が分からない石碑が建っています。





 この日は雨が降っていて、すでに日も暮れかかっていました。碑には心ある人によって花が手向けられています。

 裏には人目を憚るように「第二次世界大戦後、東京市谷において極東国際軍事裁判所が課した刑及び他の連合国戦争犯罪法廷が課した一部の刑がこの地で執行された。戦争による悲劇を再びくりかえさないため、この地を前述の遺跡とし、この碑を建立する」と書かれています。





 実はこの一帯は、現在の東京拘置所の前身で旧巣鴨拘置所=通称『巣鴨プリズン』、『スガモプリズン』(Sugamo Prison)だった場所です。

 
 1948年12月23日 極東国際軍事裁判(東京裁判)にて死刑を言い渡された『いわゆるA級戦犯』7名の絞首刑が執行されました。

 東條英機、松井石根、広田弘毅、土肥原賢二、木村兵太郎、板垣征四郎、武藤章。

『いわゆるA級戦犯』とはロンドン協定により開設された極東国際軍事裁判所条例という『事後法』の第五条(イ)項の定義により決定された出鱈目な条例に基づいて極東国際軍事裁判によって有罪判決を受け、戦争犯罪人とされた人々を指します。


極東国際軍事裁判所条例第5条 人並ニ犯罪ニ関スル管轄 本裁判所ハ、平和ニ対スル罪ヲ包含セル犯罪ニ付個人トシテ又ハ団体員トシテ訴追セラレタル極東戦争犯罪人ヲ審理シ処罰スルノ権限ヲ有ス。
(イ)平和ニ対スル罪
即チ、宣戦ヲ布告セル又ハ布告セザル侵略戦争、若ハ国際法、条約、協定又ハ誓約ニ違反セル戦争ノ計画、準備、開始、又ハ遂行、若ハ右諸行為ノ何レカヲ達成スル為メノ共通ノ計画又ハ共同謀議ヘノ参加。
(ロ)通例ノ戦争犯罪
即チ、戦争ノ法規又ハ慣例ノ違反。
(ハ)人道ニ対スル罪
即チ、戦前又ハ戦時中為サレタル殺人、殲滅、奴隷的虐使、追放、其ノ他ノ非人道的行為、若ハ犯行地ノ国内法違反タルト否トヲ問ハズ、本裁判所ノ管轄ニ属スル犯罪ノ遂行トシテ又ハ之ニ関連シテ為サレタル政治的又ハ人種的理由ニ基ク迫害行為。
上記犯罪ノ何レカヲ犯サントスル共通ノ計画又ハ共同謀議ノ立案又ハ実行ニ参加セル指導者、組織者、教唆者及ビ共犯者ハ、斯カル計画ノ遂行上為サレタル一切ノ行為ニ付、其ノ何人ニ依リテ為サレタルトヲ問ハズ、責任ヲ有ス。


 つまり、国際法に基づかず、戦勝国が敗者をリンチ虐殺するために勝手に押し付けた罪状なのです。大体、勝手な協定ででっち上げた裁判所のために急遽決めた条例って何?

 それで、上記の(イ)項の罪だとみなされた人たちを『A級戦犯』、(ロ)項の罪だとみなされた人たちを『B級戦犯』、(ハ)項の罪だとみなされた人たちを『C級戦犯』、というように愚劣な自称人権主義者の反日左翼とその提灯持ちの屑マスコミが恣意的に人を中傷ました。

 こんな人権侵害をしておいて何が「人権」だ!?

 A級B級C級なんて言うとA級はとんでもない最高の極悪非道人みたいな感じがします。

 車のA級ライセンスって最上位のライセンスですからね。

 これ自体、悪意に満ちた呼称なのです。
 
 本来的にあえて呼ぶなら『国際法違反のでたらめな、いわゆる極東国際軍事裁判所条例第5条(イ)項戦犯、(ロ)項戦犯、(ハ)項戦犯』というべきでしょう。

 第一、『共通ノ計画又ハ共同謀議』と言っても、日本は禁輸措置で追い詰められて窮鼠猫を噛むといった状態で開戦を強いられたものの、海軍と陸軍は仲が悪く両者の喧嘩の合間にアメリカと戦争したというのが実情ですから、出鱈目もいいところです。

 戦争犯罪というなら、どうして広島長崎に原爆を投下した責任者が裁かれないのかという真っ当な疑義を呈したのは日本側の弁護をしたアメリカ人弁護士です(後になんと!『裁判長』によって解任)。


 戦争の勝者が敗者を裁くという無法で厚顔無恥な無茶苦茶をしでかしたアメリカは、将来これが日本人の対米感情に拭い難い禍根を残すであろうことを危惧しました。

 それで一計を案じ、皇太子明仁親王殿下(現在の今上天皇陛下)の誕生日である1948年12月23日を敢えて処刑の執行日に選んだのです。カレンダーを見てください。12月23日は天皇誕生日になっているでしょう?

 勝者による敗者の責任者に対する一方的なリンチ処刑日は、本来、日本人にとって、『国恥記念日』として連合国に対する怒りと犯罪者として処刑された人たちを含む戦没者の慰霊に充てるべき日なのです。

 そこで、「まさか将来の天皇誕生日に反米集会も開けまい」と考えた知恵者がアメリカにいたのです。

 アメリカ側でさえ、日本人の正当な報復感情を恐れたというのに、おめでたくて、卑劣な日本人は既に名誉回復がなされた人々を戦争犯罪人扱いして恥じようとしません。

 処刑された7人の遺体は、横浜の久保山火葬場で火葬され、非道なことに、遺骨は米軍により東京湾に捨てられ遺族のもとには帰っていません。 

 まるでゴミ扱いです。こんな鬼畜の行為を同じ日本人として許せるのでしょうか?


 サンフランシスコ平和条約発効時に、日本では戦勝国による東京裁判戦犯の全員釈放を期待する思いがあり釈放運動が活発化ました。

 その時点でシベリアに抑留されていた者等を除いても、日本の国内外には1,244名を越える多数の戦犯が服役したままでした。

 国の為に良かれと行動したいわゆるA級戦犯、BC級戦犯は被害者でもあるとする国民意識から、1952年(昭和27年)6月、日本弁護士連合会が「戦犯の赦免勧告に関する意見書」を政府に提出したほか、戦争受刑者釈放を求めた署名運動もはじまり、国民運動として大きな広がりをみせ4千万人という署名を得たのです。

 国会でも、戦犯の釈放や赦免を求める決議案は何れも国会において改進党(現自民党)や社会党を含んだ圧倒的多数で可決されました。これに反対したのは共産党や労農党のみです。

1952年(昭和27年)6月9日参議院本会議にて「戦犯在所者の釈放等に関する決議」
1952年(昭和27年)12月9日衆議院本会議にて「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」
1953年(昭和28年)8月3日衆議院本会議にて「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」
1955年(昭和30年)7月19日衆議院本会議にて「戦争受刑者の即時釈放要請に関する決議」

 しかしながら戦後10年を過ぎた1955年(昭和30年)時点でも、国内外には1,000人を超える戦犯が拘留あるいは抑留されたままでした。

 結局1958年(昭和33年)5月30日最後の服役者18名が仮釈放され、同年12月にはそれまで仮釈放だった48名が正式釈放となり、いわゆる戦犯釈放問題は決着となったのです。

 戦後処理に大きな影響を与えたのは、朝鮮戦争(1950年6月25日 - 1953年7月27日停戦)です。

 アメリカが政治的、防衛的に北朝鮮を支援した共産主義国に対抗するため、日本の戦犯追及が沙汰闇になり、日本を独立させるためのサンフランシスコ平和条約締結が急がれ、1951年9月8日に日米安保条約と共に締結されました。さらに警察予備隊(のちの自衛隊)が創設されたことで事実上軍隊が復活したのです。

 つまり、極東軍事裁判は、国際法と全く無関係なアメリカの対日戦略でどうにでも転ぶご都合主義のリンチ裁判だったのです。

 さらにとんでもないことが起きました。

 昭和26(1951)年5月3日。朝鮮戦争に於ける戦争方針でトルーマン大統領と対立し、GHQ最高司令官を解任されたマッカーサーが、米国上院軍事外交共同委員会の場で、朝鮮戦争に於いて彼が主張した支那海上封鎖戦略についての答弁の際、大東亜戦争は日本の自衛戦争だったと認める発言をしたのです。

問:では五番目の質問です。赤化支那(中共:共産中国)に対し海と空とから封鎖してしまへといふ貴官(マッカーサーの事)の提案は、アメリカが太平洋において日本に対する勝利を収めた際のそれと同じ戦略なのではありませんか。

 答:その通りです。太平洋において我々は彼らを迂回しました。我々は包囲したのです。日本は八千万に近い膨大な人口を抱へ、それが四つの島にひしめいてゐるのだといふことを理解していただかなくてはなりません。その半分近くが農業人口で、あとの半分が工業生産に従事してゐました。
 潜在的に、日本の擁する労働力は量的にも質的にも、私がこれまで接したいづれにも劣らぬ優秀なものです。歴史上のどの時点においてか、日本の労働者は、人間は怠けてゐる時よりも、働き、生産してゐる時の方がより幸福なのだといふこと、つまり労働の尊厳と呼んでもよいやうなものを発見してゐたのです。
 これほど巨大な労働力を持ってゐるといふことは、彼らには何か働くための材料が必要だといふことを意味します。彼らは工場を建設し、労働力を有してゐました。しかし彼らは手を加へるべき原料を得ることができませんでした。
 日本は絹産業以外には、固有の産物はほとんど何も無いのです。彼らは綿が無い、羊毛が無い、石油の産出が無い、錫が無い、ゴムが無い。その他実に多くの原料が欠如してゐる。そしてそれら一切のものがアジアの海域には存在してゐたのです。
 もしこれらの原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであらうことを彼ら(日本政府・軍部)は恐れてゐました。したがつて彼らが戦争に飛び込んでいつた動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだつたのです』

 極東国際軍事裁判(東京裁判)という茶番をでっちあげた張本人が、その存在意義自体を全否定したのです。

国際法学者で極東国際軍事裁判を正当とする学者は一部の頭のおかしな人を除いて、ほとんどいません。

1978年、靖国神社が死刑及び獄中死の14名を「昭和時代の殉難者」として合祀しました。死亡の理由は「処刑による死」ではなく「法務死」となっています。


それにしても、歴代首相はちゃんとこの碑にお参りしているのでしょうか?

 靖国でさえ公式か私的かってぐずぐず参拝しない連中だから、していないでしょうね。
1971年に旧巣鴨拘置所の建物が解体され、1978年4月6日 に拘置所跡地にサンシャインシティが開業します。

 サンシャイン60は竣工当時、日本一の高層ビルでした。

 命がけで日本のために戦い、命を失ったにもかかわらず、『侵略者』と同胞から卑しめられ愚弄された人たちの怨念を象徴するかのように、サンシャイン60は天に向かって屹立しています。





 神が卑劣漢に天誅を下すための巨大な目印のように。



神戸市立王子動物園と上野動物園のアフリカタテガミヤマアラシさんは可愛いねえ。 【ファイルC123】2009.06.02 

【ファイルC123】2009.06.02 神戸市立王子動物園と上野動物園のアフリカタテガミヤマアラシさんは可愛いねえ。

身を寄せ合って暮らしています。

 まず神戸市立王子動物園で、アフリカタテガミヤマアラシさんちにいったらば、ご夫婦でお昼寝していました。




 
 たぶん、左側が奥さんで、右側がご主人です。

 左の奥さんがむっくり起きて、こっちを警戒しています。




 
 私がこのようすを観察していたら、そこに男女の二人連れが来ました。

 そして、名前の表示を見たお兄さんが「あっヤマア『ザ』ラシ」だ!」って大声で叫びました。

 お姉さんが「えっ変な名前」
 って真顔で答えました。

 そうしたらば、お兄さんは「そういえば、ヤマアザラシっていう割には、アザラシに全然似てないなあ」

 と真面目くさって命名法について不満げに論評をば加えました。

 私は、別の方を向いて下を向いて、ぷるぷる震えながら、笑いを必死でこらえました。

 苦しかったよお!死ぬかと思ったよお!

 二人ともヤマアラシさんを知らないんだねえ。

 里田まいさんもびっくりだねえ。

 きっとお兄さん、お姉さんは家族や友人に、今見た「ヤマア『ザ』ラシ」なる珍妙な名前の動物について自慢げに報告するにちがいありません。

「ねえねえ、ヤマアザラシって知ってる?・・・」

 いつ間違いに気がつくのでしょう。その瞬間のことを想像すると、また、笑いがぶり返してきました。

 ヤマアラシさんがアザラシさんに似ていたらびっくりするねえ。


 二人の会話をきいて、ご主人が慌てて起きました。




 
 「ぼくたちはアザラシさんとは縁もゆかりもないよお!」


 奥さんも全身を見せて抗議します。




 
 その後二人はずっと奥のほうで、ぴったりと仲良く身を寄せ合って固まっていました。


 これだけではつまらないので、上野動物園のヤマアラシさんも紹介します。

お庭でヤマアラシさんは長い毛と針をゆさゆさと揺らしながらトコトコ歩いました。




 
 足が短くてとても可愛いよ。

 餌をくわえています。




 
 もりもり食べてるよ。




 
 髪型がなんとなく指揮者の小澤征爾さんに似ているねえ。


 食後のお散歩です。




 
 道草もくっています。




 
 やっぱり他の人と固まって眠っています。




 
 同じ檻に住んでいたミナミジサイチョウさんです。




 
 この人もやっぱりアフリカにお住まいです。


 それで、ヤマアラシさんについて書きます。哺乳網・げっ歯目・ヤマアラシ科です。

ちなみに(ウミ)アザラシさんは哺乳綱・ネコ目(食肉目)・アシカ亜目(鰭脚亜目)・アザラシ科です。

 ヤマアラシさんは、齧歯(げっし)類の中で最もトゲが多く、学名は「トゲブタ」を意味します。20以上の種が存在しまずがが、特に、アフリカタテガミヤマアラシのトゲは長さ30センチ近くもあります。

 頭の方の体毛は柔らかいのですが、背中やわき腹としっぽの部分には、針のような固い毛が混ざっています。空き缶も通す硬さだそうです。

 普段はこのトゲを寝かせていて、危険に遭遇すると、威嚇のためにトゲを逆立てます。

 ただ、始末におえないのは、ヤマアラシさんは、防御だけではなく、むしろ積極的に外敵に攻撃をしかける喧嘩好きな性格の人なのです。肉食獣などに出会うと、威嚇するときは後ろ向きになり針を逆立て、尾の針を摺り合わせてカラカラと音をたてます。

 そして背中の針を逆立て、後ろ向きに突進します。

 可愛いのにおっかないねえ!

 トゲは先端部が鋭く尖っていて、表面は突起に覆われて、皮膚に刺さると抜けにくくなっています。

 体からトゲが抜け落ちると、新しいトゲが生え変わります。

 昔はそのトゲを飛ばして敵を攻撃すると考えられていたそうですが、実際にはそんなゲゲゲの鬼太郎さんの髪の毛のような攻撃はできません。

 夜行性の動物で主に植物の茎や球根、根、果実を食べます。

 メスのヤマアラシは、種類により1~4匹の子どもを産みます。生まれたときはトゲが柔らかいのですが、数日で硬くなるそうです。そして、子どものヤマアラシは、生後約2カ月で独り立ちできるようになるのです。

 ヤマアラシさんは、写真のように家族が身を寄せ合って暮らします。

 ヤマアラシさんは針が生えているのは後ろのほうだけで、後ろ向きに針を逆立てて威嚇するけれど、頭のほうは柔らかい毛が生えているだけなので、正面が弱点なのです。

 動物商社が死なせたといって持ち込んできたニシキヘビの蛇のお腹を裂いたら、頭から丸呑みされたヤマアラシさんが出てきたという話を元王子動物園飼育員の亀井一成さんが書かれていました(チンパン博士の動物記:祥伝社ノン・ブック)。前から攻撃され、呑まれると針は逆立たずに、寝てしまいますからね。

 それで家族や仲間と頭を中心に向け円陣を組んで尻尾側を外に向け、針を逆立てて防御するわけです。

 だから写真のように2匹だと、頭とお尻がお互い逆になるようにポジションをとっているのかな?

 この前NHKが、一匹だけ孤立してしまったヤマアラシさんが周囲を大勢のライオンさんに取り囲まれて大ピンチ。命からがら隙を見て逃げ出した映像を流していました。


ドイツの哲学者、ショーペンハウアーの寓話に『ヤマアラシのジレンマ』というのがあります。当アトモス部屋にも『余禄と補遺』というお部屋がありますが、彼の著作の『余禄と補遺』の中に出てくる話です。その話が載っている岩波文庫は部屋のどこかに埋もれているはずです。

寒空にいる2匹のヤマアラシさんは、身を寄せ合って暖め合いたいと思うのですが、針が刺さりお互いを傷つけあうので近づけません。

 このような「自己の独立」と「他者との一体感」といった、相反する2つの欲求から生じる人間関係の葛藤を考察したのが、精神科医のフロイトさんで、このお話から『ヤマアラシのジレンマ』と呼ぶようになったそうです。


 荘子の言葉に「君子の交わりは淡きこと水の如し、小人の交わりは甘きこと醴の如し」というのがありますが、東洋趣味のあったショーペンハウアーさんが西洋人に分かりやすいように、ヤマアラシさんを持ち出して、この例え話にしたのじゃないかな?って私は個人的に想像しています。

 実際のヤマアラシさんは、写真のように、いつもは針を寝かせて、家族仲良く身をこすり付けるようにぴったりと体をくっつけているのです。

『ヤマアラシのジレンマ』なんて嘘じゃないのさあ!

 ヤマアラシさんにとってはいい迷惑です。

 だから、私は荘子さんの言葉の方を使いますよ。

プロフィール

眼とろん星人

Author:眼とろん星人
FC2ブログへようこそ!

年別アーカイブ一覧

訪問者カウンダ―

ブロとも一覧

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR