2009/10/31
『いい国(1192)作ろう鎌倉幕府!』のどこが誤り?(下) 【ファイルH22】2009.10.31
(上)からの 続きです。
それで、山川出版の日本史参考書『詳説日本史研究』1998年9月20日第1刷発行 2006年12月20日第11刷発行 を見たら、
教科書同様、武家政権としての鎌倉幕府が確立した1185(文治元)年説、頼朝が征夷大将軍に就任し、ここに鎌倉幕府が名実共に成立したとする1192(建久3)年説というように、1185(文治元)年説と1192(建久3)年説の両説併記されています。
教科書を出版した会社の参考書だから当たり前です。
ところがその後に鎌倉幕府の成立年の諸説が書かれていました。
【鎌倉幕府の成立期】
鎌倉幕府の成立期をいつに求めるべきか、この問題をめぐって、これまで以下の6説が主張されてきた。見解の対立は、論者の幕府観の相違によってもたらされている。
①1180(治承4)年末・・・頼朝が鎌倉に居を構え、侍所を設け、南関東・東海道東部の実質的支配に成功した時。
②1183(寿永2)年10月・・・頼朝の東国支配権が朝廷から事実上の承認を受けた時。
③1184(元暦元)年10月・・・公文所(政所)・問注所を設けたとき。
④1185(文治元)年11月・・・守護・地頭の任命権を獲得したとき。
⑤1190(建久元)年11月・・・頼朝が右近衛(うこのえ)大将に任命されたとき。
⑥1192(建久3)年7月・・・頼朝が征夷大将軍に任命されたとき。
鎌倉幕府の成立期をいつに求めるべきか、この問題をめぐって、これまで以下の6説が主張されてきた。見解の対立は、論者の幕府観の相違によってもたらされている。
①1180(治承4)年末・・・頼朝が鎌倉に居を構え、侍所を設け、南関東・東海道東部の実質的支配に成功した時。
②1183(寿永2)年10月・・・頼朝の東国支配権が朝廷から事実上の承認を受けた時。
③1184(元暦元)年10月・・・公文所(政所)・問注所を設けたとき。
④1185(文治元)年11月・・・守護・地頭の任命権を獲得したとき。
⑤1190(建久元)年11月・・・頼朝が右近衛(うこのえ)大将に任命されたとき。
⑥1192(建久3)年7月・・・頼朝が征夷大将軍に任命されたとき。
⑤・⑥、とくに⑥は幕府という語の意味に着目した、いわば語源論的な解釈であり、古くから主張されている。これに対しほかの4説は、軍事政権としての幕府が成立してくる過程を問題にしており、なかでは④が最も重要な時点であるとして、現在ではこれを支持する学者が多い。しかし、幕府の基盤は東国にあり、東国の支配政権としての性格を強調すべきだ、とすれば②説が有力になり、軍事力による実力支配を重くみれば①の見解が主張されることになる。
以上、これを読むと、1192年説の朝廷からの叙位という『政権の正当性』の話は一切無視され『語源論的な解釈』というようにすり替えています。
それで、同書には将軍と幕府の語源が述べられています。
【将軍と幕府】
征夷大将軍とは蝦夷(えみし)追討の軍の総大将に与えられた職名であるが、まだこの時代には、武門の棟梁と将軍職とが不即不離の関係にあるわけではなかった。源頼朝は当時はもっぱら敬意をこめて鎌倉殿と呼ばれていたが、やがていくつかの候補(例えば近衛大将・鎮守府将軍など)のなかから義仲も任じられたこの官職を選択し、武門の棟梁の指標としたのであった。頼朝以後、征夷大将軍、あるいは単に将軍といえば、すなわち武門の代表者という認識が定着していく。
また、征夷大将軍の居館(きょかん)を幕府と呼ぶが、幕府とは中国の語で、出征中の将軍の幕で囲った陣営を意味していた。それが転じて日本では近衛大将の居館の意に用いられ、さらに将軍の館の意になった。これが武家政治の政府を指すようになるのは、はるか後世になってからである。
征夷大将軍とは蝦夷(えみし)追討の軍の総大将に与えられた職名であるが、まだこの時代には、武門の棟梁と将軍職とが不即不離の関係にあるわけではなかった。源頼朝は当時はもっぱら敬意をこめて鎌倉殿と呼ばれていたが、やがていくつかの候補(例えば近衛大将・鎮守府将軍など)のなかから義仲も任じられたこの官職を選択し、武門の棟梁の指標としたのであった。頼朝以後、征夷大将軍、あるいは単に将軍といえば、すなわち武門の代表者という認識が定着していく。
また、征夷大将軍の居館(きょかん)を幕府と呼ぶが、幕府とは中国の語で、出征中の将軍の幕で囲った陣営を意味していた。それが転じて日本では近衛大将の居館の意に用いられ、さらに将軍の館の意になった。これが武家政治の政府を指すようになるのは、はるか後世になってからである。
以上、山川出版の日本史参考書『詳説日本史研究』のこの箇所では、まず、1192年説は、将軍・幕府に関する語源論にこだわった解釈であると決め付け、さらにその語源を調べると、『幕府が武家政治の政府を指すようになるのは、はるか後世になってからである』から鎌倉時代とは何の関係もないとばっさりと切り捨てているわけです。
当時、征夷大将軍の居館である幕府が武家政治の政府を指すか指さないかよりも、頼朝の政権がいつ正当性を持ちえたかが重要でしょう。
問題をすり替えています。
それだったら、最初から、こんなにごにょごにょと御託を並べずに、1192年説は誤りだと書けばよいのです。このごにょごにょの御託が論理としてつながっておらず、理解に苦しみます。
そもそも、それなら『頼朝が征夷大将軍に就任し、ここに鎌倉幕府が名実共に成立したとする1192(建久3)年説』をどうして書くのか支離滅裂です。
読み進めていくと書いてあることが180度変わるのです。
1192年説は誤りだとしたい本音が出たのでしょうね。
結局この参考書を読むと、余計に混乱します。
それで、参考までにWikipediaを見てみましょう。
『かつての通説によると、鎌倉幕府は、1192年(建久3年)に源頼朝が征夷大将軍(以下、将軍)に任官されて始まったとされていたが、頼朝の権力・統治機構はそれ以前から存続しており、現在では実質的な成立は1192年より前とする説が支配的である』
としておきながら、
『鎌倉幕府の成立時期をめぐっても諸説あり、源頼朝が征夷大将軍に任命された建久3年(1192年)説、日本国総守護地頭に任命された建久元年(1190年)説、公文所及び問注所を開設した元暦元年(1184年)説、守護・地頭の任命を許可する文治の勅許が下された文治元年(1185年)説、事実上、東国の支配権を承認する寿永二年の宣旨が下された寿永2年(1183年)説、頼朝が東国支配権を樹立した治承4年(1180年)説がある』
と何故か、何年に鎌倉幕府が成立したかという『支配的な説』を書くに至っていません。
それにしても、『実質的な成立は1192年より前とする説が支配的である』って、これを書いた人は鎌倉幕府の成立年について学会でアンケートでもとったの?
そのアンケートには日教組の教師も含まれているの?
支配的って学説の正否って多数決で決まるわけ?
ひょっとして、説の数で5対1って決めたのでは?胡散臭いったらありゃしない。
じゃあ、鎌倉幕府の成立年は何年なの?
名実ともに鎌倉幕府が成立したとされ、一番無難な1192年のままでいいじゃないさ!
別に1192年説が誤りだという決定的な新資料も、1192年説を覆すに足る説得力のある新解釈が出てきたわけでもありません。
一部のイデオロギーを持った人たちが運動をしているだけです。
結局、鎌倉幕府の成立年なんてどうでもよくて、天皇が頼朝を征夷大将軍に任じた1192年説を否定したいだけなんですよね。
歴史から天皇の影響力を消し去りたいだけなのです。
油断も隙もあったものではありません。