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『いい国(1192)作ろう鎌倉幕府!』のどこが誤り?(下) 【ファイルH22】2009.10.31 

【ファイルH22】2009.10.31 『いい国(1192)作ろう鎌倉幕府!』のどこが誤り?(下)

1192年説が間違いといういちゃもんをつけている人がいるねえ。


(上)からの 続きです。


 それで、山川出版の日本史参考書『詳説日本史研究』1998年9月20日第1刷発行 2006年12月20日第11刷発行 を見たら、

 教科書同様、武家政権としての鎌倉幕府が確立した1185(文治元)年説、頼朝が征夷大将軍に就任し、ここに鎌倉幕府が名実共に成立したとする1192(建久3)年説というように、1185(文治元)年説と1192(建久3)年説の両説併記されています。

 教科書を出版した会社の参考書だから当たり前です。

 ところがその後に鎌倉幕府の成立年の諸説が書かれていました。


【鎌倉幕府の成立期】
鎌倉幕府の成立期をいつに求めるべきか、この問題をめぐって、これまで以下の6説が主張されてきた。見解の対立は、論者の幕府観の相違によってもたらされている。
①1180(治承4)年末・・・頼朝が鎌倉に居を構え、侍所を設け、南関東・東海道東部の実質的支配に成功した時。
②1183(寿永2)年10月・・・頼朝の東国支配権が朝廷から事実上の承認を受けた時。
③1184(元暦元)年10月・・・公文所(政所)・問注所を設けたとき。
④1185(文治元)年11月・・・守護・地頭の任命権を獲得したとき。
⑤1190(建久元)年11月・・・頼朝が右近衛(うこのえ)大将に任命されたとき。
⑥1192(建久3)年7月・・・頼朝が征夷大将軍に任命されたとき。

 ⑤・⑥、とくに⑥は幕府という語の意味に着目した、いわば語源論的な解釈であり、古くから主張されている。これに対しほかの4説は、軍事政権としての幕府が成立してくる過程を問題にしており、なかでは④が最も重要な時点であるとして、現在ではこれを支持する学者が多い。しかし、幕府の基盤は東国にあり、東国の支配政権としての性格を強調すべきだ、とすれば②説が有力になり、軍事力による実力支配を重くみれば①の見解が主張されることになる。


 以上、これを読むと、1192年説の朝廷からの叙位という『政権の正当性』の話は一切無視され『語源論的な解釈』というようにすり替えています。

 それで、同書には将軍と幕府の語源が述べられています。

【将軍と幕府】
 征夷大将軍とは蝦夷(えみし)追討の軍の総大将に与えられた職名であるが、まだこの時代には、武門の棟梁と将軍職とが不即不離の関係にあるわけではなかった。源頼朝は当時はもっぱら敬意をこめて鎌倉殿と呼ばれていたが、やがていくつかの候補(例えば近衛大将・鎮守府将軍など)のなかから義仲も任じられたこの官職を選択し、武門の棟梁の指標としたのであった。頼朝以後、征夷大将軍、あるいは単に将軍といえば、すなわち武門の代表者という認識が定着していく。
また、征夷大将軍の居館(きょかん)を幕府と呼ぶが、幕府とは中国の語で、出征中の将軍の幕で囲った陣営を意味していた。それが転じて日本では近衛大将の居館の意に用いられ、さらに将軍の館の意になった。これが武家政治の政府を指すようになるのは、はるか後世になってからである。


 以上、山川出版の日本史参考書『詳説日本史研究』のこの箇所では、まず、1192年説は、将軍・幕府に関する語源論にこだわった解釈であると決め付け、さらにその語源を調べると、『幕府が武家政治の政府を指すようになるのは、はるか後世になってからである』から鎌倉時代とは何の関係もないとばっさりと切り捨てているわけです。

 当時、征夷大将軍の居館である幕府が武家政治の政府を指すか指さないかよりも、頼朝の政権がいつ正当性を持ちえたかが重要でしょう。

 問題をすり替えています。

 それだったら、最初から、こんなにごにょごにょと御託を並べずに、1192年説は誤りだと書けばよいのです。このごにょごにょの御託が論理としてつながっておらず、理解に苦しみます。

 そもそも、それなら『頼朝が征夷大将軍に就任し、ここに鎌倉幕府が名実共に成立したとする1192(建久3)年説』をどうして書くのか支離滅裂です。

 読み進めていくと書いてあることが180度変わるのです。

 1192年説は誤りだとしたい本音が出たのでしょうね。

 結局この参考書を読むと、余計に混乱します。

 それで、参考までにWikipediaを見てみましょう。


『かつての通説によると、鎌倉幕府は、1192年(建久3年)に源頼朝が征夷大将軍(以下、将軍)に任官されて始まったとされていたが、頼朝の権力・統治機構はそれ以前から存続しており、現在では実質的な成立は1192年より前とする説が支配的である』

 としておきながら、

『鎌倉幕府の成立時期をめぐっても諸説あり、源頼朝が征夷大将軍に任命された建久3年(1192年)説、日本国総守護地頭に任命された建久元年(1190年)説、公文所及び問注所を開設した元暦元年(1184年)説、守護・地頭の任命を許可する文治の勅許が下された文治元年(1185年)説、事実上、東国の支配権を承認する寿永二年の宣旨が下された寿永2年(1183年)説、頼朝が東国支配権を樹立した治承4年(1180年)説がある』

 と何故か、何年に鎌倉幕府が成立したかという『支配的な説』を書くに至っていません。

 それにしても、『実質的な成立は1192年より前とする説が支配的である』って、これを書いた人は鎌倉幕府の成立年について学会でアンケートでもとったの?

 そのアンケートには日教組の教師も含まれているの?

 支配的って学説の正否って多数決で決まるわけ?

 ひょっとして、説の数で5対1って決めたのでは?胡散臭いったらありゃしない。

 じゃあ、鎌倉幕府の成立年は何年なの?

 名実ともに鎌倉幕府が成立したとされ、一番無難な1192年のままでいいじゃないさ!

 別に1192年説が誤りだという決定的な新資料も、1192年説を覆すに足る説得力のある新解釈が出てきたわけでもありません。

 一部のイデオロギーを持った人たちが運動をしているだけです。

 結局、鎌倉幕府の成立年なんてどうでもよくて、天皇が頼朝を征夷大将軍に任じた1192年説を否定したいだけなんですよね。

 歴史から天皇の影響力を消し去りたいだけなのです。

 油断も隙もあったものではありません。

『いい国作ろう鎌倉幕府!』のどこが誤り?それでいいじゃない。

その3に続く。
その3はこちらhttp://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/49666171.html
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『いい国(1192)作ろう鎌倉幕府!』のどこが誤り?(上) 【ファイルH21】2009.10.31 

【ファイルH21】2009.10.31 『いい国(1192)作ろう鎌倉幕府!』のどこが誤り?(上)

1192年説が間違いといういちゃもんをつけている人がいるねえ。

 テレビを観ていて、鎌倉幕府成立年の『いい国作ろう鎌倉幕府』1192年説が誤りで、今の教科書では、1185年説が採用されているという話が出てきて、びっくりしました。

 冗談じゃないねえ。それで、本屋さんに行きました。
 教科書は普通市販されていません。どうして教科書というのは書店で市販していないのでしょう?

 子供がどういう教科書を習っているのか、少なくとも公立図書館で閲覧に供するべきです。

 昔、教科書の叙述で『侵略を進出に書き換えた』というデマ報道が国際問題に発展したこともあるし。

 ところが、山川出版の高校教科書『日本史B』は書店で売っているのです。

 日本史教科書の圧倒的シェアを占めているし、大学入試にも使用され、この教科書を使っていない高校生や一般の人も買うからです。790円の値札がついていました。

 それで、当該箇所を確認しました。


株式会社山川出版社 詳説日本史B 2009年3月1日印刷、2009年3月5日発行。2006年3月20日文部科学省検定済より

(P89)




(P90)




 上の画像を改めて文字入力すると。

鎌倉幕府
反平氏の諸勢力のうち、東国の武士団は武家の棟梁(とうりょう)で源氏の嫡流(ちゃくりゅう)である頼朝のもとに結集し、もっとも有力な勢力に成長した。頼朝は挙兵後まもなく、相模(さがみ)の『鎌倉(かまくら:ゴチック体)』を根拠地として広く主従関係の確立につとめ、関東の荘園・公領を支配して御家人(ごけにん)の所領支配を保障していった。1183(寿永2)年には、平氏の都落ちのあと、京都の後白河法皇と交渉して、東海・東山(とうかい・とうさん)両道の東国の支配権の承認を得た(寿永二年十月宣旨《せんじ》)。
 ついで、1185(文治元)年、平氏の滅亡後、頼朝の強大化を恐れた法皇が義経に頼朝追討(ついとう)を命じると、頼朝は軍勢を京都におくって法皇にせまり、諸国に『守護(しゅご:ゴチック体)』を、荘園や公領には『地頭(じとう:ゴチック体)』を任命する権利や1段当り5升の兵粮米(ひょうろうまい)を徴収する権利、さらに諸国の国衙の実権をにぎる在庁官人(ざいちょうかんじん)を支配する権利を獲得した。こうして東国を中心にした頼朝の支配権は、西国にもおよび、武家政権としての『鎌倉幕府(ゴチック体)』が確立した。
 その後、頼朝は逃亡した義経をかくまったとして奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)を滅ぼすと、1190(建久元)年には念願の上洛(じょうらく)が実現して右近衛大将(うこのえたいしょう)となり、1192(建久3)年、後白河法皇の死後には、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任ぜられた。こうして鎌倉幕府が名実共に成立してから滅亡するまでの時代を鎌倉時代とよんでいる。


同教科書
巻末年表(P389)より




1180(治承4)源頼政・以仁王挙兵、敗死。福原京遷都。源頼朝・源義仲挙兵。頼朝、侍所設置
1183(寿永2)平氏の都落ち。頼朝の東国支配権確立
1184(元暦1)頼朝、公文所・問注所を設置
1185(文治1)平氏滅亡、頼朝、守護・地頭任命権獲得
1189(文治5)頼朝、藤原泰衡を討ち、奥州を平定
1192(建久3)頼朝、征夷大将軍となる

 なんかややこしい文章で読みづらいねえ!

 教科書を選定される日教組のみなさんには、1185年の箇所の『鎌倉幕府』をゴチック体にした後に『確立』って書いてあるでしょって言い訳できるし、学問的にそれはおかしいという人には1192年に『名実ともに鎌倉幕府が成立』って書きましたって言い訳できます。

 どうにでもとれる玉虫色の見事な責任逃れ官僚文章の見本です。それにしても、こんな酷い文章で学習する高校生こそ良い迷惑ですね。『確立』と『成立』ってどう違うの?

 つまり、山川出版社教科書では武家政権としての鎌倉幕府が確立した1185(文治元)年説、頼朝が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任ぜられ鎌倉幕府が名実共に成立してから滅亡するまでの時代を鎌倉時代とよんでいるとする1192(建久3)年説というように、1185(文治元)年説と1192(建久3)年説の両説併記です。

 また、同じ教科書の巻末年表では、どちらが鎌倉幕府の成立年かの表記は避けています。

 ここで、『いい国作ろう鎌倉幕府』1192年説が誤りで、今の教科書では、1185年説が採用されている というのが出鱈目だということは分かりました。

 それどころか、鎌倉幕府が『名実共に成立した』のは1192年だと書かれているのです。

 一体どこの出版社の教科書が鎌倉幕府成立年を1185年としているのでしょう?

 いずれにせよ、トップシェアの教科書が違うんだから、お話になりません。

 ちなみに、山川出版も左側の出版社です。

 第一、この文章を素直に読んだら、『念願の上洛を果たし』って書いてありますよ。どうして念願だったかというと、1185(文治元)年に法皇が義経に頼朝追討(ついとう)を命じたのがきっかけで、頼朝は軍勢を京都におくって法皇にせまり、諸国に『守護』を、荘園や公領には『地頭』を任命する権利等を力ずくで奪い取ったわけです。
 
 と言うことは、仮に鎌倉幕府がこの時点で確立したとして、その権力の正統性は何を根拠としているのでしょう?ただの夜盗と変わらないではありませんか。律令制度ができて以来、政権の正統性は、天皇が位を叙すことによって付与されていたのです。

 1185年に鎌倉幕府の確立と言うなら、力ずくで関東諸国を押さえた平将門の政権というのも正統性を持ってしまいます。

 事実、交渉(脅し?)のすえ宣旨で東海・東山両道の東国の支配権の承認が与えられたにもかかわらず、その直後に、頼朝追討令が発せられたのです。
 いつまた頼朝追討が命じられるか分かったのもではありません。

 だから、頼朝は奥州の藤原氏を滅ぼし、後顧の憂いを消してから京に上って征夷大将軍の位がなんとしてもほしかったのです。

 そうしないことには、夜もおちおち眠れないのです。

 だったら、鎌倉幕府の成立年は征夷大将軍に任じられた1192年でしょう。『実質的』も『名実とも』もありません。

 当時は選挙で政権を選ぶわけではありませんから、天皇から征夷大将軍に任じられることが政権の正統性を裏打ちするのです。

(下)に続く

神戸市立王子動物園のプレーリードッグさんだよ。 【ファイルC151】2009.10.28 

【ファイルC151】2009.10.28 神戸市立王子動物園のプレーリードッグさんだよ。

相変わらず人気があるねえ

 プレーリードッグさんはドッグだけどワンちゃんではありません。ネズミ目(齧歯類)リス科プレーリードッグ属の動物です。

 ペットとしても大人気です。それでプレーリードッグさんの飼育ブログを書かれている方もいらっしゃるようです。でも数が減って輸入禁止になって以来価格が急騰し、超高額になってしまったそうです。

 だから、動物園で会うのが一番みたいです。

 神戸市立王子動物園も写真が溜まっていますが、この中からご紹介しましょう。

 遊びにいったらば、プレーリードッグさん地面をくんくんしながら、這いまわっていました。





 方向転換してまたくんくん。





 北アメリカの草原地帯にお住まいの野生のプレーリードッグさんは地下に作る広大な巣穴で生活しています。
 その巣穴の中では多くの通路や部屋が入り組んでいて、それぞれが子ども部屋や寝室、トイレの部屋というように用途が決まっているそうです。

 また、巣穴の入口周辺に土を盛り上げたマウントと呼ばれる見張り台までがあるんだって。
 
 だから、プレーリードッグさんは一日のうちの大きな部分を巣穴を掘ることと掘り直すことに費やしているそうです。
 それで動物園のプレーリードッグさんも一生懸命穴を掘ろうとしているのかもしれません。

 それにしても、どうして尻尾を立ててるんだろ?

 こんにちは、ってやっと顔を上げて挨拶してくれました。





 さすがはネズミ目(齧歯類)リス科だけあって、ネズミさんとリスさんの可愛いところを受け継いだ顔をしています。

 用がないんだったら、失礼するよ。こっちは忙しいんだから。





 と言って、また地面をくんくんします。





 ずっとこうしていて、つまんないから他所に行こうとしたら、プレーリードッグさんは立ち上がって、立って外を眺めました。





 なんか、爪を磨いているねえ。

 野生では、巣穴の入口周辺の見張り台(マウント)の上でこうやって立つことにより、遠くまで見渡して警戒をしているそうです。
 それでもってアナグマ、コヨーテ、タカ、ヘビなどの天敵が近づくと、「キャンキャン」というイヌのような鳴き声を発して仲間に警告し、それを聞いた仲間はみんな一目散に巣穴に逃げ込むのです。

 つまりこの鳴き声からプレーリードッグ(草原のイヌ)と名づけられたんだねえ。

 また、巣穴周辺の草がプレーリードッグの身長より高く育つと見張りがしにくくなるので、それらを刈り取って見晴らしを良くするんだって。凄いねえ。

 ずっと写真を撮っているから、警戒しているのかな?





 立っている姿も可愛いねえ。

 野生のプレーリードッグさんはひとつの巣にオスと数人のメス、1歳以下の子供、2歳までの若い個体で構成されるご家族でお住まいです。

 成長した子供は親元の巣から遠くへ旅立ちますが、近くの他人であるご近所同士はお互いに隣接して巣を作る習性があるので、かつては数千㎡にわたって千人を超える『町(タウン)』を形成することもまれではなかったそうです。

 家族やご近所さんは、お互い臭いをかぎあって個体を識別します。出会うたびにお鼻を突き合わせてご挨拶するんだって。

 かつての北アメリカには数十億人ものプレーリードッグさんがいたといわれています。

 ところが、人間の大規模な開拓によりアナグマ、コヨーテ、タカ、ヘビなどの天敵が激減します。その結果生態系のバランスが大きく崩れ、プレーリードッグさんが爆発的に増加します。

 地面に穴を掘る彼らは邪魔者に過ぎなくなったので、人間はプレーリードッグさんを害獣と決め付け、薬物を染み込ませたスポンジを巣穴に投げ入れるなどして、駆除しました。
 20世紀中に98%が殺され、生息地もかつての5%にまで壊滅的に減少してしまいました。
 その結果、輸出禁止に至ったそうです。

 ネズミ目だったら、繁殖力は旺盛だろうから、余程無茶をしたんだろうね。

 ということでプレーリードッグさんでした。

京都の建仁寺は臨済宗建仁寺派の大本山(その8) 【ファイルT112】2009.10.25 

【ファイルT112】2009.10.25 京都の建仁寺は臨済宗建仁寺派の大本山(その8)

山門の『望闕楼』も立派だねえ。

 建仁寺の記事を最初からご覧になられる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/49365223.html

 山門の『望闕楼』も立派だねえ。

 境内には栄西禅師に因んだ茶碑が建っています。





 既にご紹介したように、元々日本では古来よりお茶を珍重していたのですが、建仁寺を開山した栄西禅師の功績でお茶の歴史が本格的に始まりました。
 栄西さんは日本で最初にお茶の効能などをまとめた茶書『喫茶養生記』を著し、宋から茶種を持ち帰り、お茶の普及に大きく貢献したのです。

 背後にお茶の木が見えていますが、これは平成の茶苑といって、平成三年に『茶』将来800年を記念して植樹栽培した覆い下茶園(おおいしたちゃえん)です。

『覆い下(おおいした)』というのは、玉露園・碾茶園は茶摘みの始まる直前に茶園全体に棚をつくり、それに覆いをかけて日光をさえぎる栽培法のことだそうです。

 毎年5月10日頃、初摘みした茶葉を石臼で挽いた抹茶を御開山毎歳忌(6月5日)にお供えします。

 柵越しに門が見えます。





 柵の中には入れません。この門の背後には開山堂があります。開山堂は旧名護国院、古くは興禅護国院といって、開山栄西禅師の入定塔(墓所)となっています。苔むした庭に開山お手植えの菩提樹が今も茂っているそうです。

 三門です。





 これは大正12年に、静岡県浜名郡の安寧寺から移築された門です。
 楼上には釈迦如来、迦葉・阿難両尊者と十六羅漢が祀られています。三門の向こうに見えるのは勅使門です。
 
 屋根に獅子舞みたいな瓦が鎮座しています。





『望闕楼(ぼうけつろう)』の額が掲げられています。





 三門は、空門・無相門・無作門の三解脱門で、『御所を望む楼閣』という意味で『望闕楼(ぼうけつろう)』と名づけられました。
 室町時代中期の僧、瑞巌龍惺(ずいがんりゅうせい:1384‐1460建仁寺、南禅寺の住持)の『春眺』の詩の中に『望闕楼高くして帝城に対す』という句があるそうです。

 三門の向こうに見えているのが、前回ご紹介した天井に双龍が描かれている法堂(はっとう)です。





 放生池(ほうしょういけ)に石橋が架けられていて、その向こうに三門が聳え立ちます。





『金光明経』長者子流水品には、釈迦仏の前世であった流水(るすい)長者が、大きな池で水が涸渇して死にかけた無数の魚たちを助けて説法をして放生したところ、魚たちは三十三天に転生して流水長者に感謝報恩したという本生譚が説かれているそうです。

 仏教儀式に放生会(ほうじょうえ)というのがありますが、これは、中国天台宗の開祖智(ちぎ)が、この流水長者の本生譚によって、漁民が雑魚を捨てている様子を見て憐れみ、自身の持ち物を売っては魚を買い取って放生池に放したことに始まるとされているそうです。

 放生池はこれに因んでお寺の境内に配されているのですね。


 道元禅師修業の遺跡です。





 道元(どうげん)禅師は、鎌倉時代初期の禅僧で日本曹洞宗の開祖です。
道元禅師は比叡山で出家し、建保5年(1217年) にここ建仁寺で栄西禅師の弟子明全和尚に師事しました。
貞応2年(1223年) 明全和尚とともに博多から宋に渡って諸山を巡り、曹洞宗の天童如浄より印可を受けます。彼の地で客死した明全和尚の舎利(遺骨)を奉持して安貞2年(1228年) 帰国し再び建仁寺に戻った後、天福元年(1233年) 京都深草に興聖寺を開きました。

 建仁寺は他に、江戸時代初期の朱子学派儒学者で林家の祖である林 羅山【はやし らざん:天正11年(1583年) - 明暦3年1月23日(1657年3月7日)】も、文禄4年(1595年)にここ建仁寺で仏教を学んでいます。


 楽神廟(らくじんびょう)です。





 楽神廟は栄西禅師の母親が岡山吉備津神社の末社である楽の社にお参りした際に、夢に明星を見て禅師を受胎されたという話に因んで祀られています。本地仏は虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)です。智慧明瞭・学徳増進・記憶力増進の功徳があり、受験合格の菩薩として、人気があるそうです。


 浴室です。





 寛永五年(1628)三江和尚(諱紹益)によって建立されました。七堂伽藍の一つで、内部は待合・浴室・土間(火炊場)に三分されています。湯気で体を温める蒸し風呂で、禅寺では入浴も修行の大切な部分として、厳しい作法が細かく定められています。


 勅使門(ちょくしもん:重要文化財)です。





 勅使門は銅板葺切妻造の四脚門で平教盛の館門(平重盛の館門ともいわれている)を応仁の乱後に移築したものと伝えられていますが真偽の程は定かではありません。

 様式的には鎌倉時代末頃の建築だということです。

 柱や扉に戦乱の矢の痕があることから「矢の根門」または「矢立門」と呼ばれているそうです。

 門の左には『開山栄西禅師八百年大遠諱法要』の立て札が立っています。
 建保3年(1215年)に栄西禅師は遷化(せんげ:高僧の死去を、婉曲的に、かつ、敬っていう語)され、平成26年(2014年)は栄西禅師八百年大遠諱の年に当たるので開山栄西禅師八百年大遠諱法要がとりおこなわれるそうです。


 勅使門は八坂通りに面しているので、門前から『八坂の塔』が望めます。





 八坂の塔のある法観寺(ほうかんじ)は建仁寺末寺にあたります。

 ということで、建仁寺の記事はこれで終わりです。ありがとうございました。

東山動物園のニホンザルさんだよ。 【ファイルC150】2009.10.22 

【ファイルC150】2009.10.22 東山動物園のニホンザルさんだよ。

みんな元気だねえ

 東山動物園にもニホンザルさんのサル山があります。
 さっそくこっちによってくる子がいました。





 可愛いねえ。

 こっちの子は、餌を欲張って沢山持っています。





 この子はまぶたが白いねえ。
 




 なんかとても色白さんなんだけど、口の中が真っ黒で、まるでお歯黒を塗っているようです。





 キャベツはおいしいねえ。





 こっちの子は、長い棒を引きずって歩いています。





 うへえ!そんな物騒なもの振り回さないでよお!





 お友達が逃げていきます。

 なんか最近友達が減っていくねえ。どうしてだろう?





 その棒が悪いんだよ!

 気がつかないお猿さんは、一人でお舟を漕ぎ始めました。





 ぎっちらこぎっちらこ

 なんかつまんないねえ。





 反省せずにこっちを向いてポーズをとっています。





 今宵(こよい)の虎徹(こてつ)は血に飢えているねえ。
 早く気づきなよ!

 エア・ピアノを弾いている子がいました。





 ああ疲れた。一休み一休み。





 やっぱり屋根の下が落ち着くねえ。





 こっちで喧嘩が始まりました。





 歯をむき出しにして、叫んで相手を威嚇しています。

 騒ぎは収まりましたが、相手をガン見しているねえ。





 それにしても、どうしてお猿さんだけ『お猿さん』って言うんだろう?
 犬さん狐さんは『お犬様』『お狐様』とは言っても普通『お犬さん』『お狐さん』とは言わないし、お猫さん、おライオンさん、おゾウさん、おキリンさん、おトラさんなんて言わないからねえ。変なの。

 ということで、みんな仲良く暮らしてね。


追 記
2009/10/17 17:12 【共同通信】より

『サル逃走で新飼育舎の公開延期 東山動物園、捕獲作戦続く』
という報道がありました。

 逃げ出したのは、雌ニホンザルの愛称カッパさんです。

 ほかの9匹とともに新飼育舎に引っ越ししている最中、登り木(高さ約6メートル)の頂上から約4メートル先のコンクリート塀(同4メートル)に飛び移り、園外に逃走したのだそうです。

 テレビで次々と塀に向かって次々と大ジャンプしている映像が映っていましたが、カッパさんだけが見事脱走に成功したんですね。

 この記事で紹介した子達もジャンプしたんだね。みんな元気だったからねえ。

 結局、カッパさんは脱走から6日目の10月18日、園西側の森林に仕掛けた中に好物の食パンなどを置いたオリに入り、無事捕獲されました。

よかったねえ。逃げても園の外じゃ餌が手に入らないからねえ。
 
『新飼育舎はガラス張りの観察デッキを設置し、身近で観察できることが特徴。今後、専門家の意見を聞き、登り木や塀の高さなどを見直す。日本モンキーセンター(愛知県犬山市)の加藤章園長は「突然の引っ越しで興奮したのでは」と話している』

ということです。

京都の建仁寺は臨済宗建仁寺派の大本山(その7) 【ファイルT111】2009.10.19 

【ファイルT111】2009.10.19 京都の建仁寺は臨済宗建仁寺派の大本山(その7)

法堂には見事な天井画が描かれているよ。

 建仁寺の記事を最初からご覧になられる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/49365223.html
 方丈から法堂(はっとう)に続く廊下を渡ります。絶対に見逃さないでね!
 この廊下は途中で参詣道を横切るので、いったん外に出て、再び向かい側の改札の暗証番号を押して法堂側の廊下に進むような仕組みになっています。

 いよいよ法堂の中に入ります。

 とっても広くて豪華です。





 法堂は明和二年(1765)上棟されました。仏殿兼用の「拈華堂」です。
 五間四間・一重・裳階付の堂々とした禅宗様仏殿建築で、正面須弥壇には本尊釈迦如来坐像と脇侍迦葉尊者・阿難尊者が祀られています。

 また、その天井には、平成十四年(2002)創建800年を記念して「小泉淳作画伯」筆の双龍が描かれました。描きたてのほやほやで色鮮やかです。





 どうです。立派な龍でしょう!

 正面須弥壇正面です。





 本尊釈迦如来坐像をアップで写します。ありがたいねえ。





 外に出て、法堂の建物をご覧ください。





 鐘楼があります。





 犬矢来(いぬやらい:割竹や細い桟木を円弧状に曲げたり、真っ直ぐ斜めに並べたもの。犬の粗相。泥はねなどの汚れや損傷から建物を守る)も立派です。





 とても立体的な造りです。





 瓦屋根も立派だねえ。





 ということで、立派な天井画が描かれた法堂でした。





 次に続くよ。

多摩動物公園のレッサーパンダさんだよ。 【ファイルC149】2009.10.16 

【ファイルC149】2009.10.16 多摩動物公園のレッサーパンダさんだよ。

夕方で少しお疲れみたい

 レッサーパンダさんは今やいろいろな動物園にいます。多摩動物公園のレッサーパンダさんちに行ったときは既に日は傾いていて、少し元気がありませんでした。
 ねぐらに戻りたいような気配です。





 木に登って、洗濯物みたいにゆっくり休んでいる人もいます。





 草むらからひょっこり顔を出して、可愛いねえ。





 バイバイって走って帰って行く子もいます。





 なんだか、一人石に噛り付いている子がいました。





 まだ遊びたいよお。眠くないよお。

 立ち退き反対住民のようにも見えますが、本当は単なる『たれ・れっさーぱんだ』さんなだけかもしれません。

 また元気のいい時に遊びに行きたいものだねえ。

 多摩動物公園の写真もまだあるねえ。困ったものです。

京都の建仁寺は臨済宗建仁寺派の大本山(その6) 【ファイルT110】2009.10.13 

【ファイルT110】2009.10.13 京都の建仁寺は臨済宗建仁寺派の大本山(その6)

お庭をゆっくり眺めて休むのは方丈(重要文化財)がいいねえ。

 建仁寺の記事を最初からご覧になられる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/49365223.html

 方丈(重要文化財)は慶長四(1599)年、前回ご紹介した安国寺恵瓊(あんこくじえけい)さんが安芸(あき=現在の広島県の西部)の安国寺から移建したもので、優美な銅板葺の屋根が印象的な禅宗方丈建築です。

 枯山水のお庭を縁側でゆっくり楽しむことができます。









 見事な石だねえ。見えている屋根は法堂(はっとう)に続く廊下です。法堂の見学も忘れないでね!





『方丈』の額が掛かっています。この額も安芸(あき=現在の広島県の西部)の安国寺から持ってきたものかな?





 室内には橋本関雪(はしもと かんせつ、1883年11月10日 - 1945年2月26日)の襖絵「生々流転」「白楽」「雲竜図」「花鳥図」をそのままの姿で観ることができます。

















 方丈の本尊の間です。中に立ち入ることはできません。





 開山の明庵栄西さんの肖像画を縁側から望遠で写します。





 禅の心と茶の徳を伝える開山 栄西禅師さんはいかにも賢そうなお顔立ちです。
 開山の栄西という読み方は、寺伝では『ようさい』といいますが、一般には『えいさい』読まれています。字は明庵(みんなん)号は千光(せんこう)葉上(ようじょう)。栄西禅師は永治元年(1141)、備中(岡山県)吉備津宮の社家、賀陽(かや)氏の子として生まれました。14歳で落髪、比叡山で天台密教を修め、その後二度の入宋を果たし、日本に禅を伝えました。著書『興禅護国論(こうぜんごこくろん)』はとても有名ですね。

 また、中国から茶種を持ち帰って、日本で栽培することを奨励し、『喫茶養生記(きっさようじょうき)』を著し、喫茶の法を普及した『茶祖』としても知られています。


 これも望遠で写したご本尊の「木像十一面観音座像」(高さ約70センチ)です。





 江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の娘で、後水尾天皇に入内した(嫁いだ)中宮東福門院(和子:まさこ=明正天皇の生母)から寄進されたと伝えられているそうです。

 実は、この観音様は今年2009年1月31日に盗難にあってマスコミでも取り上げられ、大騒ぎでした。観光客の中にもお寺の人に『大丈夫でしたか?』って尋ねられる方がいらっしゃいました。

 結局、同年3月2日に盗んだ男が逮捕され無事お帰りになられたんですけれど、犯人は複数のお寺から、この観音様を含む約30点と、掛け軸約10点を窃盗していたようです。
 警察では「好きで集めていた」と供述していたそうですが、ご本尊を盗んだりしたら罰が当たるねえ。

 ということで、ご本尊も帰ってきたところで、良かったねえ。


付 記

 奇しくも、本日2009年10月13日(火)に、2009年10月16日に発刊される『ミシュラン京都・大阪2010』で掲載されるレストランがまさにここ、建仁寺の『方丈』で発表されました。

 発表の場所はここです。





 この写真は、右側に無粋な工事用の養生幕が写っているので、没にしたのですが、テレビの報道を見ると、この幕の中に枯山水の庭の門があって、そこに赤絨毯の特設ステージを設けて発表したようです。詰めかけた報道陣は、左の縁側に陣取っていました。

 三つ星のお店は、『菊乃井本店』(京都)、『嵐山吉兆本店』(京都)、『千花』(京都)、『つる家』(京都)、『瓢亭』(京都)、『未在』(京都)、『Hajime』(大阪)の7店で、二つ星は、レストラン24軒と旅館1軒の計25軒。一つ星は118軒だったそうです。

 掲載を断固拒否したお店も掲載され、それがどのお店かは、記事に写真が載っていないので、分かるそうです。
『瓢亭』(京都)って、朝がゆで有名なお店ですね。私もいつか行ってみたいと思っていたので、少し迷惑かも・・・。掲載拒否という頑固さも京都らしくて私は好きです。

 それにしても、本尊を盗んだ犯人が捕まらなかったら、本尊無しの方丈で『ミシュラン京都・大阪2010』の発表をしていたのかな?
 観音様、無事戻ってきて本当に良かったねえ。

 次に続きます。
 次回はこちらhttp://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/49572328.html

名古屋市東山動物園の人気者コアラさんだよ。 【ファイルC148】2009.10.10 

【ファイルC148】2009.10.10 名古屋市東山動物園の人気者コアラさんだよ。

名古屋のコアラさんを忘れたらだめだねえ

 名古屋市東山動物園のコアラさんちは相変わらず人気でしたが、普通に入れました。

 見物しているおばあちゃんが、「昔はここでコアラ見よう思ったら、どえりゃあ並ばなかんかったでねえ」って感慨深げに話していました。

 コアラさんは日に20時間寝るので、やっぱり寝ている子が多かったねえ。

 こういうふうに挟まって寝ると、落ちなくていいねえ。





 起きているこの人はもぞもぞしてます。





 ひらりと地面に飛び降りました。





 トイレで降りたようです。

 すっきりした笑顔だねえ。





 アップでどうぞ。





 ユーカリの葉っぱ越しに覗くコアラさん。





 なぜか猫背でお座りコアラさん。





 枝振りを見上げるコアラさん。





 少し白目が見えている横顔コアラさん。





 こんにちは。





 おでこを木にくっつけてこっくりこっくり可愛いねえ。
 




 お腹の白い毛がふわふわです。





 背中が人間の赤ちゃんみたい。





 最後はウインクしてくれましたよ。





 ということで、みんなも名古屋に遊びにきてね。

 ついでに中日ドラゴンズのマスコットキャラクターのドアラくん。
 自由奔放な性格が名古屋で大人気だそうです。画像を紹介しますね。


 お姉さんに「激しく踊っていますけど、間違ってるからねこれ」って言われていますね。
 でも、ドアラって、『ぬりかべ』さんのような『ドア』のモンスターかと思ってたよ。
『コアラ』の『コ』をドラゴンズの『ド』に変えただけだねえ。別に『ドララ』でも『コアゴン』でも良かったねえ。

京都の建仁寺は臨済宗建仁寺派の大本山(その5) 【ファイルT109】2009.10.08 

【ファイルT109】2009.10.08 京都の建仁寺は臨済宗建仁寺派の大本山(その5)

建仁寺を復興した安国寺恵瓊さんは秀吉に重用された外交僧で戦国大名。


 建仁寺の記事を最初からご覧になられる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/49365223.html
 
 風流な茶室『東陽坊』の傍らに、石の塚が立っています。
 安国寺恵瓊(あんこくじえけい)さんの首塚(くびづか)です。





 安国寺恵瓊さんは、戦乱と室町幕府の衰退により荒廃した建仁寺を復興した人ですね。その際に、安芸の安国寺から建仁寺に方丈を移築したりしています。

 恵瓊さんの父は安芸武田氏の一族である武田信重の子とも、同じく安芸武田氏である武田元繁の娘婿・伴繁清の息子ともいわれています。

 天文10年(1541年)、毛利元就の攻撃で安芸武田氏が滅亡すると、恵瓊さんは家臣とともに脱出し、安芸の安国寺(不動院)に入って出家しました。

 その後、京都の東福寺に入り、竺雲恵心(じくうんえしん)の弟子となります。

 天正2年(1574年)に安芸安国寺の住持となり、後に東福寺、南禅寺の住持にもなり、中央禅林最高の位にもつきました。

 他方、毛利家が師の恵心に帰依していた関係から、早くから毛利家に仕える外交僧になりました。

 天正10年(1582年)、毛利氏が羽柴秀吉(豊臣秀吉)と対戦した『備中高松城の戦い』で秀吉が備中高松城の水攻めをしていた最中に、秀吉の援軍に来るはずだった明智光秀が突然信長に反旗を翻し、本能寺の変が起きたという一報が入ります。

 秀吉方は信長落命によって信長の後ろ盾を失った状態であることを毛利方に知られないようその事実を隠しました。でも、もたもたしているとそんなことはすぐに知れ劣勢だった毛利方が息を吹き返しますし、早く戦闘に決着をつけて帰らないと、光秀に天下を奪われます。

 そこで秀吉は何食わぬ顔をして毛利の使者の恵瓊さんを呼び、割地を河辺川(高梁川)と八幡川以東とし、清水宗治が自刃するという和睦条件を恩着せがましく提示します。恵瓊さんの尽力で毛利方はやむなくこの条件を受け入れ、ここに和睦が成立しました。

 清水宗治の自刃を見届けた秀吉は高松城に杉原家次を置いて、明智光秀を討つために大急ぎで山陽道を東へ向かいます(中国大返し)。

 明智光秀は、まさか毛利を攻めていたはずの秀吉がこんなに早く戻ってくるとは思わず、山崎(天王山)の合戦で敗れて3日天下に終わったのです。

 つまり、毛利氏との和睦をまとめた恵瓊さんの交渉力のおかげで秀吉は天下分け目の天王山を勝利することができたわけです。
 さらに、恵瓊さんは天正13(1585)年1月、毛利氏が秀吉に正式に臣従する際の交渉を務めて、秀吉の評価を高めます。

 四国征伐後は伊予に2万3000石を与えられ、天正14(1586)年の秀吉の九州征伐後は伊予6万石に加増され、僧侶でありながら豊臣大名という破格の待遇を得ます。

 それだけの権力があったから、慶長4年(1599年)には建仁寺の復興に尽力することができたのですね。

 恵瓊さんは秀吉の側近も兼ね、秀吉の命令で行なわれた検地などの奉行を務め、朝鮮征伐の際にも検使として渡海しました。

 秀吉の没後、恵瓊さんは慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで懇意であった石田三成と通じて西軍につき、毛利一族の当主・毛利輝元を西軍の総大将として担ぎ出し、毛利秀元・吉川広家とともに徳川家康軍の後方に陣取りました。

 ところが、吉川広家は西軍の勝利を危ぶみ、東軍とひそかに内通して戦場では戦わずにいるかわりに、東軍が勝利した暁には所領を安堵(領地をそのまま保全)してほしいと交渉していたのです。

 毛利秀元自身には戦意があったとされますが、広家がそれを押し留め、西軍からの参戦の催促があっても『宰相殿は、いま弁当を食べているから』と動きませんでした(宰相殿の空弁当)。

 その結果、恵瓊さんは毛利秀元が東軍に内通しているのではないかという疑心暗鬼に陥り、自身らも傍観を余儀なくされます。
 
 西軍の敗北後、恵瓊さんは逃亡しましたが京都で奥平信昌隊に捕縛され西軍武将の1人として、六条河原にて斬首され、小西行長らと共に梟首(きょうしゅ=獄門・晒し首)に処せられました。享年62歳とも64とも言われています。

 この首塚はその恵瓊さんの首を建仁寺の僧侶が持ち帰り葬ったものだそうです。

 ここにあるのは波乱万丈の一生をおくった恵瓊さんの首塚ですが、恵瓊さんゆかりの広島の安国寺(不動院=現:新日山真言宗別格本山安国寺不動院)にはお墓があるそうです。

 ついでながら、吉川広家が毛利家の所領を安堵するという条件で東軍に協力し西軍を裏切ったにもかかわらず、結局毛利家は120万石から、領地を36万石に大幅縮小されました。とほほ。
 この徳川の約束反故の恨みが後の長州藩の討幕運動-明治維新につながったという人もいるようです。因果はめぐるねえ。

 『東陽坊』と『首塚』。風流な茶の湯と、過酷な戦乱という両極が同時に存在した戦国時代を象徴するようなお庭ですね。

 次回に続きます。
 次回はこちらhttp://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/49537797.html

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