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六道の辻は魑魅魍魎さんたちの原宿。 【ファイルMK7】2009.11.28 

【ファイルMK7】2009.11.28 六道の辻は魑魅魍魎さんたちの原宿。

京都の鴨川は、都と冥界との境界(その2)


 それで、まず、当魔界の部屋でご案内する各所の位置図をみていただくことにしましょう。
 再掲です。





 前回ご紹介したように、松原通はもともと、鳥辺野(とりべの)という墓地の葬送道でした。

 前回の記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/49760775.html

 昔、京の都人は、鴨川により内側が洛中で、外側すなわち洛外は冥界だと考えていました。

 鳥辺野(とりべの)は平安時代以前から墓地・葬送の地で、北の蓮台野(れんだいの)、西の化野(あだしの)とともに京都の三大墳墓地です。

 826 (天長3)年5月、淳和天皇の第一皇子桓世親王が、22歳で亡くなり、鳥部寺の南の山に葬られた記録があるそうです。
 
 今の五条通より南側の阿弥陀ヶ峰から泉涌寺・東福寺までは、天皇や貴族などの上流階級の墓所で、北側は庶民の墳墓が多く狭義の『鳥辺野』で、親鸞上人の荼毘所(だびじょ)や、藤原一族の火葬の地もありました。

 阿弥陀ヶ峰の山頂には、豊臣秀吉の墓所、豊国廟があります。

 お墓の『平安京ニュータウン』といったところですね。

 さだまさしさんに『鳥辺野』という曲があります。
http://www.youtube.com/watch?v=xbOVQkKTekU

 さだまさしさんは、鳥辺野の今熊野の剣神社から泉涌寺までの山道がお気に入りだそうです。

 『鳥辺野』も『蓮台野』も『化野』も、もともとは風葬の地でした。

 風葬というのは、死体を地中に埋めずにさらしておき、朽ちるに任せる風習のことで、輪廻思想の仏教からすると、理に適った葬送の方法だと言えます。

 しかしながら、屍肉の腐臭を考えただけでも、洛中(都の中)というわけにはいかず鴨川を隔てた冥界の地を設定しなければならなかったのでしょうね。

 風葬の地には、いずれも『野』という地名が付いていて、京都では『野』という言葉に葬送の意味が含まれているそうです。

 それがやがて土葬に変化していったのですね。

 疫病のことを考えれば、衛生的には火葬が一番良いのでしょうが、キリスト文化圏の人なんかは、最後の審判の時に死者が蘇ることになっているので、土葬にこだわるのですね。

 ゾンビの映画なんかは『火葬にすればいいじゃん』って思ってしまうので、怖くありません。キリスト教徒にすれば、最後の審判まで土中で待機して、やがて神の国に行くはずが、中途半端に蘇って彷徨いっぱなしというのは、異教徒には想像できない恐怖なのでしょう。


 ちなみに、インドの有力なビジネス集団パルシーはペルシア系ゾロアスター教徒の集団で、ムンバイ(もと英名のボンベイ)を中心に中世から有力商人を輩出してきました。

 もともとは古代イランに住んでいたのですが、7世紀にササン朝ペルシアがイスラム教徒に征服されて、国教のゾロアスター教からイスラム教に改宗させられたのです。

 イスラム教への改宗を拒否したゾロアスター教徒の一部が、イラン(ペルシア)からインドに逃げてきてパルシーになりました。

 インド国内のパルシー7万人のうち5万人がムンバイで暮らしていて、その人たちは『鳥葬』によって葬儀を行います。

『鳥葬』というのは、鳥に遺体をついばませる葬礼方法です。

 ゾロアスター教の鳥葬場はムンバイの中心部の森にあって『ダフマ(沈黙の塔)』と呼ばれています。

 しかしながら、都市化の進展で遺体をついばむハゲワシさんの数が減少して、『鳥葬』の存続が危ぶまれているんだって。自然破壊はいろんなところに影響を及ぼしています。


 ということで、葬儀というのは人々の死生観にかかわっているのですね。


 それで、旧五条橋(松原橋)を少し東進したところに、六道の辻(とくどうのつじ)の石塔が立っています。









 上の写真でタクシーが真っ直ぐ向かっているのは清水寺方面で、右に折れて(傘をさしたおばちゃんが横断中の道の方へ)すぐの場所に六波羅蜜寺があります。

 仏教では解脱して仏様にならなければ、6つの世界のうちのどれかに生まれ変わるのですね。この6つの世界のことを六道(りくどう、ろくどう)といいます。
 天道(てんどう)、人間道(にんげんどう)、修羅道(しゅらどう)、畜生道(ちくしょうどう)、餓鬼道(がきどう)、地獄道(じごくどう)が六道です。

 六道輪廻(りくどうりんね)とか言いますね。

 だから六道の辻は、冥界への入り口ということなのですね。

 六道の辻の南西角にある小さなお寺が西福寺です。





 弘法大師が自ら土でつくった六波羅地蔵を安置したことに始まる古刹で、檀林皇后(だんりんこうごう)が皇子(のちの仁明天皇)の病気平癒を祈願したことから、子育て地蔵として信仰を集めています。

 夏に建仁寺に行った時に立ち寄った際には、ちょうど『精霊お迎え(8月8・9・10日)』の時期で多くの善男善女が訪れていました。





 お不動さんにお参りします。





 この期間だけ、地獄絵図や壇林皇后の死生観を表した掛け軸「壇林皇后九想図(だんりんこうごうくそうず)」が展示されます。





 檀林皇后(だんりんこうごう)=橘 嘉智子(たちばな の かちこ、786年-850)様は、第52代嵯峨天皇皇后。橘奈良麻呂の孫、贈太政大臣・橘清友の娘です。

 奈良の法華寺の十一面観音立像は光明皇后をモデルにしたものと云われていますが、檀林皇后をモデルにしたという説もあるそうです。

 それほど檀林皇后は美しかったのですね。

 檀林皇后は、鳥や獣の飢を救い、諸行無常を我が身をもって示すために、自分の死後に埋葬を禁じて道端で朽ちるにまかせ、腐乱して蛆がわき、白骨化していく過程を絵師に描かせたという伝説が残っています。

 それが「壇林皇后九想図(だんりんこうごうくそうず)」だそうですが、9世紀のものにしては新しいので、この伝説を題材にした掛け軸なのでしょう。

 鎌倉時代に鴨長明によって書かれた『方丈記』の世界ですね。

『行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し』

 ちなみに、方丈記の記述では、養和年間(1181-1182)の2年間にわたって飢饉があり、多くの死者が出たそうです。

 旱魃、大風、洪水が続いて作物が実らず、朝廷が様々な加持祈祷を試みても甲斐なく、諸物価は高騰し、さらに翌年には疫病が人々を襲いました。

 仁和寺の隆暁法印がおびただしい数の餓死者が出たことを悲しみ、死者の額に「阿」の字を書いて結縁し、その数を数えたところ、養和二年四月・五月の左京だけで、四万二千三百余に達したといいます。

 六道の辻付近は轆轤(ろくろ)町という町名がついていますが、昔は髑髏(どくろ)町と呼ばれていたという話もあるそうです。
 

 昔の都は、京都に限らず、死の存在がとても身近なものだったのですね。

 次は六道の辻で売っている幽霊飴の記事だよ。
 次回はこちら。
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神戸市立王子動物園のカバの赤ちゃんは甘えん坊だよ 【ファイルC156】2009.11.25 

【ファイルC156】2009.11.25 神戸市立王子動物園のカバの赤ちゃんは甘えん坊だよ

わんぱくでお母さんも大変だねえ。

 カバの赤ちゃんが生まれました。この前はオランウータンの赤ちゃんの記事を載せましたね。今度はカバの赤ちゃんです。
オランウータンのムムちゃんの記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/49144960.html

 神戸はベビーラッシュです。パンダさんは今年も残念だったみたいですけれど、これだけは天からの授かりものですからね。

 私はカバさんが大好きです。したがって、イソジンでうがいをしているカバの親子も大好きです。

 室内のプールに母子で潜っていたのですが、鉄の扉が開けられたとたん、待ち構えたように赤ちゃんが運動場に飛び出しました。





 お母さんも、赤ちゃんの後を追っかけます。

 8月11日朝に生まれ、生後約3ヶ月です。

 お母さんは、静かに水に入るのに、赤ちゃんはバチャバチャと飛沫を跳ねさせます。





 餌を用意されたので、もぐもぐ食べます。





 赤ちゃんは離乳したのかな?

 と思ったら、赤ちゃんはマネっこしただけみたいです。すぐに飽きて周りをきょろきょろ。





 口の周りに餌をくっつけています。おべんと付けてどこ行くの?

 大きな口を開けます。





 いまのちゃんと写真に撮った?





 得意げな赤ちゃんです。えっへん。

 お母さんのナミコさんに甘えています。





 温泉に漬かっているみたいだねえ。おそろいで、お耳をくるくる回して可愛いったらありゃしない。

 赤ちゃんは性別も分かっていないので、名前もまだついていません。

 別にお母さんが名前で呼ぶ訳ではないので、不自由はないのでしょうが・・・。

 お母さんはずっと赤ちゃんを見守っています。





 優しいねえ。お母さんのナミコさんは、1992年9月16日 旭川市旭山動物園生まれです。2003年6月25日に王子動物園にやってきました。

 赤ちゃんは水中回転して、足をにょっきり。





 身軽だねえ。大人のように長時間潜水できないから、ずっと姿を見ることができます。

 豚足みたいに見えるのは、同じ偶蹄目だからかな?

 最近カバさんは、鯨偶蹄目で、鯨さんとは同じ水生依存の強い祖先をもつ共通派生形質であるという説が浮上してきたので、泳ぎがうまいはずだねえ。

 赤ちゃんは動き回るので、お母さんも追っかけるのが大変。





 お父さんの三代目 出目男さんは、狭い動物園では一緒だと赤ちゃんが危険なので、室内に隔離されています。母子と一日交代で外に出るんだって。





 三代目 出目男さんは1981年12月23日名古屋市東山動物園生まれ1986年9月24日に姫路セントラルパークよりやってきました。

 王子動物園では、オスのカバさんは代々『出目男』を襲名するのかねえ。歌舞伎の人みたいだねえ。

 でも、お互いに姿が全く見えないのに、時々お母さんと吼え声でお話していましたよ。

 お母さん、おんぶ~。





 赤ちゃんといっても、さすがに重いので、すぐに振り落とされました。

 たべちゃうぞ~。





 わ~い、お母さんすご~い!お母さんの大きなお口に赤ちゃん大喜び。

 お母さんに遊んでもらうよ。





 お母さんの下唇をはむはむ。





 口の大きさを比べます。





 お母さんにはかなわないよお。

 ということで、赤ちゃんはエンドレスで遊びます。





 お母さんお疲れ様です。

 さようなら、元気でね。

 お母さんはずっと赤ちゃんに寄り添っていました。一産一子だから、大事に育てるんだね。本当に子煩悩です。

 だから、万が一赤ちゃんに危害を加えようものなら、お母さんとっても怖いよ。

 カバさんは、サハラ砂漠より南のアフリカ大陸の川や湖沼にお住まいです。

 寿命は野生で30年、飼育下では40年以上だそうです。みんな長生きしてね。

京の新五条大橋・旧五条橋(現松原橋)に行ったよ。 【ファイルMK6】2009.11.23 

【ファイルMK6】2009.11.23 京の新五条大橋・旧五条橋(現松原橋)に行ったよ。

京都の鴨川は、都と冥界との境界(その1)

 以前、三条大橋が東海道中膝栗毛のゴール地点で、三条河原が石川五右衛門が処刑された地だという記事を書きました。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/23905574.html

 また、高山彦九郎遥拝像が三条大橋の外から御所を遥拝しているという記事も書きました。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/24573548.html

 それから、祇園祭では、鴨川の外(東側)は異界で、京の都の魔を払うために異界に位置する祇園社から、主祭神の素戔嗚尊(スサノヲノミコト) さん達が御神輿に乗って橋を渡って、御旅所まで出張されるという記事も書きました。


 というように、鴨川は京の都すなはち洛中と冥界を隔する境界の川なのですね。


 ということで、五条大橋に着きました。





 中央分離帯のある、交通量が多い大きな橋です。

 橋の袂には、弁慶さんと牛若丸さんの可愛い像が建っています。





 ちょっとタンマと言っている弁慶さん。





 弁慶さんと牛若丸さんについては、以前紹介した祇園祭の橋弁慶山の記事を参考にしてくださいね。


 擬宝珠(ぎぼし、ぎぼうしゅ)はとても古くて立派です。





『雒陽五條石橋 正保2(1645)年 乙酉(きのととり、いつゆう)11月吉日』と刻まれています。


雒陽ラクヨウ(ラクヤウ)というのは、洛陽のことで、支那の洛陽です。東周に洛邑と称され都が設置されて以来、後漢・曹魏・西晋・北魏・隋・後唐などの都城が設置され、また長安を都とした王朝でも、洛陽を副都とした王朝が多く中国古代の政治経済の中心地でした。


転じて、京都は、しばしば支那の洛陽に因んで、京洛、洛中、洛陽などといわれていました。だから、「雒陽五條石橋」というのは、京都の五条石橋という意味ですね。


 元々は平安京を東西に分割し、西側(右京)を『長安』、東側(左京)を『洛陽』と呼んでいたのですが、右京すなわち『長安』側は湿地帯が多かったことなどから程なくして廃れ、市街地は実質的に左京すなわち『洛陽』だけとなったのです。

 現在でも京都以外の地方から京都へ行くことを「上洛する」「入洛する」といいますね。

 正保2年は1645年で、干支は乙酉(きのと-とり)です。『し』が『乙』を表すのかな?

 ちなみに正保2年がどんな時代かというと、前年1644年に明が滅んでいます。

 五条大橋の袂から、鴨川の岸辺に降ります。





 川のほとりには、サギさんがいました。





 ユリカモメさんもいます。





 ジャンプして、急降下して川の魚を食べていました。

 ユリカモメさんは、現在鴨川に公園の鳩なみに沢山いますが、実は京都に来たのは、1970年代になってからだそうです。

 ユリカモメさんは、昔の本に都鳥という名前で出てくる鳥のことだという説が有力だそうで、『伊勢物語』の「九段 東下り」に出てきます。

 なほゆきゆきて、武蔵の国と下つ総の国との中に、いと大きなる河あり。それをすみだ河といふ。(中略)さるをりしも、白き鳥の嘴と脚と赤き、しぎの大きさなる、水の上に遊びつつ魚を食ふ。京には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず。渡しもりに問ひければ、「これなむ都鳥。」と言ふを聞きて、『名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと』とよめりければ、舟こぞりて泣きにけり。

 隅田川に『京には見えぬ鳥』がいて、渡しもりに名前を聞くと『都鳥』ということなので、舟のお客さんは京都のことを偲んで泣いたのですね。

 私はてっきり京都に沢山いるからユリカモメのことを都鳥と呼んでいたのだと思っていましたよ。

 五条大橋から北側に松原橋を望むことができます。





実は今の五条大橋は、豊臣秀吉が天正年間(1573~92)、方広寺大仏殿造営の際にこの地に移したので、もともとは松原橋の位置にあったのだそうです。


 ということで、旧五条橋の松原橋に向かいます。

 途中にあった小公園で、ムギマキさんが赤い実をくわえていました。




 

松原橋に到着。






ここが元々五条橋があった場所です。弁慶さんと牛若丸さんが五条橋で戦ったのが本当だとすれば、ここがその場所なのです。


 中世の五条橋は、東の橋と西の橋に分かれていて、2つの橋を中継する中洲が鴨川の真ん中にあったそうです。

『雍州府志(ようしゅうふし)』などの記載によると、この中洲には法城寺(大黒堂)という真言宗の小さなお寺があったそうです。法城寺は陰陽師で有名な安倍清明ゆかりの寺で、清明が亡くなったとき、この寺に葬り、晴明塚を立てました。

 その後、改宗・改号して京都知恩院の末寺となり。数度の洪水に遭い、慶長12(1607)年に三条大橋東詰、京阪三条駅のすぐ北側の現在地に移転。この折、晴明塚もともに移築されたそうです。(現在の心光寺=法城山晴明堂)。

 松原橋(旧五条橋)の上から、現五条橋を望む。





 時代は変わっても鴨川は流れ続けています。

 鴨川東隣の疎水に落ち葉が浮かんでいました。





 さらに松原通を東に進みます。





 狭い通りだねえ。

 ということで、位置関係を落とした写真を見てください。





 鴨川が南北に流れ、その東側に赤で鳥辺野と書かれています。

 そして、緑の線で松原通を示しています。

 松原通はもともと、鳥辺野という墓地の葬送道でした。

 ですから、魑魅魍魎、妖怪、幽霊の原宿通りといった感じなのです。

 松原通はそのまま行けば清水寺に通じています。

 これから、この一帯をご案内しますね。次に続くよ。


大阪海遊館のイトマキエイさんは世界初展示の希少種だよ 【ファイルC155】2009.11.20 

【ファイルC155】2009.11.20 大阪海遊館のイトマキエイさんは世界初展示の希少種だよ

『オニ』イトマキエイ(マンタ)さんと違うねえ。

 以前海遊館のオニイトマキエイ(マンタ)さんの紹介をしました。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/36195864.html

 ところがオニイトマキエイ(マンタ)さんはずっとジンベイザメのカイ君のあとを付け回して、カイ君が神経的に参ってしまいました。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/36142760.html

 ストーカー中のマンタさんの証拠写真(再掲)





 それでもって、マンタさんは大水槽の一角に網で隔離されていました。別にこの写真が原因じゃないと思いますけれど・・・。






 とほほ。

 鬼嫁さんみたいにカイ君をいびったのかなあ?

 オニイトマキエイ(マンタ)さんは相変わらず元気ですが、大阪海遊館では『オニ』じゃない、普通の『イトマキエイ』さんの展示も2008年8月から始まりました。

 イトマキエイの展示は世界では唯一なんだそうです。それまで餌付けに至らない飼育例が数例あったそうですが、餌付けを成功させ、展示まで至ったのは世界初なんだって。

 実は今回の写真も、去年コツメカワウソさんの子供をご紹介した記事の写真と同じ日に撮ったものです。こっちもまだあるねえ。

 さっそくやってきたイトマキエイさん。





 高知県土佐清水市沖の定置網にかかって、同市内の海遊館の研究施設で飼育されたうえでやってきました。横幅が約2.2メートルのメスです。

 オニイトマキエイ(マンタ)さんより一回り小柄です。尻尾が長いよ。

 エイなので、尾の付け根部分にエイ特有の毒針があります。でもアカエイ類やトビエイ類ほど大きくなくて毒性もそれほど強くないようです。

 南日本から東シナ海、南シナ海、ハワイにかけての海にお住まいですが、ごく稀にしか姿が見ることができないそうです。

 かっこいいねえ。





 世界でここでしか見られないと思うと、なんか得した気分だねえ。えっへん!

 オニイトマキエイ(マンタ)さんより優しいお顔立ちです。





 お口も細いねえ。

 悠然と泳いでいます。





 オニイトマキエイ(マンタ)さんと違って、ジンベイザメさんには無関心みたい。





 ヒレを下げるとブーメランみたいな形になります。





 良いお顔だねえ。





最後にヒレを振ってごあいさつ。





 さようなら。


 2009年11月13日の共同通信の記事によると、この子のお婿さんになる予定で高知県土佐清水市の研究所で飼育されていたオスのイトマキエイさんが11月12日に海遊館に運ばれる途中、死んじゃったそうです。

 せっか満を持しての「世界初のペア展示」のはずだったのに、残念です。

 だいたい、オスというのは神経が繊細で、保守的で、環境の変化に弱いのです。生命力ではとてもメスにはかないません。

 一人で寂しいけど、元気でがんばってほしいねえ。

『いい国(1192)作ろう鎌倉幕府!』のどこが誤り?その7 【ファイルH26】2009.11.18 

【ファイルH26】2009.11.18 『いい国(1192)作ろう鎌倉幕府!』のどこが誤り?その7

『世界一受けたい授業』の解釈(下)



 さらに河合氏は続けます。

 『もし1185説が定説化していけば、本当に「イイハコつくろう鎌倉幕府」になる可能性は出てくるだろう』
 
 第一、河合氏は『目からウロコの日本史 ここまでわかった!通説のウソと新事実』で1192年に鎌倉幕府が生まれたと考えるのは、もう時代遅れなのである』って断言しているんですよ。

『もし1185説が定説化していけば』って何?

 また、河合氏は『目からウロコの日本史 ここまでわかった!通説のウソと新事実』では、『政権というものをどう解釈するかにかかっており、そこのことに関して学者の意見の一致が見られないかぎり、鎌倉幕府の創設については、今後とも結論はでないであろう』って、1185説が定説化するのは絶望的みたいな書き方してるんですよ。

 こういう訳の分からないことを書いておいて、さらに河合氏はこう書きます。

◇ ◇ ◇ ◇

 ただ、歴史学会では、何年に幕府が誕生したかということについては、それほど重要視していないのである。別にどうでもよいことだからだ。
 それは明治大学の上杉和彦教授の次の言葉からよくわかる。
「(鎌倉幕府)成立時期に関わる前述の諸説に優劣をつけ、取捨選択する必然性は、少なくとも筆者には感じられない。あるいは便宜的な説明ととられるかもしれないが、1180年から1192年までの時期を、一連の鎌倉幕府成立過程ととらえ、その中での重要な画期の特質を理解すれば十分であると思う」(『源頼朝と鎌倉幕府』新日本出版社 2003年)
 また、歴史教育においても、かつてのように年号を暗記させるという馬鹿なやり方は姿を消している。むしろ、どのように事象が発展していったかといった歴史の流れを重視することが大切だと考えるようになっている。

◇ ◇ ◇ ◇

 『もし1185説が定説化していけば、本当に「イイハコつくろう鎌倉幕府」になる可能性は出てくるだろう』って書いておきながら、その舌も乾かぬうちに、『また、歴史教育においても、かつてのように年号を暗記させるという馬鹿なやり方は姿を消している』って人に高所から説教垂れてるのです。

 『イイクニつくろう鎌倉幕府』よりも『1180年から1192年までの時期を、一連の鎌倉幕府成立過程ととらえ、その中での重要な画期の特質を理解する』ことの方が、ずっと暗記しなければならない量は多いと思うんですけどね。

 入試でそんなことやってたら、大学落ちますよ。河合氏は高校時代、『1180年から1192年までの時期を、一連の鎌倉幕府成立過程ととらえ、その中での重要な画期の特質を理解する』なんてまどろっこしいことやっていたのでしょうか?

 それにしても新日本出版社って『日本共産党系の雑誌と書籍、児童書を発行』の出版社ですね。

 『歴史学会では、何年に幕府が誕生したかということについては、それほど重要視していないのである。別にどうでもよいことだからだ』というんだったら、最初から、『鎌倉幕府創設は1192年ではなかった』なんて本に書かないでほしいんですけどね。

 自分で読者をさんざん引きずりまわしておいて、よくもぬけぬけと『別にどうでもよいことだからだ』なんて書けるものです。

『ぬすっと、たけだけしい』とは、まさにこのことです。

 さらに河合氏は続けます。絶好調です。

◇ ◇ ◇ ◇

 最後の蛇足ながら、驚きの新事実を語って本稿を終わりにしたい。
「鎌倉幕府」という言葉についてである。
 もし、今の人がタイムスリップして鎌倉時代に行ったとして、幕府の御家人に「鎌倉幕府を知っていますか」と尋ねても、きっと答えは返ってこないであろう。

◇ ◇ ◇ ◇

 当たり前です。今の人がタイムスリップして縄文時代に行ったとして、縄文人に「縄文時代を知っていますか」と尋ねても答えは返ってこないに決まっているし、卑弥呼さんの時代に行って、卑弥呼さんに「卑弥呼という人を知っていますか」と尋ねて、「卑」という漢字の意味を伝えたら、きっと打ち首になるでしょう。

 歴史は現代人が過去に学ぶために研究するわけで、時代区分なんて現代人が理解しやすいように、決めているだけです。

 最後に河合氏は書きます。

◇ ◇ ◇ ◇

 では、いったいいつから、「鎌倉幕府」という語が使用されるようになったのだろう。
 それはなんと、1887年(明治20)ごろからだといわれている。
 ちょっと詭弁になるが、そういった意味では、鎌倉幕府は誕生してからまだ120年しか経っていないことになるわけだ。

◇ ◇ ◇ ◇
 
 だったら、何?

 ひょっとして、『世界一受けたい授業』では、『鎌倉幕府』も『室町幕府』も『江戸幕府』も使わないのかな。

 『ちょっと詭弁になるが』ではありません。『完全な』詭弁です。

 何をかいわんやです。

 それにしても、こういう文章に踊らされている人たちって一体・・・。



『いい国(1192)作ろう鎌倉幕府!』のどこが誤り?その6 【ファイルH25】2009.11.18 

【ファイルH25】2009.11.18 『いい国(1192)作ろう鎌倉幕府!』のどこが誤り?その6

『世界一受けたい授業』の解釈(中)



 前回、『世界一受けたい授業』の講師 河合敦さん著の1999年8月PHPエディターズ・グループで刊行されたこの『目からウロコの日本史 ここまでわかった/通説のウソと新事実』文庫版2003年6月18日第1版第1刷では、『最近の日本史の教科書には、1192年に鎌倉幕府が誕生したという記述は、ひとことも載っていない。はっきりいってしまえば、この年に鎌倉幕府が生まれたと考えるのは、もう時代遅れなのである』
 と断言し、『実は、それをめぐって学者たちからさまざまな意見・学説が出され、多くの論争が展開されてきたものの、いまだに定説が存在しない、というのが現状なのである』と諸説を紹介してはありますが、『現在のところ、定説ではないが、一番有力視されているのは④の1185年説である』としているという記事を書きました。

 ところが、同じ河合敦さんの著書『教科書から消えた日本史-学校で習った「歴史」は間違いだらけ』光文社2008年6月25日初版1刷発行を読んでびっくり!

 P128に鎌倉幕府成立の章が設けられ、『「イイクニつくろう」から「イイハコつくろう」へ? 1180年から1221年まで諸説紛々』という副題が付けられています。

 引用してみましょう。

◇ ◇ ◇ ◇

 テレビ番組格好のネタ「1185」

 数年ほど前から私は時々テレビ番組に出演するようになり、そこで日本史の話をするようになった。そうしたなかで視聴者に最も大きな反響を呼んだのが、鎌倉幕府の成立であった。
 かつて歴史の教科書には、「1192年に鎌倉幕府が誕生した」と書かれており、みなさんの多くもこの年号を覚えるため、「イイクニつくろう鎌倉幕府」と暗誦したはず。
「しかし、いまの歴史学会では、1192年は少数説で、最も有力なのは1185年説なんですよ」
 この一言が、テレビを見ていた方々に大きな衝撃をもたらしたようだ。以後、私はさまざまなマスコミに呼ばれ、同じ話をしてほしいという依頼を受け、何度も鎌倉幕府の成立について語らなければならなくなった。この事実が、世間への反響の大きさを物語っていよう。
 ただ、とても困るのは「日本史の新事実」とか「意外な新歴史」などと題し、ウソの歴史を事実のごとく平然と垂れ流す「パクリ番組」が増えたことである。とくに度肝を抜かれたのは、ある民放番組で「いまの教科書には鎌倉幕府の成立は1185年と書いてあり、1192年とは書かれていません。歴史は変わっているんですね。これからは『イイハコつくろう』と覚えましょう」と平気で喋っているのを聞いたときだ。
 私は歴史研究家であり、歴史を教える教育者である。自分がマスコミに紹介した話が誤って広がっていくことに、自責の念と強い怒りを覚える。そこで本稿では、鎌倉幕府の成立について、しっかりと語っていきたいと思う。

「名実ともに」1192

 まず最初に言ってしまえば、今の教科書のほとんどは、まだ「1192年に鎌倉幕府が成立した」と明記している。この事実は、きちんとおさえておくべきだろう。

◇ ◇ ◇ ◇

 私は、河合敦さんの変節に度肝を抜かれました。

 だって、『目からウロコの日本史 ここまでわかった!通説のウソと新事実』で最近の日本史の教科書には、1192年に鎌倉幕府が誕生したという記述は、ひとことも載っていない。はっきりいってしまえば、この年に鎌倉幕府が生まれたと考えるのは、もう時代遅れなのである』と断言し、『実は、それをめぐって学者たちからさまざまな意見・学説が出され、多くの論争が展開されてきたものの、いまだに定説が存在しない、というのが現状なのである』と諸説を紹介してはありますが、『現在のところ、定説ではないが、一番有力視されているのは④の1185年説である』と主張したのは誰あろう、河合敦氏その人なのだからです。

 何が、他人事みたいに『今の教科書のほとんどは、まだ「1192年に鎌倉幕府が成立した」と明記している。この事実は、きちんとおさえておくべきだろう』ですか。

 「いまの教科書には鎌倉幕府の成立は1185年と書いてあり、1192年とは書かれていません。歴史は変わっているんですね。これからは『イイハコつくろう』と覚えましょう」

 と民放番組が平気で喋るような状況をつくったのは河合さんでしょ?

 それでテレビ番組でひっぱりだこになったのではないですか。
 
 何が『私は歴史研究家であり、歴史を教える教育者である。自分がマスコミに紹介した話が誤って広がっていくことに、自責の念と強い怒りを覚える』ですか。


 思惑通りの大衆洗脳ができたのじゃないですか。

 頃合を見計らって、何食わぬ顔をして、マスコミに責任をなすりつけるのですか。

『「日本史の新事実」とか「意外な新歴史」などと題し、ウソの歴史を事実のごとく平然と垂れ流』したのは、河合さん、貴方じゃないのですか?

 それで、『そこで本稿では、鎌倉幕府の成立について、しっかりと語っていきたいと思う』ということだそうなので、河合氏がどのように語っているのか見ていきましょう。

 
◇ ◇ ◇ ◇

 ただ、そうしたなかで、微妙に表現が異なってきているので、じっさいに今と昔の日本史教科書を並べて記してみた。
「頼朝は、・・・(略)・・・1192年(建久3)には征夷大将軍に任じられて、ここに鎌倉幕府が成立した」(『日本史』三省堂 1978年)
「頼朝は・・・(略)・・・1192年(建久3)には法皇の反対で就任できなかった征夷大将軍に任命され、名実共に鎌倉幕府が成立した」(『日本史B』三省堂 2007年)
 さて、いかがであろう。双方の文章で、どこに違いがあるか気づかれただろうか。
 そう、最近の教科書のほうには、「名実共に」という文言が挿入されているのだ。つまり、1192年(建久3)の段階になってようやく、鎌倉幕府成立の名目(形式)と実質(実際)が共に備わったということを暗に言っているのである。

◇ ◇ ◇ ◇

 またもインチキです。挿入されているのは「名実共に」だけではなく、「法皇の反対で就任できなかった」という文言もあるのです。

 後白河法皇は頼朝の権力の増大化を嫌っていて、死ぬまで頼朝を征夷大将軍に任命しなかったのです。

 征夷大将軍を与える与えないかが、頼朝の政権が正統性を持つかどうかの分かれ目なのでした。

 つまり、1192年(建久3)に後白河法皇が崩御し、征夷大将軍に任命されたおかげで、名目(形式)だけでなく実質(実際)も頼朝が正統な政権を握ったのです。だから、鎌倉幕府の成立は1192年(建久3)説が正しいのです。

 さらに、河合氏は続けます。
 
◇ ◇ ◇ ◇

 では、実質的に幕府が誕生したのはいつなのだろう?
 じつは、いまの段階においても研究者のあいだで意見の一致を見ず、何を持って武家政権の成立とみるかについても定説がないのだ。
 鎌倉幕府の創立年が定まっていないというのは、読者にとって意外に思うかもしれないが、それがいまの実態なのだ。
 ただし、有力視される説はいくつか存在する。そのうち最も広く認知されつつあるのが、1185年(文治元)説なのだ。こうした動向を反映して、山川出版社の『詳説日本史B』(2007年)には次のように書かれている。
「1185(文治元)年、平氏の滅亡後、頼朝の強大化を恐れた法皇が義経に頼朝追討を命じると、頼朝は軍勢を京都におくって法皇にせまり、諸国に守護を、荘園や公領には地頭を任命する権利や1段当り5升の兵粮米を徴収する権利、さらに諸国の国衙の実権をにぎる在庁官人を支配する権利を獲得した。こうして東国を中心にした頼朝の支配権は、西国にもおよび、武家政権としての鎌倉幕府が確立した」
 かなり長い引用になったが、この教科書が明確に1185年に武家政権としての幕府が実質的に成立したとあらわしているのがわかるだろう。
 その理由も本文中にあるとおり、守護や地頭という頼朝政権の役人を全国に置いたり、兵糧米という名目で税金を徴収する権利を朝廷から獲得したことを根拠にしている。

◇ ◇ ◇ ◇

 すごいインチキ!

 どうしてここで引用を終わるの?

 山川出版社の『詳説日本史B』ではその後に、
『その後、頼朝は逃亡した義経をかくまったとして奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)を滅ぼすと、1190(建久元)年には念願の上洛(じょうらく)が実現して右近衛大将(うこのえたいしょう)となり、1192(建久3)年、後白河法皇の死後には、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任ぜられた。こうして鎌倉幕府が名実共に成立してから滅亡するまでの時代を鎌倉時代とよんでいる』
と続くんですけど。

 山川出版社の『詳説日本史B』については、私が書いたこちらを参照してください。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/49637581.html

 河合氏はこの文章を引用せず『この教科書が明確に1185年に武家政権としての幕府が実質的に成立したとあらわしているのがわかるだろう』って書いてますが、山川教科書では、
1185年には『幕府が実質的に成立』したと書いてるんじゃなくて、『幕府が確立した』とあり、1192(建久3)年に『鎌倉幕府が名実共に成立』って書いてあるんですけど。

 だから山川教科書は鎌倉幕府の『成立』年を1192(建久3)年としているんですけど・・・。

 1192年説をとっている(もしくは1185年説、1192年説の両説をとっている)山川教科書を『この教科書が明確に1185年に武家政権としての幕府が実質的に成立したとあらわしているのがわかるだろう』って1185年説をとっている例に使うというのは、一体どういう神経をしているのでしょう。

(下)に続く。
(下)はこちら
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/49737642.html



『いい国(1192)作ろう鎌倉幕府!』のどこが誤り?その5 【ファイルH24】2009.11.18 

【ファイルH24】2009.11.18 『いい国(1192)作ろう鎌倉幕府!』のどこが誤り?その5

『世界一受けたい授業』の解釈(上)


 最初から読まれる方はこちら
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/49637581.html

 このデマの発端になったと思われる1999年8月PHPエディターズ・グループより刊行された
『目からウロコの日本史 ここまでわかった/通説のウソと新事実』
のPHP文庫版(2003年6月18日第1版第1刷)をみてみましょう。

 著者の河合敦さんは、日本テレビの『世界一受けたい授業』の講師で、テレビで頻繁にお顔をみることができる方です。いわば、歴史分野におけるマスコミの寵児といっても良い存在の方です。

 本書のP168にはこういう題名の章がたてられています。




『鎌倉幕府創設は1192年ではなかった』
「イイクニ」鎌倉幕府の本当の成立年とは?

 というように、ここを読めば鎌倉幕府の本当の成立年が分かるらしいことが分かります。期待を持って読み進めます。

 まず、
『「イイクニつくろう鎌倉幕府」という語呂合わせで、1192年に源頼朝が鎌倉幕府を創設したと記憶している読者も多いだろう。だが、最近の日本史の教科書には、1192年に鎌倉幕府が誕生したという記述は、ひとことも載っていない。
 はっきりいってしまえば、この年に鎌倉幕府が生まれたと考えるのは、もう時代遅れなのである』

 威勢の良い書き出しです。

 ところが、のっけから大嘘です。

 以前紹介したように、歴史教科書で、圧倒的なシェアを持つ高校の山川出版社の日本史教科書では、1185(文治元)年説と1192(建久3)年説の両説併記となっていますが、1192年に「名実共に成立」と書かれ、実質的には1192年説を採用しています。


 そのすぐ後に、こう書いているのです。

『実は、それをめぐって学者たちからさまざまな意見・学説が出され、多くの論争が展開されてきたものの、いまだに定説が存在しない、というのが現状なのである』

 なんなのこれは???

 この章の題名は

『鎌倉幕府創設は1192年ではなかった』「イイクニ」鎌倉幕府の本当の成立年とは?

 なのです。インチキじゃない!

 それで、諸説の一覧を紹介しています。

◇ ◇ ◇ ◇

① 1180年説・・・・頼朝、鎌倉に入り侍所を設置
② 1183年説・・・・朝廷から東国の支配権を認められる
③ 1184年説・・・・公文所・問注所を設置する
④ 1185年説・・・・全国の守護・地頭を任免する権利を得る
⑤ 1190年説・・・・上洛し、右近衛大将に任命される
⑥ 1192年説・・・・朝廷から征夷大将軍に任じられる
⑦ 1221年説・・・・承久の乱に幕府が勝ち、二元政治終わる

◇ ◇ ◇ ◇

 そして、①~⑦の解説をした後、こう書いてあります。

◇ ◇ ◇ ◇

 以上に述べた①~⑦説のうち、いったいどれを鎌倉幕府の誕生と考えたらいいのだろう。
 現在のところ、定説ではないが、一番有力視されているのは④の1185年説である。
 この年に、地方政権に過ぎなかった頼朝の政治力が、守護や地頭として御家人を全国に及んだわけで、これをもって鎌倉幕府の成立と考える説である。
 ただ、地方政権の誕生をもって幕府の成立と考えるなら、むしろ①、②が妥当だろうし、政治機構の整備ということを重視するなら③と考えていいかもしれない。
 また、内外に天下人たることをアピールしたという事実を幕府の誕生とするなら、⑤の説が適当であろう。
 さらに、征夷大将軍になることではじめて幕府が開けたのだという形式論をとれば、従来からいわれてきた⑥が正解になると思う。
 他方、実質的に日本唯一の政権になった時点をいうならば、やはり⑦がいいだろう。
つまるところは、先述したように、政権というものをどう解釈するかにかかっており、そこのことに関して学者の意見の一致が見られないかぎり、鎌倉幕府の創設については、今後とも結論はでないであろう。

◇ ◇ ◇ ◇

???

『はっきりいってしまえば、この年に鎌倉幕府が生まれたと考えるのは、もう時代遅れなのである』って書いてあったのは何?

 結局何が言いたいのか分かりません。


 それにしても、1999年8月PHPエディターズ・グループで刊行されたこの『目からウロコの日本史 ここまでわかった!通説のウソと新事実』は文庫版も2003年6月18日第1版第1刷ですからこの前紹介した毎日新聞の記事よりもかなり先行しています。

2007年5月7日   いいハコつくろう鎌倉幕府? 変わる歴史教科書 みんなのニュース:教育:MSN毎日インタラクティブについての記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/49666171.html

 
 とにかく、『最近の日本史の教科書には、1192年に鎌倉幕府が誕生したという記述は、ひとことも載っていない。はっきりいってしまえば、この年に鎌倉幕府が生まれたと考えるのは、もう時代遅れなのである』ということを著者は断言しているのです。

 テレビで有名な『世界一受けたい授業』の講師 河合敦さんがこう書いたことが『最近の日本史の教科書には、1192年に鎌倉幕府が誕生したという記述が消えた』というデマの流布に大きな影響を与えたであろうことは、容易に想像できます。

 あの、河合さん。いつのまにか『成立』が『誕生』に変わっているのですが・・・。

(中)に続く。
(中)はこちら
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/49737607.html


おたる水族館のしましまお魚さん3連発。 【ファイルC154】2009.11.04 

【ファイルC154】2009.11.04 おたる水族館のしましまお魚さん3連発。

ゴンズイ・コロダイ・シマキンチャクフグさんだよ

 おたる水族館のしましまお魚さん3連発
 ゴンズイ・コロダイ・シマキンチャクフグさんだよ

 おたる水族館にはしましまのちっちゃい子の水槽が並んでいました。

 まずゴンズイさんです。





 こんにちは。

 ナマズ目ゴンズイ科です。
 背鰭に1本、胸鰭に1本ずつ、計3本の大きな棘があってそれぞれに毒腺があります。
 刺されるととっても痛いのです。また体表粘液にも毒があるんだって。

 だから、可愛いからって触ってはいけません。

 2人仲良く寄り添っています。
 












 ゴンズイさんは集団で行動する習性があって特に幼魚の頃にその傾向が著しいそうです。

 幼魚の群れは巨大な団子状になるので「ごんずい玉」とも呼ばれます。

 ごんずい玉は集合行動を引き起こすフェロモンによって制御されていることが知られているそうです。

 4人じゃあ、ごんずい玉には小さいねえ。





 お次はコロダイさんです。





 まだ幼魚です。

 模様がさっきのゴンズイさんに似ているねえ。
 それもそのはず。実は、ちゃっかり棘に毒があるゴンズイさんに擬態することによって、自分を守っているそうです。





 紀伊半島や三宅島以南では数も多く、普通に見られ、サンゴ礁域にも生息します。

 和歌山県では猪の子供を「ころ」と呼んでいて、コロダイの稚魚にあるシマ模様が猪の子供にているから、コロダイさんと名づけられたんだって。

 言われてみればウリ坊さんそっくりだねえ。

 口の中に砂粒を頬張っては、吐き出しています。





 お次はシマキンチャクフグさんです。





 フグ科で、日本では紀伊半島以南のサンゴ礁域などにすんでいます。強いフグ毒(テトロドトキシン)を持ち、体表から毒を分泌するといわれています。
 だから、ノコギリハギさんはちゃっかりシマキンチャクフグとそっくりに擬態しているそうです。

 背中から見たらシマシマが分かります。





 さようなら。





 今回はシマシマの3種類のお友達でした。

 可愛いけれど、毒を持ったり、毒をもつ子のまねっこしたり、生きていくのは大変だねえ。

マンガ『ひな鳥ひなちゃん』(つくねちゃんシリーズ74~76) 【ファイルMZ38】20009.11.11 

【ファイルMZ38】20009.11.11 マンガ『ひな鳥ひなちゃん』(つくねちゃんシリーズ74~76)


予言のひなちゃん(つくねちゃんシリーズ74)


 




ぷんぷんつくねちゃん(つくねちゃんシリーズ75)


 




こまったひなちゃん(つくねちゃんシリーズ76)


 


おたる水族館のペンギンさんたち。 【ファイルC153】2009.11.08 

【ファイルC153】2009.11.08 おたる水族館のペンギンさんたち。

フンボルトペンギンさんのショーもあるよ

 おたる水族館にもペンギンさんがいます。まずはフンボルトペンギンさん。

 おたるにペンギンさんは似合うのですが、フンボルトペンギンさんは暖かい地方にお住まいのペンギンさんなので、この時は雪が積もって寒くがたがた震えていました。





 なのに、お客さんは『ペンギンさん寒いから喜んでいるね!』って無責任なことを言っているのです。

 実際のところは、ショーがあるので、餌に釣られて外に追い出されたのです。

 仲良く毛繕いするペンギンさん。





 ひなちゃんも寒いねえ。





 この子は大声で訴えています。

 寒いよお!
 お腹すいたよお!





 みんなで固まった方が寒くないねえ。





 たまらず、水の中に飛び込む子も出てきました。





 お水の中の方があったかいねえ。





 やっとこさ、お魚の入ったバケツを持ったお兄さんがあらわれました。





 わーい!

 お兄さんは、フンボルトペンギンさんが暖かい地方のペンギンさんだと説明しています。
 さっそくペンギンさんのショーです。

 まずは、シーソーです。





 といっても、お兄さんがお魚をもってシーソーの端から端へ移動すると、それにつられたペンギンさんが右往左往でギッタンバッコン。





 次にハードルを飛び越えるはずだったのですが、ペンギンさんは全く飛ばず、ハードルの横をすり抜けて餌にまっしぐら!お兄さん、とほほでした。

 今度はペンギンさんの形のフロートを踏みわたります。





 凄いバランス感覚です。

 こんどは高板飛込みだよ。
 えいっ!





 お次は滑り台です。

 お兄さんが志願者を募ったのに、みんな知らん顔で、しかたなくお兄さんが無理やり一人を掴み上げると、滑り台に乗せました。





 他の人は、冷ややかに見ています。

 ということで、珍しいペンギンショーでした。

 ペンギンさんは全くマイペースで、協力的じゃないので、お兄さんが一生懸命なのが、楽しかったねえ。お客さんは、みんな大笑いでした。必見だよ!

 あと、ジェンツーペンギンさんが室内で暮らしています。

 元気良く駆けっこしてたよ。





 とっても仲良し。





 ジェンツーペンギンさんはペンギンさんの中で一番速く泳げます。





 ひと泳ぎしてお腹がすいたら、お魚を食べるよ。羨ましい生活だねえ。





 館内は雪ですべるので、注意板でも大活躍だよ。





 でも、どういうわけかアデリーペンギンさんだねえ。

 ということで、元気なペンギンさんたちでした。


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