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京都の清水寺は不思議なお寺(その1) 【ファイルMK13】2010.02.27 

【ファイルMK13】2010.02.27 京都の清水寺は不思議なお寺(その1)

征夷大将軍の坂上田村麻呂公ゆかりのお寺だよ。

 さて、室町時代に建てられた重要文化財の仁王門 -から清水寺にお参りします。

 鮮やかな朱塗りの仁王門。
 




 仁王門(重要文化財)は境内入口に建つ朱塗りの門。三間一戸楼門、入母屋造、檜皮葺きで、正面左右に鎌倉時代末期の金剛力士(仁王)像を安置しています。室町時代の建立で、馬駐(うまとどめ)、鐘楼とともに寛永6(1629)年の大火をまぬがれました。

 清水寺の正式名称は音羽山清水寺(おとわさんきよみずでら)です。

 古都京都の文化財の一部としてユネスコ世界遺産に登録されたこともあって、外国のお客さんも多いのです。

 本堂を始めとする諸堂は現存する建物の多くは上記寛永6年の火災の後、寛永10年(1633年)、徳川家光の寄進により再建されたものです。

 寺の縁起によると

※  ※  ※

 音羽山清水寺は、1200余年前、すなわち奈良時代の末、宝亀9年(778)の開創になります。

 奈良の子島寺の延鎮(えんちん)上人が「木津川の北流に清泉を求めてゆけ」との霊夢をうけ、松は緑に、白雲が帯のようにたなびく音羽(おとわ)山麓の滝のほとりにたどり着き、草庵をむすんで永年練行中の行叡居士(ぎょうえいこじ)より観世音菩薩の威神力を祈りこめた霊木を授けられ、千手観音像を彫作して居士の旧庵にまつったのが、はじまりです。

 その翌々年、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)公は、妻室の高子(こうし)の安産のためにと鹿を求めて上山し、清水の源をたずねて 延鎮上人に会い、殺生の非を諭され、鹿を弔うて下山し、妻室に上人の説かれたところの清滝の霊験、 観世音菩薩の功徳を語り、共に深く観世音に帰依して仏殿を寄進し、ご本尊に十一面千手観音を安置しました。

 その後、上人は坂上公を助け、協力して更に地蔵尊と毘沙門天(びしゃもんてん)とを造像してご本尊の両脇士とし、本堂を広く造りかえました。

 音羽の滝は、清水滾々(しみずこんこん)と数千万年来、音羽の山中より湧出(ゆうしゅつ)する清泉で、金色水とも延命水ともよばれ、わが国十大名水の筆頭にあげられます。これが「清水寺(きよみずでら)」の名の由来です。

※  ※  ※

 征夷大将軍となり、東国の蝦夷平定を命じられた田村麻呂さんは、若武者と老僧(観音の使者である毘沙門天と地蔵菩薩の化身)の加勢を得て戦いに勝利し、無事に都に帰ることができました。

 このことから、清水寺では行叡を元祖、延鎮を開山、田村麻呂を本願と位置づけています。

 蝦夷討伐の際に田村麻呂さんを助けた地蔵菩薩さんは、とくに合戦の仏、勝軍地蔵として武士の信仰を集めました。

 それはそうと、殺生の非を諭され観世音に帰依した田村麻呂さんが蝦夷征伐っておかしくない?

 第一、蝦夷(えみし)といっても、同じ日本人だったのです。

 7世紀半ばの朝廷勢力の北限は今の福井県と新潟県とを結んだあたりでした。

 国司の指導の下、朝廷が支配した地域で農業が盛んになると、北方から国司の支配下になるべく移住する者が増えていきました。彼らは、新たに天皇の支配を受けるようになった者という意味の『俘囚(ふしゅう)』と呼ばれます。

 陸奥や出羽の開発がすすむと、関東地方から東北地方に、武装した農民『柵戸(きのへ)』が移住するようになります。

 柵戸の中には俘囚を差別する者が多く、地方官も朝廷の威光をふりかざし俘囚を粗略にあつかい、俘囚の首長を押さえつけます。

 そこで、奈良時代末から俘囚の反乱が頻発するようになります。

 中でも胆沢(いさわ)の首領、阿弖流爲(あてるい)さんは朝廷の大軍を破り都は騒然としました。

 朝廷も経済的に逼迫していて、東北経営に関心を払っていたので、時の桓武天皇は有能な田村麻呂さんを征夷大将軍に任じ、蝦夷地の平定を命じます。

 そこで東北に向かった坂上田村麻呂公は何をしたかというと、それまでの討征軍のように力尽くで反乱軍を鎮圧したのではなく、国司の支配下にありながら賊と内通した者を罰し、功績を残した蝦夷の人に禄を授けると宣言しました。

 延暦19(800)年には、田村麻呂公は朝廷に、東北経営がうまく進み、蝦夷や俘囚が城柵に帰伏しているので、さらに人々の生活を安定させるため、田30町を開発したいと申し出ています。

 さらに延暦21(802)年に胆沢城(いさわじょう)、志波城(しわじょう)を築きました。

 城と言っても、実情は軍事的拠点ではなく朝廷の官衙(かんが:役所)で、農地を開発し胆沢周辺の人々を帰順させるための拠点といったものだったようです。

 もともと蝦夷の人たちが反乱を起こしたのは、過酷な支配に反発したからなので、反乱する理由が無くなった人々は、次々と帰順し、阿弖利爲(アテルイ)さんは孤立します。

 同年=延暦21(802)年にはついに阿弖利爲(アテルイ)さんも兵士五百余人を率いて降参しました。

 坂上田村麻呂公は兵士五百余人の帰農を許し、阿弖利爲(アテルイ)さんと彼を補佐していた母礼(モレ)さんの二人を従え上洛します。

 田村麻呂公は、二人の助命嘆願書をあらかじめ都に送っていたので、二人は天皇への忠誠を誓った上で蝦夷に帰されると思っていたようです。

 田村麻呂さんと阿弖利爲(アテルイ)さんの軍隊は一度も正面衝突していませんし。

 ところが、平安京の貴族は「野性獣心、反復して定まりなし」と反対し、処刑を決め、阿弖利爲(アテルイ)と母礼(モレ)は、河内国で処刑されました。

 田村麻呂さんの心配りが台無しです。

 貴族にしてみれば、阿弖利爲(アテルイ)さんを謀反を起こした悪人として処刑しなければ、彼らを反乱に追い込んだ側の責任を問われかねないので、二人を処刑しないわけにはいかなかったのでしょう。

 清水寺は、阿弖利爲(アテルイ)さんと母礼(モレ)さんを慰霊する施設でもあるのですね。

 延暦24年(805年)には太政官符により坂上田村麻呂が寺地を賜り、弘仁元年(810年)には嵯峨天皇の勅許を得て公認の寺院となり、「北観音寺」の寺号を賜ったとされます。

 当時、寺院の新設・移転は禁じられていて、京には東寺、西寺以外の寺院はありませんでした。その中で清水寺の公認というのは、いかに坂上田村麻呂公の東北経営が評価されていたか分かります。

 没後、田村麻呂公は甲冑を着け、立った状態で葬られ、京都の守護神として崇敬を集めます。
 
 征夷大将軍の坂上田村麻呂さんといえば、最近、そのお墓が京都市山科区で約90年前に発掘された「西野山古墓」である可能性が高いことが、京都大大学院の吉川真司准教授(日本古代史)の調査で分かりました。
 
 以前そのことは、京都大学の博物館の記事で紹介しています。
 http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/38678342.html

  西野山古墓というのは、清水寺から程近い場所にあります。

 前回、平清盛さんが清水寺に籠もって吉夢を見て鵺を捕らえ、安芸守(あきのかみ)になった話を書きました。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/50159263.html

 延鎮(えんちん)上人が「木津川の北流に清泉を求めてゆけ」との霊夢を見て訪れ、征夷大将軍の坂上田村麻呂さんにもゆかりのある清水寺に籠もった平清盛が吉夢を見て鵺を捕らえ、安芸守になったという逸話が残っているのは、武家の正当性は、征夷大将軍の坂上田村麻呂公を源流とするという当時の人たちの認識から来ているのです。

 平清盛さんの伊勢平氏の家系は、田村麻呂さんを征夷大将軍に任命した桓武天皇、桓武平氏の流れをくんでいますから、官位は征夷大将軍にこだわる必要はありません。清盛さんは武家として初めて太政大臣まで登り詰めました。

 源義経が弁慶と出会った場が、坂上田村麻呂公を本願とする清水寺、もしくは、清水寺の参道である五条の橋(現松原橋)あるいは五条天神だったという伝承も、源氏政権の正当性の根拠を坂上田村麻呂とのつながりで示したものでしょう。

 源頼朝が坂上田村麻呂公の征夷大将軍の位にこだわっていた以上、鎌倉幕府の成立年は清和源氏の源頼朝が征夷大将軍に任ぜられた1192(いいくに)年じゃなきゃおかしいのです。

 さて、前述の通り征夷大将軍の坂上田村麻呂さんは、蝦夷(えぞ)を平定し阿弖利爲(アテルイ)さんの本拠地の胆沢(いさわ)に胆沢城(いさわじょう)を築きました。

 胆沢城(いさわじょう)といえば、城跡のすぐ近くには西松建設が工事を受注するために民主党の小沢幹事長に献金したといわれる胆沢(いさわ)ダム(別名小沢ダム)がありますが、どういうわけかこのダムは事業仕分けのリストにすら入っていません。

 八ッ場(やんば)ダムの工事は中止なのにご都合主義もいいところです。

 民主党を支持している日教組は、天皇の存在価値を歴史から少しでも軽くしたいので鎌倉幕府の成立年を源頼朝が征夷大将軍に任命された1192(いいくに)年じゃなくて、1185年にしたがっています。

 坂上田村麻呂公、阿弖利爲(アテルイ)さんと母礼(モレ)さんに祟られるんじゃないのかな?


 仁王門のカンカン貫(ぬき)です。





 仁王門の東西には、このように磨り減った木口(こぐち)があります。
一人が耳をあて、反対側をもう一人が叩くと、「カンカン」と澄んだ音が聞こえるようになっています。

 西門(さいもん:重要文化財)の背後に聳え立つ三重の塔(重要文化財)





 鐘楼です。





 鐘楼の柱が6本あるのは珍しいそうです。

 鐘には、金剛杵 (こんごうしょ:密教の法具)が刻まれています。





 ということで、次回に続きます。


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上野動物園のクロサイの赤ちゃんだよ。 【ファイルC172】2010.02.24 

【ファイルC172】2010.02.24 上野動物園のクロサイの赤ちゃんだよ。

お母さんに甘えているねえ

 東京都恩賜上野動物園(とうきょうとおんしうえのどうぶつえん)にはヒガシクロサイさんのご一家がお住まいです。

 ヒガシクロサイさんの故郷はケニア東部、タンザニア北部だそうです。

 お家を訪ねたら、お父さんが、お庭で遊んでいました。

 お父さんのマロさん(オス:2000.2.17日立市かみね動物園生まれ)です。

 




 立派なお顔立ちだねえ。

 




 上野動物園にはサイの赤ちゃんがいると聞いていたのに姿が見えないので、裏のお部屋に回ったら、ちゃんといました。

 でも、裏のお部屋は暗いうえに格子の幅が太くてちゃんと写真が撮れません。

 お庭にいた飼育員のお姉さんに、赤ちゃんはお庭に出ないのか尋ねてみたらば、あと10分ぐらいで、お父さんと交代して、お母さんと一緒に出てくるということだったので、待ちました。

 まず、お母さんのアルゴさん(メス:1995.10.30横浜市立金沢動物園生まれ)が出てきました。

 




 草をもぐもぐ食べています。岩に口を押しつけて食べた方が食べやすいのかな?


 そのあとすぐに、赤ちゃんのミミカちゃん(メス:2009.4.20上野動物園生まれ)も出てきました。

 




 お庭が嬉しくて、とっとこ走り回っています。
 
 母子でお食事です。

 




 ミミカちゃんは好奇心がいっぱい。

 




 お食事しながらこっちに遊びに来てくれました

 こんにちは。

 もう、かなり大きくなっているねえ。

 大きな耳とちっちゃな角が可愛いねえ。

 お母さんが見守っています。

 




 ミミカちゃんは植わっている木の枝を咥えて引っ張っています。

 




 そんなことしちゃ、だめだよお!

 枝を折って角に引っかけておもちゃにしています。

 




 今度は振り回して遊んでいます。

 





 お母さん、ミミカちゃんの背中に草を押しつけてお食事です。

 




 ミミカちゃんは岩じゃないよお。


 お母さんもミミカちゃんが悪戯していた木の枝をむしゃむしゃ。

 




 ミミカちゃんにも分けてよお。

 




 本当に仲良しです。

 さようなら、元気でね。

神田連雀町の『竹むら』は有名な甘味どころ 【ファイルS28】 2010.02.21 

【ファイルS28】 2010.02.21 神田連雀町の『竹むら』は有名な甘味どころ

江戸の情緒を残しているねえ。

 神田の洋食屋さんの松栄亭の近くに甘味どころがあります。

 このお店も有名で『竹むら』という名前です。

 町屋風の建物が、風格あるねえ。





 二階はこんな感じ。





『おしる古 竹むら』という暖簾がかかっています。





 この店にのしつらえについては、前回に引き続き池波正太郎さんにご登場いただきましょう。

『散歩の時に何か食べたくなって(新潮文庫)』より

 自著の小説からの引用の後

※  ※  ※

 汁粉屋というものは、このように、男女の逢引にふさわしい風雅な、しゃれた造りでなくてはならぬ。その風が、戦前の東京の汁粉屋には、かなり面影をとどめていたのだ。

 浅草の奥山にあった〔松邑(まつむら)〕などは、その代表的なものだったが、昭和の時代となっては、二人きりになれる小座敷もなく、むろん、酒も出さぬ。しかし、若い女の好む甘味につき合う男達の出入りは絶えなかった。

 神田連雀町の〔竹むら〕へ行くと、戦前の東京の、そうした汁粉屋のおもかげが、まだいくらか、名残をとどめていて、私には、それがうれしく、なつかしい。

 椅子席の他に、入れ込みの座敷があり、ここへ坐って、酒後に粟ぜんざいを口にするのは、なかなかよい。酒後の甘味は体に毒だというが、酒のみには、この甘味がたまらないのだ。

〔竹むら〕が旧態をとどめているのは、神田連雀町一帯が戦災をまぬがれたからであって、あんこう鍋の〔いせ源(げん)〕も〔ぼたん〕も、蕎麦の〔藪(やぶ)〕も、むかしのままの店構えだ。

 戦前の私は、仲よしの友達と、これらの店で、よく酒をのみ、それから、目と鼻の先の〔竹むら〕へ入って粟ぜんざいを食べた。

 ※  ※  ※


 入ったら、桜の塩漬けをお湯で戻したお茶が出てきました。





 情緒があるねえ。

 それで名物の粟(あわ)ぜんざいと揚げまんじゅうを注文しました。

 まず粟ぜんざい。





 緑茶と一緒に出てきました。

 ご飯の香りを強くしたような粟の香りがふわっと広がります。

 
 粟はほくほくのつぶつぶで独特の歯ごたえに蒸しあがって、それにペースト状のよく練り上げた光沢のある餡がかかっています。

 粟が見えるようにしたらこんな感じ。





 小豆色と粟の黄色のコントラストが美しいのです。

 雑穀独特の懐かしくて素朴な粟の味と、上品な餡が口の中で混ざっておいしいねえ。

  ぱりぱりした山椒がお漬物みたいで絶好の箸休めです。

 ここで善哉と汁粉について説明させていただきます、

 善哉と汁粉は、関東と関西で大きく違いがあります。

 関東では『ぜんざい』は餅や粟の上にあんを載せたもので汁はありません。これに汁を入れたもの全般を『しるこ』と呼びます。

 関東の『しるこ』は、さらに粒あん使用の『田舎汁粉』と、こしあん使用の『御前汁粉』に分けられます。

 一方の関西では『ぜんざい』は餅と粒あんを使った汁で、『しるこ』は餅とこしあんを使った汁のことを指します。
 
 だから、ここ関東の『粟ぜんざい』はどろっとしたペースト状のあんで、関西の『ぜんざい』のような汁は入っていません。


 それから揚げまんじゅうです。





 和風の天ぷら餡ドーナツといった感じのおまんじゅうです。

 中を割ってみます。





 そうしたら、指が油でべとべとになりました。

 ということで、お箸で食べます。

 あったかくて『がわ』がさくさくふわふわに揚がっています。

 中にはあっさり漉し餡が入って、油を打ち消しています。

 揚げ饅頭は、おみやげに持ち帰っているお客さんもいました。

 再び、池波正太郎さんの文章から

 ※  ※  ※

 しかるのち、竹むらの名代〔揚げまんじゅう〕をおみやげに包んでもらう。このおみやげを殊勝に家族のものへ持って帰るのかというと、そうではないのだ。

 これからあとに、われらの真の目的があるというわけで、揚げまんじゅうは白粉(おしろい)の匂いのする生きものの口へ入ってしまうのである、

 ※  ※  ※

 江戸の甘味どころの雰囲気を堪能できるお店です。

日本在住のジャイアントパンダさん9人+2人。 【ファイルC171】2010.02.18  

【ファイルC171】2010.02.18  日本在住のジャイアントパンダさん9人+2人。

みなさん勢揃いだよ

 現在日本に暮らしているジャイアントパンダさんは9人いますが、当アトモス部屋で一通りご紹介しましたので、勢揃いしてもらいましょう。

 まず神戸市立王子動物園のご夫妻から。

 興興(コウコウ)君(オス)

 




 旦旦(タンタン)さん(メス) 

 




 王子動物園のパンダさんの記事はこちら。

 パンダ君に会いに行ったよ!
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/22787027.html
 パンダの親指問題
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/22990755.html
 パンダ君に独占インタビュー
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/23092442.html
 王子動物園のパンダのタンタンちゃんのでんぐり返りはかっこいいねえ!
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/39845453.html
 パンダの木登り
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/39891346.html
 パンダの身分
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/39892119.html
 流石に可愛い☆神戸市立王子動物園のジャイアントパンダさん
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/42508920.html
 神戸市立王子動物園のジァイアントパンダのタンタン(旦旦)ちゃんが出産したよ!
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/44259887.html
 神戸市立王子動物園のジャイアントパンダのコウコウ君
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/45280437.html
 ジャイアント・パンダさんのお目目は断固として丸くて可愛いよ!
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/49838291.html


 南紀白浜アドベンチャーワールドから7人家族

 双子の赤ちゃんパンダちゃんの梅浜(メイヒン)ちゃん(メス)、永浜(エイヒン)君(オス)

 




 




 双子の赤ちゃんパンダちゃんの記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/49953380.html
 
 双子の子パンダちゃん愛浜(アイヒン)ちゃん、明浜(メイヒン)君

 




 双子の子パンダちゃんの記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/50110248.html

 永明(エイメイ)父さん(オス)

 




 永明(エイメイ)父さんの記事はこちら
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/50173915.html

 良浜(ラウヒン)さん(メス)

 




 幸浜(コウヒン)君(オス)

 




 前回もご案内したとおり、もうすぐ幸浜(コウヒン)君は中華人民共和国へ旅立ちます。

 良浜(ラウヒン)さん、幸浜(コウヒン)君の記事はこちら
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/50200688.html

 東京上野動物園にいた、最後の日本国籍のジャイアントパンダさんの陵陵(リンリン)君(オス)の晩年のお姿。

 




 とっても良いお顔をなさっていましたよ。

 上野のパンダの陵陵(リンリン)君の記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/39962965.html

 こうやってみると、それぞれ違ったお顔立ちですね。

 ついでに上野の国立科学博物館に展示してあった歓歓 (ホワンホワン)さん(メス)の剥製

 




 それから、上野にパンダさんの夫妻が来られることが決定しました。

 なお、上野の国立科学博物館では、上野の歴代パンダさんの剥製を展示中だそうです。

http://www.kahaku.go.jp/event/2008/12kahaku_news/
 
 それぞれ思い出深いねえ。

 昭和天皇皇后両陛下が訪欧の際、ロンドン動物園でパンダをご覧になり笑顔のご様子は大々的に報道されました。

 その後、田中角栄内閣のときに日中平和友好条約が締結され、1972年9月ランラン、カンカンが日本に贈られました。

 この時の中華人民共和国はとても親日的で、山口百恵さんなんて熱狂的な人気だったのです。

 海洋生物学者でもいらした昭和天皇は上野動物園に戦後だけでも6回来園され、1973年にはランラン・カンカンについての歌も詠まれました。

 海洋生物を研究されていた陛下の目でご覧になられても、ジャイアントパンダは可愛い以上に、不思議な生態を持つ生物に写ったにちがいありません。

 白浜アドベンチャーワールドには、秋篠宮ご一家が訪問されジャイアントパンダとも触れあわれたそうです。


 ジャイアントパンダのみなさん、お元気でね。

神田淡路町の松榮亭(しょうえいてい)の洋食は夏目漱石が愛した味(下) 【ファイルF34】2010.02.15 

【ファイルF34】2010.02.15 神田淡路町の松榮亭(しょうえいてい)の洋食は夏目漱石が愛した味(下)

松榮亭にまつわる偉人たち。

(上)はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/50190647.html

 松榮亭創業1907のプレート(再掲)。





 イギリス留学から帰国した夏目漱石さんが東京帝国大学のラフカディオ・ハーンの後任として英語リーダーの講師に赴任したのは明治36(1903)年です。

『吾輩は猫である』の執筆開始が明治38(1905)年『坊っちゃん』が明治39(1906)年

 松榮亭がオープンした明治40(1907)年には朝日新聞社に入社して、職業作家としての活動を始め『虞美人草』を執筆しています。

 漱石と松榮亭の縁については、池波正太郎さんの『散歩の時に何か食べたくなって(新潮文庫)』に、こんなエピソードが書かれているので引用してみましょう。

 ※  ※  ※

 この松榮亭の初代店主・堀口岩吉には、明治中期に東京帝国大学が哲学教授としてドイツから招聘したフォン・ケーベル博士との結びつきがある。

〔ケーベル博士随筆集〕一巻は、私も戦前の岩波文庫で愛読したものだった。

 初代は、麹町の有名な西洋料理店〔宝亭〕で仕上げた料理人(クック)だが、ケーベルの専属となってからの或る日。夏目漱石と幸田延子(露伴の実妹で女流ピアニスト)が予告なしにケーベル邸を来訪したことがある。

「何か、めずらしいものを、すぐにこしらえてください」
と、ケーベルにいいつけられた初代は、突然のことで何の用意もなく、仕方もなしに冷蔵庫の中の肉と鶏卵を出し、小麦粉をつなぎにして塩味をつけ、フライにして出したところ、これが大好評だった。

 のちに初代が現在の地で開業をしたとき、これを〔洋風かき揚げ〕としてメニューの中へ加えたについては、そうした由来がある。

 ※  ※  ※

 ですが、胃弱の夏目漱石さんと女流ピアニストが一緒だというイメージがわきません。

 そもそも、漱石さんの時代に女流ピアニストというのが奇異です。
 
 それでふと思い出して、ピアニストの中村紘子さんの『ピアニストという蛮族がいる』という著書を読み直してみると、『幸田延子』ではなく、『幸田延(こうだのぶ)』さんというピアニストが出てくるのです。

 実はこの幸田延さん、日本最初のピアニスト、ヴァイオリニストにして作曲家という日本における西洋音楽の基礎を築いたスーパーレディなのです。

 音楽取調掛(おんがくとりしらべがかり)伝習生を経て、19歳の時、すなわち大日本帝国憲法の発布された1889年からアメリカ(ボストン)、オーストリア(ウィーン)に留学。

 25歳になった明治28(1895)年、に帰国し、演奏・作曲を行うと共に、音楽取調掛から改編された東京音楽学校(現東京藝術大学)教授として後進を育成しました。

 門下生の中には、日本最初の本格的な作曲家の滝廉太郎、日本人初の交響曲『かちどきと平和』を作曲し、指揮者としても、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団やレニングラード・フィルハーモニー交響楽団(現サンクトペテルブルク・フィルハーモニー交響楽団)等を指揮し国際的に活躍した山田耕筰、『蝶々夫人』のタイトルロールで作曲家のプッチーニから絶賛され、欧米で活躍し、メトロポリタン歌劇場に迎えられた初の日本人歌手三浦(柴田)環(みうらたまき)、明治末期から大正初期にかけて日本の代表的ベートーヴェンピアニストと知られた久野久(くのひさ)といった著名な音楽家がいます。

 1895年に作曲したヴァイオリンソナタ変ホ長調(3楽章、未完)と1897年のヴァイオリンソナタニ短調(1楽章のみ)は、日本人による初の西洋音楽作品です。

 それでは、どうして夏目漱石さんや幸田延さんがドイツの哲学博士と知己があったのでしょうか。

 フォン・ケーベル博士がまた凄い人なのです。

 1893年(明治26年)から1914年(大正3年)まで21年間東京帝国大学に在職し、カント等のドイツ哲学を中心に、哲学史、ギリシア哲学など西洋古典学も教えています。美学、美術史も、彼が初めて講義しました。

 その教え子は安倍能成、岩波茂雄、阿部次郎、九鬼周造、和辻哲郎、 深田康算、大西克礼等そうそうたる顔ぶれで、皆から『ケーベル先生』と慕われ、敬愛されました。

 夏目漱石も大学院に入った時、着任早々の博士から美学の講義を受けています。

 漱石さんは、『ケーベル先生』という文章の中でこう書いています。

『文科大学へ行って、ここで一番人格の高い教授は誰だと聞いたら、百人学生が九十人までは、数ある日本人教授の名を口にする前に、まずフォン・ケーベルと答えるだろう』

 それだけではありません。

 ケーベル博士はドイツ人を父に持ちロシアに生まれ、幼いころよりピアノを学び1867年にモスクワ音楽院に入学、大作曲家チャイコフスキーや歴史的ピアニストのニコライ・ルービンシュタインに師事し1872年に卒業したという異色の経歴の持ち主なのです。

 モスクワ音楽院創設者でもある名ピアニスト、ニコライ・ルービンシュタインは、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番ロ短調 作品23を『演奏不能』と酷評して、書き直しを要求し、この名曲初演の栄誉を逃したことでも有名です(初演はハンス・フォン・ビューロー。ニコライは後にチャイコフスキーに謝罪し、自らもこの曲を演奏するようになる)。

 また、チャイコフスキーのピアノ三重奏曲(作品50)『ある偉大な芸術家の思い出のために』は、ニコライ・ルービンシュタインの死を悼んで書かれました。

 ケーベル博士がモスクワ音楽院を卒業した1872年といえば、チャイコフスキーが交響曲第2番ハ短調作品17『ロシア』を作曲している時期で、3年後の1875年にピアノ協奏曲第1番変ロ短調 作品23を完成、バレエ音楽『白鳥の湖』 作品20の作曲に取りかかっています。

 日本人にとって、チャイコフスキーがとても親しみやすい作曲家なのも、西洋音楽がエリート必須の教養になったのもケーベルさんの影響が大きいのかもしれません。

 ところがモスクワ音楽院を卒業した内気なケーベル博士は、『公衆の前での演奏に対して、私は昔から押さえきれぬ嫌悪を感ずるものであったし、他人数の聴衆は私をして全く度を失わしめるのであった』ということで、ドイツのイエーナ大学、ハイデルベルヒ大学と移り、ショーペンハゥァーの人間的自由に関する論文で学位をとりました。

 その後、ミュンヘンに移り住み『ショーペンハゥァーの哲学』『エドゥアルト・フォン・ハルトマンの哲学大系』『哲学史要』等の著作や幾多の論文を発表しますが、ある日のことエドゥアルト・フォン・ハルトマンから東京大学の哲学の教師に推薦したい旨の手紙が届きます。

 周りの人は勧めますが、旅行や生活の変化を嫌うケーベル博士は固辞します。

 その際、昔の師で、友人でもあったチャイコフスキーだけが唯一手紙で東京行きに反対したという興味深いエピソードが残っています。

 結局ハルトマンの情熱に折れた形で、明治26(1893)年に三年の契約で東京帝国大学に着任することになるのですが、その契約が次々更新され、いよいよ帰国が決まったときには第一次世界大戦で帰国の道が断たれ、ケーベル博士は横浜で生涯を終えるまで日本に滞在することになります。


 来日後の明治29(1896)年、ケーベル邸のハウスクックとして、松榮亭初代の堀口岩吉さんが住み込むことになりました。

 ケーベル博士は東京音楽学校にも出向。ピアノ、音楽史を教えていました。

 つまり、ケーベル博士は幸田延さんとは同僚だったのですね。

 また、明治34(1901)年の日本女子大学校(日本女子大学)開校式のための『日本女子大学校開校式祝歌』はケーベル作曲なのだそうです。

 明治36(1903)年には、東京音楽学校奏楽堂で行われた日本におけるオペラ初演(グルック作曲『オルフェオとエウリディーチェ』の上演。森鴎外訳詞)の際、ピアノ伴奏を行っています。

 因みに、エウリディーチェは幸田延さんの弟子の三浦環さんでした。


 それでケーベル博士と夏目漱石、ケーベル博士と幸田延のつながりがわかりました。

 でも、夏目漱石と幸田延のつながりが分からないのです。

 洋風かき揚げ誕生のエピソードは、幸田延さんが25歳で帰国した明治28(1895)年から、松榮亭創業の明治40(1907)年の幸田延さん37歳の年の間のはずです。

 ところが夏目漱石さんは明治28(1895)年に愛媛県尋常松山中学校に、明治29(1896)年に熊本県の第五高等学校に赴任、明治33(1900)年から、明治36(1903)年の間イギリスに留学していて東京にはいません。

 ということは、洋風かき揚げがケーベル邸で生まれたのは、明治36(1903)年から、松榮亭創業の明治40(1907)年の数年間のある時期ということになります。

その期間、ケーベル博士は神田区駿河台鈴木町19番地に居を構えています。

 それで、漱石の『ケーベル博士』では、明治44(1911)年7月10日にケーベル博士を再訪した時の様子が記されています。堀口岩吉さんは松榮亭開業後もケーベル邸には通いでクックをしていたらしいので、この時の食事を作ったのも堀口さんでしょう。

 その中で、『京都の深田教授が先生の家にいる頃、いつでも閑な時に晩餐を食べに来いと云われて行かずに経過した月日を数えるともう四年以上になる』とあります。

 ということは、漱石さんが初めてケーベル邸を訪問して洋風掻きあげをふるまわれたのは、明治44(1911)年の四年以上前、すなわち松榮亭開業の明治40(1907)年の少し前と考えられます。

 漱石さんは、幸田延さんと関係なく、ケーベル邸に住み込んでいた深田教授と知己があった関係で恩師のケーベル博士宅を訪問したのでしょう。だから、幸田延さんについて何の記述もないのだと思われます。

 一方、幸田延さんは帰国後、実績と名声をあげるのに反比例して『女だてらに』と見られた西洋的なふるまいや、『ツレビキ(連弾のこと)などと、男と女が身をくっつけてピアノを弾いたり唄ったり、オペラなどという風紀を乱す西洋芝居をやるのはけしからん』という世間の無理解・偏見から、バッシングを受けていました。

 1907年(明治40年)には、弟子でソプラノ歌手の三浦環(みうらたまき)の離婚が後にスキャンダルに発展して世間を騒がし、1909年(明治42年)、低俗なメディアの攻撃に居たたまれなくなった延さんは39歳で東京音楽学校教授の職を辞します。

 あとは、濁世から逃れるように、渡欧した後、東宮職御用掛となり専ら皇族に音楽を教授するようになります。

 モスクワ音楽院を卒業したにもかかわらず、派手なことが嫌いな性格故に哲学者になったケーベル博士は、知人の幸田延さんや、三浦環さんがそういった世間の騒ぎに巻き込まれていく様をどんな気持ちで眺めていたのでしょう。

 そんな状況で夏目漱石さんと幸田延さんの二人が誘い合わせて、ケーベル邸訪問はありえません。

 幸田延さんは漱石さんとは別にケーベル博士邸に訪れ、偶然、漱石さんの訪問と重なったのでしょう。

3人の大人ジャイアントパンダさんを紹介するよ【南紀白浜アドベンチャーワールド】(下)。 【ファイルC170】2010.02.12 

【ファイルC170】2010.02.12 3人の大人ジャイアントパンダさんを紹介するよ【南紀白浜アドベンチャーワールド】(下)。

永明(エイメイ)父さん、良浜(ラウヒン)母さん、幸浜(コウヒン)君。


 前回の永明(エイメイ)父さんに続いて、良浜(ラウヒン)母さん、幸浜(コウヒン)君をご紹介します。
 前回の記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/50173915.html

 良浜(ラウヒン)母さん(2000年9月6日アドベンチャーワールド生まれ)は、
 
 お昼寝大好きだそうです。

 良浜(ラウヒン)母さんは、双子の赤ちゃんパンダちゃんの梅浜(メイヒン)ちゃん、永浜(エイヒン)君のお母さんです。
 双子の赤ちゃんパンダちゃんの記事はこちら
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/49953380.html

 自然界では、パンダさんが双子を産んだ場合、強い方の子しか育たないらしいのですが、良浜母さんとスタッフの皆さんががんばって二人とも元気に育っています。

 室内でもりもり食べています。

 




 美人さんだねえ。
 
 




 パンダさんはタイヤが大好き。

 





 




 やっぱり外は気持ちが良いね。

 




 少しおすまし。

 




 ニンジンも美味しいねえ。

 




 食べてはお散歩します。

 




 ああくたびれた。

 




 少し早足。

 




 今度は幸浜(コウヒン)君です。

 




 2005年8月23日生まれです。この子は木登りが好きなんだって。

 一心不乱に食べています。

 




 こっちの方が美味しそうかな?

 




 笹とにらめっこ。

 




 美味しいねえ。

 




 良いお顔だねえ。

 




 のんびりと暮らしています。

 




 遠くに写っているのは、先ほどの良浜(ラウヒン)さん。


 実は、幸浜君はもうすぐ、お嫁さんをみつけるために、中華人民共和国に出発するのです。

 この2月以降離日の予定だから、白浜で暮らすのもあと少しです。

 だから、パンダさんの記事を優先したんですよ。


 永明父さんが偉い父さんで、故梅梅母さん、良浜母さんが優秀な母さんだということもあるのですが、白浜の気候はパンダの繁殖にとても適した環境らしいのです。

 もちろん自然環境での絶滅が危惧されている野生のパンダの保護が最優先なのは言うまでもないのですが、分散した地域で人工飼育を行って、さまざまな知見を蓄積して保護に役立てることはとても大切だと思います。

 パンダは一度みたら忘れられない強烈な個性をもった動物です。

 「人寄せパンダ」という言う人もいますが、多くの人にパンダを見に来て、他の生物にも興味をもってもらうのはとても良いことだと思います。

 パンダさんはかわいいよ~。

 WWFのシンボルなのも納得できますね。

 人間の知能の発達は、幼形成熟(ネオテニー)が要因だとも言われています。あと手でものを掴む動作が脳を発達させているということと、首が垂直に立っていて、脳の加重を大きくできるということも指摘されています。

 人間以外で、この要素を違った進化過程で備えているのがパンダだと思うのです。

 この過剰な可愛さにも何か理由があるのにちがいないと思うのですが。

 異国に旅立つ幸浜君を始め、みんな元気に幸せに育ってほしいねえ。


 という記事を書いていたら、上野にジャイアントパンダさんが来るというニュースが飛び込んできました。

 ※  ※  ※

上野動物園にパンダが復活 産経ニュース
2010.2.12 15:21

 日本初の動物園である上野動物園(東京都台東区)の目玉だったジャイアントパンダのリンリンが一昨年4月に死亡して以来、パンダ不在となっていた同園で平成23年にも、再びパンダの飼育展示を再開することが12日、分かった。同日の定例会見で石原慎太郎都知事が明らかにした。
 
 東京都や同園では昨春以降、中国当局と新たなパンダの貸与について交渉。だが、年間1億円とされる高額のレンタル料や、中国の四川大地震などの影響で難航していたが、このたび双方で条件が合意した。

 石原知事は「地元からの要望も強く、全国の子供たちに希少動物の大切さを伝えていきたい。繁殖にも挑戦する」と語った。

 ※  ※  ※

 『繁殖にも挑戦』って言ってもね。上野はすでにパンダの繁殖の実績はあるんですよ。

 飼育の実績があって海外のお客さんも多い上野動物園でパンダさんが飼育される意義は大きいと思います。

 でも、来た当初は混むんだろうねえ。

 次回は日本在中のパンダさん総集編だよ。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/50232629.html

神田淡路町の松榮亭(しょうえいてい)の洋食は夏目漱石が愛した味(上) 【ファイルF34】2010.02.10 

【ファイルF34】2010.02.10 神田淡路町の松榮亭(しょうえいてい)の洋食は夏目漱石が愛した味(上)

コロッケ・オムライスを食べました。

 神田の地下鉄東京メトロ丸の内線淡路町または都営新宿線小川町のA3出口近くに松榮亭(しょうえいてい)はあります。

 路地が交差していて、場所はちょっと分かりにくいのです。





 この写真は、のれんをかける前の状態だから、余計に分かりにくいねえ。

 1907のプレートが貫禄あります。103年続く神田の洋食屋さんです。





 夏目漱石が愛した、名物『洋風かき揚げ』は私も食べたこともあるですが、いまひとつ味がピンと来ず、漫画家の東海林さだおさんが著作でここのコロッケを絶賛していて、一度試しに食べてみて美味しかったので、断然コロッケを注文しました。

 それで、出てきたのがコロッケです。





 あつあつで中のジャガイモがほこほこしています。

 コロモは棘があってシャクシャクしっかり揚がっていて、香ばしいのです。

 性格に棘(とげ)のある人は迷惑ですが、コロモに棘のあるコロッケさんは大歓迎です。

 ジャガイモ独特の甘みがあって、口の中ではふはふ、ふうふう冷ましながら転がすのが嬉しいねえ。

 中のミンチ・タマネギは舌触りも良く、お味がジャガイモに満遍なく回っています。

 ウスターソースはかけすぎないようにね。

 お惣菜のコロッケも美味しいけれど、こちらはナイフとフォークで食べる洋食屋さんのコロッケの代表的なお味だと思います。
 
 なお、ここのポテトサラダも有名でおいしいのです。

 付け合せにライスを頼もうとしたのですが、オムライスにも食指が動いたので、女将さんにコロッケとオムライスで量は多くないかと尋ねたら、皆さんそうなさいますという答えだったので、オムライスを一緒に頼みました。

 オムライス





 正しいたっぷりケチャップ味です。

 中に入っているチキンは弾力があってコクがあります。
 
 タマネギもシャキシャキで、ライスは固めで、とろり卵と口の中で良い具合に混じります。

 これぞオムライスというような昔ながらの食感です。

 正統派のなつかしい洋食だねえ。

 赤い福神漬けが嬉しいねえ。

 昔から通っている常連さんとおぼしきかたもけっこういらっしゃいました。

 歴史がある洋食屋さんの貫禄だねえ。

 夏目漱石さんが愛した味を今に伝える貴重なお店です。

 漱石さんのエピソードについては次回紹介しますね。

3人の大人ジャイアントパンダさんを紹介するよ【南紀白浜アドベンチャーワールド】(上)。 【ファイルC169】2010.02.06 

【ファイルC169】2010.02.06 3人の大人ジャイアントパンダさんを紹介するよ【南紀白浜アドベンチャーワールド】(上)。

永明(エイメイ)父さん、良浜(ラウヒン)母さん、幸浜(コウヒン)君。

 さて、白浜アドベンチャーワールドにはジャイアントパンダさんが7人暮らしていますが、そのうち、双子の赤ちゃんパンダちゃん梅浜(メイヒン)ちゃん、永浜(エイヒン)君、明浜(メイヒン)君、双子の子パンダちゃん愛浜(アイヒン)ちゃん、明浜(メイヒン)君

 の合計4人をご紹介しました。

 双子の赤ちゃんパンダちゃん梅浜(メイヒン)ちゃん、永浜(エイヒン)君の記事はこちら
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/49953380.html

 双子の子パンダちゃん愛浜(アイヒン)ちゃん、明浜(メイヒン)君の記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/50110248.html

 それでもって、今回は、残った3人のパンダさんを紹介しましょう。

 まず、バックヤードツアーでお会いした永明(エイメイ)父さん。

 パンダさんのバックヤードツアーは、間近で餌をあげることができるので、とても人気で、開場時間にゲートが開いたら、正面のツアー受付コーナーにダッシュして並んで申し込まねばなりません。

 パンダのバックヤードツアーは一人2,000円します。これだけの規模、施設を維持するためにはしょうがないのかな。
 
 詳細はこちら。
http://www.aws-s.com/panda/index.html

 閑散期なので、何とか切符をゲットできたよ。

 以前記事にしたとおり、私は赤ちゃんパンダちゃんの写真を撮るのに夢中になって、お姉さんに呼ばれちゃいました。

 二班に分かれ、一方の班が永明さんとご対面している間、白浜のパンダさんの紹介ビデオを見ます。

 まず、白浜のパンダファミリーの説明から。

 




 黄色い枠で囲った人たち7人が現在白浜アドベンチャーワールドにお住まいです。

 子育ての話とかいろいろ説明してもらいました。

 パンダの赤ちゃんと同じ大きさ、重さの小豆の入った小さな縫いぐるみもだっこしました。

 時間がきて、いよいよバックヤードに入ります。

 靴の裏を吹いて、手はアルコール消毒をします。

 パンダさんは雑菌に弱いのです。

 間近でみるパンダさんです。

 




 パンダさんは力が強いので太い鉄格子です。

 ○ 永明(エイメイ)父さん(1992年9月14日北京動物園)です。

  8人の子を持つお父さん、永明(エイメイ)父さんは本国以外の動物園で最大のファミリーを作った功労者です。

 ・梅梅(メイメイ)さん(2008年10月15日永眠)との間に生まれたのが、
   
   ・ 雄浜(ユウヒン)君→中華人民共和国へ

   ・ 双子の隆浜(リュウヒン)君、秋浜(シュウヒン)君→中華人民共和国へ
 
   ○ 幸浜(コウヒン)君

   ○ 双子の子パンダちゃん愛浜(アイヒン)ちゃん、明浜(メイヒン)君

 ○良浜(ラウヒン)さんとの間に生まれたのが、

   ○ 双子の赤ちゃんパンダちゃん梅浜(メイヒン)ちゃん、永浜(エイヒン)君


 子沢山の偉いお父さんなので、とってもマイペースです。

 永明(エイメイ)父さんは、お客さんが沢山いても全く動じません。

 




 近いのは良いけれど、檻が邪魔だねえ。

 パンダさんの食料は99パーセントが笹で、あとはおやつ程度にリンゴやニンジンを食べます。

 
 笹は日本国内のもので、農家と契約して確保します。

 とてもグルメで、京都の孟宗竹なんかが好きなのだそうです。

 京都の竹といったら、エジソンが電球を発明したとき、京都の竹をフィラメントに使ったことでも有名ですね。

 それも、パンダさんそれぞれ個体によっても好き嫌いがあるんだって。

 我が儘放題だねえ。

 パンダは笹はほとんど消化吸収できないので栄養を摂るために沢山の笹を食べます。

 トラックに満載した笹も、一週間ぐらいでなくなり、しかも柔らかくて美味しい笹を先に出すと、少し味が落ちるものを残してしまうので、与える順番も考えなければならないんだって。

 いよいよ、鉄棒の先に刺したリンゴをあげるよ。

 




 あ~ん。

 優しい目をしているね。

 




 お姉さんは切れ長の目だって言ってたけど、目をみひらくと、まんまるお目目だよ。

 なんか緊張するけど、永明(エイメイ)父さんはおリンゴを上手に咥えます。

 おやつの間にはやっぱり笹だよ。

 




 お姉さんがパンダのふんを持ってきてくれました。

 




 高級玉露の甘ったるくて香ばしい、とても良い香りがします。

 アロマテラピーに使えそうな芳香です。

 また、2009/10/02 11:28 【共同通信】によると、

 ユーモアにあふれた科学研究などに贈られる「イグ・ノーベル賞」の授賞式が1日、米マサチューセッツ州ケンブリッジのハーバード大で開かれ、パンダのふんから分離した菌で生ごみの90%以上の減量に成功した研究で、田口文章北里大学名誉教授(72)=神奈川県相模原市=が生物学賞を受賞した。

 とあります。

 パンダのふんを利用した紙作りがタイの動物園で実用化され、絵はがきや便せんなどの製品に生まれ変わっているという報道もあります。

 パンダさんはすごいねえ!珍獣だけのことはあります。


 お姉さんが意地悪をして、高い場所に笹を差し出したら、伸び上がって食べました。

 




 パンダさんを近くで見ることができて楽しかったねえ。

 
 次回は良浜(ラウヒン)母さん、幸浜(コウヒン)君だよ。

八坂の塔から清水寺へ 【ファイルMK12】2010.02.04 

【ファイルMK12】2010.02.04 八坂の塔から清水寺へ

二年坂・三年坂もあるよ。

 
 松原通を北に外れて、八坂通りを通ります。





 突き当りが京都のランドマークの一つ、八坂の塔です。





 女の子が人力車に乗っています。





 今はいろんな観光地に人力車はあるけれど、やっぱり京都が一番似合うねえ。

 見上げると立派です。





 傾いた八坂の塔を大峯や熊野で修行をして、類いまれな呪術を身につけた比叡山の僧、浄蔵(じょうぞう)が祈祷しもとどおりにしたという伝説があります。

 浄蔵さんについては、以前祇園祭の記事で20.『山伏山』の御神体として紹介したことがあります。

 20.山伏山  浄蔵の記事はこちら
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/41077517.html


 二年坂です。





 写真を撮って振り返ったら、みんな同じ場所で写真を撮ってたよお!

 二年坂の名の由来は、三年坂に比べて小さな坂だから二年坂という説と、大同2(806)年に出来たからとする説があるそうです。

 また、地元では二年坂で転ぶと二年後に死ぬと信じられているそうです。

『おまえはもう死んでいる』の北斗の拳みたいだねえ。

 二年後に突然『ひでぶう!』って叫びながら死ぬのは、かんべんしてほしいねえ。


 三年坂を登ります。









 京都の風情が堪能できる坂なのですが、なにせ大勢の観光客で芋の子を洗うような状態です。

 なお三年坂は産寧坂(さんねいざか)とも呼ばれ、その名の由来にはさまざまな説があるそうです。

 代表的なものでは、『お産が寧か(やすらか)でありますように』と安産を祈願するため、清水寺の子安観音にお参りする坂ということで産寧坂と呼ばれるようになったという説があります。

 他に、

 大同3年(807)年に完成したから三年坂。

 願いが叶った後、清水寺の観音様への御礼参りに再度登る坂であることから再念坂。

 清水寺に参拝した人がこの坂道を降りるとき、再び願い事を念ずるから再念坂。

 という説があるそうで、他には、

 地元の子供の間では、二年坂同様『三年坂で転ぶと三年で死ぬ』という言い伝えが有名なようです。

 石畳で転ぶと危ないから、走らないように、こう躾けているんだろうねえ。


 平安時代には、このあたりは葬送地の鳥辺野(とりべの)の北のはずれに位置しているので、荒涼とした眺めでした。

 この坂にはさまざまな理由で俗世間を離れた『坂の者』とよばれる下級の僧=『無縁の者』たちが住んでいました。

 彼らは清水寺の支配下に入ることで身分を確保し、亡くなって冥界に分け入る人たちのために、遺体処理や葬送の仕事を行う他、芸能や手工業・商業で生業をたてていました。

 芸能というのは、冥界との交信といった役割を持ちますし、手工業の匠の技というのは素材に命を吹き込む呪術性を帯びてきますし、商業というのは、まさに他国=異界との媒介的な役目を果たしますからね。

 ですから、坂というのも、川同様、異界との境界を形成する場所なのですね。

 そういえば、東京の上野の不忍池にも無縁坂がありますが、ここにも『無縁の者』が住んでいたのでしょうか?

 無縁坂の写真はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/39658356.html

 三年坂にまつわる話として、

 源平盛衰記に『毛朱一竹塚(もうしゅいっちくづか)』の伝承があります。

 平清盛が清水寺に参籠(さんろう)したときに夢を見ます。

 ある人に占わせると吉夢だということで、果報を待つこと7日、内裏の宿直(とのい)に当たっていたとき、鵺(ぬえ)とおぼしき怪鳥が出現し、闇の中を飛び回りました。

 清盛がこれを捕まえて博士(陰陽師)に占わせると、これも吉兆だということで、大きな竹筒に入れ清水寺の岡に埋めました。

 これによって清盛は安芸守(あきのかみ)に昇任したということです。

 また、天皇がご病気になられたときは、この塚に勅使が訪れ、病気平癒の祭儀を行いました。

 この塚は大正時代までは『一竹塚(いっちくづか)』『鵺塚(ぬえづか)』と呼ばれ、三年坂の崖にあったそうですが、今は存在していません。

 清水坂(きよみずざか)、松原通=六道の辻を降りたら、清盛邸のあった六波羅ですから、いかにもありそうな話ですね。


 それでもって、清水寺(きよみずでら)に到着。





 その前にお参りしたいのが、清水寺の手前、写真左手にある善光寺に祀られている首振り地蔵です。





 何故、首振り地蔵かというと、ほうら、このとおり。





 このお地蔵様の前で一礼してから、両手でお地蔵様の顔をはさみ、首をくるっと一回転させてからお願いすると願い事がかなうそうです。

 顔が一周するなんて、エクソシストみたいですね。

 六道の辻の突き当たりだから、お地蔵さん=閻魔様が願い事を聞いてくれるのかな?

 借金で首が回らない人なんか、願い事を訊いてもらえそうだねえ。

 それで、清水寺に参拝するのですが、その前に見ていただきたいのが仁王門の前に立っている二体の狛犬さんです。









 狛犬さんは、普通、口を開けている『阿形(あぎょう)』と、口を閉じている『吽形(うんぎょう)』で1対になっています。

 いわゆる『阿吽の呼吸(あうんのこきゅう)』ですね。

 しかしながら、ここの狛犬さんは、どうした訳か、どちらも口を開けた『阿形』なのです。

 不思議だねえ。

 まさか、注文を聞いた石工の人がどちらかを『吽形』のはずが『阿形』と間違えたわけでもあるまいし。

 なにかいわれがあるのかな?

 次に続きます。

双子の子パンダちゃん愛浜(アイヒン)ちゃん、明浜(メイヒン)ちゃんは元気だよ【南紀白浜アドベンチャーワールド】(下)。 【ファイルC168】2010.02.01 

【ファイルC168】2010.02.01 双子の子パンダちゃん愛浜(アイヒン)ちゃん、明浜(メイヒン)ちゃんは元気だよ【南紀白浜アドベンチャーワールド】(下)。

元気にじゃれっこしているねえ。

 前回に続いて、双子の子パンダちゃん愛浜(アイヒン)ちゃん、明浜(メイヒン)ちゃんの記事です。
(上)はこちら
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/50110248.html

 なお、双子の『赤ちゃん』パンダちゃん梅浜(メイヒン)ちゃん、永浜(エイヒン)ちゃんの記事はこちら
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/49953380.html

 それでもって、腹ごなしのお散歩は続きます。

 




 突然、お相撲を始めました。

 はっけよい!

 




 レッサーパンダさんだけじゃなくて、ジャイアントパンダさんも普通に立つねえ。

 立会いが下手なので、自爆します。

 




 うへえ!

 二人ともそのまま潰れます。

 




 一体何がしたいんだろう?

 いつの間にか柔道になりました。

 




 巴投げ!

 




 うっちゃり。

 




 投げのうちあいです。

 地獄車!

 




 押さえ込み。

 




 袈裟固め(けさがため)!

 




 うへえ。前が見えないよお!

 反則だよ。


 延々とじゃれっこは続きます。修行の道は厳しいねえ。

 これだけ元気に転げまわったら泥んこで汚れるのは当たり前です。パンダさんが汚れているのは、元気な証拠なんだよ。
 
 双子だから、遊び相手がいて嬉しいね。

 しばらくして戻ってきたら、室内でまた食べていました。

 




 ギャル曽根ちゃんみたいだねえ。

 パンダさんって寝てるか食べてるか、遊んでるかで傍目にはとってもお気楽に見えます。

 人里離れた寒い高山でくらしていますから、一番仙人に近い動物かもしれません。

 人生を達観しているような風もありますからね。

 この子は寝転がって食べています。

 




 お行儀が悪いねえ。

 最後は二人仲良く写ります。

 




 さようなら。

 もりもり食べて、沢山遊んで、元気に育ってね。


 次回は大人のパンダさんを紹介するよ。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/50173915.html





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