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嵐山の渡月橋は紅葉の名所 【ファイルT112】2010.03.30 

【ファイルT112】2010.03.30 嵐山の渡月橋は紅葉の名所

紅葉の時期の京都は混んでいたねえ。

 やっと清水寺から、嵐山にたどり着きました。





 桂川(かつらがわ)では鳥がくつろいでいます。





 黒いのがカワウさん、白いのがユリカモメさん。

 ここのカワウさん、長良川のお友達みたいにお魚飲み込んでも吐き出さなくて良いから幸せだねえ。

 ちなみに、長良川の鵜飼(うかい・うがい)いの鵜は、川鵜(カワウ)さんじゃなくて体が大きく丈夫な海鵜(ウミウ)さんを使っています。

 もうひとつおまけに、風邪予防の『うがい手洗い励行』の『うがい』の語源は『鵜飼(うがい)』です。水を飲まずに吐き出すからねえ。

 室町時代の辞書『下学集(1444年)』に『鵜飼(うがひ)嗽(くちすすく)也』と記述があるほど日本古来からの文化で、外国の人は、うがいに風邪の予防効果があることを知らないそうです。

 英語の『gargle』は口を清めるだけの意味なんだって。

 リステリンのくちゅくちゅマウスウォッシュはするけど、ガラガラやる方の喉うがいは、歌手の人とかはするけれど普通の人はしないそうです。私はてっきりgargleって言葉がガラガラという喉うがいの擬音語に由来すると思っていました。

 欧米の方が乾燥しているから、喉うがいした方がいいのにねえ。そういえば、向こうの人はマスクもしないし。


 嵐山と言えば渡月橋(とげつきょう)です。





 この頃は紅葉の季節でとても混雑していました。

 渡月橋は一見木橋ですが、橋脚部は鉄筋コンクリート製です。





 そりゃそうだね。観光バスもトラックも通るし、台風なんか来ると山口県岩国市の錦帯橋(きんたいきょう)みたいに流されるから。

 渡月橋は承和年間(834-848)に僧、道昌昌(どうしょう798年- 875年)が大堰川(おおいがわ)の堤防を改築した際に橋を架けたのが始まりとされていて、17世紀に豪商・角倉了以(すみのくら りょうい:1554年-1614年)がこの川を運河として使いやすいように開削(かいさく)した際に現在の位置に移りました。

 現在の橋は1934年(昭和9年)に完成したものです。

 亀山上皇(1249年-1305年)が、橋の上の月が動く様を眺めて「くまなき月の渡るに似る」とめでたことから渡月橋と名付けられました。


 渡月橋から上流を望む。





 船遊びをしています。優雅だねえ。でも寒いと思うけど・・・。

 ここは昔、貴族が船遊びを楽しんだところで、現在も車折神社(くるまざきじんじゃ)で『三船祭』が5月の第三日曜日に行われています。

 このあたりより上流域は大堰川・大井川(おおいがわ)です。


 大堰川・大井川は保津峡(ほづきょう)を流れていて、亀岡から嵯峨まで16kmの部分は、保津川とも呼ばれ、保津川下りが有名です。


 渡月橋から下流を望む。





『山城国風土記』や『日本後紀』によると、京都盆地流入以南の桂川は、古くは葛野(かどの)川と呼ばれていました。

 葛野川は暴れ川だったため、嵯峨や松尾などの桂川流域を支配していた秦(はた)氏が、6世紀頃に桂川に堰堤(えんてい=葛野大堰:かどのおおい)を築いたとされています。

 それで、堰堤完成の際に、それまでの葛野川から大堰(おおい)川と呼ばれるようになりました。

 そういえば、以前、バカボンのパパこと羽田孜(はたつとむ)首相が秦(はた)氏の末裔だとか言われていましたね。

 その後、嵐山周辺および上流域では大堰川、あるいは大井川(大堰と大井は同義)、嵐山下流域以南では桂川、あるいは葛河(かつら)と呼ばれるようになったそうです。

 平安京造営の際には上流の木材を京都に運び込む役目を果たすなど、この川は丹波と山城、摂津の木材輸送に用いられました。


 渡月橋を遠望します。





 背後に見えているのが嵐山です。

 嵐山は渡月橋の西にそびえる標高381.5メートルの山です。

 史跡名勝です。

 春は桜、秋は紅葉の名所として有名で、このように渡月橋を前景に配した風景が京都を象徴するものとして、よく観光ポスターや映画・テレビドラマの撮影に登場します。

 また山だけではなく桂川両岸地域一帯を含めて嵐山と呼ばれることも多く、いつも観光客があふれています。

 うまい具合に霧がかかってきました。





 風流だねえ。

 というのは嘘で、どうも下の方で焚き火をしていたようです。


 橋に近づいた写真です。





 鴨さんも泳いでいます。





 渡月橋のたもとに、『琴きき橋跡の碑』が立っていました。





『一筋に雲ゐを恋ふる琴の音に ひかれて来にけん望月の袖』

 という歌が刻まれています。

 高倉天皇中宮徳子に仕えた宮中一の美女で琴の名手として知られた小督(こごう:生没年未詳)は、高倉天皇(1161~81)の寵愛を受けましたが、それが中宮徳子の父平清盛(1118~81)の逆鱗に触れ、内裏を出て嵯峨野に隠れ住みました。

 清盛にしてみれば、自分の娘の中宮徳子(建礼門院)が生んだ子供を天皇にしたいわけですからね。

 実際に中宮徳子の生んだ言仁(ことひと)親王が後に壇ノ浦に沈んだ安徳天皇になりました。

 まさに、おごれる平家です。

 それでも小督を諦められない高倉天皇から捜索の命を受けた源仲国(みなもとのなかくに:生没年未詳)は,彼女の琴の音を頼りに居所を尋ね当てました。

 宮中に戻った小督は再び天皇の寵を得、皇女(範子内親王:はんし【よりこ】ないしんのう)を生みますが、清盛の目をのがれることはできず、尼にされて宮中を追われてしまいます。(平家物語)。

 美人さんも大変だねえ。

 この石碑は小督の弾く『想夫恋(そうぶれん:雅楽の名曲)』を仲国が聞いたと伝えられる橋の跡に建っています。


 それでもって、疑問に思ったのが、『琴きき橋』って渡月橋とは別の橋なのかな?

 渡月橋は当時は、今の位置に無かったということだから、別の場所にあった渡月橋と、この碑の場所にあった琴きき橋が桂川に架かっていたのかな?

 それとも、この碑の位置に架かっていた当時の渡月橋で、仲国さんが琴の音を聴いたから、別名琴きき橋と呼んだだけなのかな?

 琴きき橋というのは、場所も、実際にあったかどうかもよく分からないそうです。

 う~む。


 嵐山の紅葉が川面に映り込んでいます。





 ということで、紅葉の嵐山渡月橋でした。





 綺麗だけど、混んでいるので疲れるねえ。

 疲れるけど、綺麗だねえ。
 
 次に続きます。
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大人気アルパカさんは可愛いよ! 【南紀白浜アドベンチャーワールド】 【ファイルC176】2010.02.26 

【ファイルC176】2010.03.26 大人気アルパカさんは可愛いよ! 【南紀白浜アドベンチャーワールド】

まだ子供かな?

 今回はクラレのCMなどで最近大人気のアルパカさんです。

 




 下を向いていて、顔が見えないねえ。

 やはり、ここでもアルパカさんは人気です。

 アルパカさんは野生動物ではなく、家畜です。だから普通は牧場にお住まいです。

 毛を利用するために品種改良を重ねたのですね。
 アルパカの毛は高級品です。

 ペルーのエボ・モラレス大統領が公式の場でアルパカのセーターを着ているのが有名です。

 野村沙知代さんが、CMアルパカ『クラレちゃん』の真っ白でフワフワな毛並みをなでながら、「私、アルパカのコートもってるの。かわいそうにねぇ」って自慢して周りの人たちを凍り付かせたそうです。

 サッチーが自慢したくなるほど高価で高級な毛並みなんですね。こういう褒められ方は少し嫌かも・・・。

 高級紳士服地にも使われています。

 こういう人間の思惑を知って知らずか、草をはむはむしています。

 




 テレビで見たアルパカさんより、小さくて顔だちが幼いので、まだ子供かな?

 生地として最高級品質とされるのは、生まれて初めて刈り取ったアルパカの毛で作ったもので、「ベビー・アルパカ」と称されます。この子の毛は誰が使うんだろう?

 1回の採毛量は3 kgほどで、隔年に刈り取りを行いますが、1頭のアルパカからの刈り取りは生涯で3 - 4回ほどに過ぎないんだって!それは高いねえ。希少だねえ。

 こんにちは。

 




 黒いまん丸お目々が大きくて可愛いねえ。

 横顔も良い感じ。

 




 実は、カメラを向けるとそっぽを向くので、結構たいへんでした。

 知らなかったんですけど、この子は、威嚇・防衛のために唾(つば)を吐きかけるという特技をもっています。

 この技を披露しなかったということは、適度になついてくれたんですね。

 アルパカさんはラクダの一種です。

 ラマにも似ています。

 この真っ白なふわふわの毛並みがたまりません。ブラッシングしたら、もっと艶々なんだろうねえ。

 この日はとても寒かったのに、この子はあったかそうです。

 




 そりゃあそうでしょ。最高級毛皮ですから。

 偶蹄目です。

 正面から見ると綿飴みたいです。

 




 さようなら、元気でね。

京都の清水寺は不思議なお寺(その4) 【ファイルMK16】2010.03.16 

【ファイルMK16】2010.03.16 京都の清水寺は不思議なお寺(その4)

音羽の滝は大行列だよ。

 その1から読まれる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/50277173.html

 まず、清水の舞台の土台です。





 とても高いねえ。

 清水寺のそもそもの由来の霊泉『音羽の滝(おとわのたき)』です。





 例によって、ここは善男善女で大行列です。

 よくガイドさんの説明では、向かって左から学問成就、健康(美容?)、長寿の御利益があるということになっています。

 真ん中が恋愛成就ということもありますが、それは縁結びの神様を祀っている地主(じしゅ)神社の管轄のようです。
 
 どれか一つしか飲んではいけないことになっていて、よくばって二種類以上飲むと御利益は無くなるんだって。

 予防接種でも三種混合ワクチンとかあるのに、ケチだねえ。

 とはいえ、三筋の滝は同じ水源で、それが霊泉であることが清水寺の由来なので、どれを飲んでも観音様の功徳があるはずです。

 ちなみに清水寺HPの説明を読むと、どれを飲んでも『六根清浄(ろっこんしょうじょう)、諸願成就(しょがんじょうじゅ)』の功徳があるようです。
↓↓↓↓↓↓
 こんこんと流れる出る清水は古来「黄金水」「延命水」とよばれ、 ”清め”の水として尊ばれ,開祖行叡居士・開山延鎮上人の滝行を伝統して水垢離(みずごり)の行場となり、またお茶の水汲み場となってきた。
今日、参詣者が行列をつくって柄杓に清水を汲み、六根清浄、諸願成就を祈る。滝祠に不動明王や行叡居士を祀っている。
 ↑↑↑↑↑↑

※ 六根清浄というのは、人間に具わった六根【眼根(視覚)耳根(聴覚)鼻根(嗅覚)舌根(味覚)身根(触覚)意根(意識)】を清らかにすることです。


 清水の舞台から阿弥陀堂(左)奥の院(右)を望みます。





 阿弥陀堂(あみだどう:江戸時代初期、重要文化財)は、寛永8~10 (1631~33) 年の再建で、内陣には丈六の阿弥陀如来坐像が安置されています。
 法然上人がここで日本最初の常行念仏を修したと伝わり、上人像もお祀りしています。

 奥の院(江戸時代初期、重要文化財)も、本堂と同様寛永10 (1633) 年に再建され、本尊千手観音と脇侍地蔵菩薩・毘沙門天、二十八部衆、風神・雷神を祀っています。
 清水寺開創を起縁する音羽の滝の真上に建ち、元祖・行叡居士と開山・延鎮上人練行の旧草庵跡と伝えられています。

 真言宗兼学兼宗を継承しているため、弘法大師像もお祀りしているそうです。


 地主神社へと続く階段の手前の本堂に、1周するの深い溝があります。
 本堂の爪跡です。





 アップの写真。





 ひどいいたずらだねえ!って思ったら、これもいわれがあるんだって。

 この傷は弁慶の指跡とも、「お百度参り」をする参詣者が、暗い夜お堂の周囲を回るときにたどった跡がえぐれてできたものとも言われているそうです。

「堂々めぐり」という言葉はこのように本堂の周りを巡って願掛けをすることに由来するという説があります。


 本堂から出てすぐ左手に地主神社(じしゅじんじゃ)の入り口があります。





 地主神社は明治時代の神仏分離令の発令までは、清水寺の鎮守社でした。

 大国主を主祭神とし、父母神の素戔嗚命・奇稲田姫命、奇稲田姫命の父母神の足摩乳命・手摩乳命を正殿に、大田大神(芸能と長寿の神)、乙羽竜神(旅行・交通安全の神)、思兼大神(知恵と才能の神)を相殿にお祀りしています。

 縁結びの神さまとして人気のスポットで若い女性であふれています。境内の「恋占いの石」は大人気なんだって。

 本来は縁結びの神様ではなくて、地主神を祀る神社であるとする説もあるそうです。

 地主神社の鎮座する辺りは、古来「名勝蓬莱山(宝来山)」と呼ばれ、 不老長寿の霊山として信仰を集めてきました。

 京都盆地が湖であった古代から、この蓬莱山は陸地で、信仰の場となっていたそうです。

 811(弘仁2)年、嵯峨天皇が行幸。地主桜の美しさに三度車を返され、『御車返しの桜』の由来となりました。

 清水寺、ことに地主神社あたりは昔から桜の名所で、室町時代の歌謡集『閑吟集(かんぎんしゅう)』に、『面白の花の都や、筆で書くとも及ばじ東には祇園清水落ち来る滝の音羽の嵐に地主の桜は散り散り・・・』とあり、以前珍皇寺でご紹介した、謡曲『熊野(ゆや)』も清水寺の花見のお話でしたね。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/50093835.html

 970(天禄元)年の円融天皇行幸の際、勅命により行われた臨時祭が大祭『地主祭り(神幸祭)』の起源となり、今に伝わっています(5月5日開催)。
 1082(永保2)年には白河天皇が行幸、17日間参籠(さんろう:神社で昼夜にこもっての祈願 )されました。

 本殿、拝殿、総門は清水寺本堂と同じく1633(寛永10)年の再建です。

 また、この前紹介した仁王門前にある阿阿形の狛犬は地主神社のものです。

 阿阿形の狛犬の記事はこちら
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/50159263.html

 清水寺といえば、縁日=縁結びで、元々は清水寺の鎮守社であったここ地主神社に由来するのですね。

『ものぐさ太郎』がお嫁さんを求めて縁日の日に訪れたのも清水寺でした。

 また、『義経記(ぎけいき)』では、五条天神の南の民家前で義経を取り逃がした弁慶が、きっと清水寺の縁日に義経があらわれると待ち構え、清水の舞台で対決。返り討ちにあって義経の家来になったという逸話も残されています。

 これなどは、武士の崇敬の対象で京都の守護神=征夷大将軍坂上田村麻呂公信仰と、結縁の信仰があった、清水寺・地主神社こそがそういう伝承に相応しい場だということを意味します。


 阿弥陀堂、奥の院の方角から清水の舞台(本堂)を一望します。





 本堂の屋根は寄棟造の檜皮葺きで、正面(南面)左右に入母屋造の翼廊が突き出しています。

 左側の渓谷が錦雲渓(きんうんけい)です。

 三重の塔も入れるとこんな感じ。





 木々が生い茂っています。





 石段をおりたらば、お地蔵さんがいました。





 下から見上げた清水の舞台。





 石垣もりっぱだねえ。





 ということで、清水寺でした。

レッサーパンダさんは気まぐれだねえ【南紀白浜アドベンチャーワールド】 【ファイルC175】2010.02.18 

【ファイルC175】2010.02.18 レッサーパンダさんは気まぐれだねえ【南紀白浜アドベンチャーワールド】

よその動物園なら、主役級なのにねえ。

 ブログが疎かになってすみません。

 ところで、白浜生まれのジャイアントパンダの幸浜君(4歳)はお嫁さんをみつけるために、2010年3月15日にお母さんパンダ梅梅さんのふるさと、四川省成都ジャイアントパンダ繁育研究基地へ旅立ちました。

 向こうでも元気で暮らして欲しいねえ。

 幸浜君の以前の記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/50200688.html


 それはそうと、やはり人気者のレッサーパンダさんも白浜に暮らしています。

 でも、コンタクトレンズでも落としたのか、ずっと下を向いています。

 




 小さいので、まだ子供かな?

 どうやら、熱心に毛繕いをしているようです。

 




 まったくこっちを向いてくれないので、カメラを構えたまま念力を送り続けました。

 そうしたらば、やっとこっちを向いてくれました。

 




 なんだい?

 せっかく会いに来たんだから、ちゃんとこっちを向いてサービスしてよ。ジャイアントパンダさんたちは、みんな大サービスだったよ。

 いやだよ、あっかんべ~だ!

 




 感じ悪いねえ。

 それから、毛繕いを再開し、2度とこっちを向いてくれませんでした。

 




 こういう当たり外れがあるのが動物園です。

 でも、これからも元気でいてね。

 さようなら。

京都の清水寺は不思議なお寺(その3) 【ファイルMK15】2010.03.11 

【ファイルMK15】2010.03.11 京都の清水寺は不思議なお寺(その3)

清水の舞台だよ。

 その1から読まれる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/50277173.html

 拝観券を買ったらば、本堂=清水の舞台を拝観します。

 その前に身を清めないといけません。

 手を清め、口を漱ぎます。





 やっぱり水回りは龍です。

 それでもってこの手水鉢(ちょうずばち)の台座はフクロウさんなのです、





 日本ではフクロウは死の象徴とされ、フクロウを見かけることは不吉なこととされていましたが、他方「不苦労」、「福郎」のゴロ合わせから福を呼ぶ鳥ともされているそうです。

 フクロウは西洋ではミネルヴァといって、知恵の神様ですね。

 手水鉢で身を清めたら、轟橋(とどろきばし)を渡って本堂に向かいます。





 橋と言いながら、水は流れていません。

 轟橋は中央の板張りを舌、両端の石造部分を歯に見立てて、清水寺の「口」と言われます。
 だから「歯痛の人は渡ってはいけない」という言い伝えがあります。

 もともとは、水が流れていて、轟川が清水寺から三年坂・八坂の塔・建仁寺・鴨川まで続いていたそうです。

 今は暗渠(あんきょ:地下水路)になって、姿が隠されています。

 さて、拝観券をもぎってもらうと、回廊を通ります。





 本堂の入り口にあるのが、鉄製の巨大な錫杖(しゃくじょう:修行僧や、修験者が持つ杖)と鉄下駄です。





 弁慶さんが使用していたとも、音羽の滝の行者が満願成就のお礼に奉納したとも言われています。

 大錫杖は長さ2.6m重量96kg、小錫杖は長さ1.76m重量17kgになります。

 これを持ち上げるとご利益があるとされています。
 
 鉄下駄のアップです。





 巨大な鉄下駄のほうは、一足12kgもあります。

 こんなの履いたら、足首を骨折するねえ。

 大きな仏足石が置かれています。





 大きさは、一尺七寸(約50cm)あります。

 これは、『悪七兵衛(あくしちびょうえ)』の異名を持つほど勇猛であった藤原 景清(ふじはら の かげきよ:平景清)または、弁慶の足跡だとも言われています。

 いよいよ、本堂=清水の舞台です。





 清水寺の本堂は徳川家光の寄進により寛永10年(1633年)に再建されました。

 国宝に指定され、『清水の舞台』とも呼ばれ、とても有名です。


 本堂の内々陣には、3基の厨子が置かれ、中央の厨子には本尊の千手観音立像、向かって右の厨子には毘沙門天立像、左の厨子には地蔵菩薩立像をそれぞれ安置されています。

 三尊とも秘仏なので、当然写真はありません。本尊厨子の左右には千手観音の眷属である二十八部衆像を安置し、内々陣左右端には風神・雷神像が安置されています。

 このお姉さんは煙を頭にかけています。





 頭が良くなるねえ。


 舞台から見下ろした景色です。





 手前にあるのが坂上田村麻呂公に降参した阿弖利爲(アテルイ)さんと母礼(モレ)さんの供養碑です。

 良い眺めだねえ。





 向かいの山から南は、昔は風葬の場だったのですね。

 清水の舞台は人がいっぱいです。





 木組みが頑丈に支えています。

 本堂は急斜面に建ち、舞台を支えるため、床下は139本の樹齢400年を越すケヤキの大木の長い束柱(つかばしら)が釘を使わずに組み上げられていて、この工法を『懸(か)け造り』と言います。

 思い切って物事を決断することを『清水の舞台から飛び降りたつもりで』とい言います。

 その由来は、江戸時代に観音様に願掛けをして飛び降りる人が続出したことにあるそうです。

 約12メートルの高さの舞台から飛び降りて、生き残ったら、願いが叶うそうです。

 そんな無茶な!

 飛び降りた人の数は記録の残る148年間で234件にのぼり、生存率は85%だそうです。

 亡くなっても、観音浄土に行けるはずだからねえ。

 明治5(1872)年に明治政府から飛び降り禁止令が出され、その後は下火になったということです。

 神道を国家の中心に据えた明治政府は廃仏毀釈を行い、こういう迷信は排除したかったんでしょうね。

 といっても、こういう危ない願掛けは、はた迷惑だから禁止したほうが良いと思うねえ。


 次に続きますね。


東京銀座の洋食の老舗、煉瓦亭(れんがてい) 【ファイルF35】2010.03.11 

【ファイルF35】2010.03.11 東京銀座の洋食の老舗、煉瓦亭(れんがてい)

さすがは、銀座の歴史だねえ。

 以前、この隣の洋食屋さんでカツカレー発祥の店、グリルスイスをご紹介しました。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/40807852.html

 それで、今回はお隣の煉瓦亭です。ここは並んでいることが多いので、例によって中途半端な時間に行きました。





 ここに来た目的は
 ポークカツレツ1,300円也
 元祖オムライス1,300円也

 です。


 ポークカツレツやトンカツ・オムライスは、れっきとした日本料理なのです。

 明治初期に日本に入ってきたカットレットは牛肉や鶏肉が使用され、パン粉をつけたものをバターで焼くという手法の料理が一般的でした。

 それを、明治28年に開業した東京銀座の洋食店「煉瓦亭」がそれらの肉材を豚に変更し、料理法をバターで焼くものから油で揚げる方法に変化させたのがトンカツの起源です。

 その後、昭和4(1929)年、宮内省大膳部で西洋料理を作っていた島田信二郎さんが、上野御徒町に開いた洋食店『ポンチ軒』で、分厚く切った豚肉にたっぷりのパン粉をつけ、大きな丸鍋になみなみ注いだ油で揚げ、箸で食べさせる今風のトンカツを売り出します。

 トンカツ御三家と言われる『蓬莱家』『本家ぽん多』『双葉』がすべて上野にあるのはこういった訳があるのですね。

『蓬莱家』の記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/37907513.html

 日本のカツレツ・トンカツは、西洋料理のカットレットに、野菜や魚をたっぷりの油で瞬時に揚げる江戸前の天ぷら技法を取り入れた日本料理=洋食なのですね。

 

 だから、煉瓦亭さんはカツレツの元祖なのですね。

 それで出てきたのが。カツレツです。





 このポークカツレツはころもはぱりっとか、かりっとというより、サクサクとしたとても軽い歯ごたえなんです。

 上品にさらさらパン粉をまぶしたような感じです。

 中のポークは噛んだら、独特の旨みと香りがします。

 適度な弾力を伴いつつ、それでいて筋が残らず歯がすっと入って噛み切れるのです。

 私はカツはポークで、ビーフカツレツは今ひとつピンと来ません。

 コロモ・脂とお肉の相性はやはりポークです。

 ウスターソースと洋辛子でいただきます。
 

 それから、元祖オムレツです。





 カツレツの元祖がここ煉瓦亭さんなら、オムライスの元祖も煉瓦亭さんなのです。

 がわがトロリとした卵なのは、他店と変わりませんが、なかのライスにはケチャップが入っていません。





 少し堅めのライス、マッシュルーム、ミンチ、タマネギ、グリーンピースがとろり卵と和えてあって、食感が『卵かけご飯』なのです。

 薄味の洋風具いり卵かけご飯をオムレツで包んで、その上にケチャップを添えた味といったら伝わるかな?

 元祖なのに、新食感なのです。

 ちなみに、『オムライス発祥の店』を自称する店は実は全国にいくつかあって、中でも有名店で有力な説とされているのが、ここ東京銀座の『煉瓦亭』と大阪心斎橋の『北極星』なのだそうです。

 それで、ご紹介したように、ここ東京銀座の煉瓦亭が明治34年から売り出した元祖オムライスの中身はケチャップのチキンライスではないのです。

 ポピュラーなケチャップライスのオムライスの元祖が大正15年に大阪心斎橋の北極星が生んだオムライスなんだって。

 東京と大阪の繁華街でオムライスが生まれたというのが面白いですね。

 今でこそ卵は物価の優等生と言われ安く手に入りますが、昔の卵は贅沢品でした。

 その頃に、買い物をして、洋食屋さんでオムライスを食べるなんて、とてもハイカラで贅沢なことだったんでしょうね。

 ということで、そういうことを考えながらここでお食事をするととても贅沢な気持ちになります。

おたる水族館のハコフグさん。 ファイルC174】2010.03.08 

【ファイルC174】2010.03.08 おたる水族館のハコフグさん。

まだちっちゃいねえ


 おたる水族館に行ったときの写真です。

 小さいハコフグさんがいました。

 




 こんにちは。

 まだまだ小さい幼魚です。寝ぼけまなこと、おちょぼ口が可愛いねえ。

 お住まいは、日本の岩手県以南、南日本、伊豆・小笠原諸島、台湾、フィリピン、東インド諸島、南アフリカなどです。

 成長したら、20-40㎝ほどになるそうです。

 『さかなクン』が被っている帽子も、ハコフグさんですね。

 お魚に詳しいさかなクンが好きなだけあって、とても可愛いのです。

 ハリセンボンさんがちゃっかり写りにきました。

 




 うへえ、今日はじゃましちゃだめだよお!

 




 もう一度、おすましして写ります。

 




 名前の通り、箱みたいですね。

 これは皮膚の骨板が発達して硬い甲羅になり、箱状になっているからだそうです。

 普通のフグさんのように筋肉や肝臓等、体内にテトロドトキシンという猛毒を蓄えていません。

 そのかわりに、皮膚からサポニンに似た溶血性のあるパフトキシンという物質を粘液とともに分泌して捕食者から我が身を守っています。

 焼くと骨板の甲羅は容易にはがせるので、食用になります。とても美味しいんだって。

 ただし、食べた餌によって、パリトキシンに類似した毒性物質を体内に蓄積していることがあって、これで中毒することがあるんだって。怖いねえ。


 横顔もかわいいね。

 




 さようなら、また来てね。

 




 ご挨拶もしっかりしています。

 見かけたら遊んであげてくださいね。

京都の清水寺は不思議なお寺(その2) 【ファイルMK14】2010.03.27 

【ファイルMK14】2010.03.27 京都の清水寺は不思議なお寺(その2)

三重塔の龍の瓦だよ。

 前回の記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/50277173.html

 三重塔(重要文化財)と経堂(重要文化財)です。





 和様の塔で、内部には、曼荼羅の密教世界が造形され、中央には大日如来が安置されているそうです。

 四方角の屋根瓦には、厄払いの鬼瓦がついています。





 ところが、東南角の瓦だけが『龍』なのです。





 龍は、仏教の守護神であり雨を呼ぶ神なので、清水寺を火災から守っているのだそうです。

 では、どうして東南角なのでしょう。

 方位は下の図のように十二支が割り振られています。





 図の上が北=子(ね)の方角です。

 東南は辰(たつ=龍)の方角なのですね。

 それで、南東角だけ龍の瓦にすることによって、火災から逃れようとしているのですね。

 また、清水寺は音羽の滝が由来で、京都の南東にあるからという事もあるかもしれません。

 ついでに、四神相応(しじんそうおう)だと、西は青龍です。

 西=卯(う)の方向も雨を呼ぶ龍の方向です。

『うだつがあがらない』という言葉を聞いたことがありませんか?

 出世したり地位が上がったりしない。金銭に恵まれない等の意味でつかわれる言葉ですが、この『うだつ』は、隣家との境につける防火壁で、これを設置するのは裕福な家だということに由来するという説があります。

 平安時代は『うだち』と呼んでいたのが、室町以降『うだつ』と訛ったそうですが、思うに、ひょっとして、雨を降らせ火を防いでくれる龍を表す方位である『卯(う)』の方位と『辰(たつ)』の方位を並べて『うだつ』と訛ったのかもしれませんね。

 うだつは、木へんに、八に兄・卯建・宇立などの字が当てられるそうですが、『卯辰』という字を当てられたことはなかったのでしょうか。

 ついでに、北は子(ね)の方角で、南は午(うま)の方角です。

 だから、南極点と北極点を結んだ線を子午線(しごせん)と言いますね。

 イギリスの旧グリニッジ天文台を通る子午線がグリニッジ子午線でこの子午線を経度0度。日本標準時子午線(にっぽんひょうじゅんじしごせん)は、東経135度で、明石市を通り、世界の標準時より9時間進んでいます。
 

 話が脇にそれましたが、本堂を始めとする諸堂は現存する建物の多くは上記寛永6年の火災の後、寛永10年(1633年)、徳川家光の寄進により再建されたものですが、清水寺は火災、戦乱等により何度も焼失しています。

 だから、火災よけの龍の瓦があるのは

 切実な気持ちからなのでしょう。

 さらに、清水寺は焼き討ちにもあっています。

 清水寺のホームページから清水寺の宗派・宗旨を見てみましょう。

 清水寺の宗派は、北法相宗(きたほっそうしゅう)。単立の一寺一宗です。

 法相宗は、別名唯識(ゆいしき)宗ともいい、4~5世紀のインドの仏教学者、弥勒(みろく)・無着・世親が開立した瑜伽(ゆが)派の教理を戒賢論師らが整理し、それを苦難の旅行をして学んだ中国・唐の玄奘三蔵の弟子・慈恩大師が『成(じょう)唯識論』を基礎として開宗しました。

 奈良時代に唐に留学した奈良・元興寺の道昭が日本に初伝来し(南寺の伝)、さらに興福寺の 玄も伝来しました(北寺の伝)。

 清水寺は、開創以来、興福寺の北伝の法相宗を伝統してきましたが、1965年「北法相宗」として独立しました。「北」は、北寺の伝に立脚するとともに、南都・奈良に対して北の京都に立地するという意味です。

 独立に際し、大きな役割を果たしたのが、清水寺中興の祖とも言われ日本初の五つ子さんの名付け親としても有名な当事清水寺住職(興福寺も兼務)だった大西 良慶(おおにしりょうけい)さんです。

 北法相宗を設立した大西さんは初代の管長に就任しました。

 宗旨は、『万法唯識』『三界唯一心。心のほかに別の法はなく、心と仏および衆生、この三つは差別なし』、即ち、あらゆる現象(相)は唯(ただ)人間の心のはたらきの反映であるとするというものです。


 それで、清水寺は、大西 良慶貫主による独立以前は、北伝の法相宗の奈良興福寺勢力の京都の拠点として位置づけられていました。

 南都北嶺(なんとほくれい)という言葉がありますが、『南都』は奈良のことで、法相宗(ほっそうしゅう)興福寺は奈良仏教の代表的な勢力でした。他方、『北嶺』は比叡山延暦寺のことです。 

 延暦寺は『山法師』、興福寺は『奈良法師』という僧兵(軍隊)で武装し、互いに権勢を振るいました。

 お互いに軍隊を持って派を競っていたということは、軍事衝突も生じます。

 そうなると、京都では、延暦寺との軍事衝突に際して、興福寺の京都の出先として最前線に位置する清水寺が矢面に立つことになります。

 ついには、永万1(1165)年には額打論(がくうちろん)をきっかけに比叡山僧兵が清水寺に大挙来襲、本堂以下ことごとく焼き討ちしたという記録が残っています(清水寺ホームページの年表より)。

 額打論というのは、二条帝の葬送の夜、墓所の周囲に掛ける額を巡って起きた紛争です。

 東大寺の次に額を掛けるのは興福寺の順番だったにもかかわらず、延暦寺が先に掛けてしまったために、怒った興福寺の僧2名が延暦寺の額を打ち壊しました。

 これを遺恨にもった延暦寺が興福寺の京都の出先である清水寺を焼き討ちしたのですね。

 それにしても、順序を間違うのもどうかしているし、だからといって額を打ち壊すのはやりすぎだし、その仕返しに清水寺を焼き討ちするなんて、仏門に使える人たちのやることじゃないねえ。
 
 比叡山延暦寺と奈良興福寺・清水寺や三井寺は仲が悪かったからねえ。


 後年、太平記の注釈書である『太平記秘伝理尽鈔』には、山門(比叡山延暦寺)の僧兵による軍事力の行使を批判して、『仏教徒ならば釈迦の教えに従い二百五十の戒律を守るべきで、まず第一に殺生を禁じる殺生戒を守るべきなのに、今の比叡山の僧は、自分たちの利益のために仏法を守ると称して多くの人を殺している』と書かれています。
(後注※参照)


 比叡山の権勢の大きさは、白河上皇(法皇)をして「賀茂川ノ水、双六ノ賽、山法師ハ、是レ朕ニ従ハザル者」と言わしめた程です。


 京都の寺社というのは、宗教の場であると共に、狂信を伴う世俗的な権力抗争の場でもありました。

 織田信長の石山本願寺攻め、延暦寺の焼き討ちもそういう文脈で見なければ、歴史を誤ります。

 北法相宗を設立した大西 良慶貫主も、そういった歴史を慮られたのかもしれません。


 次回に続きますね。

 次回はこちら





※)後注

『太平記秘伝理尽鈔』2 平凡社 東洋文庫721  今井正之助 加美 宏 長坂成行
 校注
P208
◎ 山徒京都ニ寄スル事

 大塔宮【おおとうのみや=護良親王(もりよししんのう/もりながしんのう)】は、延暦寺の大衆に、幕府打倒への決起を呼びかけた。大衆はそれに応じて、三月二八日、京へ押し寄せ、法勝寺に勢ぞろえした。
これを聞いた六波羅方は、七千余騎で法勝寺へ押し寄せ、佐治孫五郎らが奮戦して、山門勢を山上へと追い返した。山門の有名な悪僧、豪鑑、豪仙の二人は、法勝寺前にふみとどまって、半時ほど大敵を支えて戦い、見事な最期をとげて、山門の名をあげた。

 山門、京へ寄するに付て。

○ 評伝、凡そ釈門(しゃくもん:仏門)の徒たらん者は、大聖世尊(だいしやうせそん:釈迦の敬称)の掟を背かざるを以て要(よう)とす。然るに(シカルに)二百五十戒等の諸戒を立テ給しに、殺生戒(せつしやうかい)を以て第一のいましめとし給へり。

 されば、心有る人は、諸人の苦(く)に替わりて、我(われ)一人悩(なや)まんとこそ思フべきに、今の山門の衆徒、慈恵僧正(天台一八世座主良源)、南都の六宗と法論の事に付て、合戦に及ビしより已来(このかた)、忍辱(にんにく)の衣(ころも)を脱いで、堅甲利兵(けんかうりへい:よろい・武器を身につけた兵)の形(かたち)と成り、仏法の怨敵(えんでき)に事を寄せ(かこつけて)、彼を非し、此を是す。

 加之(しかのみならず)、人の命を亡ぼす事を罪とせず。たまたま心有る人、「それは仏戒を破り給ふに成り侍(はんべ)るらん」と謂(い)へば、「仏(ほとけ)も魔(ま)を降伏(がうぶく)し、菩薩も慈悲の殺生(せっしやう)有り」と答ふ。大に非なり。

 仏の衆生を助けんがために悪魔を払ひ給ふと、菩薩の衆生を渡(ど:度)せんための慈悲の殺生とは、雲泥万里(うんえいばんり)の異(い)なり。其故は、仏菩薩は、魔を憎しと思ひたまはず。又、自(じ)の利養(りよう:利益)のためにしたまわず。今の山門の衆徒は、名利(めいり)の為に、事を仏法に寄せて、多くの人民を殺害(せつがい)す。

 外に(外面では)仏の三衣(僧の着した三種の衣)を着するは、仏弟子(ぶつでし)の様(やう)なれども、内心は堤波(だいば)〈闡(せん)堤(天理本)〉(堤波達多は、釈迦に背いた非道の弟子。闡堤は、正法を誹謗して成仏の縁を欠くもの)に似たり。

 因果の道理遁(のが)るる所なし。誠に以て浅間敷き(あさましき)事にや。然(シカラ)ば木食・草衣にして、外行(ぐはいぎやう)内学(ないがく)(仏教修行の行と学問)の道をこそ専ら(もつぱら)とすべき事なれ。


上野動物園のホッキョクグマのご夫婦は元気いっぱい。 【ファイルC173】2010.03.01 

【ファイルC173】2010.03.01 上野動物園のホッキョクグマのご夫婦は元気いっぱい。

寒いのが得意だからねえ

 上野動物園の記事も溜まっています。

 動物園は、冬の方が元気なお友達が沢山います。

 その筆頭格がホッキョクグマさん。

 以前、北極のシロクマを『ホッキョクグマ』と呼ぶようになったのは、上野動物園に由来があるというお話を書きました。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/45763378.html

 さすがに上野のホッキョクグマさんも大人気です。大きくて可愛いからね。

 訪ねてみたらば、ご主人の雪夫さんが滝に打たれて修行をしていました。

 




 肩がすんだら、こんどは頭の『てんこす』。

 




 『てんこす』っていうのは、土佐弁で『てっぺん』という意味だそうです。

 世の中、龍馬ブームだからねえ。

 修行の緊張感がなくて、リラックスしています。

 滝行(たきぎょう)の水垢離(みずごり)というよりも、温泉の打たせ湯みたいだねえ。

 やっぱりクマさんも、いろいろ疲れているんだねえ。


 こんどは飛び上がって背中からばっしゃーん。

 




 ぷかぷか浮いて気持ちがいいねえ。

 




 こちらは奥様のレイコさんです。

 




 お池に飛び込みます。

 




 ボールで遊ぶよ。

 




 今度は、ご主人と仲良く遊びます。

 




 レイコさんは、餌でつられなくても飛び込みの大サービス。

 




 温泉気分でくつろいでいます。

 




 雪夫さんは飛び込まないのかな。

 




 最後に雪夫さんがごあいさつ。

 




 パンダさんもくるけど、僕たちも忘れないでね。

 ご夫婦ともども元気に大サービスしてくれていますからね。

 ところで、二人にとって良いニュースが。


 起爆剤はホッキョクグマ 行動展示へ14億円かけ新放飼場 上野動物園
 2009.12.4 00:45 産経ニュースより

 ※  ※  ※

 苦境にある上野動物園がいま最も熱い視線を送るのが既存の2頭のホッキョクグマだ。建設当時は画期的だったという人工氷壁も築80年を経て老朽化。コンクリート製の高い壁に囲われたプール付き放飼場は「時代遅れの見せ方」(同園)となっていた。
 そこで、同園では今年度、新しい放飼場の建設に着手し、来年度までに14億円を投じて現在の3倍に拡張。屋内飼育舎も2階建ての“豪邸”に建て替える。目玉はプール壁面のガラス化による行動展示で、隣接するアザラシなど海獣用のプールとの境界を一部ガラスだけで仕切る構造。「遊泳する姿だけでなく、迫力ある海獣狩りが間近で見られる初の施設」と関係者は自信を見せる。

 ※  ※  ※

  広いお家になって、赤ちゃんが生まれるといいね。

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