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横浜市立金沢動物園のアミメキリンの赤ちゃんはウララちゃんだよ。 【ファイルC196】2010.08.30 

【ファイルC196】2010.08.30 横浜市立金沢動物園のアミメキリンの赤ちゃんはウララちゃんだよ。

生後6ヶ月足らずで、随分と大きくなったねえ

横浜市立金沢動物園のアミメキリンさんちに行きました。

 金沢動物園といっても、石川県の金沢市にあるんじゃなくて、横浜市の金沢文庫とか金沢八景とかある金沢だよ。

 2010年2月4日の早朝5時4分、アミメキリンの赤ちゃんが誕生したって聞いていたからです。

 赤ちゃんはその後ウララちゃんと名付けられました。


 いましたいました。左端のちっちゃい子がウララちゃんだよ。





 柵を隔てて別の部屋に隔離されているキリンさんが一番大きいのでワンダー父さん(11歳:大阪市天王寺動物園より入園)かな?
     




 随分と大きくなっていますが、まだ足下は少しおぼつかないねえ。





 パネル展示してあった生後4日後の写真です。





 生まれたてなのに立つとおっぱいが飲めるほど大きいんだねえ。


 ウララちゃんは駆けっこもします。元気が一番!





 おすましウララちゃん。





 こんにちは。

 お母さんのミルクさん(5歳:埼玉こども動物自然公園より入園)に毛繕いしてもらいます。





 大事に育てられてるねえ。


 左の人は横浜市立野毛山動物園から来たメスのキリリンさんかな?





 ウララちゃんはみんなのアイドルです。


 ウララちゃんは、ミルク母さんが大好きです。





 左奥からワンダー父さん、キキリンさん、ウララちゃん、ミルク母さんです。





 でも、やっぱりミルク母さんのおっぱいが恋しいねえ。





 アミメキリンさんは、本当に網目模様の綺麗なキリンさんです。

 さようなら。元気でね!

 キリンさんは、なんといっても動物園の人気者だからねえ。

 こうやって、動物園での繁殖の研究が進んで、野性のキリンさんも増えていけばいいねえ!
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皇居東御苑(こうきょひがしぎょえん)=旧江戸城本丸を探索するよ(その1) 【ファイルET5】2010.08.28 

【ファイルET5】2010.08.28 皇居東御苑(こうきょひがしぎょえん)=旧江戸城本丸を探索するよ(その1)

260年続いた江戸時代の政治の中枢だったんだねえ

 これまで、立憲君主国家日本の君主天皇陛下が国事行為をされる皇居の宮殿の一般参観の記事を書きました。

 皇居宮殿一般参観の記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/50951013.html

 こんどは、江戸城の政治の中枢部分だった、江戸城本丸=現在は皇居の東御苑(ひがしぎょえん)の様子をレポートしますね。

 
 現在宮殿御所等の皇居の中心は本来江戸城の本丸のあった場所の西側(吹上御苑・西の丸)にあります。

 それで、もともとの江戸城の本丸跡は、現在、皇居東御苑(こうきょひがしぎょえん)として一般公開されています。

 皇居の一般参観と違って、東御苑の見学に際して事前申し込みは不要です。

 ただ、公開時間や曜日等が限られているので、こちらで確認してくださいね。
http://www.kunaicho.go.jp/event/higashigyoen/higashigyoen.html


 出入りは,大手門・平川門・北桔橋門でこの3つの門から入って、受付で番号札をもらえば無料で入場ができます。皇居の一般参観は係の人に案内されて団体行動ですが、東御苑は自由に出入りできます。

 出るときこの番号札を返さないといけないので、なくさないようにね。

 私は大手門から入りました。諸大名も参内の時はこの門から入ったのです。

 皇居大手門越しに見る東京タワー。





 いかにも東京ならではの風情がある景色です。綺麗だねえ。


 大手門の橋は、今でこそ土橋ですが、関東大震災以前は木橋だったそうです。

 大手門の部分は濠の幅が狭くなっていますが、これは、敵勢を集中させ、広範囲に及ぶ戦闘を避けているのです。
 

 正面高麗門を入って右の渡櫓(わたりやぐら)をくぐります。





 左に写っている受付で番号札を受け取れば、そのまま入場できます。

 大手門の高麗門です。





 たのもう。

 道場破りじゃないねえ。

 それにしても、皇居の一般参観同様、外国人観光客がとても多いのです。

 江戸時代は江戸城下に100万人住んでいて、こんな巨大な城は世界を見渡しても、ここにしか無かったのですから、あたりまえです。

 諸大名はここを通って登城しました。

 当時は供の者の数が石高によって決められていて、入城が許されない軽輩の供はこの辺りで藩主の帰りを待っていました。

 大名の登城は庶民にとってもパレードとして見物の対象でした。なんせ本物の武者行列ですからね。

 それこそ、お上りさんにとっては、絶好の観光スポットです。将軍様のお膝元の江戸に来たという実感を味わうことができたでしょう。

 そういう見物人や藩主を待つ従者を相手に、ちゃっかり商売する団子屋さんの屋台や、物売りまで出てとても賑わっていたそうです。いつの時代も商売する人は抜け目がないねえ!

 ただ、登城は武士にとって大事なおつとめです。粗相や失礼はあってはなりません。

 登城の途中で他藩の行列に出会ったら、自分と相手の石高(こくだか)や格式によって、対応が異なります。

 藩主が自ら駕籠を降りて挨拶したり、駕籠に乗ったまま道の端で待機するなど、ケースにより様々です。

 だから、供の者は、すべての藩の石高や家紋を確認できる『武家年鑑』=『武鑑(ぶかん)』を必ず携帯していたようです。

 宮仕えは気苦労が大変で、つらいねえ。

 ということで、江戸城の門は高麗門と渡櫓門(わたりやぐらもん)で構成されています。

 右の高麗門と、左の渡櫓門は直角になっていて、枡形を形成しています。





 渡櫓門の屋根を飾った明暦三(1657)年製の鯱(しゃち)が展示されています。





 この鯱は高さが、1.37mあります。


 城壁には、防御の時に鉄砲を撃つための狭間(さま)が切ってあります。





 石段を登って、伏せて射撃するんだねえ。





 姫路城の狭間(さま)は丸や四角や三角の形をしていますが、江戸城の狭間は実用本位です。

 姫路城の狭間(さま)の記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/50792051.html

 
 渡櫓(わたりやぐら)の屋根に載っている鯱(しゃち)です。





 大手門の警護は10万石以上の譜代大名が交代であたり、番士10人でうち物頭1名は肩衣着用、他は羽織袴着用でした。

 大手門には鉄砲30、弓10、長柄鑓50、持筒2、持弓2が常備されていました。

 警備規則は厳格に決められていて、享保6(1721)年の内外諸門の全十八ヵ条の定書(さだめがき)にはこんな条文があります。

一、門の開閉は、卯の刻(午前6時ころ)に開き、酉の刻(午後6時頃)に閉じ、あやしい者の出入りは検問せよ。

一、交代のときは門の開閉を試してから交替せよ。

一、所の近くで喧嘩をするものがあったら双方とも捕らえておき、御目付に連絡して指示を受けよ。病人、怪我人があるときは養生させよ。・・・・

 くせ者は夜陰に乗じて活動するから門の開閉は日の出日の入り近くに設定し、肝心なときに門が閉まらなかったら大変だから常時点検して、諸藩の武士が集まるから、もめごととか有りそうだからねえ。

 さすがは武士の集団である幕府の危機管理は万全だねえ。


 それにしても、門だけでこれだけの規模と構造なんだから、びっくりします。





 環貫も立派だねえ。





 この石段を登って、渡櫓門に立て籠もって攻め手を迎撃するんだね。





 これだけでも大名は幕府に向かって謀反を起こす気が萎えてしまいます。





 同心番所(どうしんばんしょ)です。





 大手三の門(大手下乗門)を警護する与力、同心が詰めていました。

 ここを駕籠(かご)に乗ったまま通ることができたのは、尾張、紀伊、水戸の御三家だけで、それ以外の大名は降ろされて検問を受けます。

 同心とは、江戸幕府の諸奉行・所司代・城代・大番頭などの配下に属し、与力の下で、庶務・警備の仕事をしていた下級役人の総称です。


 百人番所(ひゃくにんばんしょ)です。





 大手三の門の上の護りです。

 江戸城本丸御殿の最後の固めで最大の検問所です。南北に50mあります。

 柱が延々と続く様を見るだけでも壮観です。





 鉄砲百人組と呼ばれた根来(ねごろ)組、伊賀組、甲賀組、二十五騎組の四組が交代で詰めていました。

 各組とも、与力20人、同心100人が配属されて、昼夜を問わず警護に当たっていました。
 
 屋根瓦も重厚です。





 中之門跡です。





 中之門は百人番所の前に位置します。

 今では、門は無くなっていて、石垣のみが残っています。

 この巨石は元禄大地震の復旧に伴う大改築で使用され白い花崗岩は瀬戸内海の犬島や小豆島から、黒い石は東伊豆産の安山岩です。

 近年の大規模は解体工事により、最大35トンの石も含まれていることが分かっています。


 検問所はこれだけではありません。さらに大番所(おおばんしょ)があります。





 大番所は他の番所より格上で、位の高い与力、同心が詰めていました。
 

 さらに坂道を登ったところに昔は、中雀門(ちゅうじゃくもん)がありました。





 中雀門は書院門とも呼ばれ、左上の石垣には重箱櫓と書院二重櫓があり、本丸に上る人々を圧倒しました。


 ということで、長くなったので次に続きますね。


 次はこちら

改修前の春の姫路城だよ(その8) 【ファイルT128】2010.08.25 

【ファイルT128】2010.08.25 改修前の春の姫路城だよ(その8)

お菊さんの井戸もあるねえ。

 姫路城の記事を最初から見られる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/50754429.html
 
 天守閣は見る位置によって様々な表情を見せてくれます。

 




 それから、姫路城で見逃してはならないのが、お菊さんの井戸です。

 




 人が落ちないように、金網が張っています。

 




 というよりも、お菊さんが外に出てこられないように?

 お菊さんの『いちま~~~い。にま~~~い。・・・』という声が聞こえてくるかも。

 播州(ばんしゅう)における皿屋敷伝説を代表するものとして筆者不明の『播州皿屋敷実録』が挙げられます。

 永正年間(現在の姫路城が出来る前の1504~1520年)、姫路城第9代城主小寺則職の家臣青山鉄山が主家乗っ取りを企てていましたが、これを衣笠元信という忠臣が事前に察知、自分の妾だったお菊という女性を鉄山の家に女中として潜り込ませ鉄山の計略を探らせます。

 その結果、青山が増位山の花見の席で則職を毒殺しようとしていることを突き止め、衣笠元信は花見の席に切り込み、則職を救出、家島にかくまって再起を図ります。

 乗っ取りに失敗した鉄山は家中に密告者がいるのではないかと疑い、家来の町坪弾四朗に調査するように命じます。

 そして、弾四朗は密告者がお菊であったことを突き止めました。

 以前からお菊に思いを寄せていた弾四朗はそれを口実に自分の妾になるように、迫りますが、お菊に拒否されます。

 お菊の態度に怒った弾四朗は、お菊が手入れを任されていた10枚揃えの家宝の『こもがえのぐそく皿』=『毒消しの皿』のうちの一枚を隠してお菊に因縁を付け、責め殺して井戸に死体を捨てました。

 以来その井戸から夜な夜なお菊が皿を数える声が聞こえたといいます。

 その後、衣笠元信ら小寺則職の家臣によって鉄山一味は討たれ、姫路城は無事、則職の元に返ります。

 お菊の事を聞いた則職はその死を哀れみ、十二所神社の中にお菊を『お菊大明神』として祀ったと言い伝えられているそうです。

 それから300年後、城下に奇妙な形をした虫が大量発生し、人々はお菊が虫になって帰ってきたと噂したそうです。

 幽霊は井戸にさえ近づかなければいいけど、特に虫嫌いの人はお菊虫の方が怖いかも。

 お菊さんの井戸付近から大天守を見上げます。

 




 




それにしても、お城の真正面に呪われた井戸が残ったままなんて、どかすことができなかったのかな?井戸の祟りは怖いからねえ。

 姫路城の石垣は独特の曲線を描いています。

 




 これは『扇の勾配(おうぎのこうばい)』と呼ばれています。

 姫路城では、天守台をはじめ重要な櫓台や高い石垣は『扇の勾配』の石積みを採用しています。

 




 この勾配の特色は、石垣の会社面を内側に扇を開いた形に湾曲させているもので、こうした傾斜をつけることによって石垣を高く積むことができます。

 もちろん、石を高く積むだけではなく、石垣の内側に含む水や土の圧力で、くずれやすくなるのを防ぐねらいがありました、このことは、攻め手がよじ登るのを防ぎ一石二鳥の効果を持っています。

 再度、狭間(さま)です。

 




 鉄砲を撃つ窓なのに、美しい造形が施されています。

 ということで、長くなりましたので、次に続きますね。

 次回はこちら。
【注意!】

姫路城は現在、天守閣工事中です。

姫路城大天守保存修理工事は平成21年10月から始まり、概ね5年間工事が続くそうです。

現在の状況はこちらで確認してください。

横浜関内にあるインド料理店の『モハン』に行ったよ 【ファイルF39】2010.08.23 

【ファイルF39】2010.08.23 横浜関内にあるインド料理店の『モハン』に行ったよ

モハンセットは美味しくてお徳だねえ。

  『モハン』は横浜関内(かんない)にあるインド料理店です。

 横浜関内駅からほど近く、伊勢佐木町モールの入り口手前の雑居ビルの地下にあります。





 店頭のボードに写真があって、
 




 右端のモハンセット

 キーマビリヤニ、タンドールチキン、パパド、ナン、サラダ、チャイ 1800円
を注文することに決めました。

 ということで、階段で地下に下ります。





 インドのカレー屋さんって、何故かこういう場所が多いねえ。

 内装は正しいインド料理店です。





 正しいインド料理店なので、テレビからはボリウッドのマサラムービーのダンスのミュージックビデオが流れています。

 男性の低音ボイスと、女性の頭のてっぺんから出てくるような高音がインドの情緒を醸し出します。


 私は家でカレーを食べるときも、こんなCDを流したりします。






 音楽を流すと、美味しさが2割ほどUPするような気がします。


 お店の人(もちろんインドの人)が注文を取りに来たので、『モハンセット』って言ったのですが、外のボードの方か?って聞かれました。

 出されたメニューを見たらば、3500円のモハンセットもあるようです。

 メニューの方は量が多そうなので、外のボードの方ですって答えました。

 それで、出てきたモハンセットです。





 カレー(キーマビリヤニ)は最初からライスの上にかかっています。





 赤っぽくてトウガラシの色が勝っています。

 ターメリックが押さえてあるのかな?

 辛さは種類があるみたいですが、特に何も言いませんでした。

 私は激辛が苦手なのですが、これはぴりっとしてほどよい辛さでした。

 インドの本場カレールウは、さらさらのイメージがあるのですが、野菜を煮込んであるので、こくととろみがあります。

 ぱさぱさの外米がカレールウに良く絡んで美味しいのです。

 タンドリーチキンは赤いインド独特の香辛料が香ばしくって、柔らかいチキンが良い味を出しています。






 ふわふわもちもちさくさくの大きなナンはバターが効いていてとても美味しくて、ちぎって頬張ると幸せな気持ちになります。





 パパドはドンタコスのような感じで、塩味が効いていて箸休めになります。





 最初は普通に口に運ぶ分ずつ混ぜて食べていたのですが、半分くらい食べた時点でふと思いついて、タンドリーチキンの身を骨から剥がしてほぐし、カレーの中に投入して、ライスと一緒によくかき混ぜて食べました。

 これは、銀座のカレーの名店、ナイルレストラン流の食べ方です。

 これがまた美味しいのです。

 ご飯に対するルウの量が多くて、ルウの中にご飯が泳いでいるのです。

 インドカレーは美味しいねえ。

 食後のチャイが甘くって、ほっとします。





 ということで、便利な場所にあって美味しいお店なので利用がしやすいのです。


 このお店でカレーの余韻に浸りながらJR関内駅にむかって羽衣町の交差点の横断歩道を渡っていたら、向こうから色黒の背の高い鼻筋の通った日本人離れしたカッコイイ男の人が歩いてきました。

 さっきのカレー屋さん関係のインドの人かと思ってよく見ると、どうも見覚えのある顔です。

 それもそのはず。その人はなんと、サッカー・ワールドカップ南アフリカ大会の日本代表で大活躍した中澤 佑二(なかざわ ゆうじ)選手でした。

 びっくりだねえ。

 その日は中澤選手の所属している横浜F・マリノスがホームの新横浜にある日産スタジアムでの試合を控えていたから、横浜の繁華街で見かけても不思議ではないのですが。

 中澤選手と田中マルクス闘莉王選手のセンターバックの二人は日本の守備の要として世界的に評価されていたからねえ。

 中澤選手はスタジアムのピッチでの雄姿は見たことがあるのですが、間近ですれ違うと背が高くてとても精悍でした。
 
 それにしても、この前、南アフリカで戦っていたのをテレビで応援していた人が、現実に目の前をスーツ姿で歩いているのを見るのは不思議な感覚だねえ。

 ライオンさんの写真をUPして、ハイネケンビールを飲んで、デニッシュパンを食べて、マテ茶を飲んで一生懸命応援したから、神様が会わせてくれたのかも。

 縁起が良いねえ。

 この前は八景島でさかなくんを見かけたし。

 それにしても、横浜は良い街だねえ。

よこはま動物園ズーラシアのニホンザルの赤ちゃんだよ。 【ファイルC195】2010.08.20 

【ファイルC195】2010.08.20 よこはま動物園ズーラシアのニホンザルの赤ちゃんだよ。

とっても元気に跳ね回っているねえ

 今年はニホンザルの赤ちゃんが5月15日から20日にかけて、3人生まれました。

 この時点で生後まだ3ヶ月に満たないのに、ずっと動き回って一所にいません。

 かろうじて3人が写った写真がこれです。





 本当に元気だねえ。


 お母さんも3人のはずなんだけど、関係なく駆け回っています。

 それにしても、お客さんから遠いし、赤ちゃんは小さいし・・・。

 赤ちゃんが二人仲良くしてます。





 お母さんがちゃんと守ってくれるよ。





 でも、ちょこまか動き回るねえ。





 生後まだ3ヶ月に満たないのにもう木登りの練習。





 先っぽまで冒険だい!





 でも怖くなってて枝にかじりついています。





 うへえ。

 わ~い!お母さん、おんぶ~。





 と喜んでいたら、退場処分だったよ。





 枝を名残惜しそうに見つめる赤ちゃん。

 こっちの赤ちゃんは子猿さんに遊んでもらっています。





 面倒見がいいねえ。兄弟なのかな?

 子猿さんは、カメラに気付いて警戒しています。





 赤ちゃんを庇っているよ。

 賢いねえ。

 赤ちゃんのまあるい頭が可愛いねえ。





 一方先ほど退場処分を受けた赤ちゃんはお説教されています。





 木登りの練習は良いけど、危ないことしちゃだめだよ。

 は~い。

 果たして聞いているのかいないのか・・・。

 改めて木登りの練習。





 でもお母さんが見てないと、このとおり。





 あんた、今、危ないことしなかった?

 えっ?しないよお。





 すっとぼける赤ちゃん。

 全然懲りていません。

 子猿さんが、木の枝を揺すって遊んでいます。





 赤ちゃんはお利口に順番待ちです。

 赤ちゃんの番が来ました。

 でも、いくら揺すっても木の枝はびくともしません。





 あれえ?おかしいねえ。

 赤ちゃんはまだ、軽すぎるんだねえ。

 おとなの真似をして、子猿さんが赤ちゃんをグルーミング。





 こうやって、子供達は社会性を身につけるんだねえ。

 うきゃきゃ、くすぐったいよお!





 でも、赤ちゃんはじっとしていません。

 そんなこんなで、猿山は大騒ぎでした。

 やっぱり猿山はずっと見ていて飽きないねえ。

 さようなら。

 みんな元気に育ってね。

改修前の春の姫路城だよ(その7) 【ファイルT127】2010.08.17 

【ファイルT127】2010.08.17 改修前の春の姫路城だよ(その7)

豊臣時代の遺構もあるねえ。

 姫路城の記事を最初から見られる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/50754429.html
 
 ということで、姫路城の天守閣内部の見学を終え外に出ます。

 暗い室内から外に出ると眩しくて頭がくらくら。

 それで、姫路城にはまだ見所があります。


 姫路城は、多くの城主に引き継がれたため、屋根瓦の家紋もバラエティーに富んでいます。

 




 兵庫県立歴史博物館の展示では、こうなっています。

 




 歴代藩主と家紋の関係がよく分かりますね。

 塩櫓(しおやぐら)は美しい曲線を描いています。

 




 籠城(ろうじょう)時の飲料水確保のために井戸も万全です。

 




 各廓から見上げたお城です。

 




 




 現在の姫路城は池田輝政築城のものですが、豊臣秀吉の三層城時代の遺構もあります。

 真柴秀吉(まじばひでよし)公播州姫路城郭築之図(西ヶ谷文庫蔵)

 




 秀吉の姫路城築城の図で、江戸末期の歌川貞秀(うたがわさだひで)画。

 幕府をはばかり、羽柴秀吉を真柴秀吉と名を変えて、天守最上層に登場させています。

 この絵では、5層になっていますが、秀吉時代の姫路城天守は、実際は三層のお城だったようです。


 石垣の中程に金網で保護されている『姥が石(うばがいし)』です。

 




 秀吉が姫路城築城の石集めに苦労していた時、城下で餅を焼いて売っていた貧しいお婆さんが、老いた独り身では何もできないが、せめてこれでも使っほしいと、古くなって欠けていた石臼を寄付しました。

 秀吉はお婆さんの気持ちを大層喜んでこの石を使いました。

 この評判はすぐ町中にひろまり、国中からたくさんの石が寄付され、お城の建築は急速に進み、立派に完成したと語り伝えられています。


 油壁(あぶらかべ)です。

 




 この壁は、城内の他のものと違っています。山土に豆砂利を加え、もち米のとぎ汁やお粥(かゆ)などで練り合わせた土を仮枠の中で叩き締めて築いたものです。
 工法から見ると池田輝政築城よりも前に築かれたものと思われ、コンクリートのように固く、鉄砲の弾をはじき返す強度を持ち、400年以上の風雪を堪えてきました。


 十字紋の鬼瓦です。

 




 これは、キリシタン大名だった黒田官兵衛孝高(くろだかんべえよしたか→隠居後の号は黒田如水:くろだじょすい)の十字紋という説もあります。

 秀吉は黒田官兵衛孝高の知謀(ちぼう)の才を高く買い軍師に抜擢しました。

 備中高松城攻めの最中、京都で明智光秀による本能寺の変が起こり、信長が横死した際、官兵衛は秀吉に対して、毛利輝元と和睦し、光秀を討つように献策し、中国大返しを成功させたと言われています。

 官兵衛は大阪城の縄張りも行った築城の名手で、三層の姫路城を築くに際しても官兵衛の力が大きく、そのため官兵衛に紋瓦を作らせたのだと伝えられています。

 官兵衛は、天正11(1583)年から13(1585)年頃に、官兵衛は高山右近(たかやまうこん)らの勧めによってキリスト教の洗礼を受け、ドン・シメオンと名乗っていました。

 しかしながら、同時に神仏にも帰依して、天正15( 1587)年7月に秀吉がバテレン追放令を出すと高山右近らがこれに反抗して追放される中、官兵衛は率先して令に従ったので、官兵衛の信仰がどれだけ本気だったかは少し疑問です。

 ただ、キリシタン大名の高山右近、小西行長(こにしゆきなが)らキリシタン大名が亡くなった後、多くのキリシタン武士を召し抱え。官兵衛が亡くなったときには、遺言で博多の教会に1000エクスを寄付したそうです。

 いずれにせよ、もしこの十字紋瓦が黒田官兵衛由来のものなら、天正11(1583)年からバテレン追放令の天正15( 1587)年の間に作られたことになります。

 ちなみに、黒田官兵衛の息子が黒田長政(くろだながまさ)で、関ヶ原の合戦後、徳川家康が長政の功労に手をとって喜んだということを、帰郷して父の官兵衛さんに自慢げに話すと、

 官兵衛さんは、「なぜその場で家康を刺さなかった!?」って怒ったそうです。そのへんが、お父さんと息子さんの器の違いなのですね。


 また、黒田家といえば、

 黒田氏家臣で黒田官兵衛とその子黒田長政に仕えた武将、母里太兵衛友信(もりたへえとものぶ)が福島正則邸を訪問した際に、「飲み干せば何でも褒美を取らす」と大盃に注がれた酒を勧められ、この酒を見事に何杯も飲み干し、約束通り褒美に正則自慢の槍(日本号)を貰い受けたという逸話に基づいた『黒田節(くろだぶし)』が有名ですね。

「酒は呑め呑め 呑むならば 日本一(ひのもといち)のこの槍を 呑み取るほどに呑むならば これぞ真(まこと)の黒田武士」


 現地の説明版には、特に黒田官兵衛のことは書かれておらず、

「十字紋の鬼瓦

『にの門櫓』の唐破風に乗っている鬼瓦には、十字紋が彫られています。キリシタンの名残とか魔除けともいわれていますが、日本の城では珍しい紋瓦です。

 なお、この櫓の南面と東面の鬼瓦には、波しぶきが彫ってあります。これは火除けを祈ったものと思われます」

 と書かれています。

 黒田官兵衛さん由来というのは、少し難しいのかもしれませんね。

 黒田官兵衛さんのことで、少々脱線して話が長くなりました。

 ということで、次に続きますね。






【注意!】

姫路城は現在、天守閣工事中です。

姫路城大天守保存修理工事は平成21年10月から始まり、概ね5年間工事が続くそうです。

現在の状況はこちらで確認してください。

横浜の元町霧笛楼(むてきろう)で、優雅なフレンチのランチタイムだよ 【ファイルF38】2010.08.14 

【ファイルF38】2010.08.14 横浜の元町霧笛楼(むてきろう)で、優雅なフレンチのランチタイムだよ

贅沢な時間を過ごせるねえ。

 横浜は元町通りから、山側に入った所に霧笛楼(むてきろう)はあります。

『仏蘭西料亭 横濱元町 霧笛楼』と書くのが正しいのかな。

 写真右の棟が洋菓子店で、左がレストラン。ランチはここの1階(半地下?)のお店になります。





 中に入ってみたらば、女性のグループが多いねえ。山の手マダムだねえ。

 横浜らしく、ジャズピアノのBGMが流れています。

 旬の素材を使った『山の手コース』を頼みました。

 飲み物は?と聞かれたのでコーヒーを頼みました。


 着席した時点でのテーブルの状態です。





 左のナプキンは丸められて紙で止めてあります。

 中央に綺麗な霧笛楼のネームが入った絵皿が置いてあります。増田窯の横浜焼きのお皿なのだそうです。





 それで、絵皿はウェルカム用の飾りらしくて、引っ込められ、コース用のナイフとフォークが複数組並べられます。

 外側から使っていくんだね。

 コーヒーから。





 ほどよい苦みのコーヒーです。この日はとても暑かったので涼しいお部屋でほっと一息です。


 それで、いよいよお料理です。

 まずは冷製オードブル





 ホタテの上に大根が載ったお料理(名前は忘れました)。





 ホタテは羊羹みたいな歯ごたえで、ほんのり磯の香りに焦げ目が香ばしいのです。

 3層のゼリーのような日本で言う煮こごりの料理(これも名前は忘れました)はなめらかなスープのにこごりに挟まった中層のプリプリつぶつぶ状のオマールエビがとっても美味しいねえ。





 なめらかスープと絡めて食べます。

 メニューの詳細については、いちいち出てくるときに説明してくださるのですが、一度に覚えきれません。


 あったかフランスパンです。





 外がパリパリなかはしっとり、ほどよい堅さです。

 奥に写っているがのバターで、なかなかに濃厚なお味です。

 お魚料理はスズキのプロヴァンス風とトウモロコシのリゾットです。蟹の絵のお皿に載っています。





 トウモロコシのリゾットは、ぷちぷちでトウモロコシの甘みとライスの弾力が持ち味です。

 アップで写したらこんな感じ。





 スズキは身が柔らかくて淡泊なお味。川魚の生臭さが抜かれています。

 この時点で、おなかがふくれてきました。


 次がお肉のプレートです。

 地元横浜は『浜(はま)ポーク』のソテーとジャガイモのガレットサンドとお野菜です。





 豚さんは分厚くて噛み応えがありますが、筋繊維の筋がまったくありません。浜ポークは横浜名産の高級豚なのですが、市場にはあまり出回っていないのだそうです。





 この厚さで火が均等に通っています。

 断面はこんな感じ。





 良く焼けているのに、中身に赤みがほんのり残っていて、理想の焼き加減です。


 豚の旨味が良く出ていて、脂身もこくがあって焦げ目が香ばしいねえ。

 ジャガイモのガレットサンドは、薄いさくさくぱりぱりハッシュドポテトの載ったマッシュポテトです。





 お芋の風味に胡椒味が利いてさっぱりしたポテトコロッケの中身のようです。


 ここのお店はフランス料理店をうたっていますが、ベースは和風なのだそうです。

 だから、和風懐石の繊細さがあります。日本人の舌に合った洋食フレンチなのですね。だから、横濱フレンチなのでしょう。

 デザートはマンゴーのコンポートとココナッツムースです。





 あまりに美味しそうだったので、写真を撮ることをうっかり忘れてしまって、てっぺんの薄焼きクッキーを持って囓りかけ、慌ててもとに戻したので、端が少し欠けています。
ごめんなさい。

 ペパーミントが載ったマンゴーのシャーベットが爽やかでとろり果肉が桃のような食感があります。味は桃よりもあっさりしていて、涼感を誘います。





 なめらかココナッツムースはココナッツ特有の香ばしさですが、下に敷いてある、しっとりスポンジケーキが良く馴染んでいます。





 最後にランチに付いている食後のハーブティーです。





 味はレモン+ペパーミント+紅茶といった感じを想像していただければ近いかな?

 さっぱりしています。

 ごちそうさまでした。

 ああ美味しかった。

 でも、満腹だよお!

 それで、お値段の方ですが、
 山の手ランチ3500円、
 コーヒー400円。
 小計3900円
 それにサービス料10パーセントをオンして4290円になり、
 これに消費税215円を加えて、お会計はしめて4505円でした。

 この素材でこの手の込んでいる料理でこの値段はリーズナブルだと思います。

 さいごにハーブティーが出るので、飲み物で別に頼んだコーヒーは余分だったかもしれないねえ。というより、私はコースの中に組み込まれている飲み物を聞かれたとばかり思っていたよ。

 飲み物は?って聞かれたのは、ワインとかの注文を尋ねられていたんだねえ。コーヒーもハーブティーも美味しかったから良いけど。

 ということで、横濱フレンチの代表的なお店なのでまずランチをお試しください。

 お洒落な横浜元町に相応しい雰囲気のあるレストランでした。

 ランチでも満腹だったので、これでフルコースは私には少し量が多いかな?

よこはま動物園ズーラシアのアカカワイノシシの赤ちゃんだよ。 【ファイルC194】2010.08.11 

【ファイルC194】2010.08.11 よこはま動物園ズーラシアのアカカワイノシシの赤ちゃんだよ。

しましま模様のウリ坊さんだねえ


 よこはま動物園ズーラシアに行ったらば、アカカワイノシシの赤ちゃんが3人生まれていました。誕生日は今年の6月12日です。

 アカカワイノシシさんの赤ちゃんも日本のイノシシさん同様、縞々模様が可愛いウリ坊さんです。





 ちょうどお食事中でした。

 お母さんがお食事をしているのは、分かるのですが、赤ちゃんがもぐもぐやっているのは、多分、お母さんのまねっこだと思います。

 だってまだまだ離乳していないはずなのですから。

 案の定、赤ちゃんたちはおっぱいをねだります。
 




 まだ、お母さんが食事中だから駄目!

 お母さんは赤ちゃんを振り切って逃げ回っています。





 でも、赤ちゃんは諦めずお母さんを追っかけ回します。





 お腹が空いたよお。

 根負けしたお母さんは、食事を中断して赤ちゃんに授乳を始めます。





 赤ちゃんは激しく頭を上下に振って飲んでいるので、顔がブレています。





 お腹がいっぱいになってくると、動きも落ち着いてきます。





 アカカワイノシシさんはセネガルからコンゴ民主共和国までの西アフリカから中央アフリカの森林やその辺縁部、深いやぶなどにお住まいです。

 体高58~96cm 体重50~120kgです。

 4~20頭ぐらいの群れで生活し、主に薄暮すぎから活発に活動します。

 主に根茎、落ちた果実などを食べるのですが、トカゲやヘビあるいは鳥の卵なども食べるんだって。

 英名がRed River Hogなので、『赤川猪』なんでしょうが、赤くて可愛いイノシシさんですね。

 やっと授乳から解放されて、中断していた食事を再開するお母さん。





 お母さんが沢山食べないと、おっぱいも出ないからねえ。

 お母さんが少し痩せているようにも見えるし。


 赤ちゃんは手前の仲良しの2人組と、お母さんにくっつきまわる奥の子に分かれています。


 仲良しの2人組のうち一人が眠くなって横になり、もう片方の子は、遊び相手が眠ると寂しいので、ぺろぺろと毛繕いをして起こそうとします。





 そのうちもう一人も眠くなって一緒にお昼寝。





 ミイラ取りがミイラになって、枕を並べて討ち死にだねえ。
 わざわざ同じ向きで寝るんだねえ。

 甘えん坊の子は、ずっとお母さんのそばから離れません。




 さようなら。


 みんな元気に育ってね。

 それで、別の運動場には、大人のアカカワイノシシさんがいました。













 赤い毛並みがとっても綺麗で、白く縁取られたお耳がカッコイイねえ。

 どんどん増えたらいいねえ。

皇居の一般参観をしたよ。(その3) 【ファイルET4】2010.08.08 

【ファイルET4】2010.08.08 皇居の一般参観をしたよ。(その3)

山下通りと蓮池濠は眺めがいいねえ

 皇居一般参観の記事の続きです。

 最初からご覧になる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/50951013.html

 まずは、宮殿北車寄せ(きゅうでんきたくるまよせ)です。





 総理大臣をはじめ主に日本人のお客様が使用される玄関です。

 内閣が組閣された際、宮中正殿松の間において内閣総理大臣の親任式及び国務大臣の認証式が行われ、正式に新内閣が発足するわけですが、その後、ここで記念撮影をします。

 こんな具合に。





 宮中での認証式を終え、記念撮影する菅直人首相(前列中央)と閣僚=皇居・宮殿北車寄で2010年6月8日毎日新聞より

 マスコミで良く使われるのは、総理大臣官邸の赤絨毯の階段での記念撮影の方ですけれど、正式にはここでの写真が、新内閣発足直後の写真になるわけです。

 北車寄せの右側に豊明殿があります。





 豊明殿は国賓の晩餐、天皇誕生日などの宴会の儀等に使用されます。

 1975年5月7日皇居豊明殿宮中晩餐会で乾杯されるエリザベス英女王(左)と昭和天皇(毎日jpニュースボックス アーカイブより)





 とても華やかですね。


 更に奥には連翠(れんすい)があります。





 連翠(れんすい)は午餐(ごさん)、少人数の茶会などに使用されます。

 山下通の坂をのんびり下ります。





 山下通りは、春はさくら、秋はもみじの紅葉でとてもきれいな通りです。こうやって見ると緑の季節もとっても綺麗。


 紅葉山(もみじやま)です。





 紅葉山は、江戸城内中央にある小山です。

 江戸時代、紅葉山には、家康を祀る東照宮をはじめとして、歴代将軍の霊廟が営まれていました。

 そしてこの霊地を将軍が参詣する時には、これに供奉する諸大名や、警備に当たる番方の旗本らの位置取りや歩く経路が事細かく決められていたそうです。

 現在は紅葉山御養蚕所(もみじやまごようさんしょ)が設けられ、皇后陛下が蚕(かいこ)を飼育されています。

 ここで採られた繭は、そのまま正倉院に送られ、貴重な古代の『?嘸(あやぎぬ:漢字は糸へんに施の右側)』や、『羅(ら)』、『綾(あや)』などの復元に使われています。

 また、御養蚕所の屋外では、『天蚕(てんさん)』や『柞蚕(さくさん)』などの『野蚕(やさん=天然の蚕)』を飼育し、試験所に送って絹糸(けんし)から絹織物を作り、宮中祭祀に用いたり、外国元首などへの贈り物にしています。

 蚕に桑の葉を与えることを『ご給桑(きゆうそう)』の作業と呼ぶそうです。

 太陽と桑(蚕・絹)とは神話的につながっていて、天照大神(あまてらすおおみかみ)も機織りをなさっておられましたね。

 『日本書紀』に、雄略天皇が皇后に養蚕を奨励されたことが記されているそうです。

 皇居での養蚕は、明治4(1872)年、明治天皇の皇后である昭憲皇太后がお始めになったということです。


 ついでに書くと、さらに奥には吹上御苑(ふきあげぎょえん)の御所があります。

 吹上御苑(ふきあげぎょえん)は現在、自然豊かな森林となっていて、陛下のお住まいになっている御所等の建物が点在しています。

 主な建物として、昭和天皇、香淳皇后の御所であった『吹上大宮御所』、現在の天皇・皇后両陛下の住居である『御所』、『宮中三殿』などがあります。

 この地は、江戸城築城後には番衆・代官衆や清洲藩の松平忠吉の屋敷地があり、その後は徳川御三家の大名屋敷が建築されていました。

 ところが1657(明暦3)年1月の明暦の大火で全焼し、当時財政難であった幕府はほぼ壊滅状態であった江戸復旧に際し都市の再建を優先し、その結果このあたりは江戸城への類焼を防ぐための火除け地として日本庭園が整備されることになったのです。

 明暦の大火を機に、幕府は防火のための区画整理を強力におしすすめたのですね。

 明治維新で一時荒廃しますが、江戸城に天皇がお住まいになるようになると、庭園が再建され、さらにゴルフ場も建設されました。

 1937年に昭和天皇がゴルフ場の使用を止め、自然のまま残すように希望なさったため、以後は豊かな森林が形成されました。

 そのため、吹上御苑の湿度は近隣の測定値に比べ、およそ10~20%程高く、衛星の観測データによると吹上御苑を含む皇居の森で作られた高湿度の空気が大気を冷やし、銀座、日本橋辺りまで流れ込み、ヒートアイランド現象の抑制にも役立っていることが判明しているそうです。

 また、天皇陛下は例年、皇居・生物学研究所わきの水田(330㎡)で、恒例のお田植えをされています。

 もともとは、明治天皇が赤坂御用地内に水田をつくらせ、耕されていたのですが、昭和天皇が農民と同じ労苦を味わいたいというご希望と、稲作の品種研究を目的として、お田植えをこの地で始められ今上天皇に継承されています。

 天皇皇后両陛下御結婚満50年に際して(平成21年4月8日)宮殿 石橋の間で行われた天皇皇后両陛下の記者会見で、陛下はこのようにご発言されています。
 
※ ※ ※

 守ってきた皇室の伝統についての質問ですが,私は昭和天皇から伝わってきたものはほとんど受け継ぎ,これを守ってきました。

 この中には新嘗祭のように古くから伝えられてきた伝統的祭祀もありますが,田植えのように昭和天皇から始められた行事もあります。新嘗祭のように古い伝統のあるものはそのままの形を残していくことが大切と考えますが,田植えのように新しく始められた行事は,形よりはそれを行う意義を重視していくことが望ましいと考えます。

 したがって現在私は田植え,稲刈りに加え,前年に収穫した種籾を播くことから始めています。

  ※ ※ ※

 日本の皇室は、神話の時代から、勤労を貴ばれています。

 日本の伝統がこうやって継承されていくのですね。
 
 なお、収穫された稲は10月17日の神嘗祭(かんなめさい)の折に神前に供えられる他、伊勢神宮の神前にも奉納されます。

 そして、宮中祭祀(きゅうちゅうさいし)の中でも最も重要なものとなっている11月23日の新嘗祭(にいなめさい)には、宮中三殿の西にある神嘉殿(しんかでん)の神前に備えられるのです。

 また、祭祀で使われた稲穂の残りは、精米して両陛下の御膳(ごぜん)にも上がります。

 ですから、両陛下は、その年のお米の作柄を全国のお百姓さんと同じように実感されるのですね。

 
 さて、山下通の坂を下ると、富士見多聞が見えます。





 多聞とは、防御と装飾とを兼ねた長屋作りの武器庫で、本丸には十五棟の多聞が有りましたが、現在残っているのは、この富士見多聞だけです。中には鉄砲や弓矢が納められていました。

 富士見多聞は、蓮池濠の上に聳(そび)え立っています。





 蓮池濠(はすいけぼり)から富士見多聞までの石垣は、高さが約20メートルにもなる長大な石垣で、東・南・西の三面いずれも激しく屈折しています。

石垣下と石垣塁壁に取り着いた敵を攻撃する際、死角をなくすための工夫だといわれています。


 蓮池濠をアップで写します。





 蓮池のお濠の長さは約400m、深さが約80cmです。

 毎年7月8月の夏には、蓮の花を見ることができるそうです。ちなみにレンコンは食べることなく肥料のためにそのまま残すそうです。

 少しもったいないねえ。これだけの環境で手入れも良いから、ここで採れるレンコンは、さぞかし美味しかろうねえ。
 
 皇宮警察の機動隊の人達が重装備の完全武装にジュラルミンの盾をもってマラソン訓練をしていました。女性隊員も混じっていました。





 暑いのに訓練大変だねえ。おつかれさまです。

 ということで、参観を終了して、桔梗門から出て解散です。





 参観コースはおよそ2キロ一時間ほどかかります。

 機会があったら一度参観してくださいね。


 次は江戸城東御苑(旧江戸城本丸)の記事です。

改修前の春の姫路城だよ(その6) 【ファイルT126】2010.08.05 

【ファイルT126】2010.08.05 改修前の春の姫路城だよ(その6)

天守閣のてっぺんは良い眺めだねえ。

 姫路城の記事を最初から見られる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/50754429.html
 
 ということで、姫路城の続きです。

 天守閣の階段を登り上層に向かいます。

 東の大柱です。

 




 大柱は上層に行けば行くほど細くなっています。


 石打棚(いしうちだな)です。

 




 天守閣の4階は周囲が石打棚で囲まれています。
 
 これは人が登れる段付きの棚で、この棚の上に積み上げた石を攻め上ってくる敵兵に向かって投げ落とすのです。

 そして、石打棚の下にあるのが、内室(うちむろ)です。

 




 このような屋根裏の部屋を内室といい武者隠しや物置に使用されました。

 限られた空間を有効に活用していますね。
 
 天守閣の最上階の6階に到着。

 東西7間(約12.6m)、南北5間(約9m)の空間です。

 姫路城は、関ヶ原の合戦まで多くの城で見られた廻縁高欄(まわりえんこうらん)が最上階の外に巡らされていません。

 廻縁高欄を室内に取り込み、周囲に設けた入側から一段高くして、書院造りの座敷使用となっています。

 最上階から西側を臨みます。

 




 西の丸をアップで写します。

 




 白く長い屋根は長局(ながつぼね=多聞櫓)で、手前の黒っぽい屋根の格子窓の櫓が化粧櫓(けしょうやぐら)です。

 長局、化粧櫓の記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/50819312.html


 魚眼レンズで俯瞰します。

 




 文字が読みにくいけれど、左から三の丸、三国堀、西の丸、長局(多聞丸)、化粧櫓、景福寺公園、男山、乾(いぬい)小天守です。

 幸千代を失った傷心の千姫は、長局(ながつぼね=多聞櫓)から西へ500m先の男山(おとこやま)に小さな天満宮を建て遙拝していたというお話を書きましたが、こういう位置関係になっています。

 男山ですから、千姫は幸千代の菩提を弔うとともに、世継ぎの男子の誕生も願ったに違い有りません。

 鯱(しゃち)です。

 




 鯱の頭は虎のようで、背に鋭いトゲを持ち、鯨でも刺し殺す獰猛さをもつという想像上の海魚です。防火のおまじないとして城の棟飾りとして設置されています。

 南側を望みます。

 




 三の丸広場から南へ海の方に向かって大手前通りが伸びています。この先にはJR姫路駅があります。


 天守閣の最上階には刑部明神(おさかべみょうじん)というお社(やしろ)が祀られています。

 




 これは、宮本武蔵ゆかりのお社です。

 実際は時代が合わないため全くの伝説とされているのですが、武蔵は若いころ足軽の「滝本又三郎」として木下家定時代の姫路城に奉公していたというのです。

 ある夜、天守に住む妖怪退治を命じられた武蔵は灯りを手に上り、妖怪を追い払いました。

 そうすると天守最上階に刑部明神が姫の姿で現れ、武蔵に妖怪退治の礼として銘刀・郷義弘を授けたということです。

 また、吉川英治の小説『宮本武蔵』では、沢庵和尚(たくあんおしょう)に捕らわれた武蔵が姫路城の天守に3年間幽閉され、大天守3階から4階へと続く階段の下にある小部屋(開かずの間)で万巻の書を読み精神修養をしたことになっています。

 これも創作とされていて、小部屋は本来、倉庫として使われていた可能性が高いのだそうです。

 しかしながら、これだけ観光客が詰めかけているにもかかわらず、なお且つそういう話がつくられるのも無理はないように思える独特の雰囲気がこのお城にあることも確かです

 
 最上階の釘隠(くぎかくし)には金箔が張ってあります。

 




 ということで、長くなりましたので、次に続きますね。



 

【注意!】

姫路城は現在、天守閣工事中です。

姫路城大天守保存修理工事は平成21年10月から始まり、概ね5年間工事が続くそうです。

現在の状況はこちらで確認してください。

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