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横濱の勝烈庵(かつれつあん) 馬車道総本店だよ 【ファイルF42】2010.09.29 

【ファイルF42】2010.09.29 横濱の勝烈庵(かつれつあん) 馬車道総本店だよ

勝烈定食を食べたよ。

 横濱のカツレツ屋さんの老舗、勝烈庵(かつれつあん) 馬車道総本店に行きました。

 途中に『アイスクリーム発祥の地』の母子像が建っていました。





 馬車道で明治2(1869)年に開業、販売されたのが日本のアイスクリーム第一号だそうです。

 当時は『氷水』と表記され、『あいすくりん』と呼ばれていたんだって。

 さすがは横浜だねえ。発祥のものが多いねえ。

 勝烈庵の真横には『六道の辻通り』という石柱がありました。





 六道の辻といえば、以前、京都の六道の辻の記事を書いたのですが、この辺にお墓でもあるのかな?

 京都の六道の辻の記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/49788952.html

 昔、暗闇坂の刑場(戸部刑場)が西区西中学校あたりにあったそうだけど。ここから暗闇坂まで繋がっていたのかな?う~む。

 六道の辻ということは、冥界への入り口っていう意味だから、このへんに幽霊さんが出るんだねえ。

 それにしても平成11年3月とは、新しいねえ。六道の辻で『まちおこし』かな?

 水木しげるさんの出身地の鳥取県境港市は妖怪で『まちおこし』してるからねえ。

 でも、江戸時代このあたりは、太田新田だったようだし・・・。

 それで、明治34年の「横浜全図(1901年)」をみたら、ここは6差路になっているので、単にそれで、六道の辻ということなのかもしれません。

 な~んだ。百鬼夜行が往来する通りだと思ったよ。


 勝烈庵(かつれつあん) 馬車道総本店です。





 大きな提灯だねえ。

 入り口に暖簾が架かっています。





 『ハマの街灯点火の地』という碑がお店の前に建っています。





 ここの周りは史跡が多いねえ。

 店内には棟方志功さんの絵が使われています。





 棟方志功画伯が生前ここの常連さんだったそうです。

 カウンターの向こうには、コック帽を被った調理人の方々が5人。
 若い人もベテランの人も、てきぱきと立ち働いています。

 勝烈定食1470円なりを注文しました。

 カツレツに、ご飯と、漬け物と、シジミの味噌汁が付いています。





 平べったいカツレツです。





 断面はこんな感じ。





 秘伝のソースをかけていただきます。





 このソースは新鮮な野菜と果物タップリ使って、2日間とろとろ煮込み、1日寝かせてあるそうです。

 辛子をつけて。

 甘辛いソースに、ふわふわさくさくの衣がとっても軽いのです。

 肉は適度な歯ごたえがあって、均質に火が通っています。

 柔らかいお肉も良いけど、適度な歯応えのあるポークもいいねえ。噛む度に、お肉の旨味が口中に広がります。だから、こういう薄くて平べったい形なのですね。

 もちろん、歯はすっと通って綺麗に噛み切れます。

 ご飯が美味しくいただけます。

 シジミの入ったお味噌汁が、さっぱりして、とてもカツレツに合います。

 さすがは、横浜老舗の名店だねえ。

 ごちそうさまでした。

 それで近所を少し散歩しました。

 牛馬飲水槽がありました。





 1917年(大正6)、牛馬飲水槽は、陸上交通を担っていた牛馬のために、神奈川県動物愛護協会の前身である日本人道会と横浜荷馬車協会によって、各所に設置されたものです。

 牛も馬も水を補給しないとね。

 ご近所に煉瓦造りのお洒落なお店がありました。





 馬車道十番館だって。





 木製の電話ボックスがカッコイイねえ。





 横浜は煉瓦がとってもよく似合う街です。





 勝烈庵は周りの散策もセットにすればとても贅沢な時間が過ごせるねえ。





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改修前の春の姫路城だよ(その11) 【ファイルT131】2010.09.26 

【ファイルT131】2010.09.26 改修前の春の姫路城だよ(その11)

外濠もあるよ。

 姫路城の記事を最初から見られる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/50754429.html
 
 慶雲寺から南下してJR姫路城の方向に向かいます。

 姫路城の外濠跡です。

 




 姫路城には敵から城を守るために内濠(2,970m)、中濠(4.323m)、外濠(5.232m)の三つの濠があり、総延長は12,525mです。濠の最終地点はここ野里堀留町です。

 竹の門の西方から北の濠端までは幅約2mの水路を残してあとは埋め立られて公道になっています。

 外濠の名残の水路です。

 




 水路というか、溝だねえ。


 そこここに町家が点在しています。

 




 




 中濠に架かった久長橋(きゅうちょうばし)です。

 




 




 白い塀に瓦屋根が載っていてきれいだねえ。


 柳ごしに見る中濠。

 




 イーグレ姫路です。

 




 大手前公園の前に建つ再開発ビルで、屋上には展望台があるそうです。

 夕日を浴びる姫路城天守

 




 昭和5年に設立された『旧逓信省姫路電信局』の建物です。

 




 窓枠に贅を尽くしたジョージアンスタイルです。今は、「姫路モノリス」という、結婚式場、レストランに利用されているそうです。

 特別史跡姫路城跡総社門(そうじゃもん)跡です。

 




 総社門は姫路城中曲輪(なかくるわ)の南部に設けられた5城門の一つで、播磨国総社西門に至るところからその名称が付けられました。

 昭和59・平成7年度の2度にわたる発掘調査で、門跡西端部の鍵型に折れる『石垣』と、その門を潜り中濠へ排水する『暗渠(あんきょ:地中に埋設された水路)』が検出されました。

 総社門の旧状は明治時代以降の改変で分かり難くなっていますが、本来は市民会館南側で中濠(現国道2号)を『土橋(どばし)』で渡り、歩道付近で『外門』を入ると現存高石垣にぶつかり、西折れして『内門』を入るいわゆる『枡形(ますがた)』構造をしていました。

 また、現在地付近には門出入りの人を監視する『御門番所』が置かれていました。


 総社門跡西部石垣です。

 




 平成7年度の発掘調査で検出された東西石垣の断面を原位置のまま保存しています。

『積石(つみいし)』の奥行が長く、その裏にぎっしり詰められた『栗石(くりいし:川原石)』とともに堅固な石垣を構成しています。この石垣は、本来東方へ約10m延びて、内門南石垣に連なっていました。


 みゆき通り商店街です。

 




 ビクターのワンちゃんがクビをかしげています。

 




 球形のボラード(車止め)がサギソウの模様です。

 




 ということで、姫路は城下町の風情に満ちた街ですね、次に続きます。







【注意!】

姫路城は現在、天守閣工事中です。

姫路城大天守保存修理工事は平成21年10月から始まり、概ね5年間工事が続くそうです。

現在の状況はこちらで確認してください。










横浜市立金沢動物園のインドサイの赤ちゃんはブンタくんだよ。 【ファイルC198】2010.09.22 

【ファイルC198】2010.09.22 横浜市立金沢動物園のインドサイの赤ちゃんはブンタくんだよ。

やっと1歳になろうとしています

 横浜市立金沢動物園のインドサイさんちに行きました。

 インドサイといえば、以前、名古屋市の東山動物園のご夫婦を紹介しましたね。立派な甲冑(かっちゅう)を鎧(よろ)ったカッコイイサイさんです。
 記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/49115257.html

 金沢動物園では、2009年8月15日の夜にインドサイの赤ちゃんが誕生しました。
赤ちゃんの名前はブンタ君です。金沢動物園の最寄駅金沢文庫(かなざわぶんこ)の「文」とお父さんの名前の金太郎の「太」で「文太(ブンタ)」だって・・・。

 遊びに行った時点ではまだ1歳になっていません。

 でも見つからないねえ。

 と思ったら、足下のプールに浸かってお昼寝をしていました。





 でも動かないからつまんないねえ。

 そのうち、暑いのか、短い尻尾でばしゃばしゃ水浴びを始めました。





 でも、体全体にはかからないねえ。

 やっと起きてくれました。





 どっこいしょ。

 




 赤ちゃんでも大きいからねえ。


 やっぱりお母さんのところへまっしぐらです。





 お母さんのゴポンさん(9歳)は、アメリカのサンディエゴ・ワイルド・アニマルパークから、国際的なインドサイの繁殖を目的として来園しました。

 とても落ち着いた性格で、上手に子育てをしているそうです。
 
 だから、ブンタくんも安心して甘えています。





 お父さんの金太郎さん(26歳)は、ウィルヘルム動植物園(ドイツ)生まれですが、お父さんの姿は見えません。どこか離れたところで暮らしているんでしょう。

 サイやカバは子供が出来ると、お父さんは別室に分けられるからねえ。

 それにしても、母子そっくりだねえ。





 ブンタ君はまだ角が生えていませんが、男の子だから立派な角が生えるんだろうねえ。

 それにしても、インドサイは赤ちゃんも甲冑みたいな体なんだねえ。

 びっくりしたなあ。

 ブンタ君は元気だから、ひとっところでじっとしていません。





 また水浴びかな?





 でも、方向転換して。





 今度はお兄さんに甘えています。





 本当にブンタ君は甘えん坊です。

 あんまり甘えん坊って言わないでよお。





 照れるブンタ君。

 耳が長いねえ。





 正面から見たら、優しいお顔。





 こんにちは。

 お母さんと一緒にお食事。





 もう離乳してるのかな?





 さようなら。

 もりもり食べて、大きく育ってね。


 ということで元気いっぱいのインドサイの赤ちゃんでした。





皇居東御苑(こうきょひがしぎょえん)=旧江戸城本丸を探索するよ(その3) 【ファイルET7】2010.09.19 

【ファイルET7】2010.09.19 皇居東御苑(こうきょひがしぎょえん)=旧江戸城本丸を探索するよ(その3)

大奥方面に北上するよ

 最初から読まれる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51135519.html

 前回の松の大廊下跡から本丸跡を北上します。
 
 茶畑もあります。





 芝生の中央にある『ドンの午砲台跡』です。
 




 江戸城本丸跡地は気象台発祥の地でもあります。

 明治期から昭和30年代まで気象庁の官舎も建っていました。

 午砲(ドン)というのは、明治四(1871)年9月、正しい時刻を知らせるために設置された午砲台のことです。

 天文台からの信号合図で、近衛兵が正午の時報の大砲(もちろん空砲です)を撃ちました。

 当時はラジオもテレビも電波時計も携帯電話も無かったから、遠くまで音が届く大砲が時報だったんだね。さぞかし、うるさかったろうねえ。

 これは昭和四(1929)年4月1日に廃止されるまでの58年間、『ドン』の愛称で東京府民に親しまれました。

 午前中に業務・授業が終了し午後が休みの早期終業のことを『半ドン』といい、週休二日制導入までは、土曜は半ドンでした。

 この『半ドン』の語源が、「正午の大砲の『ドン』という音より一日の半分が休みなので『半ドン』と呼ばれるようになった」という説があります。

 あと半ドンの由来には、
 ○ 江戸時代末期、長崎県出島よりオランダ語で日曜日または休日を意味するzondagという言葉が伝わり、訛ってドンタクになり、半分のドンタクなので「半ドン」と呼ばれるようになった。

 ○ 明治時代において半分休みの土曜日と言う意味で「半土」と言う言葉が生まれ、それが徐々に「半ドン」と言われるようになった。

 という説があるようですが、私は午砲説を採りたいと思います。


 富士見多聞(ふじみたもん)です、





 富士見多聞も皇居の一般参観のコース(要予約)から見た方が遙かに立派だねえ。

 皇居の一般参観のコース(要予約)で、表からみた蓮池濠(はすいけぼり)越しに見た富士見多聞はこちら(再掲)。




 
 多聞とは、防衛と装飾を兼ねた長屋作りの櫓(やぐら)の一種で、中には鉄砲や弓矢が納められていました。江戸城本丸には15棟の多聞がありましたが、富士見多聞は、その中で唯一の遺構です。

 蓮池堀から、富士見多聞までの石垣は、約20mもあります。


 石室(いしむろ)です。





 石室は富士見多聞の北側にあります。

 入り口には扉を取り付けた穴があります。

 暗い内部は20㎡ほどで、伊豆半島産の安山岩、「伊豆石」の切石で、隙間無く壁が組まれています。





 これは、江戸城の抜け穴とか、御金蔵(ごきんぞう)という説もありますが、大奥御主殿・御納戸(ごなんど)の脇という場所柄から、非常時に大奥の調度品や文書類など、貴重品を納めた富士見御宝蔵の跡と考えられているそうです。

 なお御金蔵は実際には富士見櫓の近くにあったようです。


 石室の先には竹が植わっています。





 このような、竹やバラ園の野生種のバラは、今上陛下(きんじょうへいか=今現在の天皇陛下)のお考えから、入園者が楽しめるように、吹上御苑から移植などにより植えられたものだそうです。
 

 このあたりや天守石垣前の芝生広場が大奥の御殿でした。




 
 武家社会では、表(おもて)と奥(おく)の区別が厳格になされていました。

 高い身分の武家の妻子は奥御殿に住み、みだりに男が立ち入ることは許されませんでした。

 奥様、奥方というのは本来、武家社会での呼び方です。

 奥の一番大きな役割は将軍の世継ぎを生むことです。

 徳川家康が天下を取り、代々の将軍が江戸城に住むようになると、大奥の制度が生まれます。

 大奥は正妻の御台所(みだいどころ)をはじめ、女性だけが住む御殿で、中奥と大奥は御鈴廊下(みすずろうか)のみで結ばれていました。

 大奥は、さらに御殿向(ごてんむき)長局向(ながつぼねむき)と広敷向(ひろしきむき)の3つに分かれていました。

 御殿向(ごてんむき)は御台所(みだいどころ)の居室が中心で、上臈(じょうろう)などの奥女中たちは長局向(ながつぼねむき)に居室がありました。

 広敷向(ひろしきむき)は大奥の食料や着物などの調達窓口です。女性ばかりの大奥の中で、例外的に広敷役人という男性の役人が詰めていた場所です。

 この広大な空間に、御台所を筆頭に、年寄、上臈などの奥女中が数百人、総勢3000人の女性だけの世界が広がっていたなんて、凄いですね。

 有名な春日局(かすがのつぼね)も、天璋院篤姫(てんしょうひんあつひめ)も、皇女和宮(こうじょかずのみや)もここで暮らしていたのです。きらびやかなお姫様の御殿だったのです。

 本当に信じられないねえ。

 中でも、三代将軍家光の乳母(うば)のお福(後の春日局)は家光が成人してからも側(そば)につかえ、家光の生母お江与の方(おえよのかた)の死後、『大奥総取締役』を命じられました。

 そもそも、二代将軍秀忠の長男が夭折し、次男の竹千代(後の家光)が生まれたものの、その弟の利発な国松(後の忠長)を生母のお江与の方が溺愛し、そのことに危機感を持った竹千代の乳母のお福が駿河城の家康に直談判して、結局長幼の序列を崩すことなく、家光が三代将軍になったという経緯があるのです。

 後水尾天皇が、無位無冠のお福(春日局)が宮中に参内したことに憤り、退位されたという話をお夏清十郎の話に絡めて先日書きましたね。

 お福さんが参内するときはさすがに、三条実条(さんじょうさねえだ)の妹として、緋袴(ひばかま)を許し、春日局(かすがのつぼね)という名前を付けてのことだったのですが、後水尾天皇からすれば、許し難い非礼だったのですね。

 夏清十郎と後水尾天皇の記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51212476.html

 以後、大奥は幕政に隠然たる影響を与えていました。

 将軍吉宗が紀州家からはいって八代将軍をついだのには、家宣(いえのぶ)夫人の天英院の推挙が大きな力になっていたと言われます。

 江戸時代の女性は強かったんだねえ。

 ということで、長くなったので、次に続きます。

横濱伊勢佐木町の『グリル桃山』に行ったよ 【ファイルF41】2010.09.16 

【ファイルF41】2010.09.16 横濱伊勢佐木町の『グリル桃山』に行ったよ

お肉たっぷりビーフシチュー。

 横浜の伊勢佐木町に夕方行きました。





 横浜の伊勢佐木町(いせざきちょう)といえば、

 青江三奈(あおえみな)さんの唄った
『伊勢佐木町ブルース(昭和43年 作詞:川内康範 作曲:鈴木庸一 唄:青江三奈)』

 が有名です。




 そういえば、この曲の作詞の川内康範(かわうち こうはん)さんって、森進一さんが『おふくろさん』の歌詞を勝手に変えたってもめてた、耳毛の長いおじさんだねえ。

 『月光仮面』の生みの親で、テレビアニメ『まんが日本昔ばなし』の監修に当たった人としても有名で、とっても多才な人です。

 それで、川内康範さんの伊勢佐木町ブルースによると、伊勢佐木町では、夕方になると、

 恋と情けの灯が『ドゥドゥビ ドゥビドゥビドゥビドゥバー』ってともるそうです。

 それで、『グリル桃山』についたらば、すでに店内に恋と情けの灯が『ドゥドゥビ ドゥビドゥビドゥビドゥバー』とともっていました。





 創業昭和8年だそうです。

 いかにも歴史ある横浜の洋食屋さんといった佇まいの店内に入り、ビーフシチュー温野菜添えとライスを注文しました。





 ビーフシチュー温野菜添えです。





 よく煮込んだ大きな牛肉の塊がごろごろ入っています。





 牛肉を頬張るって贅沢だねえ。柔らかくて繊維がほぐれて美味しいねえ。

 濃厚でコクのあるデミグラスソースが良く染みています。ビーフの肉汁と混ざって、口の中に広がります。

 味の文明開化だねえ。

 ワインを煮込んでいるんだって。

 少し辛めのお味なので、ライスと交互に食べます。

 ライスはフォークの背中に乗っけて食べるねえ。

 ニンジン、ジャガイモも柔らかくって、豆がシャキシャキです。

 店の奥様にとても丁寧に応対していただいて、アットホームな雰囲気でした。

 いかにも常連といった雰囲気の若いお父さんと、息子さんが隣の席にいて、どうやらお母さんと待ち合わせをして、ここでディーナーのようです。

 お店もお客さんもこうやって代替わりしていくのですね。


 ビーフシチュー2415円とライス260円で合計2675円でした。
 
 ごちそうさまでした。






改修前の春の姫路城だよ(その10) 【ファイルT130】2010.09.14 

【ファイルT130】2010.09.14 改修前の春の姫路城だよ(その10)

慶雲寺はお夏清十郎のゆかりのお寺。

 姫路城の記事を最初から見られる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/50754429.html
 
 前回のお茶屋さんの角を曲がって少し行くと慶雲寺(けいうんじ)があります。
 ここは、臨済宗妙心寺派の寺院で山号は永佑山です。

 嘉吉3年(1443年)に天台宗の寺院として創建、天正5年(1577年)、南景和尚の代に臨済宗に転じ、南室和尚の代に中興されたそうです。

 とても立派なお寺です。

 




 それもそのはず。南室和尚の徳を称えた姫路城主池田輝政が姫路城の建築資材を分けて与え本堂を再建したのです。

 奉安の如意輪観世音菩薩は池田輝政の奥方の念持仏で、その子が住職として寺に入ったためと伝えられているそうです。

 それで、境内の奥にひっそりと、お夏清十郎比翼塚(おなつせいじゅうろうひよくづか)が建っています。

 




 右がお夏の塚、左が清十郎の塚で、綺麗に清められ、花が手向けられています。


 塚の由緒書きにはこう書かれています。


※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 江戸時代の劇作家西鶴の五人女、近松の歌念仏で有名なお夏は、姫路城の大手門にあたる本町の米問屋但馬屋九左衛門の娘に生まれ、清十郎は姫路の西方、室津港の造り酒屋和泉清左衛門の息子で、何不自由のない家庭に育ち、錦絵にも優る美男であったが、故あって、清十郎は十九歳の時、但馬屋に勤める身になり、明け暮れ律儀に勤めたので万人から好かれるようになった。

 いつしかお夏と清十郎は深い相想の仲となったが、九左衛門はこれを許さなかった。

 思いもよらぬ濡れ衣に依って、あたら二十五歳の時清十郎ははかなくも刑場の露と消えたのである。

 此の事を知ったお夏は、黒染めの衣に身をつつんで読経三昧に暮らし、ひたすら清十郎の冥福を祈った。

 但馬屋も二人の純愛に打たれ、『比翼塚』をつくって其の霊を慰めたという。

 むこうを通るは清十郎じゃないか
  笠がよう似た菅笠が・・・・・・

 という俗謡が大流行し、畏くも天皇上聞に達し、御製を賜りたるもの。

 御 製

 御水尾天皇

   清十郎きけ 夏が来たりと 杜宇(ほととぎす)

 後西天皇

   笠が よう似た ありあけの 月


※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 相思相愛のお夏清十郎の仲が引き裂かれ、濡れ衣で清十郎さんが刑死するというのが、何とも哀しい話です。


 それにしても、御水尾天皇(年代的には御水尾院)が御製を贈られたというのが、またよく理解できるのです。

 当時、幕府は京都所司代(きょうとしょしだい)を置いて朝廷を監視していました。後醍醐天皇の時のようなことがあってはまずいですからね。

 また、禁中並公家諸法度(きんちゅならびにくげしょはっと)を制定し、朝廷の行動を更に厳しく制限しました。

 朝廷は何をするのにも幕府の許可が要り、花見もままならない状況でした。

 御水尾天皇は、慶長17年(1612年)に即位しましたが、大御所の徳川家康は御水尾天皇に、二代将軍徳川秀忠の娘和子(まさこ:千姫の妹)の入内(お嫁入りのことですね)を申し入れ、慶長19年(1614年)4月に入内宣旨が出されます。

 入内は大坂の陣や元和2年(1616年)の家康の死去、後陽成院の崩御などが続いたため延期されました。

 元和4年(1618年)には女御御殿の造営が開始されますが、後水尾天皇には寵愛する女官四辻与津子(よつじよつこ:お与津御寮人)がいらしたのです。

 そして、与津子が後水尾天皇の皇子賀茂宮(かものみや)を、翌年には皇女梅宮(うめみや)を出産していたことが判明し、大きな問題となるのです。

 問題と言ってもこれは天皇の外祖父になることを目論んでいた徳川家にとって問題なだけで、幕府の身勝手な言い分です。

 翌元和5年には徳川秀忠自身が上洛して参内し、不行跡(?)として与津子の兄弟である四辻季継・高倉嗣良を含む近臣らを配流し、与津子と所生の皇女梅宮らを宮中より追放することなどで合意しました【およつ一件、お与津御寮人事件】。

 さらに沢庵和尚の紫衣事件が起こり【本来高僧が着る紫の袈裟は天皇が許可していたが、幕府からそれが、禁中並公家諸法度(きんちゅならびにくげしょはっと)に抵触するとして、物言いを付けられた】。

 重ねて、無位無冠の春日局(かすがのつぼね)が異例の参内(さんだい)をしたため、憤慨した後水尾天皇は、幕府に無断で退位してしまいます。

 譲位した後、皇位は和子の娘、明正(めいしょう)天皇が継ぎ、徳川秀頼は天皇の外祖父になります。

 その後、後水尾天皇は上皇になり離宮の造営を幕府に要求するのですが、幕府が建設地に指定したのが宮中から追放された皇女梅宮が出家した円照寺のある修学院!

 円照寺は立ち退きを迫られ、大和の八嶋に移転します。

 なんとも、むごい話です。


 徳川幕府の朝廷支配はここまで過酷だったのです。

 つまり、後水尾天皇ご自身に、愛する女性や子供から引き裂かれた辛い過去があったわけです。

 ですから、後水尾天皇にとって、お夏清十郎の事件は他人事ではなかったのでしょう。


 尊皇思想、明治維新につながる歴史の流れも、こういう幕府の天皇に対する傲慢な態度が影響していたのかもしれません。いくらなんでも、庶民は天皇に同情しますよね。


 池田家と徳川家の庇護を受けただけあって、とても本堂は立派です。

 




 




 




 徳川家の三つ葉葵紋と、池田家の揚羽蝶の紋です。
 




 鬼瓦にも三つ葉葵の紋が。

 




 法華塔です。

 




 




 それで、慶雲寺の側には固寧倉(こねいそう)という蔵がありました。

 




 固寧倉(こねいそう)は、江戸時代後期の酒井時代に姫路藩が整備した非常用食糧備蓄倉庫です。江戸時代諸藩でこれに似た制度がつくられました。

 飾西郡大庄屋衣笠弥惣左衛門などが姫路藩家老の河合道臣(みちおみ=寸翁)に備荒貯穀を目的とする米麦貯蔵用の倉庫を建設することを建議し、藩主酒井忠通(ただひろ)がこれを取り上げ、近在の庄屋、富裕層から穀物などの提供を受け1809年(文化6年)頃発足します。

 名称の由来は「書経」の一節「民惟邦本、本固邦寧(民は惟れ邦の本、本固ければ邦寧し)」(たみはこれくにのもと、もとかたければくにやすし)からで、儒学者の林大学頭述斎(はやしだいがくのかみじゅさい)が選び、その子、てい宇(『てい』の漢字は『木へん』に『聖』)が扁額の文字を書いたと伝わっています。

 1813年(文化10年)に60ヶ所、1843年(天保14年)には92ヶ所、1848年(弘化3年)に288ヶ所存在し、貯蔵した穀物は、平時には領民に低利子で貸し付けをしていました。

 天明・天保の両大飢饉時は大いにその力を発揮し、姫路藩では餓死した人数が近隣の他地域に比べ非常に少なかったと伝えられています。

 さすが、姫路藩は西の要害だけあって、名君が統治していたのですね。


 最近も米百俵と言っていた総理大臣がいましたが、その人は、その米を自分で食べてしまうどころか、日本をアメリカ金融資本に売り飛ばしてしまいました。

 何を考えているのやら・・・。

 ということで、次に続きます。





【注意!】

姫路城は現在、天守閣工事中です。

姫路城大天守保存修理工事は平成21年10月から始まり、概ね5年間工事が続くそうです。

現在の状況はこちらで確認してください。









神戸市王子動物園のコウコウ君が亡くなりました。 【ファイルC197】2010.09.11 

【ファイルC197】2010.09.11 神戸市王子動物園のコウコウ君が亡くなりました。

あんなに元気だったのに

 神戸市王子動物園のコウコウ君が、9日亡くなりました。14歳でした。

 人工授精のため、麻酔をかけた後の突然の死でした。
 今度こそはと元気な赤ちゃんを期待していたのに、とても残念です。

 上野のリンリンくんが亡くなったのが22才7ヶ月(人間なら70才くらい)でしたから、まだ若かったのに。
 
 当アトモス部屋の『生きているお友達の部屋』の記念すべき第一回
>【ファイルC1】2006.10 パンダ君に会いに行ったよ!
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/22787027.html

 に初めて出演いただいたのもコウコウ君でした。

 コウコウ君の写真を再掲します。













 とっても元気で愛嬌がある子でした。

 上野にパンダが来ることが決まり、つい先日、南紀白浜アドベンチャーワールドで、8月11日に男女の双子の赤ちゃんが生まれていたのを知り、賑やかになると喜んでいた矢先の訃報に少なからずショックを受けています。

 タンタンちゃん、寂しくなるねえ。

 本当にお疲れ様でした。

 謹んでご冥福をお祈りします。


 他の王子動物園のパンダさん関係の記事を改めて一覧します。

 パンダの親指問題
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/22990755.html
 パンダ君に独占インタビュー
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/23092442.html
 王子動物園のパンダのタンタンちゃんのでんぐり返りはかっこいいねえ!
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/39845453.html
 パンダの木登り
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/39891346.html
 パンダの身分
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/39892119.html
 流石に可愛い☆神戸市立王子動物園のジャイアントパンダさん
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/42508920.html
 神戸市立王子動物園のジァイアントパンダのタンタン(旦旦)ちゃんが出産したよ!
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/44259887.html
 神戸市立王子動物園のジャイアントパンダのコウコウ君
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/45280437.html
 ジャイアント・パンダさんのお目目は断固として丸くて可愛いよ!
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/49838291.html









皇居東御苑(こうきょひがしぎょえん)=旧江戸城本丸を探索するよ(その2) 【ファイルET6】2010.09.07 

【ファイルET6】2010.09.07 皇居東御苑(こうきょひがしぎょえん)=旧江戸城本丸を探索するよ(その2)

有名な『松の大廊下跡』もあるよ

 前回は大手門から江戸城本丸御殿跡に向かいました。
 前回の記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51135519.html

 だだっぴろい江戸の登城って本当に大変だねえ。これは実際に歩いて体感しないと分かりません。


 本丸大芝生(ほんまるおおしばふ)です。





 大きなケヤキの木が二本立っています。

 昔このあたりには本丸御殿の玄関とそれに続く遠侍(とおさぶらい)がありました。

 登城した大名や諸役人はここで検問を受けた後、御殿(ごてん)に上がりました。

 本丸御殿は、表向(おもてむき)・中奥向(なかおくむき)・大奥(おおおく)の三つの区画からなる一万坪の大御殿です。

 表向は諸役人の執務の場と将軍が謁見などをする公的な場で、もっとも格式の高い『大広間』がありました。

 時代劇に『江戸表(えどおもて)に出向く』って台詞が出てきたりしますね。

 忠臣蔵で有名な『松の大廊下』を進むと、大広間に次いで格式の高い『白書院』があり、その北にこれに次ぐ格式の『黒書院』がありました。

 中奥は将軍が起居したり、政務をみたりする将軍公邸、大奥は将軍の夫人、いわゆる御台所(みだいどころ)を中心に後宮の女官が生活する場所で、将軍の私邸にあたります。


 江戸幕府の職制は将軍を頂点に、大老・老中以下多岐にわたっていますが、要職にある役人は、毎日登城していました。

 老中は四つ時(午前10時)に登城して八つ時(午後2時)に下城するのが通例で、若年寄は午前8時頃登城し、御用部屋に勤める役人は8時前に登城していたそうです。

 このだだっ広い公園に本丸の壮大な屋敷が軒を連ね、幕政が執り行われていたなんて、とても不思議な気がします。


 本丸御殿は江戸時代に何度も火災に見舞われましたが、文久三(1863)年にすべての御殿が焼けて以後、本丸御殿はついに再建されることなく、西の丸に仮御殿がたてられただけで、慶応三(1867)年の大政奉還を迎え、徳川時代は終焉(しゅうえん)します。


 世が世なら、一般人は入れなかった場所です。


 奥に天守閣の石垣が見えていますが、写真で見るより実際は凄く遠いのです。





 ということで、ここは江戸時代には本丸御殿が建ち並んでいた江戸城の中枢でしたが、文久三(1863)年にすべての御殿が焼けて以後、本丸御殿はついに再建されることなく、明治維新の直後は焼け野原になっていました。

 また、戦後しばらくの間も、荒れ野原だったり、野菜畑や桑畑の時代がありました。

 桑の葉は、香淳皇后が御養蚕所(ごようさんしょ)でお使いになられました。

 また、東御苑として整備されるまでは中央部に呉竹寮(くれたけりょう)がありました。

 呉竹寮は内親王のための施設で、きわめて質素な木造平屋でした。

 富士見櫓(ふじみやぐら)は、裏から見ると、少し貧相です。





 皇居の一般参観のコース(要予約)から見た方が遙かに立派だねえ。

 皇居の一般参観のコース(要予約)で、表からみた富士見櫓はこちら(再掲)。





 ちなみに、テレビドラマの『暴れん坊将軍』では、江戸城の天守閣に見立てた姫路城の前で馬に乗った松平健さんがカッコイイのですが、江戸城の天守閣は明暦の大火で焼失したきり再建されず、富士見櫓が天守閣の代わりに使われていた時代もありました。

 ですから、松平健さん扮する、暴れん坊将軍吉宗公の時代はすでに江戸城の天守閣は存在せず、ひょっとして、この富士見櫓の前で乗馬していたのかもしれません。


 さて、ここが忠臣蔵で有名な『松の大廊下跡』です。





 あの『松の大廊下』の場所がここだっていうことを、頭で納得するのに少し時間がかかります。

 他の人も、『これがあの・・・』という感じで立ち止まります。それほど、太平の江戸時代においてもっとも華やかな元禄時代に、日本人が衝撃を受けた大事件だったのですね。

 当時の様子は、江戸東京博物館の模型ではこうなっています。





  歌舞伎『仮名手本忠臣蔵(かなてほんちゅうしんぐら)』舞台錦絵より(国立劇場蔵)





 時は元禄14(1701)年、3月14日、勅使接待(ちょくしせったい)の3日目、赤穂藩主、浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)は、高家筆頭(こうけひっとう)・吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしたか)に松の大廊下で、突然、小サ刀(ちいさがたな)を抜き斬りかかりました。

『この前の遺恨(いこん)覚えたるか!』

『殿中でござる』

浅野内匠頭を羽交い締めにして必死に止めるのは梶川与惣兵衛(かじかわよそべえ)。

『武士の情け、お許しくだされ』

 その日は、江戸城本丸白書院(しろしょいん)で将軍返礼の儀式が行われる予定でした。

 五代将軍綱吉が白書院で勅使と対面し、簡単な儀礼な言葉を交わし、これで、勅使に対する公儀の儀式はほとんど終了します。

 吉良(きら)家は室町幕府以来の名門で、足利の血が絶えたら吉良家が継ぎ、その次が今川家(織田信長に桶狭間の合戦で討たれた今川義元が有名)が継ぐというほどの家柄です。

 これだけの名門ですから、勅使(ちょくし)、すなわち朝廷からの使いの接待の指南役にはうってつけで、今回勅使の供応接待役を務める赤穂家の指南をしていたのですが・・・。

 これが世に言う『忠臣蔵(ちゅうしんぐら)』の発端です。

 大切な勅使供応の最中にこんな事件が起きた事に対して、当時から今に至るまで諸説がとなえられているのですが、確たる理由は分かっていません。

 上野介は軽傷だったのですが、殿中(でんちゅう)での刃傷(にんじょう)は御法度だったので、内匠頭は田村右京太夫(たむらうきょうだゆう)邸預けになり、将軍綱吉の厳命でその日のうちに切腹となりました。

 他方、上野介に対してはなんの構いなし。

 本来争いごとは喧嘩両成敗が原則で、幕府の裁判はそれぞれの部署で詳細に調べを行い、討議。今回のような重要事件については老中の裁定の後、将軍の許可を得て採決するのが本来ですから、将軍綱吉の即断は拙速のそしりは免れません。
 

 華やかな松の大廊下で繰り広げられ、いまだに語り継がれる歴史的大事件も、今はこのような石碑が往事の記憶を止めるのみです。

 ここがあの有名な事件の発端の現場だと思うと、名状しがたい感慨が湧いてきます。

 長くなりましたので、次に続きます。

改修前の春の姫路城だよ(その9) 【ファイルT129】2010.09.05 

【ファイルT129】2010.09.05 改修前の春の姫路城だよ(その9)

姫路城の北側を散策するよ。

 姫路城の記事を最初から見られる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/50754429.html
 
 
 ということで、三の丸広場に戻ってきました。

 三の丸広場から見上げる姫路城天守。

 




 三の丸には、本多忠政が息子の本多忠刻と千姫のために建てた『武蔵野御殿(むさしのごてん)』がありました。

 武蔵野御殿は秀吉が作った伏見桃山城の遺構を多く用い、殿中の戸襖には金箔を張り、武蔵野のすすきの絵が描かれていたからそう呼ばれたそうですが、いまは跡形もなく、ただの広場になっています。

 本当に姫路城はとてもすばらしいお城ですね。

 それで、姫路城の工事の足場を観ながらお城の裏の姫山公園を散歩します。

 




 本当に大工事だねえ。

 姫路城の東北=艮(うしとら)の鬼門には姫路神社が建てられています。

 




 姫路城北側のお堀(勢隠濠=せがくしぼり)沿いにある姫山公園はお堀と緑が調和していて、桜の季節もとても綺麗です。ぐずぐずしている間にもう9月ですですが。とほほ・・・。

 




 




 




 勢隠濠(せがくしぼり)のむこうは、鬱蒼とした森です。

 




 公園にはお花が植わっています。

 




 




 兵庫県立歴史博物館です。
 
 




 大きなガラスに姫路城が写っています。丹下健三さんの設計だそうです。

 北側から観た姫路城です。

 




 南から観ると大天守で隠れて見えない東小天守を見ることができます。

 斜面は勢隠し(せがくし)といわれる原生林で覆われています。

 姫路城は桜の花がとても似合います。

 




 マンホールにはサギソウがあしらってあります。

 




 それで、鍛冶町商店街には、かつての城下町の雰囲気を今日に残す、町屋風の建物があります。

















 この御茶屋さんの角を右に曲がると、慶雲寺です。





 いうことで、次に続きますね。





【注意!】

姫路城は現在、天守閣工事中です。

姫路城大天守保存修理工事は平成21年10月から始まり、概ね5年間工事が続くそうです。

現在の状況はこちらで確認してください。

横浜中華街『海員閣』に行ったよ 【ファイルF40】2010.09.02 

【ファイルF40】2010.09.02 横浜中華街『海員閣』に行ったよ

シュウマイも、豚バラそばも美味しいねえ。

 ということで、怒濤の横浜シリーズという訳でもないのですが、横浜中華街『海員閣』に行きました。

 ここは普段は行列ができる人気店らしいのですが、私は例によって、おもいっきり中途半端な時間に行ったので、空いていました。

 空いている時間の方が、お店の人も余裕があるからねえ。

 映画監督の小津安二郎さんも常連でここに通っていたそうです。

 小さい路地に入って、





 え~と、確かこの辺のはずなんだけど・・・。

 うへえ、お隣の看板で隠れて見落とすとこだったよお。





 2階建てですが、小ぢんまりしたお店です。





 他店は訪問した芸能人の写真が飾ってあったりして、看板も派手なのですが、ここのお店は、商売っ気がないのか、謙虚なのか、それほど味に自信があるのか、とにかく地味です。

 店内にはホチキスでとめたスポーツ新聞が置いてあるような、ごく普通の支那料理屋さんです。

 それでもって、おばちゃんが、注文を取りに来ます。

『シュウマイと豚バラのラーメン』と注文したら、『シュウマイと豚バラそば』ですねって確認されちゃいました。そうなんです。ここは支那そばを出すお店なのです。

 それから水かお茶か聞かれました。

 私はラーメンには冷たいお水です。

 若い女店員は母国から呼び寄せた親戚なのか留学生なのか、支那の言葉をしゃべっています。いろいろとおばちゃんに接客を習っていて、もっか修行中という感じです。

 おばちゃんは少し不慣れな日本語と支那語を操っています。そこがまた味なんですよね。

 まずシュウマイさん480円也がやってきました。





 シュウマイというのに、全く皮が出しゃばっていない、と言うより薄い皮が大きめなミートボールに張り付いているというか、こびり付いている感じなのです。

 改めて写真を見ると、赤いのはエビかな?

 断面はこんなかんじ。





 程よく赤みが残っている焼き加減で、肉の塊が粗挽きなのかとてもぷりぷりと弾力があります。

 ごま油で香ばしさの加わった肉汁が噛む度にあふれてきます。噛んでいると口の中が嬉しくなってきます。

 普通のシュウマイのイメージとはちがっています。こういうシュウマイは、わざわざここに来ないと食べられないのかな?

 さすがは横浜だねえ。

 お次は、これも人気メニューの豚バラそば¥800です。





 腰があって、縮れが緩い麺です。





 かんすいの味かな?麺自体に不思議な味がついていて、のど越しが良いのです。

 スープはお醤油味。

 豚バラは表面がキツネ色になっていますが、裏側はトロリとした脂身の皮膜があります。





 ほどよい歯ごたえで噛むと繊維がほぐれてばらけます。

 これも豚の風味が口の中に広がります。

 それで、横に添えられている青菜が美味しいねえ。

 これは空芯菜(クウシンサイ)っていうのかな?シャキシャキしてさっぱり味でアクセントになります。

 なんか不思議な味です。

 小津さんはこういう味が好きだったのかって納得できます。

 私にとって、新食感なのにどこか懐かしい、正しい支那そばです。

 この前テレビを見ていたらば、桜組とかの来日している中華人民共和国出身の若い女性タレント10名ほどが出ていた番組で、拉麺(ラーメン)の本場の支那では、他の料理に使うスープに麺を入れただけで、日本のラーメンの種類の多さと美味しさにびっくりしたと発言していて、一同頷いていました。

 日本の豚骨ラーメンが美味しくて特に一風堂が気に入っているという発言もあって、向こうでも『日式ラーメン』の店が増えているんだって。

 日本のラーメンはラーメンというより、日本人に合うように工夫、改良した支那そばという方が正しいのではないかと思います。日本の洋食と同じです。

 だいたいね、私は中華というより、支那といった方が美味しそうに感じるんだよ。

 シナチク(支那竹)は、メンマって呼ぶより美味しそうだし。

 藤沢にある佐野実さんの有名ラーメン店も『支那そばや』でしょ?

 それで、ここの豚バラそばも、ここのオリジナルだと思います。

 日本人の口に合うように他店と競争して、工夫してできたおそばなんだねえ。

 ということで、おすすめです。
 

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