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改修前の春の姫路城だよ(その17) 【ファイルT137】2010.11.30 

【ファイルT137】2010.11.30 改修前の春の姫路城だよ(その17)

姫路船場別院本徳寺だよ。

 姫路城の記事を最初から見られる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/50754429.html

 順番が入れ替わりましたが、ゆかたまつりの長壁神社から西に向かいます。

 本徳寺に到着しました。

 表門です(市指定文化財)。

  




  




  




 表門脇に立てられている元禄9(1696)年石灯籠(市指定文化財)です。

  




 真宗大谷派姫路船場別院本徳寺(しんしゅうおおたには ひめじせんばべついんほんとくじ)は、兵庫県姫路市地内町にある真宗大谷派の寺院です。

 同派の別院、真宗本廟(東本願寺)を本山と仰ぎます。

 山号は、「轉亀山」(てんきざん)。 本尊は、阿弥陀如来。

「船場御坊」・「船場本徳寺」・「姫路御堂」とも呼ばれています。


 その歴史は蓮如(れんにょ)上人時代にさかのぼります。

 蓮如上人は晩年、六歳の時本願寺を退出した実母が備後にいるという噂を聞き、下向の願いをいだき、常随の門弟である法専坊空善に依頼しました。

 空善は上人を受け入れる道場を播磨国飾西郡英賀(はりまこく しきさいぐん あが)に建てましたが、この道場が本徳寺の前身です。

 結局、蓮如上人の来播はなりませんでしたが、本徳寺は上人を開基と仰ぎ、本徳寺を中心に「播磨六坊」また「英賀六坊」と呼ばれる上人直弟開創の道場によって、真宗が栄えていきました。
 
 蓮如上人没後、住職は実玄、実円、教什と移りますが、実円時代の永正12年(1515)には、七間四面宝形造の御堂が建立され、「英賀御堂(あがみどう)」と呼ばれて、寺内は商工業で栄えたといいます。

 ところが、天正8年(1580年)豊臣秀吉の播磨攻めがあって英賀城が落ち、本徳寺は秀吉に寄進された同郡亀山の地に移転させられます。

 慶長7年(1602年)、本願寺は東西に分立。

 亀山に移転した本徳寺は、東派に属することを決断しましたが、時の姫路城主池田輝政が、領内の真宗寺院は全て西派に属するよう命じたため、この本徳寺も西派に属し、「亀山御坊 本徳寺」として今日に至っていいます。

 一方、池田氏に替わって姫路に入封した本多忠政は、東本願寺の門徒であり教如上人と親交が深かったことから、元和4(1618)年に地内町で池田組屋敷100間四方の現在地の敷地を寄進して、「亀山御坊」とは別に、この地に東派本徳寺の再建を認めました。

 その際には、十三間四面の壮大な本堂が建立されたといいます。

 寛文3年(1663年)、東本願寺から別院「船場御坊」の称号が送られ、

 享保3(1718)年には現在の十七間四面の本堂が建立されました。

 その時の本堂(市指定文化財)です。

  




 立派な屋根です。

  




 でも、少し老朽化が目立ちます。

  




 屋根の下には大きな鶴の彫刻と、本堂建立時の藩主榊原氏の家紋、源氏車が刻まれています。

  




 この本堂は、2回の火災や空襲で伽藍の一部を焼失したものの、現在に至るまで、享保3(1718)年当時の姿を留めています。

 また、明治時代には、明治6(1873)年、旧制姫路中学校(現在の兵庫県立姫路西高等学校)の前身である勧開中学校の設立や、明治20(1887)年の崇徳学校の設立に関わるなど、教育に力を入れており、大正5年(1916年)には、現在も続く船場御坊幼稚園を設置しています。

 境内には明治18(1885)年に明治天皇が山陽道巡幸中に休憩された「行在所」があり、第一次世界大戦参戦時には、ドイツ軍捕虜の収容所として境内が使用されました。

 現在も本堂西に、ドイツ人捕虜が故郷を偲んで造ったと伝わる城の彫刻があるそうです。

 鐘楼(市指定文化財)です。

  




 浄土真宗(じょうどしんしゅう)の宗祖、親鸞(しんらん)上人像です。

  




 大玄関(市指定文化財)です。

  




  




  




 とても立派なお寺でした。

 そういえば、京都の本願寺が、お西さん=西本願寺=浄土真宗本願寺派と、お東さん=東本願寺=真宗大谷派に別れていますね。

 タレントの島田紳助さんが、京都の大谷(おおたに)高校出身で、「私立の大谷高校って知らんか?浄土真宗大谷派や、俺が一声かけたらなあ、京都中の鳩が全部飛んでくるねんで!」って昔言っていたねえ。

 それが地方にも大きな影響があったのですね。


 次回に続く

 次回はこちら。
【注意!】

姫路城は現在、天守閣工事中です。

姫路城大天守保存修理工事は平成21年10月から始まり、概ね5年間工事が続くそうです。

現在の状況はこちらで確認してください。













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皇居東御苑(こうきょひがしぎょえん)=旧江戸城本丸を探索するよ(その10) 【ファイルET14】2010.11.27 

【ファイルET14】2010.11.27 皇居東御苑(こうきょひがしぎょえん)=旧江戸城本丸を探索するよ(その10)

外桜田門(そとさくらだもん)は『桜田門外の変』で有名な門だよ(下)

 (上)からの続きです。

 (上)はこちら。

桜田門外の変に至った経緯はこうです。


① 改革派の推挙する英邁な一橋家の慶喜(よしのぶ)を差し置いて、大老井伊直弼が行った紀伊藩主徳川慶福【よしとみ=後の第14代将軍家茂(いえもち)】の将軍継嗣(けいし:跡継ぎ)や、

 日米修好通商条約の違勅調印【いちょくちょういん:勅許(朝廷の許可)を得ずに調印したこと】などをめぐって、水戸藩の徳川斉昭(なりあき)・慶篤(よしあつ)らが強く反対したため、井伊直弼はこれを処罰ました。

 これに憤激した高橋多一郎・金子孫二郎ら水戸藩尊攘派の間には井伊排撃の動きが起こりました。

② 一方、幕府改革を求める孝明天皇(こうめいてんのう)は、勅許のない条約締結への不満や井伊大老の排斥などを示した、勅書「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」を水戸藩に下しました。

 天下の御政道は本来江戸の幕府が朝廷から預かっているのに、朝廷からの勅書が徳川御三家とはいえ水戸藩に直接下るというのは、幕府の面目丸潰れです。

 その勅書が他藩に伝達されることを恐れた幕府は、井伊大老を中心にその返納を求めて反対派に激しい弾圧を加え、ついには安政5(1858)年に『安政の大獄』を引き起こしました。

 安政の大獄では、切腹を含めた刑死者8人、70人以上が遠島(島流し)や追放などに処され、徳川斉昭が永蟄居(終身の軟禁刑)となったほか、一橋派の大名の多くが隠居や謹慎を命じられました。

 最も弾圧の激しかった水戸藩では、勅書返納反対を主張する高橋・金子らと薩摩藩有志との間に井伊を排撃する斬奸義挙(ざんかんぎきょ)の計画が進み盟約が成立します。

 その間にも幕府の反対派追求は厳しく、関鉄之助(せき てつのすけ)を総指揮者とする水戸脱藩者稲田重蔵(いなだ じゅうぞう)・鯉淵要人(こいぶち かなめ)・蓮田市五郎(はすだ いちごろう)ら17名と薩摩脱藩者の有村次左右衛門(ありむら じざえもん)は井伊大老の襲撃を画策するに至りました。

 もちろん、出身藩に累が及ぶことがないための脱藩です。


 事件当日五つ半(いつつはん:9時)、井伊直弼公の駕籠が総勢60名あまりの行列を組んで上屋敷を出発します。

警護の者は折からの雪で、雨合羽を羽織り、刀は雪水を防ぐため、柄袋(つかぶくろ)に覆われています。

不幸にも、これが警備の機動性を奪い井伊大老に不利に働きました。


行列が杵築(きづき)藩邸前にさしかかると、見物人の中から、「直訴」と叫びながら訴状を手に一人の男が飛び出し、一発の銃声が響きました。


 それを合図に襲撃の一団が左右から井伊直弼公の駕籠に殺到します。

 不意を突かれ、混乱した警固の者は、柄袋(つかぶくろ)で抜刀もままならず、雨合羽で身動きも鈍くなり、鞘に納まったままの刀で応戦したり、素手で刀を掴んで指や耳を切り落とされるなどして襲撃を防ぎきれません。

 居合いの達人だった井伊大老は、撃ち込まれた弾丸によって腰部から太腿にかけて銃創を負ったため、動けません。
 
 ついに駕籠から引きずり出された井伊大老は薩摩脱藩者の有村次左衛門の一太刀で、首を切られました。享年46歳。44歳で大老に大抜擢された2年後のことでした。

 襲撃開始から直弼殺害まで、わずか数分間の出来事だったといいます。


現在、桜田門外の変の現場の背後には、警視庁の建物が、でーんと聳え立っています。






 刑事ドラマなんかで、警視庁のことを『桜田門』っていうからねえ。

 首都警察の場所としては、皇居の前で首相官邸、国会、最高裁判所、霞ヶ関の官庁街に近い絶好の位置ですね。


桜田門外之変図(部分・蓮田市五郎画:茨城県立図書館蔵)






拡大すると、駕籠に乗っていた井伊直弼(いいなおすけ)公が首を切られています。






 井伊直弼を中心に襷(たすき)をかけた襲撃者は右から、稲田重蔵、有村次左衛門、左奥が佐野竹之助です。

 この絵を描いた蓮田市五郎の組は斎藤監物(さいとうけんもつ)を頭とし,井伊大老の駕籠を襲いました。自らも傷を負いながら老中脇坂公の邸に赴き,趣意書を提出しました。

 その後,細川越中之守邸他に移され,文久元(1861)年7月26日に処刑されました。上の絵は、細川邸に預けられていたとき,家臣に求められ,桜田門乱闘の有様を詳細に描いたものです。

 事件の当事者の描いた絵ですから、迫力があるねえ。


桜田門外の変の現場跡から外桜田門を望みます。






警視庁の左隣には、法務省のレンガ庁舎【法務省旧本館(中央合同庁舎6号館赤煉瓦棟)】が。






 法務省といえば、

 先頃失言問題で、更迭された柳田稔法務大臣の働いていた建物は、こんなに立派なんだねえ。

旧彦根藩井伊家の上屋敷跡から外桜田門を望む。






 高層ビルに囲まれて、外桜田門が余計に近くにみえますね。


 それまで、お上(おかみ)というのは絶対に逆らえない雲の上の存在でした。

 その中でも、幕府の実質的なトップの大老が浪人風情にいとも簡単に殺され、首級(しるし)をあげられたのです。

 幕府の権威は大いに失墜しました。

 
 彦根藩側は、藩主である井伊大老以外に8人が死亡し(即死者4人、後に死亡した者4人)、13人が負傷しました。

 死亡者の家には跡目相続が認められましたが、2年後の文久2(1862)年に、藩主直弼護衛の任務を全うできず、家名を辱めたとして、生存者に対して処分が下されます。

 重傷者は減知の上、藩領だった下野国佐野(栃木県佐野市)に流され揚屋に幽閉処分。

 軽傷者は全員切腹が命じられ、無疵の士卒は全員が斬首・家名断絶となりました。処分は本人のみならず親族に及んだということです。


 一方、襲撃側は、最初に駕籠目がけて斬り込んだ稲田重蔵は、彦根藩一の剣豪・河西忠左衛門(かわにしちゅうざえもん)に斬り倒され即死しました。

 井伊大老の首級(しるし)をあげた有村次左衛門のほか、広岡子之次郎(ひろおか ねのじろう)、山口辰之介(やまぐち たつのすけ)、鯉渕要人(こいぶち かなめ)は、彦根藩士による必死の反撃で重傷を負い、他の藩邸に自首した後に自刃しました。

 襲撃の指揮者・関鉄之介(せき てつのすけ)は各地を逃亡した後、2年後の文久2(1862)年に越後の湯沢温泉(現在の新潟県岩船郡関川村)で捕らえられ、江戸で斬首されました。

 江戸での井伊大老襲撃と同時に薩摩藩兵が上京し大阪から京都に入り朝廷を守護する事になっていたため、大坂で薩摩藩兵の上京を待っていた高橋多一郎・荘左衛門親子は幕吏の追捕を受け、四天王寺境内にて自刃しました(結局薩摩藩は動きませんでした)。

 薩摩藩士有村雄助(ありむら ゆうすけ)と共に上坂の途上にあった金子孫二郎も、伏見で捕らえられ江戸で斬首されました。

 大坂で薩摩藩との連絡役であった川崎孫四郎(かわさき まごしろう)は幕府に探知され自刃しました。

 他の者も多くは自首したり捕縛された後に処刑されたり、獄死しています。

 増子金八(ましこ きんぱち)と海後磋磯之介(かいご さきのすけ)の2名のみが、潜伏して明治期まで生き延びることができました。


尊皇攘夷を叫んだ勤王の志士によって明治維新は完了しますが、明治維新が成し遂げられた後、明治政府は攘夷なんてすっかり忘れたかのように、開国・文明開化・富国強兵に邁進します。


そういった意味で、井伊大老の開国政策は時代を先取りしたものだと言えます。


 しかしながら、開国がその後の日本にとって、良かったか悪かったか、今のアメリカ追従のあたかも日本に主権がないかのような弱腰外交をみるにつけ、いまだに私の中では判断が付きかねています。

 とはいえ、こういう先人の遺産の上に、今の日本が築かれているのは事実です。

 偉大なる先人の、召されていった命に対して、謹んでご冥福をお祈りいたします。


皇居東御苑(こうきょひがしぎょえん)=旧江戸城本丸を探索するよ(その9) 【ファイルET13】2010.11.27 

【ファイルET13】2010.11.27 皇居東御苑(こうきょひがしぎょえん)=旧江戸城本丸を探索するよ(その9)

外桜田門(そとさくらだもん)は『桜田門外の変』で有名な門だよ(上)

 皇居東御苑について最初から読まれる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51135519.html

 皇居東御苑からははずれますが、江戸城の探索は続きます。

 今回は江戸城の外桜田門(そとさくらだもん)です。

桜田門には外桜田門の他に内桜田門(うちさくらだもん=桔梗門:ききょうもん)があり、内桜田門の方は、皇居一般参観の集合場所になっています。


 桔梗門(内桜田門)が載っている記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/50951013.html

一般的に有名なのは外桜田門の方で、桜田門といったら、こっちの方をイメージする人が大多数です。



というのは、ここで『桜田門外の変』が起きたからです。

 




 ひっきりなしに、ランニングしている人が通ります。皇居一周マラソンだねえ。

 写真手前が桜田門の高麗門(こうらいもん)、奥が渡櫓門(わたりやぐらもん)です。

 門の石垣の隙間はカミソリの刃も入らない精度です。

 桜田門(外桜田門)は寛永13(1636)年頃、枡形門(ますがたもん)に修築されました。桜田門の枡形は現存する中では最大級のものです。

桜田門の高麗門は切妻屋根で、外に法務省の煉瓦庁舎が見えます。






桜田門の高麗門から、旧彦根藩井伊家の上屋敷跡【国会議事堂前庭】を望む。






 桜田濠(さくらだぼり)の向こうの国会議事堂の前の緑地帯のあたりが、井伊家の上屋敷があった場所です。

 桜田門から井伊邸までは、本当に目と鼻の先です。

地図で見た、彦根藩主井伊家の上屋敷跡(青い枠)と桜田門外の変の事件現場(赤い×印)の位置関係【元治元年改正の尾張屋版「外櫻田永田町繪圖」より大体の位置を示した】。






写真で見てみると、こうなります。






たかだか数百mの距離なので、襲撃するなら、ここしかありません。


 時は安政7(1860)年3月3日

 この日は上巳(じょうし)の節句、つまりお雛祭り(ひなまつり)の日で、御三家以下、大名・旗本が将軍に拝謁し、将軍から御台所(みだいどころ)・姫君たちに雛人形が贈られる、大名の総登城日です。

 登城は巳(み)の正刻(しょうこく)=午前10時までと決まっていて、井伊直弼さんちの彦根藩上屋敷は外桜田にあるので、井伊大老の行列が外桜田門(いわゆる桜田門)を潜って内桜田門(桔梗門)に向かうことは明白なので、襲撃にはもってこいです。

 当日は、季節外れの雪が降っていて、2寸(6㎝)も積もっていました。

 見物人に紛れて、大名などの氏名・官位・石高・家紋などを記した書物「武鑑(ぶかん)」を片手に、お上りさんの田舎武士を装って、水戸の脱藩浪士等、総勢18名(薩摩脱藩浪士1名含む)が待ち構えていました。

実は水戸浪士による井伊大老の暗殺の可能性は、事件前から言われていて、噂もしきりに飛び交っていて、事件の当日の朝、井伊直弼公は、襲撃を知らせる投書を読んでさえいたのです。


 警護の人数を増やすなりできなかったのかな?

しかし、登城の行列の警護の数は家格によって、規則で決まっていましたし、たかが浪士の襲撃に大老の自分が規則を曲げてまで大げさな警備をつけると、しめしが付かず、幕府の権威に関わるという考えのもと、井伊大老は夜間の藩邸警備を一時増員したのみで、登城は普段通りの陣容で粛々と行いました。


 (下に続く)

横浜八景島シーパラダイスのマカロニペンギンさんとマゼランペンギンさんだよ。 【ファイルC203】2010.11.25 

【ファイルC203】2010.11.25 横浜八景島シーパラダイスのマカロニペンギンさんとマゼランペンギンさんだよ。

お洒落さんと、黒帯2本のペンギンさんだねえ

 まずマカロニペンギンさんから。





 金色の冠羽のイタリアファッション風で粋な髪型から、伊達男(だておとこ)洒落者(しゃれもの)という意味の「マカロニ」という名前がつけられました。

 確かにポマードを塗って、櫛(くし)でなでつけたような髪型だねえ。

 お洒落さんなので、羽繕いも怠りません。





「太陽にほえろ」に萩原健一さん演じるマカロニ刑事がいましたよね。

 繁殖地は南極収束線近くのサウスジョージア島、クロゼ諸島、ケルゲレン諸島、ハード島とマクドナルド島です。

 推定生息数900万~1180万ペアと、ペンギン全種の中でもっとも個体数が多いそうです。

 産卵は、同調性が強く、コロニー内で一斉に始められます。

 産卵する卵は通常2個で、第1卵は小さく、第2卵が大きくて、多くの場合、親によって、第1卵は蹴り出されるか、第2卵が孵化しても、餌の事情が良くないと、親や大きい方の雛によって小さな雛が殺されるそうです。ですから、巣立つ雛は1羽のみです。

 こういう繁殖形態をブラッドリダクションというそうです。

 うへえ、厳しい生存競争だねえ。

 餌はオキアミ類、ハダカイワシ類です。

 マカロニペンギンさんは、以前はごく普通に動物園、水族館にいたのです。

 それも、人気があるイワトビペンギンに似ているから代用種ということで。

 トホホ・・・。

 ところが、輸出が禁止されてから、日本で見られるマカロニペンギンさんが減ってきました。

 繁殖は群れで飼育した方が圧倒的に有利です。

 そこで、各地に散らばっていたマカロニペンギンさんが、下関市立しものせき水族館『海響館』に集められ、集団繁殖が試みられているようです。

 でも下関は遠いねえ。

 横浜八景島に残ってくれていて良かったよ。

 くちばしが大きいねえ。





 正面と後ろ姿です。





 くびを長く伸ばして。





 おっとっと。





 でも、水中では自由自在。





 お次はマゼランペンギンさんです。





 マゼランペンギンさんは、南米大陸先端部にお住まいで、主に大西洋側のパタゴニアとフォークランド諸島や付近の島々で繁殖します。

 インディオは昔から『チオンチャ』と呼んでいました。

『マゼランペンギン』の名は、ポルトガルの探検家フェルディナンド・マゼラン(1480年? - 1521年)が世界一周を行ったとき、彼が白人として初めて発見したことにちなんでいます。

 だから、宇宙戦艦ヤマトが放射能除去装置コスモクリーナーDを取りに行った大マゼラン星雲サンザー太陽系第8番惑星イスカンダルとは関係がないみたいです。

 フンボルトペンギンさんやケープペンギンさんの仲間です。というより、この3種を同一種とみなす学者さんもいるそうです。

 マゼランペンギンさんを見分ける一番簡単な方法は、胸に黒帯が2本あれば、マゼランペンギンさんです。





 ツートンカラーがとても可愛いペンギンさんです。





 でも、性格がとても攻撃的で、ひと咬みで相手にダメージを与えることができます。

 なんてったって、黒帯2本だからね。さぞかし柔道も強かろうねえ。

 餌は、イワシ、カタクチイワシの他、イカ、タコ、甲殻類も食べます。

 岩をよちよちと登ります。





 横顔もカッコイイねえ。





 ぷかぷか浮いて、らくちんらくちん。





 少しおすまし。





 昔はやった、タイタニックのポーズ。





 横になって休みます。





 ということで、お洒落なマカロニペンギンさんと、可愛いマゼランペンギンさんでした。

 さようなら、元気でね。







駅弁の幕の内弁当『日本の味博覧』を食べたよ 【ファイルF45】2010.11.23 

【ファイルF45】2010.11.23 駅弁の幕の内弁当『日本の味博覧』を食べたよ

東海道新幹線のお弁当だねえ。

 私は駅弁の購入については東京大丸のデパ地下を利用することが多いのですが、たまたま時間が無くて、新幹線の東京駅ホームの駅弁屋さんで適当に『日本の味博覧』というのを選んで車内で食べてみたらば、美味しかったのでびっくり。

 東京駅で買ったので、てっきり東京の駅弁だと思ったら

 販売箇所 :東京・品川・新横浜・名古屋・京都・新大阪の駅売店、東海道新幹線車内販売(一部列車では取り扱っておりません)なのだそうです。

 ということで、どの駅のお弁当と言うことではなく、東海道新幹線を利用の際のお弁当だということのようです。

 あまりに美味しかったので、また新幹線に乗ったら、是非これを食べねばなるまいと思っていところ、テレビで味にうるさそうな女医さんの西川史子(にしかわ あやこ)先生が、「駅弁では『日本の味博覧』が美味しい」と言っていて、自分の他にもこのお弁当のファンがいるんだと思って心強くなりました。

 今度は新大阪駅で買いました。

 それで、これが問題の日本の味博覧のパッケージです。





 健康弁当宣言です。
 
 20品目以上で、野菜は120g以上使用。使用する油はコレステロール0、合成着色料一切不使用なんだって。


 ふたを開けたらこんな感じ。





 ちゃんとお品書きを書いた紙が入っています。





 これは、『かいせき 井中居 田中博敏氏 監修』のお弁当です。

 お品書きによると、田中博敏氏は、(株)なだ万に24年間勤務、1986年なだ万本店山茶花荘在籍の折東京サミットにおいて、総理大臣主催の公式晩餐会の調理担当を任命された一流の料理人です。

『日本の山紫水明の風土に合った季節の移り変わりを旬の味と香りで表現し、幕の内弁当の伝統と技を結集しました』という由緒のあるお弁当なんだって。

 おかず部門のアップ。





 卵焼きには『東海道』の文字の焼き印が。





 こういう細かい仕事がうれしいねえ。

 ご飯部門のアップ。





 中央にで~んと紀州南高梅が鎮座ましましています。


 レンコン、しんなり薄味ついていて、歯ごたえが良いねえ。

 シシトウ、苦みが懐かしいし、エンドウさくさく歯ごたえ、ゴボウも歯ごたえが良くて酸味がさわやか。

 昆布巻きトロ甘。カボチャは甘くて里芋とろり、茄子は旨みのある出汁がきいています。

 結び白滝(しろい糸こんにゃく)は素麺状でこんにゃくの食感が良い。

 ニンジンは柔らかいし、サツマイモは和菓子の甘さ。

 厚切りキングサーモンはご飯に合います。

 鴨のスモークは堅めのハムのような弾力ですが、歯がすっと入って綺麗に噛み切れ、あっさりしたお味です。

 卵焼きはカステラのように均質に黄色く、まろやかな食感で甘みと旨みが上品な味わいです。

 生姜酢漬けが箸休めになって、梅干しはすっぱい果肉がとろけるねえ。

 昆布はとろりとぬめりがあって、深い旨味がご飯に合うねえ。

 白ごはんもお赤飯も冷めていても、しっかりと美味しいのです。特A評価の国産米を100%使用しているんだって。
 
 それぞれの仕事がとても丁寧で、あっさり味が上品です。和食が好きな方はぜひお試しください。

 季節の旬の素材を使っているので、中身も変わるようなのでこちらをご覧くださいね。
http://www.jr-cp.co.jp/products/details.php?p_no=30

 お値段は1000円です。

 この値段で高級幕の内が味わえるので、断然お得です。












改修前の春の姫路城だよ(その16) 【ファイルT136】2010.11.20 

【ファイルT136】2010.11.20 改修前の春の姫路城だよ(その16)

男山八幡宮にお参りしたよ。

 姫路城の記事を最初から見られる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/50754429.html

 前回の千姫天満宮から、男山八幡宮(おとこやまはちまんぐう)に向かいます。

 狛犬ではなく、飛躍神馬一対が迎えてくれます。
 
 口を開いた阿型(あぎょう)の飛龍号です。

  




 吽型(うんぎょう)の雲龍号です。

  




 姫路城主、榊原政邦(さかきばら まさくに)寄進の石鳥居です。

  




 これは正徳6(1716)年のものです。
 榊原政邦公はこの12年前、越後村上から姫路へ移ってきました。
 
 文学にも優れ、男山八景の和歌も詠んでいます。

 八幡宮の社殿を新しく作り替え、そのときの鳥居がこれです。

 左の柱に武運の長久と家の繁栄を願う文を刻んでいます。


 男山の山頂近くには、厄除けの神・播州男山の厄神さんとして、城主から庶民まで広く親しまれた「男山八幡宮」があります。

  




  




 貞和元 (1345) 年、赤松貞範(あかまつ さだのり)が姫路城を築くときに男山に城の鎮守社として、京都の男山山頂にある石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)から勧請(かんじょう)して創祀したのが始まりだそうです。

 八幡神(はちまんのかみ)こと誉田別命(ほんだわけのみこと)は、一般に応神天皇(おうじんてんのう)の名で知られています。

 とくに武家の棟梁(とうりょう)源氏の守護神となったことで、神威が全国に広まり、武神・弓矢の神・必勝の神として崇敬された神様ですからね。

『平家物語』の名場面、屋島の戦い『扇の的』で、那須 与一(なすのよいち)さんが海に馬を乗り入れると、弓を構え、「南無八幡大菩薩(なむはちまんだいぼさつ)」と神仏の加護を唱え、もしも射損じれば、腹をかき切って自害せんと覚悟し、放った矢は見事に扇の柄を射抜き、扇は空を舞い、海に落ちた・・・。

 というほど、八幡様は武士にとって大切な心の拠り所になっている神様です。

 ちなみに、赤松氏は村上源氏だそうです。

 今でも「男山八幡宮厄神祭」の行われる2月18日と19日は、終日厄払いを祈る祈願者で賑わいます。

 平和な世の中なので、今は武運長久より、厄払いが忙しいのですね。


 男山の山頂(標高59m)は男山配水池公園として整備されています。

  




 男山配水池公園は、世界遺産・国宝姫路城が一望できる絶景ポイントです。

  




 姫路城の大天守(だいてんしゅ)と写真右から西小天守、乾小天守(いぬいこてんしゅ)、東小天守が良い眺めだねえ。

 男山配水池公園から西の丸の長局を望む。

  




 千姫様は、この西の丸の長局から、ここ男山を遙拝していたのですね。

 時間があったら、登ってみるのもおすすめですよ。標高59mですからね。

 山から降りたところに、カエルさんがいました。

  




 三福かえる宝 かえる (金運招福) 無事 かえる (交通安全) 若 かえる (健康長寿) などと、人々にしたしまれているそうです。

 お百度石です。

  




 これは、お百度参りするとき、入り口の目印になる石で、ここから拝殿・本堂まで行って参拝し、またここに戻ってくるのを百回繰り返すのを「お百度を踏む」といいます。

 小石やこより、竹串などを百個用意しておいて参拝のたびに拝殿・本堂に1個ずつ置いていくのだそうです。

 男山八幡宮に直行する石段です。

  




 とても急な長い階段で、これを百回も往復すると、足がスピードスケートの清水 宏保(しみず ひろやす)選手みたいになりそうです。

 私は上りも下りも、千姫天満宮を経由しました。

 その方が、傾斜が緩く楽なのでお勧めです。

 次回に続きます。

 次回はこちら。
【注意!】

姫路城は現在、天守閣工事中です。

姫路城大天守保存修理工事は平成21年10月から始まり、概ね5年間工事が続くそうです。

現在の状況はこちらで確認してください。









皇居東御苑(こうきょひがしぎょえん)=旧江戸城本丸を探索するよ(その8) 【ファイルET12】2010.11.17 

【ファイルET12】2010.11.17 皇居東御苑(こうきょひがしぎょえん)=旧江戸城本丸を探索するよ(その8)

北の丸もお散歩するよ

 最初から読まれる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51135519.html

 竹橋を渡ります。




 
 車が多くて無粋だねえ。

 天守台のすぐ北にある北詰橋です。




 
 このあたりの石垣の高さは水面上約21m江戸城石垣中で最も高くなっています。

 因みに日本一高い石垣は大坂城本丸東北角で、水面上約24.5mです。

 土橋と木橋で構成されていて、木橋の部分は昔、跳ね橋だったそうです。

 



 
 写真、麗門の開口部上端の冠木の下に小さく『□』形の金具が写っていますね。ここに滑車をつるして、橋を跳ね上げていたのです。

 通常時には、この橋は跳ね上げられていて、御三卿の田安・清水家当主や将軍が登城する際に、降ろされたと考えられています。


 旧近衛師団司令部の建物(国重要文化財指定、現東京国立近代美術館工芸館)です。

 



 
 煉瓦の壁が美しいねえ。

 北の丸には、維新後、明治政府によって近衛師団の兵営地が設置されていたので、その当時の遺構です。

 この建物は、明治43(1910)年に完成したもので、陸軍技師田村鎮の設計による赤レンガ造り、二階建て、スレート葺、簡素なゴシック風で、明治洋風建築としては代表的な存在となっています。

 関東大震災や弟二次大戦の戦火を潜り抜け、ほぼ完全な姿をとどめています。

 昭和52年に一部を改装して東京国立近代美術館工芸館として生まれかわりました。


 近衛師団司令部の側には北白川宮能久親王(きたしらかわのみや よしひさ しんのう)銅像が建っています。

 



 
 北白川宮能久親王は明治28(1895)年、日清戦争によって日本に割譲された台湾征討近衛師団長として出征されました(乙未戦争)。

 ところが現地でマラリアに罹り、10月28日台湾全土平定直前に台南にて薨去されます。陸軍大将就任。大勲位菊花章頸飾および功三級金鶏勲章を賜りました。

 北白川宮能久親王は皇族としては初めての外地における殉職者となったため、国葬を持って豊島岡墓地に葬られました。
 
 能久親王は、親王家の庶子として生まれ、幼くして都を遠く離れた江戸の地で上野の寛永寺の僧侶として過ごし、一時は「朝敵」の盟主となって奥州の地を転々とし、後には陸軍軍人として台湾平定の英雄とされ、異国の地で不運の死をとげたことで、その生涯を日本武尊(ヤマトタケルノミコト)になぞらえられました。


 北の丸公園に入ります。

 



 
 この地は、もともと太田道灌らが江戸城を築城した際に、関東の守護神でもあった築土神社(旧田安明神)の旧地で、のち、徳川家康が入府した際に、関東代官であった内藤清成らの屋敷となったため、代官町と呼ばれていた場所です。

 その後、徳川忠長や徳川綱重らの屋敷を経て、明暦の大火以後は火除け地になっていましたが、8代将軍である徳川吉宗が就任してからは徳川氏の御三卿であった田安徳川家が1731年に、清水徳川家が1759年に上屋敷を構えるようになりました。
 
 現在は、乾門から田安門に結ぶ南北に道路が通っていますが、この南側が、朝鮮馬場で、西側が田安家、東側が清水家の敷地でした。

 また、姫路藩主、本多忠刻が亡くなった後、江戸に戻り落飾した千姫(せんひめ)が天樹院(てんじゅいん)として、終の棲家を住まったのが、竹橋御殿や、この北の丸の中心辺りだったようです。

 ですから、天樹院(千姫)は、『北之丸様』とも呼ばれたそうです。

 千姫(慶長2(1597)年- 寛文6(1666)年)は、安土桃山時代から江戸時代動乱期を彩ったヒロインです。

 豊臣秀頼の正室で、大坂夏の陣で落ち延びた後、本多忠刻の正室になり姫路城に住みました。本多忠刻の没後は江戸城北の丸に住んだわけですから、三大名城に住むなんて、本当に数奇な運命に翻弄されたんだねえ。

 祖父は徳川家康。父は徳川秀忠、母は継室の江です。

 千姫の物語については、以前書いた姫路城での記事をご参照ください。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/50819312.html


 科学技術館です。

 



 
 科学技術館は、科学技術の知識を広く一般に普及する目的で開館され、現代から近未来までの科学技術・産業技術に関する展示物を中心に、実験型ワークショップ、科学教室、講演会も数多く開催されているそうです。


 吉田茂首相の銅像です。

 



 
 1951年(昭和26年)9月8日、サンフランシスコ平和条約を締結。また同日、日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約を結んだ時の首相です。

 麻生太郎元首相の祖父にあたります。
 
清水門です。

 



 
 写真白い塀の右側の石垣から、水が流れ落ちているのが見えます。小さくて見えにくくてすみません。

 これは水戸違土橋の掛橋東側の滝で、左側の牛ヶ淵と右側の清水濠の水位が違うからその落差が滝になっています。


 北の丸公園の北の端にあるのが日本武道館です。

 



 
 巨大な日本武道館が旧江戸城北の丸の一角にちょこんとあるというだけでも、いかに江戸城が広かったのかという事が分かります。

 日本武道館(にっぽんぶどうかん、Nippon Bud??kan)は、日本伝統の武道を普及奨励し心身錬磨の大道場としての役割を担うことを設立趣旨とする屋内競技場です。

 昭和39(1964)年10月3日東京オリンピックに合わせて建てられました。

 ですから、最初に使用されたイベントは東京オリンピックの柔道競技です(10月20日 - 23日)。

 特に10月23日、オランダのアントン・ヘーシンク選手が、無差別級決勝戦で日本代表の神永昭夫選手を9分22秒袈裟固一本で下して金メダルを獲得した試合は歴史的な一戦でした。

 柔道は「国際化」することによって、世界的に競技人口を増やしましたが、その分失ったものも多いような気がしてなりません。

 財団法人日本武道館の初代会長は読売新聞社主で、読売巨人軍を創設した、正力松太郎(しょうりきまつたろう)さんです。

 武道館は大規模なコンサートが開催されることでも有名で、音楽の聖地でもあります。

 ここはもともと武道のための講堂として設計されているので、音があちこちで反響して音響的には最悪なんだそうですが、ここでコンサートをすることは、ミュージシャンとしてステイタスなんですね。

 それは、最初にここでコンサートをしたのが、伝説的なロックバンドのビートルズだったからです。

 昭和41(1966)年に開催されたビートルズコンサートの司会はE.Hエリックさんで、前座にはコミックバンドとして売り出し中だったドリフターズが出演していました。

 当時武道館は『日本の武道の聖地』として、象徴的な場所だったため、ビートルズのコンサートが企画された際に正力松太郎さんは『ベートルズだかビールスとかいうのは一体何者だ? そんな連中に武道館を使わせてたまるか!』ととても怒ったそうです。

 正力松太郎さん揮毫(きごう)の武道館の額です。

 



 
 屋根に黒柳徹子さんの頭のような帽子を被っています。

 



 
 可愛いねえ。

  
 田安門です。

 



 
 いかにも頑丈そうな扉ですね。

 



 
 田安門枡形塀、背面の控塀です。控塀上の横材に歩板をわたし、塀の上から攻撃が出来るようになっています。

 



 
 田安門の土橋です。

 



 
 水が流れ落ちていますね。

 この土橋の向う側にある千鳥ヶ淵と手前の牛ヶ淵の水濠では、千鳥ヶ淵の水位が牛ヶ淵のそれより、10m強も高いので土橋がダムのようになっていて、穴から牛ヶ淵の方へ水が落ちているのです。

 本当にすごい土木技術ですね。


 昭和館です。

 



 
 国民が経験した戦中・戦後の国民生活上の労苦を後世代の人々に伝えていこうとする国立の施設です。

 九段会館です。

 



 
 九段会館は、ホールやレストラン、宿泊施設などを備え、結婚式、各種公演、会議、試写会などに使用されます。

 昭和初期に流行した帝冠様式(ていかんようしき)の建物で、設計者は同潤会アパートの川元良一氏です。

 旧称「軍人会館」で、二・二六事件では、ここに戒厳司令部が置かれました。
 

 ということで、江戸城大手門から、本丸、北の丸を抜け田安門まで見学しました。凄く充実した一日でした。

 でも、広すぎて、とてもくたびれました。さすがは世界初の百万都市江戸のお城だけのことはあります。

南紀白浜アドベンチャーワールドのエンペラーペンギンさんだよ。 【ファイルC202】2010.11.14 

【ファイルC202】2010.11.14 南紀白浜アドベンチャーワールドのエンペラーペンギンさんだよ。

やっぱり皇帝のペンギンさんだねえ

 以前、エンペラーペンギンさんの赤ちゃんの記事を載せました。

 赤ちゃんの写真(再掲)。





 赤ちゃんの記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/49911171.html

 今回は成鳥をご紹介しますね。

 こんにちは。





 さすがはペンギン界の皇帝だけあって、貫禄十分ですね。

 手前のアゴヒゲペンギンさんと大きさを比べてください。





 大きいねえ。

 エンペラーペンギンさんは、スーパー・ヘビー級なので、この基本ポーズのまま、なかなか動いてくれません。





 でも、羽繕いは、おさおさお怠りありません。





 換羽(かんう)中のペンギンさんは、古い羽が少し残っています。





 アデリーペンギンさんの後ろをちゃっかり歩いているエンペラーペンギンさん。





 天を仰いで鳴く姿は迫力があります。





 巨大な背中のグラデーションが美しいねえ。





 防寒のために脂肪はたっぷり蓄えないとね。





 歩くときは両手を振って元気よく。





 さようなら、元気でね。





 ここで繁殖したエンペラーペンギンさんは、名古屋港水族館でも見ることができます。

 名古屋港水族館のエンペラーペンギンさんの記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/45890577.html

 エンペラーペンギンを日本国内で見ようとすると、ここか名古屋港水族館の2箇所ということになります。

 以前は南氷洋の捕鯨船がおみやげに持ち帰り、日本全国で普通に見ることができたのにねえ。

 まあ、ペンギンさんにしてみれば、日本に連れてこられるのは迷惑な話なので、国内で繁殖させるのが良いのでしょうね。

 繁殖技術が進歩して、もっと沢山の場所で会えるようになったら良いねえ。







浅草の喫茶店『アンヂェラス』でダッチ・コーヒーを飲んだよ 【ファイルS29】 2010.11.12 

【ファイルS29】 2010.11.12 浅草の喫茶店『アンヂェラス』でダッチ・コーヒーを飲んだよ

ケーキのアンヂェラスやシュークリームも美味しいねえ。

 浅草きびだんご『あづま』に立ち寄った後、お洒落な喫茶店『アンジェラス』に行きました。
 
 浅草きびだんご『あづま』の記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51382123.html

 浅草の名所『アンヂェラス』は、昭和21年創業で、『聖なる鐘の音』という意味です。

 




『アンヂェラス』は川端康成、永井荷風、池波正太郎に、画家・山下清、東郷青児、そして漫画家・手塚治虫など多くの文化人に愛されてきた老舗です。

 だから、浅草の名所として、ガイドさんや人力車のお兄さんが説明していました。

 3階建ての建物は、欧州の山小屋をイメージしたもので、1階2階は吹き抜けの禁煙席、3階が喫煙席になっています。

 




 ウエートレスのお姉さんがオーダーを取りに来たので、ダッチ・コーヒーと洋菓子のアンヂェラス、のシュークリームを注文しました。

 最初に出てきたのは、

 ダッチ・コーヒー600円です。ダッチコーヒーは、このお店が発祥の水出しコーヒーです。

 




 右のコーヒーを氷が入ったグラスに注ぎ込みます。

 




 じっくりローストされた苦みと香ばしさが特徴の濃厚なお味です。

 この強くて後味がさっぱりした苦みは癖になるねえ。

 
 店の名を冠したケーキのアンヂェラス(320円)です。

 




 ブッシュ=ド=ノエル(クリスマスの薪)を小さくしたタイプのケーキということです。

 チョコレートとホワイトがあり、私はチョコレートを選択しました。滑らかな舌触りのチョコがコーティングされた生地の中にクリームを挟んだプチ・ロールケーキです。

 ガナッシュショコラ風のお味が私の好みです。


 お店自慢のシュークリームは210円です。

 




 もちもち濃厚のカスタードクリームがしっとりした生地の中に入っています。

 アンヂェラスとシュークリームは甘いので、苦いダッチ・コーヒーがとても良くマッチします。

 いってみれば、抹茶と和菓子の関係かな?

 ということで、賑やかな下町情緒たっぷりの浅草の中で、人疲れした時に、のんびりゆったり寛げるスペースがあるのはありがたいねえ。

 これが、ずっと愛され続けた理由なのでしょうね。

 いつまでも続けて欲しいお店です。








改修前の春の姫路城だよ(その15) 【ファイルT135】2010.11.09 

【ファイルT135】2010.11.09 改修前の春の姫路城だよ(その15)

千姫天満宮は男山の中腹にあるよ。

 姫路城の記事を最初から見られる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/50754429.html
 
 姫路城のお濠沿いには、千姫様の銅像が建っています。

  




 千姫の物語については、以前記事にしました。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/50819312.html

 戦国の動乱期から江戸にかけ、波瀾万丈の生涯を送った千姫様は姫路のアイドル的な存在です。

 千姫の小径(こみち)もあります。

  




 姫路城中濠(写真右)と船場川(写真左)にはさまれた遊歩道です。

 ちょうどこの時間帯は、ワンちゃんを連れた地元の人達がのんびりとお散歩していました。羨ましいねえ。


 船場川に、鷺さんが遊びに来ていましたよ。

  




 さすがは白鷺城の城下だねえ。

 それで、男山の中腹の千姫天満宮にお参りしました。

天神様のお使いは牛さんなので、銅像が建っています。

  




 これは『撫で牛』といって、これを撫でると、思いもよらない幸運や、子孫繁栄に恵まれるそうです。

 台座には千姫の実家の徳川家の葵の紋が、牛には天神様の梅の紋が記されています。

 千姫天満宮です。

  




 ぴかぴかで新しいのは、平成14年4月に社殿が新築されたからです。

 それで、唐破風造りの流麗優美な姿に生まれ変わったんだって。

 屋根にも天神様の梅の紋と、徳川家の葵の紋が刻まれています。

  




 男山千姫天満宮は、本多忠刻と再婚し、待望の嫡男、幸千代(こうちよ)をわずか3歳で失った後、元和9(1623)年、千姫が本多家の繁栄を願って建立し、西の丸長局の廊下から朝夕遙拝したと言われています。

 西にある姫路城内から、遙拝できるよう東向きに造営されています。

 千姫天満宮には、比叡山の阿闍梨(あじゃり)が彫った菅原道真の木造が安置してあります。
また、千姫は金泥法華経(こんでいほけきょう)、唐鏡や身の回り品、秀頼との思い出深い遺品でもある羽子板を奉納しました。

 絵馬は、千姫が奉納した、羽子板のデザインになっています。

  




 絵馬には、本多忠刻と千姫が二人で詠んだ連歌(れんが:一首の和歌の上の句と下の句とを二人でよむこと)が書かれています。

 『初秋の風を簾にまきとりて』(忠刻)、

『軒はにおほう竹の葉の露』(お千=千姫)、

 これは、元和(1619)年、安宅船(あたかぶね)で、本多家がうち揃って『月見の宴』が催されたときのものだそうです。


 千姫が奉納した羽子板の実物で、姫路城大天守内で展示されていたもの(再掲)。

  




 『源氏物語』を主題にした、豪華な蒔絵(まきえ)の羽子板です。

 千姫天満宮をお参りしたので、さらに上にある、男山八幡宮をお参りすることにしました。

 石段が男山の山頂に続いています。

  




 途中に、恵比寿様の像がありました。

  




 大きな明石鯛に乗っかって、とても腕白な恵比寿様だねえ。

 恵比寿様は、海の神様でもあるので、瀬戸内海の漁師さんの安全を祈願したものかもしれませんね。

 ということで、写真が多くなりましたので次に続きますね。


 次回はこちら。
【注意!】

姫路城は現在、天守閣工事中です。

姫路城大天守保存修理工事は平成21年10月から始まり、概ね5年間工事が続くそうです。

現在の状況はこちらで確認してください。











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