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名古屋の東山動物園のゴリラのオキさんが亡くなりました 【ファイルC209】2010.12.31 

【ファイルC209】2010.12.31 名古屋の東山動物園のゴリラのオキさんが亡くなりました

世界第二位の長寿だったのに、残念です。

 さかなクンのお目出度い記事で一年を締めくくろうと思ったら、思いがけない訃報が入ってきました。

 暮れも押し詰まった12月30日、名古屋の東山動物園のオキさんが亡くなりました。

 オキさんの記事は本ブログでもご紹介しました。

 オキさんの記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/45503191.html

 在りし日のオキさんの写真(再掲)





 この時は、あんなに元気だったのに、ショックです。 

 訃報記事の内容はこちらです。

※  ※  ※

国内最高齢のゴリラ死ぬ=53歳、世界で2番目―名古屋・東山動植物園
時事通信 12月30日(木)19時7分配信
 
 名古屋市の東山動植物園(千種区)は30日、飼育していた国内最高齢のニシローランドゴリラ「オキ」が死んだと発表した。オキは雌で53歳。人間に換算すると100歳以上で、世界で2番目の長寿ゴリラだったという。

 同園によると、オキは29日に寒さのためか体調を崩し、30日朝からうつぶせの状態で起き上がれなくなった。点滴治療を行ったが、午前11時50分に息を引き取った。死因は老衰という。

 オキは1959年9月に来園し、63~68年まではゴリラショーで活躍した。米オハイオ州のコロンバス動物園にいる54歳の雌のニシローランドゴリラ「コロ」に次ぐ長寿だったという。 

※  ※  ※

 
 とても優しかったのにねえ!

 いつもオキさんにくっついていたアイちゃんをはじめ、ネネさん、シャバーニさん、動物園関係者の方々もさぞかし寂しいと思います。

 でも、人間だと百歳以上だったから、大往生ですね。


 以前の記事でご紹介したように、オキさんは、世界随一のゴリラショーの最後の生き残りでした。

 天国では浅井力三さんが待っていますよね。

 プッピー(メス)、ゴン太(オス)も待っているよね。

 本当に、お疲れ様でした。

 みんなで楽しく遊んでくださいね。

 謹んでご冥福をお祈りします。







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さかなクンの大発見が凄い!中坊徹次・京大教授も偉い 【ファイルC208】2010.12.27 

【ファイルC208】2010.12.27 さかなクンの大発見が凄い!中坊徹次・京大教授も偉い!

クニマス発見は今年の明るいニュース。

  今年もいろいろありました。

「ぎょぎょっ!」ていつも笑顔を振りまき、日本に元気を与えてくれていたさかな君でしたが、今回は本当に日本の生物学に元気を与える快挙を成し遂げました。

 横浜・八景島シーパラダイスで拝見した東京海洋大客員准教授のさかなクンの雄姿です。





 思いの外がっしりした体格のハンサムさんです。

 さかなクンのかぶっている帽子はハコフグさん(再掲)





 ハコフグさんの記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/50327333.html

 さかなクンは今年3月、京都大総合博物館の中坊徹次教授から、もう絶滅したと言われているクニマスの絵を描くよう頼まれました。

 しかし、ホルマリン漬けの標本がモデルでは思うように描けず、絵の参考にするため、クニマスによく似たヒメマスの実物を全国各地の湖から、沢山取り寄せました。

 さかなクンは全国に漁師さんのお友達がいるからねえ。京都大総合博物館の中坊徹次教授とも、しょっちゅう連絡を取り合うお友達なんだねえ。

 このうち、山梨県の西湖から送られてきた魚の中の一匹を見て「体が黒っぽいな。もしかしたらクニマスじゃないかな?」と、ピンと来たさかなクンは、中坊教授に尋ねました。

 そして、同教授らのグループが調査したところ、さかなクンの言うとおり、それがクニマスだと判明したのでした。 

 さかなクンの描くイラストは、細かい特徴をしっかりとらえて、専門家から見ても学術的な価値があるそうです。その観察眼が生かされたのですね。

 さかなクンのイラスト集





 さかなクンにヒメマスを送った当の漁師さん達は、中にクニマスが混じっているなんて、全く気がつかなかったんだって。さかなクンの鑑識眼は本職の漁師さんより凄いのです。

 思いがけない「再発見」に、お手柄のさかなクンは「クニマスを二度と滅ぼすことがないように、『自然』『生き物の尊さ』をしっかり考えていきたいです」とコメントしているそうです。


 今年の天皇陛下誕生日会見中でも、陛下は、めざましい科学の分野での業績についてふれられました、

 日本人2人のノーベル化学賞受賞や、小惑星探査機「はやぶさ」の帰還というビッグニュースと並べて、魚類分類学者であられる陛下らしく、絶滅種とされていた淡水魚クニマスが山梨県の西湖で発見されたことを「奇跡の魚うお」と喜び、中坊徹次・京大教授や、東京海洋大客員准教授でタレントの「さかなクン」の名前を挙げてその貢献をたたえられるお言葉を賜ったのです。

 日本の種の多様性が一種復元したということは、本当に朗報ですね。

 中坊教授、さかなクン准教授のなしとげた快挙の学術的な価値は、陛下のお言葉で分かります。

 ※  ※  ※

 天皇陛下誕生日会見

 2010年12月23日 読売新聞より、抜粋。
 
 この生物多様性年も終わりに近い頃、日本の淡水魚が1種増えました。それは、最近新聞などでも報じられたクニマスのことです。

 クニマスは田沢湖にだけ生息していましたが、昭和の10年代、田沢湖の水を発電に利用するとき、水量を多くするため、酸性の強い川の水を田沢湖に流入させたため、絶滅してしまいました。

 ところが、このクニマスの卵がそれ以前に山梨県の西湖に移植されており、そこで繁殖して、今日まで生き延びていたことが今年に入り確認されたのです。本当に奇跡の魚(うお)と言ってもよいように思います。

 クニマスについては、私には12歳の時の思い出があります。この年に、私は、大島正満博士の著書「少年科学物語」の中に、田沢湖のクニマスは酸性の水の流入により、やがて絶滅するであろうということが書かれてあるのを読みました。

 そして、そのことは私の心に深く残るものでした。

 それから65年、クニマス生存の朗報に接したわけです。このクニマス発見に大きく貢献され、近くクニマスについての論文を発表される京都大学中坊教授の業績に深く敬意を表するとともに、この度のクニマス発見に東京海洋大学客員准教授さかなクン始め多くの人々が関わり、協力したことをうれしく思います。

 クニマスの今後については、これまで西湖漁業協同組合が西湖を管理して、クニマスが今日まで守られてきたことを考えると、現在の状況のままクニマスを見守り続けていくことが望ましいように思われます。

 その一方、クニマスが今後絶滅することがないよう危険分散を図ることはぜひ必要です。

 
 ※  ※  ※


 おっしゃるとおりですよね。西湖漁業協同組合の方々や西湖周辺にお住まいの方々の努力も忘れてはなりません。

 私としては、クニマスがまだ生きているんなら、期待したい生き物があります。

 ニホンカワウソさん(剥製=再掲)です。





 カワウソさんの記事はこちら。
 最後の捕獲例は1974年7月25日に学術目的で高知女子大学の研究チームが高知県須崎市にある新荘川でメスの成獣を生け捕りにしたもので、その後は捕獲されていないのです。

 ですから、一般的にはニホンカワウソさんの生存は絶望的だって見方がつよいのですが、見つからなくても良いから、どこかでひっそり生きていてくれれば嬉しいな!




白浜アドベンチャーワールドのクジラ・イルカさんのショーだよ(上)。 【ファイルC207】2010.12.27 

【ファイルC207】2010.12.27 白浜アドベンチャーワールドのクジラ・イルカさんのショーだよ(上)。

よくこれだけ息があうねえ

 去年に行った白浜アドベンチャーワールドの記事がまだまだ溜まっています。

 今回はマリンライブの記事をUPしますね。





 マリンライブは、ビッグオーシャンという巨大プールで行われるイルカ・クジラのスピーディーでダイナミックなライブです。

 クリスマス前だったので、お姉さんはサンタさんの帽子を被っています。





 さぞかし寒かろうねえ。

 ゴンドウクジラさんのジャンプだよ。





 クジラさんもトレーナーの皆さんもとても楽しそう!

 イルカさんは陸で歩くこともできるよ。





 お姉さん達とシンクロナイズドスイミング。





 息がぴったり合っていますね。





 お姉さんがイルカに乗ってサーフィンしています。





 ジャンプして尾びれキック。





 一斉にジャンプするよ。









 仲良くダンス。





 お姉さんは、イルカさんに押してもらっているから、オリンピック選手よりずっと速く泳げます。





 速すぎて怖くないのかな?

 顔にかかる水圧もかなり強いんじゃないかと思います。

 ショーだけ見るととても羨ましいけれど、ここまで馴れるようになるには、根気強いトレーニングが必要なのでしょうね。

 次回に続きますね。





横浜の夜景はブルー・ライト・ヨコハマだねえ 【ファイルT140】2010.12.24 

【ファイルT140】2010.12.24 横浜の夜景はブルー・ライト・ヨコハマだねえ

街の灯りがとてもきれいです(メリークリスマス)。

  横浜と言えば、夜景です。

  




 函館、横浜、神戸、長崎といった山が海に迫る天然の良港は夜景が綺麗だからねえ。

 実は、クリスマスの記事を考えていなかったので、夜景の記事がクリスマスに似つかわしいかな?って急遽繰り上げてUPします。

 それでもって、『ブルー・ライト・ヨコハマ』で、いしだあゆみさんも唄っていたように横浜の夜景は日本を代表する美しさです。

 


 いしだあゆみさんも綺麗だねえ。

 横浜の人にとっては忘れられない名曲ですね。

 横浜の博物館にも、『ブルー・ライト・ヨコハマ』のジャケットが飾ってあったし。

 いしだあゆみさんの睫毛と、髪型と、大きなルビーだか、サファイアだかのイヤリングとドレスがとてもゴージャスで、クリスマスっぽいと言えなくもないかも。

 ピアスかな?

 でも、調べたら、「白い貝がらの 小さな イヤリング♪」の『森のくまさん』がNHK「みんなのうた」で初回放送されたのが昭和47(1972)年8月。

『ブルー・ライト・ヨコハマ』は、それより前の昭和43(1968)年12月25日にリリースされているので、多分イヤリングのはずだけれど・・・。

 この時代はピアスって言葉あったのかな?

 ピアッシングしても、この頃は耳ピアスもイヤリングのカテゴリーに入れていたのかもしれないし。
 
 う~む。

 それにしても、衣装も小林幸子さんまで行っちゃうと、ドレスと言うより、ほとんど構築物というか構造物というか建築物だからねえ。建築基準法に基づく建築確認が要りそうだし。


 構造物と言えば、大桟橋と横浜ベイブリッジを遠望します。

  




 日本丸もライトアップされています。

  




 馬車道は絶好の夜景ポイントです。

  




 夜景はやっぱり水面に光が映るウォーターフロントですね。

  




 大観覧車のライトは刻一刻と表情を変えます。

  




 ところが、手前の屋形船でカラオケをやっていて、雰囲気ぶちこわしです。

 気持ちの良いのは、マイクを握っている『ジャイアンな人』一人だけなのに、周りの大勢はとても迷惑です。

 横浜レンガ倉庫もライトアップ。

  




  




  




 レストラン等がテナントで入っているので、今夜はさぞかし混むだろうねえ。

 横浜ワールドポーターズ越しに見る大観覧車。

  




 ということで、夜の横浜散歩でした。

 皆さん、良いクリスマスをお過ごしくださいね。







ランドマークタワーは日本一の展望台 【ファイルT139】2010.12.21 

【ファイルT139】2010.12.21 ランドマークタワーは日本一の展望台

横浜の街が一望できるねえ。

 以前、ランドマークタワーでやっていた、『空中すいぞくかん』の記事をUPしました。

『空中すいぞくかん』の記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51333418.html

 姫路の記事が続き、肝心のランドマークタワーの記事がそのままになっていたので、今回UPしますね。

 JR桜木町駅前から見たランドマークタワーを含む『みなとみらい地区』です。

  




 距離があるので、動く歩道でアクセスするようになっています。


 正面から見たらこっちに倒れてきそうです。

  




 横浜ランドマークタワーは、横浜みなとみらい21の中核となっている超高層ビルで、三菱地所が保有しています。

 平成2(1990)年3月20日に着工し、開業したのは平成5(1993)年7月16日です。

 70階建て、高さは296.33 mと、高層ビルとしては日本一の高さです。

 バブル経済と言われていた好景気が昭和61(1986年)12月から平成3(1991)年2月までの4年3か月(51ヶ月)間ですから、ぎりぎりでバブルの崩壊の影響を免れたようです。

 日本一高い展望台フロア・「スカイガーデン」(地上273m)は69階にあって、直通の高速エレベーターに乗ったら、約40秒のあっという間に到着です。

 それもそのはず、スカイガーデン直通のエレベータは、日本最速の最高分速750m。

 その速さを実現しながら10円玉も倒れない滑らかな乗り心地で、地上273mを結びます。

 横浜港の見事な眺望だねえ。

  




 左手前に建っている、メロンを切ったような形の建物は、パシフィコ横浜(横浜国際平和会議場)です。

 ランドマークタワー同様、横浜みなとみらい21の施設で、国際会議場と展示ホールとホテルからなる世界最大級のコンベンションセンターです。

 今年11月に開催された、日本APEC(アジア太平洋経済協力)首脳及び閣僚会議場は、ここパシフィコ横浜が会場になったので、その時は、このあたり一体は厳重な警備が敷かれました。


 汽車道が小さく見えるねえ。

  




 横浜ベイブリッジが見えます。

  




 横浜ベイブリッジは、平成元(1989)年9月27日に開通した長さ860m(中央支間長460m)の斜張橋(吊り橋)です。

 上層部は首都高速湾岸線で、下層部は国道357号となっています。


 横浜レンガ倉庫が建ち並んでいます。

  




 レンガ倉庫の向こうが大桟橋です。

  




 係留されている船が氷川丸で、その右の緑地帯が山下公園です。

  




 中央にあるのが横浜マリンタワー、その右上の緑の丘が港の見える丘公園方面です。

  




 横浜スタジアムも見えます。

  




 野毛山(のげやま)方面です。遠くの山並みが箱根です。

  




 武蔵小杉方面です。奥のビル群は多分新宿。

  




 みなとみらいから、神奈川方面です。

  




 みなとみらい地区は、開発前後にちょうどバブルが弾けて、更地が多かったのですが、徐々に建物が建ってきています。

 工場の煙突の右上に白いヨットのような構造物が見えていますね。

  




 これは、風の塔(川崎人工島)です。

 風の塔は、川崎市浮島の沖合約5kmに作られた直径約200m、深さ75mの人工島で、風の塔の上には、高さ90mと75mの大小2つの塔がそびえ建っています。

 これらは東京湾アクアラインの海底トンネル内部の空気を排気したり、外から空気を送気したりするための施設なんだって。

 どうして分かったかというと、数人のおじさんのグループを引率していたお姉さんが、「海上に白いヨットのような建物がありますね」って説明していて、おじさんが「どこどこ?」って何回聞いても見つけられなかったので、そのやりとりが嫌でも耳に入ってきたからでした。

 1997年12月18日に開通した東京湾アクアライン・東京湾アクアライン連絡道(とうきょうわんアクアラインれんらくどう)は、神奈川県川崎市から東京湾を横断して千葉県木更津市へ至る高速道路です。

 川崎側の9.6 kmがアクアトンネルと呼ばれる海底トンネルで、木更津側の4.4 kmがアクアブリッジと呼ばれる橋になっていて、その境の人工島には海ほたるPAが設けられています。

 アクアブリッジは、日本第1位の長さの橋梁で、更にアクアトンネルは、関越トンネル・山手トンネル・飛騨トンネルに次ぐ、日本第4位の長さの道路トンネルという大規模な施設です。


 東京湾アクアラインといえば、どうしても、ハマコーさんこと浜田 幸一(はまだ こういち)氏を思い浮かべずにはおられません。というよりも、ハマコーさんがごり押ししてできた道路ってイメージなんですよね。

 通行料が高くて、通行する自動車数が予測よりも少なく、大赤字が出て、国会でも問題になって有名な道路です。

 この指摘についてハマコーさんは、「私の責任です」としながらも「あと100年後したら、必ずこの事業の意義が分かる時がくる」と反論しているそうです。

 この道路ができて東京湾をぐるっと環状の道路が整備されたということ自体は、そんなに悪くない案だとは思いますが、これはハマコーさんの言うとおり、あとの世代の評価にまかせるしかありませんね。


 ということで、この日はとっても気持ちよく晴れていて、すばらしい眺めでしたよ。

 入場料は大人:1,000円、高校生・満65歳以上:800円、小・中学生:500円、幼児(4歳以上):200円ですが、天気の良い日は登ってみるのがお勧めです。







葛西臨海水族館のアオリイカさんは百面相。 【ファイルC206】2010.12.18 

【ファイルC206】2010.12.18 葛西臨海水族館のアオリイカさんは百面相。

半透明で美味しそうだねえ

 例によって大分時間がたっていますが、今回は葛西臨海水族館のアオリイカさんです。

 こんにちは。





 ひらひらとヒレを動かしてホバリングしています。





 アオリイカ(障泥烏賊)は、ヤリイカ科・アオリイカ属に属する沿岸性のイカで、モイカ、バショウイカ、ミズイカ、クツイカなど多くの別名があります。

 標準和名のアオリイカは漢字では障泥烏賊と書きますが、この名前はひれの色や形が障泥(あおり)と呼ばれる馬の胴体に巻く泥よけの馬具に似ることに由来します。





 姿はコウイカに似ていますが、コウイカよりもヤリイカに近縁で、体内にはコウイカのような石灰質の『甲』を持たず、木の葉形の柔らかい『軟甲』を持っています。

 ハワイ以西の西太平洋からインド洋の熱帯・温帯域に広く分布し、日本では北海道以南の沿岸に分布。特に太平洋側では鹿島灘以南、日本海側では福井県の西側以南に多く生息します。

 春から夏にかけて産卵のため海岸近くの浅場にやってきて、ホンダワラ類などの海藻に房状に卵嚢(らんのう=卵が入っている寒天質の袋状のもの)を産み付けます。

 孵化したイカは急速に成長し、大きいものは10ヶ月程で胴長が50cm以上にもなります。

 他方、アオリイカはイカの王様といわれて、イカ類の中で最も味が良く、一般には東南アジアの輸入物が多く出回っていますが、特に国内産の近海物は超高級食材として扱われています。

 イカの肉の中には、甘味成分である遊離アミノ酸(グリシン、アラニン、プロリン)が含まれていますが、アオリイカは含有量がイカの中で一番多いんだって。

 刺身、天ぷら、煮つけなど、大活躍です。

 ネット販売で検索していたら、愛媛産とか長崎産とか島根産とか・・・。

 島根県では主に定置網で年間100~400トン程度の漁獲量があり、特に島根半島で多く獲れるそうです。

 それから、近年では産卵にやってきたアオリイカを釣るレジャーフィッシングが人気なんだって。

 防波堤や磯場で簡単に釣ることが出来、「餌木(えぎ)」という疑似餌を使った通称「エギング」はいわゆるルアー釣で、お手軽な釣り方です。

 変わったところでは、神戸空港で釣れるという記事もHITしました。神戸は瀬戸内海だからねえ。

 水族館で飼うのはとても難しいそうです。


 このお顔、どっかで見たことがあるとおもったら、多摩動物園のアフリカゾウさんに似ているねえ。





 多摩動物園のアフリカゾウさん(再掲)





 笑っているようなお目目が、山羊さんみたいだし。





 沖縄にいた山羊さん(再掲)





 足をつんつく仲良ししています。





 広げた足が、ヒゲみたいだねえ。





 3人並んで鯉のぼりならぬイカのぼり。





 さようなら、元気でね。





 ということで、綺麗でとても美味しそうなアオリイカさんでした。







皇居東御苑(こうきょひがしぎょえん)=旧江戸城本丸を探索するよ(その12) 【ファイルET16】2010.12.15  

【ファイルET16】2010.12.15 皇居東御苑(こうきょひがしぎょえん)=旧江戸城本丸を探索するよ(その12)

『七生報国(しちしょうほうこく)』で皇居を守る楠木正成公の銅像だよ(下)

 (上)を読まれる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51551744.html

 皇居東御苑について最初から読まれる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51135519.html

 皇居外苑には、楠木正成公の銅像が建っています。
(再掲)





 銅像の裏側です。





 馬のお腹には太い血管が浮き出て迫力満点です。





 それで、台座の銘板には、この銅像の由来が印してあります。





 文面は、

 ※ ※ ※ ※
 
 臣の祖先友信が伊予別子銅山の銅坑を開いてより、子孫業を継ぎ二百年、亡兄友忠深く国恩に感じ、その銅を用いて楠公正成の像を鋳造し、之を闕下(けっか)に献ぜんと欲し、允を蒙りて未だ果たさず、臣其の志を継ぎ、工事を董し功竣るに及んで謹んで献す

 明治三十年一月 従五位 臣 住友吉左衛門 謹識

※ ※ ※ ※

 現代語に訳すると

 祖先の住友友信が、伊予の別子銅山を開いてから200年生業が続いた国恩に深く感謝した今は亡き兄友忠(第13代)が、その銅を用いて鋳造した楠公正成の像を陛下御前に献じようとし、(像献納の)許可をもらっていたのですが、いまだに果たせず、私がその志を次いで、銅像を監督竣工したので、謹んでここに献じます。

 明治三十(1897)年一月 従五位 臣 住友吉左衛門 謹識

 といった意味のようです。

 この場合、住友家は、友信(とものぶ)の代から当主は代々、吉左衛門を襲名するようになっているそうなので、ここの『従5位 臣 住友吉左衛門』というのは、

 第13代友忠(ともただ)さんが若くして亡くなったあと、第14代にその妻の登久(とく)さんが、ワンポイントで家督を次ぎ、そのあと、友忠さんの妹満寿(ます)さんの婿養子になり第15代住友吉左衛門を襲名した友純(すみとも)さんのことでしょう。

 第15代目の友純(初名は隆麿)さんは徳大寺公純(とくだいじ きんいと)の子で、実兄に徳大寺実則((とくだいじ さねつね:内大臣)や西園寺公望(さいおんじ きんもち:第12・14代内閣総理大臣)、弟に末弘威麿((すえひろ たけまろ:財団法人立命館理事)らがいます。

 それで、第15代目のこの人が明治28(1895)年住友銀行を創設。住友家茶臼山本邸(慶沢園)を大阪市に寄付し大阪市立美術館となりました。

 また大阪府立中之島図書館の建物と図書基金を寄付したほか、京都法政学校(現在の立命館大学)にも財政的援助を行ったという人で、

 おまけに、13代目悲願の大楠公銅像献上まで果たし、入り婿は大成功です。

 別子銅山を開いた住友家がその隆盛期に、皇室の守護のため、その銅を使って楠正成公の銅像を造るなんて、歴史的に大きな意義がありますね。

 この時代の実業家は、国益や国家の理念について考えていたのですね。


 制作は、当時の東京美術学校(今の東京芸大)の校長岡倉覚三に依頼、第一回卒業生の岡倉秋水がデザイン、美術学校で彫刻を教えていた高村光雲が鋳造しました。

 持てる技能の全てを捧げた、まさに渾身の作品です。

 この銅像は銘板にあるように、明治30(1897)年1月に寄贈され、台座部分が完成し、現在の位置に据付が完了したのは、明治33(1900)年なのだそうです。

 本体の高さは4m、長さは5mあり、台座を加えると約8mになります。また、本体部の重さは、1800貫(約7t)で、関東大震災の折にもびくともせず、皇居を守護するシンボルとして、今日に至っています。

 この銅像の制作に関わった人達は、皆さん、皇室に対する崇敬と、楠正成公に対する尊敬・共感をお持ちだったことがよく分かります。


 ということで、『七生報国(しちしょうほうこく)』の精神そのまま、皇居を守護している楠正成公の銅像のお話でした。


 この日は、バスを降りて、この銅像を見学し、二重橋に向かう海外観光客ツアーが大勢訪れていました。

 日本人の皇室に対する思いを、そして日本の国柄について、少しでも感じていただければ嬉しいと思いました。



大阪天王寺動物園のホオジロカンムリヅルさんはとってもお洒落だよ。 【ファイルC205】2010.12.12 

【ファイルC205】2010.12.12 大阪天王寺動物園のホオジロカンムリヅルさんはとってもお洒落だよ。

ウガンダの国鳥だねえ

 
 大阪天王寺動物園のホオジロカンムリヅルさんちにいったらば、羽繕いをしていました。





 こんにちは。





 声をかけたら、こっちを向いたよ。

 ホオジロカンムリヅルさんのお住まいは、サハラ砂漠より南のアフリカ大陸の東部と南部の地域で、 特にウガンダやケニア、タンザニアといった大陸の東部に位置する国々で多く見られます。

 特にウガンダでは国鳥に指定され、国旗の中央にもその姿が描かれています。

 ウガンダの国旗です。





 中央部をアップします。





 天王寺動物園の子と同じポーズだねえ。いつも片足を上げているのかな?

 和名の通り、金色の冠を被って、頬の部分が白です。でも、繁殖期になるとこの白い部分も赤く染まるんだって。





 ホオジロカンムリヅルの背の高さは 1mぐらいで、体重 は3.5kgほどです。オスとメスは見た目の上でほとんど違いがありませんが、オスの方がメスよりも やや大きくなると言われています。

 喉に鶏さんのような鮮やかな赤い色をした袋がありますが、これは自由に膨らますことができ、独特な低い声で鳴くそうです。 

 池沼、湿地等に生息し、昼行性で、夜間は樹上で休みます。

 草を積み上げた塚状の巣を作ります。

 雑食で、昆虫類、節足動物、小型哺乳類、果実、種子等を食べます。

 地面を叩き驚いて飛び出した獲物を捕食するそうです。

 また、大型のホ乳類の後をついて歩き、その足音で出てくる獲物をちゃっかり狙うこともあるんだって!

 賢いねえ。

 もう一度羽繕いして。





 お澄ましの顔。





 長い舌だねえ。





 最後は横顔で決めるよ。





 ということで、今回はとってもお洒落な、ホオジロカンムリヅルさんでした。

 さようなら、元気でね。





改修前の春の姫路城だよ(その18) 【ファイルT138】2010.12.09 

【ファイルT138】2010.12.09 改修前の春の姫路城だよ(その18)

景福寺(曹洞宗)と鷺の清水だよ。

 姫路城の記事を最初から見られる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/50754429.html

 前回ご紹介した、姫路船場別院本徳寺から古い町並みを抜けます。

  




 曹洞宗景福禅寺です。

  




 瑞松学院と景福保育園がお寺に併設されています。

 お地蔵さん、可愛いねえ。

  




 立派な山門だねえ。

  




 門には仁王さんが安置されています。

  




  




 ここにもお地蔵さんが。

  




 子供が好きなんだねえ。

 平成4年3月 姫路市教育委員会による案内板に書いてあった景福禅寺についての由緒書きを引用しますね。
 
◇  ◇  ◇
 
 景福禅寺は、古くは摂津国にあったが、天正年中に戦火をさけて姫路へ移り、池田輝政の築城の時、坂田町に寺を建てた。

 寛延2(1749)年松平朝矩(とものり)が前橋へ移封されるにあたり、菩提寺の孝顕寺も移り、その跡地である現在地へ、藩主酒井忠恭(ただずみ)の命で景福寺が移り、酒井家の菩提寺となった。

 境内には、藩主酒井忠学(ただのり)の室となった十一代将軍家斉(いえなり)の娘、喜代姫及びその娘喜曽姫【藩主酒井忠宝(ただとみ)の妃】、藩主忠績(ただしげ)の室、婉(えん)姫の3人の墓がある。

 北の景福寺山には、姫路城主松平明矩(あきのり)の墓所と姫路藩士たちの墓石がある。

 明治十一年に六群立の姫路中学校も景福寺に間借りして誕生した。

  ◇  ◇  ◇


 禅寺と言えば、静かに座禅を組む道場というイメージがあるのですが、境内には、元気な子供の歓声が響いています。

  




 お堂の裏に見えている景福寺山には、姫路城主松平明矩(あきのり)の墓所と姫路藩士たちの墓石があります。
 

 お堂に『活埋坑(かつまいこう)』の額が懸かっています。

  




 この言葉ゆかりの僧の通幻禅師(つうげんぜんじ)は、曹洞宗本山の総持寺第五世をつとめ、前年に住持職をゆずった高名な禅僧でした。

 六瀬の土豪平尾越中守は通幻を援助し、また応安7年には、摂津国守護細川頼元の助力で永沢寺(三田市)が創建されました。

 その通幻の厳しい禅風を身につけた弟子達の中の一人が、(兵庫県猪名川町)杉生において景福寺を開山しました。そして、師である通幻を初代住職として迎えました。

 その後、援助者の移り変わりによって景福寺がここ姫路の他、岡山・鳥取にも建てられ、四景福寺と呼ばれるようになりました。

 通幻禅師の下には全国から大勢の雲水が道を求めて集まりました。通幻禅師の修行僧に対する厳しい教育ぶりをうかがえる2つの故事が伝わっています。

 それがこの『活埋坑』と『文字点検』というものです。

 『活埋坑』とは、山門のところへ大きな穴を掘って新しい修行僧が入門を願いに来るとそこで挨拶を受け(禅問答を行なう)修行僧の真剣な態度を見てとれば喜んで受け入れるが、万一不真面目な態度があればたちまちその穴へ蹴り込んだといいます。

 『活埋坑』って穴に生き埋めにするんだと思ったよ。

 また『文字点検』とは、5日ごとに修行僧の部屋を点検し持ち物の中から書物や筆・硯などを没収して焼却してしまったというものです。これは修行僧が文字言句にとらわれて坐禅に集中できなくなることを深く慮ったためです。

 うへえ、持ち物検査で、文房具や教科書を没収して焼却してはいけないねえ。

 とても厳しい教えの禅寺なのですね。でも、保育園の子供が楽しそうに遊んでいるのでほっとします。

 ネットで検索したら、こんな記事が見つかりました。

 神戸新聞ニュース (2010/06/14 09:15)

 【園児ら、お父さんと座禅に挑戦 姫路・景福寺

 父の日を前に、親子で静かなひとときを過ごしてもらおうと、姫路市景福寺前の景福寺で13日、恒例の親子座禅が開かれた。同寺付属の幼稚園・瑞松学院の5歳児と景福保育園の4歳児約150人と、その保護者らが参加した。
 
 父親参観の一環で、43年前から毎年開催。無の境地を体験し、自己を見つめる機会にしてもらおうと、両園の園長青山平立住職(82)が発案した】

 子供の頃にお父さんとこんな体験をしたら、とても貴重な良い思い出になりますね。


 景福寺から姫路城の方角に向かいます。

 姫路城の北西にある鷺の清水(さぎのしみず)です。

  




 この石組み井戸は、古くから名水として知られた「鷺の清水」の遺構です。

 宝暦12(1762)年の地誌『播磨鑑』によれば、播磨十水の一つに数えられており、風味がよく茶の湯にも利用されていたといいます。

 ただこの場所は清水門の外門の内側に位置しているため、一般の人は水が汲めないので、船場側に流れ落ちる涌水で茶をたてたといわれています。
 井戸の規模は、東西2.8メートル、南北6メートル、深さ2.5メートルで、さらに井戸底面の中央に直径1.3メートル、深さ2.4メートルの木枠の井戸が設けられています。

 この遺構は、由来・形状に特長があり、往時の姿が概ね復元できたことから姫路城跡でも最も重要な遺構の一つとなっています。


 清水門跡です。

  




 鷺の清水(さぎのしみず)に因んで名づけられた門で、ここも実に立派な門の構えであったと伝えられています。

 軍隊時代には射的場として高い塁に改造され、門の石垣が埋められたままであり、掘れば昔のままに出るといわれています。


 北勢隠門(きたせがくしもん)

  




 この門は、公園の北勢口になっていますが、この外の清水門への内側通路でもありました。

 明治維新後は荒れきって、度々石垣が崩れて修理しているので、昔のような面影もなくなってしまっています。

 姫路城が顔を覗かせている風景に風情が感じられますね。


 『改修前の春の姫路城だよ』の記事は以上です。また状況が変わったら、新しい姫路城を紹介できればよいですね。

 

【注意!】

姫路城は現在、天守閣工事中です。

姫路城大天守保存修理工事は平成21年10月から始まり、概ね5年間工事が続くそうです。

現在の状況はこちらで確認してください。











皇居東御苑(こうきょひがしぎょえん)=旧江戸城本丸を探索するよ(その11) 【ファイルET15】2010.12.06 

【ファイルET15】2010.12.06 皇居東御苑(こうきょひがしぎょえん)=旧江戸城本丸を探索するよ(その11)

『七生報国(しちしょうほうこく)』で皇居を守る楠木正成公の銅像だよ(上)

 皇居東御苑について最初から読まれる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51135519.html

 皇居外苑には、広大な皇居前広場が整備されています。





 皇居前広場は、濠で囲まれ、西の丸下、西の丸下廓(くるわ)、西の丸下曲輪とよばれていました。

 明治維新前、この一帯は、大名屋敷でした。

 『皇居前広場』の名称は、明治22(1889)年に、それまであった議定所・元老院・警視局・練兵場が取り除かれ、宮城前広場と称したことに始まります。

 日清・日露両戦争を機に、出兵兵士の大観兵式の場となり、その閲兵式の道路と橋が南側の濠から広場につくられ、凱旋道(がいせんどう)と名付けられました。

 その後、凱旋道は大手門前に延長され、祝田橋(いわたばし)通と称されます。

 今の祝田橋から、桜田門の間の濠を祝田濠と呼ぶのはこのためです。

 この地は、紀元2600(昭和15・西暦1940)年11月の式典会場になり、松が捕植され、田の字型に道路が設置される工事が施されました。

 ここに松が植えられ、日本庭園の芝生広場になったのは、将来的に、園遊会の茶席を催すためだったそうです。

 夜間立ち入り・焚き火・野宿禁止です。





 大きな楠(くすのき)が立っています。





 それで、いよいよ楠正成(くすのきまさしげ)公の銅像だよ。





 この勇姿は、『太平記』の兵庫に正成(まさしげ)が後醍醐天皇(ごだいごてんのう)を出迎える様を表しています。


 楠正成(くすのき まさしげ:楠木 正成)公は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将です。

 建武の中興(けんむのちゅうこう)の立役者として足利尊氏らと共に活躍。尊氏の反抗後は南朝側の軍の一翼を担い、湊川(みなとがわ)の戦いで尊氏の軍に破れて自害しました。

 後醍醐天皇を守護し、明治以降は『大楠公(だいなんこう)』と称され、明治13年(1880年)には正一位を追贈されています。

 出生は河内国石川郡赤坂村(現大阪府南河内郡千早赤阪村:みなみかわちぐんちはやあかさかむら)とされていますが、正確なところはよく分かりません。

 河内(かわち)の土豪として歴史に登場し、判明している生涯は元弘元年の挙兵から建武3年の湊川での自刃までのわずか6年ほどに過ぎません。

 楠正成は、元弘元年(1331年)に後醍醐天皇の京都の笠置山(かさぎやま)における倒幕の挙兵を聞くとそれに呼応して下赤坂城で挙兵し、湯浅定仏と戦いました(『赤坂城の戦い』)。

 正成公の戦は、いわゆるゲリラ戦術で、寄せ手の頭上に岩や大木を落としたり、藁人形(わらにんぎょう)であざむいたり、熱湯をかけたり、奇策に奇策を重ね、幕府軍を翻弄しました。

 山城にとどまる正成軍の食料は、二十日で底をつきました。

 そこに、京都で後醍醐天皇が捕らえられたという急報が入りました。

 正成は城に火を放ち、火災の混乱に乗じて抜け道から脱出し、行方をくらまします。

 その後、後醍醐天皇が隠岐島に流罪となっている間にも、大和国(奈良県)の吉野などで戦った護良親王(もりながしんのう=大塔宮:おおとうのみや)とともに、河内国(かわちのくに)の上赤坂城(かみあかさかじょう)や金剛山(こんごうさん)中腹に築いた山城、千早城(ちはやじょう)に籠城(ろうじょう)してゲリラ戦法を縦横無尽に駆使し、幕府の大軍を相手に奮戦しました。

 こうして正成は軍略の天才として、名をなしていきます。

 元弘3年 / 正慶2(1333)年には、正成らの活躍に触発されて各地に倒幕の機運が広がり、足利尊氏や新田義貞、赤松円心らが挙兵して、ついに鎌倉幕府が滅びます(元弘の乱)。

 楠正成は、倒幕を果たした後醍醐天皇が京へ凱旋する際、兵庫まで出迎え、同道し警護につきました。

 銅像は、このときの兵庫での後醍醐天皇を颯爽と出迎えた姿を現しているのですね。

 大いに功があった、正成は土豪出身でありながら、従五位下・検非違使尉・左衛門尉・河内守・摂津守に任ぜられます。

 建武の新政において正成は後醍醐天皇の絶大な信任を受け、結城親光(ゆうき ちかみつ)、名和長年(なわ ながとし)、千種忠顕(ちぐさ ただあき)をあわせて「三木一草」と併称され、「朝恩に誇った」とされています(伝『太平記』)。

 後醍醐天皇は論功行賞において、まずは鎌倉時代に強くなりすぎた武家勢力を削ぐ必要があると考え、恩賞の比重を公家に高く置き、武士は低くしました。

 ところが、後醍醐天皇の建武の新政というのは、鎌倉幕府のような武士の世の中から、「延喜・天暦の治(えんぎてんりゃくのち)」に代表される醍醐・村上天皇の頃のような天皇親政に回帰するというものなのですが、そこに大いなる矛盾があって、鎌倉幕府を倒したのは、結局、楠正成、足利尊氏、新田義貞、赤松則村(赤松円心)ら武士だったのです。

 とりわけ、赤松則村(赤松円心)などは、護良親王を守り大活躍したにもかかわらず、却ってそれまでの播磨守護職を没収されるなどして、優遇されませんでした。

 建武元(1334)年冬、正成が旧鎌倉幕府北条氏の残党を討つために京を離れた直後、護良親王が謀反の嫌疑で捕縛され、足利尊氏に引き渡されました。

 これで、赤松円心の立場は失われました。怒った円心は、京を出て地元赤松へ帰ってしまいます。

 建武2(1335)年に中先代の乱(なかせんだいのらん)が起きると、足利尊氏は後醍醐天皇に対して乱を起こした北条時行(ときゆき)討伐の許可と同時に武家政権の設立に必要となる総追捕使と『征夷大将軍』の位を要求します。

 しかしながら、後醍醐天皇はそれを拒否し、尊氏は勅状を得ないまま、勝手に出陣します。

 後醍醐天皇は尊氏に追って征東将軍の号を与え、尊氏は乱を鎮圧します。

 尊氏は鎌倉において、乱の鎮圧に付き従った将士に勝手に恩賞を分配したり、建武政権の上洛命令を無視したりするなど、建武政権から離反し、そのまま後醍醐天皇の新政権を裏切ります。

 足利尊氏は、尊氏追討の命を受けた新田義貞を箱根・竹ノ下の戦いで破り、足利軍は京へ攻め上って来ます。

 しかしながら、楠正成は北畠顕家らとともに足利方を打ち破りました。

 延元元年 / 建武3(1336年)年、足利方が九州で軍勢を整えて再び京都へ迫ると、戦いに先立って京都で開かれた天皇方の軍議の席上、楠正成は、京都をいったん足利軍にあけ渡し、その間に軍勢を増強、再度挟み撃ちにして攻撃するよう進言しました。

 京都は守るに難く、攻めるに易いのです。

 しかしながら、この案は後醍醐天皇の参議、坊門清忠(ぼうもんきよただ)の反対にあい入れられませんでした。
 
 結局、新田義貞の麾下(きか)での出陣を命じられ、湊川(みなとがわ:兵庫県神戸市)の戦場に赴くことになりました。

 こうなっては、さすがの楠正成公にも戦の勝ち目はありません。

 その途上、櫻井の駅(現在の大阪府三島郡島本町)にさしかかった辺りで、死を覚悟した正成は、数え11歳の嫡子・楠正行【くすのきまさつら(後世「小楠公」と称される)】を呼び寄せて「お前を故郷の河内へ帰す」と告げます。

「最期まで父上と共に」と懇願する正行に対し、正成は「父が討ち死にしたのちも一族をまとめて戦い続けることが忠孝である」と諭し、形見にかつて帝より下賜された菊水の紋が入った短刀を授け、今生の別れを告げました。

 この話は、『櫻井の別れ』として、戦前、戦中知らない人はいないほど有名でした。

「青葉茂れる櫻井の♪」という唱歌『桜井の別れ(決別:けつべつ)』(大楠公の歌)も広く親しまれていました。

『桜井の別れ(決別:けつべつ)』(大楠公の歌)はこちらです。
http://www.youtube.com/watch?v=qPcrhHT3Eww&feature=related


 700余騎を率いて湊川に出陣した正成は、海上からの10万余の足利尊氏と、陸上の足利尊氏の弟足利直義1万余の軍勢の挟み撃ちにあい(尊氏軍三万五千との説もあります)、新田義貞が敗走したにもかかわらず、奇襲戦法で最後までとどまって応戦しました。

 これが『湊川(みなとがわ)の戦い』です。

 しかしながら、衆寡敵せず。最後は尊氏軍の前に全滅、一族郎党とともに自刃(じじん)して果てます。

 このときに正成が、弟正季(まさすえ)ら一族郎党と誓い合った言葉と伝えられているのが『七生報国(しちしょうほうこく)』です。

 正成軍がわずか七十三人になってしまい、最期をさとった正成は、弟正季(まさすえ)に何か願いはあるかと問いかけると、正季が「七生まで人間に生れて朝敵を滅ぼしたい」と答えたので、正成も「いつかこの本懐(ほんかい)を達せん」と誓ったのち、兄弟、刺しちがえて自刃したといいます。

 負けると分かっている戦に敢然と挑み、散っていった楠木正成は、享年43歳でした。


  楠 正成 銅像正面です。





 正面のアップです。





 楠 正成公は、今も忠君愛国のシンボルとして、軍神として、皇居の守護を行っているのですね。

 (下)に続きます。






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