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ジャックの塔の横浜市開港記念館に行ったよ(上) 【ファイルT143】2011.01.29 

【ファイルT143】2011.01.29 ジャックの塔の横浜市開港記念館に行ったよ(上)

レンガの建物は味わいがあるねえ。

 横浜シリーズの続きです。

 前回はこちら。
 横浜というのはモダンな街ですね。
 文明開化の街です。

 それで、今回は、ジャックの塔がある横浜市開港記念館(国指定重要文化財)です。
 
 西南隅から見た横浜市開港記念館。

  




 立派なレンガ造りです。

 横浜市開港記念館は、開港50周年を祈念して、大正3(1914)年9月に着工され、大正6年7月1日の開港記念日に『開港記念横浜会館』として開館しました。

 建物は、大正12年の関東大震災によって焼失の被害を受けたので。昭和2年と平成元年に復旧工事が行われ創建時の姿に復元されました。
 
 建物の外壁は腰石まで花崗岩積みで、1・2階は赤い化粧レンガと白い花崗岩を積み上げた辰野式フリークラシックスタイルで、古典主義を自由にアレンジしています。

 東南隅には高塔(時計塔)、西南隅に八角ドーム、さらに高塔を挟む位置にも角ドームを作り、屋根は寄棟造り・天然スレート葺きで、越屋根は銅板葺きとしています。

 東南隅の時計塔です。

  




 時計塔(約36m)は通称『ジャックの塔』と呼ばれ親しまれています。

 また、建物内部の広間、中庭に面する窓にはステンドグラスが用いられるなど、大正期の建物として華やかですぐれた意匠が施されています(横浜市教育委員会文化財課 平成6年3月 作成の銘板より)。

 大きな窓だねえ。

  




 横浜商工会議所跡の碑です。

  




 碑文にはこう書かれています。

※  ※  ※  ※

 横浜商工会議所は、明治13年4月13日横浜商法会議所としてこの地本町1丁目5番地横浜町会所内に設立された。

 創立100周年を迎えるに当り先人の偉業をしのび、ここに記念碑を建立する。

 昭和55年4月12日
 横浜商工会議所会頭 上野 豊

※  ※  ※  ※

 本町通りと日本大通りの角地にあった、ブリュシェンス設計による時計台付き町会所は明治39(1906)の火事で焼失しました。

 その跡地に、大正6(1917)年、横浜開港50周年を記念してこの開港記念横浜会館が新設されたのです。


 横浜商工会議所跡の碑にすぐそばに、「岡倉天心生誕之地」がありました。

  




 岡倉 天心【おかくら てんしん、1863年2月14日(文久2年12月26日) - 1913年9月2日】さんは、明治期に活躍した美術家、美術史家、美術評論家、美術教育者です。

 福井藩士だった父・岡倉勘右衛門は貿易商で、岡倉天心は、この地にあった生糸売込商「石川屋」に生まれ、幼き日を横浜で送りました。

 幼いころから英語に慣れていたため、東京開成所(のちの官立東京開成学校、現・東京大学)に入所し、政治学・理財学を学びます。

 また英語が得意だったことから同校講師のアーネスト・フェノロサの助手となり、フェノロサの美術品収集を手伝ったのです。

 また天心は明治15年(1882年)に専修学校(現在の専修大学)の教官となり、専修学校創立時の繁栄に貢献し学生達を鼓舞しました。

 専修学校での活躍は、文部省専門学務局内記課に勤めていたころのことでした。

 また専修学校の師弟関係で浦啓一も天心と出会い、天心の指導によりその一生に決定的な影響を受けたそうです。

 明治23(1890)年、岡倉天心さんは、東京美術学校の校長になりますが、それから3年間、東京美術学校でおこなった講義「日本美術史」は日本(の美術史学)における日本美術史叙述の嚆矢(こうし)とされています。

 しかしながら、順風満帆な出世人生だった岡倉天心さんは、明治31(1898)年に突如、東京美術学校の校長という地位を追い落とされます。

 というのは、そもそも岡倉天心さんが東京美術学校の校長になれたのは、浜尾新(はまおあらた:東大総長、子爵、枢密院議長)にかわいがられ、美術行政の大ボスで九鬼男爵家の当主・九鬼隆一(文部少輔、特命駐米全権公使、帝国博物館長)からの猛烈な引きがあったからなんですね。

 東京美術学校の頃の岡倉天心さんは、とても才能に恵まれていましたが、傍若無人で自由奔放な人だったそうです。それについては、いろんな伝説が残っています。

 ついには、あろうことか、大恩人の九鬼隆一男爵夫人の初子さんと不義を働いたのです。

 それを知った九鬼男爵は烈火のごとく怒り、そのため岡倉天心さんは東京美術学校を放逐されたのです。

 それにしてもとほほな話だねえ。天心さんは何考えてるんだろう?

 その後、日本美術院を結成、横山大観、下村観山、菱田春草などの日本画家の偉才を育てました。

 東京都台東区に岡倉天心記念公園(旧邸・日本美術院跡)があります。

 のちにアメリカ、ボストン美術館の東洋部長となりアジア文化のために活躍しました。

 また、ニューヨークにおいて英文の「茶の本」を出版して日本文化の紹介に尽力します。

 自由奔放で異能の故、苦労の生涯だったのですね。


 大きなステンドグラス窓の下に入り口があります。

  




 通称「ジャックの塔」と呼ばれる時計塔(約36m)の両側には角ドームがあります。

  




 角ドームの屋根は複雑な形をしていますが、これがフランス建築の特徴のマンサード屋根です。

  




 西南隅の八角の屋根ドームは、大震災で焼け落ちましたが、平成元(1989)年に復元されました。

  




 大窓は室内から見ると、見事なステンドグラスです。

  




 夕日に映える横浜市開港記念館

  




 ちょうど、『あかいくつ』のバスが通りかかったところでした。

 ということで、入館します。

  




 白い天井と照明がお洒落だねえ。

  




 階段の形もモダンです。

  




 室内の柱は、ギリシア神殿のイオニア式を模しています。

  




 この辺がフリークラシックスタイルなんでしょうね。ある意味節操が無いともいえなくはないと思うのですが、そのへんは大らかに見た方が良いのかねえ。

 光に満ちた階段を上ると・・・。

  




 ということで、長くなったので次に続きますね。











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皇居東御苑(こうきょひがしぎょえん)=旧江戸城本丸を探索するよ(その15) 【ファイルET19】2011.01.26 

【ファイルET19】2011.01.26 皇居東御苑(こうきょひがしぎょえん)=旧江戸城本丸を探索するよ(その15)

英国大使館は立派な建物だねえ。

 皇居東御苑について最初から読まれる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51135519.html

 半蔵濠脇の道を挟んで立派な英国大使館(駐日英国大使館)が見えます。





 イギリスの正式名称は、『グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)』です。

『イギリス』は日本での通称名で、ただ単に『イングリッシュ』が訛っただけの名前です。

 グレートブリテンとは、イングランド、スコットランド、ウェールズの3カ国のことで、イギリスはこのグレートブリテンと北アイルランド立憲君主制国家で構成されているわけです。


 英国の代表的なスポーツのラグビーで言いますと、伝統的な5カ国対抗ラグビー(ファイブ・ネイションズ)というのがありました。

 この五カ国は、スコットランド、イングランド、アイルランド、ウェールズにフランスを加えたものです。

 なんのことはない、イギリス4カ国とフランスの戦いです。

 2000年からイタリアの参加を受け入れたため、シックス・ネイションズ(Six Nations、6か国対抗)に変更されました。

 ラグビーだけではなく、サッカーにおいても、イギリス代表チームというのはなく、代表は、それぞれイングランド、ウェールズ、スコットランド、アイルランドと別々のチームです。

 ミュージックシーンに革命を起こした、ザ・ビートルズは、アイルランド系移民が多いリバプール出身で、ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリソンはアイルランド系、リンゴ・スターの姓のスターキーという姓はスコットランド起源らしいのですが、先祖はよく分からないそうです。

 ですから、『保守的なイギリスで革新的なロックバンドが生まれた』という言い方も、単純にはできないようです。イングランドとアイルランドは違うという発想があるからです。

 アイルランド問題というのは、アイルランド島のうち、北東部の北アイルランド6州がイギリスの統治下にあるのですが、それ以外はアイルランド共和国で、アイルランド共和国は1998年のベルファスト合意以前は全島の領有権を主張していました。

 オリバー・クロムウェルの侵略以降、民族や領域としての自治が剥奪され、イギリスにとっての最初の植民地支配を受け、プロテスタント(イングランド教会)によるカトリック教徒への迫害があったりして、それらの禍根から、伝統的にイギリスとは複雑な関係にあります。


 国家元首はエリザベス2世(Elizabeth II:エリザベス・アレクサンドラ・メアリー・ウィンザー=: Elizabeth Alexandra Mary Windsor、1926年4月21日 - )女王陛下です。

 エリザベス2世は、ウィンザー朝ですが、遡れば、ハノーヴァー朝のジョージ1世が源流なので、ドイツ系の王朝です。


 さらに、イギリスは、英連邦王国の一国でもあり、国際関係について責任を負う地域として、王室属領及び海外領土があるのです。

 
 女王陛下は、イギリス連邦王国16ヶ国の女王(在位:1952年2月6日 - )で、イギリス連邦の元首、イングランド国教会の首長でもあります。

 イギリス連邦王国16ヶ国の女王というのは、グレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国(イギリス)女王、カナダ女王、オーストラリア女王、ニュージーランド女王、ジャマイカ女王、バルバドス女王、バハマ女王、グレナダ女王、パプアニューギニア女王、ソロモン諸島女王、ツバル女王、セントルシア女王、セントビンセント・グレナディーン女王、ベリーズ女王、アンティグア・バーブーダ女王、セントクリストファー・ネイビス女王を兼ねているということです。


 衰えたとはいえ、大英帝国の威光はいまだに輝いているのですね。

 エリザベス2世が首長を務めるイングランド国教会(イングランドこっきょうかい、=英国国教会:Church of England)は、16世紀のイングランドで成立したキリスト教会の名称、かつ世界に広がる聖公会(アングリカン・コミュニオン)のうち最初に成立し、その母体となった教会のことを指すそうです。

 もともと、イングランド国教会はカトリック教会の一部でしたが、16世紀のイングランド王ヘンリー8世が、キャサリン・オブ・アラゴンと離婚しようとした時に、教皇クレメンス7世に婚姻の無効を宣言するよう頼んだにもかかわらず、却下されたことが引き金となって、『教皇が離婚を認めないなら、カトリックの信仰をやめて、自分で宗教を作れば良いんだろ!』とカトリック教会を脱退したことにより新しく作られた教会なのです。

 とはいえ、この結婚自体がキャサリンの甥にあたる神聖ローマ皇帝カール5世の思惑が絡んだ政略結婚で、単なる離婚と言うより、かなり政治的な問題のようですが・・・。

 それにしても、わざわざ離婚するために作られた教会で、結婚式を挙げるというのは縁起が悪いと思うのですが、1981年にシティ・オブ・ロンドンにあるイングランド国教会のセント・ポール大聖堂で、チャールズ王太子とダイアナ元妃の結婚式が行われました。

 
 大使館には、イギリスの国章が掲げられています。

 イギリスの国章(イギリスのこくしょう、Royal coat of arms of the United Kingdom)というは、イギリス(連合王国)の正式な国章で、また、イギリス国王(現在:エリザベス女王)の紋章でもあります。

 王族・政府には、この紋章と共通する要素をもつ別の紋章があり、イギリス国王は、スコットランド国王としての別の紋章も有しています。

 大使館のイギリス国章のアップ。





 てっぺんから順に意味を説明していきます。

 盾の上には、冠をかぶったライオンがいます。ライオンのかぶっている冠は、イギリスの代表的な冠で、このライオンはイギリスを守っている、という意味があります。

 その下の盾の左右を飾る動物はサポーターと呼ばれ、イングランドを象徴するレオパールと呼ばれる前向きのライオンが左で、スコットランドを象徴するユニコーンが右で盾を支えています。

 イギリスの古くからの伝説では、ユニコーンはとても危険な生き物のため、この国章では金色の鎖でつながれているのです。

 盾形の紋章の中央部は四分割されており、左上(ここが最上位とされています)から時計回りに

1 イングランド王をあらわす赤地に金色の3匹の歩き姿のライオン
2 スコットランド王をあらわす金地に赤色の立ち姿のライオン
3 1と同じ
4 アイルランド王をあらわす青地に金色のハープ
 と、なっています。

 この国章は、ヴィクトリア女王の即位に際して改訂されたもので、1837年に成立しました。

 ヴィクトリア女王より前の、ハノーヴァー朝の国王は代々ドイツのハノーファー王国(選帝侯国)の君主を兼ねていましたが、ハノーファーでは女性の統治が認められていないのでそれまでの紋章の中央に置かれていたハノーファー王家の紋章を外したものに改訂されたのだそうです。



 盾の周囲は青いガーター勲章で、フランス語で "HONI SOIT QUI MAL Y PENSE"(英訳: Evil be to him who evil thinks、思い邪なる者災いあれ)の文字が記され、

 下部の水色のリボンには、同じくフランス語で、イギリス(とイングランド)の "DIEU ET MON DROIT"(英訳: God and my right、神と我が権利)という標語が記されています。



 どうしてイギリスの国章に、フランス語が書いてあるかというと、英語の沿革をみれば分かります。

 1世紀からローマ人がブリテン島に駐留して、ケルト系の住民(ブリトン人)を支配していたころには、ケルト語とラテン語が優勢でした。

 そのローマ人が 西暦410年に本国に引き上げると、 5世紀半ばから 6世紀にかけて、ゲルマン系の人々(ジュート人、アングル人、サクソン人)が大陸からブリテン島に渡り、先住のケルト人を支配するようになりました。

 このころイングランド(アングル人の陸地という意味)でゲルマン系の言語が定着しました。

 これが英語のもととなる古英語です。その後歴史的な背景により、英語は変容していきます。

 英語はキリスト教を通じてラテン語を借用し、8世紀から始まるバイキング時代には北欧語を借用しました。

 そして、1066年のノルマン征服(The Norman Conquest of England)によって、ブリテン島はフランス貴族のノルマンディー公の統治するところになって、

 以降約300年間、英国の公用語はフランス語とされ、多くのフランス語が英語に借用されました。

 
 ところが、英国がフランスと戦った百年戦争が起きると、フランス語は敵性語とされ、英語に対する国語意識が強まって、14世紀にはフランス語を話していた英国の貴族が英語を話すようになったのです。

 1362年に議会の開会宣言が初めて英語で行われ、そして1399年になってようやく、英語を母国語とするヘンリー4世が英国王に即位したのです。

 ですから、英国はヨーロッパで伝統を重んじる国だと言うことですが、その文化の根幹の英語でさえ日本語に較べれば遙かに新しい言語なのです。

 
 それにしても、イギリスとフランスはいまだに仲が悪いねえ。というか、国際社会では、隣国同士は仲が悪いのが普通ですね。


 その他、英語は十字軍遠征や12世紀の大翻訳時代(アラビアの進んだ医学・数学・天文学、アラビア語に翻訳されていたギリシャの書物がラテン語に翻訳された。アリストテレス、ユークリッド、アルキメデス、プトレマイオスなどの著作が、主としてアラビア語からラテン語に翻訳されたのはこの時代)にアラビア語を借用し、

 16世紀の英国ルネサンスで古典語を借用し、17世紀の東インド会社設立で、東洋への進出が盛んになり、東洋の諸言語からの借用が増え、さらに、19世紀に米国がペリー提督を日本に派遣してからは、日本語を借用しています。




 最後に、英国大使館情報として、付け加えると、

 流通ジャーナリストの金子哲雄さんが、明石家さんまさんが司会をやっているフジテレビの番組『ホンマでっか!?TV 』で、「皇居周辺でランニング中、女性がバテたら可愛く見えるスポットは英国大使館前」と力説していました。

  女性がランニング中に、英国大使館前でバテていると、可愛く見えるので男の人に声をかけられやすいそうです。

 私には、全くそうは思えないんだけどねえ。

 それにしても、この人、お店でものを値切る達人だったはずだけれど・・・。

 次に続きます。




コビトカバさんは、珍獣のカバさん! 【ファイルC213】2011.01.23 

【ファイルC213】2011.01.23 コビトカバさんは、珍獣のカバさん!

ただ小さいだけじゃないんだよ。

 今回は、コビトカバさんをご紹介します。

 まず、上野動物園のコビトカバさんは、照れ屋さんです。





 ねえムーミンこっち向いて♪って感じみたいですね。

 コビトカバさんはギニア、コートジボワール、シエラレオネ、リベリアにお住まいです。

 ナイジェリアのコビトカバさんは残念ながら絶滅してしまいました。

 コビトカバ(小人河馬、Choeropsis liberiensis)さんは、動物界脊索動物門哺乳綱ウシ目(偶蹄目)カバ科コビトカバ属に分類される偶蹄類です。

 現生種では本種のみでコビトカバ属を構成しています。

 体の大きさは、体長1.5~1.7m、肩までの高さ0.7~0.8m、体重160~240kgと小型で、一般的なカバの子供ほどの大きさしかありません。

 体毛はほとんど無く、体の表面に透明な分泌液があります。普通のカバは赤い分泌液ですね。

 体色は背面が黒灰色で、腹面は肌色です。





 可愛いけど、大人のカバさんなんだよ。

 参考に、以前ご紹介した王子動物園のカバの赤ちゃんです(再掲)。





 カバの赤ちゃんの記事はこちら。
 やっぱり較べてみると、カバの赤ちゃんと、コビトカバさんは違うねえ。

 えさは草食性で、水生植物、木の葉、草、コケなどを食べています。動物園では、牧乾草、草食獣用ペレット、ヘイキューブ、おから、キャベツなどをあたえています。

 特長としては、外見はカバに似ていますが、ずっと小さく、カバの祖先の姿を保った貴重な動物です。夜行性で昼間は眠っていて、夜になると活動して木の葉や果実などを食べます。カバと違って、出産も哺乳も陸上でおこないます。開発などによって生息環境がせばめられ、数が減っているため、絶滅が心配されています。

 珍獣として珍重されているコビトカバさんですが、この種が特定されるまで、長い歴史があったのです。

 19世紀後半、暗黒大陸と言われていたアフリカの夜明けの時代。

 伝説上の動物や民話の中の動物が、続々と真実の姿を現した動物の中にコビトカバがいます。

 原住民の間で、この動物は、悪魔の力をもつおそろしい動物として語り継がれ、また、巨大な黒い豚ともいわれている謎の動物だったのです。

 この動物が初めて文明社会に紹介されたのは、1841年のことですが、それが実在の動物として人々の目に明らかにされたのは、1912年。実に約半世紀以上を過ぎてからのことでした。

 発見のきっかけはこうです。

 アメリカ人の医者で、フィラデルフィア・アカデミーの副会長であったサミュエル・G・モートンが、リベリア地方を旅行して戻った友人からこんな話を聞いたのです。
“リベリアの奥地には、水辺にカバがいる。それは、まるでヤギのように小さい。原住民のあるものは、これをつかまえて、時に食用に供する”と。

 もちろんモートンは、この話に疑いを持っていましたが、それから2年後に、現地からそれらしき頭骨を入手することになり(ヤギよりはかなり大きかったけれども)、ついに新しい小型のカバとして、コビトカバ、ヒポポタマス・ミノール(Hippopotamus minor)と命名したのでした。

 しかし、この頭骨をより深く研究史したモートンの友人ジョーセ・リディは、この小さなカバが、単に大きなカバの小型種にとどまるものではなく、むしろ、ずっと昔に栄えた原始的な種類にちがいないと考え、コエロプシス・リベリエンシス(Choeropsis liberiensis ブタに似たリベリア産動物)と命名したのです。

 この学名は、現在でも使われていますが、命名は1853年のことでした。

 ところが、学会というのは不思議なもので、この科学的な立派な仕事は、そのまますんなりと受け入れられたわけではないのです。

 むしろ、時の大学者リチャード・オーウェンによって、このカバは、どうやら普通のカバの小さな一品種に過ぎない、と言われて、反論もなく、そのまま宙ぶらりんな形で時がすぎていったのでした。

 1870年には、アイルランドのダブリン動物園が、体重わずか14㎏のカバの子を入手しますが、これがナイルカバとは全く違うものであることが分かり、また、スイスの動物園ビニティスファーは、現地リベリアで、このカバについてのくわしい生態を調査報告したのです。

 しかし、何といっても決定的な仕事は、ハンブルグの動物商カール・ハーゲンベックによって企画され、ハンス・ションブルクによって実現した、コビトカバ捕獲計画でした。

 ションブルクは、一部の動物学者からは“いもしない動物をさがしに行く道化者”と笑われ、現地の黒人からは、“黒い悪魔をとらえるなんてとんでもない”と尻込みされ、さまざまな苦労を味わいながらも、ついに執念で、初志を貫徹したのです。

 1911年7月13日、彼は“伝説の動物”が今なお生き、原生林から川岸に向かってゆっくりと渡っているのを、目の当たりにしました。

 そして翌1912年、彼はハーゲンベックの期待通り捕獲に成功し、9頭の生きたコビトカバをとらえ、ヨーロッパにもち帰ったのです。

 これらは、その後、ニューヨーク動物園、ロンドン動物園に売られましたが、ニューヨーク動物園に入ったオス2メス1のうち、1頭は38年、ほかの1頭は39年間も生きたといいます。

 参考:『珍獣図鑑』中川志郎著(新潮社文庫)昭和56年10月25日発行


 こんな可愛い動物が『黒い悪魔』って呼ばれていたなんて、信じられないねえ。





 コビトカバは、原始的な形質を残したカバ科の動物で、コビトカバ属は遺伝学的に見ると一般的なカバであるカバ属から大きな差異が存在していて、かなり昔から分かれたとされるのです。

 森林を主な生息域とするのも、カバの祖先が森林に住む小型偶蹄目であったことの名残で、むしろ祖先から生態を変えなかったため形質が保持されたと考えられているそうです。

 コビトカバさんの横顔です。





 頭部は小型で丸みを帯びています。眼は突出しておらず。鼻孔は前方に開口します。前肢の2本の指にはほとんど発達していない水掻きがあります。

 普通のカバさんのように、鼻と目と耳が一直線で水上にでるようになっていません。
 
 だから、カバさんみたいに水中生活の時間は長くないのですが、泳ぎが得意です。



 今度は南紀白浜アドベンチャーワールドのコビトカバさんです。









 ここのコビトカバさんは、ミニカバさんと表示してありました。どうせ、人権団体から、コビトは差別語だっていちゃもんをつけられたんだろうね。

 学術用語なのにね。他にコガタカバと言い換えている人もいるんだって。





 水中を自在に泳ぐコビトカバさん。









 ということで、かつての幻の動物。つい100年前まで伝説の動物で、いまだに珍獣のコビトカバさんでした。









横浜の帆船「日本丸」はカッコイイねえ(下) 【ファイルT142】2011.01.20 

【ファイルT142】2011.01.20 横浜の帆船「日本丸」はカッコイイねえ(下)

船内も複雑だねえ。

 前回の記事の続きです。

 前回の記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51671140.html

 機関室です。

  




 日本丸は帆船ですが、ディーゼルエンジンも搭載してあって、無風時でも走行できるようになっています。

 それで、スクリュープロペラを動かすために、中央に600馬力の主機関(メインエンジン)が2基あります。

 池貝(いけがい)鉄工所製作の国産第1号、第2号の舶用大型ディーゼルエンジンです。

 稼働期間は1930(昭和5)年から1984(昭和59)年までの54年2ヶ月20日4時間7分という長いものでした。前部中央の大きな円筒形の物はボイラーです。

 この蒸気はウインドラス(揚錨機:ようびょうき)、操舵機(そうだき)、各所の浴室や調理室に送られます。冬期の船内の暖房もこの蒸気で行います。

 熱も効率的に利用しているのですね。

 帆走する日本丸の写真が飾ってありました。

  




 大航海時代を彷彿とさせますね。

 医務室です。

  




 手術台まであります。

 遠洋航海で急病人が出ても大丈夫だねえ。

 でも、荒波のときに揺れた船内で手術するのは、嫌だねえ。

 そういえば、北杜夫さんの『どくとるマンボウ航海記』は、作家の北杜夫さんが水産庁の漁業調査船の船医として乗り込んだときのお話でした。

 六分儀です。

  




 天体の高度を測って、現在位置の緯度、経度を測定します。


 ウォールランプです。

  




 これは船体の傾斜、揺れに対しても常に垂直になるよう工夫されている真鍮製ランプです。


 階段も立派です。

  




 調理室です。

  




 大きなお鍋だねえ。

 夜食を含めて、1日4回、10名程の事務部員が、百数十人分の食事を作ります。帆走中(はんそうちゅう)は、船が大きく傾いたままで料理することが多く、大変です。しかし、事務部員は実習生の旺盛な食欲にこたえるため、苦労も忘れて働きます。

 実習生の食堂兼講義室兼図書室です。

  




 日当たりが良くて、講義中は、よく眠れそうだねえ。

 船長公室です。

  




 公開中は船長の執務室で、海図を広げ、針路を検討したり、当直士官や実習生の報告を受けたりします。
 停泊中は来客の応接に使用され、世界中の港で、VIPの訪問を受けました。

 だから立派なのですね。

 船長私室です。

  




 船長室のあるフロアの廊下はVIPの来客もあるので、赤いカーペットが敷かれています。

  




 日本丸の誕生は、1930年、1月27日。第1船が神戸の川崎造船所で進水し、日本丸と命名されました。

 ホールの天井にはステンドグラスが嵌め込まれています。

  




 無線室です。

  




 いざとなったら、ここから『SOS』を発信するんだねえ。

 船尾にある手動舵輪です。

  




 帆走中はこの舵輪で舵をとります。普通は2名で行いますが、海が荒れてくると舵が重くなるため、後ろ側の舵輪も使用し、4名で行います。

 舵は左右35度ずつ動きますが、この舵輪一回転で舵は1度だけしか動きません。舵輪の柄の先についている真鍮が回すときの目印になります。

 風上側の操舵当番が帆に対する風の入り具合やジガーマストの上にある風見などを見て風向を知り、同時に前にあるコンパスで船の針路を見ながら、どれだけ舵を回すか判断し、風下側の操舵当番に号令をかけながら回します。

 フードの中に舵輪があるので、海が荒れている時に、後ろからの追い波で人が流されないようになっています。

 それにしても、荒波に揉まれている中を、飛沫を被りながらこの大きな二重舵輪に4人もしがみついて、回さなきゃなんないって、考えただけでも大変なことで、船酔いしそうだねえ。

 うっぷ。

 嵐の中、こんなところをよじ登るのは、もっと嫌だねえ。

  




 日本丸は、1984年(昭和59年)9月16日の退役まで、約183万kmを航海し、約11,500名の実習生を育てました。

 つまり、多くの海の男たちを育て巣立たせていった功労者なんですね。

 日本は海洋国家ですからね。

 その後、海洋練習船としての役割は後継の日本丸II世(現・日本丸)にバトンタッチしています。

 煙突も立派だねえ。

  




 ということで、名残りを惜しみつつ下船します。

  




 最後に日本丸の雄姿を再び。

  




  




 ということで、ここ横浜の地で、静かな余生を送っている日本丸でした。


 次回に続きます。

皇居東御苑(こうきょひがしぎょえん)=旧江戸城本丸を探索するよ(その14) 【ファイルET18】2011.01.17 

【ファイルET18】2011.01.17 皇居東御苑(こうきょひがしぎょえん)=旧江戸城本丸を探索するよ(その14)

大山巌元帥像から、インド大使館、千鳥ヶ淵、半蔵濠へ

 皇居東御苑について最初から読まれる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51135519.html

 大山巌(おおやま いわお)元帥の銅像もあります。





 この銅像は大正8 (1919)年11月3日に建てられました。

 原型作者は北の丸公園の北白川宮能久親王騎馬銅像を制作した新海竹太郎です。

 もとは、現在の国会前庭北地区洋式庭園(尾崎記念公園)にあったといわれていますが移設された時期については不明だそうです。

 第二次世界大戦後、GHQの指令で大日本帝国軍人の銅像が日本の軍国主義の象徴とされ次々と鋳潰(いつぶ)されるなか、この大山元帥像は破壊を免れました。

 それは、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが大山巌をナポレオンとならぶ英雄として畏敬し、その肖像画を自宅の書斎に飾るほどだったからだと言われています。

 大山 巌(おおやま いわお、天保13年10月10日(1842年11月12日) - 大正5年(1916年)12月10日)さんは、日本の武士、政治家、元老、軍人。元帥陸軍大将従一位大勲位功一級公爵。日本陸軍の創成期から日露戦争にかけて活躍した軍人です。

 天保13年(1842年)、薩摩藩士・大山彦八綱昌の次男として生まれました。

 大山巌は西郷隆盛の従兄弟(いとこ)で、西郷どん同様、大柄で肥満体だったそうです。

 薩英戦争で西欧列強の軍事力に衝撃を受け、幕臣江川太郎左衛門の塾で砲術を学びます。

 戊辰戦争では新式銃隊を率いて、鳥羽伏見や会津などの各地を転戦し討幕運動に身を投じます。

 12ドイム臼砲や四斤山砲の改良も行い、これら大山の設計した砲は「弥助砲」と称された。

 維新後の明治2(1869)年、渡欧して普仏戦争などを視察。明治3(1870)年から同6(1873)年の間はジュネーヴに留学します。

 陸軍では順調に出世し、西南戦争をはじめ、相次ぐ士族の反乱を鎮圧しました。

 なお、西南戦争では政府軍の指揮官として従兄弟の西郷隆盛を相手に戦うことを余儀なくされましたが、大山さんはこのことを生涯気に病み、二度と鹿児島の地に足を運ぶことはなかったそうです。

 しかしながら、西郷家とは生涯にわたって親しく交わり、特に西郷従道(さいごうつぐみち)とは強い盟友関係にありました。

 日清戦争では陸軍大将として第二軍司令官、日露戦争においては、元帥陸軍大将として満州軍総司令官に就任。

 両戦争で日本の勝利に大きく貢献し、同藩出身の東郷平八郎と並んで「陸の大山、海の東郷」として名をはせます。

 特に、日露戦争で満州軍総司令官として奉天(ほうてん)大会戦に勝利した大山巌元帥の名声は、世界を駆け巡りました。

 曰く、

「ナポレオン以来の戦略家」
「ブルドックの如き猛将」
「人格はグラント将軍、戦略はリー、ジャクソン両将軍に伍する」

 そういえば、満州の奉天といえば、世界的指揮者の小澤征爾(おざわせいじ)さんが生まれた地ですね。

 明治中期から大正期にかけて陸軍大臣を長期にわたって勤め、また、参謀総長、内務大臣なども歴任。

 元老としても重きをなし、陸軍では山縣有朋と並ぶ存在感を示しますが、政治的野心に乏しく、親戚の西郷隆盛が逆賊の汚名を受けたこともあって、元老の中では西郷従道と同様、総理候補に推されることを生涯忌避したそうです。

 大正5年(1916年)12月10日に死去。享年75歳でした。

 12月17日国葬により、こよなく愛した地、那須に葬られました。

 国葬に際しては、参列する駐日ロシア大使とは別にロシア大使館付武官のヤホントフ少将が直接大山家を訪れ、「全ロシア陸軍を代表して」弔詞を述べ、ひときわ目立つ花輪を自ら霊前に供えたそうです。

 かつての敵国の武将からのこのような丁重な弔意を受けたのは、大山さんと後の東郷平八郎の二人だけでした。

 ヤホントフ少将といい、マッカーサー元帥といい、敵将であっても、尊敬に値する人物に対しては敬意をはらうのは当たり前のことです。

 国のために命を賭して戦った、自分の先祖であるはずの軍人や軍隊を全否定する今の日本人が異常なのです。

 それにしても、大山巌も東郷平八郎も山本権兵衛も、西郷隆盛、大久保利道と同じ鹿児島城下下加冶屋町生まれですから、狭い地域に日本の歴史を変える人材が集中して生まれたというのは、凄いことですね。

 その経歴から無骨な印象のある大山さんですが、西洋文化への憧憬が強く、とてもハイカラな人で、後藤象二郎、西園寺公望らと共に『ルイ・ヴィトンの日本人顧客となった最初の人』として、ヴィトンの顧客名簿に自筆のサインが残っているという一面もあるそうです。


 さらにお濠端を進みます。

 インド共和国大使館です。





 とてもモダンな建物ですね。
 
 
 インドは長い間、イギリスの植民地でした。

 日本の日露戦争での勝利は白人に抑圧支配されていた有色人種に大きな希望を与えました。

 インドの独立に際しては、特に大東亜戦争時に日本はインド独立運動の闘士、ビハリ・ボーズ、A.M.ナイル、チャンドラ・ボースを支援しました。

 インパール作戦は無謀な作戦と評判が悪いのですが、この作戦にはイギリス支配下のインド独立運動を支援するという目的があり、インド国民軍6000人も作戦に参加しています。

 大東亜戦争は日本の敗北に終わりましたが、日本の奮戦が欧米列強の植民地支配にピリオドを打ったという歴史的意義は大きなものがあります。

 日本の降伏に伴って、インド国民軍も連合軍に降伏しました。

 そして英国が、インド国民軍の指導者たちを「反逆者」として軍事裁判にかけた時、インド各地で憤激した群衆が暴動を起こしたのです。

 さらに英海軍の一部であったインド人乗組員がボンベイ、カラチ、カルカッタなどで、一斉に反乱を起こし、これに呼応して各地でストライキが始まりました。

 インド全土での反乱には英国もなすすべもなく、1947(昭和22)年8月15日、ついにインドは独立を勝ち取ったのです。

 当時のアトリー首相は後に、なぜ連合軍として勝利した英国がインドから撤退したのか、と聞かれて、こう答えているそうです。

 『英印軍のインド兵の、英人指揮官に対する忠誠心が、チャンドラ・ボースのやった仕事のために、低下したということだ』

 つまり、日本とともに立ち上がったチャンドラ・ボースとインド国民軍の戦いが、インド国民の自由独立への思いに火を灯したのです。


 敗戦後、ゾウのいなくなった上野動物園に、インドから友情の証として、ゾウが送られてきました。

 その象の名前「インディラ」は、ネール首相自身が自分の娘であるインディラ・ガンディーにちなんで命名したということです。


 以前テレビを見ていたら、あの池上彰氏が、インドは親日だという説明をしていて、司会をやっていた確か土田晃之さんだっけかが、「どうしてインドは親日なのですか?」と当然の質問していました。

 ところが、池上彰氏は「インドの人は未来志向で、過去のことは許してくれている」というような趣旨の歯切れの悪い答えをしていました。

 さすがはNHK出身の評論家です。

 NHKは、日本人がインドの独立に協力したという歴史は余程抹殺したいようです。

 東南アジア諸国は日本が嫌いで、日本が好きな国は寛容の精神をもっている奇特な国だということにしたいようです。

 事実は、東南アジアでいまだに国策として反日の旗を振っているのは、中華人民共和国と朝鮮半島の国だけです。

 それ以外の国はおおむね親日的で、そこで起こる反日運動は、その国を支配している華僑・華人が誘導しているものなのです。

 NHKは外国の工作機関の出先であって、日本の放送局ではありません。


 千鳥ヶ淵(ちどりがふち)は公園になっていて、ボートもあります。

 千鳥ヶ淵のボート場です。





 お濠でボートを楽しむことが出来るんだねえ。

 千鳥ヶ淵は江戸開府後の江戸城拡張の際、局沢川と呼ばれていた川を半蔵門と田安門の土橋で塞き止めて造られたお濠です。

 代官町通りを境に接する半蔵濠とはかつて繋がっていましたが、1900年(明治33年)に道路建設のため埋め立てられ別々のお堀となりました。

 千鳥ヶ淵付近は桜の名所として有名で、桜の季節になると多くの人で賑わいます。

 千鳥ヶ淵緑道を挟んだ反対側には千鳥ケ淵戦没者墓苑があるのですが、ここは後でお参りしました。

 半蔵濠です。





 ということで、長くなったので次に続きますね。

神戸市立王子動物園のチンパンジーのジョニーさんは日本最長寿だよ! 【ファイルC212】2011.01.15 

【ファイルC212】2011.01.15 神戸市立王子動物園のチンパンジーのジョニーさんは日本最長寿だよ!

写真を差し替えた記事です。

 以前、本ブログの

【ファイルC67】2008.10.19 神戸市立王子動物園のチンパンジーのジョニーさんは日本最長寿だよ!
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/45134191.html
 
 におきまして、ジョニーさんと間違えて、チェリーさんの写真を掲載いたしました。お詫びいたしますとともに、今回ジョニーさんの写真の記事を改めてアップいたします。

 今回の記事の写真は、オランウータンの赤ちゃんの記事を取材したとき撮影したもので、2009年8月のものです。その旨ご了承ください。

 オランウータンの赤ちゃんの記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/49144960.html


 なお、ジョニーさんは最近体調を崩したらしいのですが、回復に向かっているようです。

 もう60歳を過ぎた日本一の超高齢ですからね。

 ということで、まず、最初に王子動物園に掲示してあったチェリーさんの写真パネル





 チェリーさんに再登場いただきます。





 このとおり、チェリーさんも貫禄があるので、ジョニーさんと間違えてしまいました。

 それで、こちらが王子動物園に掲示してあったジョニーさんの写真パネル





 チェリーさんに似ていますが、良く見ると、面長で額の横幅がチェリーさんより狭く、鼻の左に皺があって、左肩の毛が立っています。

 ということで、列の後尾で悠然と歩いているのがジョニーさんのようです。





 日本一長寿のチンパンジーさんを間違えてはいけないねえ。

 失礼しました。ごめんなさい。

 貫禄があるねえ。





 まだまだ木に登るのもお手の物。





 これからも元気でいてほしいねえ。





 ついでに、この時愛想良くごあいさついただいたユキさん。









 ということで、みなさん、これからもお元気でいて欲しいですね。

 ジョニーさんもお大事に!

 ということで、改めてジョニーさんの勇姿でした。








白浜アドベンチャーワールドのクジラ・イルカさんのショーだよ(下) 【ファイルC211】2011.01.12 

【ファイルC211】2011.01.12 白浜アドベンチャーワールドのクジラ・イルカさんのショーだよ(下)

二段ロケットジャンプだよ。

 今回はマリンライブの記事の続きです。(上)から年をまたいだので、足かけ3年越しの記事になっちゃったねえ。


 ストーカー・イルカさんに追っかけられるお姉さん。





 泳ぐクジラさんの鼻先に乗るお姉さん。





 お姉さんのほっぺにキス。





 イルカさんがジャンプして、その上に乗っかったお姉さんが、更にジャンプしています。





 二段ロケットみたいだねえ、

 クジラさんに押されて、猛スピードで水面をダッシュするお姉さん。





 クジラさんペアに乗ったお兄さん。




 
 二人のクジラさんが離れると、お兄さんが股裂きになるので、クジラさんは上手に距離を保ちつつ泳いでいます。


 ジャンプした二人のクジラさんから、お兄さんがジャンプ!





 お兄さんはわざと、おどけて膝をまげて飛び込みます。

 お客さんは大喜び!

 イルカさんのジャンプ!









 イルカさんの立ち泳ぎ。





 最後にもう一度ボールをキック。





 ショーが終わって、客席に遊びに来たイルカさん。





 さようなら、元気でね。


 オリンピックには馬術の障害飛越競技(しょうがいひえつきょうぎ)という種目がありますが、クジラ・イルカ術のクジラ・イルカ、お兄さんお姉さん混合シンクロナイズドスイミングいう種目ができたら、日本チームは上位に入ること請け合いです。

 でも、お馬さんの移動より、クジラ・イルカさんの移動やコンディショニングの方が大変だから、実現は難しいでしょうね。

 この記事の題名にクジラ・イルカさんのショーと書きましたが、最近は芸とか、見世物を連想させる『ショー』という言い方は忌避(きひ)されているようです。

 『ライヴ』なんですね。

 ここの近くにある、同じ和歌山県の太地町には、いまだにシーシェパードが常駐して、漁師さんと揉めているように、クジラ・イルカを食べたりすることはもちろん、こうやって人工的に飼うこともライブをすることも動物虐待になるという人達がいるようです。

 でも、野生生物ってぎりぎりの厳しい環境の中で生きているのですね。

 クジラ・イルカにとって野生が楽な環境なら、世界の海はクジラ・イルカだらけになるでしょうから。

 人口問題で悩んでいるのは、ある程度自然環境をコントロールできる人間だけです。

 普通の生物なら、他種との競争、種内での闘争、餌不足、伝染病等といった厳しい環境の中で増加した個体数が間引かれ、生態系のバランスがとれているのです。

 もちろん、例え自然にはそういう厳しい環境があったとしても、自然から切り離され、人工環境で飼育されるクジラ・イルカさんは果たして本来の種としてのクジラ・イルカと言えるかというと、難しいのですね。

 私もそれは否定しません。

 でも、そういう問題があって、なおかつ、こうやって人間が直接本物のクジラ・イルカさんと触れ合え、その能力に驚き、生態が研究されて彼らを身近な存在として感じられるならば、これはクジラ・イルカの保護にとって、大きな成果をもたらすと思います。

 だから、クジラ・イルカさん達には不自由だろうけど、ごめんなさいっていうことですね。

 クジラ・イルカさん本人達は、頭が良いから、「天敵はいないし、餌に不自由することはないし、遊んでもらえるし・・・。だったらここでお兄さんお姉さん達と楽しんで暮らそう」って考えているのかもしれません。

 いくら餌をもらえるからといって、嫌だったら、こんな見事なショーは披露できないでしょうからね。

 逆に芸が下手だから、サボるから餌を減らすなんて、施設の側は絶対できませんからね。

 ここの今まで見てきた水族館・動物園の生き物たちは、それぞれ限られた環境の中で、楽しみを見つけている様に見えますし、スタッフの方も、そのために懸命な努力をされているように思います。

 せっかくこういう場があるのですから、人間以外の動物と、これからも沢山会っていきたいと思います。






アメリカの食料は果たして大丈夫か? 【ファイルC210】2011.01.09 

【ファイルC210】2011.01.09 アメリカの食料は果たして大丈夫か?

日本の食料事情にも直結するんだけどね。

 今回は、気になることについて書きます。

 最初にこの画像を見てください。

アメリカを上空から俯瞰したグーグル・アースの画像です。


 カンザス州の農場。





 部分部分、色が違うのは、広大すぎて、部分部分で撮影した季節が違うからです。

 カンザス州の農場のアップ。





 コロラド州の農場。





 テキサス州の農場。





 もう一つテキサス州の農場。





 なんじゃこりゃ?!と思うでしょう。

 この正確な円形の幾何学模様は、宇宙人の描いたミステリーサークルじゃなくて、アメリカの農場の写真です。まるで石油コンビナートです。

例えば、日本の田んぼの風景を見てみましょう、


 コシヒカリで有名な新潟県魚沼市(うおぬまし)の水田地帯です。





 高高度から見た広大なアメリカの写真と違って、狭い地域を拡大しています。

 普通、田畑というのは、こうやって河川から水を引いて、実に美しい模様を織りなしています。

じゃあ、アメリカの農場はどこから水を引っ張っているのかということです。


実は井戸で地下水を汲み上げているのです。


その汲みあげた水をスプリンクラー(センターピボット)で散水するから、その水の及ぶ範囲が農地で、だからこそ、こういう風に、正確な円形の畑なのです。


 平均的な円状の畑の半径は約400メートルあり、一つの円が約50ヘクタール(東京ドームの約13個分)と巨大なものです。

ですから、アメリカの農地というのは、井戸の本数で値段が決まると言います。


 そりゃそうでしょ?

 水が無ければ、いくら土地があっても、農産物は育ちませんから。

 ここで問題にしたいのはこの井戸の水です。

日本で井戸の水というのは、普通、山に雨が降って水が土にしみこんで、それが地下の伏流水になって、流れています。だから、無茶な取水をしなければ、順次補給されます。


 それでも、時々井戸替えとかしなければなりません。

『○○のおいしい水』とか、『○○の深層水』とか、『○○の天然水』とかいった水はこうしたお水です。

ところが、アメリカの農地の井戸水はそういった水と違うのです。


『オガララ帯水層』という地下水なのです。


オガララ帯水層(オガララたいすいそう、英語:Ogallala Aquifer)は、アメリカ合衆国中部、グレートプレーンズの地下に分布する浅層地下水層で、ハイ・プレーンズ帯水層(High Plains Aquifer)とも呼ばれています。


世界最大級の地下水層で、総面積は450,000km²(日本の国土の約1.2倍)におよび、同国中西部・南西部8州にまたがっているのです。


 サウスダコタ州
 ネブラスカ州
 ワイオミング州
 コロラド州
 カンザス州
 オクラホマ州
 ニューメキシコ州
 テキサス州

オガララ帯水層はどうやってできたかというと、簡単に言えば、その大部分が大昔の氷河期にできた氷が地中に閉じ込められた水なのです。


つまり『化石水』なんですね。


石油のことを化石燃料と言いますが、油田にある石油は汲み出し尽くしたら、それで終わりです。使い切りの資源なのです。


 それとおなじで、もともと、この辺りは、乾燥地帯で、降雨量が少なく、染みこむ雨水なんて、たかがしれているので、

ここ、オガララ帯水層の地下水は汲み尽くしたら枯れて終わりなのです。


 ですから、スプリンクラーの水が届かない場所は『綺麗に荒れ地(?)』なのです。

 事実、オガララ帯水層の水位は年々低下傾向にあるそうです。

 はっきり言って、こんな農地は異常です。

ところが、このオガララ帯水層の位置しているグレートプレーンズは、アメリカ合衆国有数の穀倉地帯で、小麦をはじめ大豆やとうもろこしを多く生産するこの地域は、しばしば「アメリカのパンかご」(Breadbasket of America)と呼ばれているのです。


 また、この場所は、全米有数の畜産地域でもあります。

降水や地表水の少ない乾燥地帯にありながら大規模な農業開発に成功したのは、ひとえにオガララ帯水層の地下水を用いた灌漑によるものなのです。


そして、その地下水はやがて枯れて、アメリカの農業は終焉します。



現在、アメリカは輸出が輸入を上回る、農業国家という一面を持っています。


石油の価格や供給量は石油メジャーが牛耳っていますが、同様に穀物の価格や供給量は穀物メジャーが牛耳っています。


 巨大穀物メジャートップのカーギル (英語:Cargill)は、アメリカに本社を置いています。

 

例えば、日本の食に欠かせない大豆なんて殆ど輸入です。


 米国からの食糧輸入の中心は穀物で、平成18年でいえば、全輸入量のなかで小麦の53.8%、大豆の76.5%、トウモロコシに至っては96.3%を米国に依存しているのです。

 大豆がなければ、醤油も豆腐も味噌も納豆もできません。

 事実、昭和48(1973)年、アメリカが大豆の輸出規制をしたとき、豆腐の値段が2~3倍に高騰し、大騒ぎになったことがあります。

 日本の大豆事情はその頃より、悪化しているのです。

 小麦がなければ、うどん、ラーメンもパスタもパンも、お好み焼きもたこ焼きも、粉もんはアウトです。

 「私はトウモロコシなんて滅多に食べないし」って言っても、家畜の餌がアメリカ産のトウモロコシだったりします。

 というより、私たちは日本産の鳥や豚肉や牛肉を食べているつもりでも、間接的にアメリカの農産物を食べているのです。

 卵の黄身の色はトウモロコシの色で決まるそうです。

戦後の日本人の肉食化や、学校給食でのパン食は日本人の食生活を変え、食による支配を行おうとしたカーギルをはじめとしたアメリカの穀物商社の意向だと言うことは、有名な話です。


なのに、日本では、


 ※  ※  ※

 [ワシントン 2010年10月25日 ロイター] キャンベル米国務次官補(東アジア・太平洋担当)は25日、日本が環太平洋戦略的経済パートナーシップ協定(TPP)に関する協議への参加に関心を示していることを歓迎すると述べた。

 ※  ※  ※

おめでたいにもほどがあります。


こんなものを認めて、農産物の関税を撤廃すれば、日本の農家は壊滅状態になります。


先ほどの航空写真を見たら、一目瞭然でしょう。規模が違います。最初から競争になりません。


 アメリカのつくったルールですから、アメリカが得して日本が損するに決まっています。

 この前の金融ビッグバンや、スポーツのルール改正を思い浮かべれば十分でしょう。

 そもそも貿易問題なら、世界貿易機関(WTO)があるでしょう?

 アメリカは世界貿易機関(WTO)においてはただの一国です。だからアメリカのゴリ押しはWTOでは通りにくいのです。

 それで、アメリカはWTOから軸足をはずし、各国との個別協定に持ち込みたいのです。

 各国との個別協定になると、武器と資源と政治力を持った強国の方が圧倒的に有利です。

 アメリカ大陸には、すでにNAFTA(北米自由貿易協定)という自由貿易圏があります。NAFTAはアメリカ、カナダ、メキシコの3ヶ国だけの自由貿易協定ですが、この3国間では関税などなしに自由に貿易を行うことができます。このような自由貿易圏を太平洋周辺の広い地域で作ろうというのが、TPPの構想です。

TPP推進論者が、「日本も『とちおとめ』のようなブランドいちごは国際競争力がある」って、トンチンカンなことを言っていました。ブランドいちごは嗜好品です。


それこそ「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」って言ったどこかの国の王妃じゃあるまいし。



これまでも世界的な規模での飢饉は何度もありました。それを日本人が知らないのは、金にものを言わせて食料を買いたたいてきたからです。その分、飢餓を輸出してきたのです。


自分の国の食料は自分の国で何とかするというのは、国民の生命に関わる問題です。


アメリカのブッシュ大統領は、2001年の演説で「食料を自給できない国を想像できるか。そんな国は国際的な圧力と危険にさらされている国だ。…アメリカ国民の健康を守るため輸入食品に頼らなくていいことはなんとありがたいことか」といいました。


「食料を自給できない国を想像できるか?」って、そりゃアンタ、日本のことだよ!


その舌も乾かぬうちに、国内農業の保護撤廃で日本に食料輸入を要求する厚顔無恥ぶりにはあきれかえります。


さらに、それに同調する日本人がいるのが信じられません。


第一、日本の農業が崩壊した後、アメリカに食糧危機が来たとして、アメリカはアメリカ国民を飢えさせてまで、日本に食料を輸出するのでしょうか?


するわけないでしょう!


石油や二酸化炭素がどうのこうの言うより、こちらの方がよほど重要なのだと思うのですが・・・。











横浜の帆船「日本丸」はカッコイイねえ(上) 【ファイルT141】2011.01.07 

【ファイルT141】2011.01.07 横浜の帆船「日本丸」はカッコイイねえ(上)

帆船はロマンを誘うねえ。

 夜景の記事でもご紹介しましたが、ランドマークタワーの前にある横浜市日本丸メモリアルパークには日本丸が係留してあります。

  




 横浜の夜景の記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51615770.html

 港町横浜にふさわしい、カッコイイお船だねえ。

 日本丸は、日本の航海練習船で大型練習帆船でした。

 その美しい姿から、「太平洋の白鳥」や「海の貴婦人」などと呼ばれています。

 日本丸の主要諸元は以下の通りです。

船種(帆装型式) - 4檣バーク型帆船
総トン数 - 2278トン
全長 - 97 m
全幅 - 13 m
メインマスト高 - 46 m(水面からの高さ)
吃水 - 5.3 m(平均)
総帆数 - 29枚
定員 - 138名
他 - ディーゼル機関による機走可能

 日本丸は約半世紀にわたり活躍し、1984年(昭和59年)に引退しました。姉妹船として海王丸があります。

 大阪吉本新喜劇の島木譲二(しまきじょうじ)さんの決め台詞に「カンカンヘッドは男のロマン」というのがあります。

 島木さんにとっては、灯油の一斗缶を頭に打ち付け凹ませるのが男のロマンなのでしょうが、一般的に帆船もロマンを誘いますね。

 
 帆船なのですが、帆を張る時期は限定されていて、普段は帆柱だけの状態です。

  




 全ての帆を張った状態を『総帆展帆(そうはんてんぱん)』といいます。

 でも、普段はこの通り、帆を張っていません。

『総帆展帆』を見に行かれたい方は、実施日をこちらで確認してくださいね。
http://www.nippon-maru.or.jp/event/souhan.html


 それで、展示公開されている日本丸は、中を見学できるようになっています。

 間近で見ると、余計にカッコイイねえ。

  




 大きな碇ですね。

  




 救命ボートです。

  




 いざとなったら、これに乗ってスタコラ逃げるねえ。

 羅針盤(コンパス)です。

  




 操舵(そうだ)室です。

  




 操舵輪がカッコイイねえ。面舵いっぱ~い!

「傘寿(さんじゅ)」って書かれた布が張ってあります。

  




 傘寿って八十歳のお祝いだねえ。

 日本丸(にっぽんまる)は、1930年(昭和5年)1月27日、兵庫県神戸市の川崎造船所で進水しました。長い間、潮風に曝され、波にもまれたんだねえ。

 帆を張るときはマストによじ登って帆を張るんですね。

 大変だねえ。私は高いところは苦手だよ。

  




 黒いイカリと、写真中央の白い『ネコ』とその右下に2つ緑の『チョウ』です。

  




 写真の真ん中の白い滑車が『ネコ(CAT)』です。

 いかりを上げ下げするときに使う組滑車(くみかっしゃ:英語でテークルといいます)をキャット・テークルといいます。

『ネコ(CAT)』の右下の緑のイカリ止め金具が2つ見えているのが『チョウ(バタフライ BUTTERFLY)』です。

 いかりは落ちないように金具で止められています。金具を回してしめる部分をナットといいます。
ナットの先の左右に開いた形がチョウ(英語でバタフライといいます)に似ているので、バタフライ・ナットとよばれています。


 金属のボールに景色が映っています。

  




 甲板はロープだらけです。

  




  




 足に絡まったら危ないねえ。

 木の棒が並んでいますが、これがキャプスタンバーです。

  




 キャプスタン(CAPUSTAN)です。

  




 これは、船を岸壁に着けるときに係留索(ロープ)を巻いたり、帆を取り付けるときなどに使う巻き上げ機です。

 ロープをまく時に使うキャプスタンには棒をさしこむ穴があります。

 この穴をピジョン・ホールといいます。ハト(英語でピジョンといいます)が入る穴(英語でホールといいます)という意味です。


 ピジョン・ホールに先ほどのキャプスタンバー(木の棒)を差し込み、それを人力で押して回すことにより、強い力でロープを巻き取ることが出来ます。

 内部の2段の歯車の働きにより、キャプスタンバーを左右どちらに押しても、ロープを右回りに巻き取ります。キャプスタンバーを左回りに押すと、右回りに押すときよりも強い力で巻き取ることができます。


 きせる型通風筒(つうふうとう)です。

  




 船内の換気のための空気の取り込み口です。

 外気を有効に入れるために、風向の変化に合わせて筒の部分を回すことができます。


 足ふきマットも編み込んだロープでできています。

  




 ロープの結び目の見本です。

  




 用途に応じて、沢山種類があるんだねえ。

 ネクタイでもウインザーノットとか、プレーンノットとか結び方があるし。

 一般船室です。

  




 凪だと良いけど、嵐の大波の時なんか、寝るどころじゃないだろうねえ。

 私は船酔いに弱いので、船乗りにはなれそうにもありません。

 ということで、次に続きますね。








皇居東御苑(こうきょひがしぎょえん)=旧江戸城本丸を探索するよ(その13) 【ファイルET17】2011.01.04 

【ファイルET17】2011.01.04 皇居東御苑(こうきょひがしぎょえん)=旧江戸城本丸を探索するよ(その13)

九段板、蕃書調所跡、高燈篭、子爵品川彌治郎像

 皇居東御苑について最初から読まれる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51135519.html

 皇居東御苑とは離れますが続きます。

 今回は九段から半蔵門に至るコースを歩きます。

都営新宿線九段下駅の4番出口で出たところには、昭和館があり、前に蕃書調所跡の碑が建っています

 蕃書調所(ばんしょしらべしょ)跡です。





 蕃書調所とは、幕府によって設立された洋学研究機関です。

 嘉永6年(1853)のペリー来航以後、洋式軍事技術導入や外交上の要請から時の老中阿部正弘のもとで、従来の天文台蛮書和解御用掛を拡充し、安政2(1855)年、神田小川町に「洋学所」が開設されました。

 しかし、これが開設直後の安政の大地震で全壊焼失したため、安政3年2月11日(1856年3月17日)「蕃書調所」と改称し、九段下の竹本主水正屋敷にて古賀謹一郎を頭取、箕作阮甫・杉田成卿らを教授として、同年末(安政4年1月)に開講しました。

 その後、井伊直弼政権期には洋学軽視政策の影響で、万延元(1860)年、小川町の狭隘な講舎に移転されますが、文久2(1862)年に一ツ橋門外「護持院原」(現在の神田錦町)の広大な校地に移転し、学問所奉行および林大学頭の管轄下に入り昌平黌と同格の幕府官立学校となります。

 同年6月15日(旧暦5月18日)「蕃書」の名称が実態に合わなくなったことを理由に「洋書調所」と改称、翌文久3年8月29日(1863年10月11日)「開成所」と改称されました。

「開成」という言葉は、支那の『易経』繋辞上伝の中の「開物成務」(あらゆる事物を開拓、啓発し、あらゆる務めを成就する)に基づくといわていて、翻訳学問だけでなく、みずから学を実務に繋いでいくという意図を込めたものでした。

 その後、幕府の崩壊により一旦閉鎖されますが、慶応4(1868)年6月13日の布告により医学所とともに明治新政府に接収され、同年(明治元年)9月12日、官立の「開成学校」として再興します。

 開成学校はのち医学校(医学所の後身)と統合され(旧)東京大学が発足したため、開成所は現在の東京大学の源流と見なされています。

 要するに東大の前身なんだねえ。

 九段坂です。





 道の向こうに見えているのは、靖国神社です。靖国には後でお参りしました。


 昔の九段坂です。





 今と違って、えらく急な坂だったんだねえ。

 案内柱にはこう書かれています。

 ※  ※  ※  ※

 九段坂(くだんざか)は、古くは飯田坂ともよびました。

「新撰東京名所図会(しんせんとうきょうめいしょずえ)」には「九段坂は、富士見町の通りより、飯田町に下る長阪をいふ。むかし御用屋敷の長屋九段に立し故(ゆえ)、之を九段長屋といひしより此阪をば九段阪といひしなり。

 今は斜めに平らかなる阪となれるも、もとは石を以て横に階(きざはし)を成すこと九層にして、且つ急嶮(きゅうけん)なりし故に、車馬(しゃば)は通すことなかりし(後略)とかかれています。

 坂上は、月見の名所としても名高かったようで、一月二十六日と七月二十六日には、夜待ちといって月の出を待つ風習があったといいます。

 ※  ※  ※  ※

 高燈篭(常燈明台)です。





 靖国神社正面の常夜灯として明治4年(1871)に建設されました。

 靖国神社(当時は東京招魂社)に祭られた英霊のために建てられたといわれています。

正式には高燈篭といいますが、常燈明台ともいわれています。

 当時、九段坂の上からは、遠く筑波山や房州の山々まで見渡すことができ、品川沖を行きかう船にとっては大変良い目印として灯台の役目も果たしました。

 当初は靖国通りをはさんで反対側に建てられていましたが、道路の改修に伴い昭和5年(1930)に現在地に移転しました。


 少し行くと子爵品川彌治郎(しながわやじろう)卿像が建っています。





 この銅像の制作監督は、上野の西郷隆盛像や皇居前の楠木正成像の制作で知られる高村光雲。原型作者は木山白雲、鋳造者は平塚駒次郎。

 品川 弥二郎(しながわ やじろう、天保14年閏9月29日(1843年11月20日)- 明治33年(1900年)2月26日)さんは、日本の武士(長州藩士)、政治家。勲一等子爵です。

 長州藩の足軽の長男として生まれ、安政5年(1857年)、15歳で松下村塾に入門して吉田松陰の教えを受けますが、安政7(1859)年に安政の大獄で松陰が刑死すると、高杉晋作らと行動を共にして尊王攘夷運動に奔走。イギリス公使館焼き討ちなどに加わっています。

 元治元(1864)年の禁門の変では八幡隊長として参戦し、のちに太田市之進、山田顕義らと御楯隊を組織し、慶応元(1865)年、木戸孝允と共に上京して情報収集と連絡係として薩長同盟の成立に尽力しました。

 戊辰戦争では奥羽鎮撫総督参謀、整武隊参謀として活躍。

 明治維新後の明治3年(1870年)、渡欧して普仏戦争を視察するなどドイツやイギリスに留学します。内務大書記官や内務少輔、農商務大輔、駐独公使、宮内省御料局長、枢密顧問官などを歴任。明治17年(1884年)、維新の功により子爵を授けられました。

 明治24年(1891年)に第1次松方内閣の内務大臣に就任しますが、次官の白根専一とともに警察を動員して強力な選挙干渉を行ない死者まで出したとして、引責辞職を余儀なくされました(この選挙干渉の虚実については、諸説があるそうです)。

 その後は西郷従道と協力して政治団体・国民協会を組織し、晩年は、吉田松陰の遺志を継ぎ京都に尊攘堂を創設し、勤王志士の霊を祀るとともに、志士の史料を集めました。

 なお、戊辰戦争の際、新政府軍が歌った「トコトンヤレ節」(「宮さん宮さん」)は、品川弥二郎さんが作詞をしたとされているそうです(作曲は大村益次郎)。

「トコトンヤレ節」(「宮さん宮さん」)はこちら。
http://www.youtube.com/watch?v=DVc-UNU48g0&feature=related

 ということで、次に続きます。

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