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大阪市中央公会堂(旧中之島公会堂)は大正公会堂建築の代表的建物   【ファイルT146】2011.02.26 

【ファイルT146】2011.02.26 大阪市中央公会堂(旧中之島公会堂)は大正公会堂建築の代表的建物

赤煉瓦の建物は、大阪商人の心意気で、大阪のシンボルでもあるねえ。

 先日、横浜市開港記念館の記事をUPしました。
 東の代表的な大正時代の公会堂建築が、横浜市開港記念館だとしたら、
 西の代表は大阪中之島にある中之島公会堂です。
 
  




 意匠はネオ・ルネッサンス様式を基調としつつ、バロック的な壮大さを持ち、細部にはセセッション(ウィーン分離派:ゼツェッシオンともいう)の様式を取り入れているそうです。

 細かい赤レンガに丸窓です。

 




 青銅屋根はウロコのようですね。

 




 庇の模様も凝っています。

 




 広い窓で外光を取り入れています。

 




 テラスもお洒落。

 




 外灯も立派だねえ。

 




 正面入り口です。4本の柱からなるジャイアントオーダーと、半円の大アーチが特徴的です。

 




 窓にはステンドグラスが。

 




 柱頭はコンポジット式(複合式)になっています。

 




 全景です。屋根の上に人が?!

 




 屋根の上にあるシンボル像です。

 




 二人の神様の像は大東亜戦争の金属供出で長い間失われていたのですが、平成14年(2002)年完成の保存・再生工事の際に、再現されました。

 医学・知恵・商業・製織・工芸・魔術を司るローマ神話の女神「ミネルヴァ(写真右)」と商業の神「メルクリウス(左)」の像です。

 ローマ神話のミネルヴァ(メンルヴァ)はギリシャ神話のアテナです。
 音楽の発明者でもある戦いの女神のアテナは、女の聖なる動物であり、知恵の象徴でもあるフクロウと共に描かれることが多いのですが、この像はフクロウさんを連れてきていないようですね。

 ミネルヴァ(メンルヴァ)=アテナは、ヘラ、アプロディテ(ヴィーナス)とともにトロイア戦争の原因となった『パリスの審判』に出てくる女神様です。アッティカ地方の首府アテナイ(現在ギリシャの首都アテネ)はアテナの名に由来します。


 ローマ神話の神、メルクリウス(英語読みでマーキュリー)はギリシャ神話のヘルメースです。そのため、ゼウス(ユーピテル、ジュピター)とマイアの子で神々の使者、科学・商業・盗人・賭博・旅人の守り神・冥土の案内者として、翼のある帽子とサンダルを身につけ、2匹の蛇が巻き付いた杖(カドゥケウス)を持った若者の姿で描かれています。

 メルクリウス=ヘルメースが『盗人の神』でもあるのは、生まれ落ちてすぐに、ゆりかごから抜け出してアポロンの飼っていた牛を盗んだからで、いたずら者の元祖トリックスターです。

 ヘルメースは、フランス語読みでは『エルメス』で、馬具工房として創業した高級バッグで有名なエルメス・アンテルナショナル社の創業者ティエリー・エルメスさんの苗字はこの神様に由来するんでしょうね。

 尖塔も格好いいねえ。

 




 大阪市中央公会堂の概要は以下の通りです。

規模― 地上3階、地下1階
構造― 既存部:鉄骨煉瓦造+増築部:RC造
設計原案― 岡田信一郎
設計― 公会堂建設事務所
建築顧問― 辰野金吾
工事監督― 片岡安
竣工―大正7( 1918)年
再生工事竣工― 平成14(2002)年


『大阪市中央公会堂』は、1918(大正7)年11月に完成以来、コンサートやオペラ、講演会などが次々と開催されるなど、大阪の文化の中心として活躍した建物です。

 その建設に当たって、莫大な私財を投じながら、完成を待つことなくこの世を去った人物がいました。

 それが、『義侠の相場師』ともいわれた株式仲買人、岩本栄之助(いわもと えいのすけ)さんです。


 岩本栄之助さんは、は明治10(1877)年、大阪市南区(現在の中央区)にあった両替商「岩本商店」の次男として生まれました。

 明治30(1897)年に日露戦争に出征。除隊後の明治39(1906)年3月に家督を継ぎ、大阪株式取引所の仲買人になります。

 それから僅か2ヶ月後の5月、北浜の大阪株式取引所を日露戦争終結に端を発する空前の暴騰が襲い、株価は急騰し「買えば必ずもうかる」という状態になりました。

 このとき、北浜の仲買人の大半は、いずれ暴落することを見越して売方に回っていました。バブルはそのうち弾けますからね。

 しかし、株価の暴騰は止まるところを知らず、多くの仲買人は破産寸前の状況に追い込まれることになったのです。

 そこで彼らが頼ったのが栄之助さんでした。

 手堅く買方に回っていた栄之助さんに売方に転じてもらって、株価を下落させようとしたのです。

 虫が良いとも言える、この常識外れの懇願を栄之助さんは快諾。「父親の代からお世話になっている皆さんへの恩返しだと思って協力しましょう」と全財産をなげうって応えたのでした。

 この結果、翌年1月21日に株価は大暴落。

 売方である北浜の仲買人は破産を逃れ、莫大な利益を手にし、栄之助自身も大きな利益を得ました。
北浜の仲買人らは、「岩本さんには足を向けて寝られない」と感謝したそうです。

 常に「学問せなあかん」というのが口癖だった栄之助さんは、証券取引所で働く少年たちのために、私財を投じて塾を作るなどしたため、ますます人気が出て、『北浜(きたはま)の風雲児』と称えられました。

 その栄之助さんが、仲買人として働き出した当初から強い関心を抱いていたのが、株で得た利益を公(おおやけ)のために活かすことでした。

 明治42(1909)年、渋沢栄一が団長となった『渡米実業団』で初めて異国の地を踏んだ栄之助さんは、米国の富豪の多くが財産や遺産を慈善事業や公共事業に投じていることに、強い感銘を受け、蔵屋敷の廃止後衰退し再生を模索していた中之島に、どこにも負けないホールを建設しようと決意します。

 旅の途中、父・栄蔵の訃報を受け取り緊急帰国した栄之助さんは、明治44(1911)年、遺産の50万円に、自分の手持ち財産を加えた100万円(現在の貨幣価値でいえば数十億円)という巨額の寄付を大阪市に対して行いました。

 同年、それを受け大阪市は(財)中央公会堂建築事務所を開設します。

 大正元(1912)年に「懸賞金付き設計競技」を実施。早稲田大学教授・岡田信一郎氏の提案が一等に決定。

 大正2(1913)年(年)岡田氏の案を基に、東京駅の設計者・辰野金吾氏と片岡安氏が実施設計。同年工事に着手。

 公会堂建設が着々と進んでいる中、栄之助さんは大正3年(1914)年に一旦は株式仲買の第一線から身を引くのですが、翌年には再び株式仲買の世界に復帰。

 それが仇(あだ)となって、第一次世界大戦勃発の影響による高騰相場で、莫大な損失を出し、大正5(1916)年10月、自宅でピストル自殺の道を選びました。

 栄之助さんが生死をさまよった5日間、恩義のある北浜の仲買人らは、大阪天満宮で夜通しかがり火をたいて回復を祈ったのですが、その甲斐もむなしく、10月27日栄之助さんは永眠します。享年39歳でした。

 岩本栄之助 辞世の句
「その秋をまたでちりゆく紅葉哉」

 栄之助さんが夢見た公会堂は、18万4千人の職人と5年の歳月を経て栄之助さんの死から2年後の大正7(1918)年11月に完成。現在は国の重要文化財にも指定され、市民の文化・芸術の活動拠点として親しまれています。

 大阪商人の心意気がこの公会堂なのですね。


 完成後の大阪市中央公会堂の主な歩みです。

1919年(大正8年)ロシア歌劇団「アイーダ」を公演。
1922年(大正11年)声楽家、三浦環(みうらたまき)氏「お蝶夫人」を公演。
1923年(大正12年)イタリア歌劇団「椿姫」を公演。
1943年(昭和18年)大東亜戦争中の金属供出により、エレベーター・階段手摺り・シンボル像が撤去される。
1945年(昭和20年)大阪大空襲。被災者収容のため、公会堂の本来業務停止。
1946~1949年
(昭和21~24年)戦後、政党や労働組合を中心に多くの集会や講演会が開催される一方、ジャズや流行歌がもてはやされ公会堂は連日賑わった。
1955年(昭和30年)ヘレン・ケラー女史の講演会開催。
1962年(昭和37年)ガガーリン大佐の講演会実施。
1978年(昭和53年)60周年を迎えたこの頃、建物の保存について、大阪市は調査研究のため検討委員会を組織。
1988年(昭和63年)大阪市長、公会堂の永久保存と活用について表明
1989年(平成元年)朝日新聞社が創刊110周年記念事業の一環として、中央公会堂の保存運動を展開。
目標10億円の市民募金を呼びかけたところ、約1万3千の市民や企業がこれに賛同し、7億円あまりの募金が集められた。
1990年(平成2年)公会堂の将来構想を検討するため、大阪市は委員会を設置。
1996年(平成8年)保存・再生の基本設計がまとまる。
1997年(平成9年)ゴルバチョフ氏の講演会実施。
1999年(平成11年)3月工事に着手。
2002年(平成14年)9月完成。11月より使用を再開する。12月には、公会堂建築物として西日本で始めて国の重要文化財に指定される。

 参考:大阪市中央公会堂公式ホームページ
http://osaka-chuokokaido.jp/index.php


 私は、外観を見学しただけですが、大阪市中之島中央公会堂内については、定期的に特別見学会を開催しているそうです。

 中之島中央公会堂の内装は外観以上に素晴らしい出来映えです。

 これについては、お友達の、むにゅさんの素敵な記事を参考にしてくださいね。

大阪市中央公会堂特別見学会 その1
大阪市中央公会堂特別見学会 その2
http://blogs.yahoo.co.jp/munyuchan2002/54587223.html
大阪市中央公会堂特別見学会 その3
http://x6.yu-yake.com/bin/ll?07983941f
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東京世田谷の豪徳寺(ごうとくじ)は彦根藩の井伊さんと招き猫さんのお寺だよ(その1) 【ファイルET22】2011.02.23 

【ファイルET22】2011.02.23 東京世田谷の豪徳寺(ごうとくじ)は彦根藩の井伊さんと招き猫さんのお寺だよ(その1)

彦根城のひこにゃんの故郷だねえ。

 今回は皇居・江戸城から離れます。

豪徳寺は小田急に乗って行きました。小田急豪徳寺駅で降りてから徒歩約10分の場所にあります。






 彦根藩井伊家の菩提寺で、井伊直弼のお墓もある世田谷の豪徳寺は、ゆるキャラ日本一の彦根城主ひこにゃんの故郷(ふるさと)で、招猫観音(まねぎねこかんのん)をお祀りする、ねこ様好きならたまらない猫寺です。

 小田急豪徳寺駅前の道は、昔の参詣路や畦道をそのままなぞっているためか、斜めにいびつに通っているので、細くてへたくそなあみだくじをなぞるような感じです。

 お寺の木らしい緑が少し見えているので、そっちを目指して歩きます。

 お寺の塀に突き当たったので、左に回りました。





 そもそも、これが不幸の始まりでした。

 立派な木々が植わっています。





 格好いいねえ!

 この頃は、緑を愛でる心の余裕がありました。

 ようやく着いた門は裏門で、しかも閉まっていました。





 さらに前進します。

 コケの生えた塀や、





 生い茂った木々が、目を楽しませてくれます。





 やっと着いたかと思ったら、





 ここも閉まっていて、『豪徳寺正門は左側を左折して五十米先です(ここは東門です)』っていう張り紙が貼り付けてありました。

近江彦根藩(おうみひこねはん) 井伊家35万石の丸に橘(たちばな)の家紋が光っています。






 橘は古代名で、現在の「カラタチ」の花のこで、カラタチの名は唐橘(からたちばな)が詰まったもです。『井』のマークは井伊家の『井』かな?


 それでもって、結局、広大なお寺の敷地を4分の3周してやっと正門に付きました。





 右に回れば良かったよお!歩き回って損したよお!

『正門はこっち周りで』って矢印でも出してほしいものです。

こんな体験は小石川後楽園でやったことがあります。

『碧雲関』の額が掲げられています。






 この金具も、古そうだねえ。





 東京都世田谷区の説明版にはここ書かれています。豪徳寺の資料が集まらないので、説明版の引用でごめんなさい。

 大谿山 豪徳寺(だいけいざんごうとくじ) 曹洞宗

 豪徳寺は、世田谷城主吉良政忠(きらまさただ)が、文明12年(1480)に亡くなった伯母の菩提のために建立したと伝える弘徳院(こうとくいん)を前身とする。天正12年(1584)中興開山 門菴宗関(もんなんそうかん=高輪泉岳寺の開山)の時、臨済宗から曹洞宗に改宗した。

 寛永十年(1633)彦根藩世田谷領の成立後、井伊家の菩提寺に取り立てられ、藩主直孝の法号により豪徳寺と改称した。直孝の娘掃雲院(そううんいん)は多くの堂舎を建立、寄進し、豪徳寺を井伊家の菩提寺に相応しい寺観に改めた。仏殿とその三世仏像(さんぜぶつぞう)、達磨・大権修理(だいげんしゅり)菩薩像、及び石灯籠二基、梵鐘が当時のままに現在に伝えられている。

 境内には、直孝を初め井伊家代々の墓所があり、井伊直弼の墓は都史跡に指定されている。ほかに直弼の墓守として一生を終えた遠城謙道(おんじょうけんどう)、近代三大書家の随一日下部鳴鶴(くさかべめいかく)(いずれも旧彦根藩士)の墓、桜田殉難八士之碑がある。また同寺の草創を物語る、洞春院(とうしゅんいん=吉良政忠)と弘徳院の宝篋印塔(ほうきょういんとう)が残されている。

 平成四年三月 世田谷区教育委員会


山門から入ると、正面に大きな黒い香炉があります。寺の大きな行事の際には、ここに香がたかれ、白い煙が立ち昇ります。






 狛犬さんが、金色の鞠に前足をかけています。

 どことなく、猫さんっぽいねえ。

 このあたりは、春の桜、秋の紅葉がすばらしく、その時期は大勢の見物客でにぎわうそうです。

 立派な木が植わっています。





 お寺の鐘楼も立派です。
 




 この鐘楼の由緒書きです。

 豪徳寺の梵鐘:世田谷区指定有形文化財(工芸品)

 制作年代:延宝7(1679)年
 作者:近江大椽(だいじょう)藤原正次
 材質・構造:銅鋳造
 総 高:147.5㎝

 本梵鐘は、延宝7年に完成の後、今日まで移動無く当寺に伝えられてきた。

 姿形は、比較的細身で均整のとれた優美な姿を呈し、吊手の竜頭は力強くメリハリのきいた雄渾(ゆうこん)な造形で、細部の表現も精巧な出来映えである。撞座の意匠も独創的であり、工芸的に優れた完成度の高い梵鐘といえる。

 制作者の藤原正次は別に釜屋六右衛門とも名乗り、当寺江戸で名のあった鋳物師である。

 また世田谷代官大場市之丞吉寛が幹事となっている。

 本梵鐘は、この時期の梵鐘の一典型として、さらには、著名な鋳物師の力量を窺う作品として、美術工芸的に貴重である。

 また、区内に伝わる梵鐘としては現存最古であり、世田谷に縁ある人物がその制作にかかわるなど、近世世田谷の歴史を知るうえでも貴重な遺品である。


豪徳寺 仏殿です。






 世田谷区指定有形文化財です。

 豪徳寺 仏殿

 附:◎棟札(むなふだ)一枚
   ◎石灯籠 二基

 規模:桁行(間口)五間(実長17.76m)
    梁行(奥行)六間(実長15.82m)

 豪徳寺仏殿は、寛文から延宝年間にかけて行われた大造営事業の中心的建造物である。この事業を進めたのは、井伊直孝の妻春光院とその娘掃雲院のふたりである。

 仏殿は掃雲院が藩主直澄の菩提を弔うために延宝4年(1676)、建設に着手し、翌延宝五年(1677)に完成した。豪徳寺四世天極秀道の代で工匠星野市左衛門尉積則らが造営に当たった。

 当寺流行した黄檗(おうばく)様式の影響が随所に見られるとともに絵様肘木(えようひじき)など特異な様式が使われており、建築史学上、また技術的にも価値の高いものである。
 
 世田谷区教育委員会


 ということで、長くなったので次に続きますね。

次回【その2】はこちら。 ↓

http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51872337.html





名古屋市東山動物園のボンゴさんも珍獣だよ 【ファイルC216】2011.02.20 

【ファイルC216】2011.02.20 名古屋市東山動物園のボンゴさんも珍獣だよ

わ~い。これで世界の四大珍獣を制覇したよ!

 もう、かなり以前のことになりますが、名古屋市東山動物園に住んでいる珍獣ボンゴさんにごあいさつしました。

 こんにちは。





 ねじりんぼうのツノが格好いいねえ。

 奥にある小屋に入ったままで出てきてくれません。
 




 大きな耳だねえ。





 ボンゴは偶蹄目・ウシ科の哺乳動物です。

 英 名Bongo
 学 名Tragelaphus euryceros
 分 布シエラレオネからコンゴ、ケニア、スーダン
 生息地 高地の森林地帯
 体 長220~240cm
 尾 長25cm前後
 体 重220~400kg

 ボンゴは大変美しいレイヨウで、毛色は赤みを帯びた栗色で、体には10本から12本程度の白い線があります。
 
また、胸には三日月状の白い斑がみられ、短い毛に覆われています。

 四肢の外側は暗い色をしていますが、内側は白く、背中の真ん中に沿ってタテガミのような少し長い毛が生えています。

 目の上から鼻先にかけては色が濃いが、目の下の明るい縞が印象的で、耳はかなり大きく、木の葉のような形をしています。

 ボンゴには雌雄ともに角があり、ネジヅノレイヨウ類と呼ばれるように角はコルクの栓抜き状に外側に開き、その先端は黄色を帯びています。
 
 この角は平均して80cm位ですが、長いものでは1m程にもなることがあります。

 角の形や顔の印象などはシタツンガによく似ていますが、シタツンガは雄だけに角があり、ボンゴのように体にはっきりとした縞は見られません。

 ボンゴは一年を通して海抜2000~3000mの涼しい高地の森林に生息し、雨季は比較的低地で生活しますが、雨の少ない季節には樹木の多い高地に移動します。

 森の中で20頭程度の少数の群れで生活しますが、ふつう年をとった雄は単独で生活するのです。
 
 昼間に活動しますが、朝や夕方に活発に行動し、日中は休んでいることが多いようです。

 ボンゴはとても注意深く、危険を感じるとすばやく森の中に逃げ込みますが、走るときには角を背中につけるようにして首を反らし、角が木の枝などに引っかからないようにして走ります。

 主に木の葉や木の根、樹皮などを餌としますが、前足を木にかけて、かなり高い場所にある葉も食べます。

 ボンゴは保護動物に指定されていて、ふつうは1産1子。野性寿命は18~20年と推定されています。

 ボンゴさんも、長い間伝説の動物として語り伝えられ、世界にその存在が知られるまで、長い時間を要しました。


 早速、『珍獣図鑑:中川志郎著(新潮社文庫)昭和56年10月25日発行』を参考に、その発見の経緯をご紹介しましょう。

  ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

 ボンゴはその神秘的な美しさで有名な動物です。

 アフリカには、俗にカモシカと呼ばれるレイヨウの仲間がたくさん見られます。

 そのなかでも取り分け、俗にカモシカと呼ばれるレイヨウの仲間がたくさん見られます。

 それらは、ほとんどが草原の動物ですが、中には森林性のものや、沼地性のものがいないわけではありません。

 ボンゴという動物は、西アフリカからケニア、ウガンダにいたるジャングルに生息する森のレイヨウとして、その神秘的な美しさのゆえに有名なのです。

 森林の奥深く住み、レイヨウの中では大型に属する体をもちながら、音もなく移動し、するどい聴覚にものをいわせて敵を避けることができます。

 イトゥリの森にすむピグミーたちは、この動物が魔法を使うと信じているほどです。

 魔法と言えば、ピグミーの中には、この動物についての伝説が今なお生きているといいます。

 たとえば、イタリアの探検家アッティオ・ガティが集めた話に、次のようなものがあるのです。

『ボンゴは、追いかけられると水に潜る。そして、次の乾期がくるまででてこない。彼は、水の底で魚をたべて生きているのだ』

『ボンゴはツノで木の枝にぶらさがり、知らない猟師がくると、その上におちる』

『ボンゴは、毒草をたべる。人間がその肉をたべることができないように・・・』

 これらの話に共通なのは、いずれも、とらえようとしてとらえそこなった猟師たちの負け惜しみのようなものが色濃くでていることでていることです。

 イソップの童話で、ブドウをとりそこねたキツネが、「あのブドウはすっぱい」といったのに何となく似かよっているように思われます。

 それだけ、ボンゴという動物が、ピグミーたちにとってさえめったにおめにかかれない動物であった、ということなのでしょう。

 それが証拠に、この動物が文明社会に知られるようになったのは19世紀の終末、同じ森林性のモリイノシシやオカピなどと相前後して、登場することとなるのです。

 森の奥深く住み、大群をなさず、信じがたいほどの素速さでジャングルをかけぬけるその美しい動物は、確かに原住民たちにとっては、幻の動物であったかもしれませんね。

 その上、レイヨウの中最も美しいといわれる赤褐色の被毛に白いシマ、そしてねじれた大きなツノをもつ動物は、常緑の舞台装置の中では、まさに超自然的な動物として映っても不思議がありません。

 したがって、この動物が文明社会の動物園に登場するのは、20世紀も後半になってからで、今日でもその数は大変に少ないのです。

 また、生態については、まだ不明なことが多い動物です。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 


 ということで、その用心深い性質からか、名古屋市東山動物園のボンゴさんはずっと奥に引っ込んでいて、遠くからしか写真が撮れなかったので、もう一カ所ボンゴさんがいるはずの横浜市立金沢動物園に行きました。

 そうしたらば、横浜市立金沢動物園のボンゴさん、2009年3月に亡くなっていたのです。

 ボンゴさんは、このように珍獣の名を冠するのにふさわしい動物なのですが、前掲した
 『珍獣図鑑:中川志郎著(新潮社文庫)昭和56年10月25日発行』に珍獣の定義が記述されているのでご紹介しましょう。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

 博学で有名であった動物学者、故高嶋春男先生は、珍獣を次のように定義している。
『世界のどこかに局限されて生息し、個体数も少なく、発見の経緯も挿話として面白い物――――』
(中略)
 だが、高嶋先生の定義につけ加えることを許していただけるならば、私は、その動物のもつ形態上、生態上、の特異さをつけ加えたい。

 たとえば、数は少なくないが、マンドリルの、あの極彩色の異様な顔は、容易に人の耳目をあつめ、数百mに及ぶダムを構築するビーバーの技術は、ほかに類を見ないからである。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

 そういう基準に従うと、究極の世界の四大珍獣が、ジャイアントパンダ、コビトカバ、オカピ、ボンゴになるのだそうです。


 いずれにせよ。アトモス部屋では、このボンゴさんの紹介をもって、世界四大珍獣を制覇したことになります。


 わーい、嬉しいな!

改めて、ボンゴさん以外の3大珍獣の方々にも再登場いただきましょう。


 まずは、ジャイアントパンダさん(神戸立王子動物園のタンタンちゃん:再掲)。





 ジャイアントパンダさんに関する記事はこちら。
 http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/50232629.html

 明日2月21日に、上野にパンダさんのご夫婦が到着するねえ!
 
 恩賜上野動物園では、2008年4月にリンリンさんが死亡して以来、実に3年ぶりのパンダさんです。

 健康検査と環境適応期間ののちに、早ければ3月下旬には一般公開される見込みだそうです。

 公開当初は、さぞかし混むだろうねえ。


 オカピさん(よこはま動物園ズーラシア:再掲)





 オカピさんの記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51763277.html


 コビトカバさん(恩賜上野動物園:再掲)





 コビトカバさんの記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51731422.html

 それにしても、日本国内の動物園で世界の四大珍獣を見ることが出来るなんて、珍獣ハンターのイモトアヤコさんもびっくりだねえ。

 イモトさんは、焼き海苔みたいな眉毛で世界中を飛び回っているから、ごくろうさんだねえ。

 いろんな動物の生態研究が進んで、環境保全へのアドバイスが動物園から発信できて、ひいてはそれが希少なこれら珍獣たちの保護に繋がれば良いですね。






旧横浜正金銀行本店(現神奈川県立歴史博物館)は国の史跡 【ファイルT145】2011.02.17 

【ファイルT145】2011.02.17 旧横浜正金銀行本店(現神奈川県立歴史博物館)は国の史跡

日本の貿易の象徴ですね。

 旧横浜正金銀行本店本館(きゅうよこはましょうきんぎんこうほんてんほんかん)に来ました。

 堂々とした、とても立派な建物ですね。

  




 この建物は明治37(1904)年に横浜正金銀行本店として建設され、ドイツの近代洋風建築の影響を受け、明治時代の貴重な建造物であることから、昭和44(1969)年に国の重要文化財の指定を受けています。

 さらに、我が国の近代史のなかでも、産業経済の発展に貢献した貿易金融機関のあり方を示す貴重な建造物およびその敷地であることから、平成7(1995)年、国の史跡にも指定されました。

 設計 - 妻木頼黄(つまき よりなか=ジョサイア・コンドルに師事、辰野金吾の後輩に当たる建築家)
 構造・規模 - 石・煉瓦造、地上3階、地下1階、正面中央八角塔屋付、ドライエリヤ石塀附属
 建築面積 - 1,998.3平方メートル
 所在地 - 神奈川県横浜市中区南仲通5-60

 です。

 株式会社横浜正金銀行(よこはましょうきんぎんこう、英称:Yokohama Specie Bank, Ltd.)は貿易金融・外国為替に特化した特殊銀行で、東京銀行(現在の三菱東京UFJ銀行)の前身です。

 日米修好通商条約締結により、横浜は下田に代わる形で安政6(1859)年に開港しましたが、江戸に近い事も手伝い、またたく間に国際貿易都市として急成長を遂げていきました。

 明治4(1871)年に新貨条例が制定され、これに基づいて鋳造された1円銀貨(純度90%)が正貨となり、海外貿易に使用されていました。

 しかし明治10(1877)年に勃発した西南戦争はインフレを引き起こし、また輸入増による銀貨の海外流出も重なって、政府紙幣と正貨との間には大きな差価が生じていたのです。

 これは横浜に集う商人の悩みの種となり、安定した正貨を供給する貿易金融機関の必要性が叫ばれるようになりました。

 明治12(1879)年、元丸善商会社長で、第八国立銀行(愛知県豊橋市)の設立にも関わった中村道太を代表とする22人は、福澤諭吉や大隈重信らの支援の下、貿易の振興と取引の円滑化、そして堅実な現金(当時の言葉で「正金」)金融を趣旨に、国立銀行条例に基づく新銀行を設立。

 翌明治13(1880)年2月28日、中村を頭取とし、資本金300万円で横浜正金銀行は営業を開始しました。

 当時の日本の海外貿易・外国為替(がいこくかわせ)に大きな影響力を持っていた香港上海銀行(HSBC)を模範とし、香港上海銀行も横浜正金銀行に協力を惜しみませんでした。

 運営に際しては小泉信吉をはじめとする慶應義塾門下生が多く関わりました。

 横浜正金銀行は貿易の拡大にともなって急速に成長し、やがて列強の仲間に加わっていく日本を国際金融面で支え、大正8(1919)年には香港上海銀行(HSBC)、チャータード・マーカンタイル銀行(1959年HSBC傘下に入り、1982年HSBCに吸収)と並ぶ世界3大外国為替銀行の一つに数えられるようになりました。

 しかしながら、関東大震災と昭和恐慌で大きな打撃を受け、更に支那事変・大東亜戦争において日本の軍需に必要な外国通貨収集の為の機関と看做されたために、敗戦後の昭和21(1946)年にGHQの指令によって解体・清算され、外国為替銀行としての役割は新たに設立された東京銀行に引き継がれる事になったのです。

 立派なドームです。

  



 
 平面形は隅欠型八角形で、直径12m、ドーム頂部までの高さ10.05m、尖塔最高部は19.25m(いずれも屋上床面よりの高さ)で、道路面よりは約36mとなっています。

 三角ペディメントの彫刻も立派です。

  




 ここも大正12(1923)年9月1日の関東大震災で、正面屋上ドームと建物内部を消失。

 復興時はドーム無しで再建されていたのですが、昭和42(1967)年に神奈川県立歴史博物館になる際にドームが復元されました。


 ドームの横にはイルカ(ドルフィン)さんの彫刻があります。

  




 うへえ。イルカさんなのに、顔が怖くて鱗(うろこ)があるねえ。

 これはほ乳類のイルカさんじゃなくて、西洋建築で用いられる想像上の動物のイルカさんなのですね。日本で言うと、シャチホコさんですね。

 貿易→海→イルカというのが、横浜らしいのですね。

 細部のデザインも格好いいねえ。

 メダリオン飾りの中央が横浜正金銀行の紋章です。

  




 窓飾りも凝っています。

  




 1階から3階まで刺し貫く角形の柱(大オ-ダー)です。

  




 柱頭には、コリント式の飾りがあしらわれています。アカンサス(地中海オオアザミ)の葉と蔓を表現しているそうです。

 正面玄関は思わず見上げてしまいます。

  




 玄関のしつらえも立派です。

  




 天井にステンドグラスが。

  




 内部の廊下はこんな感じです。

  




 外国為替(がいこくかわせ)のことを外為(がいため)と言い、かつては、外為を扱う銀行を外国為替銀行(がいこくかわせぎんこう)=為銀(ためぎん)と言っていました。

 外国為替銀行というのは、外国為替銀行法によって大蔵大臣の認可を受けて外国為替取引および貿易金融を営むことができた銀行のことを言います。

 1998年の外国為替銀行法の廃止により、該当する銀行はなくなり、誰でも為替取引ができるようになりましたが、それまでは、外貨との両替は横浜正金銀行→東京銀行じゃないとできなかったんだねえ。


 外国為替と言えば、昭和46(1971)年8月15日にアメリカ合衆国政府が、それまでの固定比率によるドルと金の交換を停止したいわゆる『ニクソン・ショック=ドル・ショック』が世界金融、ひいては日本の経済の一つの転換点でした。

 同年12月に、ワシントンD.C.のスミソニアン博物館で各国の蔵相会議が開かれ、ここでドルと金との固定交換レート引き上げ、ドルと各国通貨との交換レート改定が決定されます(スミソニアン協定)。

 日本政府は、日本円のレートはそれまで1ドル=360円から308円へ、16.88パーセントの大幅切り上げを飲むことになります。

 こうしてドルは大幅な切り下げに成功しにもかかわらず、アメリカの貿易赤字はさらに拡大。

 固定相場制度への信頼性が低下したことから昭和48(1973)年には、主要国ほぼ全てが変動相場制へと移行しました。

 その後昭和51(1976)年1月、キングストン (ジャマイカ)で行われたIMF(国際通貨基金)暫定委員会において、変動相場制が正式に承認されました(キングストン協定)。


 現在の日本経済は円高で輸出業は外国で売る製品が割高になってものを売りにくくなっています。

 しかしながら、裏返せば、円高だと、輸入品は割安で代えるので、消費者の立場から言えば、ありがたい状態なのです。

 ところが、日本は物価が下がって、失業者が増えるデフレ状態なので、安い輸入品の流入は更なる値下げ競争を招き、内需がさらに冷え込みます。

 物価が下がるということは、お金の値打ちが上がるということで、だったらお金を使わず貯金する方が得だからねえ。

『日本は貿易立国だ』ってしきりにマスコミは喧伝しますが、実際は日本の貿易がGDPに占める割合は10%強で、日本経済は内需に負っている部分が大きいのです。

 日本も世界もデフレなのに、さらにTPPなどという経済のグローバル化が進めば、さらにデフレは進むのに、日本政府は何を考えているのか分かりません。

 世界の国々は保護主義化が進んでいるというのに・・・。


 ということで、立派な旧横浜正金銀行(現神奈川県立歴史博物館)でした。

  




 ということで、機会があったら、ご覧下さいね。







皇居東御苑(こうきょひがしぎょえん)=旧江戸城本丸を探索するよ(その17) 【ファイルET21】2011.02.14 

【ファイルET21】2011.02.14 皇居東御苑(こうきょひがしぎょえん)=旧江戸城本丸を探索するよ(その17)

皇居の半蔵門と甲州街道は江戸城の最後の護り。

 皇居東御苑について最初から読まれる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51135519.html

 半蔵濠越しに見た皇居半蔵門(はんぞうもん)です(再掲)。





 門の前は土橋になっていて、そこには機動隊が常駐し厳重な警備が敷かれています。

 警視庁の機動隊大型輸送車(三菱ふそう)が待機しています。





 門番さんが護衛しているねえ。





 それもそのはず、この門内は現在、吹上(ふきあげ)御苑になっていて、御所(今上天皇の住居)、吹上大宮御所(かつての香淳皇后の住居)、宮中三殿、生物学御研究所等皇居の主要施設に最寄りで、天皇皇后両陛下や各皇族の皇居への日常の出入りには、主にこの門が用いられているからです。

 もちろん一般の人は通行できません。

 江戸時代この門内は、吹上御庭と呼ばれ、隠居した先代将軍や、将軍継嗣(けいし=跡継ぎ)などの住居とに使われていました。

 もともとあった門は先の大東亜戦争で焼失し、現在の門は和田倉門の高麗門を移築したものです。


 『半蔵門(はんぞうもん)』の名は、当時の江戸城の警備を担当した徳川家の家来服部正成・正就(はっとりまさなり・まさなり=父子とも同じ読みのまさなり)父子の通称『服部半蔵(はっとりはんぞう)』に由来します。

 服部家の部下(与力30騎、伊賀同心200名)がこの門外に組屋敷を構え、四谷へと通じる甲州街道(現在の国道20号、通称麹町大通り・新宿通り)沿い一帯が旗本屋敷で固められていたからです。

 ところで、服部半蔵といえば、伊賀の『忍者ハットリ君』というように忍者を連想します。

 藤子不二雄Ⓐさんの人気漫画『忍者ハットリ君』の主人公はハットリカンゾウ(服部貫蔵)。伊賀流の少年忍者で、服部半蔵の子孫という設定になっています。


 でも半蔵さん自身は、忍者ではありません。

 三河武士で、甲冑を着て足軽を率い、『槍の半蔵』と呼ばれるほどの槍の名手として有名でした。

 しかしながら、家康から伊賀同心の支配役として、伊賀者を預けられたので、伊賀忍者の棟梁というイメージが定着したものだと思われます。

 徳川家康は、73年の生涯で、幾度も生命の危機にさらされましたが、最大の危機は、天正10(1852)年の本能寺の変の時です。

 この時家康は信長の招きで、少数の供のみを連れて堺にいました。

 当然謀反を起こした明智光秀に命を狙われることになります。
 
 しかしながら、堺から三河に帰るには、甲賀・伊賀を通って伊勢から三河に抜ける伊賀越えをしなければなりません。

 この時、先祖の出自が伊賀である正成(服部半蔵)は商人・茶屋四郎次郎清延(ちゃや しろうじろう きよのぶ)とともに伊賀、甲賀の地元の土豪と交渉して、彼らに警護させて一行を安全に通行させ伊勢から船で三河の岡崎まで家康を無事に帰国させることができたのです(神君伊賀越え)。

 この時の功により、伊賀者、甲賀者は、伊賀同心、甲賀同心として徳川幕府に召し抱えられました。

 そして、江戸城が徳川家の居城になった際に、伊賀同心は服部半蔵の下、半蔵門前に屋敷を与えられました。

 服部家の改易後、伊賀組は江戸城内(大奥、中奥、表等)を警護し、甲賀組は江戸城の城外の門を警護していたといいます。

 ところで、半蔵門前からは、日本橋を起点とした甲州街道が、甲府へと続いており、内藤新宿、下高井戸、上高井戸、布田五宿、府中、日野、八王子を通り小仏峠から甲府を経て信州の下諏訪で中山道に合流します。

 現在の半蔵門前交差点から見た甲州街道です。





 甲州街道には、『新宿通り』という表示があります(国道20号、通称麹町大通り)。


 上から見るとこんな感じ。





 南が桜田濠です。





 江戸時代の初期は、甲州街道は五街道の中でももっとも整備されていない街道といわれ、東海道や中山道にくらべて、人の往来も少なかったのですが、それは江戸城の将軍に危機が及んだときの非常用の脱出路だったからだという説があります。

 危急の際、将軍は江戸城の吹上御庭から半蔵門を通って城外に脱出し、甲州街道を西に向かいます。

 沿道の四谷に伊賀組・根来組・甲賀組・青木組(二十五騎組)の4組から成る鉄砲百人組を配置し、鉄砲兵力が将軍と共に甲府までいったん避難した後に江戸城奪還を図るという手はずになっていました。


 徳川家康は、甲州で産出する金と武田遺臣の掌握のために、甲州の大半を幕府直轄地としただけでなく、交通の要衝の甲府を、いざというときにスタコラ逃げる脱出先にしていたのでした。

 徳川家の非常用脱出路なら、当然、敵になる恐れのある大名たちに往来されては困ります。

 そこで、甲州街道を利用できる大名は、諏訪の高島藩、伊那の高遠藩(たかとおはん)、飯田藩の三藩に限られていました。
 
 江戸時代の甲府藩は親藩や譜代が治めていましたが、享保3(1718)年に柳沢吉里が大和郡山に国替えになってからは天領となって甲府城代が置かれます。

 その後、時代が下るにつれて徳川政権も安定。江戸中期頃から、甲州・信州などから江戸への流通の道として重要性を増して行き、甲府城に詰める武士「甲府勤番」(こうしゅうきんばん)の他、八王子千人同心、富士講(富士山信仰の組織)にさらに毎年4月には、幕府御用達の宇治茶を江戸まで届けるお茶壺道中も通り、街道筋は賑わいを見せ、江戸100万人の生活を支える動脈として発展していったのでした。

 そういえば、セイコーの服部時計店は服部半蔵と関係有るのかな?

 また、服部時計店は東京が本店で、工場を疎開させた諏訪には、諏訪精工舎があるけれど、服部時計店と東京と諏訪というのは、徳川家の脱出経路と関係有るのかな?

 う~む。












多摩動物公園のオランウータンさんは、消防ホースを伝わるよ 【ファイルC215】2011.02.11 

【ファイルC215】2011.02.11 多摩動物公園のオランウータンさんは、消防ホースを伝わるよ

高いのに、よく怖くないねえ。

 これも前の写真になるけど、以前ここのオランウータンの母子をご紹介しました。
 その時の記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/44820229.html

 多摩動物公園のウータンは、ボルネオオランウータンさんです。

 高いタワーで、子供ウータンが遊んでいました。





 少年といった年格好かな?

 ということで、高い場所にあるワイヤーロープを伝います。





 ワイヤーロープと書きましたが、実を言うと、これは古い消防ホースを再利用したものなんですね。

 このオランウータン舎は2005年4月28日オープン。

 オランウータン用の放飼場は三つあって、9本のタワー(高さ10メートル強)をロープで結んだ「スカイウォーク」は、総延長150mと世界最大級です。

 飛び地になった放飼場には、樹木と草地がありますが、それ以外の餌など、渡るための誘引材料は一切おいていません。

 オランウータンは、自発的にスカイウォークを渡り、飛び地にいくのです。


 スミソニアンのオーライン、旭山動物園といしかわ動物園のタワーなど、樹上性のオランウータンの生活を考慮して、樹冠部に相当する高い空間を、ロープを伝うことで利用させるという施設は、ここ以前にもありましたが、多摩動物園の飛び地は自然を活かし、雑草で覆われた地面に、高い木が生えていて、よりオランウータンの自然の性質を見ることができるということが評価され、2005年、市民ZOOネットワークのエンリッチメント大賞 飼育施設部門大賞を受賞したそうです。

 すごいねえ。

 高いところが好きなウータンも嬉しいし、それを観るお客さんも嬉しいのです。

 望遠レンズで撮っているので、かなり遠いのですが、こっちを観ています。





 目が良いんだねえ。

 楽しそうにぶ~らんぶ~らん。





 うへえ、危ないよお!

 よくこんな高いところで寛げるねえ。





 ロープをぱっくん。





 美味しいのかな?

 少し馴れ馴れしいかも。





 もう降りるのかな?





 一方こっちは、見物客に近寄ってきた年輩のウータンさん。





 ひまつぶしに人間を見物しながら、寝転がっています。





 ウータンはウータンで人間の子供を観るのが楽しいようです。

 ということで、さっきの子は、また高いところで遊んでいます。

 少しつまらなそう。





 かと思ったら、こんどは急に希望に満ちた表情です。
 




 ウータンは本当に表情が豊かですね
 
 さようなら、元気でね。


 ご存じだと思いますが、オランウータンは絶滅の危機に瀕しています。

 その原因は森林の乱開発。

 例えば、ボルネオ島のマレーシア・サバ州の河川では、森林が伐採されそこに商品価値の大きい、アブラヤシ農園がつくられました。

 アブラヤシって、パームオイルが採れるんだねえ。

 パームオイルは揚げ油やチョコレート、スナック菓子、マーガリン、シャンプーや洗剤等に使われる必需品なのですが、アブラヤシ農園の乱開発は、自然破壊につながるのですね。

 その結果、自然の森が大幅に縮小・分断されてオランウータンの生息領域が著しく制限され、離れ小島のようになった保護区間を行き来できなくなりました。

 それから、乱開発や農薬、肥料の汚染の影響で土地がやせ、樹木の生育が悪くなり、水が苦手で泳げないオランウータンは、川の上に伸びた枝を伝って、川を越えていたのが、それもできなくなるという悪循環に陥っています。

 そうなると、狭い地域同士での交配になって遺伝子が均一化し子供がうまく育たず、将来的に種の存続が危機的状況になります。

 こうしたことから、現地のフランス人研究者、イザベラ・ラックマン・アンクレナスさんは、孤立したオランウータンたちが行き来できるように幅約20メートルの川をロープやチェーンでつないで渡れるようにしたのですが、成果があがりませんでした。

 なぜかというと、ロープやチェーンだと細いことなどもあってオランウータンが掴みにくいんだって。

 そこで、注目されたのが、たまたま訪れたここ多摩動物公園の消防ホースを利用した行動展示です。

 アンクレナスさんは、消防ホースを再利用したつり橋を検討。同園の黒鳥英俊さん(現上野動物園)と、千葉県の市川市動植物園の水品繁和さんの協力を得て、日本のNPO「ボルネオ保全トラストジャパン」(BCTJ、坪内俊憲理事長)が現地州政府などと力を合わせて消防ホースの1号つり橋が2008年4月、キナバタンガン川支流のメナンゴール川に架設されました。

 そして2年余りたった2010年6月。オランウータンがつり橋を渡る姿が無人監視カメラに映っていました。

 そのことが評価され、「エンリッチメント大賞2010」大賞が授与されました。

 動物園のオランウータンの環境エンリッチメントの技術開発と野生動物保全活動への応用

 受賞者

 黒鳥英俊氏(東京動物園協会) 水品繁和氏(市川市動植物園)
 木村幸一氏(名古屋市東山動物園) 宮川悦子氏(よこはま動物園)


 日本の動物園で培った飼育技術が野生種の保護に役立つというのは素晴らしいことです。既に2号橋も設置され、野生のオランウータン救済策として期待が高まっているんだって。

 一時、動物園は野生動物を無理矢理連れてきて、檻に閉じ込めるのだから、動物虐待だという声が増えていたことがありますが、動物園がなければ、人々は種の多様性を身近に感じることができず、さらに野生動物の減少は進んでいくのです。

 動物園の動物たちは、それぞれの種を代表する大切な大使です。

 BCTジャパンでは、他に「傷ついた野生動物の救出」「狭い森から広い森への移動」を行い、また、「ボルネオ緑の回廊」と事業を進めていて、企業や人々の寄付によって、森林の土地を買い戻し川沿いの森林が回廊状につながることを目指しています。

 日本の某党は、ただでさえ省エネがすすんでいる日本のCO2排出量を、さらに25%削減するという大風呂敷を広げて、排出権取引で一儲けを狙っている国や企業を狂喜させましたが、問題はそういうことではないのですね。

 例えば、ボルネオのアブラヤシ農園だって一見すれば緑豊かで、あたかも自然環境が保全されているように思ってしまうのですから。

 CO2排出量については、森林もアブラヤシも中立的なはずです。

 
 BCTジャパン 「ボルネオ緑の回廊」計画を紹介した画像です。

 良かったらみてくださいね。

 


 画面クリックで見られない場合は、こちらでご覧下さいね。
http://www.youtube.com/watch?v=M_l_tBa57Dc&feature=player_embedded














 

ジャックの塔の横浜市開港記念館に行ったよ(下) 【ファイルT144】2011.02.08 

【ファイルT144】2011.02.08 ジャックの塔の横浜市開港記念館に行ったよ(下)

ステンドグラスも素敵だねえ。

(上)からの続きです。


 室内の階段を上がると、そこにはステンドグラスが。

  




 二羽の鳥の中央に横浜市章の『ヨ』の字です。

  




 US ARMY の文字の刻印がある電球です。

  




 これは、戦後アメリカ占領軍に接収されていた当時のものです。

  御開港横浜正景 元治元年(1864)頃 〔芳員〕 弁天通五町目錦港堂蔵板 51cm×71cm 横浜開港資料館所蔵です。

  




 開港後約5年の地図で、横浜の原型を示す一枚。現在の関内地域である中央の開港場は、海と水路で囲まれ出島化されています。

 新たに『フランス波止場(現在の山下公園の場所)がつくられた時期のものです。

 日本人町(白の部分)と外国人居留地(黄色の部分)の整備が進んでいるようすが分かります。

 灰色の新田の中に浮かぶ長方形は港崎遊廓(みよざきゆうかく)で、現在の横浜スタジアムの場所に位置します。

 ところが慶応2(1866)年、この遊郭への一本道の角にある豚肉屋から出火し、外国人居留地の1/4、日本人町の1/3が焼失する大火災が起きます(豚屋火事)。

 以降、公園の設置や幅広い道路など、火災拡大を防ぐ都市計画が考慮されるようになりました。

 大正12(1923)年の関東大震災によって、横浜市開港記念館は時計塔と壁体だけを残し、内部は焼失し、屋根ドーム群も欠落してしまいました。

  



 
  




 昭和2(1927)年に震災復旧工事が竣工しましたが、復旧に際しては、創建時と同じ設計スタッフが計画にあたり、構造補強をなすとともにステンドグラス を含めて震災復興期のデザインで統一しています。

 震災復旧工事の時の写真です。

  




 煉瓦造建築の構造補強例としては最初期のものであり、大正末期のインテリア空間を伝えていることでも貴重です。

 なお、この時は屋根ドーム群は復元されませんでした。


 現在の横浜市開港記念館の全景です。

  




 写真左右端のドーム他、屋根ドーム群が復元されていますね。

 戦後は、昭和20(1945)年から、開港100周年にあたる昭和33(1958)年まで米軍に接収され「メモリアルホール」と呼ばれ、進駐軍兵士向けの映画の上映館として利用されました。

 昭和34(1959)年6月に中区の公会堂として位置づけられ、名称が「横浜市開港記念会館」となりました。

 和60(1985)年に、創建時の設計図が発見され、本市に寄贈されたのを契機に「ドーム復元調査委員会(委員長:村松貞次郎東京大学名誉教授)」の提言を受け、昭和63年度にドームの復元工事に着手し、平成元年6月16日に、大正時代そのままの姿に復元しました。

 外観・内部とともに明治末期から大正時代にかけての建築様式を伝え、また、当時の建築水準を示す優れた建築物としてよみがえりました。


 横浜市開港記念会館は、公募によって選ばれた福田重義の設計案を基に建てられました。

 神奈川県下初の設計コンペ入選者、福田重義さんの肖像写真です。

  




 螺旋階段もとってもお洒落。

  




 照明もモダンで格好いいねえ。

  




 ここにもステンドグラスが。

  




 ペリー乗船のポーハタン号が入港する様子を題材としています。

 神奈川県沖に停泊中のポーハタン号の船上で、安政5(1858)年、幕府は日米修好通商条約の調印をアメリカ総領事ハリスと行いました。

 製作は宇野沢組ステンドグラス製作所です。大正12(1923)年、関東大震災により焼失しましたが、昭和2年、当初のものを尊重して復旧されたものです。


 貴賓室の天井(大正6年)です。

  




 講堂(昭和2年)です。

  




 食堂(現6号室:大正6年)です。

  




 ということで、歴史を感じさせる横浜市開港記念館でした。






江戸城のお濠には河童さんがいたんだよ(その16) 【ファイルET20】2011.02.05 

【ファイルET20】2011.02.05 江戸城のお濠には河童さんがいたんだよ(その16)

半蔵濠には河童さんのお話が残っています。

 皇居東御苑について最初から読まれる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51135519.html

 皇居半蔵濠の写真です。





 最近、パワースポット巡りが流行っているそうですが、これまでの記事でも書いてきたように、皇居・江戸城というのは政(まつりごと)の中心ですから、当然、強力なパワーを持っています。

 時として、そのパワーは魑魅魍魎、妖怪として姿を現すことがあります。

 激しく雨の降りしきる、ある日暮れ時、小幡一学という浪人が桜田から小川町へ帰る途中、麹町一丁目あたりのお濠のそばをさしかかったところ、年の頃十歳ばかりの子供が雨具もなく歩いているのを目にしました。

 ずぶ濡れなので不憫に思い、傘に入るよう促し傘をさしかけますが、子供は返事もせず傘からはみ出すのも気にせず歩いています。

 一学さんが、子供が濡ないように傘の柄を持つように言ったとたん、子供はもの凄い力で一学さんの両腰をつかんで濠の中に引き込もうとしました。

 一学さんは必死にもがいて抵抗しますが、あまりの怪力にそのままずるずると土手を引きずられ、ついには濠の石垣の際まで達します。

 もはやこれまで、これで我が身は河童の餌食になるのかと観念しつつ最後の力を振り絞って力の限り突き飛ばすと、子供は傘もろとも、もんどり打って、ざぶんと水中に没しました。

 一学さんは、腰も立たず、ほうほうの体で麹町一丁目あたりまで戻り、ようやくのことで駕籠を拾い帰宅することができたそうです。


 また、河童が濠から飴を買いに来たという話も残っているそうです。

 麹町の飴屋十兵衛さんが、夕暮れ時に子供が遊んでいるのを見て飴をやりました。

 するとそれ以来、同じ刻限になる決まってその子供が飴をもらいにくるようになりました。

 不審に思った十兵衛さんは跡をつけてみると、子供はお濠の中に姿を消しました。

 さては妖怪だったかと肝を冷やしていたある日、またその子がやってきて一銭貨を置いて去り、二度と姿を見せなかったそうです。

 その銭には、片面には十二支が刻まれ、片面には河童の泳ぐ姿のような面妖な文様が印されていたそうです。

 【参考:伝説探訪 東京妖怪地図 荒俣宏監修 田中聡著】
 
 飴を買いに聞いた河童の話は、京都の「六道の辻」の幽霊飴の話と似ていますね。

 京都の「六道の辻」の幽霊飴の話はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/49817662.html


 半蔵濠に近い英国大使館員が河童さんに襲撃された話を聞きませんから、河童さんはもういないのかもしれませんね。

 ひょっとして、バテレンの妖術で退治されたのかな?寂しいねえ。


 次に続きます。

オカピさんも珍しい動物だねえ 【ファイルC214】2011.02.01 

【ファイルC214】2011.02.01 オカピさんも珍しい動物だねえ

よこはま動物園ズーラシアと東京都恩賜上野動物園にいたよ。

 よこはま動物園ズーラシアといえば、オカピさんがいることで有名です。

 こんにちは。





 舌が白いねえ。

 この時は夏のまっさかりで、暑すぎたので、室内に一人しかいませんでした。他の子は、奥の冷房の効いた部屋で涼んでいたようです。

 後ろ足の縞々がシマウマさんみたいだねえ。





 オカピさんも珍獣です。

 その存在が、不明確ながら確認されたのは、1900年。

 完全に動物学上で正式な位置を与えられたのが、1902年のことです。

 これだけ大きな動物で、20世紀に入ってから発見されたのは、オカピ以外には、モリイノシシぐらいなものなのだそうです。

 発見したのはジョンストン卿。当時、ウガンダの総督の地位にありました。

 ジョンストン卿は博物学者としても優れていて、イトゥリの森の中のピグミー達から、森に住む“シマのあるロバ”の話を聞き、これを追い求めました。

 そして、1900年8月21日にはその毛皮の一部を、1901年には完全な毛皮と頭骨を手に入れることにができたのです。

 なお、ピグミー達はこの動物を『オアピ』と呼んでいたので、ここから『オカピ』と名付けられました。『オアピ』とは『森のロバ』という意味です。

 この『森のロバ』は、調べてみるとロバではなく、シマウマでもなく、また森林性のアンテロープでもなかったのです。

 結局、キリンの近縁の動物であり、しかもキリンの祖先、サモテリウムやバラエオトラグスにより近い、いわば『生きている化石』だということが分かったのです。

 これは、当時のビッグニュースとしてたちまち世界じゅうに流れ、多くの人が、この『生きた化石』をとらえるために、イトゥリの森に向かいオカピ探しに熱中しました。

 しかしながら、多くの野心家や冒険家や探検家の努力にもかかわらず、オカピは簡単にとらえられず、せっかくつかまえても短時日のうちに死亡してしまい、生きたオカピが人々の目の前に登場するまでには、しばらくの時間が必要でした。

 1919年8月19日、初めてのオカピがベルギーのアントワープ動物園に到着しました。

 これは1918年の12月に原住民によってつかまえられたオカピで、土地の司令官の家族によって、コンデンスミルクを与えられて育てられていたのです。

 しかし、生きていたのは50日に過ぎませんでした。

 オカピの飼育は難しかったのです。

 動物園が飼育に成功したのは、同じベルギーのアントワープで、1928年テレと名付けられたメスのオカピを得たのが初めてでした。

 参考:『珍獣図鑑』中川志郎著(新潮社文庫)昭和56年10月25日発行


 それにしても、オカピって名前が可愛いねえ。

 岡村さんや岡田さんや岡野さんとかの可愛い仇名に『オカピ』ってありそうだし・・・。

 和名 オカピ 
 学名 Okapia johnstoni(発見したジョンストン卿の名前が入っています)
 英名 Okapi
 目 偶蹄目
 科 キリン科
 分布 コンゴ民主共和国東部
 体長 2m
 体重 210~250kg
 希少度(レッドリスト) 準絶滅危惧(NT)

 雌のほうが雄よりもやや体が大きく、雄には皮膚で覆われた2本の短い角があります。





 この子もおでこが少し尖っているねえ。ということは、雄かな?

 オカピさんは振り向いた後ろ姿が格好いいねえ。





 ズーラシアの写真が一人だけなので、東京都恩賜上野動物園のオカピさんも紹介しますね。





 むしゃむしゃと木の葉をお食事中です。

 オカピさんは、多雨林地帯で主に単独で生活していますが、大きな木で覆われた暗い森より、食物として利用できる若い木や低木が茂る明るい二次林を好むようです。

 餌はキリンのように長い舌で木の葉や新芽をたぐり寄せて食べます。





 確かに白い舌が長くて、キリンさんみたいだねえ。さすがにキリン科だけのことはあります。

 参考に神戸市王子動物園のマサイキリンさんの舌(再掲)。





 マサイキリンさんの記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/47540812.html


 まあるいお目目が可愛いねえ。





 赤茶色の毛並みも、とても綺麗です。





 ということで、珍獣のオカピさんでした。

 さようなら、元気でね。















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