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大阪市天王寺動物園のヒクイドリさんだよ 【ファイルC223】2011.04.28 

【ファイルC223】2011.04.28 大阪市天王寺動物園のヒクイドリさんだよ

おとなしいけど危険なんだよ。

 続いて、まだまだ溜まっている大阪市天王寺動物園の記事です。
 今回はヒクイドリさんです。
 



 
 ダチョウ目、ヒクイドリ科、ヒクイドリで、英名Southern Cassowaryです。

 和名のヒクイドリは「火食鳥」のという意味らしいのですが、別に火を食べるわけではなく、喉の赤い肉垂(にくだれ、にくすい)が火を食べているかのように見えたことから名づけられたという説が有力なんだそうです。

 ヒクイドリさんの体重は現生鳥類の中ではダチョウに次いで重い大型の鳥です。

 最大体重は85 ㎞、全長は190 ㎝になります。
 一般的な全長は127-170cm、メスの体重は約58kg、オスの体重は約29-34kgです。

 体高はエミューに及ばないので、世界第3位です。

 肉垂(にくだれ、にくすい)同様、後頭部も赤いのですね。





 立派なトサカだねえ。ウルトラセブンのアイ・スラッガーみたいだねえ。

 この骨質の茶褐色のトサカは、藪の中で行動する際にヘルメットの役割を果たし、また、暑い熱帯雨林で体を冷やすラジエーターの役割があると考えられているそうです。

 毛髪状の羽毛は黒く、堅くできていて、特に翼の羽毛は羽軸だけで出来ています。

 体色はオス・メスでクジャクさんのような極端な違いはありません。

 ただ、メスの方が大きくて、長いトサカを持ち、肌の露出している部分は明るい色をしています。

 今回ご紹介しているヒクイドリさんは、大きくて長いトサカだから、メスかな?

 ヒクイドリさんのお住まいは、インドネシア、ニューギニア、オーストラリア北東部の熱帯雨林に分布し、オーストラリアでは標高1,100 m以下、ニューギニアでは標高500 m以下に好んで生息します。

 でも、他の走鳥類と同様、熱帯雨林の減少と移入動物の影響によって個体数が減少していて、絶滅が危惧されているのです。

 
 ヒクイドリさんが日本に初めてやってきたのは、江戸時代初期の寛永12年 (1635年)に、平戸藩により幕府に献上されたのが最初なのだそうです。

 記録には「陀鳥」とあるのですが、描かれているスケッチの姿は、明らかにヒクイドリなんだって。

 その後もオランダの貿易船により持ち込まれたようですから、昔から日本人に好まれていたのですね。

 ヒクイドリさんは、他のダチョウ目の鳥類と同様に、大柄な体躯に比して翼は小さく飛べませんが、脚力が強く、時速50km程度で走ることが出来ます。

 脚は、固い鱗に覆われ、3本の指には刃物のように鋭い12 cmの爪が生えています。





 性質は基本的には用心深く臆病なのですが、危険を感じると猛然と反撃する気性が荒い一面があって、この刃物のような鉤爪は、人間や犬、馬などの動物を一撃で倒し内臓を引きずり出すことができるほどの威力があると言われています。

 だから、ヒクイドリさんは、2007年には「世界で最も危険な鳥」としてギネスブックに登録されたんだって。

 ヒクイドリさんの雛にとってオオトカゲが天敵なので、オスがオオトカゲを威嚇して追っ払うのです。その時にこの強靱な脚と鋭い爪が役に立つのですね。


 記録的な大洪水に見舞われたばかりのオーストラリア北東部クイーンズランド(Queensland)州に2011年2月2日夜半、超大型サイクロン「ヤシ(Yasi)」が上陸しました。

 上陸時の風速は最大80メートル。複数の町で家屋などに大きな被害が出たほか、停電で17万5000人に影響が出る大災害となりました。

 同時に、超大型サイクロン「Yasi」による被害を受けて、生息地である熱帯雨林が破壊され、エサとなる果実が木から飛ばされてしまったため、ヒクイドリが人を襲う危険があるとして、クイーンズランド州政府当局は、住宅地への接近を防ぐためヒクイドリに生息地へ空からの食料補給を計画するとともに、クイーンズランド州北岸のミッションビーチ近辺の住民に対し、「ヒクイドリにエサを与えないように」と注意を呼びかけています。

 一般市民が遭遇したヒクイドリにエサを与えることは、長期的に見るとヒクイドリの存在を脅かすことにしかなりません。

 エサを与えようと近づいた際に襲われる危険があるほか、「人間に近づけばエサをもらえる」と学習したヒクイドリが、進んで人間に近づき攻撃するようになるという可能性もあるからです。

 この筋肉だからねえ。





 陸上のカール・ルイスさんや、スピードスケートの清水 宏保さんを遙かに上回る脚力で蹴られた日には、一撃でお陀仏だねえ。
 

 ヒクイドリさんは、食性は果実を中心とした雑食性で、森林の林床に落ちている果実を食べ、大きな種子を持った果実でもついばんで丸呑みします。

 1日に5kgの餌を必要とし、そのために1日に20kmも歩き回るのです。

 他の動物にとって有毒な果実でも安全に消化する能力があります。

 また菌類や昆虫類、小さな甲殻類も捕食します。

 ヒクイドリさんは単独性の鳥で、6月から10月(南半球なので、晩冬から春)にかけての繁殖期にのみつがいを形成します。

 オスは地上に、草本植物を使って5-10cmの厚さで、幅が最大100cmほどの巣を作ります。

 メスは135×95mmの大きさの卵を、1回に3から4つ産卵しますが、産卵後は別のオス探しをするため、卵をほったらかしにして、その場を立ち去ります。

 それで、オスが卵を暖めて、雛を単独で育てるのです。

 卵が孵るのはおよそ2ヵ月後で、充分な餌が取れないオスはその間、体重が5kg前後減ります。

 雛は産毛もなく、トサカは生えかかった状態で孵化し。成長したトサカが生えるまで3,4年かかります。

 巣作り・子育て父さん大変だねえ。

 赤い肉垂(にくだれ、にくすい)がぶーらんぶーらん。





 どことなく気品があります。





 お水を飲んでいます。





 肉垂が邪魔みたいですね。

 
 お別れに、お洒落なポーズをとってくれましたよ。





 さようなら、元気でね。


 ということで、今回はお洒落で大人しいけれど、怒らせたら怖いヒクイドリさんでした。








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靖国神社にお詣りしたよ(その1) 【ファイルET28】2011.04.25 

【ファイルET28】2011.04.25 靖国神社にお詣りしたよ(その1)

靖国神社は東京招魂社から改称した神社。

 千鳥ヶ淵戦没者墓苑から歩いてすぐ北にある靖国神社にお詣りしました。

 千鳥ヶ淵からだと、南側の石鳥居の方から入って大村益次郎さんの銅像の方に出てくるのですが、一応、記事の流れから後で撮った東の入り口からご案内します。

 入り口には「靖國神社」の社号標が建っています。





 明治27(1894)年9月に建てられた高さ10m強の大きな社号標です。

 写真をご覧になってお気づきかもしれませんが『靖』の字の上の余白が狭くてバランスが悪いのです。

 これは、もともと『靖國神社』の文字の上に2行で社格を表す

 別格(べっかく)
 官幣(かんぺい)

 の文字が刻まれていたのですが、昭和20(1945 )年にGHQが発した『神道指令』により社格制度が廃止されたため、『別格官幣』の文字を取り外すことになりこの文字のあった社号標の上部が切断され撤去されたからです。

 
 戦争に勝ったら負けた国の信仰に介入して、石柱まで「ぶった切れ!」なんて随分と野蛮ですね。

 こういう野蛮な占領軍や、外国勢力の尻馬に乗って戦後65年以上経つのに『靖国問題』なんて言っている人たちは何を考えているのでしょう?

 大鳥居(第一鳥居)です。





 『鳥居』というのは、神様の使いである『鳥が止まり居る』という言葉が由来です。

 『九段の母』の2番に「空をつくような大鳥居♪」と歌われているように巨大な鳥居で、日本にある鳥居の中でも最大級のものです。

 二葉百合子さんの『九段の母』はこちら。
http://www.youtube.com/watch?v=sj7ELZCVABU

 柱の高さが25m、直径2.5m、笠木(上の横木)の長さが34m、直径2.7m重さは
約100トンもあります。

 現在の鳥居は3代目のもので、昭和49(1974)年に建てられ、当時の最新技術である耐候性鋼板を使用し、震度7クラスの地震、風速80mの風にも揺らぐことなく、耐用年数は1200年ということです。

 左に小さく日章旗が写っていますが、これは昭和51年(1976)年に台湾軍第48師団復員者により奉納された国旗掲揚塔です。

 高さが30mあり、天辺には社紋章が付いています。

 国旗は写真では小さく見えますが、縦2m、横3mの超巨大なものです。

 参道の左右には62基の石灯籠が整然と並んでいます。両脇の木々はイチョウです。

 そのうち60基は、西南戦争の戦没者を悼み、明治12(1879)年に華族会館から奉納されました。

 他の2基は、明治39(1906)年の臨時大祭の際に華族会館長から奉納されました。

 石灯籠は大正12(1923)年の関東大震災で倒壊したものの、修復され、明治以来の姿を今に止めています。


 靖国神社の起源は、日本が幕藩体制から近代中央集権国家体制に大きく生まれ変わった際に、不幸にして生じた明治維新の内戦(戊辰戦争:ぼしんせんそう)で、国のために一命を捧げた人たちの霊を慰めようと、明治2(1869)年6月、明治天皇が「東京招魂社(とうきょうしょうこんしゃ)」として現在の位置に建てられたのが始まりです。

 当時、東京招魂社の社司として白羽の矢が立ったのは、戊辰戦争に際し、官軍に従った駿河、遠海(現在の静岡県)の神職でした。

 この人たちは、明治維新後、旧幕臣から報復される危険性があったため、大村益次郎(おおむらますじろう)のはからいで、東京招魂社の社司として採用されたのです。

 
 明治12(1879)年、東京招魂社は靖国神社と改称されました。

 『靖国』という社号の由来は、支那の史書、『春秋左氏伝』の中にある「吾以靖国也」という言葉にあります。

 「国を平安(「安」の字は「靖」に通じる字)にし、平和な国をつくりあげる」という意味があり、明治天皇が命名しました。

 これと同時に太政官(だじょうかん)の通達「社号・社格の御誓文」によって「別格官幣社・靖国神社」となりました。

 別格官幣社とは、勤王志士、顕著な功績のあった人臣を祭神とする神社の社格です。

 そして一般の神社が内務省の管轄で管理されているのに対し、靖国神社は創立の由緒から、陸・海軍の共同管理となり、祭式や神職の任免は内務省が管理することとなりました。

 以後、神社祭式の制をもって、国家に一命をなげうった国民が祭祀(さいし)される場所になりました。

 その後、明治20年(1887)頃からは、嘉永6(1853)年、アメリカのペリー提督が軍艦四隻を率いて浦賀に来航して以降に起きた国内の戦乱に殉じた人々、吉田松陰、橋本左内など『安政の大獄』や『禁門の変』などによる犠牲者をはじめ、その他国事に倒れた人々、例えば、坂本龍馬、中岡慎太郎、高杉晋作など、歴史上著名な幕末の志士や無名の志士をも合祀(ごうし)しています。

 さらに、これまでの『戊辰戦争』『佐賀の乱』『西南戦争』『日清戦争』『日露戦争』『第一次世界大戦』『満州事変』『支那事変』『大東亜戦争』などの事変・戦争で戦死した人々を合祀しているのです。

 また、合祀されている英霊の中には、軍人のみならず、日赤救護看護婦や沖縄で戦没した『ひめゆり』『白梅』などの7女学校部隊の生徒、『対馬丸』で沖縄から鹿児島への学童疎開中に米潜水艦に撃沈されて亡くなった小学校児童、樺太で電話交換手として働いていた9名の女性なども含まれています。


 そもそも、明治維新は何故起きたのでしょう?

 江戸時代の幕藩体制は、天皇から政権を預かった江戸幕府を筆頭大名とした各藩連合の地方分権の世の中でした。

 幕府の運営経費は直轄地から上がってくる税でまかなわれていました。それで、幕末は財政が逼迫していたのですね。

 全国の大名は藩毎に年貢を徴収して、年貢から大名をはじめとした藩士の給与を支払います。藩毎に藩札を発行し、薩摩は勝手にイギリスと戦争を始めたりします。

 ところが、こういう各藩ばらばらの国では列強に侵略され、植民地になってしまいます。

 それに対抗するには全国から税金を国家に集中させ、即ち国の富を増すために中央集権の近代国家を築き、産業を促進し、外貨を稼ぎ、武器を輸入し、近代軍を創設し、列強に対抗できるような軍事力をつけなければなりません。

 廃藩置県は、国の富を中央に集中させるために藩を廃止し、武士を失業させ、近代の国民国家を築こうという抜本的な改革だったのです。

 江戸時代はプロの職業兵士である武士がいたのですが、これを廃止し、近代軍を創設し、広く国民から兵を集める徴兵制度が必要になってきます。

 フランス革命で、それまで王が兵を金で雇って(傭兵)勝手に戦争をしていたのが、自由博愛平等の民主国家になってできた制度が徴兵制度なのです。

 つまり徴兵制は民主主義の申し子なのです。

 国民で作った国は国民が守る。それが近代国民国家です。

 そうやって国民をかりだした巨大な軍隊で侵略戦争を始め、連戦連勝したのがナポレオンだったわけですね。

 そもそも、ペリーの来航をはじめとした列強の圧力がなければ、日本はずっと鎖国していて、平和な世の中=靖国だったのです。

 なのに、列強による弱肉強食の野蛮な帝国主義的植民地支配競争の渦に巻き込まれた結果、日本で混乱が起き、内戦や対外戦争が生じ、そこから、犠牲者を慰霊する施設を作る必要が生じてきたのです。

 そういった歴史的背景があって、できたのが靖国神社だったのですね。

 狛犬さんです。





 こっちの狛犬さんは、子犬さんを連れています。





 奥さんやお子さんを遺して亡くなった英霊の方々も多かったでしょうからね。

 両方とも口を開いていて阿形です。

 
 ということで、長くなったので、次回に続きますね。

 次回はこちら。
 【参考】『靖国神社をどう考えるか?公式参拝の是非をめぐって』(加地伸行、新田均、三浦永光、尾畑文正・小学館文庫)










大阪市天王寺動物園のフタコブラクダさんだよ 【ファイルC222】2011.04.22 

【ファイルC222】2011.04.22 大阪市天王寺動物園のフタコブラクダさんだよ

大きな身体だねえ。

 以前、アラビアに住んでいた名古屋市東山動物園のヒトコブラクダさんをご紹介しました。

 ヒトコブラクダさんの記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/49033165.html

 今回はフタコブラクダさんです。

 こんにちは。





 胸を張って堂々と歩いていて偉いねえ。

 ヒトコブラクダさんと較べても、お馬さんと較べても随分と大きいのです。

 野生個体より家畜化された個体の方が大型になる傾向があるそうです。

 アラビアに住んでいたヒトコブラクダさんは、野生種は既に絶滅し、今は飼われている子と、オーストラリアに移入され、繁殖した野良ラクダさんが生きています。

 一方、完全に野生の状態で現存するフタコブラクダさんは、モンゴルと中華人民共和国にまたがるゴビ砂漠にお住まいですが、家畜にエサをうばわれ、その個体数は現在1000頭以下で絶滅の危機に瀕しています。

 ヒトコブラさんと同じ道を歩まないようにしてほしいものです。

 哺乳類(哺乳綱) 偶蹄目 ラクダ科 フタコブラクダ(Wild Bactrian Camel)
 偶蹄目(ウシ目) ラクダ科 学名:Camelus ferus

分布中央アジア
体重450~650kg
体長1.9~3.3m
体高1.9~2.3m(こぶまで)
尾長55cm

 妊娠期間は約13か月。1回に1頭の幼獣を産み、生後4-5年で性成熟します。  

 寿命は平均で20〰30年とされていますが、国内最高齢(おそらく世界一)は神奈川県横浜市にある野毛山動物園の「つがる」さんで、2010年現在推定35歳なのだそうです。

 名前の通り、フタコブラクダにはコブが2つあります。コブの中には水が入っているのではなく、脂肪が蓄積されていて、水や食物が手に入らないときに、これが水分とエネルギーに変換されるのです。

 しかも、ヒトコブラクダさんと同様にほとんど汗をかきません。

 おかげで、ラクダは厳しい砂漠環境でも水なしで長期間移動できるのですね。

  冬の間はエサの植物に含まれる水分だけで、数週間も水を飲まずに生存できます。

 それでも水を飲むときには、まるでスポンジが水を吸い上げるように大量の水を補給するのです。非常にノドが渇いた状態のラクダは、たった10分間で100リットル以上の水を飲むんだって!

 100リットルの水って重さ100㎏だからねえ。

 フタコブラクダさんは、地形が常に変わる砂漠を避け、中央アジアや東アジアの岩だらけの荒地にお住まいです。

 これらの地域では、夏には38度と焼けるように暑くなるのですが、反対に冬にはマイナス29度にまで気温が低下するのです。

 このような厳しい環境で生き延びるために、彼らは特別な適応力を発達させてきたのです。

 その1つが、冬の寒さから身を守るための太くて長い毛です。

 この毛は季節が変わり気温が上昇するにしたがって抜け落ち、クールビズになるのです。

 ヒトコブラクダさんと同様に、砂が入らないよう鼻腔をふさぐことができ、ぼさぼさのまゆ毛と長い二重のまつ毛が目を保護しています。

 だから、優しいお顔なのですね。





 正面と横顔では別人みたいだねえ。





 また、大きくて平らな足裏は、荷物や自らの重さで足が沈むことなく岩だらけの荒地を歩くのに適しているのです。





 それにしても、この子のコブはたるんで、左側に傾いているねえ。コブと言うより『おざぶ』みたいだねえ。

 これは、別に病気なのではなく、動物園で飼われているラクダさんに多く見られる傾向なのだそうです。
 
 野生のラクダさんは、内部の脂肪分がなくなってくると、コブは柔らかくたるんでくるのですが、脂肪が満タンの時は固くピンと張っています。

 ですが、動物園のような餌も水も安定して確保できる環境では、無理して脂肪をコブに溜め込んで、わざわざ重い目に遭う必要がないので、こういう風にコブがたるんでいるのではないかって考えられているそうです。

 野生のラクダさんは厳しい環境に晒されているし、家畜のラクダさんは、重い荷物を背負って長距離を歩かなければならないから、動物園のラクダさんは『らくだ』ねえ。

 うへえ、ごめんなさい。

 ご夫婦は別の檻で飼われていますが、仲良しさんです。
 




 奥さんは美人さんだねえ。





 歩くのが大好きみたいで。ぐるぐると歩き回っています。





 最後に良いお顔。





 さようなら、元気でね。

 胸を張って高貴な動物だねえ。

 ということで、今回は大きな身体のフタコブラクダさんでした。






横浜港の散策だよ(その5) 【ファイルT151】2011.04.19 

【ファイルT151】2011.04.19 横浜港の散策だよ(その5)

神奈川県庁はキングの塔だよ。


 横浜港の散策の続きです。
 その1からご覧になられる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51882527.html

 
 以前ご紹介した、横浜市開港記念館の斜め向かいには神奈川県庁があります。

 横浜市開港記念館の記事はこちら。
 こちらが神奈川県庁の裏側になります。





 神奈川県庁の敷地内には神奈川運上所跡の碑があります。





 由緒書きにはこう印されています。

 ********

 開港にともない、関税と外交事務を扱う神奈川運上所が、今の神奈川県庁所在地に設けられ、神奈川奉行の支配に属していた。

 慶応2年(1866)類焼、翌年新築、横浜役所と称した。明治元年(1868)明治政府に移管され同(1872)横浜税関に改められた。

 ********


 それで、神奈川県庁舎(四代目)です。
 




 神奈川県庁(四代目)

竣工:昭和3(1928)年
構造形式  鉄骨鉄筋コンクリート構造
階数  地上5階、地下1階
用途  神奈川県行政の中枢施設
設計者  小尾嘉郎(おび かろう)、神奈川県内務部
施工  大林組
事業主体  神奈川県
管理運営  神奈川県庁舎管理課

 関内地区(日本大通)にある神奈川県庁舎(かながわけんちょうしゃ)は、関東大震災で焼失した旧県庁舎(三代目)の再建にあたり、設計の一般公募で当選した小尾嘉郎(おび かろう:東京市の技師)さんの案をもとに、神奈川県内務部(成富又三:なりとみ またぞう)により設計されました。

 昭和3(1928)年に完成し、塔屋は横浜三塔の「キングの塔」として親しまれています。

 歴史的建造物として、平成8(1996)年に登録有形文化財(建造物)に登録されました。



 西欧建築に日本風の勾配の付いた屋根を載せた建物で、昭和初期に流行した帝冠様式(ていかんようしき)の先駆けとなりました。

 「帝冠様式」といえば、以前ご紹介した名古屋市にある愛知県庁もそうですね。
 
 愛知県庁の記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/32971064.html

 うへえ、愛知県庁をさんざん笑いものにしていたねえ。ごめんなさい。

 屋上部分は五重塔をイメージし、2mせり出した庇は外観に重厚さを加えています。

 塔屋の高さは48.6mあります。 

 初代ウルトラマンの身長が40mだから、それより背が高いんだねえ。しゅわっち。

 外装は3層構造になっています。





 5階は、コーニス(軒蛇腹)と呼ばれる水平の帯で区切られています。

 2~4階は表面に引っかき溝のあるスクラッチタイル張り、細部のテラコッタ製の幾何学的装飾は、フランク・ロイド・ライト設計の帝国ホテルを彷彿とさせるしつらえです。

 1階は石張りです。

 石柱も立派だねえ。





 照明はこんな感じ。





 正面向かって左側には『KANAGAWA PREFECTUAL GOVERNMENT』の英語表記の表札です。





 右側には『神奈川縣廳』の表札です。





 どちらも年季の入った立派な表札ですね。


 正面から見ると堂々としているねえ。





 尖塔部分です。





 天辺の避雷針です。




 
 ところで、ベース漫談の『はなわ』さんのネタで、

 横浜の人に「何県出身?」と聞いたら、「横浜」って答える。
 でも「神奈川県」って答えても「神奈川って、あの横浜のある神奈川?」って念を押されるから二度手間♪

 っていうのがありました。

 神奈川県の県庁所在地は横浜市ですが、神奈川県横浜市には神奈川区という行政区があります。それでもって、神奈川県庁は神奈川県横浜市神奈川区になくて、神奈川県横浜市中区にあります。

 ややこしいねえ。

 同じような場所が日本にはもう一つあります。

 兵庫県です。

 兵庫県の県庁所在地は神戸市で、兵庫県神戸市には兵庫区という行政区があるのですが、兵庫県庁は兵庫県神戸市兵庫区にはなくて、兵庫県神戸市中央区にあります。

 そういえば、神戸の人に「何県出身?」って聞いても「兵庫県」とは答えず、「神戸」って答えるねえ。

 どうしてこういうことになるかというと、

 今でこそ横浜も神戸も貿易港を抱える大都市ですが、もともと開港時はどちらとも、うらびれた一寒村に過ぎなかったのです。

 横浜の名になった当時の横浜村(現在の関内から元町にかけての中心街)は、街道から離れたわずか百一戸の半農半漁の岬の村でした。。

 神戸も同じく神戸村(現在の三宮から元町にかけての中心街)という人家の少ない村の畑と砂地でした。

 当時栄えていたのは、横浜ではなく東海道の大きな宿場町だった神奈川宿(今の神奈川区)、神戸ではなく西国往還道(さいごくおうかんどう)につながる宿場町の兵庫津(今の兵庫区)で、共に古くからの港町です。

 ですから、安政5(1858)年の日米修好通商条約での開港場は『神奈川』、『兵庫』と函館、新潟、長崎の5港とされていたのです。

 ところが、神奈川は江戸に通じる街道がある人家が多い街で、兵庫は京に通じる街道がある人家が多い街ですから、日本人と外国人の衝突、摩擦が起きることを幕府は恐れ、へんぴな村だった横浜と神戸に変更したのですね。

 開港以後、横浜と神戸は貿易港として発展を遂げ、現在は政令指定都市となっています。

 一方廃藩置県後の県名はもともと栄えていた地名の神奈川奉行、兵庫奉行から神奈川県、兵庫県に継承され、神奈川宿や兵庫津のあった地名は、現在は横浜市神奈川区、神戸市兵庫区という行政区に名を留めているのですね。

 東の横浜も西の神戸も都市の成り立ちが似ているんだねえ。


 ということで、キングの塔の神奈川県庁でした。

 次に続きますね。

千鳥ヶ淵戦没者墓苑は大東亜戦争における海外戦没者のお墓 【ファイルET27】2011.04.16 

【ファイルET27】2011.04.16 千鳥ヶ淵戦没者墓苑は大東亜戦争における海外戦没者のお墓

まだまだ帰国していない御遺骨も沢山あるんだねえ。

 半蔵門からUターンして、千鳥ヶ淵戦没者墓苑にお詣りしました。





 千鳥ヶ淵戦没者墓苑は先の大東亜戦争で海外における戦没軍人及び一般邦人のご遺骨を納めた「無名戦没者の墓」として昭和34(1959)年3月28日に創建されました。

 サンフランシスコ平和条約により、主権を回復した日本では、昭和27年頃 から、我が国政府により、戦没者の遺骨の収集が開始されましたが、遺骨の収集に伴い、収集した遺骨で氏名不詳のためご遺族にお渡しできない遺骨をどうするかが大変大きな問題でした。

 昭和28年12月、国でそれらの遺骨を埋葬する墓を建設することが決定されましたが、戦没者の墓苑の建設が具体化するまでには、建設用地の問題等に関して大きな紆余曲折があったそうです。

 最終的には昭和31年11月、千鳥ケ淵の側にあった宮内庁管理用地を使用して、この地に建設されることになりました。

 昭和33年7月漸く着工の運びとなり、昭和34年3月28日、戦没者墓苑は竣工しました。

 この日、昭和天皇、皇后両陛下の御臨席を賜り、厳粛盛大な拝礼式が戦没者墓苑で執り行われました。

 ここには平成22年5月現在で358,269柱が、安置されています。毎年5月に厚生労働省主催の慰霊行事として拝礼式が、また、年間を通じて各種団体主催の慰霊行事が随時行われています。

 多くの遺骨はまだ日本に帰らずに現地で眠っておられるのです。

 「必ず骨は拾ってやるからな」っていうのが本来の日本人です。

 まだまだ戦後は終わっていないのです。

 




 昭和12年からの支那事変は遂に昭和16年大東亜戦争へと拡大して、わが国の将兵は広大な海外戦場で戦うこととなり、昭和20年の終戦に至るまでの間に約210万人に及ぶ多くの方々が戦場に斃れました。

 このような多数の戦没者の御遺骨は、戦争の終結が敗戦と言う結末であったことから、大部のものは海外戦場に残されたままとなりました。

 こうしたことから、遺族・戦友の間にはこれらの御遺骨を日本本土に早く迎えたいと言う切々とした希望がありました。昭和27年対日平和条約の発効によりわが国の主権回復に伴い、政府は 早々にこの遺骨収集を開始しました。

 政府による遺骨収集は、第1次、第2次、第3次と計画的な収集が実施された後、昭和51年以降は情報に基づき遺骨収集団を派遣して遺骨収集が実施されています。この遺骨収集は現在 もなお続けられています。

 このようにして、収集奉還された御遺骨は、復員時に戦友に抱かれて帰国したものを含めて現在までに約125万7千柱に達しています。

 なお、海外地域では、軍人軍属戦没者約210万人の他、戦火に巻き込まれて他界された一般邦人約30万人があり、海外での戦没者は約240万人と言われています。

 また、本土における戦災等で亡くなられた方々約70万人をあわせると、この大戦間の戦没者総数は310万人の多きに達しているのです。


 100円を募金箱のような箱の中に入れて、菊の花を献花します。





 六角堂の中央に陶棺が安置されています。





 これは、日本古代の豪族の寝棺を模した陶棺です。

 その下には、主な戦域別の6部屋に分けた地下室が設けられ、昭和天皇から賜った鋳鉄製納骨壺に遺骨が納められています。
 

 昭和天皇の御製碑です。





 「くにのため いのちささげしひとびとの
  ことをおもへば むねせまりくる」

 墓苑創建の年の秋、昭和天皇陛下から下賜された御製を秩父宮妃殿下が謹書され、昭和35年(1960年)3月28日竣工したものです。   

 今上陛下の御製碑です。





 「戦なき世を歩みきて思ひ出ず
   かの難き日を生きし人々」

 終戦60周年を迎えるに当たり、新春「歌会始の儀」で詠まれた今上陛下の御製を、常陸宮妃殿下が謹書され、平成17年(2005年)9月27日竣工したものです。

 墓苑内は東京の真ん中だということが信じられないような静寂に包まれています。


 墓苑の管理ボランティアの方(年配の男性)が、「お詣り御苦労様です」と声をかけてこられました。

 近年、とみにお詣りする人が減っているそうです。

 寂しい限りですね。


 千鳥ヶ淵戦没者墓苑には、毎年敗戦記念日に政治家が参拝しています。

 昨年平成22年8月15日午前11時25分にも、菅直人内閣総理大臣が、日本武道館で行われた全国戦没者追悼式の出席に先だち、ここ千鳥ヶ淵戦没者墓苑に参拝しました。

 この日、横路衆議院議長、小沢環境大臣、福島社民党党首、枝野民主党幹事長等が、それぞれ参拝し墓前に献花を行いました。

 無名戦士の墓である千鳥ヶ淵墓苑に参拝しておきながら、何故すぐ北にある靖国神社は無視するのか私には理解できません。

 明治維新以来の事変、戦争において国のために戦われ、散華された英霊の魂は靖国神社に祀られているのです。

 今の我が国の平和と繁栄は、この方々の礎のもとにあるのです。

 国の貴い犠牲になられた方々に対し、国民を代表して、内閣総理大臣が慰霊と感謝の意を表しないというのは、一体どういうことなのでしょう。


 面積1.6ヘクタールの苑内には、楠などの常緑樹を主とし、そこに欅など落葉樹を混えて飢えられています。

 墓苑建設の際に行われた植樹は、全日本無名戦没者合葬墓建設会(総裁 吉田茂氏)が、全国市区町村を通じて募金した全国民の真心のこもった拠金約570万円が充当され、喬木、灌木合計1800本が植樹されました。
 




 その後、関係官庁の手によって年々各種の樹木・花木が補強され、現在約4000本に達しています。








 




 最後に再び、緑深い千鳥ヶ淵です。





 皆さんも、機会が有ればお詣りしてくださいね。


 千鳥ヶ淵戦没者墓苑のHPはこちらです。
http://www.boen.or.jp/






横浜市立金沢動物園のアラビアオリックスさんご夫婦だよ 【ファイルC221】2011.04.13 

【ファイルC221】2011.04.13 横浜市立金沢動物園のアラビアオリックスさんご夫婦だよ

ツノが長くて白い身体が綺麗だねえ。

 横浜市立金沢動物園の写真も沢山残っています。

 今回はアラビアオリックスさんです。

 会いに行ったらば、エサをはむはむしていました。





 ご夫婦でお住まいです。





 こっちに気がつきました。





 こんにちは、





 頭を下げて挨拶しているねえ。礼儀正しいねえ。

 白い靴下を履いているみたいですね。





アラビアオリックスさんは、偶蹄目ウシ科です。
体長160-178センチメートル。
肩高76-86センチメートル。
体重65-75キログラム
です。

 主食は草ですが、木や草の根も食べます。動物園では、青草(冬は乾草)、草食獣用ペレットをあたえています。

 もともとはアラブ首長国連邦、イエメン、イラク、エジプト、クウェート、シリア、ヨルダンなどの砂漠に住んでいました。

 ところが、オス・メス共に生えている立派な角や毛皮をとるために乱獲、家畜との競合などにより生息数が激減し、野生個体は1972年に絶滅したと考えられています。

 一方、人間の手によって1962年から残り少ない野生個体を捕獲してフェニックス動物園に集められ、1980年からは飼育下繁殖された個体の再導入が進められています。

 日本国内では1988年に、ここ横浜市立金沢動物園が初めて本種を飼育しました。

 プロ野球のチームに大阪オリックス・バッファローズってあるけれど、
 オリックス・バファローズはOrix Buffaloes。
 学名・英名のオリックスは oryxだから、スペルが違います。

 オリックスって昔はオリエントリースだったねえ。プロ野球のチームのオリックスはオリエントリースを社名変更した名前なんだねえ。

 そういやあ、オリックスに就任時の仰木監督は、オリックスをオリエントリースじゃなくて、大手信販会社のオリエントフェイナンス(現オリエントコーポレーション)と勘違いしていたらしいし。

 僕はリース会社と関係ないよお。





 びっくりしたオリックスさんは斜め後ろにのけぞっています。

 というより、ツノで背中をカイカイしているのかな?ツノが孫の手になるって便利だねえ。

 でも、ツノが長いので、真後ろにのけぞったら、背中にツノが刺さるねえ。

 危ないから気をつけてね。

 少しがに股。





 ご夫婦で仲良しさんです。





 二人してこちらに向かって良いお顔。





 わーい。こっちに向かってくるねえ。





 最後に、もう一度ご挨拶。





 礼儀正しいねえ。ツノが中尾彬さんのねじりん棒みたいで格好いいねえ。

 さようなら、元気でね。






横浜港の散策だよ(その4) 【ファイルT150】2011.04.10 

【ファイルT150】2011.04.10 横浜港の散策だよ(その4)

横浜は、日刊新聞発祥の地だよ。


 横浜港の散策の続きです。
 その1からご覧になられる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51882527.html

 

 さらに歩いて行くと、ひときわ目を引く建物がありました。

 Casa d’ Angela ~天使の住処~(カサ・デ・アンジェラ)です。





 調べてみると、ここは別に史跡というわけではなくて、教会・結婚式場・ゲストハウスなのだそうです。

 Casa d’ Angela (カサ・デ・アンジェラ)というのは、「天使が宿る家」という意味なんだって。

 でも、立派な時計台ですね。





 天使様もいらっしゃいます。





 教会にはステンドグラスの光の中、パイプ総数1300本を誇る、日本初上陸の「ZANIN社」製パイプオルガンの迫力ある音色が響き、教会内を深い感動で包み込むのだそうです。

 深い感動に包み込まれるたあ豪気だねえ。

 
 『Casa d’Angela』の隣の1階がグレイのビルは『リアンレーヴ馬車道 (介護付有料老人ホーム)』です。





 結婚式場の横が老人ホームというのは、『おまえ百までわしゃ九十九まで』という意味なのかな。

 都会のど真ん中の老人ホームというのも、便利でいいかも。



 横浜情報文化センター(旧商工奨励館)です。





 横浜情報文化センターは、関東大震災の復興記念として建てられた商工奨励館を保存しながら高層棟を新築した横浜市の歴史的建造物です。

  ◎設計:岩崎金太郎
  ◎施工:横浜市建築課
  ◎竣工:昭和4(1929)年
  ◎構造:鉄筋コンクリート造り4階建て、地下1階


 建物内には、日本新聞博物館があり、2Fには、昭和初期の面影を残すクラシカルなカフェレストラン『カフェ ドゥ ラ プレス: CAFE de la PRESSE』があります。


新聞博物館は平成12(2000)9年10月、オープンしました。

 横浜は日刊新聞発祥の地なのです。

 明治3年12月8日(1871年1月28日)、横浜毎日新聞が創刊されたのです。

 それまでの新聞と言えば、江戸時代の末期からあった読み切り瓦版で、瓦をつくる粘土をつかって土の版木で印刷したものでした。

 その間に冊子型木版刷りになりましたが、それが長崎のオランダ語通訳者の本木昌造(もとぎ しょうぞう)によって鉛活字が製造され、技術革新に一段とはずみがつきました。

 当時の神奈川県知事をはじめ有力者にとっては、本格的な国内新聞の発刊は内外の情勢を知るためにも急務でした。

 それまで、海外情報を載せた新聞がなかったわけではありません、長崎に入港してくるオランダ船から入手した西欧事情を長崎奉行が幕府に提出した『オランダ風説書』を別にしても、『官板バタビア新聞』という新聞がありました。

 これは文久2(1862)年にバタビアで発行されていたオランダ総督機関誌を翻訳したもので、のちに『官板海外新聞』になりました、

 その前年、横浜でイギリス人ハンサードによって『ジャパン・ヘラルド』が創刊されていますが、これは居留地に暮らす外国人向けのNewspaperでした。

 我が国初の民間新聞としては『海外新聞』が慶応元(1865)年に発行されましたが、約一年間24冊をもって廃刊の憂き目に遭っています。

 いずれも、限られた読者にしか読まれない新聞だったので、日刊新聞の誕生は待ち望まれていたのです。

 印刷に本木昌造とその門人を招き、編集長には神奈川県で輸入図書の検閲官をしていた子安峻(こやす・たかし)が起用され、『横浜毎日新聞』はスタートを切りました。

 文章方つまり記者には仮名垣魯文(かながきろぶん)が起用されます。魯文は、ガス灯の照明で公演した港座の脚本やハマのいろいろな見聞記に健筆をふるいました。



 新聞博物館の常設展示では、新聞の歴史や新聞がつくられるまでをご紹介するほか、企画展示室ではテーマに沿った展示を行っています。

 このほか、パソコンで新聞の製作体験ができる「新聞製作工房」や全国の主要紙を閲覧できる「新聞ライブラリー」も併設されています。

 また、新聞博物館がある横浜情報文化センターの8階には、放送番組を収集・保存して一般にも公開している「放送ライブラリー」が入居しています。


 横浜郵便局(現在の横浜港郵便局)です。





 横浜に郵便制度が創始されたのは1871年(明治4年)の3月1日です。

 その当時は、『横浜郵便取扱所』と呼ばれていました。

 それまでは、外国から日本人宛に送られてきた郵便物は外国郵便局の私書籍の一つを駅逓寮(えきていりょう)が借り受けて配達したり、日本人が海外に差し出す郵便物は、駅逓寮が仲介して外国郵便局から発送していました。

 これを見た前島密(まえじまひそか)が、アメリカ人サミュエル・エム・ブライアンを雇いンをアメリカと交渉に当たらせ、明治6(1873)年8月、日米郵便交換条約の締結を果たし、明治8年1月5日からの実施となりました。

 これが外国郵便の始まりです。

 これにより、外国との直接郵便が可能となり、同年の年始早々にアメリカ郵便局が廃止されました。

 そして、本町5丁目にあった郵便役所では手狭な為、本町1丁目に木造西洋館が落成し、外国郵便開業式が行われました。

 初代外国郵便課長はブライアンが勤めました。

 その後、1879年(明治12年)にイギリス郵便局、翌年の1880年(明治13年)にはフランス郵便局が廃止され、外国郵便は完全に日本で取り扱うようになったのです。

 その当時外国郵便を扱っていたのが、ここ横浜郵便局(現在の横浜港郵便局)で、その事を顕彰するプレートが設置されています。

 ということで、新聞や外国郵便も横浜発祥だったのですね。

 次に続きますね。

グランドプリンスホテル赤坂(旧赤坂プリンスホテル)がこの3月末日をもって閉館しました 【ファイルET26】2011.04.07 

【ファイルET26】2011.04.07 グランドプリンスホテル赤坂(旧赤坂プリンスホテル)がこの3月末日をもって閉館しました

取り壊し前の最後のご奉公は、震災避難所だねえ。

 赤坂といえば、赤坂の料亭が有名で、政治家が密談するというイメージだねえ。

 料亭政治というのは、明治維新の勤王の志士の時代からの伝統で、秘密が漏れないというのが、大きな理由だったのだそうです。

 でも、宇野宗佑首相の時に、指三本がばれて総理大臣をやめちゃったから、秘密が漏れるんなら、料亭政治も存在価値がないから、今更流行らないかも・・・。
 
 それから、赤坂といえば、青空をバックに聳え立つ白亜の巨塔、グランドプリンスホテル赤坂(旧赤坂プリンスホテル)です。





 てっぺんのスイートルームは、さぞかし宿泊料も高かろうねえ。
 




 翼をイメージする建物の形状は、角度が変わると、表情も変わりますね。
 




 エントランスも立派だねえ。





 グランドプリンスホテル赤坂の新館は建築界の巨匠、丹下健三氏の設計した地上40階建ての超高層ホテルで、昭和58 (1983)年3月7日に開業。客室761室、1,454人の収容が可能です。

設計 - (建築)丹下健三・都市・建築設計研究所、(構造)鹿島建設
施工 - 鹿島建設・西武建設JV
着工 - 昭和55(1980)年3月
竣工 - 昭和57(1982)年11月
建築面積 - 3,098m²
延床面積 - 67,750m²
階数 - 地上39階、塔屋1階、地下2階
構造 - 鉄骨造(地上)、鉄骨鉄筋コンクリート造(地下)

 丹下健三さんといえば、バブルの塔と呼ばれた東京都庁舎も丹下さんの設計でしたね。

 東京都庁舎の記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/43707351.html

 バブル時代は『赤プリ』と呼ばれ、時代の最先端のトレンディスポット、デートスポットとして名をはせました。

 日本の政治の中心、国会議事堂に近いという立地も手伝って、政治家もよく利用し、「赤プリで結婚式」というのは一種のステイタスで、多くの有名人もここで結婚式を挙げたりしました。

 古くは、昭和59(1984)年、女優の竹下景子さんと写真家の関口照生さんが結婚披露宴を行い、 昭和61(1986)年、現読売巨人軍の原辰徳監督の結婚披露宴もここで行われました。

 巨人の原さんがライバル球団の西武資本のホテルで結婚披露宴というのも奇妙だけれど、それだけ憧れのホテルだったんだねえ。

 最近では、庄司智春さんと藤本美貴さんご夫妻が結婚披露宴を挙げました。

 その『赤プリ』も、大規模改修が行なわれず、さすがに老朽化が進んでいました。
  
 写真で見る限りでは、ぴかぴかで、全然老朽化したという感じじゃないんだけどねえ。
 
 弁慶橋から望む、ぴかぴか輝く眩しいグランドプリンスホテル赤坂の新館。
 




 まだまだ使えそうなんだけれどねえ。立地が良いから、建物の減価償却はとっくの昔に済んだんだろうねえ。

 平成19 (2007)年4月1日、赤坂プリンスホテルよりグランドプリンスホテル赤坂に改称し、今年平成23 (2011)年3月31日に、55年間の歴史に幕を閉じました。
 
 3月31日に営業を終えたグランドプリンスホテル赤坂は、東日本大震災の罹災民を支援するため、都に活用を提案し、4月上旬から東日本大震災の避難者の宿泊施設として提供されることになりました。

 プリンスホテルは偉いねえ。とても良いアイデアですよね。
 
 東京電力福島第1原発の事故で避難している福島県民の受け入れ施設として、取り壊し予定の新館(地上40階、約700室)を活用し、取り壊しをまでの6月末まで最大1600人程度を受け入れようというものです。           
 
 
 バブルを象徴する建物が最後に震災の避難所として幕を閉じるというのも、何か歴史の巡り合わせのようものを感じますね。

 ということで、今回は歴史を閉じる赤プリの記事でした。

 この跡には何が建つんだろう?楽しみだねえ。






恩賜上野動物園のマダラヤドクガエルさんはカラフルで可愛いねえ 【ファイルC220】2011.04.03 

【ファイルC220】2011.04.03 恩賜上野動物園のマダラヤドクガエルさんはカラフルで可愛いねえ

でも猛毒があるんだよ!

 恩賜上野動物園は、まだまだ珍しい動物がいます。

 マダラヤドクガエルさんです。





 こんにちは。

 アマガエルのような、体長わずか2~5㎝の可愛いちびっ子ガエルさんです。

 色がカラフルだねえ。





 和名マダラヤドクガエル(斑矢毒蛙、別名:ミドリヤドクガエル、学名:Dendrobates auratus)は、動物界脊索動物門両生綱無尾目ヤドクガエル科ヤドクガエル属に分類されるカエルさんです。

 英名はGreen and black poison frogです。

 『矢毒』とか『poison』とかぶっそうな名前だねえ。

 それもそのはず。ヤドクガエルさんは、生物界で最強の毒をもつ動物なのです。

 その毒が強いのなんのって、その強さといったら、たった一滴で大人一人を簡単に殺せる程なのです。

 フグさんもコブラさんも真っ青ですね。

 「矢毒蛙」の名のとおり、ヤドクガエルの毒は、南米先住民族の伝統的な毒矢に利用されてきました。

 なかでもココイミズカキヤドクガエルは最強の毒をもつといわれています(一説にはヒイロヤドクガエルが最強ともいわれているそうです)。

 先住民は、このカエルを捕らえると棒に突き刺して火であぶり、苦しさに出すたら~りたら~りの白い汁を集めるのだそうです。なんか、がまの油みたいだねえ。

 ヤドクガエルの毒は、皮膚に分泌される防御用の粘液です。

 ヒキガエル類も後頭部などに毒腺をもち、中南米のオオヒキガエルは後頭部の耳腺から1m近くも毒液を飛ばして敵の目や口に反撃することが知られています。

 ヒキガエルのひっきーちゃんも怖いんだねえ。

 ヤドクガエルたちは、おしなべて派手で目立つデザインなのが特徴です。これは敵に対する警戒色と考えられています。

 小さくて無力なカエルさんが、こんなカラフルで目立っていたら、すぐにエサにされちゃうからねえ。





 「猛毒があるよ、食べられるものなら食べてみな!」っていうことなんでしょうね。


 ところで、南米から遙かに海で隔てられたニューギニアの森には、ズグロモリモズという現存で唯一の毒をもった鳥がいます。彼らは特に羽毛や皮膚の毒性が高く、ヘビや猛禽(もうきん)に嫌われます。

 それで、このズグロモリモズの毒の主成分はヤドクガエルと一致することがわかりました。

 ヤドクガエルは飼育していると毒性が低くなっていきます。

 その毒は自分の身体の中で作られるのではなく、野生でのエサである昆虫やヤスデ・ダニなどの毒を再利用していることがわかっています。

 他方、ズグロモリモズの毒も同じく、エサの中に含まれている毒の再利用であると考えられています。

 地理的にも遠く隔たった、両生類と鳥類というまったく違う進化系統にありながら、自己防衛のために共通のメカニズムを身につけてきたというのが不思議ですね。


 ちなみに、ここ上野動物園の両生爬虫類館では、エサにコオロギをあたえているので、毒はありません。


 南米と書きましたが、マダラヤドクガエルさんのお住まいは、コスタリカ、コロンビア、ニカラグア南部、パナマ、ホンジュラスです。

 また、アメリカ合衆国(ハワイ州オアフ島)には蚊を駆除するために人為的に移入されました。

 カラフルな体色が人気で、ペットとして飼育されることもあり、日本にも輸入されているそうです。


 熱帯雨林等に生息し、地表棲ですが、樹上で見られることもあります。小川や池の近くを好み、昼行性で、絶えずエサを捜し求めて動き回っているす。

 卵生で繁殖期になるとオスは繁殖音(メイティングコール)を出してメスに求愛します。


 メスは落ち葉の下等に4-6個の卵を生み、後は、オスに卵の世話をさせます。

 卵は保護のために、ゼリー状の物質で覆われている。卵が孵化すると、オスは自分の背中にオタマジャクシをのせて、池や小川などの水場に運びます。

 粘着性のある分泌物によって、オタマジャクシはオスの背中にくっつけられているのです。

 そして、その粘液は水にしか溶けないために、オタマジャクシを水場まで運ぶ間に落とすことはありません。

 オスがオタマジャクシを無事に水場まで運び終えると、オタマジャクシは変態するまで自分たちで成長していきます。

 幼生は10-15週間で変態し、幼体になります。

 『小森のおばちゃま』ならぬ、子守のお父さん、ご苦労様だねえ。

 ということで、マダラヤドクガエルさんでした。





 さようなら、元気でね。






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