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よこはま動物園ズーラシアのチベットモンキーさんは哀愁のあるお猿さん 【ファイルC226】2011.05.28 

【ファイルC226】2011.05.28 よこはま動物園ズーラシアのチベットモンキーさんは哀愁のあるお猿さん

でも、見かけによらず乱暴なんだよ。

 
 よこはまズーラシアで背中を向けて座っている子がいました。

 


 

 哀愁のある背中です。
 背中というのはその人の人生を語るそうですが、この人はとても味わい深い人生を送ってきたのでしょうね。

 そのうちに、こっちを向いてくれました。
 


 

 こんにちは。良いお顔だねえ、

 チベットモンキーさんです。チベットの修行僧みたいな、仙人みたいな立派なお顔です。



 お天気の具合を心配しているのかな?



 

 この前、たまたまテレビの『ダウンタウンDX』を見ていたらば、勝俣州和さんが、ここズーラシアのチベットモンキーさんのことを熱く語っていました。

 勝俣さんちでは、ズーラシアの中ではチベットモンキーさんが一番人気なんだそうです。

 勝俣さんったら、チベットモンキーさんはズーラシアで一番地味で人気がないけれど、子供さんと一緒に囃し立ててさんざんからかったら、怒って飛びかかってきて展示室のガラスにぶつかるのが面白いなんていっていました。

 うへえ!よい子はマネしちゃいけないねえ。

 確かにお猿さんにしては動きが地味だけれど、結構人気がありましたよ。私もこうやって写真を撮ったぐらいだから。

 それで、ちょうど、一緒に出演していた、津川雅彦さんに顔がそっくりだって。

 そう言われてみれば、津川さんに似ているかな?



 

 立派なお顔なのに、しぐさは可愛いねえ。



 

 のそのそと邪魔くさそうに歩きます。野村元楽天監督にも似ているねえ。



 

 チベットモンキー(別名:チベットベニガオザル)さんは英名もTibetan Macaqueで、その名のとおりチベットにお住まいです。

 オナガザル科で体長オス60cm、メス50cm体重オス15kg、メス10kgです。

 準絶滅危惧で附属書IIに掲載されている希少種です。

 標高800~2、000mの亜熱帯の常緑樹林帯から温帯の落葉広葉樹林に生息し、木の葉や新芽、根、果実、昆虫等の小動物などを食べています。

 複数の雄と雌で構成される群れをつくりますが、雄と雌の比率はおよそ1対3と言われています。

 雄が群れの中の子どもの面倒をみたり、雄同士のあいさつ行動に子どもを利用したりする特異な行動をとることで知られています。

 実は野生のチベットモンキーさんは、いつもけんかばかり。

 サルの中でも指折りの荒くれ者なのだそうです。人は見かけによらないねえ。

 だから、勝俣さんが子供さんと一緒にさんざんからかったら、怒ってきて飛びかかって来たというのも当然だったのですね。

 群れのオスはけんかを収める時、相手のお気に入りのサルの赤ちゃんを差し出します。

 相手が受け入れれば、オス2頭で力を合わせて赤ちゃんを持ち上げます。

 これは、まるで橋が架かるように見えることから、「ブリッジング」と呼ばれます。

 チベットモンキーがブリッジングを発達させた理由は、住んでいる地形と深い関係があります。険しい渓谷に暮らすため、限られた食べものを巡って、隣接する群れとの争いが耐えません。

 他の群れと戦うためは、群れ内にオスの数が増えた方が有利です。

 それでオスの数が増えた群れの中では順位争いが激化し、その緊張を和らげるために、相手と仲良くなろうと始まったのがブリッジングだと考えられています。

 以前、ダーウィンが来た!生きもの新伝説(NHK)「サルの赤ちゃん、明日にかける橋」でその様子を放送していました。

 群れに入ろうして、ひどくいじめられている新参者のオスがいました。

 体じゅうケガだらけ。このオスが頼りにしたのもやはり赤ちゃんでした。

 群れの中の赤ちゃんを抱き上げたかと思うと、いじめたリーダーの元へと向かっていきます。

 リーダーに赤ちゃんを差し出し、ブリッジングを行うためです。もし、リーダーが応じてくれれば、新参者のオスは群れの一員になることが出来ます。

 結果は大成功。ケガだらけの新参者とケガをさせた恐ろしいリーダーは2頭で力を合わせて赤ちゃんを持ち上げ、ブリッジングを行い手打ち式。

 新参者はめでたく群れに向かい入れられました。

 ズーラシアでも赤ちゃんが生まれたら、ブリッジングが見られるのかな?

 ぜひ一度見てみたいものだねえ。


 なんか落としたのかな?



 

 最後にご挨拶。



 

 さようなら、元気でね。

 ということで、立派なお顔のチベットモンキーさんでした。








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横浜港の散策だよ(その8) 【ファイルT154】2011.05.25 

【ファイルT154】2011.05.25 横浜港の散策だよ(その8)

「日米和親条約調印の地」とペリー提督と日本人。

 その1からご覧になられる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51882527.html

 横浜の開港広場には「日米和親条約調印の地」の碑があります。

 日米和親条約締結の地の碑





 嘉永7(1854)年2月から3月にかけて、日米代表が横浜村の海岸で会見、和親条約を結びました。

 これは、神奈川条約ともいわれ、日本の開国を促し、横浜市の誕生の遠因ともなりました。歴史的舞台となった応接所のあとは、現在の神奈川県庁の付近で、ペリーの上陸地点は、もう少し北西の日本大通りの港寄りに相当すると考えられています。

 条約締結に際しては、応接所の中にある饗応所で宴が催され、贈り物が交わされました。

 日本に贈られた蒸気機関車の模型【堀口貞明編 福田本「米艦渡来記念ノ図」】





 1812年スコットランドに生まれたロバート・フォーチュンはペーリーが持って来た蒸気機関車の模型を見た日本人と支那人の違いについて記しています。

 安政元(1854)年、ペリー提督が日米和親条約を締結した会見の時にアメリカ政府から、アメリカ製の織物、農器具、消火器、実物の約四分の一の精巧な機関車、給炭車、客車を連結した汽車の模 型などが贈られ、その後で環状線路の上を時速40マイルの速力で汽車を走らせて、試運転を行いました。

 この時日本の代表たちは、蒸気機 関車で走る汽車に、最も興味を持ったと言うことでしたが、支那人のように、驚いたり、不思議そうな素振りは見せなかったそうです。

 それどころか、翌安政2(1855)年8月、佐賀藩精煉方(せいれんかた、理化学研究所)で、国産では日本初の蒸気船と蒸気機関車の模型を実際に走らせるという実験が行われています。

 この実験には、東芝の創業者で「東洋のエジソン」「からくり儀右衛門」と呼ばれ活躍した日本の発明家田中 久重【たなか ひさしげ、寛政11年9月18日(1799年10月16日) - 明治14年(1881年)1月11日】さんが携わっています。


 なにはともあれ、条約の締結により、約250年間続いた鎖国時代が幕を閉じることとなります。

 そもそも、ペリーが最初に来航したのは嘉永6(1853)年。その時の艦隊の編成は、

蒸気外輪フリゲート船
◎サスケハナ【旗艦】
・ミシシッピ
帆船
・サラトガ
・プリマスの4隻でした。

 太平の眠りをさます上喜撰(蒸気船)たった四はい(四隻)で夜もねむれず。

【「上喜撰(じょうきせん)」は当時の玉露茶の商品名で、カフェインの入った上喜撰を寝る前に飲んで「たった四杯で夜も眠れなくなる」ことと、ペリーの蒸気船が来航して「たった四隻で国中が蜂の巣をつついたような大騒ぎで夜も眠れない」こととをかけています】

 という狂歌が読まれましたが、実際のところ4隻の家蒸気船は2隻で、あとの2隻は帆船だったのです。蒸気船も、風のあるときは帆走していましたし。

 植民地競争において英仏に後れをとったアメリカは、カリフォルニア・上海間の太平洋航路確保のための寄港地を探していました。
 また、当時のアメリカは捕鯨業が盛んで(鯨肉は食べず、鯨油や骨を得るため)、大西洋の鯨を獲り尽くし、太平洋中を駆け巡るアメリカの捕鯨船の食料、水、燃料等の補給地も求めていたのです。

 捕鯨をするアメリカ船。【五雲亭秀貞著『横浜開港見聞誌』文久2(1862)年、慶応元(1865)年刊より】





 随分と勝手な話だねえ。


 そこで、東インド艦隊司令長官ペリーは、軍艦4隻を率いて、嘉永6(1853)年に浦賀に来航。武力で威嚇しつつ、開国を迫る国書を幕府に渡し、翌年の再来を告げて去りました。

ペリー2度目の来航は嘉永7(1854)年。その時の艦隊の編成は、
蒸気外輪フリゲート船
◎サスケハナ【最初の旗艦】
・ミシシッピ
◎ポーハタン【後の旗艦】
帆船
・サザンプトン
・マセドニアン
・ヴァンダリア
・レキシントン
・サラトガ
・サプライの9隻でした。

 うへえ!さすがに、日本は手強いと思って倍以上の大艦隊で来たのですね。

 二度目の来航時、江戸湾到着前の旗艦(ペリーが乗っていた司令船)はサスケハナでしたが、後にポーハタンに移りました。

 ペリー来航時の江戸湾の各所に配備されたよりも、ペリー艦隊の火力の方が圧倒的に強力だったのです。

 嘉永7(1854)年の3月31日、日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)が、横浜村で締結されました。

 全権は林復斎藤(はやしふくさい=大学頭:だいがくのかみ)、とペリー。

 漂流民の救助・引き渡しや、薪水(しんすい)・食料・石炭などの物資補給のため伊豆下田・函館2港の開港。および下田への総領事の設置を取り決めました。

 ペリー提督・横浜上陸の図 ハイネ原画による石版画





 ペリー提督・横浜上陸の図に描かれたものの詳細は以下の通りです。





①レキシントン(帆船)
②サスケハナ(蒸気外輪フリゲート船)
③ポーハタン(蒸気外輪フリゲート船)
④マセドニアン(帆船)
⑤ミシシッピ(蒸気外輪フリゲート船)
⑥ヴァンダリア(帆船)
⑦サザンプトン(帆船)
⑧サラトガ(帆船)

⑨玉楠 水神の祠に生えていたタブノキの別名。
⑩水神の祠は、1865年、洲干弁財天に遷宮。
⑪整列する約500名の水兵と前に立つ士官。
⑫ペリー提督 東インド艦隊司令長官、条約締結の全権大使。軍楽隊を伴っていた。
⑬旗に赤く描かれている三階菱の家紋は、接待・警護役の小笠原家のもの。
⑭応接所

 
 でも、ちょっと考えたらこれっておかしいですよね。
 
 例えば、大日本帝国海軍が戦艦大和や、零式艦上戦闘機(零戦)、九九式艦上爆撃を満載した航空母艦で編成された機動部隊をニューヨーク港に横付けして威圧し、兵士を引き連れた山本五十六司令長官が全権大使として不平等条約締結のために上陸するとしたら、アメリカ人ってこれを許すんですか?

 当時のペリーさんの肖像画はこれです。【北亜墨利加共和政治州使節ヘルリ真像】





 怖いお顔だねえ。こんな鬼のような形相の面妖奇っ怪な異人は打ち払うに、しくはないねえ。

 ペリーの日本遠征を伝える「絵入りロンドン・ニュース」。





 大規模なペリー艦隊の出航にイギリスは強い関心をよせました。紙上には艦隊の構成が詳細に述べられ、日本の開国を求めるアメリカの世論が報じられています。

 イギリスがこれほどペリー艦隊の動静に関心があったのは、アメリカが抜け駆けして、日本を独り占めにしたら、アジアにおける覇権を脅かされるからです。当時のイギリスは清をアヘン戦争で痛めつけ、植民地にしていたのです。

 そもそも、列強諸国はみんな日本を植民地にするつもりだったのです。


ところで、ペリーは、日本人に接して日本に対してどういう印象を持ったのでしょう。
『ペリー提督日本遠征記』にはこう記してあります。

「日本に関していえば、実際的、機械的な技術分野では、日本人の腕前は大したものである。彼らの粗末な道具や、機械の知識の不完全さを考えてみれば、彼らの手先の器用さは驚異的に思われる。

 日本の職人の技術の高さは、世界のどの職人にも劣らないものであり、国民の発明力がもっと自由に発揮されるならば、世界のもっとも進んだ製造業国に肩を並べる日も遠くないことであろう。

 他国民の物質的進歩の成果を学びとろうとする好奇心とそれらをすぐに自分たちの用途に適用させようとする進取性をもってすれば、彼らを他国との交流から隔離している政府の方針がゆるめられれば、日本人の技術は、すぐに世界のもっとも恵まれた国々とならぶレベルに到達するであろう。

 文明世界の今日までの蓄積をひとたび手にすれば、日本人は、強力な競争相手として将来の機械的技術の競争に仲間入りするであろう」


 なんとペリーは、現在の世界に冠たる技術立国日本の姿を予見していたのです。


 ただ単に、怖い顔をしていただけじゃないのですね。

 例えば、多くの発展途上国は日本の明治維新を見習って近代化を進めようとしました。ところがあまりうまくいっていません。

 ペリーの洞察の通り、実は日本は開国以前から近代化をする土台は十分にできていて、あとはきっかけだけだったのです。

 堤磯右衛門(つつみいそえもん)が描いた「蒸気船ミッセシペン号」





 磯子村(現横浜市磯子区)の村役人、堤磯右衛門さんが描いたペリー艦隊の蒸気フリゲート艦ミシシッピー号です。素人が描いた黒船図なのに、構造が細密に描かれています。

 「黒船を見物する人びと」





 ペリー艦隊は2ヶ月余り東京湾に停泊しました。慌てふためく武士を横目に、庶民はすっかり物見遊山気分。お茶を飲んだり煙草を吸ったりしてのんびりこ。
 左端の人は望遠鏡を手にしています。

 日本人の珍しい物好きは変わってないねえ。

 ということで、次に続きます。


 次回はこちら。
【参考資料】
横浜今昔散歩 原島広至 (株)中経出版 
横浜開港資料館 総合案内 たまくす 横浜開港資料館 







靖国神社にお詣りしたよ(その3) 【ファイルET30】2011.05.21 靖国神社にお詣りしたよ(その3)

【ファイルET30】2011.05.21 靖国神社にお詣りしたよ(その3)

拝殿でお詣りしたよ。

 最初からご覧になられる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52046335.html

 青銅大鳥居と神門です。





 下乗の札が立ててあったので、ここで私は馬から降りました。
 うそです。最初から馬になんか乗っていませんでした。すみません。

 神門前の第2鳥居は、柱の高さが15m、笠木の高さが18mで、青銅製の鳥居としては日本一の大きさを誇っています。

 その大きさにもかかわらず、まったく継ぎ目がありません。

 これは明治の最先端技術を駆使して、明治20(1887)年大阪砲兵工廠(こうしょう)の反射炉において制作されたものだからです。


 大灯籠が建っています。





 第二鳥居の手前左右に日本一大きい花崗岩(かこうがん)の灯籠が設置されています。

 昭和10(1935)年に、富国徴兵保険相互会社(現フコク生命)より奉納されたもので、その高さは13m。

 灯籠台座部分には日清戦争以降の代表的な戦闘を描いた絵画銅板(レリーフ)が埋め込まれており、神社に向かって左側に陸軍、右側に海軍のレリーフが各7面ずつ設置されています。

 縦97㎝、横137㎝のレリーフは、正木直彦氏(帝国美術院長)監修の下、4人の彫刻家によって制作されたもで、終戦直後にレリーフが撤去されそうになったのですが、レリーフを隠す工事を施して撤去を免れました。


 神門です。





 この門が靖国神社の正門です。

 完成は昭和9(1934)年。平成6(1994)年には修復工事が行われました。

 高さ6mの扉には直径1.5mの十六八重表菊(じゅうろくやえおもてぎく)の紋章が付けられています。
 帝国海軍軍艦の象徴として戦艦や航空母艦の艦首に取り付けられていた菊の紋章の倍の大きさの巨大な紋です。





 菊紋の内、八重菊を図案化した菊紋である十六八重表菊は、日本の天皇と皇室を表す紋章です。

 俗に菊の御紋とも呼ばれ、親王などの皇族はこの紋の使用が明治2年の太政官布告をもって制限されました。大正15年の皇室令7号13条発布を経て「十四裏菊」や「十六裏菊」に独自の図案を加えたもの(有栖川宮家・伏見宮家など)や「十六八重表菊」を小さな図案によって用いたもの(秩父宮家・三笠宮家・久邇宮家など)を各家の紋としています。

 菊は、奈良時代末期に、唐から日本に、当初は薬草として渡来し、後に観賞用になったと考えられているそうです。

 菊花紋は、鎌倉時代に、後鳥羽上皇がことのほか菊を好まれ、自らの印として愛用したのに始まり、その後、後深草天皇・亀山天皇・後宇多天皇が自らの印として継承し、慣例のうちに菊花紋、ことに十六八重表菊が天皇・皇室の「紋」として定着しました。


 また、日本国発行の旅券(パスポート)の表紙にも、同様に菊の御紋をデザイン化した八重(やえ)ではない、「十六菊(じゅうろくぎく)」が使われています。

 靖国神社では、神門の前が記念撮影ポイントになっていて、写真屋さんが常駐しています。

 神門越しに東側を望む。





 中門鳥居と拝殿です。





 拝殿手前にある鳥居は、当初は扉がついた門があったことから中門鳥居と呼ばれています。

 現在の鳥居は、昭和50(1975)年に材木商の有志が献納したものです。材質はヒノキで、樹齢二千年以上の大ヒノキが使用されています。

 青銅の灯篭です。





 背景の緑の木は、靖国神社の桜です。

 靖国神社の桜は、木戸孝允(きどたかよし)により明治2年の創立から境内に植えられたと伝えられたと伝えられています。
 昭和31(1956)年に東京新聞社から百本の桜の木が奉納されるなどその後数も増え、今では東京の桜の名所として都民に親しまれ、春は多くの花見客で賑わいます。

 現在、ここ靖国神社のソメイヨシノが東京の開花予想標本木になっています。
 
 昭和28(1953)年に開花予想がはじまった当初は、東京・大手町の気象台構内にあった桜が使われていましたが、都市開発の影響を受けにくい等の理由から、昭和41(1966)年に靖国神社境内の桜に変更されました。

 日本の首都東京の桜便りは、靖国神社から発信されるのですね。

 敷島の大和心を人問はば、朝日に匂ふ山桜花

 と詠んだのは本居宣長でしたね。
 『敷島の』はやまと(大和)に掛かる枕詞。『匂ふ』は照り映えるの意ですから、『大和心とは何かと人が尋ねたら、朝日に照り映える山桜の花だと答えよう』という意味の歌ですね。

 拝殿(はいでん)です。

















 一般的な参拝はこの拝殿前の社頭で行います。
 拝殿の中では、大小さまざまな戦友会、遺族会などの団体参拝や、舞踊、合唱の奉納なども行われます。

 明治34(1901)年の建築で、拝殿は曲線美が巧みに取り込まれています。

 拝殿と本殿は回廊でつながっていて、祭典があるときには、拝殿の幕が通常の白い幕から、紫の幕に替えられます。

 お詣りの仕方は普通の神社と同じです。念のために記しておきますね。

 まず、参拝前に神門前の手水舎で手を洗い口をすすぎます。これは、心身の穢(けが)れを除くために、水に身を注ぐ「禊(みそぎ)」と同じ行為です。

 最初に左手から清め、右手を清めます。次に左の掌(てのひら)で水を受け、その水を口に含んですすぎます。
後に使う人のために、柄杓(ひしゃく)の柄(え)を立てて残りの水を柄に沿って流して返します。
 
 身を清めた後は、
 拝殿の前に立ち、 まず、一揖(いちゆう=浅くおじぎ)します。
 鈴がある神社ではここで鈴を鳴らすのですが、靖国の拝殿には鈴はありません。
 賽銭(さいせん)をあげ、姿勢を正し、「二拝二拍手一拝」をします。

 「二拝二拍手一拝」の方法は、

 深く二度頭を下げ(二拝)、二回拍手をし(二拍手)、
 再び、両手をあわせ、揃えて祈念をこめてから手を下ろします。

 靖国神社の御祭神は日本のために一命をかけた英霊の方々なので、基本的には国家安泰・護国平安の祈念する神社ですが、各位各社の業務反映及び家内安全・社内安全の御利益もあります。

 いずれにせよ、祈念の際には、祖国のために亡くなられた英霊に感謝する気持ちを忘れてはいけません。

 最後に一度頭を下げます(一拝)。


 ということで、お詣りが済んだところで次に続きますね。

 次はこちら。
【参考】『靖国神社をどう考えるか?公式参拝の是非をめぐって』(加地伸行、新田均、三浦永光、尾畑文正:小学館文庫)







おたる水族館のギンポさんたち 【ファイルC225】2011.05.18 

【ファイルC225】2011.05.18 おたる水族館のギンポさんたち

とても愛嬌があるお顔だねえ。

 おたる水族館に行ったのも随分と前の話になります。
 
 まだまだ紹介したい子たちがいるのですが、今回はギンポさんです。

 ムロランギンポ(タウエガジ科)さんです。



 

 こんにちは。良いお顔だねえ。

 多分、こちらが、ナガガジ(ゲンゲ科)さんです



 

 ギンポとさんというのは、ニシキギンポ科・タウエガジ科・ゲンゲ科のお魚の総称です。

 新潟県以北の日本海側、北海道東部。日本海北部、オホーツク海。沿岸の砂泥底や汽水域にお住まいです。

 体長50㎝ほどに成長します。

 体は細長く、主に岩場に生息し、岩の間に身を隠していていることが多い魚なのだそうです。

 でもここに住んでいるギンポさんは人になれているのか、悠然と泳いでいます。



 

 それにしても、ギンポさんて、変な名前だねえ。

 名前の由来については、ギンポの多くは死んだときに体がかたく棒のようになり、同時にシロっぽくなるので、『銀棒』がなまって『ぎんぽ』と呼ばれるようになったという説があるそうです。

 うへえ、死に様を名前にするなんて酷い話だねえ。

 皆さん集まって記念撮影。



 

 ここに、フサフサがついたフサギンポ(タウエガシ科)さんもいるはずなのですが、隠れているのか、見当たりませんでした。

 一人だけ目立ってずるいねえ。



 

 長い体だねえ。



 

 にょろにょろ泳いでいます。



 

 最後に、ヒレを振ってご挨拶 



 

 さようなら、元気でね。

 ということで、愛嬌があるギンポさんでした。









横浜港の散策だよ(その7) 【ファイルT153】2011.05.15 

【ファイルT153】2011.05.15 横浜港の散策だよ(その7)

横浜開港資料館は旧英国領事館だったんだよ。

 その1からご覧になられる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51882527.html

 横浜港は史跡が集中しているので、キング、クイーン、ジャックの塔のすぐ近くをまだまだうろうろしています。横浜は史跡の密度が濃いねえ。

 今回は横浜開港資料館(旧英国領事館)をご紹介します。





 旧英国領事館は、英国工務省の設計で、昭和6(1931)年に建てられました。鉄筋コンクリート造3階建一部地階付、銅板葺屋根をもつ邸館風建築で、古典主義建築の秀作です。

竣工1931年(昭和6年)
所在地神奈川県横浜市中区日本大通3
設計英国工務省
施工昭和土木建築
構造鉄筋コンクリート3階建て、地下1階、銅板葺

 英国総領事館は、昭和47年(1972)年に横浜での業務を停止しました。そして、昭和56(1981)年この建物を利用して、横浜開港資料館が開館しました。

 18世紀のジョージアンスタイルのデザインで、特徴的な玄関周りです。

 旧館入り口から入ります。





 丸窓が可愛いねえ。





 ドアの上の装飾です。





 本来、こちらが裏なのかな?

 入ってすぐの所にある記念ホール(旧待合室)です。





 少し曇っていたので暗かったのですが、床がぴかぴかだねえ。

 中庭の中央に大きな玉楠(たまくす)の木が植わっています。





 立派な柱が立っているので、こっちが入り口みたいです。

 この玉楠の木は、江戸時代からあって、日米和親条約は、安政元(1854)年この木の近くに設けられた応接所で結ばれました。

 玉楠の木の下には玉楠の碑があって、碑上面の「ペリー提督横浜上陸」の図は、アメリカ日本遠征艦隊の随行画家ハイネの原画による石版画(横浜開港資料館所蔵)を、陶板の上に複製したものです。

「ペリー提督横浜上陸」の図。





 図の右にある大木が玉楠の木の元の姿といわれています。

 今の玉楠の木の全景。





 中庭いっぱいに枝を伸ばして、堂々としています。後ろに見えているのが新館です。

 玉楠(たまくす)の木は、ペリーの来航から現代までの横浜の歴史を見守り続けてきた生き証人です。

 玉楠の木は、大火や、大震災、横浜大空襲に遭い、その度に枝が焼け落ちたのですが、残った根からは新たな芽が伸び、今日の姿にまで成長を遂げてきました。
玉楠の位置は、1931(昭和6)年、ここイギリス総領事館建設時にこの位置まで約10m移動しました。

 玉楠の木を背に旧館正面入り口を見上げます。





 領事館の頃は、ここに英国王室の紋章が掲げられていたそうです。
 英国大使館の紋章の記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51743105.html

 柱頭(キャピタル)のアカンサスの葉と蔓も立派だねえ。
 



 
 三角形の破風飾り(ペディメント)を載せた窓です。



 

 こっちは円い窓だねえ。
 


 

 写真左側が旧館で、右側が新館です。





 獅子共用栓とブラフ溝です。





 この共用栓は、日本最初の近代水道となった横浜水道(明治18~20年)創設時市内各所に配置されていたものです。

 当時家屋内に蛇口を引く例は少なく、路頭の共用栓から水の供給を受けるのが一般的で、創設期600基がイギリス・グレンフィールド社から輸入されました。
 
 また、水受石は、山手の坂道など居留地時代の道路側溝に使用されていた石材を再利用したものです。
<共用栓(複製):横浜市水道局寄贈/ブラフ溝:横浜市中土木事務所寄贈>

 獅子共用栓のアップです。





 煉瓦が斜めに積まれていてお洒落です。





 ということで、次に続きますね。








両国の『天亀八』の特上かき揚げ丼セットを食べたよ 【ファイルF46】2011.05.12 

【ファイルF46】2011.05.12 両国の『天亀八』の特上かき揚げ丼セットを食べたよ

さくさくかき揚げは美味しいねえ。

 これも以前両国に行った時の記事なのですが、あまり古くなると良くないので、先に載せますね。

 ↑
 ※)こう言ってUPして調べたら、現在老朽化した店舗を建て替え工事中のようです。
   未確認情報ですから直接ご確認いただきたいのですが、どうやら、来年6月頃営業再開予定みたいです。
   そのあたりをお含みの上、記事をお読み下さいね。

 このあと浅草に行くつもりだったので、浅草の天丼でもと一瞬思ったのですが、あっちの名店は並ぶし、座ってから出てくるまで待たされるので、手軽にお昼をといった感じではありません。

 それで、以前食べて美味しかったお店をリピートすることにしました。

 江戸東京博物館東側すぐ近くにある天ぷら屋さんの『天亀八(てんかめはち)』です。


 


 1949年の創業の老舗で、かき揚げ丼が名物です。

 11:30の開店直後だったので、私が一番乗りでした。

 でも、その後常連さんとおぼしきお客さんが、ぞくぞく入ってきました。

 出張に来た人を地元の人が連れてきたといった風情のサラリーマンのグループもいます。

 11:30~14:00までのランチタイムの特別メニュー、特上かき揚げ丼セット2,800円なりを注文しました。

 天ぷら定食なら1,200円ですが、ここでランチは贅沢だねえ。

 それで、まずお茶・おこうこが出てきて、そんなに待たされずにかき揚げ丼が登場します。


 


 てんこ盛りのかき揚げのせいで閉まりきらない蓋の傾きが嬉しいねえ。

 でも、この蓋ってなんか意味でもあるのかな?

 出してから食べるまでの間に蒸らしてるのかな?

 ここのかき揚げは、立ち食いそばのかき揚げのように薄い円盤状ではありません。
 立体的で適度にとげがあって、お箸をいれるとザクザクと崩れるんです。


 


 ネタは築地から仕入れている芝エビ、紋甲イカ、小柱なんだって。

 かき揚げをほぐしながらご飯と一緒に口の中に入れます。
 口の中で味が混ざって美味しいよ!

 サクサク衣にイカはしこしこエビはぷりぷりだねえ。

 大きなタネの天ぷら丼だと、天ぷら単体とご飯という感じで食べ進めるんですけど、かき揚げはご飯と渾然一体になるところがいいねえ。

 カツオ出汁のきいた関東風の『カド』のあるお醤油だれと、ごま油がきいた香ばしい油がなじんでいるねえ。

 
 シジミの赤だし味噌汁にはシジミがたくさん入っていましたよ。


 


 結構関東では、だしだけとって、実は食べずに捨てちゃう人がいるのですが、栄養があるからちゃんと食べるよ。美味しいねえ。

 おこうこが、いかにも『発酵した』という味がして美味しいねえ。


 

 
 江戸前天ぷらというのは、油の後味が独特で、おこうこと味噌汁と濃いお茶との組み合わせが最高だねえ。

 ということで、江戸下町風天丼独特の味わいを楽しむなら、このお店です。

 関西風の薄口あっさり天ぷらじゃなきゃ!という人には少し重たいかも・・・。

 私はこういうお味好きですよ。

 ごちそうさまでした。








靖国神社にお詣りしたよ(その2) 【ファイルET29】2011.05.09 

【ファイルET29】2011.05.09 靖国神社にお詣りしたよ(その2)

大村益次郎さんの銅像だよ。

 最初からご覧になられる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52046335.html

 靖国神社には大きな銅像が建っています。

 日本陸軍の創始者で、靖国神社を創建に尽力した大村益次郎(おおむらますじろう)さんです。





 大村さんは、「トコトンヤレ節」(宮さん宮さん)の作曲者としても有名です。
 作詞は品川弥次郎さんです。

 品川弥次郎さんの記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51657940.html

 銅像の高さは12m。銅像の足下には、三条実美(さねとみ)の撰文か鋳刻され、弓矢をデザインした鉄柵と大砲8門が配置されていましたが、それらは昭和18(1943)年に撤去され、金属供出のため陸軍省に献納されました。

 現在も、基壇にはその鉄柵の跡が残っています。

 東京招魂社(現在の靖国神社)の建立を献策し、社地の選定を任された大村さん達は、急遽候補地の選定にあたります。

 当初は、政府参与だった木戸孝允(きどたかゆき)の案で上野が候補地に挙がったのですが、大村さんは、上野は東京城の鬼門にあたるばかりか、新政府を敵とした彰義隊との戦いの跡がなまなましいなどの理由から、自らが選んだ九段坂上のこの地に決定したのです。

 上野戦争の新政府軍の指揮を執っていたのが、他ならぬ大村さんだったので、さすがに上野に東京招魂社を建てるわけにはいかなかったのですね。

 大体、江戸っ子は田舎者の成り上がった新政府軍を嫌っていて、彰義隊贔屓でしたからね。

 上野の彰義隊の記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/48584057.html


 大村益次郎さんは、日本陸軍の創設者ではありますが、もともと武士ではありません。

 文政7年(1824)年、長州の町医者の家に生まれました。

 23歳で蘭学者緒方洪庵(おがたこうあん)のもとで学び、1853年、宇和島藩に洋式兵学の専門家として招かれました。

 その後、幕府講武所教授になり、それから長州藩で士官養成に当たりました。

 益二郎さんの頭脳は明晰(めいせき)で、合理的な思考の持ち主でした。

 それは、大村益次郎さんの肖像画を見れば一目瞭然です。





 大きな頭だねえ。

 いかにも、この頭の中に脳みそがびっしりと詰まっていそうですね。

 長州藩ではその風貌から「火吹き達磨(ひふきだるま)」のあだ名を付けられたそうです。酷いあだ名だけど、的を射ていて笑っちゃうねえ。

 このあだ名は同じ長州出身の周布政之助(すふ まさのすけ)さんが付けたとも高杉晋作(たかすぎ しんさく)さんが付けたとも言われているそうです。口が悪い人達ですね。

 銅像の益二郎さんの頭も大きいのですが・・・。





 さらに大きな頭の肖像画がこちら。





 私は昔、歴史の参考書か何かでこの肖像画を見て余りに大きな頭にびっくりして、ずっと忘れられませんでした。私の頭の中では、こんなイメージで記憶されています。

 私に脳内変換された大村益次郎さんのイメージ。





 偉人のお顔で遊んじゃだめだねえ。

 大村さんは、頭が良い分合理的で冷徹な思想を持っていました。

 志士のことも「ただのゴロツキ」と馬鹿にしていて、性格もドライで、情に篤い西郷隆盛さんとはソリが合わなかったとされています。

 長州藩で大村さんは藩の軍政を改革、軍隊の近代化をめざし、新式銃購入のため、自ら上海へ出向いたりもしました。

 その時、イギリスに侵略・植民地支配され、酷い目に遭っていた清の実情を把握したのでしょうね。このままでは、日本も清のようになってしまいます。

 1866年の第二次長州征討(せいとう)に際して、大村さんは長州軍の参謀として参加、軍事的才能を発揮しました。

 さらに1868年5月、寛永寺を拠点として新政府軍に対抗していた彰義隊(しょうぎたい)に、アームストロング砲を撃ち込んで圧勝しました。

 この彰義隊を1日で壊滅させた上野戦争で、大村さんの名は更に高まりました。

 上野戦争に際して、最激戦が予想された黒門口に薩摩兵が配備されると知った西郷隆盛さんは「薩摩兵を皆殺しにするつもりか」と聞くと、大村さんは「さよう」と答え、西郷さんは沈黙したという逸話が残っています。

 そもそも西郷さんは、江戸城下を戦火に巻き込みたくなかったから勝海舟さんの江戸城無血開城に応じたわけですから、勝海舟さんともども、新政府軍と彰義隊との摩擦に頭を悩ませていたのです。

 銅像の大村さんは左手に双眼鏡を持っています。





 これは上野戦争の時、江戸城の富士見櫓で指揮を執っていた大村さんの雄姿を現しているのだそうです。

 江戸城の富士見櫓の写真(再掲)






 後ろ姿はこんな感じ。





 勝海舟さんの『氷川清話(ひかわせいわ)』には「大村益次郎などといふ男がおれを悪(にく)んで酷くいじめるので」と、この頃の事が少し触れられています。
(講談社学術文庫 勝海舟『氷川清話』P378、P54)

 長州側は、江戸城無血開城を果たした薩摩と勝海舟の癒着を疑っていて、彰義隊の上野戦争のときには、大村指揮下の新政府軍の一隊が海舟の家を荒らしたのです。

「ちやうど彰義隊の戦争の日だったが、官軍二百人ばかりで、おれの家を取り囲んで、武器などはいつさい奪ひ去つてしまつた。しかし、おれが幸に他行(たこう)して居たために、殺されることだけはまづ免れた」


 明治新政府では、大村さんは兵部大輔(ひょうぶたいふ)となり、近代陸軍の建設に着手します。

 徴兵制を敷き、民主的国民軍の創設を目指す一方、藩兵の廃止、帯刀の禁止など武士の廃絶を目論みました。

 そのため士族から恨みをかい、1869年に京都で同郷の元長州藩士の団伸二郎ら8名の刺客に襲われ、その後、搬送先の大阪で蘭医ボードウィンによる左大腿部切断手術を受けましたが、治療もむなしく敗血症で亡くなりました。

 享年45歳でした。

 大村益次郎さん遺志を引き継いだ山縣有朋(やまがた ありとも)の時に、明治6年(1873年)に国民皆兵を謳った徴兵令が制定され、それによって組織された明治政府軍は、西南戦争で活躍し、明治10(1877)年に西郷隆盛さんを自決に追い込んだというのは、皮肉な運命です。

 ということで、大村益次郎さんは、どうも歴史ファンに人気がある偉人と敵対している場面が多くて、旗色が悪いのですが、近代日本の建設に大いなる貢献があったのは間違いありません。こういう有能な実務家も国家には必要なんですよね。

 これで大村益次郎像、楠木正成(くすのきまさしげ)像、西郷隆盛(さいごうたかもり)像という東京の三大銅像が揃いましたので、改めて紹介します。

 皇居外苑の楠木正成像(再掲)





 楠正成公の記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51551744.html

 上野の西郷隆盛像(再掲)





 西郷隆盛さんの記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/48529624.html


 ということで、頭が大きくて頭脳明晰な大村益次郎さんの記事でした。

 次に続きますね。

名古屋港水族館のマイワシさんだよ 【ファイルC224】2011.05.06

【ファイルC224】2011.05.06 名古屋港水族館のマイワシさんだよ

イワシトルネードはスペクタクルだねえ。

 気仙沼のこいのぼりは、マグロさんも泳いでいました。一日も早い復興をお祈りします。

 かなり以前に行った名古屋港水族館もまだまだ紹介し切れていません。

 名古屋港水族館のゴールデンウィークは、さぞかし混んでいるだろうねえ。

 今回はマイワシの群れの展示についてご紹介します。

 名古屋港水族館マイワシさんたち。



 

 イワシさんは、大きな群れをつくって日本近海を回遊しています。

 餌をとるときは口を開けたまま泳ぎ、海水とともに入ってくるプランクトンを櫛のような器官で濾(こ)しとって食べます。

 大量に漁獲されて養殖魚の餌としても使われますが、数十年という周期で漁獲量が大きく変動します。

 大衆魚と言われたイワシさんも最近は獲れなくなっているって言うし。

 名古屋港水族館南館2階「黒潮水槽」にお住まいなのは、大きさ20cm程度のマイワシさんで3万匹ほどいるようです。

 イワシさんは、目刺しになったり、シラスになったり、いろんな食べ方があります。

 塩焼き、フライ、天ぷら、酢の物、煮付、たたみいわし、煮干し、みりん干し等々。

 イワシのパスタも美味しいねえ。

 それから、イワシさんは、いろんな動物の餌になるからねえ。魚や人間だけでなく、海鳥にも食べられるし。

 それで、イワシさんとしても、ただ手をこまねいて食べられているわけにもいかないので、群れて防御しているんだね。

 バブルの時代を境目に、全国の水族館で巨大水槽がぞくぞく作られ、今の水族館ブームに至っています。今は一過性のブームではなく、水族館鑑賞は文化として根付いていますね。

 巨大水槽と言えば、もちろん、沖縄美ら海水族館や大阪海遊館のようにマンタや巨大ジンベイザメ展示も圧巻なのですが、イワシさんの群れも大したものなのでした。

 シュモクザメさんの周りにはスペースがあって、ゆったりこん。



 

 イワシは、イワシだけ入れても群れず、天敵のサメさんと同居させることによって、身を守るために群れるんだって。

 一人一人はこんなにちっぽけなのにねえ。



 

 こんなにびっしり泳いで良くぶつからないねえ。



 

 サメさんが、イワシさんに圧倒されています。まるでイワシさんの引き立て役だねえ。



 

 餌のイワシさんに囲まれて、サメさんはヘンゼルとグレーテルがお菓子の家に入ったような気分なのでしょうね。



 

 イワシトルネードタイムまで、まだ少し時間があったので、よそのお魚さんを見ます。
 
 イワシさんは、漢字で『鰯』と書くように、『魚偏(うおへん)』に『弱い』と書きます。


 それほど弱いから、水族館まで運んできて、展示するのは大変なんだそうです。

 展示のためのイワシを生け捕る専門業者があって、お仕事のドキュメンタリーをテレビでやっていました。

 静岡県三島市にある『ブルーコーナー』という会社だそうです。

 ここでは、世界中から集められた3,500種類の魚たちを扱っているんだって。

 お隣の中華人民共和国では今、水族館の建設ラッシュが起きていて、青島(チンタオ)にある水族館から一万匹の大量発注を受け、いよいよ会社の生け簀(いけす)に集まったイワシさんを納品しようという段階で、突然のドタキャン電話が!

 共産党の幹部が、やっぱりイワシよりジンベイザメが良いと、急に気が変わったのだそうです。

 うへえ!迷惑な話だねえ。

 かの国は、こういうトラブルがごく普通に生じるので、要注意です。


 魚を手配したブルーコーナーの石垣さんは真っ青です。

 会社の狭い生け簀にイワシを長時間いれることは大きなストレスになります。

 また、水質が少しでも悪化すると全滅するほど、イワシはデリケートな魚なのです。

 また、イワシをこまめにチェックしてアンモニアを分解する薬を水槽に入れたり、お世話が大変なのです。

 急いで引取先を工面しないと、イワシさんが死んでしまいます。

 「イワシの数は足りていますか?」って日本全国の水族館にセールス電話をかけまくって、ようやく石川県の『のとじま水族館』が引き取ってくれたという場面を映していました。


 そうこうしているうちに、イワシトルネードタイムが近づいて、見物するために水槽の前にお客さんが座り始めます。

 イワシさんも鼓(つづみ)の形にぐるぐる泳いでスタンバイです。



 

 わくわくするねえ。

 イワシトルネードタイムが来ると、照明が暗くなり、スポットライトが浴びせられ、餌が与えられます。

 マイワシの餌は、養殖のマダイ用のペレットなんだそうです。

 コイや金魚の餌のような感じで、大きさは1mmくらい。ビタミン剤もまぜてあります。

 これをひものついたビニールの袋に詰めて水槽の中に入れて、袋が水槽の底近くまで沈んだら、ひもを引っ張り袋を振って、餌をまき散らします。

 それを水槽のあちらこちらで何回も繰り返すのです。

 わ~い。餌がまかれたよ!



 

 イワシさんは大喜び。猛スピードで泳ぎます。

 渦を巻くように様々な形を織りなしていくのです。これがイワシトルネード(竜巻)なんだねえ。

 水槽一面に広がったかと思うと、



 

 フリーフォールみたいに真っ逆さま。



 

 写真では分からないのですが、イワシさんの銀色の身体に光が反射して、チカチカとまるで流星雨のようにきらめきます。

 今光っているところが暗くなって、暗いところが光って、とっても綺麗なんだよ。

 群れの形が変わる度にお客さんがどよめきます。

 別に誰が指揮をとるわけでもないのに、群れは秩序正しく様々な形の渦をかたどっていきます。

 N字型。



 

 サメさんを避けて・・・。



 

 ところが、イワシさんは、餌が欲しくてサメさんの恐怖どころではありません。



 

 赤信号みんなで渡れば怖くない。

 絵にも描けない美しさです。



 

 良いもの見せてもらったねえ。

 こればっかりは、写真やビデオじゃなくて断然生で見ないと迫力が伝わりません。

 大水槽をキャンバスにした動くアート作品だねえ。


 以前、テレビを見ていたらば、 “風の画家”と称される日本画家の中島潔(なかじまきよし)さんが、京都の清水寺成就院(きよみずでらじょうじゅいん)に襖絵(ふすまえ)を奉納したというニュースをやっていました。

 その中でも目を引いたのが、詩人・金子みすゞに触発されて描いた『大漁』の8枚で、金子みすゞの姿を中心に、びっしりとイワシの群を描写している大作です。

 中島潔:『大漁』の部分(佐賀新聞より)。



 

 これは明らかにイワシトルネードだねえ。

 最新の技術が産んだイワシトルネード展示が芸術家にインスピレーションを与え、伝統ある清水寺の襖絵になって奉納され、後世に伝えられるというのは、素晴らしいことですね。

 ということで、水族館は日本人の美意識をも変えているのでした。

 皆さんも、イワシトルネードをやっている水族館に行ったときは見逃さないでくださいね。








横浜港の散策だよ(その6) 【ファイルT152】2011.05.04 

【ファイルT152】2011.05.04 横浜港の散策だよ(その6)

三代目横浜税関庁舎(現庁舎)はクイーンの塔だよ。


 横浜港の散策の続きです。
 その1からご覧になられる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51882527.html

 
 以前ご紹介した、横浜市開港記念館や、前回ご紹介した神奈川県庁の港側に

 三代目横浜税関庁舎(現庁舎)はあります。





 万国橋越しに見た横浜税関。





 煉瓦倉庫前の交差点から見た横浜税関。





 横浜市認定歴史的建造物(2001年度認定)。増築部施工には戸田建設が携わり、第46回BCS賞(2005年度)を受賞している由緒あるビルです。

 横浜税関(よこはまぜいかん)は、南東北および関東地方にある都県のうち、東京税関の管轄外である太平洋側の地域を管轄する税関です(昭和28《1953》年に東京税関を分離しました)。

 税関の仕事には、税金を集めること、輸出入する品物をチェックすること、密輸を防ぐために検査をすること、などその他にたくさんの役割があります。それらをすることによって、スムーズに貿易を行うことができるようになります。主な仕事として、

① 海外旅行者の荷物を検査する

 海外旅行から帰国した人の荷物も検査が必要です。これは、一般の輸出や輸入の手続きよりも簡単な取扱いになっています。輸入する物については、お土産の合計金額が20万円までは税金がかかりませんが、20万円を超えた分には税金がかかります。
 また、輸入が禁止されている品物の取締りも行っています。

② 貨物、郵便物、コンテナ貨物を検査する

物を輸出または輸入しようとするときは、税関から許可を受けなければなりません。税関では、書類をチェックしたり、実際に品物の検査を行い、関税や消費税等がきちんと払われているかを確認したあと、許可を出します。
 また外国から届けられたり、外国へ送る郵便物に対しても税関で検査を行います。外国から届けられた郵便物に税金がかかる場合には、郵便局へ税金を納めることになっています。

③ 麻薬探知犬とパトロールする

外国から日本へ持ち帰ってはいけないものが、輸入品にまぎれていないかをチェックするために、日夜、港や空港でパトロールをしています。外国から日本へ持ち帰ってはいけないものが、輸入品にまぎれていないかをチェックするために、日夜、港や空港でパトロールをしています。

④ 監視艇でパトロールする

 税関監視艇は、海上をパトロールし外国と日本を行き来する船に対して、密輸入の取締りを行っています。

(税関キッズkids 税関のお仕事?http://www.customs.go.jp/osaka/kids/work/index.html
より)


 横浜税関の歴史は、横浜港の貿易の歴史でもあるので、少し詳しく見ていきます。



 安政6(1859)年、横浜税関の歴史は、横浜開港と同時に「神奈川運上所」を開設したことに遡ります。

 神奈川運上所は、現神奈川県庁の敷地に建てられ、前回、その碑についてご紹介しましたね。

 神奈川運上所跡=現神奈川県庁の記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52023105.html


 神奈川運上所は、神奈川奉行所の下で通関、入出港、両替、交渉、違法行為の取り締まりなど幅広い業務を取り扱っていました。

 神奈川運上所は慶応2(1866)年10月大火(通称:豚屋火事)により焼失し、再建された建物が慶応3(1867)年3月竣工します。

 その後、明治4(1871)年 神奈川運上所を横浜運上所に改称。

 明治5年(1872)年11月 全国の運上所の呼称が「税関」に統一され、横浜運上所も横浜税関に改称し大蔵省の所管となって通関事務などを主業務とするようになります(11月28日の税関記念日の起源)。

 そして、初代税関庁舎が明治6(1873)年12月竣工します(後に神奈川県に譲渡)。


 明治18(1885)年11月に二代目税関庁舎が竣工しますが、大正12(1923)年の関東大震災で倒壊します。

 その後は、財政窮乏が続いたため、税関の仕事は平屋のバラックで行われていました。

 そんな折り、時の大蔵大臣高橋是清(たかはし これきよ)が「失業者救済のため土木事業を起こすべき…」と提言し、

 昭和7(1932)年第22代税関長に就任した金子隆三(かねこ たかぞう)は、この意を受け失業者救済をかねて三代目税関庁舎(現庁舎)建設に着手し、急ピッチで建設が進められました。この時、“神奈川県庁(高さ49m)”と“横浜開港記念会館(高さ36m)”が港ヨコハマの高層建築物でした。

 塔の高さ47mの税関庁舎の当初の設計図を見た金子税関長は「日本の表玄関たる国際港横浜の税関の庁舎とするなら、高くすべき…」と言及。設計図が書き直され、当初より4m高い現庁舎“横浜税関(高さ51m)”となりました。


 そして、昭和9(1934)年横浜税関現本関庁舎(クイーンの塔)が竣工します。

創建時
竣工年 -昭和9(1934)年
構造規模 - SRC造、地上5階+塔屋
敷地面積 - 6,875m²
延床面積 - 12,184m²
設計 - 大蔵省営繕管財局(担当:下元連、吉武東里)
施工 - 戸田組(現戸田建設)

 設計の吉武東里(よしたけとうり)さんは、国会議事堂の実質的な設計者としても有名です。

 昭和18(1943)年 税関官制廃止(横浜税関は横浜海運局に統合)。

 昭和21(1946)年 横浜税関再開(東京・神奈川・埼玉・茨城・群馬・栃木・千葉・山梨・新潟・福島・宮城・山形の1都11県を管轄)。

 昭和28年(1953)年 横浜税関東京税関支署が独立し、東京税関となる。

 昭和30(1955)年 管轄地域が見直され、埼玉・群馬・山梨・新潟・山形を東京税関へ移管される。

 昭和41(1966)年 申告納税制度の導入

 昭和42(1967)年 横浜港における輸出入合計の年間貿易額が全国一となる(平成5年までの27年間)。

 昭和46(1971)年 成田空港開港(昭和53《1978》年)に備え、千葉・成田地区を東京税関へ移管。

 平成3(1991)年 海上貨物通関情報処理システム(Sea-NACCS)稼動。麻薬探知犬管理センター開設(その後、10年3月仙台も開設)

 平成 5(1993)年 航空貨物通関情報処理システム(Air-NACCS)が稼動。

 平成13(2001)年 横浜税関コンテナ検査センター(本牧)開設(その後、17年3月大黒に、18年3月仙台に、センターを開設)


 そして、平成15(2003)年10月に横浜税関本関庁舎の保存改修・増築工事が竣工しました。

保存改修工事後
竣工年:平成15(2003)年10月
構造規模 
改修部 - SRC造、地上5階+塔屋
増築部 - S造(一部SRC造)、地上7階
敷地面積 - 7,202m²
建築面積 - 4,012m²
延床面積 - 16,049m²
設計 - 香山・アプル設計JV


 資料展示室の入り口にはワンちゃんが立っています。





 国民に愛される税関のマスコットのワンちゃんだねえ。

 名前はカスタム君で、胸にC(英語のカスタムスの頭文字:CUSTOMS=税関)のマークのワッペンを付けています。

 麻薬探知犬をモデルとした税関イメージキャラクターなんだって。

 麻薬探知犬は、人間の数万倍といわれるすばらしい嗅覚をもっています。そのすばらしい能力を活用して、少しの匂いでも麻薬を見つけ出すことができるのです。

 麻薬犯罪を水際で防ぐよ!

 お役目ご苦労様です。

 カスタム君のプロフィール

誕生日 11月28日(税関記念日)
身長180cm
体重90kg
特徴まん丸い目とコロコロとした体
お仕事 税関のイメージキャラクターとしてPR活動を行なっており、密輸取締強化期間などに行われる、イベント・キャンペーンで活躍しています。


 入場無料の展示室の中には。開港からの横浜の歴史をつづるスクロール年表や貿易の変遷、輸出入通関の流れ、偽ブランド商品、ワシントン条約該当品、麻薬・けん銃などの密輸の手口等を実物の展示や映像により紹介していて、とても面白そうなのですが、この時は時間が無くて見ることができませんでした。

 
今度ゆっくり見てみたいねえ。

 建物の細部をご紹介します。


 見事な造形美を見せる正面玄関車寄せです。





 特に半円形のアーチはロマネスク様式の基本要素で、庁舎の主要なモチーフとなっています。
 

 壁が夕日に照らされるねえ。





 イスラムっぽい星の飾りです。





 屋根の飾りの形も変わっていますね。





 尖塔は、イスラムのモスク風の屋根です。





 屋根のアップです。





 最後に、これで横浜三塔と呼ばれ、横浜港のシンボルとして親まれているキング、クイーン、ジャックの塔の記事が揃ったので、並べますね。

 今回のクイーンの塔(横浜税関)昭和9年3月竣工(高さ51m)





 キングの塔(神奈川県庁)昭和3年11月竣工(高さ49m)






 ジャックの塔(横浜市開港記念館)大正6年6月竣工(高さ36m)
 記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51752953.html





 ということで、クイーンの塔の横浜税関でした。

 次に続きますね。

ロイヤルウエディングは華やかだったねえ。 【ファイルH31】2011.05.01 

【ファイルH31】2011.05.01 ロイヤルウエディングは華やかだったねえ。

やっぱり立憲君主国はいいねえ

 英国のチャールズ王太子と故ダイアナ元妃の長男で王位継承順位2位の英ウィリアム王子と、キャサリン(愛称:ケイト)・ミドルトンさんが平成23(2011)年4月29日にロンドンのウェストミンスター寺院でご成婚されました。おめでとうございます。

 

 画像がうまく見られないときはこちらへ。
http://www.youtube.com/watch?v=l42EH0W24eM

 結婚式は英国国教会の最高位聖職者、カンタベリー大主教が執り行い、挙式開始から約20分後、大主教が結婚の成立を正式に宣言、2人に祝福の言葉を贈りました。
 
 結婚前にダイアナ妃も愛用されていたエステで更にシェイプアップされ、細くなったはずのキャサリンさんの指が結婚指輪に上手く入らず、ウィリアム王子が相当緊張されていたのが分かりました。

 付添人にあたるベストマンを務めたヘンリー王子はリラックスされていましたね。

 イギリスでは、キャサリン妃の長い引き裾(トレーン)を持って歩いた花嫁の妹・ピッパさん(本名:フィリッパ・シャーロット・ミドルトンさん)の人気が急上昇みたいですね。

 式には各国の王族ら1900人が出席、沿道では大勢の人々が祝福しました。


 日本の皇太子・皇太子妃両殿下は、東日本大震災があったのでご欠席でした。

 両殿下ともにオックスフォード大学での留学を経験されていたので、残念でしたね。

 日本の皇室と英国王室は古くから交流があって、ケンブリッジ大学出身のチャールズ王太子は、皇太子殿下に「どうせなら、ケンブリッジに留学すれば良かったのに」と残念がっておられました。


 2011年3月18日、ウィリアム王子は、ニュージーランドの震災の追悼式典に出席され、スピーチに際して東日本大震災について言及されました。
「ニュージーランドの皆さんは、日本で起きていることに世界の誰よりも共感を感じることができるでしょう。日本の皆さんにも私たちの思いと祈りを伝えたい」

 ニュージーランドも国王(英: King/Queen of New Zealand)を国家元首とする立憲君主制で、ニュージーランド国王は連合王国国王(イギリス国王)と同一人物のエリザベスⅡ世女王陛下なのですが、王位は独立して存在する『同君連合』なのです。

 だから、ニュージーランド国王でもあるエリザベスⅡ世女王の代理として、ウィリアム王子が出席されたのですね。

 もちろん英国王室と日本の皇室は歴史も制度も違うのですが、権威と権力を分割し、政治と離れたところでこういう慶弔の言葉が交わせるのは、とてもありがたいことです。

 1981年7月29日にご成婚されたチャールズ王太子とダイアナ妃は1986年5月年に来日され、日本のご旅行を楽しまれ、日本中ダイアナ妃人気で大騒ぎでした。

 ウィリアム王子とキャサリン妃も、きっと遠くない将来に来日されるのでしょうね。

 極秘だった注目のウェディングドレスは、高級ブランド「アレキサンダー・マックイーン」のサラ・バートンさんがデザインした純白のものでした。

 1981年にダイアナ元妃が結婚式で着たドレスは約7.6メートルの長い引き裾が特徴だったので、今回も引き裾が注目されていたのですが、キャサリン妃は2.7メートルで地味に見えました。

 白のウェディングスタイルの起源は、ジョージ5世の祖母であるビクトリア女王とされています。大衆の流行を取り入れたビクトリア女王の選択が、王室婚礼の転機となったそうです。  

 それから、ウィリアム王子は2009年1月には、陸海空軍それぞれの大尉に昇進し、今回の結婚式のためにエリザベスⅡ世女王からアイリッシュガーズ近衛歩兵連隊の大佐に任命されたので、アイルランドの真っ赤な軍服でした。これはアイルランド問題に配慮されたのではないかと言われています。

 それで、イギリスのSF人形劇のサンダーバードの隊員のような、斜めにかけたブルーの飾り帯がRAF(英王立空軍)のものでした。

 エリザベス女王成婚50周年記念メダルもつけておられました。

 アヘン戦争でイギリスに酷い目にあい、植民地にされていたCHINAの人達は、これについて全然文句を言わず、CHINAに告げ口をして靖国問題をでっち上げた日本のマスコミも沈黙するどころか、ロイヤルウエディングに大はしゃぎしています。

 天皇陛下どころか首相が靖国に参拝するのも大騒ぎなのに、日本の皇太子殿下が軍隊に入隊して、軍服を着て結婚式に臨んでいたらば、日教組・左翼マスコミや子供の頃から国民を反日教育で洗脳している特殊アジアの国々はヒステリー状態になるでしょうに。

 テレビでは女子アナが、「イギリスは大盛り上がりです!」って、あんた、ロイヤルウエディングは居酒屋の宴会かい!?

 キャサリン妃は父が元航空会社社員(BAパイロット)、母が元客室乗務員(スチュワーデス)という『一般家庭』出身で、『未来の国王』が一般家庭出身の女性と結婚するのは、1660年のヨーク公(のちのジェームズ2世)以来、約350年ぶりだそうです。

 でも、お父さんが元ブリティッシュ・エアウェイズのパイロットって言うのは、庶民と言ってもねえ・・・。

 350年前の、1660年に庶民でイギリス王室にお嫁入りしたのは、アン・ハイド(Anne Hyde, 1637年3月12日または22日 - 1671年3月31日)さんです。

 アン・ハイドさんは、ヨーク公ジェームズ(のちのイングランド王ジェームズ2世)の最初の妻となりましたが、ジェームズの王位継承以前に死去したため、王妃にはなれませんでした。2人の女王、メアリー2世とアンの母です。

 アン・ハイドさんの父は初代クラレンドン伯爵エドワード・ハイドなのですが、結婚当時エドワード・ハイドは兄チャールズ2世の亡命政権の国務大臣でしかなく、爵位も領地もなかったので庶民扱いでした。でも、大臣だからねえ・・・。

 王族の一員となったキャサリンさんは「ケンブリッジ公爵夫人」の称号を与えられ、今後は愛称の「ケイト」ではなく、正式名を使い「キャサリン妃」と呼ばれます。

 でも沿道の人々は『ケイティー!』って声をかけていましたね。

 庄司智春さんの『ミキティー!』みたいだねえ。

 キャサリンさんの愛称は、他にキャシー、キティもありますね。

 キャサリン妃はキティさんでもあるんだねえ。

 馬車に乗るサンリオ・キティちゃん(再掲)。





 馬車に乗るサンリオ・キティちゃんの記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/50860158.html

 そういえば、レベッカさんの愛称はベッキーだし、伴天連(バテレン)の人達はややこしいねえ。

 また、日本と違って、庶民には家紋がないので、ケイトさんの紋章が作られました。

 紋章のデザインにはケイトさん一家がかかわり、父親のマイケルさんが紋章院に提出。イングランドの上級紋章員であるトマス・ウッドコック氏がデザインを承認しました。

 ひし形の紋章にはケイトさんと2人のきょうだいを表す3つのドングリがあしらわれています。





 どんぐりのなるカシの木は伝統的に英国や強さを象徴し、金色の山形の模様はケイトさんの母親の旧姓「Goldsmith」にちなんでいるそうです。

 色は英国旗で用いられている赤と青を採用。リボンで吊るされている部分は、ケイトさんが独身の娘であることを表現しています。

 マイケルさんの子ども3人にはこの紋章を使用する権利が与えられ、ケイトさんの弟のジェームズさんは自分の子孫に紋章を引き継ぐことができるそうです。

 英国王室の紋章は以前ご紹介しましたね(再掲)





 英国王室の紋章・英国大使館の記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51743105.html

 ということで、よくマスコミや政治家は、したり顔でグローバルスタンダードと言いますが、これってグローバルでも何でもないアメリカ化のことなんですよ。

 たった235年しか歴史のないアメリカにグローバルスタンダードって言われてもねえ。

 ユーラシア大陸を挟んで東西の両端にある島国のイギリスと日本は歴史と伝統の国で、似た部分があります。

 イギリス人の歴史と伝統に対する敬意については、日本人も見習うべき点がありますね。









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