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アメリカのセミ入りアイスが販売停止になったよ 【ファイルS30】 2011.06.28 

【ファイルS30】 2011.06.28 アメリカのセミ入りアイスが販売停止になったよ

13年に一度のセミさんだからねえ。

 以前、本ブログで17年セミさんと13年セミさんの御紹介をしました。
 記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/38884499.html

 ジュウサンネンセミさんのお姿(再掲)

 

 


 そしたらば、今年はアメリカ中西部では、今年が13年セミの当たり年だそうで、こういう記事が報じられました。

 ※  ※  ※

 セミ入りアイス断念=衛生当局「食品基準ない」―米
【時事通信 6月15日(水)5時35分配信】

 【シカゴ時事】米中西部ミズーリ州では今年、セミが大発生する当たり年で、同州コロンビアのアイスクリーム販売店がこのほど、セミを食材として調理し、アイスクリームとして発売したところ、店の予想に反して初回製造分が数時間以内に売り切れた。

 だが地元衛生当局の勧告に従い、販売を打ち切ったため、つかの間の人気商品に終わった。
 
 地元メディアによれば、セミ入りアイスクリームの商品化を決めた同店では、従業員が店の裏庭でセミを捕獲。羽を取って煮た後、ミルクチョコレートと砂糖をまぶし、アイスクリームに練り込んで提供した。
 
 同店は念のため、地元衛生当局に新商品を連絡すると、「セミの(適切な調理法などの)食品基準はない」との回答があった。

 セミは13年周期で大量発生するため、同店入り口の張り紙には「セミ入りアイスクリーム、2024年まで品切れです」と書かれているという。 

 ※  ※  ※

 肝心のお味の方は「セミ? まぁ、ピーナツとたいして変わらないよ」ということです。

 昆虫を食べる地域なんて世界中ざらにありますから、セミ入りアイスもアリでしょう。

 日本でもイナゴの佃や蜂の子、ざざむしを食べる地域があります。

 でも、庭にいるセミの体内には余剰殺虫剤が残っている可能性があるので、販売停止もやむをえない措置みたいです。
 
 それにしても、『裏庭でセミを捕獲』って、牧歌的な問屋制家内工業だねえ。

 次回の大発生までに『13年セミの食品基準』なんて出来るわけ無いし。

 なんせ、13年に一度の夏にしか売れない商品の食品基準作成のために、わざわざお金と手間暇なんてかけられないですよね。

 ということで、ここでも13年ゼミの生き残り戦略は功を奏したのでした。

 偉いねえ。

 なにはともあれ、乱獲されなくて良かった良かった。








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靖国神社にお詣りしたよ(その8) 【ファイルET34】2011.06.26 

【ファイルET34】2011.06.26 靖国神社にお詣りしたよ(その8)

三菱・零式艦上戦闘機五二型

 靖国の記事を、最初からご覧になられる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52046335.html

 遊就館入り口ホールに展示してあるのは三菱・零式艦上戦闘機五二型(A6M5)4240号機(尾翼番号81-161)です。





 この機体は、ラバウルの海軍航空基地にあった主胴体と、ミクロネシアのヤップ島で見つかった5機の「零戦」を持ち帰り、20年以上の歳月をかけて河口湖自動車博物館によって復元された五二型の内の1機です。

 三菱・零式艦上戦闘機五二型は、昭和18(1943)年8月、二二型をベースに、さらなる速度向上を目指して全面的に改良を加えた機体が仮称二二型改として試作され、さらに五二型と命名されたものです。

 再び主翼幅を11mに短縮し、翼端を楕円形に整形したうえで、栄(さかえ)二一型発動機(エンジン)に、それまでの集合排気管を推力効果のある単排気管に改めたのが特徴です。





 五二型は水平最高速度こそ565㎞/hに向上しましたが、一方で機体重量が増したことと翼面積が減ったことで翼面加重が増加。零戦本来の持ち味であった軽快な上昇性能と運動能力は大幅な低下を余儀なくされました。そのため、開戦時から零戦を駆っていたベテラン搭乗員達は、それまでと全く異なった戦闘方法をとらざるを得なかったと言われています。

 零式艦上戦闘機(れいしきかんじょうせんとうき:通称『れいせん』または『ぜろせん』)は皇紀2600年(昭和15年・西暦1940年)に採用されました。
 皇紀2600年=00年に採用された戦闘機ですから零戦なのですね。

 一般的には日本語表記の『れいせん』と呼ばれたと伝えられますが、大英帝国仕込みの大日本帝国海軍ですから『ゼロせん』とも普通に呼ばれていたようです。

 大東亜戦争開戦当初、零戦は世界トップクラスの性能を持っていました。

 当時の日本海軍の搭乗員達の技量の高さもあいまって、アメリカやイギリスなど連合軍の戦闘機に対して圧倒的な強さを誇りました。

 零戦の長所はまず、驚異的な航続性能があげられます。

 行動半径は約900㎞で、これは900㎞の距離の往復と30分ほどの空中戦闘ができることを意味します。
 さらには戦闘を行わずに巡航速度で飛んだ場合は、実に3300㎞近い距離を飛ぶことができました。

 写真の零戦が機体の下にぶら下げているのは、330リットルの落下タンク(落下増槽)です。





 早い話が補助燃料タンクですね。まず、この中の燃料から先に使って飛行し、作戦地域まで飛び、戦闘開始の時に、このタンクを落として身軽になって、本体の燃料タンクの燃料で戦闘を行い、基地に帰還することによって航続距離が飛躍的に延びるという寸法です。
 
 頭が良いねえ。

 それから、後方までぐるりと周りを見渡せる水滴型風防(バブルキャノピー)の採用で得られた視界の良さがあげられます。先手必勝の空戦では、見張り能力が勝敗の分かれ目になるのです。

 水滴型風防(バブルキャノピー)





 また、水平方向の機動性すなわち、旋回性能が優れ、小回りが利くので敵機とのドッグファイトの際、素早く敵の背後に回り込むことができるのです。

 短所としては、限界まで重量を切り詰めた結果、防弾性能が不十分で、僅かな被弾で墜落することがありました。
 また、コックピット周りの防弾板も不十分なため、搭乗員の死傷率が高いことも挙げられます。

 それから、極端な軽量化が逆にわざわいして、十分な急降下性能が得られず、せっかく追い詰めても、敵機に急降下機動で逃げられてしまうことが多かったようです。


 大東亜戦争初期は連戦連勝の日本軍でしたが、日本時間昭和17(1942)年6月5日のアメリカとのミッドウェー海戦でまさかの大敗北を喫します。この戦いで主力4空母を失ったことは、日本海軍にとって大打撃でした。

 この後、日本海軍機動部隊は正規空母2隻と改造空母や小型空母を建造しますが、戦力が戻った時には、熟練搭乗員を数多く失っており、もとの水準にもどることはありませんでした。

 また、さらに不運が重なります。昭和17(1942)年6月4日。ミッドウェー作戦と並行して行われたアリューシャン作戦で、零戦がほぼ無傷でアメリカ軍の手に落ちました。

 米軍はこの機体を修復の上、3ヶ月後には詳細な飛行実験を行い、零戦の性能、長所弱点を完全に解明することに成功します。

 開戦当初は世界のトップレベルだった日本海軍航空隊の航空搭乗員も、昭和19(1944)年になると、飛ぶことが精一杯で経験も浅いために、爆撃や雷撃も満足にできない者が大多数を占めていました。

 そこで、零戦も速度が速く成功確率が爆撃機より高いということで、神風特別攻撃隊(しんぷうとくべつこうげきたい)に編入されます。

 フィリピン戦、九州沖航空戦、沖縄戦(菊水戦)など終戦まで、この戦法は多用され、これだけで海軍2500名以上、陸軍1400名以上の搭乗員が散華されました。

 本当に胸が痛みます。


 零戦の機体のパーツを示しました。





 翼に装備されている2基の『20㎜機銃』は大きな破壊力を持つ画期的な装備なのですが、総弾数が少なく、重いので初速が遅く、命中精度に難があったようです。









 こういう具合に翼に取り付けられていました。



                                 上が側面図で、下が平面図です。


 『7.7㎜』機銃の銃身はパーツ名の写真を見ての通り、プロペラの先端より内側に設置されています。
 うへえ!そのまま撃ったら機関銃の弾が自分のプロペラに当たっちゃうよお。





 実はそうならないように、エンジンのカムシャフトの動きに連動して弾が発射されるような構造になっているので、弾は高速で回転するプロペラの間隙を縫うように飛んでいくのです。





 【徹底図解 零戦のしくみ 矢吹明紀 船田康宏 市ヶ谷ハジメ (株)新星出版社より】

 凄いねえ。びっくりするねえ。

 7.7㎜機銃は弾が20㎜機銃より軽く、直進性が高く命中精度が良かったため、こちらの方が実戦で活躍したようです。

 『ピトー管』は流体の流れの速さを測定する計測器で、これにより飛行速度を測ります。 

 尾輪の前にあるのが『着艦フック』です。





 空母に着艦するのは今も昔も至難の業です。
 
 狭い飛行甲板上に降りるには、着艦時に着艦フックを甲板上に張ったワイヤーに引っかけて強制的に引き留めていました(この方法は現在の空母も変わりません)。

 無事に着艦できる範囲は非常に狭く、限られていました。空母によって多少の違いはありますが、横5m、縦10mほどのわずかなスペースに時速100㎞ほどの速度で上空から接近し、左右の主脚を接地させなければなりません。
 しかも空母は向かい風を得るために前進していて、波に煽られて上下左右に揺れていますから、これはもう神業の域なのです。
 
 昭和19(1944)年頃から、空母に着艦できる技量を持つ搭乗員が激減したため、やむなく空母から発進し、作戦遂行後は至近の陸上基地に着陸するという有様でした。

 全金属製モノコック構造の機体の操縦は下図に示した装置で行いました。
 




 フラップ

 写真では見えませんが、主翼の赤枠の下面にフラップが装着されています。揚力の増加とエアブレーキ的な減速効果があります。

 ラダー

 ラダー(方向舵)は、機体の進路を左右の方向に曲げる役割をします。搭乗員が足で操作するフットバーを左右に動かすことで作動させます。多くはエルロンと同時に使用します。

 エルロン

 機体を左右に傾けるための動翼です。エルロンを動かしたまま戻さないと、そのまま機体はロール方向への回転をし続けます。

 エレベーター

 昇降舵で、上昇と下降を受け持ちます。操作は操縦桿(そうじゅうかん)を前後に動かすことで行います。

真後ろから見た勇姿。
 




 横から見たらこんな感じ。
 




 上から見た零戦。C56型蒸気機関車や、右に九六式十五糎榴弾砲(きゅうろくしきじゅうごせんちりゅうだんほう)と、八九式十五糎加農砲(はちきゅうしきじゅうごせんちかのんほう)も見えます。
 




 なお、坂井三郎(さかいさぶろう)著 『大空のサムライ―かえらざる零戦隊』(光人社NF文庫)は昭和42(1967)年の初版で零戦の撃墜王、坂井三郎氏の著書として有名です。









 写真の零戦は
 零戦五二型(A6M5)5357号機。カリフォルニア州チノの「ブレーンズ・オブ・フェイム」航空博物館所有の機体で、オリジナル・エンジンで飛ぶ世界で唯一の零戦。
 261海軍航空隊の所属機で、昭和19(1944)年6月、サイパンで捕獲されたもの。

 原書は昭和28(1953)年に出版協同社より刊行された『坂井三郎空戦記録』(英題『SAMURAI』)で、アメリカ、イギリス、フランス等各国に翻訳され世界中で読み継がれるベストセラー。全世界での売上が100万部を突破した飛行機乗りのバイブルです。

 支那戦線で実践を経験し、エースとなった坂井さんは、昭和16(1941)年10月、新編成の台南空に赴任。大東亜戦争の開戦と共にフィリピンやインドネシアを転戦。昭和17(1942)年4月、台南空はラバウルへと進出。ここで多くの戦果をあげますが、同年8月7日、右目の視力を失いながらも、ラバウルへ帰還。ケガからの回復後は終戦まで殆ど教官として過ごしました。

 本書をお読みいただくと、日本人があの戦争で狂気に駆られていたというのが嘘だということが分かります。戦争を考える上で必読の書です。

 ということで、大東亜戦争の名機ゼロ戦=零式戦闘機でした。

 次に続きますね。

 次回はこちら。
【参考】 徹底図解 零戦のしくみ 矢吹明紀 船田康宏 市ヶ谷ハジメ (株)新星出版社
零戦&日本の陸海軍機「超こだわり」入門 徳間書店









横浜・八景島シーパラダイスのウツボさんたちだよ 【ファイルC228】2011.06.23 

【ファイルC228】2011.06.23 横浜・八景島シーパラダイスのウツボさんたちだよ

にょろにょろにも程があるねえ。

 以前、和歌山は白浜のウツボさんの記事をご紹介しました。
 南紀白浜の居酒屋『長久酒場』の網の上で焼かれるウツボさん(再掲)





 美味しかったねえ。


 でも、変わり果てた姿を先に出して、生きている子がまだだったのです。

 しっぱい、しっぱい。

 それで横浜・八景島シーパラダイスの記事も溜まっているので、ご紹介します。
 
 上の二人は多分普通のウツボさんで、
 下のツノみたいのが生えているのが、多分トラウツボさんです。





 なんかこうやってお揃いでにょろにょろしていたら、ヤマタノオロチさんみたいだねえ。

 そういえば、サザエさんにはマスオさんの同僚にアナゴさんっていう人がいるけれど、ウツボさんはいないねえ。いそうな名前なんだけどねえ。

 と念のために調べたら・・・。うへえ、いたよお!

 『ウツボさん=波平の知り合いの人。これから家族みんなでぶどう狩りに行こう、という瞬間にたずねてきたので、こどもたち (サザエも含む)からいやな顔をされた』

 だって。


 ニセゴイシウツボさんが写真に写りに来ました。





 こんにちは。模様がお洒落だねえ。

 でも、泳いでいるときに、こんなのが出てくると怖いと思うねえ。ウツボさんは鋭い歯を持っているからねえ。


 そうしたらば、ハニーコンボモレーさんが割り込んできました。





 黒い模様が花びらみたいで、豹柄ですね。


 ニセゴイシウツボさんが怒ったよお。





 ハニーコンボモレーさんも応戦しますが、体格の差はいかんともしがたく、退散しました。
 




 えっへん。勝ち誇るニセゴイシウツボさん。





 ところがハニーコンボモレーさんは、なおもリターンマッチを要求します。





 両者、我勝ちに写ろうとします。





 うへえ、仲良くしなきゃだめだよお。

 ということで、一人ずつ写しました。

 ます、ハニーコンボモレーさん。





 再び、ニセゴイシウツボさん。





 ということで、さようなら。ずっと仲良く元気でね。






横浜港の散策だよ(その10) 【ファイルT156】2011.06.20 

【ファイルT156】2011.06.20 横浜港の散策だよ(その10)

インド水塔は日本とインドの友情のあかしだよ。

 その1からご覧になられる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51882527.html

 横浜港にはイスラム風のドーム屋根を持つ東家(あづまや)があります。
 




 インド水塔(The Drinnkinng Fountain)です。
 
 本ブログに何回も出てきていますが、大正12(1923)年関東大震災が発生しました。

 当時横浜に在住していたインド人の116人が罹災し、死者も28人を数えました。

 横浜市民は町の復興と共に、罹災したインド人にもその救済の手を差し伸べます。そして、横浜で住む場所を失ったインド人を横浜に再び招くため、住宅の手当てなどにも力を注いだそうです。

 そのように横浜市がインド商人をはじめとする外国商人の救済措置を積極的に講じた返礼として、昭和14(1939)年にインド商組合から寄贈されたのが、この水塔です。

 早く言えば、インド式の水飲場なのですね。





 立派な水飲み場だねえ。床の花柄タイルも綺麗だし。

 衛生上の理由から、1990年代の終わりに公園を整備した際に配管を取り外したため、今は水を飲むことができませんが、日印の友情のモニュメントとして大切に保存されています。

 柱のアーチもとっても美しいねえ。





 天井のモザイクはとても精緻に作られています





 鉄筋コンクリート造りで、概要は以下の通りです。

インド水塔 1939(昭和14)年
横浜市認定歴史的建造物
設計 : 鷲巣昌(横浜市)
施工 : 清水組

 横浜とインドとは歴史的に深い関係があり、横浜港の開港からわずか4年後には今の山下公園付近に「在浜インド商協会」を置き、インド人が商売に勤しんでいました。

 インドにとって、横浜が日本で初めての経済拠点だったのです。

 また横浜市はインドの都市・ムンバイと昭和40(1965)年6月26日に姉妹都市提携を行いました。

 ムンバイというのは昔のボンベイのことです。

 もともとは英語のボンベイ(良い入り江)と呼んでいたのですが、1995年に、原住民コリ(KOLI)族が守護神として崇拝するムンバー(MUMBA:マラーティー語)に由来するムンバイへ改称したのだそうです。

 この姉妹都市提携は、日本とインド間の唯一の提携として現在に至っているそうです。

 でも、これっておかしいでしょ?
 他の都市はなにやってるのさあ!

 もし、これが、インドと紛争のある中華人民共和国に遠慮してのことだとしたら、とんでも無いことです。

 反日で、子供の頃から学校教育で反日思想を植え付けている中華人民共和国とくらべ、インドは親日国なのですから。

 ムンバイは、港湾、商業都市として発展していて、市内には英統治時代の建築物が数多く残るとともに、高層マンション群も立ち並ぶ都市です。

 また、映画製作の街としても有名で、この地で作られた映画はボリウッド(ボンベイのハリウッド)映画と呼ばれています。インドの人は映画が大好きだからねえ。

 ただ、この水塔がイスラム風だと言うことが、少し複雑ですよね。

 現在ムンバイではヒンドゥー、イスラム教徒による宗教対立が激化しているようです。
  
 2008年11月26日に発生したムンバイ連続テロ事件では、ムンバイ市内の最高級ホテルや中央駅、病院、レストラン等十数箇所で、イスラム過激派と見られるテロリストによる襲撃(銃の乱射や手榴弾の投擲等)が発生し、邦人1名を含む160名以上が死亡、負傷者約300名以上の大惨事となりました。

 また、2010年2月13日にマハーラーシュトラ州プネ市において外国人の集まるカフェーに置かれたバックが爆発し、死者11名、負傷者60名以上の被害を出す爆弾テロ事件が発生しています。

 インドは現在イスラム教国のパキスタンと、カシミールを巡って紛争があります。

 先日射殺されたイスラム原理主義のビンラディンがパキスタンのペシャワルに設立したゲリラ訓練所が「アルカイダ(基地)」ですからね。

 宗教問題というのは、汎神論の日本人には複雑でとても分かり難い問題です。


 インド水塔は日印友好のモニュメントですが、関東大震災に際しては、世界から多くの救いの手がさしのべられたということも忘れてはなりません。

 アメリカ合衆国では、アメリカ西海岸の大都市(サンフランシスコ、ロスアンジェルス)で黄禍論(Yellow Peril)による日本人移民への排斥運動が激化していましたが、当時のクーリッジ大統領の命により、アメリカ赤十字社に「日本救済事務所本部」が設置されました。

 「1分早ければ、1人多く助かる(Minutes Make Lives)」を合い言葉に集められた日本救済募金は2500万ドル(約5000万円)に達しました。これは現在の価値に直せば、600億円以上に相当します。

 シカゴ市での日本震災救済運動の写真。





 着物のような衣装を着て提灯を下げた女性が、シカゴの街をパレードして募金活動をした時の模様です。

 また、アメリカ海軍の東洋艦隊は医療器や薬品などを携えて横浜をめざし、マニラの海軍主計総監は、数隻の船舶に食糧を積み、日本に向かいました。

 罹災を免れた帝国ホテルには、アメリカ海軍の水兵により食糧や衣類が運びこまれました。さらに米国救済団は、麻布の高松宮邸(現港区)にテント病院を建てて、負傷者の救護にあたりました。

 当時緊張関係にあった中華民国も、義援金を拠出し、中華民国紅十字会は日本赤十字社と共同で被災者救済を行っています。

 他にもイギリス、ドイツ、オランダ、オーストリア、インド、メキシコ、ペルー、キューバ、ブラジルなど、世界40か国から救助や見舞いが寄せられました。


 ということで、日本とインドの友情のあかしのインド水塔でした。

 機会が有れば訪ねてみてくださいね。



 次回に続きます。

大阪の老舗洋食屋さん北極星だよ 【ファイルF48】2011.06.26 

【ファイルF48】2011.06.26 大阪の老舗洋食屋さん北極星だよ

元祖オムライスのお店だねえ。

 以前、オムライス発祥の店ということで、銀座煉瓦亭をご紹介したことがあります。

 銀座煉瓦亭の記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/50343534.html


 東京銀座の煉瓦亭が明治34年から売り出した元祖オムライスの中身は卵かけご飯風のとろみのあるライスを卵でくるんだようなオムライスです。

 一方、ポピュラーなピラフを卵でくるんだ形のオムライスの元祖が大正15年に、ここ大阪心斎橋の北極星が生んだオムライスなんだって。

 つまりどちらともオムライス発祥の店だということです。

 なぜオムライスが洋食の代表的な料理かというと、昔、卵は高価で贅沢な食べ物だったからですね。


 難波からほど近い宗右衛門通り商店街のさらに西の路地に入ったところに北極星はあります。


 


 サウナや帝国ホテルやらお米やさんやら、なんでもありの通りです。

 東京有楽町の帝国ホテル付近とえらく雰囲気が違うねえ。これが大阪らしさなのかな。

 わ~い着いたよ!


 


 北極星のお店は、洋食屋らしからぬ和風の建物で、町家風の佇まいです。


 


 看板の横に灰皿が置いてあります。


 


 ここは、喫煙するお客さんのための喫煙場所なはずですが、明らかにすぐ北にあるアメリカ村から流れてきたと思われる3人のヤンキーのお兄さんが煙草をぷかぷかやっていて、どいてくれそうもないので、撮影は諦めて、写真は食事を済ませた後、店を出てから撮りました。

 やれやれ。

 暖簾がかかっています。


 


 『西洋御料理 味に輝く北極星 オムライス発祥の店』です。

 ロゴはPの字に『北』のデザイン。
 『Pole star』または『Polaris』のPかな?

 白壁と木の柱と照明が綺麗だねえ。


 


 銭湯のような下駄箱に履き物を入れて、木製の下足札をとります。


 


 下足札を無くすと帰れなくなるから注意してね。

 中庭の日本庭園が綺麗だねえ。


 


 純和風のりっぱな佇まいのお店なので、女将さんに『もともとはどういう建物だったのですか』って尋ねたらば、この建物は、昔は高島屋の寮だったそうです。

 それで、古くて立派な建物なんですね。

 広い座敷に案内されます。

 畳敷きの部屋に座卓が並べられ、座布団が敷いてあります。


 チキンオムライス690円に370円をプラスして、エビフライとお味噌汁の付く
セット1060円也にしました。

 それでもって、チキンオムライスセットが到着。


 


 お味噌汁がついているねえ。日本人は味噌汁だねえ。

 オムライスのアップ。ソースの照りが良いねえ。


 


 観ての通り、卵はきめ細かいふわふわしっとりです。お寿司屋さんの卵みたいな感じもします。

 以前ご紹介した東京日本橋の『たいめいけん』のようなトロトロ感は押さえてあります。
 『たいめいけん』の記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/50473227.html

 中身はこんな感じ。


 


 中のライスはケチャップまみれではない薄味スープの味がする上品ピラフです。
 チキンの塊はジューシーです。

 タマネギ等が煮詰めてある、こくのあるトマトソースと絡めて食べるので、ライスは出しゃばらないのが正解です。

 普通の洋食屋さんのオムライスより、上品なお味です。関西の薄味文化が洋食にも影響しているのかな?

 付け合わせのお寿司屋さんにあるような紅ショウガがアクセントになります。

 カレーに付いている福神漬けみたいなものかな?これが不思議と合います。

 セットのエビフライがからっと揚がったカリカリの薄い衣です。

 タルタルソースが良く合うねえ。

 上品な串カツのような食感で、ぷりぷりのエビの身が美味しくて、尻尾まで香ばしくて美味しいのです。

 セットのわかめの味噌汁が落ち着くねえ。

 ということで、ごちそうさまでした。

 味の肥えた大阪商人の舌に鍛えられた西洋料理だねえ。

 外に出て、空を見上げたら、変な看板が。


 


 岡本商會だから、お顔が『O』で前髪が『m』なのかな?
 でも、いくら岡本つながりだからって、顔のデザインは岡本太郎さんの太陽の塔を思いっきりパクっているのはいかがなもんだろうかねえ。

 大阪千里の万博記念公園の太陽の塔(再掲)


 


 このへんが、いかにも大阪なんだろうけどねえ。

 久左衛門商店街って書いてあるねえ。


 


 こういう狭い路地があるのは歴史がある証拠なんですよね。


 


 ということで、楽しい大阪の美味しいオムライスでした。





靖国神社にお詣りしたよ(その7) 【ファイルET33】2011.06.13 

【ファイルET33】2011.06.13 靖国神社にお詣りしたよ(その7)

遊就館のC56型蒸気機関車だよ。名画『戦場にかける橋』の大嘘の証拠だねえ(下)。

(上)(中)からの続きです。
(上)から読まれる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52233418.html

『戦場にかける橋』の本がベストセラーになって、映画の大ヒットに気をよくした原作者のピエール・ブールは、二匹目のドジョウを狙って、またもや反日小説を書きます。今度はノンフィクションじゃなくて何とSF!


目論見通り二匹目のドジョウはいたのです。このSFも映画化されて大ヒット。


映画はシリーズ化までされます。


それが『猿の惑星』です。


『猿の惑星』予告編。



 上手く見られないときはこちら。
http://www.youtube.com/watch?v=P2I13s_CWnw&feature=fvst

原題Planet of the Apes(1968年アメリカ )


監督フランクリン・J・シャフナーで主演はチャールトン・ヘストンです。アカデミー賞のメイクアップ賞を受賞した猿の特殊メイクが話題になりました。


【注意】以下ネタバレ有り!


『猿の惑星』をこれから観られる方は、ご覧になってから読んでくださいね。『猿の惑星』はSF映画としては傑作なので、観ておいて損はありません。


私が覚えている大ざっぱなストーリーは以下の通りです。


宇宙探検を終えたアメリカの3人の隊員が地球に帰還する際に見知らぬ惑星に不時着します。


そこは猿の惑星でした。


『黄色い猿の日本人』じゃなくて、今度は『正真正銘の猿』です。


それも、この惑星には人間の白人がいるのですが、白人はあろうことか、知能が発達しておらず、猿の奴隷になっているのです。


宇宙探検隊は猿に捕まり猿の捕虜になります。うへえ!『戦場にかける橋』と同じだよお。


一人の隊員は殺されて剥製(はくせい)になって博物館に展示され、もう一人は脳外科手術を施され廃人になるので、話は以後、白人隊長対猿の惑星の猿といった形で展開します。


捕虜の隊長の賢さに驚いた猿の女性学者ジーラは隊長に近づき、お互いに友情が芽生えます。うへえ!『戦場にかける橋』と同じだよお。


隊長は地球には飛行機という空を飛ぶ機械があると説明しますが、猿のジーラは信じません。


それで隊長は紙飛行機を折って飛ばすと、猿のジーラはびっくり仰天。






紙飛行機を見てびっくりした猿の女性学者ジーラ。






ちなみに、余談ながら猿学者のジーラは、どういうわけか、ライス元国務長官にそっくりです。


ライス元国務長官






うへえ!『紙飛行機』を『橋の作り方』に変えると『戦場にかける橋』と同じだよお。


ジーラが隊長から智恵を授かるのを不快に思った猿の長老ゼイウス博士は、隊長を迫害しようと画策します。


結局、隊長は猿の奴隷になっている、頭の悪い白人お姉ちゃんと一緒に猿の国を逃れていきます。


隊長と白人のお姉ちゃんは、馬に乗ってパカポコと海岸の岬を曲がり、隊長は突然目の前に展開した意外な光景を見て馬を降り、呆然と立ち尽くし、やがて力無くうずくまり、こぶしを砂浜に打ち付け泣きながらうめきます。


目の前には廃墟と化し、下半身が砂に埋まって傾いた『自由の女神』が立っていました。


猿の惑星は、実は核戦争で文明が滅びた後の地球だったのです。


宇宙探検隊は、準光速で航行した結果、アインシュタインのウラシマ効果で、未来の地球に戻ってきていたのです。


猿の長老ゼイウス博士が、宇宙探検隊長の智恵を恐れていたのは、今は智恵が退化して奴隷になっている白人が昔智恵を付けて高度な文明を築き、結局それが核戦争を引き起こし、地球が猿の惑星になったという伝承を知っていたからなのでした。


つまり、この映画が作られた時代はちょうど米ソ冷戦のまっただ中で、

アメリカ、ソ連という白人同士がいがみ合っていると、そのうち、両方とも滅んで、しまいには地球は黄色い猿の日本人に支配されるぞという警告の映画だったのです。


当然、猿の惑星の猿のモデルは、原作者のピエール・ブールを捕虜にした不埒(ふらち)な黄色い猿の日本人です。


ところが、Wikipediaを見ると、


『20世紀フォックスのプロデューサー、アーサー・P・ジェイコブスの依頼を受けロッド・サーリングが執筆した脚本は、最終的にマイケル・ウィルソンによって大きく改変された。主人公が猿たちから理不尽な扱いを受ける描写にはウィルソンが共産主義者とみなされたために赤狩りの対象になった経験が反映されている。』だって・・・。


赤狩りにあった共産主義者って、猿の捕虜になって収容所に入れられるんだ?


映画化にあたって原作が大分改変されているのは事実のようですが、Wikipediaは、猿に捕らえられる人間という設定が原作者のピエール・ブールの人種差別に基づいているということは余程隠したいようです。



反日差別映画『戦場にかける橋』『猿の惑星』の原作者のピエール・ブール(Pierre-Fran??ois-Marie-Louis Boulle, 1912年2月21日 - 1994年1月30日)は、フランスの小説家です。


彼はもともとはエンジニアで、1936年から1939年までマレー半島でイギリスのゴム園の監督者として働いていました。


つまり、イギリスが侵略した植民地で侵略者側として働いていたのです。


第二次世界大戦の勃発でブールはフランス領インドシナの侵略フランス軍に加わりました。


ナチス・ドイツがフランスを占領した後、彼はシンガポールで、大東亜諸国の侵略者であるイギリスを支援する自由フランス軍に加わります。


シンガポールも、やはりイギリスが華僑を使って侵略していた都市で、後に山下奉文大将によって解放されます。


ブールはピーター・ジョン・ルールの偽名で秘密諜報部員を務め、支那、ビルマおよびフランス領インドシナでレジスタンス運動を支援しました。


日本の知識人は、どういうわけかフランスのレジスタンスに淡い幻想を抱いているようですが、もともと、この人はイギリスが侵略した植民地で侵略者側として働いていた訳ですから、そういった既得権の下、イギリス植民地支配を支援する運動に身を投じていたに過ぎません。


その結果、1943年にメコン川でヴィシー政権軍によって捕らえられ、サイゴンの日本軍の収容所に入れられ強制労働の刑に科せられます。


ヴィシー政権というのはドイツ占領下の親ナチ政権ですから、ドイツの同盟国の日本の収容所に引き渡されたわけですね。


ところが、Wikipediaを見ると、彼が入れられたサイゴンの収容所が日本軍のものだということが、故意に隠蔽されています。


とにかく、ブールはここで、白人の自分が、黄色い猿の日本人にこきつかわれたということを深く根に持つことになります。


何が『友情の橋』ですか!


1944年にサイゴンの収容所から脱出、カルカッタのイギリス軍に参加し、そこで終戦を迎えました。というか、ブールは終始一貫してイギリス植民地支配体制の支援者だったのです。

つまり、『戦場にかける橋』で収容所を脱出したのに、わざわざ、また舞い戻って橋を爆破したアメリカ兵は、ブールの日本人に対する憎悪による願望だったのですね。


実際に大東亜戦争後、『ブールが味方した』イギリスのチャーチルに亡命政府自由フランスのレジスタンス運動の指導者で、後に第五共和制大統領になったド・ゴールは日本が一旦解放した植民地に対し、もう一度再侵略して植民地復帰させるよう要求したのです。

ちなみにかつてフランス二枚目俳優の代名詞だったアラン・ドロン氏は、フランスの再侵略戦争である第一次インドシナ戦争にへ従軍し落下傘部隊へ配属されています。

これをみただけでも、大東亜戦争は大東亜の解放のための戦争だということが分かります。そして、白人と戦っても勝てるとアジア人に自信を植え付けたのは、大きな犠牲を払われた日本人の諸先輩方、とりわけ日本兵の皆さんだったのです。


『自由フランス=レジスタンス=正義の味方』というのは大嘘です。


戦後、レジオンドヌール勲章、軍功章およびレジスタンスのメダルを受章し、戦後しばらくの間はマレーシアで農園の仕事を続けますが、その後パリに戻り、獄中日誌や小説を書き始めました。


そして書いたのが、日本人への偏見と憎悪に満ちた『戦場にかける橋』、『猿の惑星』です。


彼が収容されていたのはサイゴンで、泰緬鉄道とは無関係です。


1994年1月30日、ブールはパリで死去しました。


最後に、日本軍捕虜について、象徴的な記事を見つけたのでご紹介しますね。↓


 ※  ※  ※
 

「日本軍の捕虜」と嘘の戦争体験で恩給詐欺 禁固4年の有罪判決


 2010.12.26 18:26 産経ニュース

 【シンガポール=宮野弘之】

第二次大戦中、日本軍の捕虜になっていたと嘘をつき、恩給を不当に受け取ったとして、詐欺罪に問われた元オーストラリア戦争捕虜の会会長、アーサー・クレーン被告(84)に対し、このほど禁固4年の有罪判決が言い渡され直ちに収監された。


同被告は「社会に自分の居場所が欲しかった」と弁解したが、「元戦友」だけでなく、夫人や子供にも嘘をついており、社会的地位だけでなく家族も失うはめになった。


判決によると、同被告は1960年代に南オーストラリア州のパブで知り合った元捕虜の話を聞き、自分も「英雄になりたい」と思い、元捕虜だったという嘘をつき始めたという。


84年にクイーンランド州に転居後、多くの元捕虜と会い、受け入れられたことがうれしく、勧められるまま、88年に恩給の受給を申請した。その際、16歳当時にマレー半島でゲリラ活動に加わり、42年に日本軍の捕虜になった、などという嘘の経歴を申請した。


そして元捕虜の会のメンバーとして、20年以上、各地で「捕虜体験」を講演。旧日本軍が連合軍捕虜を使って建設した泰緬鉄道建設での体験談などは「説得力があった」(地元メディア)といい、同会の会長にまでなった。


ところが2009年、講演を聴いた戦史研究家が嘘に気づき調べたところ、同被告は戦時中、オーストラリア国内の学校に在籍し、軍歴さえないことがわかった。同被告も嘘を認めたため、所管する官庁の責任も含め、大騒ぎとなった。


同被告は判決後、「元捕虜の方々とオーストラリア国民におわびする」との声明を出したが、友人や夫人は、いまだにショックから立ち直れないという。クレーン被告は、不当に受け取った恩給約40万豪ドル(3300万円)は、老齢年金から返済する。生きていても、174歳まで嘘の代償を払い続けることになる。



 ※  ※  ※

↑ それにしても、『同被告は判決後、「元捕虜の方々とオーストラリア国民におわびする」との声明を出した』って何?

自分の嘘によって著しく名誉を傷つけられた 日本兵及び日本国民にはお詫びしないわけ?

それで、『そして元捕虜の会のメンバーとして、20年以上、各地で「捕虜体験」を講演。旧日本軍が連合軍捕虜を使って建設した泰緬鉄道建設での体験談などは「説得力があった」(地元メディア)といい、同会の会長にまでなった』って、

つまり、この人は、ピエール・ブールの大嘘小説の映画化によって、有名になった泰緬鉄道建設の嘘に便乗して嘘を重ねて有名になって、詐欺罪で禁固4年の有罪判決を受けることになったのです。

まあ、ある意味ピエール・ブールの大嘘小説の被害者という見方も出来ないわけではないのです。

それにしても、オーストラリアにも吉田清治氏のような人はいるのでした。

反日証人で有名になると、人気者になって儲かりますからね。

 

ここで一句。


石川や 浜の真砂(まさご)は尽きぬとも 世に反日利権の種は尽きまじ

 (字余り)

 次回に続くよ。








靖国神社にお詣りしたよ(その6)  【ファイルET32】2011.06.13 

【ファイルET32】2011.06.13 靖国神社にお詣りしたよ(その6)

遊就館のC56型蒸気機関車だよ。名画『戦場にかける橋』の大嘘の証拠だねえ(中)。

 (上)からの続きです。
 (上)から読まれる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52233418.html

日本兵の捕虜に対する扱いがひどかったとのことですが、捕虜の扱い方は英軍の方が断然ひどかったのです。


会田雄次 『アーロン収容所』より。


 ※  ※  ※

「英軍はひどいことをします。私たちは、イラワジ河のずっと河下の方に一時いました。

その中洲に戦犯部隊とかいう鉄道隊の人が、百何十人か入っていました。

泰緬国境でイギリス人捕虜を虐待して大勢を殺したという疑いです。その人たちが本当にやったのかどうかは知りません。イギリス人はあの人たちは裁判を待っているのだと言っていました。


狂暴で逃走や反乱の危険があるというので、そういうところへ収容したのだそうです。でもその必要はありませんでした。私たちは食糧が少なく飢えに苦しみました。ああ、やはりあなたたちもそうでしたか。あの人たちも苦しみました。

あそこには”毛ガニ”がたくさんいます。うまい奴です。それをとって食べたのです。

あなたもあのカニがアミーバ赤痢の巣だということを知っていますね。あの中洲は潮がさしてくると全部水に没し、一尺ぐらいの深さになります。みんな背嚢を頭にのせて潮がひくまで何時間もしゃがんでいるのです。

そんなところですから、もちろん薪の材料はありません。みんな生まのままで食べました。英軍はカニには病原菌がいるから生食いしてはいけないという命令を出していました。


兵隊たちも危険なことは知っていたでしょう。でも食べないではいられなかったのです。そしてみんな赤痢にやられ、血便を出し血へどを吐いて死にました。水を呑みに行って力つき、水の中にうつぶして死ぬ、あの例の死に方です。


監視のイギリス兵はみんなが死に絶えるまで、岸から双眼鏡で毎日観測していました。


全部死んだのを見とどけて、

『日本兵は衛生観念不足で、自制心も乏しく、英軍のたび重なる警告にもかかわらず、生ガニを捕食し、疫病にかかって全滅した。まことに遺憾である』

と上司に報告したそうです。

何もかも英軍の計画どおりにいったというわけですね」


 ※  ※  ※

↑ 人間の所業ではありません。


そもそも終戦後の捕虜は、ポツダム宣言も国際法も無視した違法行為です。


リンドバーグの証言では、アメリカ軍はそもそも日本人を捕虜に取るつもりは全くなく、降伏してきた兵士も機銃掃射で殺害したようすが書かれています。

 

リンドバーグの証言やアメリカ軍の日本人に対する所業は以前本ブログで記事を書きました。

http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/44070110.html

それなのに、戦後、日本の収容所のみ一方的に勝者によって野蛮な復讐裁判で裁かれ、泰緬鉄道建設を担った鉄道連隊に所属する兵士や連合軍捕虜を取り扱った俘虜収容所の関係者らが、いわゆるBC級戦犯【正確には『極東国際軍事裁判所条例第五条ロ項、ハ項(b及びC項)に規定される罪】として「捕虜虐待」などの戦争犯罪に問われ、処刑されたのです。

上智大学名誉教授の渡部昇一氏によると、逆に当時を知る英国人捕虜の方から「どうしてあの人は処刑されなければならなかったんだ?」と疑義が呈せられることも多いようです。


それ以外の人たちも、『アーロン収容所』に描かれているような陰湿な方法で殺されました。


実際の泰緬鉄道(たいめんてつどう)開通記念式典の際のC56型31号機関車






映画『戦場にかける橋』に登場した、遊園地のお猿の汽車のような、おもちゃに毛が生えたようなシュポポの汽車






↑ 何処からこんなちゃちなシュポポを持ってきたんだろう?


もう一度C56型31号の勇姿。






映画制作者は日本の技術について完全に無知で、というか知っててわざと捏造したのかな?当時の日本の鉄道や土木建築技術を舐め切っています。


確かに日本はその黎明期において、イギリスから鉄道の技術の多くをを学びましたが、現在の新幹線の例も引くまでもなく、大東亜戦争時の日本の鉄道技術も、既に世界のトップ水準にありました。


新幹線と同じ線路幅の標準軌を採用した南満州鉄道株式会社の特急「あじあ」は流線型の外被をつけて空気抵抗を少なくした大出力蒸気機関車「パシナ型」が牽引し、最高速度は130km/h、表定速度は82.5km/hで世界屈指のスピードを誇りました。

D51形蒸気機関車は昭和10(1935)年 から昭和25( 1950)年にかけて1,184両作られた国産機関車の傑作機。

また、C62 17号機は、昭和29(1949)年12月15日に行われた、東海道本線木曽川橋梁上での速度試験で、129km/hという狭軌鉄道蒸気機関車の世界記録を樹立しています。

http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/55445555.html


ここに展示されているC56形蒸気機関車は、昭和10(1935)年 から昭和17(1942)年の間に165両製造され、軽量小型でありながら長距離の運用に耐えられる設計であるために軍部より注目されました。


大東亜開戦直前の1941年11月および12月に、そのうち半数以上の90両 (C56 1 - 90) が供出され、タイ・ビルマ(現・ミャンマー)へと出征しました。


立派なシリンダーだねえ。






供出に際しての主な改造内容は


軌間(線路の幅)を狭軌の1,067mm から 1mへ変更。空気ブレーキを真空ブレーキに変更。除煙板を撤去。薪を燃料とするため、焚口を拡大し、炭水車の炭庫上部を柵で囲う。連結器を交換。などです。


車軸配置は『先輪1動輪3従輪0』の『1-C-0』です。






1,400 mmのスポーク動輪が美しいねえ。


昭和7(1932)年にタンク式の軽量で前後進容易な小型機C12形が開発されました。

しかしながら、比較的長距離の線区では、C12形では航続距離が短く運用に適さないためC12形から水槽と炭庫をはずし、テンダー式に改良されたのがC56形です。

愛称はシゴロク、またはポニーと呼ばれ鉄道ファンに親しまれました。


テンダー(炭水車)は後退運転の際に、後方が見やすいように、斜めに切り込みが入っていて、これがC56形の大きな特徴です。






クロスヘッドとメインロッド、バルブギア系統です。






キャブ(運転室)の様子です。






二つのコブがカッコイイねえ。






前を歩いているお姉さんと較べると大きさが分かりますね。


タイへ送られたC56形は当時建設中だった泰緬鉄道の主力機関車として運用されることになります。


そして終戦後、泰緬鉄道は各地で寸断・線路は荒れ果て壊滅的な状況に陥っていましたが、終戦後運転が出来る状態だったC56形は泰緬鉄道が復旧した戦後も使用され、46両がタイ国鉄700形 (701 - 746) として使われ活躍しました。


これらは1970年代後半から1980年代前半まで使用され、現在でも713 (C56 15) ・715 (C56 17) がタイ国鉄の手によって動態保存されています。


また昭和54(1979)年には、725 (C56 31) と735 (C56 44) が日本に帰還することになります。


現在、C56 31はここ靖国神社の遊就館で静態保存され、タイで使われたC56形の中で、現地で組立てられた機関車の第1号機関車であったC56 44は大井川鐵道で動態保存され、大井川鐵道で「SL急行」に用いられ活躍しています。


大井川鐵道株式会社 公式ホームページはこちら

http://www.oigawa-railway.co.jp/

一方、ビルマ国鉄に編入された機関車は12両あり、クラスC(Class C)として使用されたものが確認されています。これらは、1977年から廃車が開始され、最後に廃車となったのは1987年の3両で、そのうちの1両はミャンマー国内で静態保存されています。


日本の鉄道技術者が設計施工した、実際の泰緬鉄道(たいめんてつどう)の鉄橋(後の空襲により一部破損しています)。






↑ 日本の鉄道技術者が設計施工しているので、熱帯雨林気候に木の橋なんてありえません。


映画『戦場にかける橋』で、白人捕虜様御一同のご協力により、やっとこさ完成した木の橋。↓





 

↑ なんか木を適当に組み合わせた雑な橋だねえ。高温多湿で土台が腐って、爆破しなくても、すぐに勝手に壊れそうだし。


靖国遊就館へのC56型31号機関車の展示保存が決まったとき、日本の左翼は猛反対しました。


そりゃそうでしょ。日本人の白人捕虜虐待を描いたとされるアカデミー賞受賞の人種差別映画『戦場にかける橋』のデタラメが白日の下にさらされる証拠の展示なのですから。

嘘でもでっち上げでもプロパガンダの捏造文書でも何でもありで、日本を悪者として貶めたいこの人達は、反日運動で国を売り飛ばし、その利権で食べているような人達なのですね。



(下)に続くよ。
(下)はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52233492.html









靖国神社にお詣りしたよ(その5) 【ファイルET31】2011.06.13 

【ファイルET31】2011.06.13 靖国神社にお詣りしたよ(その5)

遊就館のC56型蒸気機関車だよ。名画『戦場にかける橋』の大嘘の証拠だねえ(上)。

 靖国の記事を、最初からご覧になられる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52046335.html

 靖国神社の遊就館は、靖国神社に鎮まりますご祭神のご遺書やご遺品をはじめ、英霊のまごころやご事蹟を今に伝える貴重な史資料を展示しています。
 館名の由来は、支那の古典、「荀子(じゅんし)」勧学篇(かんがくへん)「君子は居るに必ず郷を擇(えら)び、遊ぶに必ず士に就く」から「遊」「就」を撰んだものです。
 ここの「遊ぶ」とは勉学のために他の土地へ行くという意味で、遊学という使い方をしますね。

ここで、愛する祖国、愛する郷土、愛する家族のために、尊い命を捧げられた英霊(士)のまごころやご事蹟に直接触れることによって、日本の歴史を学ぶことが出来るのです。










 「遊就館」の扁額です。





 閑院宮載仁親王(かんいんのみや ことひとしんのう)のご揮毫(きごう)となっています。

入館すると正面に泰緬鉄道(たいめんてつどう)C56型31号機関車が展示されています。






この機関車は、もともとは昭和11年日本車輌で製造され、石川県七尾(ななお)機関区を走行していた機関車でした。

 




左上のレールと斧のぶっちがいのマークは鉄道連隊の連隊章です。左下の『七』は石川県七尾(ななお)機関区。右上のナンバープレートと、右下の日本車輌名古屋工場の製造銘板が設置されています。


大東亜戦争において九十両が南方に徴用(ちょうよう)されたのですが、タイで活躍し、この三十一号機は、泰緬鉄道の開通式に用いられた機関車です。


戦後は、タイ国有鉄道で使用され、昭和五十二(1977)年に引退することになったのですが、泰緬鉄道建設に関係した南方軍野戦鉄道隊関係者が拠金(きょきん)してタイ国有鉄道から譲り受け、昭和五十四(1979)年、靖国神社に奉納されました。

左翼の人たちは、大東亜戦争の嘘がバレるのが嫌なので、この展示に大反対しました。


泰緬鉄道(たいめんてつどう)というのは、

昭和17年6月、日本軍がビルマ・インド進攻作戦の陸上補給を目的に、タイ(泰)のノンプラドックからビルマ(緬甸)のタンビザヤの最短距離、415キロの区間で鉄道建設を開始した鉄道です。






工事は日本の国鉄規格を基本にして、鉄道第五、第九聯隊を中心に連合軍捕虜や現地住民など約17万人が従事し、1年3ヶ月という驚異的な早さで、昭和18年10月に開通した。この区間はかつてイギリス軍が構想したが断念したもので、険しい地形と過酷な熱帯気候などの悪条件のもと、敷設は困難を極めました。


泰緬鉄道は、イギリス映画『戦場にかける橋』(The Bridge on The River Kwai:1957年)の舞台でもあります。

『戦場にかける橋』の予告編。




 上手く写らないときはこちら。
http://www.youtube.com/watch?v=HFWPW789Q6I

映画はご存じなくても、主題歌『クワイ河マーチ』は一度は耳にしたことがおありではないでしょうか。


監督は、『陽気な幽霊』、『逢びき』、『旅情』、『アラビアのロレンス』等で知られる巨匠デヴィッド・リーン。特に『陽気な幽霊』、『逢びき』は私の好きな、とってもお洒落な名画です。

名監督の下、ウィリアム・ホールデン、アレック・ギネス、ジャック・ホーキンス、早川雪洲、ジェームズ・ドナルドといった名優を配した超大作です。


一般の評価も高く、第30回アカデミー賞を7部門受賞しています。

 受賞・・・作品賞/監督賞/脚色賞/主演男優賞(ギネス)/撮影賞/作曲賞/編集賞
 ノミネート・・・助演男優賞(早川)

フィクションとして、架空の国の作り話として観れば、とても良くできた映画だと思います。


【注意!】以下ネタバレ有りなので、『戦場にかける橋』をこれから観ようという方は、観てから読んでくださいね。


原作はピエール・ブール

↑ 実はこの人、日本の捕虜経験者なのです。

 

それで、よほど有色人種の捕虜になったのが悔しかったのか、ものすごい歴史捏造をやらかしました。日本人及び有色人種を見下した人種差別映画が、アカデミー賞を受賞するのは、なにも『ザ・コーヴ』が初めてではないのです。


ストーリーは私の記憶では、こんな感じです。

舞台は大東亜戦争中のタイのクウェー川。黄色い猿の日本人は生意気にも、白人様の捕虜を虐待してちゃちな橋を架けようとします。

でも哀しいかな、日本人は頭が悪いので、ちゃちな橋ですら架けることができません。


日本人の馬鹿さかげんを見かねた白人捕虜の司令官は、野蛮な日本人の虐待に毅然とした態度で臨み、ご親切にも立派な木の橋を架けるため協力してあげようと申し出ます。

最初は敵対していた黄色い猿の日本人と、白人の捕虜様でしたが、白人の捕虜様の英知と慈悲心に感動した日本人に、忠犬ハチ公がご主人様に対して抱いたような友情が芽生えてきます。


そしてめでたく猿と白人様の協力した友情の橋は完成。


ところが、捕虜収容所から脱出した米兵が黄色い猿の日本人にいじめられた復讐のためにクウェー川に舞い戻って橋を爆破しようとします。

ちょうど橋の開通記念式典が行われる真っ最中。黄色い猿の日本人の軍幹部がちゃちな遊園地のお猿の汽車のようなおもちゃに毛が生えたようなシュポポの汽車に牽引された客車に乗り込みご満悦。


日本人の捕虜収容所所長と、白人捕虜の司令官が爆破計画に気がつき、それを阻止できたのですが、橋の建設に大活躍した白人捕虜の司令官が、脱走米兵の撃った弾に当たり、意識を失ってよろめいた拍子にダイナマイトの起爆スイッチの上に倒れ込んだからたまりません。


友情の橋は木っ端みじんに爆破され、ちょうどそこを通りかかった黄色い猿の日本人軍幹部を乗せた橋完成開通記念式典列車がシュポポの汽車もろとも河の上に真っ逆さま。


ばんざ~い。悪者はめでたく退治されました。うへえ、そんな馬鹿な!

話がご都合主義で信じられないよお!


実際は、木の橋が白人捕虜の協力によって作られたなどというのはまったくのデタラメで、イギリスの技術では不可能で放置された難工事を日本軍が引き継ぎ、日本軍の鉄道連隊が設計し現地人や捕虜の協力を得て鉄橋を敷設したのです。


当時、建設に携わっていた森本平太郎軍曹も次のように語っています。

 ※    ※    ※

「あの橋は白人俘虜の頭脳で作られたなんてとんでもない嘘で私達(鉄道連隊)が設計し現地人の協力を得て敷設したものなんです。

重労働で白人がバタバタ倒れたと日本軍を非難してますが、ハーグ条約に違反した訳でありません。

日本人と同じものを食べておりました。現地人や日本の兵隊はパンと野菜スープだけの毎日でもちゃんと働いてましたよ。

捕虜からは色々と注文が出て、我々と違って連中のスープには肉片もいれてあげたんですよ。元々白人は余りにも体力がないんです。皮膚はすぐに真っ赤になってしまうし。

捕虜や現地人は三交替ですが日本兵は徹夜でした」

 ※    ※   ※

『戦場にかける橋』では、橋は爆破されたことになっていますが、そのような事実はなく、後に空襲で破損しましたが、補修され、戦後も使用されています。



石油を作る藻(も)、オーランチオキトリウムとボトリオコッカスだよ 【ファイルC227】2011.06.10 

【ファイルC227】2011.06.10 石油を作る藻(も)、オーランチオキトリウムとボトリオコッカスだよ

国家プロジェクトで開発する価値は大きいねえ。

 
 思えば、日本が大東亜戦争に追い込まれた最大の原因はABCD包囲陣により輸入が断たれた石油でした。当時、『石油の一滴は血の一滴』と言われたものです。

 日米開戦に反対していた山本五十六は、『水から石油を作る技術ができた』という詐欺に危うくひっかかりかけたほどです。

 時代は下って昭和48(1973)年のオイルショックにより、日本のエネルギー政策は原発推進に大きく舵をきりました。そして、今、福島第一原発問題により世界中で原発に依存したエネルギー政策のありようが再検討されています。
 
 そういった状況の中、筑波大学生命環境科学研究科 渡辺信(わたなべ まこと)教授によるオーランチオキトリウムとボトリオコッカスという藻(も)の研究が注目されています。
 
 藻といえば、「海の藻屑(もくず)」という喩えや、赤潮、青子など、どちらかと言えば嫌なイメージが大きい生物です。あと、阿寒湖のマリモぐらいしか、思いつかないねえ。
 
 ところがどっこい。渡辺信教授によれば、今の石油も大昔に藻類が作ったという説が最有力なのだそうです。

 そもそも、藻類(そうるい)ほど地球の環境形勢に大きな及ぼした影響及ぼしたものはないのです。

 まず、酸素、二酸化炭素、窒素で構成された今の大気のおおもとは藻類が作りました。

 大昔の地球に海ができた頃、もちろん植物なんかまだ発生していません。そんな時代に、藻類が光合成で酸素を生み出したのです。また、藻類がオゾン層も作りました。

 それから藻類が生み出した酸素により、海水に溶け込んだ鉄分が酸化されて鉄鉱石が出来ました。

 人類文明発生の大きなターニングポイントが鉄器の使用だということを考えれば、藻類が地球上の生命を育(はぐく)み、人類文明を生み出したと言っても過言ではないのです。

オーランチオキトリウムを一言で表現するなら『炭化水素のオイル大量に作る藻類(そうるい)』です。


 有機物を利用して『光合成をすることなく』重油相当のオイルを生み出します。

 例えば、石油の代替エネルギーと言うことで、いろいろな案が出されていますが、プラスチックスのような石油製品はオイルじゃないとできません。

 また、液体で備蓄し運搬使用できるというオイルは形態として大きな利点があります。

 飛行機はいくらなんでもバッテリーに蓄えた電気で飛ばすのは無理ですし、長期航海する船舶も電気エネルギーでの駆動は不可能です。

 それは原子力潜水艦じゃない従来型の潜水艦が、バッテリーが切れる前に空気とオイルを消費するエンジンで再充電するための浮上が必要だということを考えれば分かりますよね。

 また、オイルの形だと、現在あるインフラを改造することなく、そのまま全部使えるのも大きな魅力で、これは省エネルギーの観点からも大変意義のあることです。

 石油を生み出す藻類として、渡邉信先生のチームでは、最初にボトリオコッカスという藻類によるオイル生産の研究を進めていました。

 光合成をする緑色のボトリオコッカスさん。

 



 
 ボトリオコッカスはオイル含量が乾燥重量の75%に達することもあるほどオイル生成能力が高い有望な藻類だからです。

 また、産生するオイルは重油に相当する炭化水素で、広い用途での使用が可能です。

 ただ難点は、ボトリオコッカスは培養に時間がかかり、1Lあたりのコストが800円程度となってしまい、1Lあたり50円程度の重油とは比べ物にならないのです。

 それでも、将来的に重油の値段が16倍に高騰すれば、ボトリオコッカスはペイするということですよね。イギリスの北海油田も原油の高騰でペイするようになったわけですから。

 そういう中で渡邉信先生のチームは、ボトリオコッカスの10倍の効率でオイルを作ることが出来るオーランチオキトリウムという藻類を発見しました。

 オーランチオキトリウムは、ラビリンチュラという従属栄養生物の一種で光合成はせず、有機物をエサとして取り入れます。

 オーランチオキトリウムさんの勇姿。

 



 
 光合成するボトリオコッカスに対しオーランチオキトリウムは、光合成をせず、有機物をオイルに替えるという特徴があります。

 ボトリオコッカスは年間ヘクタール辺り100トンのオイルを生産することが出来ます。

 一方、オーランチオキトリウムは4日ごとに油生産し、年間ヘクタール辺り1000トンのオイルを生産できるのです。

 さらにオーランチオキトリウムは四時間ごとに倍々の割合で増えるので、四時間ごとに生産物の60%を収穫し、収穫後の液に更に新しい培養液を加えるという製法を用いると年間10000トン生産の可能性も出てきたのです。

例えば今日本の輸入している原油は年間2億トンですが、深さ1mのプールで培養するなら2万ヘクタールでそれを賄うことができるのです。


 2万ヘクタールといえば、一辺が14.142㎞の正方形ですね。2万ヘクタール(200平方キロメートル)は霞ヶ浦の面積(220平方キロメートル)とほぼ等しい大きさです。
 4ヘクタールの甲子園球場の5000個分です。
 
 一方、その広さは日本の休耕田・耕作放棄地39.6万ヘクタールの5%でOKなのです。

 オーランチオキトリウムで作ったオイルは100円/1L以下、更に進んで50円/1L以下も可能ですからコスト的に十分ペイします。

 オーランチオキトリウムは他の藻類と違い光合成せず有機物を利用して油を作ることができます。

 有機物といえば、下水等の有機排水、有機廃棄物がありますね。

 排水や廃棄物を利用して油を生産できるのですから、一石二鳥たあこのことだねえ。
 

 ただ、今の実験は、研究室レベルの規模でしかないのです。

 藻類の油で作った製品の生産にはまだ課題が多く、試験的に藻類が作ったオイルで飛行機、車を動かしている段階です。

実用化し石油の代替エネルギーにするには、巨大プラントによる大量生産ができなければ話になりません。


 例えば、深さ1mといわず、ビール工場のような深さのあるタンクでも生産できるようにすれば、コンパクトな施設で生産できるのですが、酸素が均一に行き届く効率的な深さを現在模索中なのだそうです。

 渡辺先生は、実用化に向けた課題・プロセスをこう考えています。 
①藻類そのものを大量生産。
②生産した藻類を濃縮収穫。
③収穫した藻類からからオイルを効率的に作る。
 
 上記それぞれの3ステップで重要な技術は以下のとおりです。
①攪拌(かくはん)し空気を溶液中に溶かし込むのに要するエネルギーの効率化
②大規模プラントでの効率的な濃縮収穫方法を確立しなければ生産物のエネルギーの20~40%が消費されてしまうので、大規模プラントのノウハウを持つ産業界で濃縮収穫技術の涵養(かんよう)を計る。
③現状の技術では乾燥させて有機溶媒を使いオイルを抽出することになるが、乾燥に大量のエネルギーが必要となるので、乾燥を経ずに大量のオイル抽出する技術開発を行う。

 そして、こういった工程を経る藻類システムを有機排水の水処理プロセスの中に組み込むのが最終的な到達点なのです。

 オイルを取った後の絞りかすは、いろいろな利用法が考えられ、最終的にはガス化してメタンガスとして使うことができるそうです。

現在、日本では藻類による油生産の実用化を目指し発足した組織として藻類産業創世コンソーシアムという組織を作っているところです。

 
 豊田中央研究所、デンソー、キッコーマン、出光興産等、日本企業50社以上が参加し、これから開発を開始するんだって。

 しかしながら、こういった研究には予算や時間がかかります。日本の石油需要を賄うだけのオイルの生産には果たしてどれだけの予算や時間が必要なのでしょう?

 実はアメリカでも、同様のプロジェクトが産官学の緊密な連携の下、精力的に進められていて、投資額は1000億円以上を見込んでいるそうです。
 
 ですから、日本でもそれくらい(最低1000億円以上)の予算を組む覚悟が必要です。
 
 ただ、石油は現在250兆円市場なので、十分に投資する価値があるのではないかと思われます。

 当然、この研究のパイオニアである渡辺教授には海外から強力な引き抜きのオファーが有るそうです。
しかしながら渡辺教授は、あくまで日本のエネルギー安保のために研究したいということです。 

 現在、重要な技術やノウハウがアメリカやCHINA等の海外に流出しているのが気がかりなところです。グズグズしていたら、先を越されるということになりかねません。


理想的な投資体勢が整ったとして、実用化までの時間はどれくらいかかるのでしょう?


 渡辺教授は個別技術開発に3~5年。実規模スケールで3年~5年かかり、10年以内でできればと考えているそうです。

 以上、効率の点から、オーランチオキトリウムの研究開発が有望なのは分かりましたが、 ボトリオコッカスの研究はもうしなくて良いのでしょうか?

 実はボトリオコッカスにも利点があるのです。

 ボトリオコッカスは、オーランチオキトリウムと異なり細胞の外にオイルを出すので、細胞を生かしたまま油の抽出が可能なのです。また、光合成の際にCO2を吸収するので、有機物は必要ありません。ただ単に窒素リン等の無機栄養を与えればよいのです。

 一方、オーランチオキトリウムによって処理された二次処理水は窒素とリンが大量に残っているのです。これをこのまま排水してしまうと、水域の富栄養化が起きてしまいます。

 そこで、二次処理水にボトリオコッカスを投入すれば、窒素とリンを取り込み、オイルを生産できるようになるのです。


 それから、ボトリオコッカスは役に立つ生理活性物質作っていて独自の用途があるので、開発を続ける価値は十分あります。

 本当に夢が膨らむ研究ですね。こういうところにお金と人材を投入して欲しいものだねえ。
 
 日本が産油国になる日
 

 画像が上手く見られない方はこちらへ。
http://www.youtube.com/watch?v=amit7ksynR0

 ということで、今回はオーランチオキトリウムとボトリオコッカスについてでした。












横浜港の散策だよ(その9) 【ファイルT155】2011.06.07 

【ファイルT155】2011.06.07 横浜港の散策だよ(その9)

横浜の大桟橋(おおさんばし)だよ。

 その1からご覧になられる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51882527.html

 ようやく横浜港に出てきました。

 港の雰囲気を醸し出しているのは象の鼻(ぞうのはな)地区の『WORLD TIME』というお店です。





 お洒落な衣料品を売っているショップなのだそうです。

 アデリーペンギンさんの看板が可愛いねえ。





 横浜港と言えば、大桟橋(おおさんばし):別名『くじらのせなか』です。

 大きな船が止まっていました。商船三井の客船『にっぽん丸』です。





 こんなお船で世界一周クルーズとかやったら豪気だねえ。

 横浜港はここから始まりました。象の鼻地区の波止場は、時代とともにさまざまな愛称で親しまれてきました。

 
 安政6(1864)年に、最初の2本の波止場が完成します。

 開港当初の象の鼻地区の波止場『再改横浜風景』(部分)五雲亭貞秀:横浜開港資料館蔵





 手前が東波止場、奥が西波止場です。

 東側の突堤は『東波止場』と呼ばれ、主に外国からの輸出入貨物の積卸しに使用されました。西側の突堤は『西波止場』と呼ばれ、国内貨物の積卸しに使用されました。

 開港当初の象の鼻地区と、現在の海岸線比較。





 元治元(1864)年、貿易量の増大に伴い、現在の山下公園中央付近に新たに『東波止場』が作られると、象の鼻地区の2つの突堤を総称して『西波止場:』と呼ぶようになりました。

 フランス人建築家クリペによる『横浜絵図面』には、慶応元(1865)年当時の西波止場の姿が描かれています。





 当時の水際線は、現在の横浜開港資料館前の海岸通りの位置にあり、2本の突堤はそこから海に突き出ていたと考えられます。

 東波止場はフランス人居住区の前面にあったので、『フランス波止場』とも呼ばれました。明治2(1869)年、象の鼻地区の前面にイギリス領事館(現在の横浜開港資料館の所在地)が建てられると、西波止場は『イギリス波止場』とも呼ばれました。西波止場の西側の突堤は、国内貨物専用だったので『日本波止場』、税関の建物に近いので『税関波止場』とも呼ばれました。

 現在の横浜港の航空写真





 随分と埋め立てが進んでいます。

 『フランス波止場』は埋め立てで山下公園に吸収され、『イギリス波止場』の西(左側)に巨大な大桟橋が延び、付け根に象の鼻が見えます。『港崎遊郭(みよざきゆうかく)』が現横浜スタジアム・横浜公園になっています。


 慶応2(1866)年の豚小屋火事の後、波止場は再建されました。最初の東波止場と西波止場の間は埋め立てられ、海岸線は前進し、そこに新しい運上所が建設されました。

 東波止場は沖に延び、直角に曲がって『象の鼻波止場』になりました。

 『象の鼻』が出来た頃の絵です。





 『横浜弌覧之真景(よこはまいちらんのしんけい)』の部分 五雲亭貞秀:横浜開港資料館蔵





 中央に象の鼻が見えます。各国領事館や日本の官庁の旗も描かれていますね。

 横浜港の波止場の変遷です。





 明治27(1894)年頃、象の曲がった部分に桟橋が作られ、『鉄桟橋』とも呼ばれました。象の鼻は、波止場としては使用されなくなり、『象の鼻防波堤』ともいわれるようになりました。

 大震災後、象の鼻防波堤は、旧来よりもやや直線的で短い形に復旧されて、象の鼻の形は殆どとどめなくなりました。

 平成21(2009)年、横浜開港150周年事業の一環で『象の鼻パーク』として、かつての象の鼻の形が復元されました。





 手前の丸いでっぱりが『象の鼻パーク』で、背後のビルが『大さん橋ふ頭(おおさんばしふとう)ビル』です。

 ということで、ランドマークタワーから見た今の横浜港の写真です(再掲)





 字が読みにくいのですが、上から、氷川丸、山下公園、大さん橋ふ頭ビル、大桟橋、象の鼻パーク、赤レンガ倉庫です。


 左側の客船『にっぽん丸』が停泊しているのが現在の大桟橋です。通称『くじらのせなか』と呼ばれています。





 象の鼻パークでは、西波止場の西側の突堤の位置を、広場内の舗装パターンを変えることで表現しています。

 別の日に撮った正面から見た大桟橋。本当に『くじらのせなか』だねえ。





 白い船が停泊しています。

 写真を撮ったときは気がつかなかったのですが、あとで別の写真をよく見ると船体に
おもいっきり『PEACE BOAT(ピースボート)』って書いてあったよ。うへえ!

 ピースボートって、辻元清美さんのこういう団体だよね。

 ※  ※  ※
 
 「反対…でも守って」 海自がピースボートを護衛 ソマリア沖 :2009/05/14(木) MSN産経ニュース

 海賊対策のためアフリカ・ソマリア沖に展開中の海上自衛隊の護衛艦が、民間国際交流団体「ピースボート」の船旅の旅客船を護衛したことが13日、分かった。ピースボートは海賊対策での海自派遣に反対しており、主張とのギャップは議論を呼びそうだ。

 海自の護衛艦2隻は11日から13日にかけ、ソマリア沖・アデン湾を航行する日本関係船舶7隻を護衛。うち1隻がピースボートの船旅の旅客船だった。ピースボートは社民党の辻元清美衆院議員が早稲田大在学中の昭和58年に設立。船旅は寄港地のNGO(非政府組織)や学生らと交流を図ることなどを目的としている。・・・・・

  ※  ※  ※

 日本人として、本当に恥ずかしいねえ。

 ということで、最後にオチがついたところで、次に続きますね。

 次回はこちら。
【参考資料】
横浜今昔散歩 原島広至 (株)中経出版 
横浜開港資料館 総合案内 たまくす 横浜開港資料館 






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