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靖国神社にお詣りしたよ(その11) 【ファイルET37】2011.07.29 

【ファイルET37】2011.07.29 靖国神社にお詣りしたよ(その11)

日本放送協会(NHK)の反日捏造は酷い。

 靖国の記事を、最初からご覧になられる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52046335.html
 
 三八式歩兵銃(さんぱちしきほへいじゅう)





 三八式歩兵銃は明治三十八年の制式採用から、昭和十六年の生産中止まで約340万挺が生産されました。

 この銃の特徴は諸外国のライフルと同等以上の命中精度を誇り、操作性がよく、後継の九九式小銃の生産が追いつかなかった大東亜戦争の終戦まで、陸軍歩兵の主要小銃でした。

 大体、日本が侵略のために共同謀議(極東軍事裁判におけるア項《いわゆるA級戦犯の訴因》)を図ったのなら、明治38年の銃を使わずに、新式主要小銃の準備くらいできてなければおかしいのです。

 日本が大東亜戦争開戦に追い詰められた大きな原因は、石油の禁輸と、日本人移民排斥の人種差別でした。


 英霊の遺影がずらりと並んだ部屋は圧倒されます。





 本当に皆さんお若いのに、しっかりした凛々しいお顔をなさっています。


 第一神風特別攻撃隊大和隊 海軍大尉 植村眞久命(うえむらまさひさのみこと:享年25歳)のお写真です。
 胸に抱かれているのは、愛娘の素子(もとこ)さんです。





 その植村大尉が特攻へ旅立つ直前に愛娘の素子(もとこ)さんに宛てた遺書です。





 とても有名な遺書で、こう書かれています。

※  ※  ※

素子

素子は私の顔をよく見て笑ひましたよ。

私の腕の中で眠りもしたし、又お風呂に一緒に入った事もありました。

素子が大きくなって私のことが知りたいときは、お前の母さんか佳世子叔母様に私のことを良く御聴きなさい。私の写真帖もお前の為に家に残して在ります。

素子と云ふ名前は私が付けたのです。素直な心のやさしい思ひやりの深い人になる様にと思って、お父様が考へたのです。……

私は御前が大きくなって、立派な花嫁さんになって幸になるまで見届けたいのですが、若し御前に私を見知らぬままにしてしまっても、決して悲しんではなりません。

御前が大きくなって、父に会ひたいときは、九段にいらっしゃい。

そして心に深く念ずれば、必ず御父様のお顔が御前の心の中に浮かびますよ。

父は御前は幸せものと思ひます。生れながら父に生写しだし、他の人々も素子ちゃんを見ると眞久さんに会っている様な気がすると良く申されて居た。

また、お前の御祖父様御祖母様は、お前を唯一つの希望にしてお前を御可愛がり下さるし、姉様も又、ご自分の全生涯をかけて唯々素子の幸せのみ念じて生きぬいて下さるのです。

必ず私に万一の事あるも親無児などと思ってはなりません。父は常に素子の身辺を守って居ります。

先に言った如く素直な人に可愛がられるやさしい人になって下さい。……

お前が大きくなって、私のことを考へ始めた時に、此の便りを読んでもらひなさい。


昭和十九年九月吉日               父

植村素子へ

追伸
素子が生まれたときオモチャにして居た人形は、御父様がいただいて自分の飛行機に御守り様にして乗せて居ります。だから素子は父様と一緒に居たわけです。

素子が知らずに居ると困りますから教へて上げます。

※  ※  ※

娘の素子さんはその後無事に成長され、

昭和42(1967)年、お父さんと同じ立教大学を卒業したのを機に靖国神社で、その報告とともに、母親や家族、友人、父の戦友達が見守る中、文金高島田に振袖姿で、日本舞踊「桜変奏曲」を奉納されたそうです。





 素子さんは、『会いに来たくなったら九段(靖国神社)に会いに来なさい』というお父さんの言葉通り、成長した姿を見せに行かれたのですね。

 天国のお父さん、さぞかし嬉しかったでしょうね。


 平成16(2004)年、8月14日にNHKが放送した「映像記録 昭和の戦争と平和~カラーフィルムでよみがえる時代の表情」で、この遺書が紹介されました。

 ナレーションで紹介されたのは以下の通りです。

 下記のうち、『水色の部分』は省略されました。

※  ※  ※

「素子、素子は私の顔をよく見て笑ひましたよ。

私の腕の中で眠りもしたし、又お風呂に一緒に入った事もありました。

素子が大きくなって私のことが知りたいときは、お前の母さんか佳世子叔母様に私のことを良く御聴きなさい。

私の写真帖もお前の為に家に残して在ります。

素子と云ふ名前は私が付けたのです。素直な心のやさしい思ひやりの深い人になる様にと思って、お父様が考へたのです。……

私は御前が大きくなって、立派な花嫁さんになって幸になるまで見届けたいのですが、若し御前に私を見知らぬままにしてしまっても、決して悲しんではなりません。



御前が大きくなって、父に会ひたいときは、九段にいらっしゃい。



そして心に深く念ずれば、必ず御父様のお顔が御前の心の中に浮かびますよ。

父は御前は幸せものと思ひます。生れながら父に生写しだし、他の人々も素子ちゃんを見ると眞久さんに会っている様な気がすると良く申されて居た。

また、お前の御祖父様御祖母様は、お前を唯一つの希望にしてお前を御可愛がり下さるし、姉様も又、ご自分の全生涯をかけて唯々素子の幸せのみ念じて生きぬいて下さるのです。 必ず私に万一の事あるも親無児などと思ってはなりません。


父は常に素子の身辺を守って居ります。

先に言った如く

素直な人に可愛がられるやさしい人になって下さい。……

お前が大きくなって、私のことを考へ始めた時に、此の便りを読んでもらひなさい。

昭和十九年九月吉日 父

植村素子へ



追伸
素子が生まれたときオモチャにして居た人形は、御父様がいただいて自分の飛行機に御守り様にして乗せて居ります。だから素子は父様と一緒に居たわけです。

素子が知らずに居ると困りますから教へて上げます。


※  ※  ※

(『反日マスコミの真実』西村幸祐責任編集 株式会社オークラ出版P37より)

 NHKは放送時間の都合で省略はしかたないと言うかも知れませんかもしれませんが、問題は省略された部分です。

 特に『御前が大きくなって、父に会ひたいときは、九段にいらっしゃい。そして心に深く念ずれば、必ず御父様のお顔が御前の心の中に浮かびますよ』という肝心な部分が省略されたのは愚劣な捏造です。

 この部分を削除したら、『父は常に素子の身辺を守って居ります』という部分の意味が分からなくなります。

 当然、お父さんは靖国神社から素子さんの身辺を守って居るのです。

 「自分があの世に言っても悲しむことはない、会いにきたくなったら、九段=靖国神社に来ればいいから」という、娘を思う、父親の最期の思いを隠蔽してまで特定アジア(反日を国策にしている支那・朝鮮半島)に媚びたいメディアなんでしょうね。
 

しかも、成長された素子さんは、靖国神社で日本舞踊「桜変奏曲」を奉納されたのです。
 この人達は、どうしてそんなに靖国神社が憎いのでしょうか。

 一体、NHKの職員というのは日本人なのでしょうか。

 こういうのを日本語では『卑劣漢』というのです。

 このNHKの連中は、靖国に祀られた英霊の方々を『かわいそうな犠牲者』として上から目線で同情はしたくても、『祖国のために戦われた英雄』とは絶対に見なしたくないのです。

 NHKというのは、日本放送協会ではありません。
 中国中央電視台(CCTV)日本支局なのです。

 【「WiLL」2011年3月号、p133 】
 テレビ捜査班(第55回)
 NHK次期会長人事の内ゲバと抜本的改革案
 水島総・「日本文化チャンネル桜」社長より

※  ※  ※

 福地という人物は、会長の任期途中に「もう辞めたい」というニュアンスの発言をした気弱な男で、国民から期待されたNHK改革の初心も意欲もなくした「根性なし」だと理解していたが、それ以上に、こういう人物は周辺の人間たちや情報組織によって、あれこれ「意識操作」や「刷り込み工作」を受けやすい人物だろうと心配していた。

 なぜなら、NHKは、渋谷のNHK放送センター中枢ビル内に、一党独裁の全体主義国家、中華人民共和国の国営放送「中国中央電視台(CCTV)」の日本支局の設置を容認している、世界でも稀な「日本」の公共放送局だからである。

※  ※  ※

 靖国神社を否定する人達が、どういう精神構造を持った人達か、私たちはよく知っておくべきでしょう。

 次に続きますね。

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横浜市立金沢動物園のムースさんだよ 【ファイルC230】2011.07.26 

【ファイルC230】2011.07.26 横浜市立金沢動物園のムースさんだよ

アメリカ・ヘラジカさんは大きいねえ。

 横浜市立金沢動物園にはムースさんがいます。

 巨大なアメリカ・ヘラジカさんです。学名はAlces alces americanusで、英名はAmerican Moose(アメリカン・ムース)です。

 日本にお住まいのアメリカ・ヘラジカさんは、この人だけなのだそうです。





 また、日本にお住まいのシベリア・ヘラジカさんは夢見ヶ崎動物公園にお一人だけだそうです。寂しいねえ。

 こんにちは。





 大きいねえびっくりだねえ。

 背中の曲線も綺麗だねえ。





 アメリカ・ヘラジカさんは、アラスカ・カナダの北部森林地帯にすむ最大のシカです。

 雄の成獣は体重500㎏にもなり、オスは手のひらのような形をした角を持ち、1年に1回生え変わります。角の形は、へら状で左右の開きが最大で2m近くあります。

 暑さをしのぐため、泥浴びや水浴びを好みます。

 夏期は1~3頭で生活しますが、冬期には10~15頭の群れをつくります。
 
 そういえば、昭和40(1965)年に戦後初の三冠王に輝いた、強打者で名捕手の現東北楽天ゴールデンイーグルス名誉監督のノムさんこと野村克也さんのあだ名が『ムース』でしたね。

 ヘラジカのムースさんは、普段はのっそりしているけれど、いざとなったら非常に敏感で頭が良い動物です。

 日米野球で来日したウィリー・メイズが、「のそっとしているが、いろいろな動きによく反応している」野村さんを見て、ムースと呼んだことから名づけられたのだそうです。

 そういわれてみたら、堂々と貫禄があって、のそっとしている感じが野村さんに似ているねえ。

 この人もID野球とかが得意なのかな?

 また、イチロー選手の所属するシアトル・マリナーズのマスコットはマリナー・ムースというアメリカ・ヘラジカさんです。
 




 マリナーズは現在、球団ワースト記録を更新する16連敗中。

 がんばって欲しいものだねえ。

 毛並みもふさふさして気持ちよさそう。





 極寒でも暖かいんでしょうね。

 優しい目をしています。





 まつげが長くて、ツノにも毛が生えています。

 一年に一回生え変わるということは、ツノは、もっと大きくなるのですね。

 立派なツノは、メスへのアピールなのだそうですが、これくらいの大きさが丁度良いと思うけれど。

 雄の咽頭部の皮膚は垂れ下がっていて、これを肉垂(にくすい)といいます。

 ニワトリさんみたいだねえ。肉垂にも毛がふさふさです。

 
 首を伸ばして





 草をはむはむ。





 のどかだねえ。

 さようなら、元気でね。

 大きくて立派なムースさんでした。









横浜港の散策だよ(その13) 【ファイルT158】2011.07.23 

【ファイルT158】2011.07.23 横浜港の散策だよ(その13)

『カモメの水兵さん』が並んでいたよ。

 その1からご覧になられる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51882527.html
  
 童謡『カモメの水兵さん』は『赤い靴』と並んで、横浜発祥の名曲です。
 『赤い靴』の記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52300466.html

 横浜港には童謡『カモメの水兵さん』の歌碑も建っています。
 




 碑には『碑を建てることば』と題してこう書かれています。

※  ※  ※

 作詞者 竹内俊子さんは昭和8年の秋ある日このメリケン波止場から船で布教のためハワイへ旅立たれる叔父さんを見送りにこられました。

 それは良く晴れた日の午後のことで桟橋一帯にかもめがたくさん飛びまわりそれが折からの夕陽に映えてとても美しく印象的でした。この童謡はこのときの光景を描いたもので横浜港は「かもめの水兵さん」の発祥地であります。

 昭和54年11月 野間 省一

※  ※  ※

 野間 省一さん(のま しょういち、1911年4月9日 - 1984年8月10日)って、講談社第4代社長だった人ですね。講談社って昔は大日本雄辯會講談社(だいにっぽんゆうべんかいこうだんしゃ)っていう名前だったんだねえ。

 昭和12年(1937)年に発表された日本の童謡の『かもめの水兵さん』。作詞は武内俊子さん、作曲は河村光陽さんです。

 この曲は河村順子さんの歌唱によって、同年4月にキングレコードから、当時毎月発売されていた2枚組み童謡シリーズの1曲としてレコード化され、戦前および戦中の童謡のレコードとしては大ヒットとなりました。

 河村順子さんの歌う『かもめの水兵さん』
 
 うまく観られないときはこちら。
http://www.youtube.com/watch?v=WDSdfj-VZIs

 歌詞

1.かもめの水兵さん
並んだ水兵さん
白い帽子 白いシャツ 白い服
波にチャップチャップ 浮かんでる

2.かもめの水兵さん
駆け足水兵さん
白い帽子 白いシャツ 白い服
波をチャップチャップ 越えていく

3.かもめの水兵さん
ずぶ濡れ水兵さん
白い帽子 白いシャツ 白い服
波でチャップチャップ お洗濯

4.かもめの水兵さん
仲良し水兵さん
白い帽子 白いシャツ 白い服
波にチャップチャップ 揺れている

 別刷で専門家による踊りの振り付けの解説もあり、運動会などの行事の遊戯として踊った幼児や小学生は数知れません。

 戦後は音楽の教科書にも採用され、昭和30(1955)年から昭和42(1967)年まで断続的に、教育出版や教育芸術社から刊行されている小学2年生を対象とした教科書に掲載されました。

 後年、河村順子さんは海外との音楽交流を行った際に、この作品を英語やヒンズー語に訳します。

 加えてドイツ語や韓国語を始めとする11ヶ国語にも訳したことにより、日本を越えた国々で歌われ、平成19年(2007)年には日本の歌百選に選出されました。

 実際に碑の近くに係留されている氷川丸(ひかわまる)には、かもめの水兵さんが沢山暮らしていました。





 氷川丸の鎖の上に並んだ水兵さん。









 ついでに、よこはま動物園ズーラシアにいたカモメの水兵さん。

 ウミネコさんだよ。





 片足を休めているねえ。

 ペアを作って仲良しだねえ。





 白い服がお洒落です。









 カモメは英語でシーガル(seagull)で、水兵はセーラー(sailor)だねえ。

 セーラー服は海軍の水兵さんの制服です。

 一方、詰め襟は陸軍の兵隊さんの制服です。最近の学校は詰め襟やセーラー服を廃止して、ブレザーにしたがります。

 私は以前、駅のホームで金髪の長い髪の女の子がセーラー服を着ている姿を見て、びっくりしたことがあります。いくらなんでも、ここまでキンキラキンに髪を染めることを許すなんて、極端すぎやしないかって思ったのです。

 その子が振り向いて二度びっくり。青い目で色白の北欧系の女の子だったんです。

 とってもセーラー服が似合うのでした。考えてみれば、セーラー服なんて西洋の水兵さんの服だから西洋の女の子が似合うのなんて、当たり前なんですよね。

 傑作ミュージカル映画のサウンド・オブ・ミュージックのトラップ・ファミリーの子供達もセーラー服を着ていましたからね。

 アメリカのアニメーションの人気者、ポパイ(Popeye)もポパイ・ザ・セーラーマンで水兵さんだから、セーラー服を着ていますよね。

 ということで、赤い靴のもの悲しい曲と対照的に、カモメの水兵さんは明るくて元気な歌ですね。

 ずっと残していって欲しい曲です。


 次に続きますね。






靖国神社にお詣りしたよ(その10) 【ファイルET36】2011.07.20 

【ファイルET36】2011.07.20 靖国神社にお詣りしたよ(その10)

日露戦争『水師営の会見』だよ。

 靖国の記事を、最初からご覧になられる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52046335.html

 日露戦争『水師営の会見(すいしえいのかいけん)』の写真です。


 


 中列中央が乃木大将とステッセル将軍です。

 明治三十八(1905)年一月五日、旅順要塞を陥落した第三軍司令官乃木希典(のぎまれすけ)大将は、遼寧省大連市旅順の水師営ロシア極東司令官ステッセル中将と会見しました。

 これにより旅順軍港攻防戦の停戦条約が締結されたのです。

 会見に際して明治天皇は「ステッセル将軍の面目を保つように」とお達しになり、乃木大将は従軍記者に武士の情けとして敗軍の将の写真を撮らせないことにしたかったのですが、それでは世界中から来ている従軍記者も役目が果たせないということで、一枚だけ撮らせました。

 その際に乃木大将は敗軍の将兵たちの心を気遣い、勲章さらには軍刀の佩用(はいよう)を許しています。

 ステッセルは帰国後、ロシア皇帝ニコライ2世から敗戦の責任を追及され、銃殺刑を言い渡されました。

 これを知った乃木大将は、助命嘆願の手紙を出しました。そのかいあって、ステッセルは罪を軽減され、死刑を免れて、シベリア流刑となりました。

 小学唱歌『水師営の会見』【作詞:佐々木信綱 作曲:岡野貞一 (明治39年6月)】
 

 上手く見られない場合はこちら。
http://www.youtube.com/watch?v=WVVS56hWx30


1
旅順(りょじゅん)開城約成りて  敵の将軍ステッセル 
乃木大将と会見の 所は何処水師営(いづこすいしえい)
2
庭に一本棗(ひともとなつめ)の木 弾丸あとも著(いちじる)く 
崩れ残れる民屋(みんおく)に 今ぞ相見る二将軍

3
乃木大将は厳(おごし)かに 御恵(みめぐ)み深き大君(おおぎみ)の 
大みことのり伝うれば 彼かしこみて謝しまつる

4
昨日の敵は今日の友 語る言葉もうちとけて 
我は讃(たた)えつ彼(か)の防備 彼は讃(たた)えつ我が武勇

5
かたち正して言い出でぬ
「この方面の戦闘に 二子を失い給いつる 閣下の心如何にぞ」と

6
「二人のわが子それぞれに 死所を得たるを喜べり これぞ武門の面目」と
大将答え力あり

7
両将昼食(ひるげ)ともにして なおも尽きせぬ物語
「我に愛する良馬あり 今日の紀念に献ずべし」

8
「厚意謝するに余りあり 軍の掟に従いて
他日我が手に受領せば 長く労(いたわ)り養わん」

9
「さらば」と握手懇ろに 別れて行くや右左
砲音絶えし砲台に 閃(ひらめ)き立てり日の御旗

 
 動画では4番までしか入っていませんが、水師営の会見で、ステッセル将軍は、乃木大将が戦争で二人のご子息を失ったことを気遣い、紀年に愛馬を献上したのですね。
 
 でも、歌詞に「他日我が手に受領せば」とあるように、愛馬は軍の捕獲品になりますからステッセル将軍がその場で個人的に乃木大将に勝手に贈るわけにはいかないので、乃木大将はその場では受け取らず、後日受け取ることにしたのです。
 
 日露戦争が終わって、まず日本がしたことはロシアの戦没者の慰霊です。

 負けた方が悲惨で、悔しい思いをしたのだからと、旅順にロシア風の墓地と顕彰碑を作って礼拝堂を建て、日本政府の主催で盛大な慰霊祭を執り行いました。

 慰霊祭はロシア正教の聖職者とロシア軍関係者を招き、乃木大将は日本側の代表として参列しました。

 日本の戦没者を慰霊する旅順白玉山の表忠の碑ができたのはその1年6ヵ月後なのです。

 日本は自国の戦没者の慰霊より先に、ロシア側の大慰霊祭を行ったのです。

 「昨日の敵は今日の友」

 当時の日本と帝政ロシアの立派な態度は、日本との中立条約を一方的に破棄し、火事場泥棒的宣戦布告。昭和20(1945)年8月15日に日本が降伏して以降も戦闘をやめず。北方領土を強奪した凶悪なスターリンのソビエト社会主義共和国連邦と大違いです。

 『水師営の会見』の写真を見ると、どうしても較べてしまうのは、昭和天皇とマッカーサー元帥の写真です。





 正装なさっている陛下と較べ、マッカーサーの格好は何ですか?!

 本当に田舎のならず者です。この写真はさすがに敗れたとはいえ一国の元首に対して、国家元首でも何でもない軍人が余りにも無礼な態度です。

 アメリカの品性の下劣さに、海外のメディアも大いに批判しました。

 現在の日本人の中にも、こういった品性下劣な連中の起こした『東京裁判』を肯定するどころか、靖国問題だのA級戦犯だの天皇の戦争責任だの、馬鹿なことを言っている人がいます。

 ところで、マッカーサーといえば、こんなエピソードがあります。

 昭和20(1945)年12月15日、GHQによる「神道指令」によって国からは離され同28日に宗教法人令が施行されて「別格官幣社(べっかくかんぺいしゃ)」の社格を失いました。

 GHQ内部には「靖国敵視」といった靖国神社の本質を誤解した雰囲気もあって、靖国神社や伊勢神宮、明治神宮などを焼却処分にするといった野蛮な意見も飛び出しました。

 そんな中、マッカーサー元帥から靖国神社の存続を諮問された当時上智大学学長のブルーノー・ビッテル神父はこのように答申しました。

 《(前略)靖国神社が国家神道の中枢で、誤った国家主義の根源というのなら、排すべきは国家神道という制度であり、靖国神社ではない。
 われわれは、信仰の自由が完全に認められ、神道、仏教、キリスト教、ユダヤ教などいかなる宗教を信仰するものであろうと、国家のために死んだものは、すべて靖国神社にその霊を祭られるようにすることを進言する》

 マッカーサー元帥は、この答申を受け入れ、靖国神社の存続を認めました。

 ブルーノー・ビッテル神父の答申は反論のしようがない正論だったからです。


 現在、靖国を否定している中華人民共和国は、そのころは蒋介石の中華民国でしたが戦勝国の代表として日本を統治していたマッカーサーが存在を認めていたのです。

 1971年10月25日に国連総会で決議された2758号決議(「追放国府・招請中国」のアルバニア決議が基)によって、支那の国連での代表権が中華民国から中華人民共和国へと移しました。

 中華民国を引き継いだということに正当性を見いだしている中華人民共和国に靖国についてとやかく言う資格はありません。

 また、昭和53(1978)年に中華人民共和国と締結した『日中平和友好条約』には『内政不干渉』が謳(うた)われています。

 そればかりか、その前の昭和42(1972)人の『日中共同声明』や平成10(1998)年の『日中共同宣言』にも『内政相互不干渉』が銘記されています。

 日本の首相の靖国神社参拝を非難するのは『内政干渉』以外のなにものでもありません。

 そもそも日本と支那とは文化が違うのです。

 『墓を暴き、死者に鞭打つ』というのが野蛮な支那の伝統文化であって、『死ねば、敵も味方もみな仏』というのが日本の伝統文化です。

 凶悪犯の処刑場であった鈴ヶ森刑場でも、慰霊碑が建てられ、参拝慰霊する人が絶えません。

 鈴ヶ森刑場の記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/47339510.html

 野蛮で執念深い支那人は春秋時代末期、伍子胥(ごししょ)は父と兄の怨みを晴らすために平王の墓を暴いてその屍(しかばね)に鞭打ちました。

 清朝のラストエンペラー愛新覚羅 溥儀(あいしんかくら ふぎ)が、日本に助けを求め満州国を建国したのも、1928年に国民党の軍閥孫殿英の軍隊が河北省の東陵を略奪し(東陵事件)、乾隆帝の裕陵と西太后の定東陵は墓室を暴かれて徹底的な略奪を受けたことに憎悪したことが大きな原因です。

 近くは蒋介石が戦後、親日派で日本と和平を結んだ汪兆銘(おうちょうめい)の墓を爆破するという野蛮行為を実行しました。
 
 日本人にはこんな憎悪に満ちた野蛮な発想は端からありません。

 松井 石根(まつい いわね)大将は昭和12(1937)年に南京を攻略(南京大虐殺などといういうのは大嘘です)したときには、敬愛する孫文の墓=中山陵や其他革命志士の墓及明孝陵が荒らされることが無いように立入りを禁じています。


 一方、大東亜戦争当時の朝鮮系日本人は、実質上徴兵を免除されていて、軍人は志願兵でした。

 朝鮮で軍人の募集をしたとき、朝鮮系日本人はこれに殺到したのです。
靖国には、戦死された朝鮮系日本人の英霊も祀られています。

 朝鮮の人達はどういう神経で靖国を否定するのでしょう。

 韓国政府も中華人民共和国同様に『靖国問題』を内政の失敗を目を逸らすための道具として大統領の支持率アップに利用しているのです。

 また、韓国は勝ち馬に乗って、ベトナム侵略戦争に出征し、30万人を越すベトナム人を虐殺したと言われています。もしベトナムが、韓国大統領に戦没韓国兵追悼のための国立墓地参拝に反対したとしたらどうするのでしょうか?

 韓国大統領は無視するでしょう。敗戦国韓国はベトナムに対し、講和も謝罪も賠償も行っていません。人がやるのはダメだが、自分は良いという二枚舌は、支那・朝鮮人に共通する心の病です。まともに相手にするだけ損です。

 更に、日本人にも靖国を否定する人達が存在するのが驚きです。

 ということで、次に続きますね。








東京銀座の『ナイルレストラン』のカレー『ムルギーランチ』は美味しいねえ 【ファイルF49】2011.07.17 

【ファイルF49】2011.07.17 東京銀座の『ナイルレストラン』のカレー『ムルギーランチ』は美味しいねえ

初代ナイルさんは、インド独立の闘士だったんだよ。

 インド料理店のナイルレストランは、東京銀座は歌舞伎座の近くにあります。


 



 


 お店の前にはありがたい仏像が。


 


 入店するとナイルレストランご主人の2代目ナイルさんが迎えてくれました。

 席に案内されると、いきなりオーダーを聴かれます。

 『ムルギーランチしましょうか?』

 『はい』

 商談は即決で成立です。

 オーダーを聴くと言うよりも、『この店に来た以上は、ムルギーランチを注文するのだろうね?』という念押しをされるといったほうが正しいのです。

 この店の経営方針は、注文は原則ムルギーランチということになっているのです。

 ややこしいもんは注文しないことです。

 他の皆さんも当然のごとくムルギーランチを注文しています。

 ムルギーランチというのは、ワンプレートのカレーライスセットです。

 店内にはインド料理屋さんではお約束の、インドの歌謡曲が流れています。

 正しくムルギーランチを注文すると、すぐに若いインド人のボーイさんがムルギーランチを運んできました。『餃子の王将』並の素早さです。

 普通ならここで、すかさずボーイさんが鶏肉の身から骨を外してくれるのですが、皆さんに紹介しなければならないので、『先に写真を撮らせてください』とお願いすると、心得たもので、作業をしやすい向きに置かれたお皿を写真を撮りやすい向きに直してくれました。

 鶏肉解体前のムルギーランチ


 


 写真を撮り終えると、もう一度お皿の向きを作業しやすい方向に向け、冷めないように手早く鶏肉の骨を外してくれます。

 鶏肉解体後のムルギーランチ。


 



 


 『よくかきまぜてから食べてください』

 これも、このお店のお約束です。

 実際に先によくかき混ぜて食べると美味しいのです。

 中身は鶏肉とシャキシャキキャベツと、マッシュポテト、とグリーンピースです。

 この意表をついたキャベツと、マッシュポテトの組み合わせでまろやかさを出していて、ピリ辛カレーにマイルドなこくを出しているのです。

 ナイルレストランのHPを覗くと、使用されている『ギー』は精製された水分のない純植物性食用油脂で、古くから東南アジア、特にインドでは『ワナスパティ・ギー』という名称で健康の油として非常に広くいろいろな料理に用いられてきたのだそうです。

 これは、カレー料理、及びその他の料理や揚げもの、または菓子やテーブル用に素晴しい味を出しますが、とりわけここナイルレストラン『ギー』は純植物性食用油脂で他の脂肪分は全く含んでいないのが自慢なんだって。

 しゃばしゃばのカレーがターメリックライスによく絡みます。

 客の接遇はご主人のナイルさんの担当のようで、水をついで回っています。


 美味しかったねえ。

 以前、日本に亡命したインド独立の闘士ラス・ビハリ・ボーズさんで有名な新宿中村屋の記事をUPしました。
 
 新宿中村屋の記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52198887.html

 ここナイルレストランの初代ナイルさんもインド独立の闘士で、自ら本も出版されています。

 『知られざるインド独立闘争―A.M.ナイル回想録(新版)』 河合伸訳、風涛社、2008年


 


 初代ナイルさん〔A.M.ナイル、またはアイヤッパン・ピッライ・マーダヴァン・ナーヤル, 1905年 - 1990年4月22日〕は、インド独立運動家で事業家でした。

 裏表紙に載っていた、A.M.ナイルさんの肖像写真。


 


 A.M.ナイルさんは高校在学中からインド独立運動に参加し、イギリス植民地当局から要注意人物として監視されていたため、昭和3(1928)年に、かつて北海道大学に留学していた5歳上の兄の熱心なすすめにより京都大学工学部に入学、土木工学を学びます。

 来日早々、先に日本に亡命し東京を中心に活動していたインド独立運動家のラス・ビハリ・ボーズを訪ねています。

 昭和7(1932)年に大学を卒業した後は栗本鐵工所へ入社しますが、インド独立運動家としての講演活動などが多忙になり退社し、ビハリ・ボースの腹心として、日本政府の上層部や荒木貞夫や田中隆吉などの軍上層部、頭山満や大川周明などのアジア独立主義者らと関係を結びインド独立運動(反イギリス植民地運動)を行います。

 これにより、ナイルさんはイギリスの植民地のインドには帰れなくなり、事実上の日本亡命を余儀なくされます。

 昭和8(1933)年の夏に国賓待遇として満州国を訪問して以来、満州国と日本を行き来し、インド独立運動を続けつつ、変装してモンゴル奥地の調査旅行や、満州在中のロシア人社会の情報収集をするなど、スパイ映画さながらの活動をします。

 昭和14(1939)年には満州建国大学の客員教授をつとめ、五族(漢・日・蒙・朝・満)の大学生に対して、インドだけではなくアジア各国の独立を説きました。そして、日本人の浅見由久子と結婚。長男が誕生します。

 昭和16(1941)年12月に日本は大東亜戦争に突入し、イギリスと開戦します。

 翌昭和17(1942)年には、東南アジアのインド独立運動を盛り上げるために、ラス・ビハリ・ボーズを総裁とする「インド独立連盟」(のちに後継者のスバス・チャンドラ・ボーズによって「自由インド仮政府」となる)が結成され、ナイルさんは事務総長として活動したほか、日本側との連絡担当・インド向け宣伝活動担当・日本向け広報担当など八面六臂の活躍をします。

 昭和18(1943)年になり、スバス・チャンドラ・ボーズが来日して、インド独立連盟総裁・自由インド仮政府首班に就任しました。

 ナイルさんはチャンドラ・ボーズと意見が食い違うこともありましたが、インド独立と東南アジア在住のインド人のための活動は継続していました。

 昭和19(1944)年には次男(G. M. ナイル)が誕生します。

 この次男のG. M. ナイルさんが、今のナイルレストランの2代目御主人です。

 この人にお水をついでもらって、畏れ多いねえ、

 しかし、昭和20(1945)年にはビハリ・ボーズとチャンドラ・ボーズが相次いで客死した上に、同年8月の日本は敗戦をむかえます。

 ナイルさんは、大東亜戦争終戦後も引き続き日本に留まり、昭和21(1946)年に行われた極東国際軍事裁判(東京裁判)のために来日したラダ・ビノード・パール判事の通訳を務めたほか、裁判情報の提供に協力しました。

 ラダ・ビノード・パール判事は東京裁判判事の中で唯一の国際法の専門家で、日本無罪論を主張しました。

 昭和22(1947)年8月のインド独立後、ナイルさんは家族とともにインド国籍を得ますが、新政府には戻らずに引き続き日本に住み続けます。

 昭和24(1949)年には、駐日インド大使の顧問に就任するとともに、東京都中央区銀座に日本初のインド料理専門店となる、ここ「銀座ナイルレストラン」を開店します。

 そして、在日本国インド大使館特命全権大使K・K・チェトゥール氏のもとで、『日本国とインドとの間の平和条約(日印平和条約)』締結のために尽力します。

 第二次世界大戦時、イギリス領の植民地として戦勝国側だったインドはサンフランシスコ講和会議に招請を受けますが、1951年8月23日に会議への参加と条約への調印は拒否し、そのかわりに独自に『日本国とインドとの間の平和条約』を締結します。

 その時の事情が前掲の『知られざるインド独立闘争―A.M.ナイル回想録(新版)』の
P374に書かれてあります。

※  ※  ※

 日米安保条約についてはおそらく多くの国々が知っていて、少なくともいくつかの国は、その調印が9月8日に行われることも知っていたに違いない。

 しかしインド以外には、事前に条約の原文を入手していた国は、まずなかったと想う。

 わたしはひょんなことから、完全で正当な手段で、チェトゥール氏のためこれを入手することができたのだ。

 東京の内閣記者会は政府から内密に安保条約の説明を受け、そのコピーをもらっていたが、その発表はサンフランシスコ条約と同時で、それ以前ではならないと指示されていた。

 しかし、わたしが親しくしていたあるジャーナリストは独自の考え方をして、この条約については何ら秘密にすることはないと考え、わたしに写しを分けてくれたので、それをチェトゥール氏に回したのである。

 だからネルー首相は事前にそれを読んで、アメリカはサンフランシスコ条約の傘の下に日本がアメリカの勢力圏内にとどまるよう強要することが分かったのである。

 これは日本に「国際礼譲の中での十分な名誉と平等、満足」を与えないことを意味していたのだから、インドとしてはどうしても、受け入れるわけにはいかなかった。

 もし日本が、完全な独立国となった後に自らの意志で、しかも慎重な検討の後に外国軍隊の駐留に同意すると決めるなら、話は別である。

 しかし独立の回復が、特定の国、すなわちアメリカにとって都合の良い条件に左右されるのは間違っていた。

 インドがサンフランシスコ条約に調印しないと最終的に決断したのは、安保条約の原文を吟味した結果だったとわたしは確信している。

 サンフランシスコ会議に出席した52カ国のうち日本も含めて49カ国が調印した平和条約は、1952年4月28日に発効した。

 日本とインドの平和・友好条約は、同年6月9日に締結された。インドを代表してチェトゥール氏が、日本を代表しては岡崎勝夫外相が署名した。岡崎外相は調印にさいし、次のように語った。

 「この条約には日本に対する友好と好意の精神が貫かれており、一切の賠償請求を放棄して、インドにある日本資産を返還するという条項は、特にその好例である」

※  ※  ※

 日本が主権を回復した昭和27(1952)年には小泉忠三郎とともにナイル商会を設立、インドの食材などの輸入を手掛けます。

 その後もパール判事の来日の際のブレーンとして活動する他、吉田茂、石橋湛山、大野伴睦、藤山愛一郎など日本の政財界人との広い交友関係を生かしながら在日インド人協会の代表などを歴任し、日印両国を行き来し日印親善活動を続けました。

 昭和59(1984)年には、日印親善に尽くした功により日本政府から勲三等瑞宝章を授与され、平成2(1990)年4月22日に故郷のティルヴァナンタプラムで死去。

 インドをはじめとした東南アジアの独立と日印友好に努力されたA.M.ナイルさん。

 ごちそうさまでした。









横浜八景島シーパラダイスのセイウチさんはラッパの名人 【ファイルC229】2011.07.14 

【ファイルC229】2011.07.14 横浜八景島シーパラダイスのセイウチさんはラッパの名人

シーパラダイスの人気者だねえ。

  ということで、八景島の記事も溜まっています。

 以前、おたる水族館のセイウチさんのご夫婦の記事を載せました。
 記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/49414371.html
 
 海獣の人達はとても頭が良いのでびっくりするねえ。

 館内の水槽では、セイウチさんが、元気よく泳いでいます。



 

 手前の子は、牙が片方無いねえ。牙は別になくても不自由はしないようですが、バランスは悪そうです。

 水中宙返りだよ。



 

 ということで、ここのセイウチさんは、こうやって気ままに泳いでいる人達と、ステージでショーを披露する人がいます。

 さっそうと登場するセイウチさん。



 

 スロープはつーっと滑り降ります。



 

 準備運動で腹筋を鍛えます。



 

 楽々とこなします。厚い脂肪の下にはくっきり割れた腹筋がしまわれているのでしょうね。

 腹筋はお腹が空くから、お魚ちょうだいよお。



 

 もうちょっともらわないことには、割に合わないよ。



 

 うへえ、セイウチさんは、ステージの上でお兄さんとギャラの交渉を始めました。

 ギャラのことなら、もうちょっと上の人に相談してくれろとお兄さんは言います。

 ふてくされたセイウチさんは、口から水をぴゅー。



 

 次はいよいよお得意のラッパだよ。
 


 

 ぷうぷう。アルペンホルンみたいだねえ。

 楽しそうなお顔だねえ。
 
 次はお兄さんの『良い湯だな』の歌に合わせて手のひらを左右に振ります。



 

 ババンババンバンバン♪

 ドリフみたいだねえ。
 
 セイウチさんはお兄さんととっても仲良しです。



 

 悩殺ポース。



 

 最後に投げキッス。



 

 また来てね。

 ということで、芸達者な八景島のセイウチさんでした。

 さようなら、元気でね。皆さんも機会があれば、会いに行ってくださいね。






横浜港の散策だよ(その12) 【ファイルT157】2011.07.11 

【ファイルT157】2011.07.11 横浜港の散策だよ(その12)

横浜のザンギリ頭記念碑だよ。

 その1からご覧になられる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51882527.html

 横浜は国際港として様々な文物が入ってきた港です。

 中にはこんなものも日本で初めて入ってきています。

 ザンギリ頭です。

 それを記念してザンギリ頭(ざんぎりあたま)の碑が建っています。





 目が『ZAN GIRI』の文字で、口が『YOKOHAMA』になっていますね。
 

 碑の説明書きにはこう書いてあります。

 ※  ※  ※

 西洋理髪発祥之地  横浜市長 細郷道一

 -ザンギリ頭をたたいてみれば 文明開化の音がする-

 安政の開港とともに、生活様式の洋風化が進むなか、政府の「断髪令」に先がけ、明治2(1869)横浜に我が国初の「西洋理髪店」が開業され、欧米風「ザンギリ頭」は文明開化の一翼を担うこととなった。

 平成元年11月

 彫刻名 「ザンギリ」
 彫刻制作 木村 賢太郎
 寄贈 神奈川県理容環境衛生同業組合
    全国理容環境衛生同業組合連合会

 ※  ※  ※

 それまで男の人は月代(さかやき)を剃って、髷(まげ)を結っていました。

 こういう髪型だと、甲(かぶと)を被るとき蒸れないし安定したのですね。

 明治維新というのは、西洋列強の日本侵略から国土を防衛するために自治の強い藩を廃止して、中央集権国家にして国を富ませ、職業軍人を失業させ、国民皆兵の徴兵制度を創設して近代軍を整備することを目的としていました。

 だから、武士の象徴の髷(まげ)も鎧甲(よろいかぶと)も不要になったのですね。

 江戸時代に理髪店は髪結床(かみゆいどこ)と言っていました。

 早くから着物から洋装に衣替えして、髷を切り落としザンギリ頭になったのは、慶応2(1866)年にフランス式三兵伝習にやって来た兵隊さんでした。

 西洋式の軍帽を被るのに髷は邪魔だからです。

 床屋さん達は入港してきた外国船に乗り込み、乗組員の髪を切って西洋の理容技術を習得して、居留地百四十八番の外国人宅の軒先を借りてはやばやと店を開いていました。

 居留地百四十八番で腕を磨いた理容師さん達は後に東京にも出店し、『百四十八』という屋号を使用しました。

 
 明治4(1971)年8月9日に散髪制服略服脱刀勝手令(いわゆる断髪令)が太政官布告され、さらに明治6年明治天皇の断髪に至ると、伝統的な男髷(おとこまげ)を結う男性は激減しました。

 『髷(まげ)』のことを『丁髷(ちょんまげ)』とも呼びますが、これは洋髪やざんぎり頭が圧倒的大多数になっても、頑固に男髷姿(おとこまげすがた)を変えようとしなかった人の頭を揶揄(やゆ)して『丁髷頭(ちょんまげあたま)』と呼ぶようになったものですから、『髷(まげ)』はちゃんと『髷(まげ)』と呼ぶべきでしょうね。

 大きな木が植わっています。





 横浜マリンタワー(よこはまマリンタワー)は横浜港のシンボルタワーです。





 昭和34(1959)年横浜港開港100周年記念行事の流れの中から、横浜港を象徴するモニュメントを建設しようという計画が起こり昭和36(1961)年に10角型のスタイルの横浜マリンタワー建設されました。

 高さ106m。12,000トン。

 灯台を意識したデザインで、実際に頭頂部には灯台としての機能も併せ持っていて、ギネスブックにも最も高い灯台として記録されていました。

旧用途灯台
設計者(当初設計)清水建設株式会社設計部、(改築設計)日建設計株式会社
施工清水建設株式会社、石川島播磨重工業
構造形式(展望部・塔体部)鉄骨造 最高高さ106.2 m、(低層部)鉄骨鉄筋コンクリート造り、一部鉄骨鉄筋コンクリート造、鉄骨造 4階
開業日昭和36年1月15日


 平成21(2009)年5月にリニューアルオープン
 今年平成23(2011)年1月15日にめでたく開業50周年を迎えました。
 これからも浜っ子に愛され続けると良いねえ。

 ということで、横浜発祥の散髪屋さんの碑のお話でした。

 次に続きますね。


靖国神社にお詣りしたよ(その9) 【ファイルET35】2011.07.07 

【ファイルET35】2011.07.07 靖国神社にお詣りしたよ(その9)

遊就館の展示について

 靖国の記事を、最初からご覧になられる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52046335.html

 前回は、遊就館入り口ホールに展示してあるのは三菱・零式艦上戦闘機五二型について御紹介しました。
 記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52280129.htm

 ここまでは撮影可能ですが、中の展示は撮影不可です。

 ですから、遊就館の図録から、どういう展示か雰囲気をざっと紹介しますね。

 戦(いくさ)に倒れた英霊をお祭りする神社の博物館なので、英霊に関する展示がされています。

 例えば、靖国にお祀りされているこんな人の肖像画が。





 坂本龍馬の命(さかもとりょうまのみこと)の肖像画。

 坂本 龍馬(さかもと りょうま、天保6年11月15日(1836年1月3日)- 慶応3年11月15日(1867年12月10日))さんは、日本の近世末期に活動した土佐藩出身の武士です。
土佐郷士に生まれ、脱藩した後は志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(後の海援隊)を結成しました。

 薩長同盟の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど倒幕および明治維新に大きな影響を与えましが、大政奉還成立の1ヶ月後に近江屋事件で暗殺されました。

 坂本龍馬さんといえば、何といっても司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』ですね。

 龍馬さんが幕末の風雲児として国民的人気を得るに至った最大の功労者は司馬遼太郎さんでしょう。

 小説は面白すぎてなんか眉唾のような気もするけれど、それが司馬さんの人気の秘密なのですね。これを読むと、本当に坂本龍馬さんのことが好きになります。

 実際には生前の坂本龍馬さんは一般の人には殆ど知られていなかったのですね。

 明治維新以降、明治の元勲から坂本龍馬という傑物がいたという話は伝えられていたようです。

 勝海舟の『氷川清話(ひかわせいわ)』での坂本龍馬評です。

 『坂本龍馬。彼(あ)れは、おれを殺しに来た奴だが、なかなか人物さ。その時おれは笑つて受けたが、沈着(オチツ)いてな、なんとなく冒(おか)しがたい威厳があつて、よい男だったよ』


 明治16(1883)年に高知の『土陽新聞』に坂崎紫瀾(さかざき しらん)が書いた『汗血千里の駒(かんけつせんりのこま)』が掲載され、大評判となった事により一躍その名が知られるようになります。

そのこともあり、明治24(1891)年には龍馬さんに正四位が追贈されました。

 また、日露戦争の時のエピソードが更に坂本龍馬さんの知名度を高めたようです。

 それは、開戦直前の明治37年(1901年)2月6日のこと。

 明治天皇のお后(きさき)、美子(はるこ)皇后陛下の夢枕に龍馬が立ち、「私が海軍軍人を守護いたします」と告げたのです。

 美子皇后陛下はこの龍馬が誰かご存じなかったのですが、宮内大臣田中光顕(たなか みつあき:土佐勤王党出身で陸援隊幹部)が、龍馬の写真をご覧に入れたところ、皇后陛下は間違いなくこの人物だったとおっしゃったのです。

 この話が全国紙に掲載されたため、坂本龍馬の評判が全国に広まります。

 そのお告げ通り、日本海海戦で日本海軍がバルチック艦隊を破り大勝したことで、皇后陛下の御意思により京都霊山護国神社に『贈正四位坂本龍馬君忠魂碑』が建立されました。

 海援隊の龍馬さんは日本海軍の守護神なのですね。

 
 それから、官軍が奉じた『錦の御旗(にしきのみはた)』です。









 『宮さん宮さん (トンヤレ節)』(作曲:大村 益次郎、作詞:品川 弥二郎)の歌詞にも登場する『錦の御旗』です。

 宮さん宮さん お馬の前に
 ひらひらするのは何じゃいな
 トコトンヤレトンヤレナ
 あれは朝敵征伐せよとの
 錦の御旗じゃ知らないか
 トコトンヤレトンヤレナ

 この錦の御旗が「お馬の前にひらひらたなびいた」おかげで江戸幕府は賊軍になり、実質上の勝負は決したのですね。

 幕末維新の歴史ファンの方は必見です。

 官軍の証である『錦の御旗(にしきのみはた=『錦旗:きんき』ともいう)』の存在は士気を大いに鼓舞すると共に、賊軍の立場となった江戸幕府側に非常に大きな打撃を与えました。

 当時土佐藩士として戦いに参加し、のちに宮内大臣や内閣書記官長などを歴任した田中光顕は、錦の御旗を知らしめただけで前線の幕府兵達が「このままでは朝敵になってしまう」と青ざめて退却する場面を目撃しているそうです。

 朝敵として抗戦の正当性を失ったラスト・ショーグンの徳川慶喜は、鳥羽伏見の戦いから壊走し、大坂城に籠城しようとしていた軍を見捨てて、江戸に逃げ帰ります。

 錦の御旗が初めて日本史に登場したのは、承久3(1221)年の承久の乱に際し、後鳥羽上皇が配下の将に朝敵討伐の標として与えて以降のことなのだそうですが、幕末の人達は話には聞いていても、そんなものの実物なんて誰も見たことがあるはずがありません。

 この錦旗は、慶応3(1867)年10月6日に薩摩藩の大久保利通と長州藩の品川弥二郎が、愛宕郡岩倉村にある中御門経之の別邸で岩倉具視と会見した際に調製を委嘱されたものです。

 岩倉の腹心玉松操(たままつ まひろ)のデザインを元に大久保利通が京都市中で大和錦と紅白の緞子(どんす)を調達し、半分を京都薩摩藩邸で密造させたものだそうです。

 朝廷は有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王を東征大総督に任じ、錦の御旗を授け、西郷隆盛を大総督府参謀として、薩長藩兵を主とする官軍を率いて東下せしめられました。

 錦旗(きんき)を翻(ひるがえ)して進軍する官軍を前に幕府の軍勢は意気消沈し各地の戦いに敗退します。

 錦旗を利用した官軍側の作戦勝ちなんでしょうね。


 スタール銃とケベール銃。





 スタール銃は、官軍が使用したアメリカ製の銃。後方装填式(銃の後ろから弾を込める)なので、扱いやすく、命中精度も良かったので、圧倒的な威力を発揮しました。

 ゲベール銃は、前装管打式歩兵銃(弾を銃口から込める)なので、弾の装填に手間がかかり、スタール銃に比し名中度が低かった点が難でした。
 
 
 彰義隊旗(しょうぎたいき)です。





 慶応四(明治元年)四月、江戸城は無血開城します。開城に反対した彰義隊は上野で抗戦しますが(上野戦争)そのおりの旗です。

 上野戦争の記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/48584057.html

 赤熊毛頭(しゃぐまけがしら)、白熊毛頭(はくまけがしら)です。





 上野戦争の頃から官軍幹部が冠り物として使いはじめました。

毛がしらの色は、赤は土佐、白は長州、黒は薩摩の色とも言われています。


 西南戦争で使用されたアームストロング砲の砲弾です。





 アームストロング砲(あーむすとろんぐほう)は、イギリスのウィリアム・アームストロングが1855年に開発した大砲の一種で、南北戦争中のアメリカにも輸出されています。

 南北戦争が終わると幕末の日本へ売却され、戊辰戦争等で使用されました。


 西南戦争に於いて、官軍が発行した投降勧告書
 




 人吉(ひとよし)陥落後、鹿児島に配送する薩軍兵の投降を促すため、市内各所に貼り出されたビラです。
 『官軍に降参する者はころさず』と書いてあります。

 『こ』の字が『古』を崩した変体仮名(へんたいがな)になっているので、わかりにくいねえ。

 薩軍兵の人達はこのビラをどんな気持ちで読んだのでしょう。

 日本の近現代史を考える上で、貴重な資料ですね。

 ということで、次に続きますね。


旭山動物園のフウセンウオさんとフサギンポさんだよ 【ファイルC228】2011.07.04 

【ファイルC228】2011.07.04 旭山動物園のフウセンウオさんとフサギンポさんだよ

どちらも可愛いねえ。

 旭山動物園に行ったのも随分と前の話になります。
 
 以前、旭山動物園のホッキョクグマさんのもぐもぐタイムの記事をご紹介しました。
 記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/46510837.html

 ホッキョクグマさんのもぐもぐタイムを見た後、ぐるりと回って外に出るのですが、ホッキョクグマさんのおうちの出口付近に、小さな水槽があって、そこは見逃してはいけません。

 そこには、フウセンウオさんがお住まいだからです。

 こんにちは。



 
 
 可愛いねえ。名前に違わず、風船みたく真ん丸だねえ。

 目が青くて異人さんみたいだねえ。

 通路にある水槽なので、みんな素通りしかかるのですが、私が一生懸命写真を撮っていたら、気付いて可愛いって喜んでくれましたよ。

 フウセンウオは、ダンゴウオ科に属する北方系の魚で、北海道、日本海、東シナ海北東部の岩礁域にお住まいです。水深90~150m付近に生息していると思われているのだそうです。
 
一般名:フウセンウオ(風船魚)
学名:Eumicrotremus pacificus
科属名:カサゴ目ダンゴウオ科イボダンゴ属
大きさ:0.5~6cmです。

 北海道周辺には、10種が生息していますが、その中でも北オホーツク海、日本海宗谷北部では、イボダンゴ・ナメダンゴ・ヒラダンゴ・フウセンウオ・ホテイウオ・コンペイトウの6種がよく見られるのだそうです。

 お腹の吸盤で、岩陰などに一生懸命はり付いて外敵から身を守っています。



 
 
 吸盤は腹鰭(はらびれ)が変形したものだそうです。この子達の大きさは数センチあるので、成魚なんでしょう。

 立派な背鰭だねえ。



 
 
 体全体に多くの小黒点が分布します。

 ほっぺがぷうって膨らんでいるねえ。
 


 
 
 可愛すぎるせいか、味が良くないのか、食用としては利用されていなんだって。
 


 
 
 巻き貝の中に産卵し、雄が保護するといわれていますが、詳しい生態はまだよく分かっていないみたいです。

 この前テレビを見ていたら、さかなクンが教科書に載せたいお魚として、カエルアンコウさんを紹介していました。

 カエルアンコウさんは、本ブログでも紹介したことがありますね。

 カエルアンコウさんの記事はこちら。
 http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/49876922.html

 千葉県館山市の「ふるさと親善大使」第一号でもある、さかなクンは、自宅にカエルアンコウさんをはじめ、いろんな魚を飼っていて、ハリガネのさきに綿棒をくっつけて、それをホンソメワケベラさんのように体をつんつくマッサージして、寄生虫とってあげているそうです。

 自宅の水槽には、フウセンウオさんやナメダンゴさんも飼っていて、ギョギョッ!

 北海道から取り寄せたんだって。

 千葉県の館山で飼うのは難しいだろうに、さすがだねえ。


 今回は、もう一種紹介しますね。

 この前、おたる水族館のギンポさんを紹介したのですが
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52133571.html

 その時見当たらなかったのが、フサギンポ(タウエガシ科)さんです。
 
 小樽には居なかったのに、旭川にはいました。

 小樽の敵(かたき)を旭川で討つんだねえ。

 頭がフサフサなので、フサギンポさんって分かりやすいねえ。



 

 土管みたいな所に隠れてひっそりとしています。



 

 唇が分厚くて可愛いねえ。



 

 最後にご挨拶。

 さようなら。



 

 ギンポさんはお顔が可愛いねえ。

 ということで、今回はフウセンウオさんとフサギンポさんでした。

 みんな元気でね。












横浜港の散策だよ(その11) 【ファイルT156】2011.07.01 

【ファイルT156】2011.07.01 横浜港の散策だよ(その11)

『赤い靴はいてた女の子』考だよ。

 その1からご覧になられる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51882527.html
  
 横浜港には童謡「赤い靴」の彫刻が立っています。
 




 横には歌詞と由来を書いた立て札が寄り添っています。
 




 『この曲は横浜港を舞台に作られ、大正10(1921)年に発表された童謡です。女の子の像はこれを記念し、多くの人に親しまれる彫刻となることを願って、ここに置かれています』

 大正10(1921)年といえば、大正12(1923)年の関東大震災の二年前です。

 時はまさに大正デモクラシーの時代で、大正6(1917)年にロシア革命が起き、皇帝ニコライ2世の一家7人、ニコライの専属医、女中、一家の料理人、従僕から飼い犬まで虐殺され、世界中が共産主義の残酷さに恐怖しました。

 その革命自体が血塗られた権力闘争と陰謀の連続で、共産党(赤色ロシア)に反対するロシア貴族(白系ロシア人)や、抵抗勢力が革命の過程で粛正虐殺され、亡命者も多数出しました。

 大正6(1918)年には連合国(大日本帝国・イギリス帝国・アメリカ合衆国・フランス・イタリアなど)が「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」という大義名分で革命の世界拡大の抑止のためシベリア出兵を行いましたが、日本国内でも社会主義者の扇動により米騒動などの争議が頻発しました。

 それはともかく、改めて歌詞を見てみましょう。

 ※  ※  ※

 1.赤い靴(くつ) はいてた 女の子
   異人(いじん)さんに つれられて 行っちゃった

2.横浜の 埠頭(はとば)から 汽船(ふね)に乗って
  異人さんに つれられて 行っちゃった
 
3.今では 青い目に なっちゃって
  異人さんの お国に いるんだろう

4.赤い靴 見るたび 考える
  異人さんに 逢(あ)うたび 考える

 ※  ※  ※

 歌はこちらで聴くことができます。
http://www.youtube.com/watch?v=EAR3PIe80rM

 埋め込み不可なのでリンクを貼りました。

 アコーディオンの音とマンドリンのトレモロが哀しいねえ。

 私はこれを人さらいの歌だと思っていました。

 横浜には人さらいの異人さんがいて、親の言いつけを守らずに、一人で遊んでいたらば、さらって行かれて、曲馬団(きょくばだん=サーカス)に売られてしまうんだねえ。

 なんか、『安寿と厨子王』の山椒大夫のハイカラ版のようなイメージなんですよね。

 チョコレートかなんかに釣られて誘拐されたのかな?

 それにしても、アメリカでアメリカの食べ物ばかり食べていると、目が青くなるんだねえ。
 
 などと子供心にとても怖い思いをしました。

 本当にミステリアスな歌詞です。
 
 物悲しく美しいメロディと相俟って、この歌詞も人気の秘密なんですね。

 
 発表はされなかったものの、1978年になって発見された草稿には、以下の5番もあったそうです。

5.生まれた 日本が 恋しくば
  青い海眺めて ゐるんだらう(いるんだろう)
  異人さんに たのんで 帰って来(こ)

 
 この曲は大正10年(1921)に野口雨情によって作詞され、翌大正11年(1922)に本居長世が作曲したものです。

 この赤い靴の女の子にモデルがいるという説が浮上したのは、昭和48年(1973)11月、北海道新聞の夕刊に掲載された、『岡その』さんという人の投稿記事がきっかけでした。

 話の概略はこういうことのようです。

 「雨情の赤い靴に書かれた女の子は、まだ会ったこともない私の姉です」。

 この記事を元に、当時北海道テレビ記者だった菊地寛氏が、義妹である岡そのさんの母親の出身地静岡県静岡市清水区をスタートに、そのさんの父親の出身地青森県、雨情の生家のある茨城県、北海道各地の開拓農場跡、そして横浜、東京、ついにはアメリカにまで渡って幻の異人さん、宣教師といった具合に5年あまりの歳月をかけ「女の子」のについて執念の取材をし「赤い靴の女の子」が実在していたことを突き止めたというのです。
 
 女の子の名は『岩崎きみ』ちゃん。

 きみちゃんは明治35年(1902)7月15日、日本平(にほんだいら)の麓(ふもと)、静岡県旧不二見村(現 静岡市清水区宮加三)で生まれました。

 きみちゃんは生まれてまもなく、いろいろな事情で未婚の母親「岩崎かよ」に連れられて北海道に渡ります。

 母親に再婚の話がもちあがり、かよさんは夫の鈴木志郎さんと社会主義運動の一環として作られた平民農場(現北海道、留寿都村)に入植することになります。

 当時の開拓地の想像を絶する厳しさから、かよさんはやむなく三歳のきみちゃんを義父の佐野安吉の仲介によりアメリカ人宣教師チャールス・ヒュエット夫妻の養女に出します。

 やがて、ヒュエット夫妻はやがてきみちゃんを連れてアメリカに帰国したという便りがかよさんの元に届きます。

 かよさんと鈴木志郎さんは平民農場で懸命に働きますが、静岡から呼んだかよさんの弟「辰蔵」を苛酷な労働の中で亡くし、また、開拓小屋の火事などもあって失意のうちに平民農場から引き上げます。 明治40年(1907)のことでした。
 
 鈴木志郎さんは北鳴新報という小さな新聞社に職を見つけ、同じ頃この新聞社に勤めていた野口雨情と親交を持つようになります。

 明治41 (1908) 年、小樽日報に移った志郎は、石川啄木とも親交を持ったことが琢木の「悲しき玩具」に書かれています。
 
 「名は何と言いけむ、姓は鈴木なりき、今はどうして何処にゐるらむ」

 雨情は明治41年(1908)に長女を生後わずか7日で亡くしています。

 おそらくそんな事情から、かよさんは雨情に幼かった自分の娘をアメリカ人夫妻の養女に出したことを話したのでしょう。

 その話が、詩人野口雨情が創作意欲をかきたて「赤い靴の女の子」のイメージが膨らんでいったのだと思われます。

 また、雨情は 、また夭折した長女への思いを「生まれてすぐにこわれてきえた」という『シャボン玉』の歌詞に託したのだと言われています。
 
 後年、母かよは、妹のそのさんに「雨情さんがきみちゃんのことを詩にしてくれたんだよ」と話して聴かせたと言うことです。 

ところが意外な事実が分かります。

 赤い靴の女の子は、実は異人さんに連れられてアメリカに渡っていかなかったのです。

 母かよさんは、亡くなるまできみちゃんはヒュエット夫妻とアメリカに渡り、幸せに元気に暮らしていると信じていました。

 ところが、ヒュエット夫妻が任務を終えアメリカに帰国しようとしたとき、6歳だったきみちゃんは不幸にも当時その時代不治の病といわれた結核に冒され、身体の衰弱がひどく長い船旅が出来ず、東京麻布のメソジスト系の鳥居坂教会の孤児院に預けられたのでした。

 治療の甲斐も無くきみちゃんが9歳の短い生涯を閉じたのは、明治44年(1911)9月15日の夜のことでした。
 

 この説については、異論反論が出されてるようです。

 永六輔氏は、「『赤い靴』の赤は実はソ連のことで、「そのソ連、社会主義がどこかへいっちゃった」という挫折感を、治安維持法による検閲を逃れるため隠喩を用いて訴えたのだというトンデモ説を出しています。

 治安維持法の成立は大正14(1925)年で、『赤い靴』が作詞されたのは大正10年(1921)ですから、話になりません。

 作家の阿井渉介氏も、その著書『捏像 はいてなかった赤い靴』で「雨情の『赤い靴』は社会主義的ユートピア運動の挫折の隠喩と解すべきだ」という論旨を主張しているようです。永六輔氏への応援ですね。

 また、平成21年(2009)年8月、北海道函館市に『きみちゃん像』が建てられた際に、毎日新聞は「平民農場開拓を指導した幸徳秋水らによる社会主義ユートピア運動の「挫折」を歌ったものとする指摘もあり、野口の親族らからは「実在のモデルはなかった」との主張もされている」と報じているそうです。

 毎日新聞は永六輔氏や阿井渉介氏の説を根拠も示さずに紹介することで、『きみちゃん像』にイチャモンをつけているのですね。

 反日左翼の毎日新聞が、否定したがっていると言うことは、『岩崎きみ』ちゃんモデル説が正しいのでしょう。

 第一、既にソビエト社会主義共和国連邦の崩壊で失敗が証明された社会主義デオロギーで出来た童謡なら、今も幅広い層に受け入れられるはずはありません。

 それに、外国人に里子に出された子供が海外に渡航するというシチュエーションにイデオロギーの介在する余地なんてあるわけないでしょ!

 例えば、寺山修司氏が「花いちもんめは、吉原の遊郭に売り飛ばされた幼なじみを身請けに行く歌だ」という珍説を述べていたという記憶があるのですが、とにかく左の人はなんでもかんでも『権力に抑圧された民衆』の話に持っていきたいようです。

 私は国語教師が『シャボン玉の歌は遊郭に売り飛ばされ、外界と途絶された遊女が外に出たいという願望を表した歌だ』などという珍説を自慢げに開陳していたのを聞いたことがあります。

 これって、ソ連で多くの文化人芸術家が、社会主義リアリズムの名のもと、ロシア・アヴァンギャルドや西欧の前衛的な手法が、徹底的に排除され大弾圧を受けたというスターリン体制の悲劇の歴史を全く無視しています。

 体制に批判された人たちは転向を強いられたり、シベリアへ流刑されたり、処刑されたり、欧米へ亡命していったりとんでも無い目にあいました。

 この人達って全く反省しないのですね。

 そういえば、吉本ばななさんのお父さんの吉本隆明さん(よしもとたかあき・詩人・新左翼の思想家)の『共同幻想論』は、政治が詩や文学に介入する事を徹底的に批判したことから発想されたものです。

 話の真偽はともかく、『赤い靴』が、欧米人に里子に出され横浜港から海を渡った幼い女の子の歌だと言うことは確かなようです。
 




 人さらいの歌じゃなかったんだねえ。

 9歳で結核で亡くなった岩崎きみちゃんに合掌。

 次に続きます。

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