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横浜港の散策だよ(その17) 【ファイルT162】2011.08.30 

【ファイルT162】2011.08.30 横浜港の散策だよ(その17)

「ヘボンさまでも草津の湯でも」のヘボンさんはローマ字で有名だよ

 その1からご覧になられる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51882527.html
 
 人形の家から元町方面に向かうと、ヘボン邸跡の碑が建っています。





 『人形の家』の裏の、上の写真の緑の矢印の場所です。





 ジェームス・カーティス・ヘボン(英語: James Curtis Hepburn:1815年3月13日 - 1911年9月21日)さんは、米国長老派教会系医療伝道宣教師で、 ヘボン式ローマ字の創始者。なおかつ、腕の良い医師でもありました。

 ヘボンさんはペンシルベニア州ミルトン出身で江戸時代に来日しました。

 『ヘボン』さんの名前はJames Curtis Hepburn で、英語読みだと『ヘプバーン』になります。

 それを『ヘボン』と読んだのは、日本で日本人向けに使った名前なのでした。

 『ヘプバーン』といえば、アカデミー賞受賞のアメリカを代表する歴史的な名女優キャサリン・ヘプバーンや、『ローマの休日』で有名なイギリス国籍ベルギー生まれのオードリー・ヘプバーンが思い浮かびますね。

 何を隠そう、アメリカの名女優、キャサリン・ヘプバーンさんは、ヘボンさんと同じHepburnの一族なのだそうです。

 アメリカ人に女優のヘプバーンと聞いたらば、まずオードリーじゃなくて、キャサリンの方ですからね。

 なんせ、アカデミー主演女優賞4回受賞ですから。

 第6回1933年:『勝利の朝』、第40回1967年:『招かれざる客』、第41回1968年:『冬のライオン』、第54回1981年:『黄昏』

 びっくりだねえ。


 谷戸橋のたもとにあった、当時の旧ヘボン邸。





 手前が山手、橋の向こう側が山下町です。

 正面の寺院風の建物が1862(文久2年)にヘボンさんが39番に居留地新築した自宅。ヘボンさんはここで療養所を開き、夫人は英学塾を開きました。

 来日当初、ヘボンさんは、宗興寺(横浜市神奈川区)に神奈川施療所を設けて医療活動を行っていましたが、ここに移ってきたのですね。


 療養所の患者の一人が、後に辞書編纂に協力した岸田吟香(きしだぎんこう)です。

 1867(慶応3)年、ヘボンは三代目澤村田の助(歌舞伎役者で美形の女形)の壊疽(えそ)が生じた右脚切断の大手術を成功させました。

 そのため、日本全国に『名医の平文(ヘボン)先生』の名が知れ渡り、「ヘボンさんでも草津の湯でも恋の病は治りゃせぬ」と俗謡にも歌われました。

 なお、草津節では、『ヘボンさん』が『お医者様』になり、「お医者様でも草津の湯でも恋の病は治りゃせぬ♪」と歌われています。


 『和英語林集成』です。





 ヘボンさんが来日以来、7年の歳月をついやして完成した書物です。

 『英国 平文(ヘボン)先生編訳』という標記がありますね。

 これは日本で最初の本格的な和英辞典で、明治期を通じて版を重ね、日本人の英語学習にも多大な貢献をしました。

 3版から採用されたローマ字つづりは『ヘボン式ローマ字』と呼ばれるようになり、今も広く使われています。

 というより、今私が入力しているのも、ヘボンさん考案の『ヘボン式ローマ字』による変換入力なのですから、ヘボンさんにはとても感謝しています。

 また、ヘボンさんは聖書の和訳に大いに貢献しました。

 日本聖書協会の「舊(きゅう)新訳聖書(いわゆる「文語訳聖書」)はヘボンさんやS・R・ブラウンさんらの訳が基になっています。

 ヘボン夫妻の明治23(1890)年の金婚式の記念写真です。





 晩年の夫妻は当時山手245番に移り住んでいて、明治学院の初代総理をつとめていました。

 明治学院の起源は1863年にヘボンさんが横浜に開いた『ヘボン塾』なのです。
 ヘボン塾は、のちに男子部が明治学院に、女子部はフェリス女学院となりました。

 ヘボン夫人のクララさんも日本の近代化に寄与しました。

 わが国に初めて男女共学の英語塾を開いて、のちの明治学院に育てあげました。また、日本女性に初めて毛糸の編み物の手ほどきをして、これを広めたのもクララさんです。

 
 ところで、ヘボンさんは日本史を揺るがす大事件に遭遇しています。

 1862年9月14日(文久二年八月二十一日)の『生麦事件』です。

 武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近で薩摩藩主の父・島津久光の行列に遭遇したにもかかわらず、下馬もせず、そのまま行列を突っ切ろうとした非礼なイギリス人を、供回りの藩士が無礼打ちにしたのです。

 4人のイギリス人のうち、リチャードソンは肩から腹へ斬り下げられ、臓腑が出るほどの重傷で、桐屋という料理屋の前から200メートルほど先で落馬し、追いかけてきた藩士にとどめを刺され絶命しまた。

 マーシャルとクラークも深手を負い、ボロデール夫人に「あなたを助けることができないから、ただ馬を飛ばして逃げなさい」と叫びました。

 帽子と髪の一部が飛ばされただけの無傷だったボロデール夫人は、横浜の居留地へ駆け戻り急を告げました。

 マーシャルとクラークは血を流しながらも馬を飛ばし、神奈川にある当時アメリカ領事館として使われていた本覚寺へ駆け込んで助けを求めました。

 このとき、成仏寺にいたヘボンさんは、2人の重傷者が運び込まれたアメリカ領事館本覚寺に呼び出され、深手を負った2人を治療したのです。

 この事件の賠償問題のもつれから薩英戦争が起こりましたが、結果として薩摩藩とイギリスが接近するきっかけとなり。時代は明治維新に向けて舵を切ったのです。

 つまり、ヘボンさんは日本の歴史の転換点に立ち会った重要な証人だったのですね。


 晩年のヘボンさんは、明治25(1892)年10月22日に妻クララさんの病気のため離日。
 明治26(1893)年ニューヨーク州イーストオレンジに居を構えます。

 その後、日本の文化に大いに寄与したヘボンさんは明治38(1905)年3月13日、日本政府より勲三等旭日章が贈られます。

 そして明治44(1911)年、96歳という長寿を全うして永眠しました。

 ヘボンさんは、ローマ字だけの人ではなかったのですね。

 ということで、次に続きますね。

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靖国神社にお詣りしたよ(その15) 【ファイルET41】2011.08.27 

【ファイルET41】2011.08.27 靖国神社にお詣りしたよ(その15)

日本無罪論を主張したパール判事(下)。

(上)からの続きです。
(上)はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52504334.html

 パール判決のその後の国際的な評価について、『パール判事の日本無罪論』 田中政明 小学館文庫より引用しましょう。





 ※  ※  ※

 そのころすでに欧米の法曹界・言論界においては、このパール博士の少数意見が非常な波紋を呼んでいたのである。

 まず主なるものを拾いあげてみると、1950年、英国枢密院顧問官で、政界の元老であるとともに、国際法の権威であるハンキー卿が『戦犯裁判の錯誤』(Politics Trials and Errors 長谷川才次訳)を著し、「裁判官パール氏の主張が、絶対に正しいことを、私は全然疑わない」とはっきり言明して、いくたの慣行法や実定法や歴史的事実とパール判決の内容を照合しつつ、戦犯裁判そのものに根本的な疑問符を投げかけるとともに、東京裁判の不公正を衝いている。

 ことに、自分の親友で、自分とともにあれほど平和のために努力した重光葵(まもる)氏が、どうして処罰を受けなければならないのかという疑問を提示して、これにかなりのスペースを費やしている。

 このハンキー卿の主張と前後して、英法曹界の重鎮であるF・J・P・ビール氏が『野蛮への接近』(Advance to Barbarism)という著書を著し、戦争と処刑に関する古今東西の歴史的考察を行ない、東京とニュルンベルグとにおいて行われた二つの裁判は、原告は“文明”であると僭称(せんしょう)しているが、実は戦傷者が戦敗者に加えた野蛮時代の復讐行為の再現にほかならないことを明らかにした。

 さらに、イギリスでは、国際法で有名なW・フリートマン教授、国会議員でありかつ王室弁護士であるR・T・バジェット博士などのパール支持論が優勢を占め、ついにロンドンの世界事情研究所監修『世界情勢年間』(1950年版)には、54ページから104ページにかけて、東京裁判を解説し、パール判定が正論であることを裏づけた。

 一方、アメリカでも、東京裁判に関する批判と反省の論争は活発に行われた。

 チャールズ・ベアード博士は、歴史学・政治学の泰斗(たいと)として有名で、日本へも来たことのある人だが、『ルーズベルト大統領と1941年戦争の形態と実際の研究』という長い題名の著書を著し、その中で「日本が真珠湾を攻撃するより数ヵ月前に、ルーズベルト大統領はアメリカ軍部をして、海外駐屯軍に秘密に軍事行動を指令した」と発表し、日米開戦前夜におけるパール博士の指摘した点を裏づけた。

 またアメリカ最高裁のウイリアム・O・ダグラス判事は、東京裁判の被告らがなした大審院への再審査請求事件に対し、1949年6月意見書を発表したが、その中でパール判決を支持し、「国際軍事裁判所は政治的権力の道具以外の何ものでもなかった」と批判している。

 さらにモントゴメリー・ベルジョン氏の『勝利の正義』(Victor’s Justice)、フレダ・アトレイ氏の『復讐の高い代価』(The High Cost of Vengeance)といった東京裁判に関する著書が相次いで現れ、非常な売れ行きを示して、ジャーナリズムの話題をさらった。これらは、いずれも東京裁判に対する痛烈な批判で、随所に、パール判決が引用されている。

 またマンレー・O・ハドソン判事は、その著『国際裁判所の過去と将来』において「政治機構に関してどのような発展が行われようとしているにせよ、国際法の及ぶ範囲を拡大して、国家もしくは個人の行為を不法とし、これを処罰する司法作用を包含させるには、現在はまだその時機が熟していない」と述べている。

 オランダ、フランスなどにおいても、この論議が盛んに行われ、甲論乙駁(こうろんおつばく)、ごうごうたる激論が戦わされた。1961年のオランダの法律雑誌は、東京裁判に関するパール博士の論文を連載した。日本と同様に裁かれたドイツにおいて、この論争が盛んなことはもちろんで、その代表的なものは、哲学者ヤスパースの『戦争の責罪』である。彼はこの著書の中でこう述べている。

 「戦争は歴史全体を通じて存在し、なお幾多の戦争が切迫しているのをどうみるか。私はどう考えても、一つの民族だけが、戦争の責罪を負わなければならない義務はないと思う。“自分には罪がない”などというのは、薄っぺらで、ごまかしの道徳意識だ。これこそひとりよがりというものだ。その証拠には、彼らはすでに、次の戦争の準備をし、これを促進しているではないか」

 「いっそ明白なる暴力の方がましである。その方が正直で我慢しやすい。そこに存在したものは戦勝国の強権ばかりであった。それは人類の将来の平和のために、無益なばかりか、きわめて有害な存在となった」

 かつて、パール博士が日本の法律家に向かって、いま世界に巻き起こっている戦犯論争に対して、なぜ沈黙を守っているのかと、奮起を促した理由がわかるような気がする。

 ※  ※  ※

 また、さらにつけくわえるなら、国際法の権威であるハンキー卿は上掲の『戦犯裁判の錯誤』において、「若干の疑問」と題し、こうも述べています。

 (『パール判事の日本無罪論』 田中政明 小学館文庫P42より)

 ※  ※  ※

「一、未来に対してきわめて重要な裁判を行う法廷を、偏見の度合いの少ない連合国の構成国、もしくは、もっと公平な中立国の判事を参加させずに、戦争の矢おもてに立った連合国の構成国の指名した判事だけで構成することに決定したことは、果して正しく賢明であっただろうか。

 われわれはいま少しで負けるところだった、かりに負けたとしたら、われわれは日、独、伊、三国だけによる裁判に納得しただろうか。また、歴史がそのような裁判を受け入れると期待されるだろうか。

二、不戦条約その他の国際条約を侵犯し、隣国に対し侵略戦争を計画し、準備し、遂行し、占領地域の一般住民を虐待し、奴隷労働その他の目的のためにその土地から追放し、個人の財産を収奪し、軍事上の必要によって正当化されていない都市村落の無謀な破壊を行うような罪を犯したことが一見明らかな同盟国の政府(たとえばソ連)および個人に対しても、同じような裁判を行うつもりかどうか。

三、このような裁判をやならいとすれば(もちろんやるはずはない)ニュルンベルグの政策は、敗者に適用する法律は、勝者に対するそれとは別物だということを示唆しないのか、哀れなるは敗者である!これは将来の悪い先例とならないか」

 まことにハンキー卿のいうとおりである。

 幾十万という女・子供を含めた銃後の非戦闘員を、一瞬にして皆殺しにしてしまった原子爆弾の投下を、命令し授権した責任者が、なんら戦争裁判の対称ともならず、問題ともされなかった事実。

 中立条約を一方的に踏みにじって、満州になだれこみ、婦女子を強姦し、ソ連の非常無惨なる行為がまったく容認されたかたちで、東京裁判は終わったのである。

 このような不公正きわまる裁判を認めるわけにはゆかないとして、最後まで闘ったパール博士の正論が、今日、国際法学会の強い支持を受けているのは当然といえよう。

 ※  ※  ※

 また、パール博士は日本が主権を回復した1952年に日本を訪問して重光葵氏と懇談を行った際、アメリカのご都合主義をこう批判します。

(「パール博士『平和の宣言』」ラダ・ビノード・パール著 田中政明編著P95より)





 ※  ※  ※

 巣鴨の戦犯釈放はわれわれに残された義務です。

 東京とニュルンベルクの連合国の18人の判事のうち、この裁判が根本的にあやまりであることを唱えたのはわたくしだけでした。

 だが、いまではイギリスのハンキー卿はじめ、世界の権威ある法学者が、わたくしの説を支持しています。

 ただアメリカのある学者は苦しまぎれに、あの裁判は国際法で裁いたのではない。マッカーサーが日本の政府を代行して、日本の国内法として裁いた特殊裁判であるといい出しています。

 なぜそのようなことをいい出したかといいますと、中共がアメリカの捕虜を東京裁判に見習って国際法で裁くといいはじめたからです。

 アメリカにすれば身から出た錆(さび)です。

 もしかりに、東京裁判が国内法で裁いたというならば、日本が独立して主権を獲得した以上は、日本政府が自由に釈放するなり、再審議するなり、できるはずです。

 そうあることを予測したアメリカは、サンフランシスコ条約第11条で、日本の自由を縛ってしまったのです。(第11条要旨=日本は連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、刑を宣告された者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基く場合のほか行使することが出来ない――――編集部注・田中政明氏は後にこの文中の「裁判を受諾し」という箇所の「裁判」に棒引きをし、「判決」と直していた)

 日本の全権は、アメリカのこの策謀的な仕うちを知ってか知らずしてか、あっさり簡単に承認してしまいました。じっさい日本の多くの政治家や民衆は、サンフランシスコ条約を“史上稀(まれ)にみる寛大、公正な条約”と感謝しているのでしょうか。

 あなたは立派な外交官です。しかも政党の総裁であるあなたには、このことはよくわかっていると思いますが……

 ※  ※  ※

 つまり、アメリカ自身が既に東京裁判が国際法に基づいた合法な裁判であるという根拠を失っているのです。

 最近、日本ではグローバルスタンダードや異文化コミュニュケーションなどという薄っぺらな言葉が氾濫しています。

 グローバルスタンダードというのなら、『国際法というグローバルスタンダード』に照らして、東京裁判がどういうものだったか、一度考えてみたらいかがでしょう。

 最後にパール博士の言葉を引用します。

 (「パール博士『平和の宣言』」ラダ・ビノード・パール著 田中政明編著P95より)

 ※  ※  ※

 わたくしは1928年から45年までの18年間の歴史を2年8ヵ月かかってしらべた。

 とても普通では求められないような各方面の貴重な資料をあつめて研究した。この中には、おそらく日本人の知らなかった問題もある。それをわたくしは判決文の中につづった。

 このわたくしの歴史を読めば、欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であるということがわかるはずだ。

 しかるに日本の多くの知識人は、ほとんどそれを読んでいない。そして自分らの子弟に、『日本は犯罪を犯したのだ』『日本は侵略の暴挙をあえてしたのだ』と教えている。

 満州事変から大東亜戦争勃発にいたる真実の歴史を、どうかわたくしの判決文をとおして充分研究していただきたい。

 日本の子弟がゆがめられた罪悪感を背負って、卑屈、頽廃(たいはい)にながれてゆくのを、わたくしは見すごして平然たるわけにはゆかない。

 ※  ※  ※
 

 ということで、靖國神社の記事の締めくくりとして、東京裁判で日本無罪論を主張したパール判事についてご紹介しました。








靖国神社にお詣りしたよ(その14) 【ファイルET40】2011.08.27 

【ファイルET40】2011.08.27 靖国神社にお詣りしたよ(その14)

日本無罪論を主張したパール判事(上)。

 靖国の記事を、最初からご覧になられる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52046335.html

 靖国神社の記事は、これでひとまず締めくくりです。

 あくまで概略ですので、まだまだ書き足りないのですが、区切りとして、パール判事について書かせていただきますね。

 靖国神社には東京裁判において日本無罪論を主張したパール判事の碑が立っています。









 碑文にはパール判事が東京裁判の判決にあたって記した、日本の無罪を主張した判決書の末尾部分が刻まれています。

※  ※  ※
 
 時が熱狂と偏見とをやわらげた暁には

 また理性が虚偽から

 その仮面を剥ぎとった暁に

 その時こそ正義の女神は

 その秤を平衡に保ちながら

 過去の賞罰の多くに

 そのところを変えることを

 要求するであろう

 When Time shall have softened passion and prejudice,
 when Reason shall have stripped the mask from misrepresentation,
 then Justice, holding evenly her scales, will require
much of past censure and praise to change places.

  Radha binod Pal 1886~1967

 ※  ※  ※

 醜く、野蛮な復讐劇に過ぎない東京裁判の無効性はいずれ歴史が証明するだろうという博士の信念が表出されています。

 また、碑の説明文にはこう書かれています。

※  ※  ※

 頌

 ラダ・ビノード・パール博士は、昭和21(1946)年5月東京に開設された『極東國際軍事裁判所』法廷のインド代表判事として着任され、昭和23年11月の結審・判決に至まで、他事一切を顧みる事なく専心この裁判に関する厖大な資料の調査と分析に没頭されました。

 博士はこの裁判を担当した連合國11箇國の裁判官の中で唯一人の國際法専門の判事であると同時に、法の正義を守らんとの熱烈な使命感と、高度の文明史的見識の持ち主でありました。

 博士はこの通称『東京裁判』が勝利に傲る連合國の、今や無力となった敗戦國日本に対する野蛮な復讐の儀式に過ぎないことを看破し、事実誤認に満ちた連合國の訴追には法的根拠が全く欠けてゐる事を論証し、被告國に対し全員無罪と判決する浩瀚(こうかん)な意見書を公にされたのであります。

 その意見書の結語にある如く、

 大多数連合國の復讐熱と史的偏見が漸く収まりつつある現在、博士の裁定は今や文明世界の國際法学会に於ける定説と認められたのです。

 私共は茲(ここ)に法の正義と歴史の道理とを守り抜いたパール博士の勇気と情熱を顕彰し、その言葉を日本國民に向けられた貴重な遺訓として銘記するためにこの碑を建立し、博士の遺業を千古に伝へんとするものであります。

 平成17年6月25日

        靖國神社
           宮 司
            南部 利昭

※  ※  ※

 別にパール判事は親日家だから日本の味方になる判決を主張したのではありません。

 東京裁判の判事中、唯一の国際法の専門家として、良心と信念でもって日本無罪を主張したのです。

 パール判事はこう発言しています。

 「私が日本に同情ある判決を行ったと考えられるならば、それはとんでもない誤解である。私は日本の同情者として判決したのでもなく、西欧を憎んで判決したのでもない。真実を真実と認め、これに対する私の信ずる正しき法を適用したにすぎない。それ以上のものでも、それ以下のものでもない」

 博士は東京裁判のさなかに、妻危篤の電報を受け取り、博士はとるものもとりあえず、飛行機で駆けつけます。

 病床にあった夫人は良人の手を握りこう言いました。

 「あなたがわたくしを見舞うため、帰ってきて下さったことはうれしうございます。しかしあなたは日本国の運命を裁こうとされている大事なお体です。どうか裁判のすむまでは、わたくしのことはかまわないで……、たとえ、どのようなことがあっても、わたしは恨みません。悲しみません。裁判が終わるまでは……、決して帰ってきて下さいますな」

 博士は夫人の希望通り日本にもどりました。

 博士はそのとき、こう告げたそうです。
 「日本は美しい国だ、人情も風景も美しい。裁判が終わったらいっしょに日本へ行こう、それまでに早くよくなってくれ」

 博士が東京裁判の判決を終えて1948年11月妻の待つインドへ帰ったとき、病はかなり重くなっており、それから夫人は5ヵ月後には、ついに帰らぬ人となってしまいました。


 東京裁判を裁いた判事11名の構成をみてみましょう。

 アメリカ代表 マイロン・C・クレーマー(はじめJ・ヒギンズ、のちにクレーマーに交代)
 イギリス代表 ロバート・パトリック
 ソ連代表 I・M・ザリヤノフ
 フランス代表 アンリー・ベルナール
 中華民国代表 梅汝敖
 オランダ代表 バーナード・ウィター・A・レーリンク
 カナダ代表 E・スチュワート・マックドゥガル
 オーストラリア代表 ウイリアム・F・ウエッブ
 ニュージーランド代表 エリマ・ハーベー・ノースクロフト
 フィリピン代表 ジャラニラ
 インド代表 ラダ・ビノード・パール

 裁判長はオーストラリア代表のウエッブ判事。

 判事は全員戦勝国側の人達です。

 これを見ただけで、この裁判が、勝者による敗者のリンチ裁判だということがわかります。

 インド代表のパール判事は、本来戦勝国イギリスの植民地の代表枠で裁判に参加したのですが、パール判事は判事中唯一の国際法の公正な専門家だったということが、連合国側の誤算だったのでした。


 パール博士の主張は、決して奇異なものではなく、その後公にされ、世界各国で議論を巻き起こしました。

 現在、東京裁判が有効だという意見を述べるまともな国際法学者はいないのです。

 ところが、日本の法曹界・メディアはそれに対して沈黙し、政治家は後に国会により名誉回復がなされた東京裁判による「いわゆるA級戦犯」などが靖国に合祀されているからというとんでもない理由で、靖国参拝を拒否したりしています。
 
 1952年、戦犯者家族60名と対面したパール判事はこう発言しています。

 ※  ※  ※

 戦犯者は無罪であると、わたくしははっきりみなさんに申しあげることができます。

 世界の人たちも、戦争裁判が間違っていたと少しずつわかりはじめたようです。

 しかし、わたくしはみなさまの前に立って、いまさらながら自分の無力を悲しみます。

 ただご同情申しあげるだけで、わたくしには何もできません。

 けれど戦犯釈放のためには、できるだけ努めます。

 これ以上、罪のない、愛する者同士を引きはなしておくことはできません。

 ……わたくしは倒れそうです……。許して下さい。

 ※  ※  ※

横浜港の散策だよ(その16) 【ファイルT161】2011.08.23 

【ファイルT161】2011.08.23 横浜港の散策だよ(その16)

青い目の人形は日米友情の証。

 その1からご覧になられる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51882527.html
 
 横浜人形の家は、人形の博物館です。





 人形の家の前に青い目の人形の象が立っています。





 説明書きにはこう記されています。

※  ※  ※ 

 青い目の人形

 昭和三年の春、ひな祭りにあわせて、日米親善と平和を願う米国市民の思いをこめた13,000体の青い目の人形が、はるばる太平洋の波濤をこえて横浜の港に着きました。

 「かわいい親善大使」たちは、日本の津々浦々の小学校や幼稚園に贈られ、友好促進に尽くしました。

 この人形彫刻のモデル「ポリーン」ちゃんは、そのなかの一体で、今も横浜市西区の西前小学校に大切に保存されています。

 1986年2月
 横浜人形の家の竣工に際し、
 国際平和年を記念して

 横浜市長 細郷道一

※  ※  ※

 山下公園から横浜人形の家に向かうエントランスの陸橋にはポリーン橋という名前が付けられています。

  




 日露戦争に日本が勝利すると、ハワイを侵略し支那への進出をうかがっていた米国とその権益を巡り、両国間の政治的緊張が高まっていきました。

 当時、有色人種の唯一の一等国日本に対する白人の嫉妬は相当なもので、アメリカでは黄禍論と呼ばれる反日運動が高まり、オレンジ計画という具体的な対日戦略がたてられました。

 特にアメリカ西海岸での反日差別は酷く、日本人学童の隔離に始まり、排日移民法の立法等、あからさまな人種差別が行われました。

 そんな中、昭和2(1927)年3月に親日家の米国人宣教師のシドニー・ギューリック博士の提唱で日米親善を目的として、米国から日本郵船の天洋丸で日本の子供に12,739体の『青い目の人形』が贈られました。(人形の家のポリーンちゃん像の説明書きでは昭和3年になっていますが)

 青い目の人形は、一体ごとに衣装や体形など人形のデザインが異なっていました。人形の中には体を起こすと泣いたりする仕掛けになっているものもあったそうです。

 送られた人形達には生徒達によって名前がつけられ、ガラスケースなどに入れられて昇降口や校長室の前に飾られていたということです。

 青い目の人形の日本側の橋渡し役を果たしたのが、日米関係委員会の委員として長年にわたって国際親善に尽力し、外務省から『日本国際児童親善会長』に任命された経済界の重鎮渋沢栄一氏でした。

 同年11月。日本側からその返礼として、市松人形(皇室下賜人形1体を含めて全58体)がアメリカに送らました。



 日米親善人形使節『浜子』の送別会(横浜市開港記念会館に展示してあった写真。昭和4年になっていますが、昭和2年では?)

  




 渡米に際しては、人間と同様に、パスポート、船の一等客船の切符なども用意され、人形には鏡や箪笥といったお道具もそえられました。

 募金によって賄われた製作費用は、人形本体約150円、衣装約150円、お道具約50円、計1体あたり約350円(当時の教師の給与が月40円程度)という豪華なものでした。

 アメリカに送られた後は、1年間ほどアメリカ各地を巡回して紹介、展示された後に、各州に渡されました。


 そのような親善を他所に、その後日米関係はこじれ、ついに昭和16(1941)年に日米は大東亜戦争に突入します。

 戦局が悪化した昭和18年2月19日付けの毎日新聞には、「青い眼をした人形 憎い敵だ許さんぞ 童心に聞くその処分-仮面の親善使」といった記事も残っています。

 戦争を乗り越えて現存する『青い目の人形』は2010年現在で323体ですが、日米親善の証として大切に保存されてます。

 一方、アメリカに渡った答礼の市松人形は大切にされ、44体が現存しています。それぞれの人形は、台座に記された名前の地域名を取ってミス○○と呼ばれているそうです。



 人形の家は、鏡張りでできています。

  




 昨年横浜で開催されたAPECに際して、中華人民共和国の胡錦濤国家主席夫人がここを見学に来られたようですが、それだけ充実した博物館だということなのですね。

 ポリーン橋のたもとの風景。

  




 人形の家は、もともとは大正12(1923)年の関東大震災によって倒壊した横浜グランドホテルがあった場所に建てられています。

 ハマトラ(横浜トラッド)ファッションのリカちゃん。

  




 『青い目の人形』の曲です。


うまく観られないときはこちら。
http://www.youtube.com/watch?v=ADPZnZQSBho&feature=related

「青い眼の人形」(野口雨情 作詞、本居長世 作曲)

青い眼をしたお人形は
アメリカ生まれのセルロイド

日本の港へついたとき
いっぱいなみだをうかべてた
わたしは言葉がわからない
迷子になったらなんとしょう

やさしい日本の嬢(じょう)ちゃんよ
なかよくあそんでやっとくれ
なかよくあそんでやっとくれ

 野口雨情が『金の舟』12月号に『青い眼の人形』の詩を発表したのは大正10(1921)年のことで、人形交換よりも数年さかのぼります。

 これに本居長世が作曲したのが童謡『青い眼の人形』で、大正12(1923)年にはアメリカでも演奏され、好評を博していました。


 ですから、童謡『青い目の人形』は、日米親善の人形大使の前に作られたのです。


 なお、人形に添えられたギューリックの手紙では『友情の人形』と呼称されていて、後にこの童謡『青い目の人形』に因んで、そう呼ばれるようになったそうです。

 アメリカから贈られてきた人形は野口の詩にあるようなセルロイド製ではなく、多くがビスクドール(素焼き)でした。


ということで、日米友好の青い目の人形のお話でした。

 次に続きますね。

横浜市立金沢動物園のコアラさんだよ 【ファイルC228】2011.08.19 

【ファイルC228】2011.08.19 横浜市立金沢動物園のコアラさんだよ

のんびりと暮らしているねえ。

 ここ横浜市立金沢動物園にもコアラさんが暮らしています。
 日本の動物園では、コアラさんやレッサーパンダさん、水族館ではラッコさんが増えていますね。どこもとっても人気です。

 コアラさんを飼育するには餌のユーカリの木から育てないといけないから、大変なんだねえ。

 横浜市立金沢動物園では、赤ちゃんが生まれたりして、いろいろあったようですが、その前の写真です。

 例によって会いに行ったらば、お昼寝していました。





 餌のユーカリ交換タイムまで待つことにします。

 やっと起きて木を登ります。





 うへえ、落ちるよお!





 危なかったけれど、無事目的地点にとうちゃ~く。

 




 こんにちは。ドヤ顔をしているねえ。

 やっぱり馴れた場所が落ち着くねえ。





 こうなると、セミさんとあんまりかわらないねえ。





 こっちの子も木登り中。





 えっちらおっちら。





 どっこいしょ。





 こっちの子はすっかり寛いでいます。





 かいかいするコアラさん。





 下の様子も気になるねえ。





 じゃんけん、『パー』





 頭をふるふる。





 なにが可笑しいのか、笑いを押し殺すコアラさん。くっくっくっ・・・。





 耳の後ろをかいかい。





 ユーカリの葉っぱに囲まれて至福のひととき。





 ぱくぱくもぐもぐお食事中。





 最後にごあいさつ。





 さようなら、元気でね。

 やっぱりコアラさんは可愛いねえ。

 どこの動物園でも人気者です。オーストラリアまで行くなんて大変だからねえ。

 ということで、縫いぐるみみたいなコアラさんでした。










靖国神社にお詣りしたよ(その13) 【ファイルET39】2011.08.16 

【ファイルET39】2011.08.16 靖国神社にお詣りしたよ(その13)

軍馬、軍犬、鳩の像にも黙祷。

 靖国の記事を、最初からご覧になられる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52046335.html

 前回までは遊就館の展示のごく一部を紹介しました。

 以前も書きましたが、館内はホール以外撮影禁止なので、図録から引用させていただきました。図録は売店で売っています。

 遊就館の図録 1900円





 売店で売っていた小冊子も買いました。

 これだけは知っておきたい大東亜戦争-20の最新知識-
   企画 日本会議事業センター 300円





 大東亜戦争について、テーマ別にコンパクトにまとまっていて、とても参考になります。


 遊就館から外に出ると、戦没馬慰霊像が建っています。





 昔の軍隊は現在のように自動車が無く、機械化されていませんでした。軍馬は、戦闘や兵員・兵器・弾薬・糧秣(りょうまつ)の輸送や運搬のため必要不可欠の存在でした。

そのため兵士は、戦場では軍馬と生死を伴にしたので、軍馬に対する愛情や思い入れは、人間と少しも変わらず、兵隊にとって愛馬進軍歌の歌詞にあるように馬は戦友でした。

 慰霊像のプレートにはこう書かれています。

 ※  ※  ※
 
 戦没馬慰霊像(せんぼつばいれいぞう)に思う
             平成17年5月21日 奉納 戦没馬慰霊像奉賛会

「馬ほど心の美しい動物はない」

 明治初期から昭和20年8月15日の終戦に至るまで、幾多の戦役にかり出されおよそ100万頭の馬が戦陣に斃れた。軍馬補充部で育成された軍馬や農家からの購買または徴発馬が、斥候、行軍、戦闘のため戦場を駆巡る乗馬として、あるいはいかなる難路にも屈せず重い火砲を引く輓馬(ばんば)、軍需品を背負い搬送する駄馬として戦地に赴いた。

 御国(みくに)のために戦場を駆巡り、屍(しかばね)を野辺に晒したもの数知れず、終戦まで生き長らえても、再び懐かしい故国に還ったのは僅か1、2頭である。山紫水明の生まれ故郷を思い起こしたことであろう。それでも黙々として生を終えた。

 この馬像の作者・伊藤国男(いとうくにお)氏(明治23年~昭和45年)は生涯に千数百点もの馬像を手掛けた彫塑家である。
 同氏は戦場において輝かしい功績を遺した戦没馬のことが脳裏から一時も離れず、私財を傾け鎮魂の証としてこの像を制作、靖國神社に献納したが、台座に費やす財はなく、数年間建立されることはなかった。

 かつて馬術の選手として2回もオリンピックに出場し、戦後は皇居内の乗馬クラブで教官を務めた城戸俊三(きどしゅんぞう)氏は、この話を聞くや早速、旧軍人や馬主に呼びかけ、昭和32年4月に戦歿馬慰霊像奉献協賛会(せんぼつばいれいぞうほうけんきょうさんかい)を結成、広く浄財を募り、翌年の4月7日に建立除幕式を行い、靖國神社に奉納した。

 台座の「戦歿馬慰霊」の揮毫は元皇族の北白川房子様の染筆である。

 以来、毎年桜花爛漫の4月7日を「愛馬の日」とし、《戦歿馬慰霊祭》がこの場で行われている。


 ※  ※  ※
 
 人馬一体となって戦地で苦楽を共にした軍馬の思いを表すかのように、慰霊像は鼻先を本殿に向けています。


 日本の兵隊さんは大部分の人達が農家出身でした。

 それで、軍馬をまるで家族のようにとてもかわいがっていました。
 
 軍馬に対する愛情を表した歌があります。
 
 『めんこい仔馬(二葉あき子・高橋祐子・児童合唱団)』です。



 うまく見られないときはこちら。 
http://www.youtube.com/watch?v=ri5YUfAlh9I&feature=related

     作詞:サトウハチロー
     作曲:仁木他喜雄
     歌唱:二葉あき子/高橋祐子
     制作:滝野細道

 この歌はスタジオジブリの劇場映画『火垂るの墓』(1988年)や『ちびまる子ちゃん』の劇場映画『わたしの好きな歌』(1992年)でも使用されたので、ご存じの方も多いでしょう。

 昭和16年にサトウ・ハチロー作詞、仁木他喜雄作曲でつくられた『めんこい仔馬』は、東宝映画『馬』(監督:山本嘉次郎、助監督:黒澤明、主演:高峰秀子)の主題歌です。

 この映画の助監督だった黒澤明氏は、『馬』をとても思い出深い一作としてあげています。

 この映画で馬の美しさに魅せられた黒澤氏は、監督になった後、『七人の侍』や『隠し砦の三悪人』等、馬が躍動的に疾走する時代劇を撮影します。

 黒澤明映画の映像美の原点とも言えるこの名画は、残念ながらDVD化されていません。

 一日も早い復刻を望みます。

 また、この歌は戦後歌詞が改変され、すっかり軍事色を払拭されてしまいました。

 オリジナルの歌詞は映像の通り、こうなっています。

(一)ぬれた仔馬のたてがみを 撫でりゃ両手に朝の露 
    呼べば答えてめんこいぞ オーラ 駆けて行こかよ丘の道 
    ハイド ハイドウ 丘の道
 
(二)藁の上から育ててよ いまじゃ毛並みも光ってる 
    お腹こわすな風邪ひくな オーラ 元気に高くないてみろ
    ハイド ハイドウ ないてみろ
 
(三)紅い着物(べべ)より大好きな お馬にお話してやろか
    遠い戦地でお仲間が オーラ 手柄を立てたお話を
    ハイド ハイドウ お話を
 
(四)西のお空は夕焼けだ お馬かえろかおうちには
    お前のかあさん待っている オーラ 唱ってやろかよ山の唄
    ハイド ハイドウ 山の唄
 
(五)明日は市場かお別れか 泣いちゃいけない泣かないぞ
    軍馬になって征(い)く日には オーラ みんなでバンザイしてやるぞ
    ハイド ハイドウ してやるぞ

 
 それから、軍犬の慰霊像も建っています。






 挙国一致と言いますが、ワンちゃんもお国のためにがんばったのですね。

 戦場に送られた軍犬は、忠実な働き手として、伝令・警戒・捜索・運搬・襲撃など幅広く活躍しました。

 その数は1万頭におよぶと云われています。

 像の台座にはこう記されています。

 ※  ※  ※
 
 軍犬慰霊像建立由来

 昭和6年(1931)9月満州事変勃発以降、同20年8月大東亜戦争終結までの間、シェパードを主とする軍犬はわが将兵の忠実な戦友として第一戦で活躍し、その大半は、あるいは敵弾に斃れ、あるいは傷病に死し、終戦時生存していたものも遂に一頭すら故国に還ることがなかった。

 この軍犬の偉勲を永久(とわ)に伝え、その忠魂を慰めるため、有志相はかり広く浄財を募りこの像を建立した。

 平成4年3月20日 動物愛護の日

      財団法人偕行社
      靖國神社奉賛會

 ※  ※  ※
 
 
 また、境内には鳩魂(きゅうこん)の塔も建っています。





 無線機などの通信技術が発達する以前は、伝書鳩が通信のために欠かせない存在でした。

 昭和4(1929)年、中野の陸軍電信隊内に建立された鳩のブロンズ像は、昭和14(1939)年に上野動物園内に移転されました。

 そして、さらに昭和57(1982)年に、現在の場所に復元、奉納されたのです。

 平和の象徴とされている鳩も、貴重な戦力として活躍していたのです。

 今回は従軍した動物たち、すなわち、かけがいのない戦友たちについて御紹介しました。

 彼らに対しても感謝の気持ちを忘れてはなりませんね。



※ 『めんこい仔馬』を歌った二葉あき子(ふたば・あきこ、1915年2月2日 -:本名・加藤芳江=かとう・よしえ)さんが、  本日8月16日午前3時30分、急性心不全のため亡くなりました。96歳でした。

 この記事をUPした日に二葉さんの訃報に接し、何か因縁めいたものを感じざるを得ません。

 メディアが報じた訃報には、『めんこい仔馬』はどういうわけか触れられていないのです。

 このような名曲を改変させたまま、埋もれさせてはいけません。

 謹んでご冥福をお祈りいたします。



 次に続きますね。

横浜港の散策だよ(その15) 【ファイルT160】2011.08.13 

【ファイルT160】2011.08.13 横浜港の散策だよ(その15)

『ホテル、ニューグランド』は歴史のあるホテルで、日本のフランス料理の源流だよ。

 その1からご覧になられる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51882527.html
 
 山下公園の道を挟んだ向かいに『ホテル、ニューグランド』はあります。





 瀟洒なデザインがカッコイイねえ。

 大正12(1923)年の関東大震災によって横浜のホテルのほとんどが倒壊しました。

 昭和2(1927)年、横浜市が中心となり、新ホテルが建設されることとなりましたが、その名称を一般公募したところ、かつてのグランンド・ホテルにちなんだ『ホテル、ニューグランド』が採用されることになりました。

 運営会社の『株式会社ホテル、ニューグランド』の商号に「『、』=読点)」が用いられているのが珍しいのです。

 創業年である『1927』の刻印が。





 旧館の設計は、上野の国立博物館や、銀座の服部時計店(現、銀座和光)、日比谷の第一生命ビルの設計者として知られる渡辺仁(わたなべ じん1887~1973)さん。

 クラシックホテル様式を代表する建物なのだそうです。





 外見はシンプルですが、細部にはアール・デコの装飾が小粋にあしらわれていて、壁面は上層が滑らかに加工されています。


 開業時から、チャーリー・チャップリン(喜劇俳優・映画監督)やジョージ・ハーマン・ルース(メジャーリーグ選手)といったスター、皇室や英国王室といった賓客が数多く訪れています。

 昭和20(1945)年、厚木飛行場に降り立ったGHQ総司令官マッカーサー元帥は、最初にこのホテルの315号室に滞在しました。

 実は、マッカーサーは第二次世界大戦前、新婚旅行で、このホテルを利用していたので、勝手が分かっていたのでしょうね。

 マッカーサーに気に入られたのが禍(わざわい)したのか、昭和20年8月駐留米軍により全館接収 米軍将校宿舎となり、昭和27年6月に全館接収解除され翌7月1日より自由営業開始するまで、営業が出来ませんでした。

 また、マッカーサーは、東京日比谷の『第一生命ビル』をGHQ本部として接収しますが、ここの設計も『ホテル、ニューグランド』を設計した渡辺仁さんなので、余程渡辺仁さんの設計は居心地が良かったんですね。

 さらに、『鞍馬天狗(くらまてんぐ)』で知られる作家の大佛次郎(おさらぎじろう)は、10年間このホテルで過ごし、執筆に利用した318号室は「鞍馬天狗の部屋」と呼ばれているそうです。

 『最新式設備とフレンチ・スタイルの料理』をキャッチフレーズとし、レストランには特に力を入れ、開業時の総料理長にはスイス人コックのサリー・ワイルさんをパリから招聘し、その補佐には元帝国ホテル第四代総料理長の内海藤太郎さんが就任しました。

 ワイルさんは日本に本格的なフランス料理を伝えたシェフで、帝国ホテル、プリンスホテル、ホテルオークラの名料理長たちが彼から学んだのです。

 『ホテルニューグランド』が日本のフランス料理の源流なのですね。

 また、ワイルさんは料理の『ドリア』を考案しています。

 ドリアって、お米を使っているので、ヨーロッパの料理にしては異質だと思ったのですが、日本で発明されたのですね。

 他に第2代総料理長・入江茂忠さんによってスパゲティの『ナポリタン』が、また『プリンアラモード』も、ここ『ホテル、ニューグランド』の『ザ・カフェ』で考案されたんだって。

 凄いねえ。

 ということで、日本の表玄関だった横浜港の老舗ホテル、『ホテル、ニューグランド』でした。

 次に続きますね。














横浜市立金沢動物園にいたヘラクレスオオカブトムシさんだよ 【ファイルC227】2011.08.10 

【ファイルC227】2011.08.10 横浜市立金沢動物園にいたヘラクレスオオカブトムシさんだよ

世界一大きなカブトムシさんだねえ。

 これも去年のことになります。

 横浜市立金沢動物園の『カブトムシの森』に行ったらばヘラクレスオオカブトムシさんの雄がいました。





 動きが鈍いので、じっくり写真を写すことができます。

 黒光りの前胸背板,長い胸角と、やや短めの頭角が特徴的なカブトムシです。

 大きいねえ。それもそのはず、ヘラクレスオオカブトムシさんは世界一大きなカブトムシなのです。体長は雄が46~178mm、雌が50~80mmになります。

 名前ははギリシャ神話の英雄ヘラクレスに由来します。

 あこがれのムシキングです。

 日本のカブトムシでさえ、飛んだら迫力があるのに、こんなのがブ~ンって飛んできたら、びっくりだねえ。きっと腰が抜けるねえ。

 胸角の裏には黄褐色の微毛が、頭部にも、黄褐色の毛が生えています。





 胸角と頭角はそれぞれ胸部と頭部についていて、頭角は上下に動かすことができます。

 それで、喧嘩をするときには相手の腹の下に頭角を入れ、胸角と挟み、持ち上げて投げて、えいや!って跳ね飛ばすことができるのです。

 日本のカブトムシと同じく、雌の成虫には角はありません。雌を巡って喧嘩するのは雄の仕事なんだねえ。


 お顔のアップです。





 お住まいは、グアドループ諸島(バステール島)、ドミニカ島、マルティニーク島、セントルシア島、ベネズエラ、コロンビア、エクアドル、ペルー、ブラジル、ボリビア、メキシコ(南部)、グァテマラ、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカ、パナマ(北部)、トリニダート トバゴ。


 熱帯の雲霧林に断続的に分布し、低地にも生息するのですが、大型になる亜種、また大型の個体は標高1000~2000mの高山帯にしか見ることができません。

 寒いところの方が大きくなるんですね。

 成虫は夜行性です。

 昼夜を問わず広葉樹の樹皮や果実を自ら傷つけて樹液や果汁を吸汁してはいますが昼間は動きがにぶく、飛翔などの活発な活動は夜間に限られるようです。

 灯火などの光源があれば、それに向かって飛んできます。

 飛んで火に入る夏の虫たあ、このことだねえ。

 日本のカブトムシと生態はほぼ同じですね。

 幼虫は朽木や腐葉土の中で1年半-2年程かけて成長し、羽化後は成熟まで3~6か月ほど要します。

 成虫の期間も長くて、1年から1年半ほど生きる個体もいるそうです。


 お隣にジオラマ標本のヘラクレスオオカブトムシさんが展示してありました。





 写真で見る分には、生きている固体と標本固体の区別が付かないねえ。

 さっきの子は前翅が黒でしたが、こっちの子は黒い斑紋のある黄土色の前翅です。

 通常、湿度の高いケース内では前翅が黒くなり、通気を良くし乾燥させると、このように前翅が黄色く色付くのだそうです。日本は湿度が多いからねえ。

 稀に前翅が青白い個体も出現し、ブルーヘラクレスと言われて珍重されています。

 
 ジオラマ標本展示の中にはコーカサスオオカブトムシさんもいました。





 コーカサスオオカブトムシさんの体長は雄62~121mm雌53~60mmで、お住まいはスマトラ島・ジャワ島・マレー半島・インドシナ半島などの亜高山帯~高山帯で、特に大型個体の分布は、やはり高標高に集中するそうです。

 標高の高い地に生息するため暑さには弱く、大体15℃~20℃前後が生息適温とされているので、日本の夏は暑すぎるのです。

 頭部に1本、前胸背板に2本の計3本の角を備えることから、英語ではスリーホーンビートル(Three Hornd Beetle)と呼ばれています。

 また、大型個体では、写真の子のように前胸の中央にさらにもう1本角状の突起を備えるアジア最大のカブトムシです。

 成虫になるまで約二年かかると言われ、成虫になってからの寿命は飼育下で約4ヶ月、野生ではよく分かっていないそうです。

 コーカサスオオカブトムシさんは昆虫界最強のカブトムシと呼ばれているそうです。

 光沢が強く、カブトムシの中でも特に好戦的なんだって。

 武器になるのは長い角だけではなく、ツメもとても鋭いし、前胸背板と腹部との間に指を挟まれると鋭利な刃物のように肉が切れて怪我をするよ!

 痛いねえ。怖いねえ。


 名前は『コーカサス』ですが、別に『コーカサス地方』とは関係ないそうです。

 『caucasus:コーカサス』というのは、古代スキタイ語で『白い雪』を意味する『クロウカシス』に由来するギリシア語で、コーカサスオオカブトの上翅にある光沢から名付けられたんだって。


 ということで、今回は世界一大きなカブトムシさんと、強いカブトムシさんでした。

 本当に地球上にはいろいろな種類のお友達がいるものですね。








靖国神社にお詣りしたよ(その12) 【ファイルET38】2011.08.07 

【ファイルET38】2011.08.07 靖国神社にお詣りしたよ(その12)

特攻隊の方々に黙祷。

 靖国の記事を、最初からご覧になられる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52046335.html

 前回は、第一神風特別攻撃隊大和隊 海軍大尉 植村眞久命(うえむらまさひさのみこと:享年25歳)の遺書を御紹介しました。


 私は毎年8月15日が憂鬱なのです。

 各メディアが戦争の特集をしますが、どれも酷い代物です。

 戦後66年が経とうとしているのに、相変わらず、アメリカから押しつけられた東京裁判史観、目先の利益の前に歴史をねじ曲げる政財界・それに便乗したメディア、日教組、労働組合、プロ市民、外国勢力等等によってでっち上げられた自虐史観のオンパレード。

 メディアは訳知り顔に『日本がアメリカと戦争したと言うことすら知らない若者』の無知を嘆きますが、私は知ったかぶりしてなんでもかんでも日本が悪い、日本は侵略戦争をしたなどと言うくらいなら、『日本がアメリカと戦争したと言うことすら知らない若者』のほうがずっと未来があると思うのです。

 自虐的な歴史を囓って世界に対して米搗(こめつ)きバッタみたいにぺこぺこ謝り倒すのが、物わかりの良い良心的なインテリなんだという気持ち悪い雰囲気がいまだにぬぐい去れていないのが私には理解できません。

 知らないのなら、せめてこう言って欲しい。

 「そんな昔のことは知らない。私には関係ない!」

 そうなんです。戦後処理については、昔の日本人(すなわち私たちの先輩方)は後顧に憂いを残さないように、各国と講和条約を結び大部分決着済みなのです。北方領土などの一部の問題を除いては・・・。

 例えば、アメリカはベトナム戦争で敗戦したわけですが、ことあるごとにベトナム人にぺこぺこ謝っていますか?

 その尻馬に乗って侵略戦争に参加した韓国はベトナム人に対して残虐非道の限りを尽くしましたが、韓国はベトナムにぺこぺこ謝っていますか?

 中華人民共和国はチベット、東トルキスタン、満州、モンゴル等の少数民族の虐殺・侵略を継続中で、女性を漢民族と結婚させる等の民族浄化を実行中です。東トルキスタンでは度重なる核実験で大量の被曝者を生みだし、おびただしい死者を発生させています。
 また、事実を秘匿しているだけで、実際のところは原発事故が多発しているという人もいます。
さらに、カンボジアで大虐殺を行ったボル・ポトを育成し、ベトナムに侵略戦争をしかけ、ダルフール問題で大弾圧を行っているスーダン政府に協力をしましたが、謝るという問題以前に、リアルタイムで実行中のこれらの蛮行をやめるべきです。

 そもそも日本は『大東亜戦争』を戦ったというのに、戦争の名前すらアメリカから押しつけられた『太平洋戦争』をいう呼称を唯々諾々と使用し続けています。

 先の大戦を『大東亜戦争』と呼ぶのは、昭和16年12月10日、この呼称が正式に閣議決定されたことによります。
 
 12日、これを受けて内閣情報局(今の内閣官房に当たる)は、「今次の対米英戦は、支那事変をも含め大東亜戦争と呼称す。大東亜戦争と呼称するは、大東亜新秩序建設を目的とする戦争なることを意味するものにして戦争地域を主として大東亜のみに限定する意味にあらず」と発表しています。

 我が国の掲げる戦争目的を明確に示す言葉が、大東亜戦争なのです。


 では、アメリカ人はあの戦争を何と呼んでいるのか?

 ただ、World War II(第二次世界大戦)としか呼んでいません。

 日本との戦いを強いていうならPacific Ocean theatre of World War II(第二次世界大戦太平洋戦線)です。アメリカはヨーロッパ戦線も戦ったのですから。

 けれど、日本側から言わせると、Pacific Ocean theatre of World War IIだと、大陸での戦闘が除外されてしまいます。

 ですから、日本人にとって、あの戦争は、『大東亜戦争』としか言いようが無いのです。

 英文のwikipediaにもこういう叙述があります。

 Japan used the name Greater East Asia War (大東亜戦争)

 でも、GHQのマッカーサーは『日本は大東亜の欧米植民地からの解放、独立、平和のために戦った』ということになると、アメリカ側が悪者になるので(事実、客観的に観るとアメリカは悪者です)それを隠蔽するために日本人には『太平洋戦争』という呼称を押しつけたのですね。

 GHQは日本のメディアを全て統制・検閲し、『大東亜戦争』は全て『太平洋戦争』に書き換えさせたのです。

 
 それで、靖国神社遊就館の展示の続きです。

 陸軍特別攻撃隊富嶽(ふがく)隊のみなさん。





 陸軍航空特攻のさきがけは万朶隊(ばんだたい)とともに編成された富嶽隊です。

 西尾常三郎少佐(当時)を隊長とする富嶽隊は浜松教導飛行師団の教官級を主として構成され、尋常一様の手段では艦隊決戦に即応出来ないと予想された比島ルソン島に昭和19年10月18日進出、陸軍四式重爆撃機『飛龍』に800キロ爆弾を二個積み、戦艦と航空母艦を標的に特別攻撃を敢行しました。

 西尾隊長は11月13日特別攻撃を指揮、比島東方海域で部下ともに壮烈な戦死をとげ、異例の功二級金鶏勲章を賜りました。

 富嶽隊長 西尾常三郎大佐功二級金鶏勲章
 




 艦上爆撃機『彗星(すいせい)』





 昭和十八年十二月に制定化された日本海軍最後の制式艦上爆撃機で、終戦までに2157機が生産されました。

 戦局の進展から艦上機として用いられていたのが、陸上攻撃機として多用されるようになり、終戦間際には特攻機として用いられました。

 展示されている『彗星』は昭和四十七年、中部太平洋カロリン諸島ヤップ島の旧滑走路脇のジャングルで遠藤信彦氏によって発見され、日本テレビ放送網(株)の協力で日本への里帰りが実現しました。

 『彗星』ゆかりの陸上自衛隊機去らず基地で飛行研究家の田中祥一氏をリーダーとして復元され、昭和五十六年四月五日に靖国神社に奉納されました。


 ロケット特攻機『桜花(おうか)11型』





 「桜花」は海軍が開発したロケット特別攻撃機で、大東亜戦争末期の昭和19年8月に試作を開始。翌9月に一号機が完成。

 同20年3月の九州方面に来襲した敵機機動部隊への第一回神雷桜花攻撃以来、沖縄防衛戦から終戦に至るまで数多くの攻撃を敢行しました。

 桜花の機体頭部には1.2トンの爆薬を装填。乗員1名

 ロケットエンジンの航続距離は短いので、一式陸上攻撃機の胴体に吊り下げて運ばれ、敵目標上空で母機より切り離されて滑空、最後は尾部のロケットを噴射して最大速度時速876キロの高速で目標に体当たりしました。

 要は今でいう巡航ミサイルの目標ロックオンを人間がやっていたわけですね。つまり、特攻専用の機体です。

 神雷(じんらい)部隊の編成は桜花を自ら操縦し体当たりを敢行する桜花隊と敵艦上空までこれを運ぶ母機陸攻隊、それを援護する戦闘機隊の三隊に分かれて編成されます。

 上空で護衛する零戦と母機の一式陸攻の胴体に吊り下げられた桜花11型の模型展示。




 
 敵艦上空まで、吊り下げられたまま待機する時間は、さぞかし長かったでしょうね。

 神雷部隊は、米軍の沖縄襲来を期して九州各基地に展開し、昭和20年3月21日一式陸攻18機で初陣。全機帰還することはありませんでした。


 人間魚雷『回天一型』」です。





 大東亜戦争末期の昭和19年8月、海軍が制式兵器とした『人間魚雷』です。

 回天は当時、海軍が無航跡の酸素魚雷として世界に誇った九三式魚雷エンジンを載せ、頭部に1.550キロの爆薬を装着した一人乗りの水中特攻兵器です。

 こんな狭い中、水中を敵艦に向け突進していく時の搭乗員の気持ちを思うと胸が締め付けられます。

 昭和19年、特殊潜行艇の講習員だった黒木博司中尉と仁科関夫少尉が血書で建白した『急務所見』から実行に移されました。
 
 12基の回天で編成された『菊水隊』は、三隻の伊号潜水艦に搭載され、昭和19年11月8日、山口県徳山湾の大津島からウルシー環礁へ向けて出撃しました。

 祖国に別れを告げる搭乗員。





 『菊水隊』の『菊水』とは、『七生報国(しちしょうほうこく).』を誓って戦死した楠木正成の旗印でしたね。
  
 楠木正成公の記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51551744.html

 当初は敵艦隊の停泊地攻撃でしたが、次第に洋上航行中の艦艇攻撃も行うようになりました。
 
 後に山口県光などにも基地が設けられ、戦局の推移とともに国土防衛のため、敵予想上陸地点沖縄、八丈島などにも基地回天隊が配備されることになりました。回天は244基が投入され、106名が戦死・殉職し、回天作戦に参加未帰還となった潜水艦は八隻、その乗員は800名を超えています。

 これらは、靖国神社遊就館の展示のほんの一部です。展示を丹念に観ていくととてもじゃありませんが、一日では足りません。

 日本、そして世界各地で独立した旧植民地の今はこういう先人の尊い犠牲の上になりたっているのです。

 戦死された日本兵は約230万人。亡くなった(虐殺された)非戦闘員は約80万人です。

 このような日本史上最大の人的損失を考えただけでも、私には一方的に自国を断罪できる神経が理解できません。

 
 英霊の方々は靖国で日本を守護されていますが、これ以上酷い侮辱を続けると、いつ怨霊に転じるか分かりません。

そうなったとして、私たちには文句を言う資格があるのでしょうか。

 次に続きますね。








横浜港の散策だよ(その14) 【ファイルT159】2011.08.04 

【ファイルT159】2011.08.04 横浜港の散策だよ(その14)

『リカルテ将軍記念碑』はフィリピン独立の闘士、リカルテ将軍を顕彰した碑だよ。

 その1からご覧になられる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51882527.html
 当ブログでは、インド独立の闘士、ラス・ビハリ・ボーズさんと、A.M.ナイルさんの記事を紹介しました。
 ラス・ビハリ・ボーズさんの記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52198887.html

 A.M.ナイルさんの記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52361228.html

 それで、今回はフィリピン独立の闘士、リカルテ将軍の碑の記事です。

 リカルテ将軍の碑





 リカルテ将軍の肖像





 碑文のアップ。





 碑にはこう刻まれています。
 
※  ※  ※

 アルテミオ・リカルテは1866年10月20日フィリピン共和国北イロコス集バタック町に生る。

 1896年祖国独立のため挙兵、1915年「平和の鐘のなるまで祖国の土をふまず」と日本に亡命、横浜市山下町149に寓居す。

 1943年生涯の夢であった祖国の独立を見しも、八十才の高令と病気のため1945年7月31日北部ルソンの山中に於て波乱の一生を終る。

 リカルテは真の愛国者であり、フィリピンの国家英雄であった。

 ここに記念碑を建て、この地を訪れる比国人にリカルテ亡命の地を示し、併せて日比親善の一助とす。

 昭和四十六年十月二十日
  財団法人 フィリピン協会
       会長 岸 信介

 ※  ※  ※

 フィリピンは、16世紀後半以降スペインに侵略支配されていました。

 そもそも『フィリピン』という名前からして、スペインのフィリペ2世の名前に由来しているのです。酷いものです。

 19世紀末から20世紀初めにかけてフィリピンでスペインの植民地支配から脱するためのフィリピン独立革命が起きました(1896年革命)。

 当初の革命は敗北しましたが、1898年4月25日、キューバ独立革命をきっかけとしたアメリカとスペイン間で米西戦争が勃発します。

 その直前、香港でアメリカ合衆国との間に独立援助の密約を取り付けていた独立運動家のアギナルドら亡命指導部は、マニラ沖海戦(4月30日~5月1日)での米艦隊大勝を経て、5月19日、米軍を後盾にフィリピンへの帰還を果たしました。

 つまり、アメリカはスペインとの戦争に際して、フィリピンの人達にアメリカの味方をしてスペインと戦ったらフィリピンの独立を援助するからと約束して利用したのです。

 5月24日、アギナルドは本拠地であるカビテで「独裁政権」の樹立を宣言、6月12日(現在のフィリピン「独立記念日」)には独立宣言を発し「独裁政府」大統領に就任しました。

 その後まもなく6月中に独裁政府は「革命政府」に改組され地方政府の組織化が始まり、7月15日アポリナリオ・マビニを首相とする革命政府の内閣が発足しました。

 こうして独立派はアメリカ軍と連携して各地に侵攻し、8月末までにルソン中央部・南タガログ地域をスペイン支配から解放して革命政府の支配下に置きました。

 ところが、8月13日、植民地支配の中心地であるマニラを占領しスペイン軍を降伏させた米軍は、それまで軍事的に貢献してきたフィリピン独立派の入市を許可しませんでした。

 9月10日、マニラ近郊のブラカン州マロロスが臨時の首都となり、9月15日にはフィリピン人の代表よりなる議会をこの地で発足、さらに翌1899年1月にはマビニを首班とする内閣が発足し、1月21日に独自の憲法(マロロス憲法)を制定し1月23日の「フィリピン(第一次)共和国」(マロロス共和国)樹立宣言に至るまで独立国家としての整備を進めていきます。

 この時点で共和国政府はミンダナオを除くフィリピンのほぼ全土を掌握していました。

 しかし、ここでアメリカの裏切りが表面化します。

 前年の1898年12月10日、米西間のパリ講和条約で2千万ドルと引き替えにスペインよりフィリピンの主権を獲得した米国は、12月21日マッキンリー大統領が「友愛的同化宣言」を発して独立を否定、マビニ首相により進められていた対米交渉も暗礁に乗り上げ、1899年2月4日にはアメリカ・フィリピン両国間の戦争(米比戦争)が始まりました。

 つまりアメリカはスペインとの戦争でさんざんフィリピンの独立運動を利用してスペインに勝利しておきながら、いざ自分たちが裏取引でフィリピンを乗っ取ると、手のひらを返すようにフィリピン独立の約束を反故にし、独立運動を弾圧したのです。

 卑怯千万です。

 1901年3月23日、イサベラ州で米軍に捕らわれたアギナルドは4月1日アメリカ支配への忠誠を誓うとともに同じ独立派の諸部隊にも停戦と降伏を命じます。

 同じく捕虜となったマビニやリカルテらが断固として服従を拒否した態度に比して、これらはアギナルドの人気を著しく凋落させる結果となりました。

 こののち各地で独立派幹部の投降が相次いだことから、同年7月にアメリカは軍政より民政へ移行し、早々と米国に忠誠を誓っていた新興有産層からなる親米派フィリピン人を行政機構に登用、有力者を取り込むことでアメリカ統治体制の安定をはかりました。

 ところがアギナルドに従わず「革命軍最高司令官」を称したミゲル・マルバール将軍など抵抗を継続する勢力もあり、マルバール投降(1902年4月)後の、1902年7月4日になってセオドア・ローズヴェルト米大統領はようやく独立勢力の「平定」を宣言しました。

 しかしその後も、農民など下層民の支持を受け「タガログ共和国」を称したマカリオ・サカイ率いるゲリラ部隊(1904年~1906年)など反米ゲリラはやまず、米軍が投降勧奨政策と徹底弾圧政策を併用しつつこれらの独立派勢力を完全に鎮圧し、植民地支配体制を確立したのは1910年頃のことでした。

 米比戦争で60万人のフィリピン人が無残に虐殺され、抵抗が鎮圧されたといいます。

 フィリピン軍幹部で独立運動の英雄だったアルテミオ・リカルテ将軍は、1900年米軍に捕らわれたのちも米国への服従を拒否し、このため彼は早々と屈服したアギナルド以上の国民的人気を得ますが、いくどかの国外追放を経ていました。

 1914年に第一次世界大戦が始まると英国はインド人をヨーロッパ戦線に送りますが、この方針に従わないインド人も多く、この風潮を足がかりに独立運動の動きも起こったため、英国はこの動きを取り締まり、さらに反戦運動教唆の容疑でリカルテを拉致し、上海の監獄に送りました。

 かねてから日本に亡命していたインド独立運動家ラス・ビハリ・ボースは頭山満と犬養毅にリカルテの救出を頼みます。

 アゲタ夫人は監獄の支那人守衛を買収してリカルテを脱獄させ、ふたりは頭山たちが準備した日本郵船のチケットで1915年日本に亡命すると、しばらく愛知県瀬戸町に住み、1923年には横浜に移りました。

 リカルテ将軍は、横浜でスペイン語教師としての生活を送りながら、フィリピン独立の機会を伺っていました。

 フィリピン本国でのリカルテ将軍の人気は絶大で、「日本軍をバックとしたリカルテの帰国」という風説が1910年頃まで広く流布し、1914年にはこの噂を信じた人々が武装蜂起する事件も起こっています。

 米比戦争中にはフィリピン政府は武器を調達するためにマリアーノ・ポンセを日本に派遣したり、日本人志士たちがフィリピン独立を支援するために独立戦争に身を投じるなど日比関係が築かれていました。

 1941年に大東亜戦争が開戦します。
 1942年1月2日に日本軍がフィリピンに上陸すると、アメリカ合衆国の植民地であるフィリピン・コモンウェルスのマニュエル・ケソン大統領は首都マニラを無防備都市(オープンシティー)であると宣言し、ホルへ・B・バルガスenをマニラ市長として残して脱出しました。

 そして日本軍はコレヒドール島の戦いの後、1942年5月6日にフィリピンを完全に制圧しました。

 本間雅晴中将はフィリピン・コモンウェルスを解体し、フィリピン行政委員会enという臨時政府をバルガスを第一議長に据えて設立します。

 そして党派色の無いカリバピenに取って代わられました– Kapisanan sa Paglilingkod sa Bagong Pilipinas(この名はタガログで「新比島建設奉仕団」という意味)。カリバピの長官はベニグノ・アキノでした。

 また、アルテミオ・リカルテ将軍は横浜からフィリピンに凱旋すると親日武装組織マカピリを組織しました。

 アメリカによって失脚させられた初代大統領のエミリオ・アギナルドも日本を支援しました。

 1943年9月4日、フィリピン国会議事堂では特別全島代表者会議(ホセ・ラウレルを中心とする独立準備委員会やカリバピなどで構成)によってフィリピン憲法草案が提出され、9月7日に可決されました。


 9月25日には国会でホセ・ラウレルを大統領に選出することが満場一致で可決されます。9月30日にはホセ・ラウレル独立準備委員会委員長を始めとするフィリピン政府首脳は東京を訪れ東條英機首相を始めとする日本政府首脳と会談を行いました。

 この際、対日協力の功績により、ラウレルはじめ三人に勲章が授与されます。
 
 1943年10月14日午前9時45分、マニラの国会議事堂前広場で独立旗記念式典が盛大に行われました。

 比島派遣陸軍最高指揮官黒田重徳中将はバルガス行政府長官を始めとするフィリピン人高官に軍政を撤廃することを通達しました。

 式典ではホセ・ラウレル大統領が、勲一等旭日大綬章を佩用して就任演説を行ないました。

 1943年11月5日には東京で開かれた大東亜会議にフィリピン国のホセ・ラウレル大統領は独立国家の元首として参加しました。

 大東亜会議に参加した各国首脳(帝国議事堂前にて記念撮影)。





 左からビルマ国大統領バー・モウ、満州国総理張景恵、中華民国総統汪兆銘、日本国総理東條英機、タイ王国親王ワンワイタヤーコーン、フィリピン国大統領ホセ・ラウレル、自由インド主席スバス・チャンドラ・ボース。

 このようにして、リカルテ将軍は生涯の夢であった祖国の独立を見ることができたのですが、将軍はそれを見届けると、八十才の高令と病気のため1945年7月31日北部ルソンの山中で波乱の一生を終えたのでした。

 その後、戦局は悪化し、アメリカ軍が再びフィリピンを占領するとフィリピン第一共和国のときと同様にフィリピン国はアメリカに再侵略され瓦解しました。

 フィリピン・コモンウェルスの組織を引き継いで、戦前から約束されていたフィリピン独立を達成した(第三共和国)のは1946年のことでした。

 独立の道は険しかったのですね。


 次に続きます。








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