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防衛省市谷ツアーに参加したよ(その7)   【ファイルET48】2011.10.31

【ファイルET48】2011.10.31 防衛省市谷ツアーに参加したよ(その7)

東郷茂徳外務大臣が野村吉三郎在米日本大使に宛てた日米交渉・日本側最終提案 甲案・乙案全文。

 防衛省ツアーの市ヶ谷記念館大講堂の記事の続きです。

 その1から読まれる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52534735.html

 前回、ハルノートの全文をご紹介しました。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52689480.html

 アメリカの最後通牒である『ハル・ノート』で開戦に追い込まれた日本ですが、それまで日本は何とか対米開戦を回避できるように、アメリカとの交渉において、卑屈とさえ言えるほどの妥協をしてきました。

 その交渉経緯を一切無視して突然出されたのが『ハル・ノート』だったのです。

 いかに日本が対米開戦を回避すべく努力をしていたかを示す証拠を引用しましょう。


 東郷茂徳外務大臣が野村吉三郎駐米日本大使に宛てた日米交渉・日本側最終提案 甲案・乙案全文です。

 当然この電文は東京裁判でも証拠資料として提出され、東条英機被告もこれを根拠に日本の侵略意図を否定しました。

【東条英機 歴史の証言 ―東京裁判宣誓供述書を読み解く―  渡辺昇一 祥伝社文庫P522より】

 ※  ※  ※

日米交渉・日本側最終提案 甲案


(昭和十六年十一月四日東郷大臣発野村大使宛電報・第七二六号)

 本案は九月二十五日我方提案を既往の交渉経過により判明せる米側の希望に出来得るかぎり「ミート」する趣旨を以て修正せる最後的譲歩にして懸案の三問題に付(つき)我方主張を左記の通り緩和せるものなり。

一、通商無差別問題

九月二十五日案にて到底妥結の見込なき際は「日本国政府は無差別原則が全世界に適用せらるるものなるに於ては太平洋全地域即支那に於ても本原則の行わるることを承認す」と修正す

二、三国条約の解釈及履行問題

我方に於て自衛権の解釈を濫(みだ)りに拡大する意図なきことを更に明瞭にすると共に三国条約の解釈及履行に関しては従来屡々(しばしば)説明せる如く帝国政府の自ら決定する所に依りて行動する次第にして此点は既に米国側の了承を得たるものなりと思考する旨を以て応酬す

三、撤兵問題
 本件は左記の通り緩和す
A.支那に於ける駐兵及撤兵

 支那事変の為(ため)支那に派遣せられたる日本国軍隊は北京及蒙疆(もうきよう)の一定地域及海南島に関しては日支間平和成立後所用期間駐屯すべく爾余の軍隊は平和成立と同時に日支間に定めらるる所に従い撤兵を開始し治安確立と共に二年以内に之を完了すべし

(註)所要期間に付米側より質問ありたる場合は概(おおむ)ね二十五年を目途とするものなる旨を以て応酬するものとす

 B.仏印に於ける駐兵及撤兵

 日本国政府は仏領印度支那の領土主権を尊重す現に仏領印度支那に派遣せられ居る日本国軍隊は支那事変にして解決するか又は公正なる極東平和の確立するに於ては直(ただち)に之を撤兵すべし

 尚(なお)四原則に付(つい)ては之を日米間の正式妥結事項(了解案たると又は其他の声明たるとを問はず)中に包含せしむることは極力回避するものとす

 右説明

一、通商無差別原則に付ては地理的近接の事実に依る緊密関係に関する従来の主張は之を撤回し無差別原則の全世界適用を条件とせるものなるが後者に付ては十月二日附米政府覚書中に「日米何(いず)れかが特定地域に於て一の政策を取るに拘(かかわ)らず他地域に於て之と相反する政策を取るは面白からず」との趣旨の記述あるに徴するも何等反対なかるべく従って本件に付ては之にて合意成立するものと信ず

二、三国条約の問題に付ては屡々貴電に依れば米国は我方提案にて大体満足し居るやの趣なるに付自衛権は解釈を濫りに拡大する意図なきことを一層明確にするに於ては本件も妥結を見るべきものと信ず

三、撤兵問題は或(あるい)は依然難点となるやも知れざるも我方は米側が不確定期間の駐兵に強く反対するに鑑(かんが)み駐兵地域及期間を示し以て其の疑惑を解かんとするものなり、撤兵を建前とし駐兵を例外とする方米側の希望に副(そ)ふべきも右は国内的に不可能なり又駐兵所要期間を明示するに於ては却(かえ)って事態を紛糾せしむる惧(おそれ)あるに付(つき)此の際は飽く迄所要期間なる抽象的字句により折衝せられ無期限永久駐兵に非(あら)ざる旨を印象づくる様御努力相成度(あいなりた)し要之甲案は懸案三題中二問題に関しては全面的に米側主張を受諾せるものにて最後の一点たる駐兵及撤兵問題に付ても最大限の譲歩を為せる次第なり右は四年に亙(わた)る事変に依り帝国の甘受せる甚大なる犠牲に徴し決して過大の要求にあらず寧(むし)ろ甚だ小に過ぎたるものにして此の点は国内政治上も我方としては此の上の譲歩は到底不可能なり依て米側をして右を諒解せしめ本案に依り速(すみや)かに交渉妥結に導く様切望す

※  ※  ※

 日本はアメリカに対する最終提案として、上記の甲案を用意して交渉に臨みましたが、これでも尚、アメリカとの交渉妥結をみなかった場合に備えて、さらなる妥協案である乙案も用意していました。以下に引用しましょう。

※  ※  ※

日米交渉・日本側最終提案 乙案 (昭和十六年十一月四日東郷大臣発野村大使宛電報・第七二六号)


 本案は甲案の代案とも称すべく若(も)し米側に於て甲案に著(いちじる)しき難色を示すときは事態切迫し遷延を許さざる情勢なるに鑑(かんが)み何等かの代案を急速成立せしめ以て事の発するを未然に防止する必要ありとの見地より案出せる第二次案にして内容左の通り

一、日米両国政府は孰(いず)れも仏印以外の南東亜細亜及南太平洋地域に武力的進出を行わざることを確約す

二、日米両国政府は蘭領印度に於て其必要とする物資の獲得が保障せらるる様相互に協力するものとす

三、日米両国政府は相互に通商関係を資産凍結前の状態に復帰すべし米国政府は所要の石油の対日供給を約す

四、米国政府は日支両国の和平に関する努力に支障を与うるが如き行動に出(い)でざるべし

(備考)

一、必要に応じ本取極(とりきめ)成立せば日支間和平成立するか又は太平洋地域に於ける公正なる平和確立する上は日本軍隊を撤退すべき旨を約束し差支(さしつかえ)なし

二、必要に応じては往電第七二六号甲案中に包含せらるる通商無差別待遇に関する規定及三国条約の解釈及履行に関する規定を追加挿入するものとす尚(なお)本案を提出する時期に付ては予(あらかじ)め請訓ありたし


 ※  ※  ※

 これだけの妥協をしてまで、日本は日米開戦だけは避けたかったのです。

 これについては、当時首相であった東条英機氏も東京裁判における宣誓供述書でこう述べています。

【東条英機 歴史の証言 ―東京裁判宣誓供述書を読み解く― 渡辺昇一 祥伝社文庫P322より】

 ※  ※  ※

一〇〇、   日米交渉は甲案より初められたのでありますが、同時に乙案をも在米大使に送付して居ります。

交渉は意の如く進行せず、その難点は依然として三国同盟関係、国際通商無差別問題、支那駐兵にあることも明かとなり、政府としては両国の国交の破綻を回避するため最善の努力を払うため従来の難点は暫(しばら)く措(お)き須要(しゆよう)且つ緊急なるもののみに限定して交渉を進めるために予(あらかじ)め送ってありました、乙案に依て妥結を図らしめたのであります。

此の間の消息は既に当法廷に於て山本熊一証人の証言せる如くであります。

 ※  ※  ※

 このような、日本の妥協を嘲笑うかのように出されたハル・ノートはこれらの交渉経緯を一切無視した、最後通牒だったのです。

 次につづきますね。
 次回はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52811305.html



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葛西臨海水族園のエトピリカさんだよ 【ファイルC229】2011.10.28 

【ファイルC229】2011.10.28 葛西臨海水族園のエトピリカさんだよ

綺麗な水鳥さんだねえ。

   葛西臨海水族園について以前紹介しましたが、その時撮ったエトピリカさんの写真をご紹介しますね。

 こんにちは。









 エトピリカという名前はアイヌ語で『くちばし(エトetu)』が『美しい(ピリカpirka)』で、『美しいくちばし』という意味です。

 大きさは体長40cm・体重750gほどで、ハトを一回り大きくした感じです。

 ところで、『江戸』という名前の語源に、アイヌ語源説というのがあります。

 まず江戸の名の由来の有力説は、川(江)の入り江(戸)というのが定説で平安時代末期には派生した地名だというものです。

 ところが、『新編千代田区史』通史編では、『江戸』の語源について、『入り江(江)の口(戸)』という通説と並んで、『アイヌ語の岬・端(ハナ)のetu(エト)』というアイヌ語源説が紹介してあるそうです。

 地名を取ったと思われる江戸氏の名が初めて現れるのは、鎌倉時代に書かれた『吾妻鏡』の治承四年(1180)8月26日、衣笠城攻めのくだりで、この江戸氏の館が江戸城の始まりなのです。ところが江戸の語源については定かではないようなのです。

 アイヌ語では『エト』には岬・端という意味があって、どれも尖っていますよね。くちばしも尖っています。

 それで、徳川家康の江戸城築城前の地形を見てみましょう。





 これを見ると日比谷は海の底です。徳川家康は神田山を削って日比谷の入江を埋め立てたのです。八重洲は前島の州浜(すはま)でした。

 現在の東京駅と新橋駅の位置を赤い丸で落としています。

 前島が尖った岬になっていますね。

 見ようによっては、エトピリカさんのくちばしみたい!

 なんとなく、「『江戸』は前島の尖った岬の形から、アイヌ語の『岬・端=エト』が転化した」という説も捨てがたいねえ。

 また、知床旅情の歌詞にも『ピリカが笑う』とありますが、このピリカは『美人さん』という意味なんでしょうね。


 それから、エトピリカさんは、その夏羽の派手な色合いから『オイランドリ(花魁鳥)』とも呼ばれています。

 エトピリカさんは、チドリ目ウミスズメ科ツノメドリ属エトピリカ。

 海鳥(うみどり)の一種です。

 お二人で写っています。









 左の人は、夏羽の姿です。

 すなわち、顔が白く、目の周りは赤、目の後方から黄色味のある飾り羽が生えていて、頭上とその他の部分は黒。大きく太い嘴はオレンジ色で基部は黄緑色。足はオレンジ色です。

 右の黒い人は雌かな?と思ったのですが、実はエトピリカさんは雌雄同色なのだそうです。ということは幼鳥(若鶏)なのかな?

 ちなみに、成鳥は冬になると嘴はやや細くなり、基部は黒っぽく、顔も黒っぽくなるそうです。

 鳴き声は、クルルルルルと鳴きます。

 水鳥さんなので、水に浮かびます。





 ぱちゃぱちゃもします。





 餌は水面に浮いた後、潜って捕らえます。

 水中を泳ぐエトピリカさんの勇姿。





 潜る姿はペンギンさんみたいだねえ。ペンギンさんとちがってエトピリカさんは空も飛ぶので、陸海空の万能選手です。

 普段は10m、最大60m程潜ることができるそうです。

 主としてイカナゴ、シシャモ、スケトウダラなどの魚類、イカ類、甲殻類を食べ、外洋ではイカを中心に食べます。


 5~7月にペアを作り、一夫一妻で繁殖します。

 求愛行動はコロニー近くの水面で行われ、嘴を横に振って打ち合わせる求愛ディスプレイをして相手を決めます。

 繁殖は6月頃から始まり、天敵に狙われにくい海に面した断崖の上の草地にくちばしと足を使って地面に巣穴を掘って作り、コロニー(集団繁殖地)を形成します。

 雄雌で協力して、深さ50~100cm、直径約18cmくらいの巣を作ります。

 当年に掘った穴は翌年から使用し、永久凍土地帯では、岩の割れ目などを利用します。

 産座には少しだけ枯れ草を敷き、産卵数は1個。

 雌雄で抱卵し、日に2度くらい抱卵交代をしますが、全くしない日も、巣を空ける日もあります。

 約47日で孵化し、孵化後に約4日抱雛(ほうすう)します。

 雌雄で育雛し、一度に2~3匹の魚を持って食べさせます。雛鳥に対してはイカナゴやニシンなどの小魚のほか、イカを与えます。

 雛は孵化から40日-55日育てられた後、巣立ちます。巣立ちは夜間か早朝。3年で成鳥となります。


 お住まいは、北日本からカリフォルニア州までの北太平洋沿岸域に広く分布し、繁殖地も各地に点在します

 特に北アメリカ大陸西海岸、アリューシャン列島周辺では高密度で見られます。

 アラスカのカルガリー島には37万羽というコロニーがあります。

 非繁殖期は沿岸から離れた外洋で過ごします。

 世界的にみると決して少ない鳥ではないのですが、日本は分布域の西端にあたり、非常に生息数が少ないのです。

 繁殖地も北海道東部の厚岸町大黒島(だいこくじま)、浜中町霧多布(キリタップ)小島、根室市ユルリ島、モユルリ島のみで、1960年頃には計250羽ほどが飛来していた個体数も、現在は30~40羽ほどとなり、そのうちの十数つがいが繁殖するのみとなっているそうです。

 冬季は本州中部くらいまで南下します。鳥取県で確認された記録があるそうです。

 繁殖地の餌不足や魚網にひっかかる被害により、日本に限っては地域絶滅の危険が大きいといわれています。

 なお、北方領土の色丹(しこたん)島や歯舞(はぼまい)群島ではコロニーが観察されています。

 羽根をぱたぱた。





 ポーズをとって、





 水の上を走ります。





 M字型の飾り羽。





 羽づくろいをします。





 最後にごあいさつ。





 さようなら、元気でね。日本に戻ってくると良いねえ。





大阪中之島の大阪市立東洋陶磁美術館に行ったよ(その2) 【ファイルA12】2011.10.25 

【ファイルA12】2011.10.25 大阪中之島の大阪市立東洋陶磁美術館に行ったよ(その2)

支那の陶磁器だよ。

 前回は朝鮮半島の高麗青磁の逸品をご紹介しました。
 前回はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52667628.html

 陶磁器と言えば支那。

 だから英語でも陶磁器のことをチャイナ(CHINA=支那語で『支那=SINA=シナ』の英語読み)、漆器のことをジャパン(JAPAN=支那語で『日本=リーペン』の英語読み)と言います。

 日本は支那や朝鮮から陶磁器の製法の多くを学びました。

 それで、大阪市立東洋陶磁美術館での支那の展示からいくつかご紹介しましょう。

 なお、作品の解説は原則として東洋陶磁美術館のHPから引用しました。

 HPに掲載のない作品については、作品の館内解説板から引用しましたが、解説板に解説がなかったものや解説板を私がちゃんと撮影してなかったものについては不十分なものがあります。

 その点はご了承くださいね。


黄釉緑褐彩四耳壺(おうゆうりょくかっさい しじこ)






 北斉時代・6世紀

 北斉時代の鉛釉(なまりゆう・えんゆう)陶器です。

 主として副葬品として墓に納められました。唐三彩の前身となった技法です。


 1500年ほど前の陶磁器とは思えないほど色鮮やかです。

 それにしても、こんな素晴らしい作品が副葬品だなんて、贅沢ですね。よく盗掘を免れたものです。

 北斉時代というのは支那南北朝の頃ですね。

 北斉国内では『勲貴』と呼ばれる鮮卑(せんぴ)系武人と漢族を中心とする文人官僚が内部抗争を繰り広げていました。

 隋も唐も鮮卑系の国ですからね。

 『中国四千年の歴史』といいますが、これは誇大表示もいいところです。

 この国は、支配民族が易姓革命(えきせいかくめい)によりコロコロ変わり、その度に数千万人規模の死者を出し、混血も激しいので、日本ほど歴史の連続性はありません。

 
 『中国』という国があるとしたら、女真族(満州族)が支配した清から、辛亥革命により中華民国が建国されたのが1912年ですから、それを入れても100年しかない新興国家です。

 共産党一党独裁の中華人民共和国は1949年建国ですから、そうなると60年の歴史です。


炉鈞釉 双耳瓶(ろきんゆう そうじへい)






 清時代・18-19世紀/宣興窯

 炉鈞釉は清時代の雍正年間に誕生した低火度一種の窯変釉で、景徳鎮の「宣鈞」などに倣ってつくられました。この作品は胎土などから宣興窯の製品と考えられています。


 清涼なエメラルドグリーンがとても美しい作品だねえ。


茶葉末釉 双耳方形瓶(ちゃようまつゆう そうじほうけいへい)(「大清乾隆年製」銘)






 清時代・乾隆年間(1736-95)/景徳鎮窯 

 乾隆官窯の茶葉末釉の典型的な作品です。胎土は良く見ると景徳鎮特有の真っ白な磁土を用いています。


 深い茶葉の色が渋くてモダンなデザインの瓶です。

 テレビ東京の『開運!なんでも鑑定団』で、鑑定士の中島 誠之助さんが、鑑定依頼された作品を見て、「これは『乾隆年製(けんりゅうねんせい)の銘(めい)が入っていますねえ』と感にたえたように言っていたのを聞いたことがあります。

 景徳鎮(けいとくちん)の陶器というのは歴史の教科書にも出ていましたが、『乾隆年製銘』が入った物は値打ちがあるのですね。


緑釉 壺(りょくゆう つぼ)






 後漢時代 2~3世紀 高:42.0cm

 鮮やかな発色を見せる緑釉は、銅を呈色剤とした鉛釉であり、後漢時代に大いに流行した。

 低火度焼成の緑釉陶はもっぱら明器としてつくられたが、その美しい釉色は青銅器にも似た輝きを放っている。

 実際、本作品も両肩に貼花された型抜きの鋪首(ほしゅ)や、肩及び胴の圏線(けんせん)などから、銅器の「鐘(しょう)」をイメージしてつくられたと考えられる。

 長く土中にあったため、一部表面には銀化(ぎんか)が生じており、それが見所のひとつにもなっている。外反した盤口形の口部上縁に、目跡や釉だまりが見られるのは、上下逆さにして焼成されたためである。

 裾広がりの小振りの脚部は八角形に面取りされており、丸みを帯びた造形にひとつのアクセントを加えている。


 うへえ!1700年前の緑なのですね。

 陶磁器は年を経ても退色が少ないのが魅力なんだねえ。


加彩 宮女俑 (かさい きゅうじょよう)










 唐時代 7~8世紀 高:37.7cm

 極端なまでに細腰痩身の姿態は、開元年間(713-41)以降の豊満温雅な「樹下美人」式女俑の対極にあり、初唐の理想的女性像を反映したものといえる。

 頭上に高く結い上げた髪は、唐の段成式『髻鬟品』にある「半翻髻(はんほんけい)」にあたるとされており、初唐に流行した髪型のひとつである。

 額には朱で花鈿(かでん)が施されている。朱、青、緑、黒の彩色に、さらに金彩や箔押しを加えた華麗な衣裳や装身具といい、その秀麗高雅な面持ちといい、あたかも仙女の如き趣が感じられる。

 その所作及び持物については諸説あるが、楽妓や舞女というよりは侍女の類であろう。

 類例が陝西省長武県などから出土しており、また永青文庫をはじめ、国内外の所蔵例もいくつか知られる。


なんとなく、ポパイに出てくるオリーブさんのようなスレンダー美人さんです。日本から渡航した遣唐使の人達も、このような女官の姿を見たのかな?

 

【重要美術品】 三彩貼花 宝相華文 壺(さんさいちょうか ほうそうげもん つぼ)










 唐時代 7~8世紀 高:30.9cm

 胴のまわり三箇所に貼花された宝相華のメダイヨンが、斑点状に白抜きされた緑釉と褐釉の幻想的なまじりあいの中で、ひときわ華やかな光彩を放っている。

 この宝相華文は、型抜きにより成形されたもので、東京国立博物館の横河コレクションにある重要文化財の三彩龍耳瓶にもこれと同型のものが見られる。

 化粧掛けされた胎土上で鮮やかに発色した釉薬は、裾の締まった端正な長卵形の胴下方で留まっており、露胎部分と絶妙のバランスを保っている。

 口縁及び器内には黄味がかった白釉が施されている。類品がシカゴ美術館にあり、また施釉の仕方がやや異なるが河南省洛陽市金家溝からは蓋付のものが出土している。


 唐三彩(とうさんさい)はシルクロードを通り、13世紀から15世紀半ばころにかけてシリアやキプロス、イタリアにまで伝来しました。

 また、日本等他の東アジアの陶芸品にも多大な影響を与えました。

 唐三彩(とうさんさい)も世界史の教科書に載っていたねえ。この鮮やかさはさすがです。


白磁刻花 牡丹文 瓶 (はくじこっか ぼたんもん へい)










 北宋時代 10~11世紀 高:32.0cm

 定窯は、宋代五名窯の一つに数えられ、晩唐時代から白磁を生産している。

 その窯址は河北省曲陽県澗磁村にあり、1941年、小山冨士夫氏によって発見された。

 最盛期の定窯の製品は、碗、皿、深鉢などが多く、いわゆる袋物は少ない。この瓶は最盛期にかかる以前、北宋初期と考えられる珍しい作例で、強い調子で彫られた胴下部の蓮弁文などにもそれがうかがえる。

 口は欠失しているが、おそらく盤口瓶(ばんこうへい)の形であったと想像される。


 とても厚みとコクのある、とろけるような白色です。このような質感は陶磁器ならではですよね。

多少ずんぐりむっくりに見えるのは、口が欠損しているからなのですね。

 ということで、次に続きますね。

防衛省市谷ツアーに参加したよ(その6) 【ファイルET47】2011.10.22 

【ファイルET47】2011.10.22 防衛省市谷ツアーに参加したよ(その6)

ハル・ノート全文。

 防衛省ツアーの市ヶ谷記念館大講堂の記事の続きです。

 その1から読まれる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52534735.html

 ここに、日本を開戦に追い込んだハル・ノートを引用しましょう。

 【東条英機 歴史の証言 ―東京裁判宣誓供述書を読み解く― 渡辺昇一 祥伝社文庫P527より】

 ※  ※  ※

 日米交渉・米国側最終回答「ハル・ノート」全文
(昭和16年11月27日来電・第1192号、第1193号)

 合衆国及び日本国間協定の基礎概略

 第一項 政策に関する相互宣言案

 合衆国政府及び日本政府は共に太平洋の平和を欲し其の国策は太平洋地域全般に亙(わた)る永続的且(か)つ広汎なる平和を目的とし、両国は右地域に於いて何等(なんら)領土的企図を有せず、他国を脅威又は隣接国に対し侵略的に武力を行使するの意図なく又その国策に於いては相互間及び一切の他国政府との間の関係の基礎たる左記根本諸原則を積極的に支持し且つ之を実際的に適用すべき旨宣明す

一、一切の国家の領土保全及び主権の不可侵原則
二、他の諸国の国内問題に対する不関与の原則
三、通商上の機会及び待遇の平等を含む平等原則
四、紛争の防止及び平和的解決並びに平和的方法および手続きに依る国際情勢改善の為(ため)国際協力及び国際調停遵拠の原則

 日本国政府及び合衆国政府は慢性的政治不安定の根絶、頻繁なる経済的崩壊の防止及び平和の基礎設定の為め、相互間並びに他国家及び他国民との間の経済関係に於いて左記諸原則を積極的に支持し、且つ実際的に適用すべきことを合意せり

一、国際通商関係に於ける無差別待遇の原則
二、国際的経済協力及び過度の通商制限に現れたる極端なる国家主義撤廃の原則
三、一切の国家に依る無差別的なる原料物資獲得の原則
四、国際的商品協定の運用に関し消費国家及び民衆の利益の十分なる保護の原則
五、一切の国家の主要企業及び連続的発展に資し、且つ一切の国家の福祉に合致する貿易手続きによる支払いを許容せしむるが如き国際金融機構及び取極(とりき)め樹立の原則


第二項 合衆国政府及び日本国政府の採るべき措置

合衆国政府及び日本国政府は左記の如き措置を採ることを提案す

一、合衆国政府及び日本国政府は英帝国、支那、日本国、和蘭(オランダ)、蘇(ソ)連邦、泰(タイ)国、及び合衆国間に多辺的不可侵条約の締結に努むべし

二、両国政府は米、英、支、日、蘭、及び泰政府間に各国政府が仏領印度支那(インドシナ)の領土主権を尊重し、且つ印度支那の領土保全に対する脅威発生するが如き場合、かかる脅威に対処するに必要且つ適当なりと看做(みな)さるべき措置を講ずるの目的を以って即時協議する旨誓約すべき協定の締結に努むべし

斯(か)かる協定は又協定締結国たる各国政府が印度支那との貿易若(も)しくは経済関係に於いて特恵的待遇を求め、又は之を受けざるべく且つ各締結国の為(ため)仏領印度支那との貿易及び通商に於ける平等待遇を確保するが為尽力すべき旨規定すべきものとす

三、日本国政府は支那及び印度支那より一切の陸海空軍兵力及び警察力を撤収すべし

四、合衆国政府及び日本国政府は臨時に首都を重慶に置ける中華民国国民政府以外の支那に於ける如何なる政府、若しくは政権をも軍事的政治的経済的に支持せざるべし

五、両国政府は外国租界及び居留地内及び之に関連せる諸権益並びに1901年の団匪事件(義和団事件の事)議定書に依る諸権利をも含む支那に在る一切の治外法権を放棄すべし

両国政府は外国租界及び居留地に於ける諸権利並びに1901年の団匪事件議定書による諸権利を含む支那に於ける治外法権廃棄方に付き英国政府及び其の外の政府の同意を取り付くべく努力すべし

六、合衆国政府及び日本政府は両国による互恵的最恵国待遇及び通商障壁の低減並びに生糸を自由品目として据え置かんとする米側企図に基き合衆国及び日本国間に通商協定締結の為協議を開始すべし

七、合衆国政府及び日本国政府はそれぞれ合衆国に在る日本資金及日本国にある米国資金に対する凍結措置を撤廃すべし

八、両国政府は円弗(ドル)為替の安定に関する案に付(つ)き協定し右目的の為適当なる資金の割り当ては半額を日本国より半額を合衆国より給付せらるべきことを合意すべし

九、両国政府は其の何れかの一方が第三国と締結しおる如何(いか)なる協定も同国に依り本協定の根本目的即ち太平洋地域全般の平和確立及び保持に矛盾するが如く解釈せらるべきことを同意すべし

十、両国政府は他国政府をして本協定に規定せる基本的なる政治的経済的原則を遵守し、且つ之を実質的に的要せしむる為其(そ)の勢力を行使すべし

※  ※  ※

これのどこが問題なのか、次回述べますね。

防衛省市谷ツアーに参加したよ(その5) 【ファイルET46】2011.10.22 

【ファイルET46】2011.10.22 防衛省市谷ツアーに参加したよ(その5)

真珠湾の前夜国務省が日本政府に送つた様な覚書(ハル・ノート)を受け取ればモナコやルクセンブルグでも米国に対し武器を取つて立つたであらう。

 防衛省ツアーの市ヶ谷記念館大講堂の記事の続きです。

 その1から読まれる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52534735.html

 ブレイクニー弁護士は、他にこのような重要発言をしています。

 【東京裁判 日本の弁明 「却下未提出弁護側資料」抜粋 小堀桂一 編 講談社学術文庫P58 より】

※  ※  ※

 B・B・ブレイクニー弁護人の「日米交渉」の末節からハル・ノートに関し後世甚だ勇名になつた一句を引用しておかう。


〈即ち十一月二十六日此の覚書を手交すると共にハル長官は問題を「陸海軍」の手に移したのである。之は長官其の人の言葉である。翌二十七日長官は「会談は殆ど再開の見込なき状態に於て打切られた」旨明らかにして居る。


 米国の自由ある新聞もハル・ノートに就て同じ見解を示した。

 十一月二十六日及二十七日の特別記者会見に於てハル長官は交渉に於て両政府の取つて来た方針を打捨て其の全貌を公表した。

 而して米国新聞はノートを受諾するや戦争に訴ふるやは日本に懸つて居る旨報道したのである。

 之を日本側から見ればホブソンの撰択即ち撰択の余地がなかつたのである。

日本は即時降伏するか又は勝目なくとも戦に訴ふるかの何れか一を撰ばされたのである。


 ハル・ノートは今や歴史となつた。

 されば、之を現代史家の語に委ねよう。

「本次戦争に就ていへば真珠湾の前夜国務省が日本政府に送つた様な覚書を受け取ればモナコやルクセンブルグでも米国に対し武器を取つて立つたであらう」〉



 ここで挙げられてゐる〈現代史家〉とはA・J・ノックといふ決して高名ならざる人物で、彼が1943年に著した”Memoirs of a Superfluous Man” といふ回想記の中にこの一句が出てくる。

※  ※  ※

 この句は法廷でブレイクニー弁護士の最終弁論を聞いていたパル判事にも強い印象を与えたらしく、高名な『パル判決書』の第四部「全面的共同謀議」(の存在を否定する長大な論述)の中でハル・ノートに付したコメントにおいてこのまま引用しています。

 日本人の間では、ブレイクニー弁護士の最終弁論は公開されなかったので、パル判事が引用した句として、有名になりました。

 というより、東京裁判(極東軍事裁判)は公開裁判だというGHQの触れ込みは大嘘だったのですけれど。

 モナコ公国は、故グレース・ケリー王妃やF1のモナコ・グランプリで有名ですが、現在の人口は僅か3万2千人の小国です。
 
 ルクセンブルク大公国(たいこうこく)は現在人口48万6千人で、軍隊はあるにはあるのですが、陸軍のみで、総兵力は4個中隊、約450名。

 つまり当時の日本は、このような小国モナコでも、ルクセンブルクでも、対米戦争を決意しなければならない状態に、追い詰められていたのです。

 このノートを日本に叩きつけたハル長官自身、ブレイクニー弁護士によれば、

 『即ち十一月二十六日此の覚書を手交すると共にハル長官は問題を「陸海軍」の手に移したのである。之は長官其の人の言葉である。翌二十七日長官は「会談は殆ど再開の見込なき状態に於て打切られた」旨明らかにして居る』

 ということは、アメリカとしては、これだけ酷い『最後通牒を』受け取った以上、日本は開戦するもの判断し、問題は開戦準備のため政府からアメリカの『陸海軍』に移ったと認識しているのです。


 今の人は、日本が大東亜戦争を始めたことを「勝目のない馬鹿な戦争を始めた」と言うのですが、日本無罪論を主張したパル判事、ブレイクニー弁護士、現代史の専門家A・J・ノック氏、だけでなく、アメリカ政府、ハル長官、当時のリベラルな米国新聞も日本はこのノートによって開戦を余儀なくされたと認識していたのです。

 このように、『ハル・ノート』とは日本が最終的に戦争に追い込まれることになった最後通牒です。

 『ハル・ノートの全文』については、次回に掲載しますね。








マーラさんは人なつっこいよ 【ファイルC229】2011.10.18 

【ファイルC229】2011.10.18 マーラさんは人なつっこいよ

南紀白浜アドベンチャーワールドで放し飼いにされていたねえ。

 かなり以前に行った南紀白浜アドベンチャーワールドの写真もまだ残っています。

 ホッキョクグマの赤ちゃんを見に行ったとき、赤ちゃんたら寝ていたので、ミルクタイムが来て起きるまで時間つぶしをしました。

 ホッキョクグマの赤ちゃんの記事はこちら。
 http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/49927108.html

 それで、近くの広場にはマーラさんが放し飼いになっていました。





 立ち上がって一生懸命餌をねだっています。カンガルーさんみたい。

 餌は売っていて、それを買って食べさせてあげることができます。

 私は餌を買わなかったのに、餌をもらえると思ったマーラさんが駆け寄ってきます。

 こんにちは。





 わ~い!餌ちょうだいよお。

 奈良公園の鹿さんみたいだねえ。

 餌は無いって言うのに、とってもなつくんだよ。





あんまり長居したら、ホッキョクグマの赤ちゃん撮影の場所取りができなくなるからねえ。

ちゃんとお澄まし。





 こうやって見ると野ウサギさんにもリスさんにも似ているし・・・。

 檻に入っていたら、ちゃんと種名を書いた表示があるので何という動物なのか分かりますが、この時点では何という動物か分かりませんでした。

 帰って調べたら、マーラさんという動物でした。

 マーラさんはネズミ目 、テンジクネズミ科。

 つまりネズミさんの仲間なのです。

 そういえば、顔はカピバラさんに似ているかも。

 英名はPatagonian cavy、Patagonian hare、Patagonian mara

 ということから分かるように、お住まいは南米パタゴニアで、アルゼンチン固有種です。

 パンパ【スペイン語: Pampa=南米・アルゼンチン中部のラプラタ川流域に広がる草原地帯】にお暮らしで、昼行性で。夜間は地面に掘った穴の中でお休みします。
 
 体長50-75cm。尾長4.5cm。体重8-9kgというのは、テンジクネズミ科の中でも最大です。

 つまり巨大モルモットなのですね。

 マーラさんはペアで生活し、そのペアは一生添い遂げるそうです。

 オスはメスに従う様に行動し、メスが採食や授乳を行う時は見張りをします。

 だから、簡単に立つことができるのですね。

 オス同士では激しく争い、繁殖期や食物が豊富な場所では複数のペアが集まった大規模な群れを形成することがあります。

 ぴょんぴょんと跳躍する様に走り、最高時速45kmするので、パニックを起こして逃げ出すととてもじゃないけれどつかまえることができません。

 可愛いので、ペットで飼っている人もいるようですが、基本的にネズミさんなので、柱や机等なんでもお構いなしに囓るから室内では飼えず、庭で飼うことになり、トイレのしつけはできないし、強力な脚力のハイジャンプで逃げ出すと大騒ぎになります。

 やはりおうちで飼うのはワンちゃんニャーちゃんが一番良いのです。

 食性は植物食で、主にイネ科の草を食べます。





 年に2回地面に穴を掘り1回に1-3頭の幼獣を産みます。

 1つの巣穴を1-15のペアが共同で使います。

 穴の近くには、お留守番に少なくとも1組のペアがいて見張りをしいます。

 幼獣は生後4ヶ月程まで穴の中で過ごし、母親は1日1-2回この穴を訪れ、穴の外で自分の産んだ幼獣にのみ授乳します。

 最後にご挨拶。





 さようなら、元気でね。

 今度行ったらば、餌を買ってあげるね。



大阪中之島の大阪市立東洋陶磁美術館に行ったよ(その1) 【ファイルA11】2011.10.15 

【ファイルA11】2011.10.15 大阪中之島の大阪市立東洋陶磁美術館に行ったよ(その1)

まずは高麗青磁の逸品から。

 大阪は中之島に大阪市立東洋陶磁美術館があります。





 以前テレビを見ていたら、陶芸家の人(有名な人なんでしょうが、陶芸には不案内なので名前は覚えていません。すみません)が、東洋陶磁美術館を紹介していて、大阪に来たらば、必ず立ち寄ると言っていました。

 ここの収蔵品は、国宝2点を含む名品揃いで、陶芸に特に興味がなかった私が観てもみごたえ充分なのでした。

 大阪を訪問される際にはここを覗いてみることをお勧めします。隠れた名所です。

 ここはもともと大阪一の格式を誇った大阪ホテルがあった場所です。その跡地にこの美術館は建てられました。

 東洋陶磁美術館の所蔵品は『旧安宅(あたか)コレクション』が中心です。

 昔、『安宅産業(あたかさんぎょう)』という日本の10大商社に数えられる大商社がありました。

 安宅産業は、もともとは、官営八幡製鐵所(やはたせいてつしょ)の指定商として発展し、堅実経営で知られていたのですが、オイルショック時に不慣れな石油ビジネスに参入する一方、多角化を目指すために、1970年代に既に不況に入っていた繊維部門の取引を拡大し、かえって債権の焦げ付きを増やすなどにより、経営が徐々に悪化していきました。

 そんな中、安宅産業では創業者安宅弥吉の長男・安宅英一元会長が、『安宅ファミリー』の勢力をバックに人事権を掌握し、事実上最高権力者として君臨していました。

 安宅一族は公私混同が激しく、とりわけ安宅英一氏は、安宅産業内に美術品部を設け、『安宅コレクション』と呼ばれる支那・朝鮮(高麗)陶磁器の膨大なコレクション蒐集しました。

 また、英一氏の息子・昭弥氏(専務)も子会社の「安宅興産」を通し、40数台にも上るクラシックカーを購入したりしていました。

 それで、安宅産業は1975年に発覚したカナダにおける石油精製プロジェクトの失敗に端を発し、とうとう経営破綻をしてしまったのです。

 最終的には、1977年に伊藤忠商事に吸収合併されることで解決をみたのですが、『安宅コレクション』の所有権はメインバンクだった住友銀行(現三井住友銀行)が引き継ぎました。

 ところが『安宅コレクション』はただ持っていても管理の場所、手間と費用がかかるだけで、売り飛ばさない限り、なんの値打ちもありません。

 しかしながら、これだけ貴重で体系的なコレクション売却して散逸すると、日本文化にとって、大きな損失だという声が多く寄せられました。

 そこで、住友銀行を中心とした住友グループ各社の協力のもと、965件、約1000点が大阪市に一括寄付されることとなりました。

 やれやれ・・・。

 『安宅コレクション』は、いわば安宅一族の独裁による放漫経営の負の遺産なのですが、これだけの値打ちのある美術品を購入したという意味では文化的な意義はとても大きかったのですね。


 1982年に東洋陶磁美術館の開館後も、さらに複数のコレクターからの寄贈を受け、展示は充実していきました。

 ということで、東洋陶磁美術館の収蔵品をご紹介していきましょう。

 ここの展示品は、三脚やストロボを使わなければ、原則として撮影OKなのです。

 ですから撮影は私がしました。暗くて写すのが難しかったよ。

 なお、作品の解説は東洋陶磁美術館のHPから引用させていただきました。
 http://www.moco.or.jp/
 
 まず、高麗青磁(こうらいせいじ)から。


青磁半陽刻 蓮花牡丹文 瓢形水注 (せいじはんようこく れんかぼたんもん ひょうけいすいちゅう)






 高麗時代 12世紀前半(高:27.0cm 径:15.4cm)

 12世紀における高麗青磁の器形は、中国北宋代の器形に祖型を持つものが多いが、なかには高麗独自の造形的変容を遂げたものもある。

 この傾向は、特に梅瓶と水注の器形に多く見られ、高麗的造形の特質を示している。

 この水注もその典型例の一つである。中国の瓢形は上胴と下胴がそれぞれ球状に近く、中央の結帯部で強く結ばれる形を取るのが一般的である。

 それに反して高麗の瓢形水注は、上胴と下胴の区別が劃然とつけられないまま、自然に流れるように連結していることが多い。本作品は胴部を6面に区切り、それぞれ半陽刻による牡丹文と蓮花文を交互に配している。

 釉色はむらのない艶やかな灰青色で、釉色、器形、彫技がよく調和し、高麗青磁の優美な味わいを示す佳品である。

 器底は中央が凹んだ平底で、釉が一部流れこんでいる。蓋は共伴のものではないであろう。


 ということで、蓋だけオリジナルじゃないのですが、そう言われて良く見ると、色つやが違いますよね。みなさんは分かりましたか?


青磁陽刻 筍形水注 (せいじようこく たけのこがたすいちゅう)






 高麗時代 12世紀前半(高:22.5cm)

 香炉のほか、水注にも物象の形を写したものが多い。

 筍形のほか、神亀、水鳥、官人などがあり、いずれも彫刻技法が最盛期を向かえる12世紀前半の作例とされている。

 この水注は、筍(たけのこ)の苞(ほう:花あるいは花序の付け根に出る葉)が浮き彫り風にあらわされているが、それが四層になる例はほかになく、類品中もっとも華麗な作例である。

 フリーハンドによる繊細な線彫りによって、竹の脈があらわされ、釉色もすこぶる良い。

 全羅南道康津郡沙堂里窯系の作と見られる。


青磁 瓶 (せいじ へい)






 高麗時代 12世紀前半(高:20.4cm)

 高麗青磁のうち、何ら装飾を伴わないものを素文(そもん)青磁と呼び、高麗陶磁の基調となった。

 とりわけ11世紀後半から12世紀前半にかけては、この瓶のように釉色と器形の美しさをほこる完成度の高い素文青磁がつくられた。

 玉壺春(ぎょっこしゅん)風の器形は宋磁を本歌とするが、重厚感のある胴のふくらみと深い釉色の持つゆったりとした印象は、高麗青磁特有のものである。

 高台裏の硅石(けいせき)目も小さく、全羅南道康津郡沙堂里窯址で同種の陶片が発見されている。


 これはとっても姿が良かったので、感心しました。


青磁象嵌 菊唐草文 盒 (せいじぞうがん きくからくさもん ごう)






 高麗時代 12世紀後半(高:14.3cm)

 蓋を皿として、鉢と一組をなす器である。統一新羅の金属器に登場し、先行例は金属器そのもので、皿と鉢の高台が高く広い。

 本品では高台が低く狭いものとなっており、陶磁器らしい形に変容を見せている。主文は、円圏内に菊花文を入れたものを四方に配し、その周囲を逆象嵌(ぎゃくぞうがん)による唐草文で埋めている。釉色が美しく、象嵌文がよく映える。

 文公裕(ぶんこうゆう)墓出土の碗よりも図式化がすすんでおり、12世紀後半の作例と見られる。


【重要美術品】 青磁彫刻 童女形水滴 (せいじちょうこく どうじょがたすいてき)






 高麗時代 12世紀前半(高:11.1cm)

 最盛期の高麗青磁には、珠玉のような小品がときどきある。人や動物、果実などの姿を写した文房具や、化粧具と思われるものに多いがこれもそのひとつ、可憐な童女の姿をかたどった水滴である。

 蓮の蕾の形をした髷(まげ)がすっぽりと取れ、そこから水を入れ、童女の抱える水瓶の口から水が出る。童女の瞳には鉄彩を点じ、衣服と瓶には細かい花文が、細く浅く毛彫りされている。ひそやかな表現に、高麗的美感が溢れる絶品である。


 この像は写真では実物は高さが11.1cmとちっちゃくて可愛いのですが、写真に撮ると、大きく見えるねえ。

 このように、高麗青磁は淡い翡翠色なのに、色に深みがあって、青磁釉薬(せいじゆうやく)がとろけるように澄んでいます。


 高麗青磁(こうらいせいじ)というのは、朝鮮半島の高麗時代に製作が始まった青磁釉を施した磁器のことです。

 支那・宋代の越窯(現在の浙江省)から技術を導入して焼き始められたもので作られ始めたのは、最も早い説で9世紀前半、最も遅い説で10世紀後半だといわれています。

 12世紀前半には最盛期を迎え、翡翠色(ひすいいろ)に輝く翡色(ひしょく)青磁を完成させました。

 北宋宣和5年(1123年)、高麗の都・開城を訪れた支那の、徐兢(じょきょう)が著わした『宣和奉使高麗図経(せんなほうしこうらいずきょう)』には、青磁が翡色と呼ばれ、色・艶ことのほか美しく、塗金や銀製の器皿(きべい)より貴ばれていたと伝えています。

 また、12世紀中ごろには、高麗独自の技法といわれる象嵌(ぞうがん)青磁をつくりだしました。

 これは、成形した器物の生乾きの表面に文様を彫りこみ、そこに白土・赭(あか)土を埋めこんで素焼したのち、青磁釉をかけて焼きあげたもので、青磁釉の下で織りなされる白黒象嵌文様は、鮮麗な味わいを持っています。

 これら翡色青磁や象嵌青磁の優品は、全羅南道康津、全羅北道扶安などで主に生産されました。


 その造形は宋の青磁が緊張感に溢れるものであるのに対し、優美さを基調としたものだといわれています。

 品質上の全盛期は一般に12世紀と言われていて、13世紀以降の作品の評価は低いのだそうです。

 その理由は諸説あって、モンゴルの侵入による社会の混乱、大量生産による品質低下でなどがあげられているそうです。

 14世紀いっぱいで青磁の流行は止み、粉青沙器(ふんせいさき)に交替しました。

 それにしても、こんな凄い技術がすたれてしまったというのは、残念ですね。

 大陸や半島では、皇帝、王朝が変わるたびに、それ以前の文化が滅んでしまうのです。


 韓国内では高麗青磁製品は高級品として『王侯貴族』の使用する物として庶民では手が届かず、一般家庭ではおろか一流料亭でもあまり使われていない高嶺の花でしたが、最近では高麗青磁食器の製造が復活し、人気が出ているようです。

 そういえば、テレビの人気番組『開運!なんでも鑑定団』でも先日、高麗青磁の名品だって張り切って鑑定してもらった人が、最近作られたものだって言われてとほほだったねえ。

 でも、素人の私が見ても、ネット通販の写真を見ただけで、本物は全然違うっていうのは分かります。

 なお、この番組でも高麗青磁の作例として、ここ東洋陶磁美術館と、東京国立博物館のものが紹介されていました。

 やはり、この美術館は権威があるんだねえ。

 『鑑定団』の鑑定士、中島 誠之助さんは東京国立博物館で本物を見て、見る目を養って下さいっておっしゃっていましたが、本物を見ると骨董品には手を出せないねえ。

 ということで、次に続きますね。







防衛省市谷ツアーに参加したよ(その4) 【ファイルET45】2011.10.11 

【ファイルET45】2011.10.11 防衛省市谷ツアーに参加したよ(その4)

ブレークニー弁護士が極東軍事裁判(東京裁判)で主張した報復権(リプライザル:Reprisal)。

 防衛省ツアーの市ヶ谷記念館大講堂の記事の続きです。
 その1から読まれる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52534735.html

 梅津美二郎(うめづ よしじろう)被告の弁護をしたブレークニー弁護士





 さらに、昭和22年3月3日、ブレークニー弁護士は、【米英ソなど五カ国は、1928年に締結されたパリ不戦条約に違反している】という論戦において、スチムソン陸軍長官が原子爆弾使用の決定をしたことを証明する証拠を提出しようとしました。

 原子爆弾使用はこの戦争中で最大の戦争犯罪です。

 もしこの証拠提出が許されていたら、これは世界的な大問題になっていたところです。

 この申し出を聞いて、イギリスの検事コミンズカー氏は驚いて立ち上がり、
「連合国において、どんな武器が使用されたかということは、本審理に何の関係もない」と異議を申し立てました。

 これに対し、ブレークニー弁護士はこう反論します。

「もし検事がハーグ条約第4をご存じなら、そのうちの陸戦法規にある、一定の種類の型の武器(毒ガス、細菌など非戦闘員にも傷害を及ぼす武器)の使用を禁ずる、という条項をご存じのはずである」


 以下、そのときの裁判長ウエッブ氏とブレークニー弁護士のやりとりです。

 【秘録 東京裁判 清瀬一郎 中公文庫P131より】

※  ※  ※

ウ:かりに原子爆弾の投下が戦争犯罪であると仮定して、それが本件に何の関係があるか

ブ:それに対してはいくつかの返答ができると思う。

その一は報復の権利である(国際法では敵が違法行為をすれば、これに対して報復すなわち「リプライザル:Reprisal」の権利が生じ、それゆえ、この限度においては日本の犯罪も許されるというもの)。


ウ:しかしながら、報復はこの行動が行われた後に起こるものだ。

ブ:この被告たちは、原子爆弾の使用前とその以後に関することについて訴追されている。

ウ:あなたがいっていることは、議論の余地がある。私はそうは思わないが、原子爆弾が2個投下されたことにより、その後の日本の行為のあるものが、正当化されるかもしれない。あなたはハーグ条約第4が死文化されたということに基礎をおいているようだが、その他の点はどうなるのか。

ブ:原子爆弾使用以前のことは、ほかの証拠で立証する。それ以後のことは報復手段として正当化できると私は主張する。

ウ:それはわずか三週間でも(原子爆弾投下の8月6日ならび9日から9月2日の米戦艦『ミズーリ』での降伏調印式まで)被告の誰かを無罪にできることができるかもしれない。

ブ:三週間の期間にかかるところの検事側の証拠書類は、たくさんあった。たとえばマニラ事件・・・。

※  ※  ※

 この論戦は、明らかにブレークニー弁護士の勝ちです。

 でも、この証拠提出は不当にも却下されました。

 それにしても、日本人は国際法上、戦争犯罪には報復権が生じるという事実を知っているのでしょうか?

 私が広島・長崎の被曝者だったら、こう言ったでしょう「この仇(かたき)は、きっと取って欲しい。恨みは晴らして欲しい」・・・。

 実際に被曝者は「何時かは、きっとこの復讐はしてやりますぞ」、「兵隊さん、きっとこの仇を取ってください」といった無差別に虐殺したアメリカに対する憎しみと怒りに満ちた声をあげていたのです。

 イギリスのサッチャー首相がパーシングミサイルの配備を提案したとき、「イギリスが核をソ連に向ければ、ソ連から核攻撃を受ける危険性が増大する!」と世論からの批判に晒されました。

 その時サッチャー首相は、こう反論します。
「日本は、原爆を持たなかったのに、広島・長崎で原爆攻撃を受けた」
 
 逆に日本が原爆を持っていたら、アメリカによる原爆投下はなかったのです。

 それが、今の反核運動の人達は「唯一の原爆被爆国である日本は絶対核を持ってはいけない」と言っています。

 といっても、この人たちは、どういうわけか中華人民共和国や旧ソ連の核兵器には文句を言わないのですが・・・。


 国際法的に言えば、日本はアメリカの核先制攻撃の報復として核を落とす権利があるのです。もちろん保有の権利も。

 もちろん、このことを以て、私は、日本はアメリカに原爆を落すべきだと言っているわけではありません。

 大量の非戦闘員を巻き込む原爆使用は許されがたい戦争犯罪以前の、ホロコーストなのですから。


 そのことを隠蔽しようとしたGHQは、日本人に対し、徹底的に『報復は悪だ』と洗脳を行い、『忠臣蔵』の上演すら禁止します。


 普通、被害者はその憎しみや復讐心を加害者に持ちます。

 ところが、日本人は同胞であるはずの当時の日本の指導者や日本軍に憎しみを持つよう洗脳されているのです。

 こんな理屈がなりたつなら、現在中華人民共和国はしきりに20万人しかいなかった南京で日本軍が30万人虐殺したという大嘘をついて反日感情を剥き出しにますが、なぜ中華民国や、それとは関係ない共産党の中華人民共和国の人達は『日本人に愚かな徴発をして軍事紛争に持ち込んだ蒋介石が悪い』と蒋介石を糺弾しないのでしょう?


 事実、南京での混乱の大きな原因は、蒋介石の部下で南京防衛戦の最高指揮官、唐生智(とう せいち)が、南京をオープンシティにせずに、戦闘の最中に逃走するという無責任な行為が原因だったのです。


 日本に報復を禁じる洗脳をした、アメリカは9.11同時多発テロの報復として、ビンラディンともアルカイダとも無関係だったサダム・フセインのイラクに対し戦争を仕掛けたのだから、開いた口がふさがりません。

 それが嘘だとばれたので、今度はイラクは大量破壊兵器を持っているという言いがかりをつけ、それも嘘だったことが分かったのですが、あの戦争は一体何だったんでしょう?


 こんな無茶苦茶なことを平気でするアメリカが押しつけた東京裁判史観を後生大事に守っている日本人の存在が信じられません。

 次回に続きますね。

大阪千日前の『家庭料理 あずま食堂』に行ったよ 【ファイルF50】2011.10.08 

【ファイルF50】2011.10.08 大阪千日前の『家庭料理 あずま食堂』に行ったよ

『生姜の天ぷら』も美味しいねえ。

 大阪千日前の『なんばグランド花月』の裏手にやってきました。





 裏には駐車場や通用口があって、人気芸人さんの出待ちをする追っかけの子たちがここに張り込んでいるそうです。

 昔ダウンタウンが売り出し中の頃は凄かったらしいねえ。

 そういえば、島田紳助さんの引退の時は、駐車場の車に乗り込む他の芸人さんのインタビューを撮ろうと、ここにマスコミが貼り付いていました。

 通用口の横には『吉本興業株式会社』の看板があります。





 ここからすぐ目と鼻の先にあるのが、『家庭料理 あずま食堂』です。





 地の利もあり、美味しいことから、吉本の芸人さんが良く来る食堂なのです。

 吉本の芸人さんって結構大阪じゃない地方出身者が多いからねえ。

 明石家さんまさんは奈良だし、西川きよしさんは高知だし、宮川大助・花子さんの大助さんは島根の境港だし、今いくよ・くるよさんは京都出身。ダウンタウンは二人とも兵庫県尼崎市。桂文珍師匠は兵庫県の山奥の篠山市。友近さんは愛媛県松山市・・・・。

 ということで、吉本の芸人さんの大阪弁って結構訛ってるんですよね。

 だから、地方出身者が多い吉本の芸人さんに『家庭料理』のおふくろの味が人気があるんだねえ。

 以前、吉本の芸人さんが良く来る食堂として『千とせ』の記事を書きました。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/37752783.html

 ここも人気の食堂なのですね。

 『家庭料理 あずま食堂』には、開店時間すぐに行ったので、客は私で2人目でした。

 お店は女性ばかり3名で切り盛りしていて、有名な美人の女将さんがいました。

 ガラスのショーケースから小鉢を3つ選んで、メインは若い頃常連さんだった明石家さんまさんに敬意を表して『秋刀魚(さんま)』にしました。

 また、明石家さんまさんも好物だという、『生姜の天ぷら』も揚げてもらうことにしました。

 写真を撮っても良いですか?って聞いたらば、メインディッシュに注文した『さんま』が出来てから写してねって言われました。

 それでさんまさんが揃って写真を撮ったよ!





 さんまさんから食べるよ。

 さんまは大きくてぷりぷりと身が締まっていて美味しいのです。しっかりと青いお魚の味がします。

 やっぱり大根おろしとお醤油というのが黄金のコンビだねえ。

 大阪名物『生姜の天ぷら』です。





 揚げたてだったので、カリッとして、ころもの脂と、生姜の酸味のさわやかさがマッチして不思議なお味・・・。

 これは美味しいねえ。

 女将さんによると、ここで生姜の天ぷらを買って、お土産に東京に持っていく人も多いんだって。

 そりゃそうでしょ。生姜の天ぷらなんて関東には無いし・・・。

 
 小鉢3つは きんぴらゴボウ(ニンジンとこんにゃく入り)、とひじきとカボチャと揚げ豆腐とお漬け物。

 もちろんガラスケースから取ったので、冷めていますが、その分味が馴染んでいるのです。

 きんぴらゴボウさんはとても歯ごたえがあって甘辛いし。





 ひじきは香ばしくて、カボチャはとろ~り甘いのです。





 ごはん(小)たくあん付きとお豆腐のお味噌汁も頼んだよ。

 ほかほか湯気が出ているねえ。





 やっぱり日本人は白米とお味噌汁です。

 これを食べると元気が出ます。

 常連とおぼしきお客さんのおじさんの大阪弁が味わい深いねえ。お店の人も気さくだし。

 吉本新喜劇の世界だねえ。

 食べ終わってお会計です。

 お店の人がお皿をみて計算します。

 吉本新喜劇だと「いくら?」「400万円」ズテッ!

 と全員がこけるんだけど、

 しめて1240円也。

 リーズナブルでお腹いっぱいになったよ。

 ごちそうさまでした。

 大阪の正しい食堂でした。









落ち葉の中のトラさんは見分けにくいねえ 【ファイルC228】2011.10.05 

【ファイルC228】2011.10.05 落ち葉の中のトラさんは見分けにくいねえ

旭山動物園のアムールトラさんのご夫婦だよ。

 前回はシマウマさんのシマについて記事を書きました。

 前回の記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52606342.html

 それで、これも随分と以前に撮った、北海道旭川は旭山動物園のアムールトラさんの写真をご紹介しますね。

 ご夫婦仲良しでお暮らしでした。





 こんにちは。

 サバンナですごく目立つシマウマさんのシマと違って、枯れ葉で敷き詰められた地面では、トラさんの縞模様はとても見難いのです。





 横顔は牙が鋭くて、怖いねえ。





 こんな牙にがぶうって噛まれるのはあまりお勧めできません。

 トラさんにとっては、檻の中が自分の縄張りです。むやみに入ってはいけません。

 基本的に生態は殆ど猫さんなので、人間の身長が20メートルぐらいあったらば、トラさんも可愛いペットになるんだろうけど、このままペットにすると、飼い主が餌になってしまいます。

 ネズミさんから見た猫さんも、きっとこんなふうに見えるんだろうねえ。

 トラさんは猫さんとちがって、瞳孔がまん丸だねえ。





 以前、江戸の天才絵師、伊藤若冲について記事を書きました。
 記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/26969653.html

 伊藤若冲筆の『猛虎図』(再掲)です。





 この絵はちゃんと丸い瞳孔です。

 プライスコレクションの『鳥獣花木図屏風』のトラさんの部分のアップです(再掲)。





 この絵は瞳孔が縦長なので、猫さんをモデルにしていますね。

 こっちの絵は、伊藤若冲本人の作品と言うより、伊藤若冲の工房で作った絵なのかな?って改めて思います。


 そういえば、大阪天王寺動物園のライオンさんも瞳孔がまん丸だったねえ(再掲)。





 調べてみたらば、ピントを合わせるのに縦長が、横に広い視野を持つのに横長の瞳孔が有利なんだって。

 縦長=肉食(ネコ・キツネ・ワニ・サメなど)

 沖縄にいた猫さん(再掲)





 横長=草食(馬・ヤギ・羊・鹿など)

 沖縄にいたヤギさん(再掲)





 丸=雑食動物その他(イヌ・オオカミ・サルなど)

 横浜ズーラシアのニホンザルさん(再掲)





 トラ・ライオン・チーター・ゾウなど固体そのものが強くて、『他の動物からの襲撃をあまり気にしなくていい』動物は、草食・肉食関係なく丸いそうです。

 忍者のように音もなく獲物に忍び寄ります。





 トラさんはゲリラのハンターだからねえ。

 前傾姿勢がカッコイイねえ。





 こっちを狙っているねえ。





 うへえ、食べないでよお。

 強そうな顎です。





 腕が太いねえ。





 トラさんは、どんどん生息数が減っています。

 現在トラさんがいるのは

ベンガルトラ:インド、中華人民共和国南部、ネパール、バングラデシュ、ブータン、ミャンマー
アムールトラ:中華人民共和国北東部、ロシア(ウスリー東部)
アモイトラ:中華人民共和国(絶滅の可能性あり)
スマトラトラ:インドネシア(スマトラ島)

 絶滅した分布域は

バリトラ:インドネシア(バリ島)
ジャワトラ:インドネシア(ジャワ島)
カスピトラ:アフガニスタン北部、イラン北部、トルキスタン

 だそうです。

 日本では、静岡県三ヶ日町(現・浜松市)の石灰岩採石場で2万年前のトラの顎の骨が見つかっていて、これは、当時大陸と陸続きだったために渡ってきたものと考えられているそうです。

 豊臣秀吉の朝鮮征伐の時に加藤清正のトラ退治の話が残っていますが、現在朝鮮半島では北朝鮮咸鏡南道(ハムギョンナムド)にアムールトラの亜種が細々と暮らしているようです。

 例えば、アムールトラ1頭あたり1,000平方キロ(東京都の面積の半分)の森林が必要だとされるそうですから、トラの生息は森林域の保全状態のバロメーターなのですね。

 檻があっても怖いねえ。





 檻と縞も保護色なのかな?

 さようなら、いつまでも元気でね。







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