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グリコ・森永犯、怪人21面相のそっくりさんたち 【ファイルSO01】2011.12.29 

【ファイルSO01】2011.12.29 グリコ・森永犯、怪人21面相のそっくりさんたち

禁煙パイポのおじさん、宮崎学さんと栗本慎一郎さん

 1984年3月18日午後9時30分頃、江崎グリコの社長が、目出し帽を被った3人組の男たちに兵庫県西宮市の自宅から連れ去られるという誘拐事件が発生しました。

 これが当時の日本列島を震撼させたグリコ・森永事件=かい人21面相事件の発端です。

 犯人グループは10億円と金塊100キロを要求する脅迫状を送りつけますが、誘拐された江崎社長は自力で脱出。

 これで事件は解決に向かうと思われましたが、犯人グループは「かい人21面相」と名乗り、グリコだけでなく、森永製菓やハウス食品など食品メーカーを次々に脅迫。

 犯行は次第にエスカレートし、「どくいりきけん たべたらしぬで」と書いた青酸入りの菓子をスーパーに置くなどして、「大量流通・大量消費社会」を人質にとる前代未聞の展開を見せました。

 犯人は企業だけでなく、メディアにも140通を超す脅迫状や挑戦状を送り付け、国民を巻き込んだ『劇場型犯罪』の走りとなりました。

 のべ130万人もの警察官が投入されたにもかかわらず、2000年2月全面時効が成立し、事件の真相は解明されないまま、現在に至っています。

 真犯人をめぐって、さまざまな説が取り沙汰されたましが、そのどれもが確証を得るものではなかったのです。

 この事件により、国民は食の安全を脅かされ戦々恐々としていました。

 それまでグリコのポッキーはスナック等でお酒に入れて出されていましたが、姿を消してしまいました。

 当時子供だったタレントの山瀬まみさんは、お父さんが森永製菓の社員で、当時は事件の影響で菓子が売れず、ボーナスがカットされて、菓子が支給されたとテレビで語っていました。
 

 まず、グリコ森永犯と言えばキツネ目の男。





 警察が指名手配に作成したこの似顔絵で、グリコ・森永犯=キツネ目の男という印象が世間に広く行き渡りました。

 この似顔絵が発表された当時は、「この人が似ている」という警察に対する通報というかチックリというか告げ口というか、密告というか・・・、が酷かったそうです。

 教え子が学校の先生が似ているとか、会社員が上司に似ているとか通報し、魔女狩り状態になりました。

 かなりの数の人が、日頃快くないと思っている人を警察に売り渡したようです。

 うへえ!怖いねえ。

 でも、自分が嫌いな人間が警察に取り調べられてザマアミロの上、もし通報した相手が真犯人なら警察から褒められ、ヒーローになれるから、これは美味しい話だねえ。


 キツネ目の男に似ている人と言えば、まず思い浮かぶのが、

 『やめたいひ~との禁煙パイポ♪』のおじさん。





 CMの動画はこちら。


 うまく観られないときはこちら。
http://www.youtube.com/watch?v=-Fj5CcYWPMI

 まず、サラリーマン風おじさん二人が、アルマン社のタバコ型の禁煙グッズ『禁煙パイポ』を手に持って『私はこの禁煙パイポでタバコをやめました』のという台詞のあと、三人目に『私はこれで会社をやめました』とつぶやく情けないおじさんです。

 出演した三人のサラリーマン風おじさんは日本禁煙友愛会のメンバーで、キツネ目のおじさんは、東京都の職員だったそうです。


 あと、キツネ目の男に似ていると言えば、有名なのが『突破者』という著作のある作家の宮崎学氏です。

 事件当時の宮崎学氏。





 宮崎学氏は、ただ単に似顔絵に似ているだけでなく、事件の重要参考人として警察から取り調べを受けました。

 事件の流れはとても複雑で、常に警察の捜査の裏をかき混乱させた犯人グループが、単なる素人の集団であるはずがありません。

 事実、この事件を真似た素人の模倣犯が次々と発生しましたが、これについて警察はいずれも犯人を逮捕しています。

 宮崎氏は企業の内情に詳しく交渉力に長けた総会屋の経験があり、暴力団や総会屋と繋がりがあって、しかもグリコとの揉め事に介入し、犯行現場に土地勘があり、数々の遺留品とも関連があって、かつキツネ目です。

 さらに宮崎氏は、『計画的で大規模な犯行を実行できる緻密な頭脳と胆力を持つ』という犯人像に合致していたのですね。 

 結局、宮崎氏はキツネ目の男が目撃された1984年6月28日には都内の音楽大学の労組会議に出席していたアリバイがあったために逮捕を免れることができました。
 
 以前、宮崎氏がジャーナリストの大谷昭宏氏とテレビに出演しているのを観たことがあります。

 大谷氏は宮崎氏とは早稲田大学の頃からの友人で、これまで宮崎学氏を犯人として徹底取材していて、宮崎氏に対し、「もう時効なんだから、友人の俺には自分がやったと本当のことを話してくれ」と温かいアドバイスというか、エールを送りました。

 それでも宮崎学氏は、『自分は犯人じゃない』って否定していましたけれど・・・。

 アリバイがあって、釈放された宮崎氏を犯人だとする根拠はありません。

 当人は「このネタで仕事が増えたし」とはおっしゃっていましたが・・・。

 現在の宮崎学氏。





 もう一つ、コンビニエンスストアの防犯ビデオに映っていたグリコ・森永犯人というのもありました。





 野球帽を被り、サングラスをかけ、不審な動きをする犯人の姿が公表され、テレビで繰り返し映し出されました。

 問題のビデオ映像はこちらで観ることが出来ます。
http://www.nhk.or.jp/mikaiketsu/list/list01.html

 この映像をテレビで観た作家の筒井康隆氏は、画面を指してこう叫んだそうです。

 「これは絶対に栗本慎一郎だ!」
 
 栗本慎一郎氏は、有名な経済人類学者です。

 当時の栗本慎一郎氏。





 成る程、ビデオを観ると筒井氏が言うように、当時の栗本氏は長髪で、トレードマークのハンチングを野球帽にして、眼鏡をサングラスに替えればシルエットがそっくりで、なおかつ、サングラスを外せば切れ長のキツネ目です。

 これには因縁があって、それより少し前に当時明治大学教授だった栗本慎一郎氏は、SF小説の大家筒井康隆氏が書いた純文学作品の『虚航船団』という小説を「純文学に引き摺られた鬼才筒井康隆氏らしからぬ駄作」と酷評しました。

 というより、「つまらん」と言い切ったのですね。





 筒井康隆氏は余程これに腹を据えかねたらしく、後に批判に対する反論として『虚航船団の逆襲』という本を出版したほどです。





 筒井氏の『栗本慎一郎グリコ・森永犯人説』を伝え聞いて大喜びしたのが、犯人呼ばわりされた当の本人の栗本慎一郎氏。

 栗本氏はさっそく宴会で、野球帽を被り、サングラスをかけてコンビニの陳列棚を物色するポーズで『グリコ・森永犯』のモノマネネタを披露して、大受けしたばかりではなく、グリコ・森永犯の『どくいりきけん たべたらしぬで』を題名に使った『毒入り教授より愛をこめて―愚の眼・鷹の眼』という本さえ出版しました。





 その後栗本慎一郎氏は、国会議員として経済企画庁政務次官に就任するなど活躍し、志半ばで脳梗塞の病に倒れますが、その後懸命なリハビリで今は元気に活躍されています。

 現在の栗本慎一郎氏。





 ちなみに栗本氏は、自転車選手として世界スプリントV10の遺業を達成した中野浩一氏に似ているとも言われています。

 中野浩一氏の写真。





 ということで、今回はグリコ・森永事件にまつわるそっくりさんを御紹介しました。

 そっくりさんについては、今後も記事にしていきますね。






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防衛省市谷ツアーに参加したよ(その14) 【ファイルET55】2011.12.25 

【ファイルET55】2011.12.25 防衛省市谷ツアーに参加したよ(その14)

勲一等瑞宝章正章、御名御璽、千人針、軍票

 防衛省ツアーの市ヶ谷記念館大講堂の記事の続きです。

 その1から読まれる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52534735.html
 
 今村中将(当時)が着用していた勲一等瑞宝章正章と副章です。





 この勲章を着用していた今村 均(いまむら ひとし、1886年6月28日 - 1968年10月4日)閣下は、大日本帝国陸軍の軍人で最終階級は陸軍大将。

 今村閣下は、その人柄や軍人としての能力、軍政は今日でも旧占領国のみならず、敵国であった連合国側からも称えられていた名将でした。

 大東亜戦争開戦に際し、今村閣下は第16軍司令官としてオランダ領東インド(インドネシア)を攻略する蘭印作戦を指揮。

 帝国陸軍の最精鋭空挺部隊である挺進連隊や、一式戦闘機『隼』配備の飛行第64戦隊・飛行第59戦隊の活躍により、パレンバンの油田地帯を制圧(パレンバン空挺作戦)。

 わずか9日間で約9万3千のオランダ軍と約5千のイギリス軍・アメリカ軍・オーストラリア軍を降伏させました。

 その際に今村閣下は、オランダによって流刑とされていたインドネシア独立運動の指導者、スカルノとハッタら政治犯を解放し、資金や物資の援助、諮詢会の設立や現地民の官吏登用等独立を支援する一方で、軍政指導者としてもその能力を発揮し、攻略した石油精製施設を復旧して石油価格をオランダ統治時代の半額としたり、オランダ軍から接収した資産で各所に学校の建設を行い、日本軍兵士の軍規の保持や治安の維持に努めるなど現地住民の慰撫に努めました。

 かつての支配者であったオランダ人についても、民間人は住宅地に住まわせて外出も自由に認め、捕虜となった軍人の待遇を良くするなど寛容な軍政を実施しました。

 また、オランダ統治下で歌うことが禁じられていた独立歌『インドネシア・ラヤ』が、ジャワ島で盛んに歌われていることを知った今村閣下は、東京でそのレコードを作らせて住民に配り喜ばれたといいます。

 その後1942年(昭和17年)11月20日、今村閣下は第8方面軍 (日本軍)司令官としてニューブリテン島に位置するラバウルに着任。

 今村大将以下の第8方面軍は、草鹿中将以下の南東方面艦隊と共に、孤立しながらも奮戦。アメリカの猛攻に耐えながら、終戦までラバウルを確保しました。

 1945年(昭和20年)8月15日、日本が降伏し第二次世界大戦は終結。

 今村閣下は戦争指導者として戦争犯罪者の容疑により軍法会議にかけられます。

 第8方面軍司令官の責任を問われたオーストラリア軍による復讐裁判では、一度は死刑にされかけますが、現地住民などの証言などもあり禁錮10年で判決が確定しました。
 他方、第16軍司令官時代の責任を問うためのオランダ軍による裁判では、無罪とされました。

 その後、今村閣下はオーストラリア軍の禁錮10年の判決により、1949年(昭和24年)に巣鴨拘置所(巣鴨プリズン)に送致。

 しかしながら、今村閣下は「未だに環境の悪い南方で服役をしている元部下たちの事を考えると、自分だけ東京にいることはできない」として、1950年(昭和25年)には自ら多数の日本軍将兵が収容されているマヌス島刑務所への入所を希望し、妻を通してマッカーサーに直訴したといわれています。

 その態度にGHQ司令官のマッカーサーは、「私は今村将軍が旧部下戦犯と共に服役する為、マヌス島行きを希望していると聞き、日本に来て以来初めて真の武士道に触れた思いだった。私はすぐに許可するよう命じた」と言ったといいます。

 その後刑期満了で日本に帰国してからは、東京の自宅の一隅に建てた小屋に蟄居し、軍人恩給だけの質素な生活を続ける傍ら「回顧録」を出版し、その印税はすべて戦死者や戦犯刑死者の遺族の為に用いられました。

 今村閣下は1968年(昭和43年)10月4日死去。享年82歳でした。

 このような名将の存在を、戦前戦中、自らさんざん戦争を煽ったメディアは、徹底的に隠蔽し、日本軍がいかに残虐非道だったかということを口を極めて喧伝します。


 金鵄勲章(きんしくんしょう)の授与を証した賞状です。





 日本国皇帝であられた明治天皇の『睦仁(むつひと)』の御名(ぎょめい)と御璽(ぎょじ)が刻まれています。

 御名御璽(ぎょめいぎょじ)というのは、本来、君主の名前(の署名)及び公印を意味します。

 金鵄勲章はかつて大日本帝国陸軍と大日本帝国海軍の軍人軍属に与えられた日本の勲章です。

 『金鵄(きんし)』という名前の由来は、神武天皇の東征の際に、神武の弓の弭【ゆはず:弓の末端にあって、弦の端をひっかける金具。また、弓の末端部】にとまった黄金色のトビ(鵄)が光り輝き、長髄彦(ながすねひこ)の軍を眩ませ、降参させたという逸話に基づいたものです。

 賞状には金鵄勲章の図案があしらわれていますが、これは印刷じゃなくて手書きなのだそうです。とても細かい仕事でびっくりです。





赤色七宝の旭光の上に金色の霊鵄(れいし)を配し、下に大神宮の盾、矛、剣を配しています。

功級により金鍍金の範囲が異なりますが、ほとんどの等級で意匠は同一で裏面の装飾はありません。

功一級の副章及び功二級の正章のみ、斜めの旭光部分に黄色の七宝が用いられています。

綬(じゅ)は浅葱色(あさぎいろ)と呼ばれる鮮やかな緑色を織地に白の双線が配されています。佩用式(はいようしき)は旭日章(きょくじつしょう)などと変わりませんが、功一級の大綬は日本の勲章では唯一、左肩から右脇に掛けました。


 千人針(せんにんばり)です。





 千人針は、大東亜戦争まで日本でさかんに行われていました。

 出征兵士の武運長久を願うお守りとして、多くの女性が一枚の布に糸を縫い付けて結び目を作ります。

 1メートルほどの長さの白布に、赤い糸で千人の女性に一人一針ずつ縫って結び目をつくってもらうのですが、寅年生まれの女性は特例として自分の年齢だけ結び目を作る事が出来ます。

 これは虎が「千里を行き、千里を帰る」との言い伝えがあるからです。

 同じ理由で、ただ単に縫い目を並べるのではなく、虎の絵を刺繍で描いた例も多く見られるそうです。

 また、穴の開いていない五銭硬貨や十銭硬貨を縫いこむことも行われました。

 これは「五銭」は「死線(しせん=四銭)」を越え、「十銭」は「苦戦(くせん=九銭)」を越えるという事に由来しています。

 他に、神社などの護符を縫いこんだ例もあったようです。

 兵士は、この千人針を銃弾よけのお守りとして腹に巻いたり、帽子に縫いつけたりしました。

 千人針は、日露戦争の頃から、行われるようになりましたが、この頃には「千人結び」や「千人力」などの名でも呼ばれていたそうです。

 その後、支那事変から太平洋戦争にかけて日本全国に普及していく過程で、呼び名も「千人針」で統一されていきました。

 戦時中は、街頭で通行中の女性に縫い取りの協力を求める光景が良く見られたそうです。

 大東亜戦争の後は、日本が戦争を経験しなかったことから、千人針が行われることもなくなりましたが、自衛隊イラク派遣での第4次復興支援群派遣に際しては、出動する自衛隊員に千人針が贈られたことがあったそうです。


 軍用手票(ぐんようしゅひょう)です。





 軍用手票(military currency、military payment certificate)は、戦争時において占領地もしくは勢力下にて軍隊が現地からの物資調達及びその他の支払いのために発行される擬似紙幣(ぎじしへい)です。

 一般的には『軍票(ぐんぴょう)』とよばれます。

 日本が敗戦したので、この軍票は何の価値も無くなってしまいました。うへえ。


 ということで、次に続きますね。







横浜・八景島シーパラダイスのガーさんたち  【ファイルC234】2011.12.22 

【ファイルC234】2011.12.22 横浜・八景島シーパラダイスのガーさんたち

顔が可愛い古代魚だねえ。

 横浜・八景島シーパラダイスの記事もまだまだあります。

 今回はガーさんです。

 こんにちは。





 可愛いお顔だねえ。

 これはアリゲーターガー(アトラクトステウス属)で、アトラクトステウス属としても、ガー目の種としても最大で、成長が早く通常は2m程度、最大で3mにもなります。





 名前の通り、ワニみたいです。

 アリゲーターガーはメキシコ産とミシシッピ産の2タイプが知られていて、後者のほうがより大型化するといわれています。


 スポッテッドガー(レピソステウス属)です。





 観賞魚としては最も一般的なガーで、銀色の体に黒い斑点が目立ちます。


 ロングノーズガー(レピソステウス属)です。





 レピソステウス属では最大で通常は1.4m程度、最大で2mの記録があります。吻は嘴のように、非常に細長く伸びています。


 ガーさんは顎口上綱条鰭綱新鰭亜綱ハレコストーミ類ガー目ガー科(Lepisosteidae)に属する古代魚です。

 ガー科は1科のみで構成され、2属【Atractosteus(アトラクトステウス) 属と、Lepisosteus(レピソステウス)属】7種が記載されています。

 ガーさんは、硬骨魚類および軟骨魚類において現生する目の中では、シーラカンス目、ギンザメ目に次いで早く出現しました。

 ガー目(Semionotiformes目)は古生代ペルム紀後期の地層から最古の化石が見つかっています。

 そして、ガー科に属する種は、白亜紀前期の約1億1000万年前に初めて現れたとされています。

 古代におけるガー目魚類の生息範囲は現代のそれよりもずっと広く、特に中生代白亜紀から新生代始新世にかけては世界の大部分に分布していたとみられていて、日本でも、北九州の白亜紀の地層から化石種が発見されています。

 でも、オーストラリアと南極大陸からは今のところ化石が発見されていません。

 ガーの形態はペルム紀後期からジュラ紀にかけては変化があったものの、白亜紀以降はほとんど変化がありません。

 そのため、シーラカンスやカブトガニのように『生きた化石』と呼ばれています。

 ガーさんは、ペルム紀大絶滅、三畳紀大絶滅と恐竜や首長竜などの爬虫類が絶滅したことで知られる白亜紀大絶滅といった3回の大絶滅を生き延びることができたんだねえ。


 現在、ガーさんのお住まいは北アメリカ東部・中央アメリカおよびキューバで、ケベック州南部に生息するロングノーズガー、コスタリカのトロピカルガーがそれぞれ北限と南限になっています。

 基本的にすべて淡水魚ですが、汽水域でも観察されることがあるほか、キューバガーなど一部の種類は海域にも進出することが知られているそうです。

 ガー類は水草の生い茂る浅場や三日月湖(河跡湖)、バイユーとよばれる湿地帯など、流れの緩やかな静水域に生息することが多く、食性は肉食性で、ある程度まで成長したものは他の魚類や甲殻類を主に捕食します。

 ふ化した仔魚は他の魚と同様に卵黄が付いていて、それが栄養として吸収されつくされるとアカムシ、ボウフラ、ミジンコ、その他の動物プランクトンを食べます。

 稚魚になると水に落ちた昆虫、水生昆虫や小型の甲殻類も食べます。

 水域の生態系では上位捕食者に位置し、特にアリゲーターガーは成魚になれば、ほとんど外敵に襲われる心配がありません。

 でも、ヤツメウナギだけは例外で、鋭い歯による攻撃によって硬いうろこも破られてしまうのです。

 逆にヤツメウナギは皮膚から毒を含む粘液を分泌することで、ガーなどに捕食されることを防いでいます。


 ガー目の仲間は細長い体と、吻(口先)の突出した著しく細長い両顎を持ちます。

 最大でも全長88cmのショートノーズガーを除く6種はいずれも全長が1mを超える記録があり、最大種であるアリゲーターガーは最大で3.05m、体重ではこれよりわずかに小さい個体で137kgの記録があるそうです。

 細長い顎には、針のように鋭い歯が並びます。





 全身がガノイン鱗(うろこ)と呼ばれる堅牢な菱形の鱗で覆われ、側線鱗は50-65枚。





 ガノイン鱗は現生種ではガー目とポリプテルス目・チョウザメ目・アミア目などに共通してみられるもので、原始的な硬骨魚類の特徴の一つです。

 浮き袋には血管網が発達し、肺のように空気呼吸を行うことが可能となっています。

 このため、ガー類が好んで生活する流れの少ない水域は、低酸素状態に陥りやすいにもかかわらず、空気中の酸素を取り入れることで生き続けることができるのです。

 ただその分、逆に鰓(えら)呼吸の機能は空気呼吸ができない魚に比べて劣っていて、鰓呼吸だけでは生存することができません。

 だから、息継ぎに水面に上がってこれなくなると死んじゃうんだねえ。

 また、緩やかに変化するのであれば、pH(水素イオン指数)や水温が高いなどといった他の魚が生きられない悪条件でも生存することができます。

 なんかイルカさんみたいにも見えるねえ。
 




 お鼻が豚さんみたいだよ。





 二人仲良く泳いでいます。





 ガーの仲間は格好良くて可愛いので、観賞魚として人気があって、日本でも個人で飼っている人がいます。

 お口がワニみたいなので、飼いきれなくてその辺の池に捨てる人がいたりすると、『ワニがいる!』って大騒ぎになります。

 生き物を飼うなら最後までちゃんと面倒をみてほしいものだねえ。

 ということで、最後にご挨拶。





 さようなら、元気でね。


 ついでに、突然話は変わるけど、

 安めぐみさんと東ちづるさんの区別が最近まで付いていませんでした。
 東ちづるさんって、いつまでも歳を取らないなって・・・。

 その安めぐみさんが、東MAX(あずまっくす)こと東貴博さんと結婚して、東めぐみさんになるから、東めぐみさんと東ちづるさんで余計に訳が分からなくなりました。

 とほほ。



防衛省市谷ツアーに参加したよ(その13) 【ファイルET54】2011.12.19 

【ファイルET54】2011.12.19 防衛省市谷ツアーに参加したよ(その13)

東京裁判において、日本軍が規律を守り、敵兵・市民に対して仁慈の念をもって接したという証拠資料として提出された戦陣訓

 防衛省ツアーの市ヶ谷記念館大講堂の記事の続きです。

 その1から読まれる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52534735.html

 日本側の弁護人であった清瀬一郎による東京裁判の冒頭陳述書から引用しましょう。
【秘録 東京裁判 清瀬一郎 中公文庫P237より】

 ※  ※  ※

 太平洋戦争中の事件とドイツの行為

 検察官はしばしば太平洋戦争中に起こった事件と、ドイツが欧州戦争中に行った行為とを比較しておられます。ことに太平洋戦争中に発生しましたテロ行為、残虐事件はドイツにおいて行われたものと同一型のものであること、またこれらの行為は偶然に発生した個人的の不正ではなくして、国家の政策として計画せられたものであるとまで極言されております。

 被告弁護人は日本の中央政府並びに統帥部は、戦争の法規慣例は厳重にこれを守ること並びに一般市民並びに敵人といえども、武器を捨てた者には、仁慈の念をもって接すべき旨をきわめて強く希望したことを証明する用意があります。それがために一九四三【ママ:一九四一の誤りか?】年一月には戦陣訓というものがつくられて、兵卒には一人残らずこれを交付いたしました。また海軍ではかねてよりこの点に関する国際法規の徹底には努力いたしました。そして違反者は軍法会議によって裁かれたのであります。前線の指揮官は常にこの点を強調しております。

 ただ戦争の末期にわたりまして本国との交通も途絶し、戦線は分断せられ、その司令官との通信も不能となり、食料は欠乏し、自己の生存は刻々危険となったような場合、または現地人の非道なるゲリラ的妨害を受けたような場合には、非人道的行為が行われたであろうことは認めねばならぬと思います。准士官及び仕官の労務に関しては、必ずその自発的の申し出によって労働に服せしめるということを命じております。

 これらのことについては第一部門において具体的に証明いたします。わが国においては、ドイツにおいて行われたと言われまするユダヤ人等を迫害するというがごとき故意の人道違反を犯したことはかつてありませぬ。この点において、ドイツの戦争犯罪の場合と非常に相違のあることを第一部門において証明されなければなりませぬ。

 ※  ※  ※

 以上、清瀬弁護人は、ドイツにおける戦争と日本のそれの違いを適確に指摘しています。

 ドイツ政府は、ユダヤ人等を迫害しましたが、別にドイツはユダヤ人等と戦争をしていたわけではありません。戦争とは別に計画的な民族浄化政策の一環としてホロコーストを行ったのです。

 日本政府はそのような残虐行為を国家として行っていません。

 ドイツ政府の成した残虐非道な行為を他に捜すなら、それはアメリカの行った広島長崎への原爆投下しか見当たらないでしょう。

前回、戦陣訓の全文を御紹介しましたが、清瀬弁護人の正しいことは一目瞭然です。
 
 戦陣訓の全文はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52859946.html

 まず、序で、

※  ※  ※

夫(そ)れ戦陣は、大命に基き、皇軍の神髄を発揮し、攻むれば必ず取り、戦へば必ず勝ち、遍(あまね)く皇道を宣布し、敵をして仰いで御稜威(みいつ=御威光)の尊厳を感銘せしむる処(ところ)なり。されば戦陣に臨む者は、深く皇国の使命を体し、堅(かた)く皇軍の道義を持し、皇国の威徳を四海に宣揚せんことを期せざるべからず。


※  ※  ※

 皇軍として恥ずかしくない道義を保持するためにこの戦陣訓を作ったと言っているのです。

 また、問題の『生きて虜囚の辱を受けず』のある章を見てみましょう。

※  ※  ※

第八 名を惜しむ

恥を知る者は強し。常に郷党(きょうとう=郷里を同じくする仲間)家門(かもん)の面目(めんぼく)を思ひ、愈々(いよいよ)奮励(ふんれい)して其の期待に答ふべし。生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪禍(ざいか)の汚名を残すこと勿(なか)れ。


※  ※  ※

 この章は、故郷の仲間やご先祖様、一族郎党に恥ずかしくないよう、正々堂々と戦えというのが主旨です。

 ネット上では『生きて虜囚の辱を受けず』と『死して罪禍の汚名を残すこと勿れ』という言葉をつなげて、捕虜にならず死を選べと言っていると、無茶苦茶な解釈をしているものをよく見かけますが、これは、『生きて・・・』と『死して・・・』が対句をなしていて、たとえ死んでも罪過の汚名を残すようなことのないよう、軍規軍律を守れと言っているのです。

 『生きて・・・』の解釈については、前々回説明したとおりです。

 『生きて・・・』の解釈はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52859906.html

 ※  ※  ※

第十 清廉潔白(せいれんけっぱく)

清廉潔白は、武人気質の由(よ)つて立つ所なり。己(おのれ)に克(か)つこと能(あた)はずして物慾に捉(とら)はるる者、争(いか)でか皇国に身命を捧ぐるを得ん。

身を持するに冷厳なれ。事に処するに公正なれ。行ひて俯仰(ふぎょう)天地に愧(は)ぢざるべし。


 ※  ※  ※

 皇軍として恥ずかしくない行動を保持せよと言っているのです。

また、

 ※  ※  ※

本訓 其の三

第一 戦陣の戒

一 一瞬の油断、不測の大事を生ず。常に備へ厳(げん)に警(いまし)めざるべからず。敵及住民を軽侮するを止めよ。小成に安んじて労を厭(いと)ふこと勿れ。不注意も亦災禍(またわざわい)の因(もと)と知るべし。

 (中略)

六 敵産、敵資の保護に留意するを要す。徴発、押収、物資の燼滅(じんめつ)等は規定に従ひ、必ず指揮官の命に依(よ)るべし。

七 皇軍の本義に鑑(かんが)み、仁恕(じんじょ)の心能(よ)く無辜(むこ=罪のないこと)の住民を愛護すべし。

八 戦陣苟(いやしく)も酒色に心奪はれ、又は慾情に駆られて本心を失ひ、皇軍の威信を損じ、奉公の身を過るが如きことあるべからず。深く戒慎(かいしん)し、断じて武人の清節を汚(けが)さざらんことを期すべし。

九 怒を抑へ不満を制すべし。「怒は敵と思へ」と古人も教へたり。一瞬の激情悔(くい)を後日に残すこと多し。 軍法の峻厳(しゅんげん)なるは特に軍人の栄誉を保持し、皇軍の威信を完うせんが為なり。常に出征当時の決意と感激とを想起し、遙かに思を父母妻子の真情に馳せ、仮初(かりそめ)にも身を罪科に曝(さら)すこと勿れ。


第二 戦陣の嗜(たしなみ)

(前略)

四 刀を魂とし馬を宝と為せる古武士の嗜を心とし、戦陣の間常に兵器資材を尊重し、馬匹(ばひつ)を愛護せよ。

五 陣中の徳義は戦力の因なり。常に他隊の便益を思ひ、宿舎、物資の独占の如きは慎むべし。「立つ鳥跡(あと)を濁(にご)さず」と言へり。雄々(おお)しく床(ゆか)しき皇軍の名を、異郷辺土(いきょうへんど)にも永く伝へられたきものなり。

六 総じて武勲を誇らず、功を人に譲るは武人の高風とする所なり。 他の栄達を嫉(そね)まず己の認められざるを恨まず、省みて我が誠の足らざるを思ふべし。

七 諸事正直を旨とし、誇張虚言を恥とせよ。

八 常に大国民たるの襟度(きんど=度量)を持し、正を践(ふ)み義を貫(つらぬ)きて皇国の威風を世界に宣揚(せんよう)すべし。国際の儀礼亦(また)軽(かろ)んずべからず。

九 万死に一生を得て帰還の大命に浴することあらば、具(つぶさ)に思を護国の英霊に致し、言行を慎みて国民の範となり、愈々奉公の覚悟を固くすべし。


※  ※  ※

 どうです?

 『敵及住民を軽侮するを止めよ』と戒め、『敵産、敵資の保護に留意するを要す。徴発、押収、物資の燼滅(じんめつ)等は規定に従ひ、必ず指揮官の命に依(よ)るべし』と軍規により律し、『皇軍の本義に鑑(かんが)み、仁恕(じんじょ)の心能(よ)く無辜(むこ=罪のないこと)の住民を愛護すべし』と非戦闘員である住民の愛護を求めているのです。

 また、『馬匹(ばひつ)を愛護せよ』と軍馬を愛するように命じています。こんなきめ細かい軍規は他国にあるのでしょうか?

 さらに、最後の『万死に一生を得て帰還の大命に浴することあらば、具(つぶさ)に思を護国の英霊に致し、言行を慎みて国民の範となり、愈々奉公の覚悟を固くすべし』というように、生き延びた人が戦死した人の英霊を祀るという約束をしているのです。

日本政府や国民が靖國神社で戦死された方々の英霊を祀るのは、『戦陣訓』にも記された彼等との重大な約束であり、必ず履行されなければならない義務なのです。



それにしても、東京裁判において、日本側が戦争の法規慣例を厳重に守ることを命じていて、決して組織的に敵や捕虜に対して残虐行為を行ったわけではないという『証拠』として提出した『戦陣訓』を、日本軍が兵の命を粗末にしたという言いがかりに利用している人達は何を考えているんでしょう?


 私にはさっぱり理解できません。

 ということで、次に続きますね。







横浜市立金沢動物園のスーチョワンバーラルさんだよ 【ファイルC233】2011.12.15 

【ファイルC233】2011.12.15 横浜市立金沢動物園のスーチョワンバーラルさんだよ

スパーリングをしているねえ。

 ここ横浜市立金沢動物園の記事はまだまだあります。

 今回はスーチョワンバーラルさんです。

 スーチョワンバーラルさんは、オスとメス交代でお庭に出てきます。
 
 メスの群れに、この頃生まれた赤ちゃんもいたので、メスの方が見たかったのですが・・・。





 これからずいぶんと日が経っているので、この子もすっかり大きくなっているのでしょうね。

 この日は残念ながらオスがお庭に出ていました。

 でも、オスは角が立派でカッコイイねえ。





 それにしても、ここのお庭は急峻な斜面というか崖みたいです。





 それもそのはず。

 バーラルさん達のお住まいは、ネパールからカシミール、中華人民共和国、モンゴルにかけての標高3,500~5,000mの山岳地帯なのです。

 空気が薄いところで生活して大変だねえ。

 草の生えた斜面を好んで生活し、危険が迫るとその跳躍力を生かして急峻な崖を登って逃げるのです。

 ここ横浜市立金沢動物園のバーラルさんは中華人民共和国の四川(スーチョワン)からやって来たのでスーチョワンバーラルさんなのです。

 バーラルさんは偶蹄目ウシ科さんです。英 名はBharal, Blue Sheepで学 名Pseudois nayaur。

 ヒツジとヤギの両方の肉体的特質を持ち、分類学的には「ヒツジに似たヤギの変わり者」とされているんだって。

 体 長130~200cm、尾 長13~20cm体 重55~73kg。
 
 体色は青みを帯びた灰色や、茶色を帯びた灰色で、腹部は白です。

 境目が黒く、雌雄ともに角があります。

 でも、オスの角は重そうだねえ。





 闘牛の牛さんみたいに前足で地面をかきならしています。





 それで、いきなりスパーリングを始めました。





 例えば、シマウマさんやキリンさんもオスは若い頃から格闘の練習をして、成長したら、メスを巡って戦いますから、バーラルさんも同じなんでしょうね。

 角と角がガツガツ当たって、まるで木刀同士を打ち付けるような大きな音がします。

 よほど首が丈夫なんだねえ。





 斜面だと戦いにくいでしょうに。

 にらみ合うバーラルさん。





 凄い迫力です。





 バーラルさんたちは夏期には10~50頭程の群れをつくりますが、餌の少なくなる秋になると、1頭の雄を中心とした少数の群れになるそうです。

 だから、群れのボスになるオスは強くなければいけないのですね。
 
 通常は1産2子で、寿命は20年程度です。

 形勢が不利になると、ひょいと身をかわします。





 凄い運動神経だねえ。

 再度挑みます。





 それにしても、上にいる方が戦いには有利だと思うのですが。

 こっちの人は、のんびりとストレッチをしています。
 




 ということで、練習試合はしますが、みんな仲良し。





 ということで、今回はスーチョワンバーラルさんでした。

 さようなら、元気でね。






11年ぶりの皆既月蝕(月食)だよ。 【ファイルSI 02】 2011.12.11 

【ファイルSI 02】 2011.12.11 11年ぶりの皆既月蝕(月食)だよ。

壮大な天体ショーだねえ

 もう昨日のことになりますが、2011年12月10日の深夜に200年7月16日以来11年ぶりに日本全国で皆既月蝕を見ることができました。

 次の皆既月食は世界全体で考えても2014年まで起こらないそうです。

 今回は晴れて、見ることが出来て良かった良かった。

 写真を撮ったので御紹介しますね。

 見られなかった人は、当ブログの写真を楽しんで下さいね。

 この日は、午後9時45分から満月が欠け始め、午後11時5分に皆既状態になりました。

  地球が太陽と月の間に入り、地球の影が月にかかることによって月蝕は起きます。

 


 

 地球の影って大きいんだねえ。

 太陽から地球までの距離は、約1億5千万キロメートルで、地球と月の距離は約38万4,400 kmです。遠いねえ。

 だんだん、影が大きくなって、

 


 

 もう少し!

 


 

 月がすっぽり地球の影に隠れ皆既月蝕になりました。

 


 

 露光を上げると、月が赤く見えるね。

 


 

 ということで、皆既月食でした。

 月が真上近くに上がって、三脚で月をとらえるのが大変だったよ。

 寒かったよお!これからお風呂に入るよお。







防衛省市谷ツアーに参加したよ(その12) 【ファイルET53】2011.12.10 

【ファイルET53】2011.12.10 防衛省市谷ツアーに参加したよ(その12)

戦陣訓の全文(下)

【戦陣訓全文の続きです】

 戦陣訓の全文(上)はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52859946.html

 ※  ※  ※

本訓 其(そ)の二

第一 敬神

 神霊上に在りて照覧し給ふ。
 心を正し身を修め篤(あつ)く敬神の誠を捧げ、常に忠孝を心に念じ、仰いで神明の加護に恥ぢざるべし。

第二 孝道

 忠孝一本は我が国道義の精粋にして、忠誠の士は又必ず純情の孝子なり。
 戦陣深く父母の志を体して、克く尽忠の大義に徹し、以て祖先の遺風を顕彰(けんしょう)せんことを期すべし。

第三 敬礼挙措

 敬礼は至純の服従心の発露にして、又上下一致の表現なり。戦陣の間特に厳正なる敬礼を行はざるべからず。
 礼節の精神内に充溢し、挙措(きょそ=ふだんの動作や態度)謹厳にして端正(たんせい)なるは強き武人たるの証左なり。

第四 戦友道

 戦友の道義は、大義の下死生相結び、互に信頼の至情を致し、常に切磋琢磨(せっさたくま)し、緩急相救ひ、非違(ひい)相戒めて、倶に軍人の本分を完うするに在り。

第五 率先躬行(そっせんきゅうこう)

 幹部は熱誠以て百行の範たるべし。上正しからざれば下必ず紊(みだ)る。
 戦陣は実行を尚(とうと)ぶ。躬(みずから)を以(もっ)て衆に先んじ毅然(きぜん)として行ふべし。

第六 責任

 任務は神聖なり。責任は極めて重し。一業一務忽(ゆるが)せにせず、心魂を傾注して一切の手段を尽くし、之が達成に遺憾なきを期すべし。
 責任を重んずる者、是真に戦場に於ける最大の勇者なり。

第七 生死観

 死生を貫(つらぬ)くものは崇高なる献身奉公の精神なり。
 生死を超越し一意任務の完遂(かんすい)に邁進(まいしん)すべし。身心一切の力を尽くし、従容(しょうよう)として悠久(ゆうきゅう)の大義に生くることを悦(よろこ)びとすべし。

第八 名を惜しむ

 恥を知る者は強し。常に郷党(きょうとう=郷里を同じくする仲間)家門(かもん)の面目(めんぼく)を思ひ、愈々(いよいよ)奮励(ふんれい)して其の期待に答ふべし。生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪禍(ざいか)の汚名を残すこと勿(なか)れ。

第九 質実剛健

 質実以て陣中の起居を律し、剛健なる士風を作興し、旺盛なる士気を振起すべし。
 陣中の生活は簡素ならざるべからず。不自由は常なるを思ひ、毎事節約に努むべし。奢侈(しゃし)は勇猛の精神を蝕(むしば)むものなり。

第十 清廉潔白(せいれんけっぱく)

 清廉潔白は、武人気質の由(よ)つて立つ所なり。己(おのれ)に克(か)つこと能(あた)はずして物慾に捉(とら)はるる者、争(いか)でか皇国に身命を捧ぐるを得ん。
 身を持するに冷厳なれ。事に処するに公正なれ。行ひて俯仰(ふぎょう)天地に愧(は)ぢざるべし。

本訓 其の三

第一 戦陣の戒


一 一瞬の油断、不測の大事を生ず。常に備へ厳(げん)に警(いまし)めざるべからず。
  敵及住民を軽侮するを止めよ。小成に安んじて労を厭(いと)ふこと勿れ。不注意も亦災禍(またわざわい)の因(もと)と知るべし。

二 軍機を守るに細心なれ。諜者(ちょうじゃ=スパイ)は常に身辺に在り。

三 哨務(しょうむ=見張りの任務)は重大なり。一軍の安危を担(にな)ひ、一隊の軍紀を代表す。宜しく身を以て其の重きに任じ、厳粛に之を服行すべし。哨兵の身分は又深く之を尊重せざるべからず。

四 思想戦は、現代戦の重要なる一面なり。皇国に対する不動の信念を以て、敵の宣伝欺瞞(ぎまん)を破摧(はさい=粉々に砕く)するのみならず、進んで皇道の宣布に勉むべし。

五 流言蜚語(りゅうげんひご)は信念の弱きに生ず。惑(まど)ふこと勿(なか)れ、動ずること勿れ。皇軍の実力を確信し、篤(あつ)く上官を信頼すべし。

六 敵産、敵資の保護に留意するを要す。徴発、押収、物資の燼滅(じんめつ)等は規定に従ひ、必ず指揮官の命に依(よ)るべし。

七 皇軍の本義に鑑(かんが)み、仁恕(じんじょ)の心能(よ)く無辜(むこ=罪のないこと)の住民を愛護すべし。

八 戦陣苟(いやしく)も酒色に心奪はれ、又は慾情に駆られて本心を失ひ、皇軍の威信を損じ、奉公の身を過るが如きことあるべからず。深く戒慎(かいしん)し、断じて武人の清節を汚(けが)さざらんことを期すべし。

九 怒を抑へ不満を制すべし。「怒は敵と思へ」と古人も教へたり。一瞬の激情悔(くい)を後日に残すこと多し。
  軍法の峻厳(しゅんげん)なるは特に軍人の栄誉を保持し、皇軍の威信を完うせんが為なり。常に出征当時の決意と感激とを想起し、遙かに思を父母妻子の真情に馳せ、仮初(かりそめ)にも身を罪科に曝(さら)すこと勿れ。


第二 戦陣の嗜(たしなみ)


一 尚武(しょうぶ)の伝統に培(つちか)ひ、武徳の涵養(かんよう)、技能の練磨に勉むべし。「毎事退屈する勿れ」とは古き武将の言葉にも見えたり。

二 後顧(こうこ)の憂(うれい)を絶ちて只管(ひたすら)奉公の道に励み、常に身辺を整へて死後を清くするの嗜(たしなみ)を肝要とす。
  屍(しかばね)を戦野に曝(さら)すは固(もと)より軍人の覚悟なり。縦(たと)ひ遺骨の還らざることあるも、敢(あえ)て意とせざる様予(かね)て家人に含め置くべし。

三 戦陣病魔に斃(たお)るるは遺憾(いかん)の極(きわみ)なり。特に衛生を重んじ、己の不節制に因り奉公に支障を来(きた)すが如きことあるべからず。

四 刀を魂とし馬を宝と為せる古武士の嗜を心とし、戦陣の間常に兵器資材を尊重し、馬匹(ばひつ)を愛護せよ。

五 陣中の徳義は戦力の因なり。常に他隊の便益を思ひ、宿舎、物資の独占の如きは慎むべし。
  「立つ鳥跡(あと)を濁(にご)さず」と言へり。雄々(おお)しく床(ゆか)しき皇軍の名を、異郷辺土(いきょうへんど)にも永く伝へられたきものなり。

六 総じて武勲を誇らず、功を人に譲るは武人の高風とする所なり。
  他の栄達を嫉(そね)まず己の認められざるを恨まず、省みて我が誠の足らざるを思ふべし。

七 諸事正直を旨とし、誇張虚言を恥とせよ。

八 常に大国民たるの襟度(きんど=度量)を持し、正を践(ふ)み義を貫(つらぬ)きて皇国の威風を世界に宣揚(せんよう)すべし。
  国際の儀礼亦(また)軽(かろ)んずべからず。

九 万死に一生を得て帰還の大命に浴することあらば、具(つぶさ)に思を護国の英霊に致し、言行を慎みて国民の範となり、愈々奉公の覚悟を固くすべし。



 以上述ぶる所は、悉(ことごと)く勅諭(ちょくゆ)に発し、又之に帰するものなり。されば之を戦陣道義の実践に資(し)し、以て聖諭服行の完璧を期せざるべからず。

 戦陣の将兵、須(すべから)く此(この)趣旨を体し、愈々(いよいよ)奉公の至誠を擢(ぬき)んで、克(よ)く軍人の本分を完(まっと)うして、皇恩の渥(あつ)きに答へ奉(たてまつ)るべし。


                                                    (陸軍省、昭和一六年一月)

※  ※  ※


なお、()内のふりがな注は私が付記したものです。昔の人は漢文の素養があったので、こういう文語体の文章を読み書きできたのですね。

防衛省市谷ツアーに参加したよ(その11) 【ファイルET52】2011.12.10 

【ファイルET52】2011.12.10 防衛省市谷ツアーに参加したよ(その11)

戦陣訓の全文(上)

 防衛省ツアーの市ヶ谷記念館大講堂の記事の続きです。

 その1から読まれる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52534735.html

前回は、『戦陣訓』の『生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず』という言葉の背景について説明しました。

前回はこちら。
今回は、戦陣訓の全文をここに御紹介します。

※  ※  ※

戦陣訓


 夫(そ)れ戦陣は、大命に基き、皇軍の神髄を発揮し、攻むれば必ず取り、戦へば必ず勝ち、遍(あまね)く皇道を宣布し、敵をして仰いで御稜威(みいつ=御威光)の尊厳を感銘せしむる処(ところ)なり。されば戦陣に臨む者は、深く皇国の使命を体し、堅(かた)く皇軍の道義を持し、皇国の威徳を四海に宣揚せんことを期せざるべからず。
 
惟(おも)ふに軍人精神の根本義は、畏(かしこ)くも軍人に賜(たま)はりたる勅諭に炳乎(へいこ=光り輝くさま)として明かなり。而(しこう)して戦闘竝(ならび)に練習等に関し準拠すべき要綱は、又典令の綱領に教示せられたり。然るに戦陣の環境たる、兎(と)もすれば眼前の事象に促(とら)はれて大本を逸(いっ)し、時に其の行動軍人の本分に戻るが如(ごと)きことなしとせず。深く慎まざるべけんや。乃ち既往(きおう)の経験に鑑(かんが)み、常に戦陣に於(おい)て勅諭(ちょくゆ)を仰(あお)ぎて之が服行(ふっこう)の完璧を期せむが為、具体的行動の憑拠(ひょうきょ=よりどころ)を示し、以て皇軍道義の昂揚(こうよう)を図らんとす。是(これ)戦陣訓の本旨(ほんし)とする所なり。

本訓 其の一

第一 皇国

 大日本は皇国なり。万世一系の天皇上に在(いま)しまし、肇国(ちょうこく=新しく国家をたてること)の皇謨(こうぼ= 天皇が国家を統治する計画)を紹継(しょうけい)して無窮(むきゅう=果てることなく続くさま)に君臨し給ふ。皇恩万民に遍(あまね)く、聖徳八紘(はっこう=世界)に光被(こうひ= 光が広く行きわたること)す。臣民亦(また)忠孝勇武祖孫相承(あいう)け、皇国の道義を宣揚して天業を翼賛(よくさん)し奉り、君民一体以て克(よ)く国運の隆昌(りゅうしょう)を致せり。
 戦陣の将兵、宜(よろ)しく我が国体の本義を体得し、牢固不抜(ろうこふばつ)の信念を堅持し、誓つて皇国守護の大任を完遂(かんすい)せんことを期すべし。

第二 皇軍

 軍は天皇統帥(とうすい)の下、神武の精神を体現し、以て皇国の威徳を顕揚(けんよう)し皇運の扶翼(ふよく=助けること)に任ず。常に大御心(おおみごころ)を奉じ、正にして武、武にして仁、克(よ)く世界の大和を現(げん)ずるもの是(これ)神武の精神なり。武は厳(おごそか)なるべし仁は遍(あまね)きを要す。苟(いやしく)も皇軍に抗する敵あらば、烈々(れつれつ)たる武威を振ひ断乎(だんこ)之を撃砕すべし。仮令(たとえ)峻厳の威克(よ)く敵を屈服せしむとも、服するは撃たず従ふは慈(いつく)しむの徳に欠くるあらば、未(いま)だ以(もっ)て全(まった)しとは言ひ難し。武は驕(おご)らず仁は飾らず、自ら溢(あふ)るるを以て尊しとなす。皇軍の本領は恩威並び行はれ、遍(あまね)く御綾威(みいつ)を仰がしむるに在り。

第三 皇紀

 皇軍軍紀の神髄は、畏(かしこ)くも大元帥陛下に対し奉る絶対随順(ずいじゅん)の崇高(すうこう)なる精神に存す。
 上下斉(ひと)しく統帥の尊厳なる所以(ゆえん)を感銘し、上は大意の承行を謹厳にし、下は謹(つつし)んで服従の至誠(しせい)を致(いた)すべし。尽忠(じんちゅう)の赤誠(せきせい)相結(あいむす)び、脈絡一貫(みゃくらくいっかん)、全軍一令の下に寸毫紊(すんごうみだ)るるなきは、是戦捷必須の要件にして、又実に治安確保の要道たり。
 特に戦陣は、服従の精神実践の極致を発揮すべき処(ところ)とす。死生困苦の間に処し、命令一下欣然(めいれいいっかきんぜん)として死地に投じ、黙々として献身服行の実を挙ぐるもの、実に我が軍人精神の精華なり。

第四 団結

 軍は、畏くも大元帥陛下を頭首と仰ぎ奉る。渥(あつ)き聖慮を体し、忠誠の至情に和し、挙軍一心一体の実を致(いた)さざるべからず。 軍隊は統率(とうそつ)の本義に則(のっと)り、隊長を核心とし、鞏固(きょうこ)にして而(しか)も和気藹々(わきあいあい)たる団結を固成(こせい)すべし。上下各々其の分を厳守し、常に隊長の意図に従ひ、誠心(まごころ)を他の腹中に置き、生死利害を超越して、全体の為己(おのれ)を没するの覚悟なかるべからず。

第五 協同

 諸兵心を一にし、己の任務に邁進(まいしん)すると共に、全軍戦捷(せんしょう=戦争に勝つこと)の為欣然(きんぜん)として没我協力の精神を発揮すべし。
 各隊は互に其の任務を重んじ、名誉を尊び、相信じ相援(たす)け、自ら進んで苦難に就(つ)き、戮力協心(りくりょくきょうしん=心も力も一つに合わせるということ)相携(あいたずさ)へて目的達成の為力闘せざるべからず。

第六 攻撃精神

 凡(およ)そ戦闘は勇猛果敢、常に攻撃精神を以て一貫すべし。
 攻撃に方(あた)りては果断積極機先を制し、剛毅(ごうき)不屈、敵を粉砕せずんば已(や)まざるべし。防禦(ぼうぎょ)又克(よ)く攻勢の鋭気を包蔵し、必ず主動の地位を確保せよ。陣地は死すとも敵に委(い)すること勿れ。追撃は断々乎として飽く迄(まで)も徹底的なるべし。
 勇往邁進(ゆうおうまいしん=いさましく進んでゆくこと)百事懼(おそ)れず、沈著大胆難局に処し、堅忍不抜(けんにんふばつ=我慢強くて,心を動かさないこと)困苦に克ち、有(あら)ゆる障碍(しょうがい)を突破して一意勝利の獲得に邁進すべし。

第七 必勝の信念

 信は力なり。自ら信じ毅然(きぜん)として戦ふ者常に克(よ)く勝者たり。
 必勝の信念は千磨必死の訓練に生ず。須(すべから)く寸暇(すんか)を惜しみ肝胆(かんたん)を砕き、必ず敵に勝つの実力を涵養(かんよう=ゆっくり養い育てること)すべし。
 勝敗は皇国の隆替(りゅうたい)に関す。光輝ある軍の歴史に鑑(かんが)み、百戦百勝の伝統に対する己の責務を銘肝(めいかん)し、勝たずば断じて已むべからず。

 ※  ※  ※

防衛省市谷ツアーに参加したよ(その10) 【ファイルET51】2011.12.10 

【ファイルET51】2011.12.10 防衛省市谷ツアーに参加したよ(その10)

『戦陣訓』の『生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず』という言葉の背景について

 防衛省ツアーの市ヶ谷記念館大講堂の記事の続きです。

 その1から読まれる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52534735.html
 
 市ヶ谷記念館大講堂には、大東亜戦争や東京裁判にまつわる品が展示されています。

 戦陣訓です。





 これは支那事変の長期化で、軍紀が動揺し始めた昭和16年(1941)1月8日、東条英機陸相が「軍人勅諭」の実践を目的に公布した具体的な行動規範を示すために作ったものです。

 メディアはしきりにこの『戦陣訓』を貶(おとし)めます。

 特にここに書かれた

 『第八 名を惜しむ』で『生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず』

 という訓示は、これだけがことさら取り出され、やれ、だから日本兵は捕虜にもならずに命を粗末にし、玉砕するまで戦ったのだの、これがあるから、捕虜に対する残虐行為をしたのだの。

 先日のNHKの番組でも『戦陣訓』のせいで多くの兵士が無駄死にしたという偏向番組を放送していました。

 これは事実と異なること甚だしいのです。

 まず、東条英機氏が東京裁判で俘虜(捕虜)についての考えを述べていますので、これについて見てみましょう。

 【東条英機 歴史の証言 ―東京裁判宣誓供述書を読み解く― 渡辺昇一 祥伝社文庫P418より】

 ※  ※  ※

132、  次に寿府(ジュネーブ)条約に関し一言いたします。日本は寿府条約を批准(ひじゅん)しませんでした。なお又、事実に於て日本人の俘虜に対する観念は欧米人のそれと異なって居ります。

なお衣食住その他風俗習慣を著しく異にする関係と今次戦役に於いて各種民族を含む広大なる地域に多数の俘虜を得たることと各種の物資不足と相待ちまして、寿府条約を其儘(そのまま)適用することは我国としては不可能でありました。

日本に於ける俘虜に関する観念と欧米とのそれとが異なるというのは次のようなことであります。日本に於ては古来俘虜となるということを大なる恥辱(ちじょく)と考え戦闘員は俘虜となるよりは寧(むし)ろ死を択(えら)べと教えられて来たのであります。

これがため寿府条約を批准することは俘虜となることを奨励する如き誤解を生じ上記の伝統と矛盾するがあると考えられました。そうして此の理由は今次戦争の開始に当たっても解消いたして居りません。

寿府条約に関する件は外務省よりの照会に対し、陸軍省は諸条約の遵守を声明し得ざるも俘虜待遇上之に準じ措置することに異存なき旨回答しました。

外務大臣は一九四二年(昭和十七年)一月瑞西(スイス)及【アルゼンチン】公使を通じ我国は之を「準用」する旨を声明したのであります。

此の準用という言葉の意味は帝国政府に於ては自国の国内法規及現実の事態に即応するように寿府条約に定むるところに必要なる修正を加えて適用するという趣旨でありました。

米国政府の抗議に対する一九四四年(昭和一九年)四月二十八日付帝国政府の書類に其(その)旨を明らかにして居ります。陸軍に於いても全く右の趣旨の通りに考え実際上の処理を致しました。

俘虜取扱規則其他の諸規則も此(この)趣旨に違反するものではありません。

※  ※  ※

 日本では俘虜になることは恥で、欧米では恥ではないのですね。

 近代国家の概念と共に国民が軍隊に入り祖国のために徴兵制ができるまで、つまりフランス革命、ナポレオン以前の欧州の軍隊は基本的に王にお金で雇われた傭兵(ようへい)でした。

 祖国防衛のために武器を持って戦う兵隊じゃなくて、お金で雇われた兵隊さんが無益に死ぬようなことはしないので、負けそうになったら直ぐに降伏するわけなのですね。

 その伝統が西洋には残っているんじゃないでしょうか。

その文化の相違は、例えば、『バターン死の行進』の時に顕著に表れました。


 昭和17(1942)年1月2日に日本軍はマニラの無血占領に成功し、日本軍はコレヒドール要塞を攻撃。3月12日、マッカーサーはコレヒドール島を脱出しました。

 東京裁判はこの時のマッカーサーの屈辱の報復として行われたのです。

 4月9日、日本軍はバターン半島を死者130名、負傷者6808名を出して占領したのですが、

降伏したエドワード・P・キング少将率いるバターン半島の米比軍は、約7万6千名もの多数が捕虜となりました。日本側の兵力が2万5千名に過ぎなかったにも拘わらず!


この場合、日本軍の3倍以上の捕虜をどうしろって言うんですか?自分たちの食料さえ十分じゃなかった日本軍が。


 日本軍はそれでも一生懸命米比軍捕虜に気を遣って取り扱いました。

 米兵達は降伏した時点で既に激しく疲弊していた上に、日米ともにコレヒドールではマラリアやその他にもデング熱や赤痢が蔓延しており、米比軍のバターン半島守備隊の食料は降伏時には尽きていたため日本軍も捕虜にまわす食料の余裕はありませんでした。

 その中で、トラックがろくに無い状態での収容所までの移送です。捕虜だけでなく、殆どの日本兵も徒歩だったのです。

 さらに炎天下で行進が行われたために、約60Kmの道のりで多くの捕虜が倒れました。このときの死亡者の多くはマラリア感染者とも言われています。

 戦後のマニラ軍事裁判等において、本間中将や捕虜移送の責任者であった第14軍兵站監河根良賢少将は死の行進の責任者として有罪の判決が下り処刑されました。

?H1>とにかく日本軍は俘虜の取り扱いに関するジュネーブ条約について『寿府条約に関する件は外務省よりの照会に対し、陸軍省は諸条約の遵守を声明し得ざるも俘虜待遇上之に準じ措置することに異存なき旨回答し』ているのです。 
 それから、もう一つ留意すべき事実があります。

 日本軍がいくら降参しても、それを無視して虐殺したアメリカ軍の残虐非道は、リンドバーグの日記の記事でご紹介しましたね。


 このように、アメリカ軍は最初から日本兵を俘虜にする気などはさらさら無く無差別に射殺していたのです。


 それから、前掲書により、日本が俘虜になるなと命令した理由を、前掲書における渡辺昇一氏の解説から引用しましょう。

 【東条英機 歴史の証言 ―東京裁判宣誓供述書を読み解く― 渡辺昇一 祥伝社文庫P417より】

 ※  ※  ※

 陸軍は俘虜の取扱いに関して、虐待や強制労働を課すべからずという命令を出していますし、労働規則についても、取り決めています。帝国軍人の心得を諭した戦陣訓も渡しています。陸軍は監督者として、俘虜の取扱いについてそこまで気をつかっていたのです。

?H1>ここに出てくる戦陣訓ですが、この中には日本の軍人が俘虜になることを禁止している条項があります。日清戦争のときも山縣有朋が、俘虜になるなということを言っています。何故かというと、シナ人の俘虜になった日本人は、実に残虐な殺され方をしていることがわかったからです。ずっと時代が下って支那事変でも、俘虜になった兵士は、あとで発見すると、見るに見かねるほどの残虐な殺され方をしていました。そのため陸軍では戦陣訓で「俘虜になるな」ということを命令したわけです。

?H1>日露戦争のときはお互いに文明国でしたから、俘虜虐待については問題になりませんでした。ロシア側も日本の俘虜をきちんと扱いましたし、日本も同様でした。第一次大戦のときもドイツ人が多数、日本の俘虜となりましたが、一つも問題もなく、その待遇はむしろ世界のお手本となりました。

?H1>日清戦争と支那事変においては、日本の俘虜がきわめて残虐な殺され方をしたので、戦陣訓の中でも「俘虜になるな」ということを強く戒めているわけです。

 ※  ※  ※

 支那人の残虐非道さは、中華人民共和国での、文化大革命、天安門事件、チベット解放運動、東トルキスタン独立運動における虐殺・大弾圧を見るにつけ、現代に至るまで継承されていることが分かります。

 東京裁判における東条英機氏の証言にある

 『なお衣食住その他風俗習慣を著しく異にする関係と今次戦役に於いて各種民族を含む広大なる地域に多数の俘虜を得たることと各種の物資不足と相待ちまして、寿府条約を其儘(そのまま)適用することは我国としては不可能でありました』

というのは、法律の観念が皆無で残虐非道な支那文化のことも念頭にあったのです。

 支那民族の黒を白と言いくるめる恥知らずな外交姿勢は、端なくも尖閣での海上保安庁護衛艦に対する漁船(工作船)体当たりの時の中華人民共和国政府及び船長(工作員)の対応を見ても明白です。

 あのとき中華人民共和国は、日本の売国的民主党政権の卑劣なビデオ隠蔽に勢いづき、あれは日本の妄言だと言い張ってレアアースの禁輸だの、挙げ句の果てにフジタの日本人社員を死刑の可能性があるスパイだと人質にとって日本を脅迫したのです。


 そういった明白な民族性に関する問題を見てもなお、日本軍は善良な支那人に残虐非道な侵略をしたなどとどうして言えるのでしょう?

 私には理解できません。

 次に、『戦陣訓』の全文を御紹介しますね。

 『戦陣訓』の全文はこちら。

北半球に住んでいた元祖ペンギンの『オオウミガラス』さんと、大昔日本にも住んでいた巨大ペンギンの『プロトプテルム』さんだよ 【ファイルC232】2011.12.06 

【ファイルC232】2011.12.06 北半球に住んでいた元祖ペンギンの『オオウミガラス』さんと、大昔日本にも住んでいた巨大ペンギンの『プロトプテルム』さんだよ

大きくてびっくりだねえ。

前回も書いたとおり、北半球には基本的には野生のペンギンさんはいません。

 前回の記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52797193.html

前回ご紹介したウミガラスさんは空を飛べるのですが、かつて北半球には、『オオウミガラス』さんという空を飛べないウミスズメ類の種がいました。






 【オオウミガラスの剥製 画像:wikipediaより】

 オオウミガラスさんは、体長:約80cm 体重:約5kg

 ニューファンドランド、グリーンランド、アイスランド、イギリスなどの北大西洋の北極圏周辺にお住まいでしたが、1844年6月3日に絶滅しました。

 
 オオウミガラスさんは、陸上では「ヨチヨチ」としか歩けませんが、水中では翼を使って巧みに泳ぎ、魚やイカなどを捕食するという、現生ペンギン同様の形態と生態を備えていました。

 何を隠そう、このウミスズメ類の『オオウミガラス』がペンギンの語源なのだという説があるそうです。

 その説によると、オオウミガラスは頭部に白い斑点を持つことから、もともと古代ケルト語で「白い頭」を意味する「Pen-gwyn」と呼ばれていたのですが、後に太った鳥であるという事から、ラテン語で「脂肪」を意味する「Pinguin」と呼ばれるようになったのだそうです。

 だから、オオウミガラスさんは「ペンギン」と呼ばれていたのですね。

 ヨーロッパ社会でのオオウミガラスの発見は、1534年。

 一方、南半球に分布する現生ペンギンが認識されたのは1758年にカール・フォン・リンネが記載したケープペンギンや、キャプテン・クックの大航海に同行したヨハン・フォースターが1781年に記載したジェンツーペンギンやコビトペンギン(別名フェアリーペンギン、コガタペンギン)等で、オオウミガラスの方がこれら現生ペンギンより200年以上も早く知られていたのです。

 ですから、もともと「ペンギン」と呼ばれていたのは、このオオウミガラスで、後から発見された現生ペンギン類はオオウミガラスと同種の鳥だと見なされたため、現生ペンギン類の事も「ペンギン」と呼ばれるようになったのですね。

 そのオオウミガラスが絶滅したのは1844年6月3日。

 元々は数百万羽いたとされるオオウミガラスですが、乱獲によりその生息域が1820年頃にはアイスランド沖の「ウミガラス岩礁」と呼ばれる小島にのみになってしまいました。

 それでもなお乱獲が続けられた上に、1830年には火山の噴火により小島が沈没。「エルディ」と呼ばれる岩礁に運よく逃れた50羽ほどが、最期のオオウミガラスの群れとなります。
 
 残った50羽ほどには「希少種」という事から、博物館などが標本とする為の捕獲を要請。

 オオウミガラスの値段は高騰し、金銭目的の為に残った50羽ほどが次々に殺され、最後に標本として殺された個体を最後についに絶滅するに至りました。


それより大昔には北半球に、それも日本にもペンギンさんがいたんだよ!その名も和名『ペンギンモドキ』の『プロトプテルム』さん。






【コペプテリクス(プロトプテルム科)Copepteryx(Plotopteridae)の想像図 画像:wikipediaより】

 時は第三紀漸新世(約3540万年前~2330万年前)。鳥類のペリカン目プロトプテルム科プロトプテルムさんは、体長が約1~2mと大型で、化石はアメリカや日本からも出土しています。

 『プロトプテルム』は北半球に生息していたペンギンのような鳥(ペンギン様鳥類)で、分類としてはペリカン類である『ウ』や『カツオドリ』に近い種であると考えられているそうです。

 ペンギンに似ているのは外見だけではありません。

 プロトプテルムは翼をヒレのように使って水中を泳ぎ、魚などをエサとしていたので、和名で『ペンギンモドキ』と呼ばれるのも故無きとは言えないのです。

 ペンギンモドキと呼ばれるプロトプテルム科に属する鳥類は4属、約7~8種類とされ、プロトプテルム科の代表種で、最大種である「コペプテリクス」は体長約2mという巨体でした。

ところが、1996年に長崎崎戸町(さきとちょう)の海岸で、西彼杵(にしそのぎ)層群徳万(とくまん)層という約3400万年前の地層から発見で発見されたプロトプテルム(ペンギンモドキ)さんとみられる化石の推定体長はなんと約3m以上!


 アフリカゾウの肩高3~3.5mに匹敵するジャンボサイズです。

 大昔、長崎で3m以上のペンギンさんがのっしのっしと歩いていたと思うと、びっくりだねえ!

 こんなのにクチバシでつんつん突っつかれたらば、さぞかし痛かろうねえ。

 ということで、昔北半球にお暮らしだったペンギンさんのお話でした。

 日本のウミガラスさんも元気でいて欲しいねえ。
 




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