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大阪の『北浜レトロ』でアフタヌーン・ティーだよ(上) 【ファイルS31】 2012.02.29 

【ファイルS31】 2012.02.29 大阪の『北浜レトロ』でアフタヌーン・ティーだよ(上)

お洒落な建物のティー・ルームは英国の雰囲気があるねえ。

 大阪北浜(きたはま)は大阪経済の中心です。

 かつては、東京兜町(かぶとちょう)にある東京証券取引所と大阪北浜の大阪証券取引所は、ライバルでした。

 でも、東京一極集中と大阪経済の地盤沈下で、北浜は最近元気がありません。

 とはいえ、商都大阪経済の中心であることに代わりがないので、すっきりした身なりのビジネスマンが、行き来しています。

 そういう生き馬の目を抜く大阪北浜の証券取引所の道を挟んで北側に『北浜レトロビルヂング』があります。





 りっぱで綺麗なビルだねえ。

 それもそのはず。ここは文化庁により登録文化財の指定を受けているのです。





 登録有形文化財第27-0029号だねえ。

 現在、この『北浜レトロビルヂング』は、英国伝統菓子舗&紅茶室の『北浜レトロ』というお店になっていて、中を覗くと、暖かい灯りが入っておいでよと誘ってきます。





ということで、中でリッチなティータイムを楽しむことにしました。

外にメニューがあったので、眺めます。





 セットメニューが、アフタヌーン・ティー2,100円、サンドウィッチ・セット1,600円、ケーキ・セット1,100円、スコーン・セット1,100円、

飲み物だけなら、コーヒーが600円、紅茶が800円です。

 普通の喫茶店と較べると、ややお高い値段設定ですが、お昼の時間なのでアフタヌーン・ティー2,100円をいただくことにしました。

 好きな飲み物と、好きなスコーンを2種類撰択、好きなケーキ1個を撰択+フィンガー・サンドウィッチ(ハム&キュウリ)のセットです。

 別に『営業中』の札がかかっていないので、開いているかどうか分からなかったのですが、開店時間の11時になっているので、試しにドアを押したらば、開きました。

 それで、お店の人に喫茶を利用したいということと、写真を撮らしてくださいと告げると、さっそく喫茶室に案内されました。

 喫茶室は階段を上って二階です。





 喫茶室(ティー・ルーム)は大きな窓でシャンデリアが下がっています。





 アフタヌーンセット2,100円は決まっていたのですが、メニューの見方がよく分からなかったので、お店のお姉さんに教えてもらいました。

 紅茶はアッサムティーのロイヤルミルクティーにしました。

 まず、ティーのセットが運ばれてきます。





 手前から左奥に、
 ウェッジウッドのティーカップ、アッサムティーの入ったティーポット、おかわりの二番煎じを淹れるための継ぎ足し用お湯の入ったポット。

 右の手前が、茶こしで、その奥がミルクポットです。

 こちらが、お砂糖のポットです。





 うへえ、お茶を飲むのにも大変な装備が必要なんだねえ。

 お茶とお湯のポットは熱いので気をつけるように言われました。

 それで、さっそくお茶を淹れるよお。





 綺麗な色だねえ。

 ミルク少々と、砂糖1個をいれました。





 薫り高いアッサムティーにミルクとお砂糖をいれると、まろやかな味になって、疲れが一挙にふっとびます。

 おかわりはストレートで飲みました。

 お客さんが続々入ってきて、その殆どが女性です。女の人はこういう情報収集力が長けているからねえ。

 そうこうしていると、アフタヌーンのセットが運ばれてきました。

 わ~い。金属のフレームにお皿が三階建てになってやって来たよ!





 三段重ねです。こうしないと、テーブルがお皿であふれちゃうからねえ。

 フィンガー・サンドウィッチ(ハム&キュウリ)は、ハムとキュウリにマヨネーズを付けて挟んであります。





 しっとりした素朴な舌触りのパン生地が美味しいねえ。

 マヨネーズが付いたキュウリとハムのコンビネーションがサンドウィッチでは一番合うねえ。

 食べ終わったら、綺麗なお皿の絵が鑑賞できます。





 お皿の裏にはイギリス有名陶器メーカーのウエッジウッドの刻印が。





 スコーンは食べきれなかったら持ち帰ることができるそうですが、食べられるのなら、暖かいうちにお召し上がりくださいだって。

 二種類選べるので、私はチョコチップと抹茶を選びました。





 歯を当てると落雁のようにはらはら崩れます。

 その分、破片がテーブルの上にボロボロこぼれるのが参ったねえ。

 暖かくて、口の中で甘い生地が崩れて広がって幸せな気分になります。でもパサパサじゃなくて、しっとり感が残っているよ。

 持ち帰りにすると、多分冷えて乾燥して、このしっとり感が幾分か損なわれるんだろうね。

 チョコチップはミルク味の生地にチョコの苦みが利いていて、抹茶は抹茶独特の香ばしさが、ほんのりと口の中に広がります。

 これだけでも上品な甘さで美味しいのに、それに贅沢なジャムやクリームをたっぷりとのっけると、幸せな気持ちが倍増するねえ。

 さすがはイギリスのティータイムのおやつはスコーンだけのことはあります。

 ケーキの撰択は、ダーク・チェリーのショートケーキ。





 ダーク・チェリーの酸味と生クリームと生地の程よい甘みが良く合うねえ。





 生地の層の中にもダーク・チェリーと生クリームが挟まっています。フランスのケーキのような柔らかくてかくて上品なお味のケーキです。

 というより、イギリスのケーキってこんなのかな?

 それにしても、結構な量があるねえ。

 お腹がいっぱいだよお。

 ということで、今回の一番のお勧めは、やはりスコーンですね。
 
 とりあえず、午後のおやつを気軽に楽しみたいというなら、スコーン・セットが良いかも。


 ヨーロッパの料理といえば、フランス料理というイメージがあって、イギリスの料理はあまり美味しくないけどティータイムだけは別だって聞きますが、それはスコーンのおかげかな?

 今回のアフタヌーン・ティー2,100円は、この雰囲気と味とボリュームからすれば、とてもリーズナブルな値段だと思います。

 こういうお洒落なスペースが大阪北浜にあるのは、宝塚歌劇団を生んだ関西の人たちの気質や志向かな?

 そういえば、『ベルサイユのばら』の池田理代子さんも大阪出身だし。

 こうやってゆっくりしていると、階段の方に人が並び出しました。やはり、ここは大人気なのです。

 やっぱり開店の時に入って正解だったよ。

 ということで、待っている人に悪いので、お茶が済んだら早めに退散します。

 建物そのものについては、とても魅力があるので、次回にご紹介しますね。

 (下)に続く。

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特撮ヒーローをめぐるそっくりさんたち 【ファイルSO06】2012.02.26 

【ファイルSO06】2012.02.26 特撮ヒーローをめぐるそっくりさんたち

さすがはバラエティーに富んでいるねえ。

 最近のバラエティー番組ではワイプという手法が使われています。

 本来ワイプというのは、画面がワイパーでぬぐわれるように転換するという手法のことを指していたはずですが(ワイプイン・ワイプアウト)、最近は、ビデオ映像を流しているときに、画面の隅に小窓の画面を設けて、そこにひな壇に座っている芸能人のリアクションを写し込むような手法のことを指すみたいです。

 俳優の渡辺徹さんが奥様の榊原郁恵さんと映画館に行ったらば、郁恵さんったら、テレビのお仕事でひな壇に座ったときの癖が出て、映画を観ながら感にたえたように「へぇ~」と言ったり、手を叩いて喜んだり、声を出して笑ったり、涙を流したり・・。

徹さんが、このオーバーアクションは、他のお客さんに迷惑だからって、いくら注意しても、職業病だから治らないんだって。


 中でもこの芸で一流なのが『ワイプの女王』の名をほしいままにしている矢口真里さんです。

 『世界を変える100人の日本人!「安床ブラザーズ」』で安床(やすとこ)選手の見事なジャンプに、小窓の中で心の底から驚く矢口真里さん。




 優勝した安床選手が表彰台の中央に立った姿を見て、小窓の中でわがことのように喜ぶ矢口真里さん。





 きっと、いい人なんだねえ。

 矢口真里さんは、元『モーニング娘。』の美人さんです。





 矢口真里さんを見ると連想するのが、ジャイアントロボさん。





 くっきりとした台形のお目目と、すっきり鼻筋が似ています。

 ということは、ジャイアントロボさんも美人さんなんだねえ。

 それから、張り切ったお目目がマグマ大使にも似ています。





 正義の味方は目鼻立ちがはっきりしているんですね。ということは、矢口真里さんも正義の味方なんだねえ。


 それでもって、マグマ大使の敵役(かたきやく)が地球の征服を狙っているゴア様。





 これは、地球の征服を狙う極悪非道の宇宙海獣が変身した姿なのですが、常に優しい微笑をたたえて、お目目ぱっちりなので、なんか悪い人に見えないんですよね。

 そこはかとなく愛嬌もあるし。見ようによっては美人さんにも見えるし。

 優しい微笑を称えて、お目目ぱっちりで愛嬌がある美人さんなのがエッセイストの阿川佐和子さんです。





 この人は、いつまでも若くて美人さんだねえ。

 それにしても、ゴア様はともかく、阿川佐和子さんが地球の征服を企てているなんて、とても思えないねえ。

 阿川佐和子さんのお父様が作家の阿川弘之さんです。

 阿川弘之さんが、出版社に電話をしたときに「阿川弘之です」って名乗ったらば、電話を取った社員が、誰だかわからないようなので、「阿川佐和子の父です」って言ってやっと分かってもらえたって書かれていました。

 不勉強だねえ。

 阿川弘之さんは元海軍将校で、おっかなくって、すぐ怒り出すので、『瞬間湯沸かし器』というあだ名がついているそうです。

 東大が学園紛争で封鎖され、学長の林健太郎さんが軟禁されたとき、阿川弘之さんは三島由紀夫さんと共に東大に乗り込んで、激励しに行ったそうです。

 そういう厳しいお父さんに育てられるって大変だったのだと思うのですが。

 遠藤周作さんがお友達で作家の檀一雄さんの『火宅の家』に行ったとき、娘さんの壇ふみさんに、「阿川んところのお嬢さんは、凄い美人だぞ~」と頻りに言われていたそうです。

 今の阿川佐和子さんは壇ふみさんと仲良しで、

 壇ふみさんは、阿川佐和子さんのことを「遠藤さんがあれだけ美人だって言うからどんな美人かと思っていたのに、初めて会ったら、ちんちくりんだったので、びっくりした」と憎まれ口を叩いておられました。

 その一方で、遠藤周作さんは、阿川佐和子さんには、「檀のところのお嬢さんは凄い美人だぞ~」って吹聴していたらしいのですが・・・。

 でも、どちらも美人さんですよね。

 作家って女性にもてて、綺麗な奥様をもらえるからかな?


 元祖特撮ヒーローといえば、何といってもウルトラマンです。





 ウルトラマンさんに似ているのが、福島原発事故の時はテレビに出ずっぱりだった原子力安全・保安院の西山英彦審議官さん。





 原発事故については、この記事ではスペースがないので、ここでは敢えて触れません。


 あと、大映特撮の傑作と言えば『大魔神』。





 『大魔神』といえば、横浜大洋ホエールズ(後の横浜ベイスターズ)で『ハマの大魔神』と呼ばれ、シアトルマリナーズでも『DAIMAJIN』として大活躍した守護神、佐々木 主浩(ささき かづひろ)さんです。





 佐々木投手は、ばったばったと打者を力でねじ伏せる様から『大魔神』と呼ばれたようですが、この通りお顔は全然似ていません。

 むしろ佐々木投手より、お顔が大魔神さんに似ているのは、3000本安打の大記録を打ち立てた『安打製造器』の異名を持つ張本勲さん。





 所属した球団は、東映フライヤーズ、日拓ホームフライヤーズ、日本ハムファイターズ、読売ジャイアンツ 、ロッテオリオンズ。

 ただし、東映フライヤーズ、日拓ホームフライヤーズ、日本ハムファイターズの三球団は張本さんが移籍したのではなく、ただ単に球団経営権の譲渡による球団名変更で、現在は北海道日本ハムファイターズとなっています。

 もともと張本さんは、巨人入りを熱望していたようですが、後に夢が叶って良かったねえ。

 それにしても、せっかくお顔が大映映画の大魔神に似ているのだから、大映のライバルである東映の球団の『東映フライヤーズ』なんかに入団せずに『大毎オリオンズ』に入れば良かったのにねえ。

 大毎オリオンズというのは、毎日大映オリオンズの略称で、毎日オリオンズと大映ユニオンズが合併して誕生した球団でした。

 まあ、張本さんの東映入団【昭和34(1959)年】より、大魔神【昭和41(1966)年4月17日公開】の方が後でできたから仕方ないけど・・・。

 
 トリを務めるのは、元祖テレビ版特撮番組『ウルトラQ』からのご登場です。

 人工生命 M1号さん。





 この人は大平正芳首相に似ています。





 大平首相は敬虔なクリスチャンだったのですが、当然のように靖国神社に参拝し、その頃の中華人民共和国は何の文句もいいませんでした。

 この頃の日本の総理大臣は、なんだかんだ言っても、今の首相と比べてまだまだずっとマトモでした。

 支那が靖国靖国と騒ぎ出したのは、人民大虐殺の文化大革命を絶賛した北京の手先、人権の敵である売国朝日新聞が昭和60(1985)年8月7日、中曽根首相の靖国公式参拝を『中国が厳しい視線で凝視している』と書きたて、大騒ぎして、中華人民共和国にご注進に及んで、これが日本へのユスリ・タカリのネタに使えると気がついてからのことです。

 ということで、今回は特撮ヒーローのそっくりさんでした。




防衛省市谷ツアーに参加したよ(その18) 【ファイルET59】2012.02. 23 

【ファイルET59】2012.02. 23 防衛省市谷ツアーに参加したよ(その18)

三島由紀夫事氏の訴えたかったこと(中)。

 (上)からの続きです。

 (上)から読まれる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53040110.html

 さらに、三島氏はこう訴えています。

銘記せよ!実はこの昭和四十五年(注・昭和四十四年の誤り)十月二十一日といふ日は、自衛隊にとつては悲劇の日だった。創立以来二十年に亙つて、憲法改正を待ちこがれてきた自衛隊にとつて、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外され、相共に議会主義政党を主張する自民党と共産党が、非議会主義的方法の可能性を晴れ晴れと払拭した日だつた。論理的に正に、この日を堺にして、それまで憲法の私生児であった自衛隊は、「護憲の軍隊」として認知されたのである。これ以上のパラドックスがあらうか。


 こうなると国会は馴れ合いの野合の場でしかありません。

 こと『護憲』と言うことでは、自民党から共産党までお友達なのです。

 まさしく鳩山由紀夫さんの言っていた気色悪い『友愛』ですね。これが悪性の腫瘍のように、日本人の精神を蝕んでいきました。

 後に、細川政権誕生で下野した自民党は野党となっては、献金も禄に集まらないので、『貧すれば鈍する』のたとえ通り、1994年、自民党はなんと『自・社・さ連合』を組み護憲で非武装中立を唱える村山富市氏を首相に担ぎ上げてまで政権を奪還するという、無節操ぶりを発揮しました。

 村山首相は政権与党として一応自衛隊の存在を認めますが、それに対する社会党内左派の反発を鎮めるために、東南アジアを謝罪行脚に出かけ、

 マレーシアのマハティール首相に

 『日本が50年前に起きたことを謝り続けるのは理解できない。過去のことは教訓とすべきだが、将来に向かって進むべきだ。日本はこれからのアジアの平和と安定のために国連安保理常任理事国入りして、すべての責任を果たして欲しい』

 と窘(たしな)められました。

 大恥です。

 『いつまで米搗きバッタみたいに謝ってるんだみっともない』と言われたのです。
 
 これに懲りるようなまともな頭脳と恥の感覚をもっていたら、そもそも村山氏は社会党党首なんてやっていません。

 さら村山首相は、『戦後50周年の終戦記念日にあたって』(いわゆる村山談話:平成7年8月15日)で、

 『わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。

 私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます』

 という馬鹿げた発言をし、今に至るまで行われている、特定アジア(子供の頃から反日洗脳教育をやっている中華人民共和国、朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国)の捏造史観に基づく『謝罪しろ、反省しろ、誠意を見せろ、金をよこせ』という因縁恐喝ゆすりたかり行為を助長させ、日本国民に大いなる禍根を残しました。

 村山首相は、『社会党の党内融和』のために日本を特定アジアに『売国』したのです。

 この談話の掲載されている外務省HPをご覧下さい。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/danwa/07/dmu_0815.html

 英語と、支那語と朝鮮語に翻訳されています。

 なんのことはない、これは『特定アジア向けの談話』なのです。

 あげくのはてには、『自衛隊は暴力装置』だと公言してはばからない仙谷由人氏が官房長官になったり、『首相が自衛隊の総指揮官だ』ということを知らなかった菅直人氏が首相になったり。

 三島由紀夫氏はこのとき割腹しなくても、その後の日本はいくら命があっても足りないくらいの惨状となりました。

われわれはひたすら耳をすました。しかし自衛隊のどこからも、「自らを否定する憲法を守れ」といふ屈辱的な命令に対する、男子の声はきこえては来なかつた。かくなる上は、自らの力を自覚して、国の論理の歪みを正すほかに道はないことがわかつてゐるのに、自衛隊は声を奪はれたカナリヤのやうに黙つたままだった。


 『自らを否定する憲法を守れ』という命令というのは、果たして守らなければならない命令なのでしょうか?

 例え守ったとしたとしても、その守った自分の存在は、否定されているのです。

?H1>われわれは悲しみ、怒り、つひには憤激した。諸官は任務を与へられなければ何もできぬといふ。しかし諸官に与へられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。

 そうなのです、自衛隊に与えられる日本からの任務は政府の人気取りのための『災害救助』で、軍隊本来の任務についての命令は『アメリカ』からしか来ないのです。

 実際、先の東日本大震災において、日本の弱みを見透かしたように、ロシアや中華人民共和国は日本に対する挑発的な火事場泥棒的領空侵犯を行いました。

 普通の国の軍隊なら、領空侵犯機は即時撃墜です。

 ロシアや中華人民共和国は、これに対する撃墜命令が日本政府からは来ないのが分かっているのです。だから舐めきっているのです。

シヴィリアン・コントロールが民主主義的軍隊の本姿である、といふ。しかし英米のシヴィリアン・コントロールは、軍政に関する財政上のコントロールである。日本のやうに人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に操られ、党利党略に利用されることではない。


 シヴィリアン・コントロールといえば、最近の例では田母上航空幕僚長の事件がありました。

 【『アメリカはどれほどひどい国か』日下公人・高山正之著 PHP研究所P149より引用】

 ※   ※   ※

(前略)

高山  要は、田母神さんは軍人です。その軍人がああいうことを言うというのは、ジャーナリストとしては恥じ入らなければいけない。本来はジャーナリストが言うべきことです。
 
 軍人は国を守っていれば、本来、それでいい。その国を守るべき軍人が職を賭して言わなければならないくらい、日本のジャーナリズムは口を閉ざしてきたということです。

(略)

 そもそも、何を根拠に田母神空幕長を追放したのか、よくわからない。

(略)

 防衛省の内局、つまり役人は先代の守屋武昌次官を筆頭に、みな腐っている。
 
 防衛省内であまりに汚職が蔓延(はびこ)り、一応の反省を込めて省内向けにビデオをつくったのです。

 ところが、ビデオで描かれた内容は、制服自衛官が賄賂と供応を受けるというストーリーだった。

 悪いことはみな制服組に押しつける。内局の悪い癖です。

 逮捕起訴された守屋次官の後任の増田好平次官は、就任の際、陸海空の幕僚長を呼びつけて、そのビデオと同じに「自衛官は汚職まみれだから綱紀粛正するように」と申し渡した。

 それに田母神空幕長が反論した。それは汚職をやる内局に言えばいい、と。

 それが今回の空幕長解任の根本原因でしょう。増田次官は羽曳野市(はびきのし)の麻野課長と同じだった。反省しないで報復に出たのです。
 
 本来なら、田母神空幕長は統合幕僚長に昇任する予定でしたが、増田次官はその人事を見送り、田母神氏の定年を待って次の統合幕僚長人事をやることにした。内局はそれが文民統制だと思っている。

 そんな折、田母神空幕長が民間の懸賞論文で一等をとった。

 それを「事前許可を取っていない」などと因縁をつけて、「蚤(のみ)の心臓」の浜田靖一防衛相を脅し上げた。浜田大臣も内局のいいなりとなった。

 かくて、その日のうちに空幕長の解任が決まったという経緯でした。いまなお、マスコミには、解任を仕掛けた増田の名は表に出ない。シナの役人を超えた陰湿さです。

(略)

日下  本来なら、あのとき、「文民統制とは何か」という大議論がなくてはいけなかったはずです。そもそも、内局の背広組が各幕僚監部の制服組の人事を握っていることは、本来の文民統制とは無関係ですから。

高山  制服組をあっさり「軍人」と呼んでよければ、ここまで軍人を貶める国は世界にも例がありません。

 ※   ※   ※

 三島氏は、『英米のシヴィリアン・コントロールは、軍政に関する財政上のコントロールである。日本のやうに人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に操られ、党利党略に利用されることではない』と怒っているのに、今の日本の自衛官(制服組=軍人さん)の人事権は政治家どころか、内局(背広組)のキャリア官僚に統制されているのです。

 政治家(一応国民の信任を得た)党利党略に利用されるどころか、キャリア官僚の胸先三寸、虫の居所や保身で軍人さんの人事が左右されているのです。

 そもそもPKOはPeacekeeping Operationsのことです。この場合の“Operations”とは、“軍事行動”や“軍事作戦”を意味します。

 なのに、『平和維持“活動”』と訳すなんて、悪い冗談でしかありません。

 PKOが軍事行動・軍事作戦である以上、敵の攻撃に晒されない保証なんて何処にもないのです。

 自衛官の方々をこれだけ踏みつけにしておいて、よく丸腰同然でサマワに行けなんて言えたものです。

 なのに、自衛官が命の危険にさらされながら職務を全うしているのに、その人事を握っている官僚トップの事務次官は業者にタカってゴルフ三昧。

 良くクーデターが起きないものです。

 にもかかわらず、日本の自衛隊の規律の正しさ、士気の高さ、能力は世界一です。それは今回の東日本大震災・福島第一原発事故においても立証されました。

 なのに、世界一国民から貶(おとし)められている軍隊。

 自衛隊をこんな待遇のまま放置しておいて、本当に日本国民は何を考えているのでしょう?いつから恥を知らない国民になったのでしょう?

 (下)に続きますね。 

よこはま動物園ズーラシアのゾウさんたち(下) 【ファイルC238】2012.02.20 

【ファイルC238】2012.02.20 よこはま動物園ズーラシアのゾウさんたち(下)

いろんな芸を見せてくれるねえ。

 前回のよこはま動物園ズーラシアのゾウさんたちの続きです。

 (上)を読まれる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53030776.html
 
 飼育員さんから、すこし下がるように言われました。

 なぜかというと、

 ゾウさんが鼻鉄砲で水を飛ばすからです。

 


 

 うへえ、凄い迫力だねえ。
 
 今度は、お兄さんが、サッカーボールを置いて、シュリーさんに合図を送ります。

 


 

 写真見て気がついたけど、お兄さん裸足なんだねえ。

 ボールを蹴ります。
 
 


 

 ナイス・シュート。
 
 横浜国際総合競技場では2002FIFA日韓ワールドカップサッカーの決勝戦が行われたからねえ。

 メスのシュリーさんは、ゾウさんのなでしこさんだねえ。

 ボールはちゃんと片付けるよ。

 


 

 隔離されているオスのラスクマルさんもアピールします。

 


 

一方、チャメリーさんです。

 


 

 チャメリーさん周りに植えてある木の葉を長い鼻を使って、おいしそうにつまんで食べるのが趣味なのだそうです。シュリーさんはそんなことしないんだって。

 こんどはお鼻で尻尾を持って、

 


 

 チャメリーさんの後ろにシュリーさん。二人仲良く行進をします。

 


 

 運動したらば、お腹が空いたよお!

 


 

 いろいろな芸を披露したご褒美にお食事が出てきます。

 


 

 やっぱり食べるときが一番幸せ。

 


 

 労働の後のお食事は美味しいねえ。

 ラスクマルさんもお食事だよ。

 


 

 3人仲良くお食事タイムです。

 


 

 公開訓練(ショー)を終えたお兄さんも、ほっと寛いでいるねえ。

 さようなら、元気でね。


 ゾウさんたちのお住まいの近くにはガネーシャ像が。

 


 

 ガネーシャさんは、ヒンドゥー教の神様です。

 日本のインド料理屋さんにも『ガネーシャ』という名前のお店がありますね。

 名前は、サンスクリットで『群衆(ガナ)の主(イーシャ)』という意味です。

 メタボ検査したら、一発で成人病予備軍として引っかかりそうな太鼓腹の人間の身体に 、片方の牙の折れた象の頭をもったお神姿で【写真の像も右の牙が折れています】、腕が4本はえています。

 御利益(ごりやく)は、障害を取り去り、また財産をもたらすと言われ、商業の神・学問の神とされています。

 そりゃあ、商売が繁盛してお金持ちになったら、太るねえ。

 ガネーシャさんは、インドのマハラシュトラ州を中心にデカン高原一帯で多く信仰されていそうです。

 それにしても、神様なのにお顔がゾウさんというのが不思議。

 ゾウさんの顔を持つ理由にはいろんな神話があるそうですが、代表的なのはこういうお話です。

 偉大な神様であるシヴァさんの奥さんのパールヴァティーさんは、身体を洗って、その垢を集めて人形を作り、命を吹き込んで自分の子供を生みました。

 それがガネーシャさんです。

 お母さんのパールヴァティーさんは、ガネーシャさんに、自分の入浴中には家に誰も入れないように言いつけましたが、その時にシヴァさんが帰ってきます。

 ガネーシャさんはそれが自分のお父さんで、偉大な神様のシヴァさんとは露知らず、お母さんの言いつけをちゃんと守って、家に入るのを断りました。

 自分ちに入るのを断られ、かんかんに怒ったシヴァさんは、ガネーシャさんの首を切り落として、遠くへ投げ捨ててしまいます。

 パールヴァティーさんがお風呂から出てきて、それが自分の子供だと知ったシヴァさんは、投げ捨てたガネーシャさんの頭を探しに西に向かって旅に出かけますが、とうとう見つけることができませんでした。

 そこで旅の最初に出会ったゾウさんの首を切り落として持ち帰り、ガネーシャさんの頭として取り付け蘇生させました。

 それが、ガネーシャさんがゾウさんのお顔をしている理由なのです。

 それにしても、首を刎ねられたガネーシャさんも、たまたま通りかかって首を取られたゾウさんも、ずいぶんと迷惑な話だねえ。

 チベット仏教では、ガネーシャ(象頭財神)さんが大黒天によって調伏された姿でも描かれていますが、観世音菩薩を本地とする護法神としても信仰されているそうです。

 また、上座部仏教(小乗仏教)国のタイでも、ガネーシャは仏教徒に信仰されています。

 日本では、天台宗・真言宗において、ガネーシャを起源に持つ歓喜天(かんぎてん:聖天)が天部の護法神として信仰されています。


 案内板にはこう書かれています。

 ※   ※   ※

 人とは古くて、深い絆(きずな)

 インドゾウをはじめとするアジアに生息するゾウは、ブルドーザーなどの大型機械が導入され始めるまでは、切り倒した大木を森林から運び出すための重要な労働力でした。

 彼等の力は強く、例えば1頭で2トン、2頭で5トンの丸太を引くことができるのです。

 ゾウが荷役動物(にやくえどうぶつ)として使われてきた歴史は古く、西アジアではおよそ5500年前の記録があります。

 また、大きな体、強大な力、賢さなどから人々に神秘的な動物としてみられ、各地の宗教や文化神話の中に登場してきます。

 今でも祭りや儀式の中で重要な役割を果たしています。

 ※   ※   ※

 ガネーシャさんの横にいるネズミさんも可愛いねえ。

 


 

 そういえば、ディズニーの『ダンボ』のお友達もネズミさんだったねえ。

 ゾウさんは、鼻が命なので、ネズミさんに鼻を囓られたらば致命傷になるから、ネズミさんは苦手だって聞いたことがあるけれど・・・。

 実は、ガネーシャさんの乗り物がネズミさんなんだって。

 ガネーシャさんと一緒にいるネズミさんは、退治された悪魔がガネーシャ神によって姿を変えられたものなのです。

 まあ、神様だから小さなネズミさんにも乗ることができるんだねえ。

 ガネーシャさんの牙が片方折れている理由にも、諸説あるそうですが、ネズミさんが絡んでいるというお話もあります。

 ガネーシャさんがお誕生日に沢山お菓子を食べ、ネズミさんに乗って帰ろうとしていたときの話、ネズミさんが前を横切った蛇に驚き、その拍子に乗っていたガネーシャさんが振り落とされてしまいました。

 その衝撃で片方の牙がポッキリと折れてしまいます。

 同時に、お腹がはじけ、食べたお菓子がこぼれたので、こぼれたお菓子を集めてお腹に戻し、お菓子がこぼれないようにヘビをお腹に巻きつけました【写真の像にも蛇が巻き付いていますね】。

 それを見て笑ったお月さんに、怒ったガネーシャさんが折れた牙を拾って投げつけます。

 だからお月さんは、満ち欠けするようになったんだねえ。


 ということで、今回はよこはま動物園ズーラシアのゾウさんたちでした。
 
 ここは広くって環境が良いねえ。
 とってものんびりできるし良い運動になるから、みなさんも機会が有れば遊びに来て下さいね。





大坂(大阪)長堀【島之内、鰻谷(うなぎだに)】の住友本宅跡だよ(その1) 【ファイルT168】2012.02.17 

【ファイルT168】2012.02.17 大坂(大阪)長堀【島之内、鰻谷(うなぎだに)】の住友本宅跡だよ(その1)

大坂は世界一の銅の精錬都市だったんだねえ。

 江戸(東京)の金座、銀座は有名ですが、銅座は大坂(大阪)や長崎にありました。

 大阪の銅座跡。





緒方洪庵(おがたこうあん)の『適塾(てきじゅく)』の近所にある、愛珠幼稚園(あいしゅようちえん)正門の前にこの碑は建っています。


 諸国で産出した荒銅は、ひとまずこの銅座が買い上げて銅吹屋に精錬させ、国内需要を満たし、あるいは長崎に送られて海外に輸出されました。

そして、大坂というより日本最大にして世界有数の銅吹屋(どうふきや)が住友家だったのです。


昔の日本は金も銀も銅も採れた資源国でした。


そういえば、『日本はずっと人間以外の資源がない国だった』と全くのデタラメを言っている日本の歴史も大阪の歴史も全く無知な人が、最近大阪市長になって、大阪市政をほっぽり出して、権力欲むき出しの維新塾なんて馬鹿なことをやっています。


 『平成の売国TPP』を支持しておいて、『船中八策』って何を考えてるんでしょう。

 大阪市長って激務なはずなんですが、余程暇なんでしょうかね?

 この人、大阪府知事になるまで楠正成公で有名な『千早赤阪村(ちはやあかさかむら)』を知らなかったんですよ。大阪の人って一体何を考えているんでしょう?

 それで、

特に元禄時代の一時期、17世紀末から18世紀初めにかけて、日本は『世界一の銅の産出国』でした。


 日本銅の生産量は年産約六千トンで、その大半は国内用としてよりも輸出に回されていて、幕府は銅の生産量に応じて、輸出の総枠を決めていました。

 それまでの日本は銀を最大の輸出品としていました。

 最盛期の17世紀初頭には年二百トン。世界の生産量の三分の一を占めていましたが、鎖国に入る頃から生産が衰え始めて銀から銅へと主要輸出品目が交代したのです。

 日本の銅は、清船やオランダ船によって、清、東南アジア、インドにもたらされた外、アムステルダムの銅相場を通じてヨーロッパに持ち込まれました。

 オランダは当時、スウェーデン産の銅と主導権争いを演じていましたが、日本産の銅によって主導権を掌握しようとしたのです。

1670年代前半、ヨーロッパに入った日本銅はスウェーデン銅の三分の一から二分の一にも達しました。


1776年に刊行されたアダム・スミスの『国富論』にはこう書かれています。


 『貴金属のばあいはなおさらそうであるが、卑金属のばあいでも、世界きっての多産な鉱山におけるその価格が、世界の他のあらゆる鉱山における価格に多少とも影響せざるをえないのである。日本の銅の価格は、ヨーロッパの銅山におけるその価格にいく分か影響するに違いない』

そして、元禄時代の日本銅の約三分の一は、当時最大の銅吹屋であった泉屋住友(いずみやすみとも)の銅だったのです。


だから、皇居前広場の楠木正成公の銅像も住友さんが寄贈したのですね。


 楠木正成公の銅像の記事はこちら。

 『七生報国(しちしょうほうこく)』で皇居を守る楠木正成公の銅像だよ(上)
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51551744.html

 『七生報国(しちしょうほうこく)』で皇居を守る楠木正成公の銅像だよ(下)
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51584157.html

 泉屋住友のほかにも大坂屋(おおざかや)、平野屋(ひらのや)、大塚屋(おおつかや)などの吹屋があったといいます。


 住友の姓は、戦国時代の末、もともと先祖に順美平内友定(すみへいないともさだ)という人物がいて、桓武天皇の曾孫・高望王(たかもちおう)の二十二代目にその子・小太郎(忠重)が父の姓と名をとって『住友』の姓を称して室町将軍に仕え、備中守(びっちゅうのかみ)に任じられたことに始まるそうです。

ですから住友家のご先祖様は桓武平氏の末裔(まつえい)の戦国武士だったのです。


 家祖住友忠重の子・頼定は、足利義晴に仕え、頼定の子・定信は刑部丞(ぎょうぶのじょう)と称しました。

 そして、定信の子・定重は、名門今川義忠(今川義元の祖父)に仕えますが、定重の子・信定の代になって、今川義元が織田信長に桶狭間の戦いで敗れ今川家が衰退したので、摂津(せっつ)の中川清秀に仕え、入江土佐守(いりえとさのかみ)と称し、中川十六騎の一人として勇名をはせましたが、尾崎の陣で戦死してしいます。

 また入江土佐守(信定)の子・政俊は越前国の柴田氏に仕え、若狭守(わかさのかみ)と称し越前丸岡城に配されていましたが、柴田勝家と共に北庄城(きたのしょうじょう)で豊臣秀吉に滅ぼされてしまいます。

 政俊の子・長行は、徳川家康の子で結城家へ養子入りした結城秀康に用いられますが、住友家の武家の歴史はここまでで、武家社会の興亡の激しさと無情を感じた長行は、自分の子供たちには武家を継がせませんでした。

 長行の二男で兄の興兵衛に代わって家督を継いだ小次郎政友は、天正年間に生まれ、涅槃宗(ねはんしゅう)の開祖、及意上人空源(ぎゅういしょうにんくうげん)に弟子入りして仏門に入り『文殊院空禅(もんじゅいんくうぜん)』と称しました。

 小次郎政友はその博識をもって涅槃宗の後継者と見なされていたのですが、寛永年間に涅槃宗が天台宗に吸収されたのを機に還俗し、洛中に、書籍と医薬品を商う『富士屋』を開き、法号を『文殊院外嘉休(もんじゅいんがいかきゅう)』と称し修道三昧の生活を始めました。

 これが「町人・住友家」の興(おこ)りです。

 政友は商売上の心得を『文殊院旨意書(もんじゅいんしいがき)』にまとめましたが、これは現在に至るまで住友グループ各社の社是の原型となっています。

 嘉休こと住友政友(まさとも:家祖)さんには一男一女があって、男児の政以(まさもち)さんには『富士屋』の跡を継がせ、

 女児には、嘉休(政友さん)の姉婿にあたる銅師で、涅槃宗の信徒であり、文殊院空禅(政友さん)の檀家であった蘇我理右衛門さんの長子の友以(とももち)さんを婿養子に向かえました。

 蘇我理右衛門(そが りえもん)さんは、政友さんが『文殊院空禅』から還俗して『富士屋』を開く際に、物心両面で政友さんを助けた恩人でもありました。

そして蘇我理右衛門(業祖)さんの長子、理兵衛友以(住友友以:すみとも とももち)さんを婿養子に迎えたことが、住友家と銅との出会いでした。


 忠重さんから数えて九世にあたります。

蘇我理右衛門さんは、天正18(1590)年、19歳の時に大坂から京都に出てきて京の銅吹所(銅の精錬工場)を五条大橋附近につくり、慶長7(1602)年豊臣秀吉の菩提を弔うために建立された方広寺の大仏さんや、慶長19(1614)年に完成し豊臣家滅亡のきっかけになった有名な『国家安康 君臣豊楽』の梵鐘をに使われた銅(金3%を含んだ82トンにも及ぶもの)は、蘇我理右衛門さんが精錬した銅が使われました。


 蘇我理右衛門さんは京都に来てから『南蛮吹』の技術を開発しましたが、いつまでもその特許を秘伝としていたのではなく、後に同業者たちにその技術を伝授し、日本の初期の銅精錬業界に多大な貢献をもたらしました。

蘇我理右衛門さんの長子、友以さんは元和9(1623)年17歳のときに大坂の淡路町一丁目(現在は三丁目)に銅吹所を開きます。


 そして先述の通り、住友家の婿養子になって『住友泉屋』の看板を掲げました。

 それで、

住友の『家祖』は『富士屋』を創業した『住友政友(すみとも まさとも)』さんで、


銅商人としての『業祖』は『泉屋』を創業した『蘇我理右衛門(そが りえもん)』さんとなっているのです。


 業祖の蘇我理右衛門さんが創業した泉屋により、住友家は銅業を始めたのです。

だから住友家の商標は『泉屋』の『泉』を表す菱井桁(ひしいげた)マークなのです。






 泉という字は、『孟子』によると、「源泉(げんせん)は 混混(こんこん)として昼夜(ちゅうや)を舎(お)かず料(あな)に盈(み)ちて而(しか)る後(のち)に進(すす)み四海(しかい)に放(いた)る や」とあるように、清冽な水が昼夜をわかたず滾々(こんこん)と湧き出てつきない意味がありました。

 また、お金のことを「貨泉」あるいは「泉貨」と称したので、商人にとって泉の象徴でもある「井桁」は、非常に縁起のよい商標として一般的に用いられてきたのです。


長堀銅吹所は寛永13(1636)年に開設されましたが、大坂における銅吹屋の主導的役割を担った『住友泉屋』の本店と本家を長堀(島之内鰻谷)に移転させ、本格的にここで銅業を営みはじめたのは元禄3(1690)年、住友泉屋四代目の友芳(ともよし)さんの時です。


同じ年、住友の隆盛を導いた別子銅山の開発も始まっています。


 別子銅山は世界最大級の産銅量を誇る鉱山に成長し、住友家興隆の大きな柱とともに、銅が重要な輸出品として日本を支えることになり、長堀の銅吹所は、明治9(1876)年まで、二百八十年の永きにわたって続くことになります。

 なお銅吹所閉鎖後も長堀(島之内鰻谷)の住宅は大正4(1915)年までは住友家本邸として、昭和20(1945)年3月の空襲によって焼失するまで、別邸として使用されました。


 今日の住友家の基礎、住友財閥の出発点は、この住友友芳さんが開発した別子銅山によって築き上げられたものであるといっても過言ではありません。

ですから、住友の社史において、この『四世吉左衛門友芳(よんせいきちざえもんともよし)』さんのことを『住友家中興の祖(ちゅうこうのそ)』としているそうです。


 そして現在、長堀の豪商住友の邸宅跡はこんな感じになっています。

 三井住友銀行事務センターです。





 東側にはかつての住友銅吹所跡の史跡公園があります。





 昭和20(1945)年3月まで住友の別邸として使用されていたこの地は、その後住友銀行社員寮跡地として使用されていたのですが、銀行事務センターの建設計画が持ち上がり、平成2(1990)年から平成5(1993)年にかけて発掘調査が行われました。

 そこからは、100基を超える精錬炉、棹銅、住宅で使われていた高級陶磁器など、数多くが出土しました。

 このことにより、かつてここで大規模な銅の精錬が行われていたことが明らかになったのです。

 ということで、長くなったので、次に続きますね。

サッカー日本代表岡田武史元監督をめぐるそっくりさんたち 【ファイルSO05】2012.02.14 

【ファイルSO05】2012.02.14 サッカー日本代表岡田武史元監督をめぐるそっくりさんたち

正しい日本のサラリーマンのお顔だねえ。

 最初はこの方から。
 
 サッカー日本代表の監督だった岡田 武史(おかだ たけし)さん。





 眼鏡の風貌がトレードマークで、「岡ちゃん」って呼ばれていますが、天王寺高校―早稲田大学―古河電工という経歴から見ても、有能なインテリ・サラリーマンという雰囲気を持った人です。

 それにしても、この人ほど、世間の評価が乱高下した人も珍しいのでは?

 まるでジェットコースターか小豆相場です。

 まず有名なのが、サッカー日本代表がはじめてワールドカップ・フランス大会に出場した時の監督時代です。

 予選で日本代表のワールドカップ・フランス大会への出場が危なくなり加茂周監督が更迭されて急遽監督に就任、ドーハにおける最後のチャンスだったプレーオフで見事に勝利し、出場権を勝ち得ました。この時の岡田監督は日本の救世主扱いでした。

 ところが、三浦知良選手や北澤豪選手を直前に代表から外して非情な采配といわれ、それでもグループリーグでは一勝も出来ず僅か一得点で三戦全敗の敗退。
 
 それで、岡田監督は世紀の愚将として批判の矢面に晒されます。

 といっても、冷静に考えて、日本の所属していたグループはアルゼンチン、クロアチア、ジャマイカでしたから、初出場だけでも大したものだったはずなのですが・・・。

 それから、オシム監督が病に倒れ、またもや急遽日本代表監督に。ところが、南アフリカワールドカップ直前の試合の成績が悪くって、惨憺たる酷評を受けます。

 しかしながら、いざ本番のフタを開けてみたら、日本代表は本田選手を中心にがっちりとまとまり、グループリーグ突破の快進撃。

 パラグアイ代表との決勝トーナメント1回戦では、延長戦でも決着が付かず、PK戦で惜しくも敗退します。

 それで愚将から名将に大逆転。

 このときのサポーターの手のひら返しの絶賛は本当に「この人達に恥という観念はあるのだろうか?」と思うほど酷いものでした。

 それにしても、この人は加茂監督の後任といい、オシム監督の後任といい、どちらも急すぎて引き受け手が嫌がるような貧乏くじを引いたにも拘わらず、あれだけがんばったのに世間の評価に振り回されて、よく耐えたものです。
 

 岡田武史監督に似ているのが、

 俳優の早崎文司(はやさき ぶんじ)さん





『3年B組金八先生』シリーズで桜中学の野村孝一郎教頭(後に校長に昇進)役などで有名な俳優さんです。

 三年B組金八先生にでてきた、自己保身に汲々とした頑固で小心な教頭先生を演じました。

 私はあのドラマあまり見ていなかったのですが、はっきり言って教師達の生徒に媚びた、あの気味悪い物わかりの良さに居心地の悪さを感じていました。

 本当に進歩的文化人推薦の代表みたいな番組でした。

 それが、国民的な大人気になります。

 あの頃の日本はバブルもあって、本当に異常でした。

 このドラマの主題歌の『贈る言葉』は、もともと男と女の別れの歌なのですが、『君が代』が嫌いで、『仰げば尊し』を歌わせたくない日教組の支持を得て、全国で卒業式の歌になりました。

 主演の武田鉄矢さん扮する坂本金八先生は、生徒に日本国憲法を音読させたりして、一体何考えてるんだろう?と思いました。

 坂本金八の『坂本』は武田鉄矢さんが大好きな坂本龍馬からとったのでしょうが、この名前からして、とほほですね。

 武田鉄矢さんって、たしか司馬遼太郎さんと対談して『いつまでも坂本龍馬でも無かろう』って言われたんですよね。

 今になって、またぞろ坂本龍馬を担ぎ出して、『平成維新の会』とか『大阪維新の会』とかいう勢力が出てきて、日本のグローバル化という無責任な売国をはじめています。

 ところが、坂本龍馬の明治維新というのは、地方分権の幕藩体制を改め、強力な中央集権国家を作って、王政復古をして、日本の独立を守るためにとりあえず、国を開いて日本を近代国家として富国強兵をし、列強の植民地支配に対抗するという『開国を迂回した攘夷』なのであって、この連中の唱えている軽薄なグローバリズムとは背馳するのです。

 『3年B組金八先生』は、子供相手にジェンダーフリーとか、個性を大切にとか、ゆとり教育だとか、日本人をかくも愚かにした原因の一つになる洗脳番組です。

 たかが義務教育の中学校が、無政府状態の学内自治状態。

 ついには学園が無秩序に壊し、最後には警察機動隊の導入。
 
 本当に狂気の沙汰です。

 この番組制作者は全共闘の学園紛争の仇をテレビドラマで取ったつもりだったのでしょうね。

 まあ、日本と日本人が大っ嫌いな反日放送局のTBSの制作したドラマですから、こんなものなのでしょうが。

 この番組で、早崎文司さん演じる野村孝一郎教頭が唯一まともな大人でした。

 私は思いました。この人が桜中学の最後の良心じゃないかってね。
 

 ということで、典型的な自己保身のサラリーマンと言えば、

 水木しげるさんの漫画に出てくるキャラクターの『サラリーマン山田さん』。





 まあ、小心翼々としたサラリーマンの風貌がこれなのでしょうね。

 それにしても、最近の水木しげるさんは、反戦平和の神輿(みこし)に乗っけられて、なんか気味が悪いのですけれど・・・。

 水木しげるさんの自伝的ドラマ、『ゲゲゲの女房』では、本人役が向井理さんというドッコイショぶり。

 NHKっていうのは、本当に碌な物ではありません。


 この手の風貌で思い出すのが、

 天才戯作者だった井上ひさしさん。





 井上ひさしさんの作品は確かに面白くって、人間の持つ暗部も見事に描出しているのに、どうしてこの人が『明るい共産党』ど真ん中だったのかよく分からないねえ。
 
 この人の小説『吉里吉里人』なんて、国家は悪で、究極の地方自治である『分離独立』は偉いっていう話だったし。

 共産主義というのは、人間というのは、本当はどろどろしているくせに、人間の社会は理性と論理で割り切れるという本当に気持ち悪い思想です。

 ことの必然として、こういった社会は強圧的な管理を招来します。

 だから、どろどろした異物がでてきたら、健康的な収容所で処分するのですね。

 うーむ。

 ということで、今回のそっくりさんたちは、いわくがある人達の大集合でした。

 とほほ。






大阪名物のインデアンカレーだよ 【ファイルF50】2012.02.11 

【ファイルF50】2012.02.11 大阪名物のインデアンカレーだよ

大阪の有名カレー店だねえ。

 カレーはいろいろとご紹介してきましたね。私はカレーが大好きです。

 まあ日本人というのは概ねカレーが好きで、インドから大量のカレー用のスパイスが輸出されています。

 本場カレーや、欧風のカレーがありますが、今回は大阪の有名欧風カレー店のインデアンカレーです。

 大阪では人気のカレー屋なので、大阪に来たときにはいつかご紹介しようと思っていました。

 インデアンカレーは大阪に7店舗、兵庫県の芦屋に1店舗、そして東京の丸の内に1店舗の計9店舗あるそうですが、今回はJR大阪駅から歩いて行ける地下モールの阪急三番街B2『三番街店』にお邪魔しました。

 『インディアン』じゃなくて、『インデアン』なのです。

 インデアンカレーHPはこちら。
http://www.indiancurry.jp/

 『三番街店』です。





 ガラスのウインドウには、ターバン野口さんのようにターバンを巻いて白いおひげを蓄えた大きなインド人さんのステンドグラスがしつらえられています。

 このインド人さんがインデアンカレーのトレードマークなんだねえ。





 ターバンを巻いておひげを伸ばしているからには、カールサー派のシーク教徒の人なんだろうねえ。

 インドの最大派のヒンドゥー教の人達は、一般的にターバンしないのに、インド人=ターバンというイメージは世界的に広がっています。

 インデアンといえば、普通『インデアン嘘付かない』の、アメリカの西部劇に出てくるような頭に羽根飾りを付けたインデアンを思い浮かべるのですが、そういう意味ではなく、正真正銘のアジアのインドにお住まいのインド人という意味です。

 新大陸に来たコロンブスが、てっきりインドに付いたものだと思い込んだために、アメリカ大陸の先住民をインディアン(インド人)と呼ぶようになってややこしいんだね。

 ところで、以前大阪ミナミの自由軒の名物カレーをご紹介しました。
 記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/39052286.html

 自由軒のおばちゃんも『名物カレー』のことを「インデアン一丁!」と呼んでいたから、大阪の人は辛いカレーのことをインデアンって言うんだろうねえ。

 ということで、ここのメニューはいかにもカレー専門店らしく、インデアンカレーとハヤシライスのみです(店舗によって、あとインディアンスパゲッティ、ピラフ、ミートスパゲッティがあるようですが)。

 悩まなくて良いから楽ですね。

 私はインデアンカレーのレギュラー730円也をいただくことにしました。

 先にレジでお会計をすませて、小判型の黄色いプラスチックの札(食券)を受け取って、カウンター席医に座り、店員さんに渡すと、すぐカレーが出てきます。





 早い!牛丼の吉野屋さんより早い!

 まあ、ライスにカレールーをかけるだけですからね。

 美味しそうだねえ。

 早速食べるよお。





 インデアンと言っても本場インドのさらさらカレーではありません。

 口に入れるとご飯と一緒にとろっとしたまろやかルーが口いっぱいに張り付きます。

 フルーティーな甘みのある“こく”とともに、ビーフの旨味にやや遅れて刺激的な辛さで舌がぴりぴり!

 牛肉は長時間煮込んであって、繊維がほどけていくねえ。

 甘みとこくと辛さのバランスが絶妙だねえ。このお味は創業昭和22(1947)年以来変わらないそうです。

 インデアンカレーは、インドの先生を招いて、カレー作りを教わるほどに料理が好きだった創業者(現在の店主のお母様)が、戦後の不景気の中で活力のある美味しいものを出そうと大阪にお店を開いたのが始まりなんだって。

 戦後大阪復興のお味なんだねえ。

 食べ終わるまでお水は我慢して、食べ終わったら、ほどよい酸っぱさのキャベツのピクルスで口の中を落ち着かせ、お水を飲みます。





 お店を出てからしばらくしても、口の中がカレーでぴりぴりして幸せだねえ。

 ということで、今回は大阪名物インデアンカレーでした。

 東京の丸の内のお店でも良いけれど、大阪にお立ち寄りの際にはお越しくださいね。





防衛省市谷ツアーに参加したよ(その17)【ファイルET58】2012.02.08 

【ファイルET58】2012.02.08 防衛省市谷ツアーに参加したよ(その17)

三島由紀夫事氏の訴えたかったこと(上)。

 防衛省ツアーの市ヶ谷記念館大講堂の記事の続きです。

 その1から読まれる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52534735.html
 
 三島由紀夫事件について最初から読まれる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52963429.html
 
 前回は、三島由紀夫事氏の檄文(全文)を掲載いたしました。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53004853.html

 今回は、檄文について私なりの解釈を述べてみましょう。

 三島由紀夫氏は檄文で、憲法改正と、自衛隊の国軍化を訴えていました。

 まず、憲法というのはその国の最高法規です。

 ところが、日本国憲法は、日本が聯合国に占領統治されていた時代にGHQがフィリピンに押し付けた憲法を基にやっつけ仕事で作った国際法違反の押し付け憲法です。

 英文をむりやり短期間で翻訳したものだから、読みにくいったらありゃしないのに、どういうわけか左翼の人達は『声を出して読みたい名文だ』と言っています。

 この人達って本当に日本人なのでしょうか?

 日本の敗戦当時、日米共に批准していた国際条約=戦時国際法に『ハーグ陸戦条約』というのがあります。そこには、

 ※   ※   ※

第43条 [占領地の法律の尊重]  国の権力が事実上占領者の手に移りたる上は、占領者は、絶対的の支障なき限、占領地の現行法律を尊重して、成るべく公共の秩序及生活を回復確保する為、施し得べき一切の手段を尽すべし

 ※   ※   ※

 という条文があります。

 GHQの押しつけ憲法は国際法違反の重大犯罪です。

 この条約を制定し、批准した国々は、まさか『占領地の現行法律を尊重』するどころか、最高法規である『憲法』を改変するような厚顔無恥の無法者国家が出現しようとは夢想だにしなかったに違いないのです。

 それについて三島氏はこう述べています。

われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されてゐるのを夢みた。しかも法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によつてごまかされ、軍の名を用ひない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因を成して来てゐるのを見た。


 最高法規である憲法がこのような欺瞞に満ちた存在なのに、誰がそれより下位の法律なんて信用するのでしょうか?

 今の憲法自体が、法治国家の否定なのです。

 これが国民のモラルの崩壊を招くのは当然のことです。

 ※   ※   ※

第二章 戦争の放棄

第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 
 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 ※   ※   ※

 普通に上記の日本国憲法第9条を読んだら、自衛隊はあきらかに憲法違反(違憲)の存在でしょう。

 『国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する』っていうのですからね。

 つい先日も、田中直紀防衛大臣が自衛隊の合法性の根拠を答えられなかったといって批判されていましたが、この『根拠』というのが『1946年8月21日:日本国憲法草案に対する芦田小委員会修正案』だというのだから笑わせます。

 これは、『前項の目的を達するために、』という文言が2項の冒頭にあるのだから、『前項の目的に含まれていない』自衛のための『陸海空軍その他の戦力は』『これを保持』してもいいし、『自衛行為』は認められているというのです。

 しかしながら、『自衛行為も』前項の『武力による威嚇又は武力の行使』であり『国際紛争を解決する手段』に含まれるのですから、明白に憲法違反じゃないですか。

 こんなの理屈にも何もなっていないインチキです。

 こういうインチキ解釈をやるのが東大法学部と官僚なんですよね。

 ところが、三島由紀夫氏自身が、東大法学部卒で官僚中の官僚である大蔵省(現財務省)に入省していたのです。

 三島氏はこの日本の代表的な本流中の本流のエリートコースを何の未練もなく捨て去り、辞めてしまったのですが・・・。

 そもそも軍隊というのは、命のやりとりをする公務です。

 例えば、一般人(非戦闘員)を殺せば『殺人』なのが、正規の戦闘行為に於いて相手の戦闘員を殺せば、それは『戦果』であり、『英雄』として勲章が授与されたりします。

 チャップリンの『殺人狂時代』という映画の最後の台詞『一人殺せば犯罪者だが、100万人殺せば英雄』というのは、『反戦平和』とやらをお題目のように唱える日本人もよく引き合いに出しますが、これは全くの出鱈目です。

 この人は、左翼の例に漏れず、全く戦闘員と非戦闘員の区別が付いていません。

 軍人といえども、国際法上、非戦闘員を一人でも殺せばこれは殺人なのであって、立派な戦争犯罪者です。

 アメリカ軍の東京空襲他大都市の非戦闘員の虐殺を目的とした空襲や、来るべき東西冷戦構造を見越したソ連共産主義へのデモンストレーションと、原爆の人体実験を目的とし、非戦闘員の大量虐殺を引き起こした広島長崎の原爆投下で、民間人を100万人以上殺しましたが、これは『国際法違反の戦争犯罪=殺人』以外のなにものでもないのです。

 自分が殺されることが敵の名誉になる。

 つまり、常に死と隣り合わせである過酷な公務の『軍人』が、戦うとすれば、『命以上の価値=大義』がなければなりません。

 当たり前の話です。

 なのに、自衛隊の根拠が自衛隊を否定するインチキ憲法だからたまりません。

 三島氏はこう述べます。

?H1>日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまつた憲法に体をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。

 命以上の価値。

 日本の文化・歴史。日本の国体(国柄)を徹底的に破壊し、日本を二度とアメリカに刃向かえないように7年間に亘って占領し、洗脳し続けてきたのがマッカーサーのアメリカでした。

 親米、親ソ、親支那、親北鮮。これらの人達は立場か違うように見えても、いずれも日本の文化・歴史。日本の国体の破壊については同じ穴の狢(むじな)なのです。

?H1>楯の会の根本理念は、ひとへに自衛隊が目ざめる時、自衛隊を国軍、名誉ある国軍とするために、命を捨てようといふ決心にあつた。憲法改正がもはや議会制度下ではむづかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の前衛となつて命を捨て、国軍の礎石たらんとした。国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によつて国体があきらかになり、軍は建軍の本義を回復するであらう。日本の軍隊の建軍の本義とは、「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」ことにしか存在しないのである。

 三島氏は、議会制度下での憲法改正は不可能だと判断していました。

 ですから、安保騒動に於ける争乱の収拾が警察では不可能だとなった時、自衛隊の治安出動がなされ、これによって、「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」という日本国軍の建軍の本義が日本国民の目にもあきらかになり、これによってのみ、憲法改正が可能だと考えていたのです。

 ところが、三島氏の企図はもろくも崩れ去ります。

しかるに昨昭和四十四年十月二十一日に何が起つたか。総理訪米前の大詰めともいふべきこのデモは圧倒的な警察力の下に不発に終つた。その状況を新宿で見て、私は「これで憲法は変らない」と痛恨した。その日に何が起つたか。政府は極左勢力の限界を見極め、戒厳令にも等しい警察の規制に対する一般民衆の反応を見極め、敢て「憲法改正」といふ火中の栗を拾はずとも、事態を収拾しうる自信を得たのである。治安出動は不用になつた。政府は政体維持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗り切る自信を得、国の根本精神に対して頬つかぶりをつづける自信を得た。


 結局極左暴力集団の煽動によるデモは警察権力のみによって鎮圧されたのです。

 この結果、どういうことが起きたのか?

これで、左派勢力には憲法護持の飴玉をしやぶらせつづけ、名を捨てて実をとる方策を固め、自ら護憲を標榜することの利点を得たのである。名を捨てて、実をとる!政治家にとつてはそれでよからう。しかし自衛隊にとつては、致命傷であることに、政治家は気づかない筈はない。そこでふたたび、前にもまさる偽善と隠蔽、うれしがらせとごまかしがはじまつた。


 『名を捨てて、実をとる』。民主主義が政治的なルールである以上、政治家はこれで安泰なのです。

 佐藤栄作首相は、事実これにより長期安定政権を保持し、これがベトナム戦争等で混乱をしていた東南アジアでの最後の秩序の砦となり、後にこれが評価され、佐藤栄作氏はノーベル平和賞を受賞したのです。

 ところが、『命のやりとり』を職務とする軍隊にとって、『命以上の価値』がなければ、命がけの戦闘に向かえるわけなどないのです。

 以前、第一神風特別攻撃隊大和隊 海軍大尉 植村眞久命の遺書を御紹介しました。
 http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52406990.html

 特攻により散華された植村大尉は、当然、祖国と残してきた家族に自分の命以上の価値を見いだしていたのです。

 日本はいまだにこういった国の存亡にかかわるような重要問題を先送りにし、うやむやにしながら、国体を朽ち果てさせていっているのです。

 (中)に続きます。

よこはま動物園ズーラシアのゾウさんたち(上) 【ファイルC237】2012.02.05 

【ファイルC237】2012.02.05 よこはま動物園ズーラシアのゾウさんたち(上)

アジアゾウさんは頭が良いねえ。

 よこはま動物園ズーラシアの記事もまだまだあります。随分と以前の写真を使うのが辛いのですが、そのへんはご容赦ください。

 よこはま動物園ズーラシアの入り口からすぐのところに、アジアゾウさんがお住まいです。

 ここには、オスのラスクマルさんと、メスのチャメリーさんと、メスのシュリーさんの合計3人のゾウさんがいるのです。

 開場時間で入場してすぐに、ゾウさんの訓練時間がきます。

 象に乗ったお兄さんが登場します。耳が内側に折れていているのがメスのチャメリーさんらしいので、こっちはメスのシュリーさんかな?

 


 

 お兄さんったら少年ケニアみたいだねえ。

 ようこそいらっしゃいました。

 


 

 ていねいなご挨拶でびっくり。

 片足上げぱおんをします。

 


 

 こっちがメスのチャメリーさんかな?

 


 

 オスのラスクマルさんは、大きな溝越に訓練をします。

 


 

 なぜかというと、ここのゾウさんは三人とも大人しいのですが、ラスクマルさんの『こめかみ』を見て下さい。

 


 

 分泌線から『涙』のような分泌液が流れて、皮膚が濡れているのがわかりますね。

 オスのゾウさんは発情すると、こうなるのです。

 こういうときは、いつも優しいゾウさんでも気が荒くなるので危険だから近づけません。動物園の事故は大人しいゾウが最も多いということです。

 だから、オスのラスクマルさんだけメス2人と隔離して、こういう溝越の訓練なのですね。

 ところで、オスが発情しているということは、赤ちゃんの生まれるチャンスですよね。

 飼育員のお姉さんに聞いたらば、オスのラスクマルさんは、2人いるメスのうち、片方に一生懸命モーションをかけようとするのですが、モーションをかけられなかった方のメスが、それを『攻撃』と受け取って、モーションをかけられたメスを守ろうとして、邪魔するんだって。

 なんかうまくいかないねえ。

 もう一人、オスのゾウさんが必要なのかな?


 でも、ラスクマルさん、ちゃんと素直に足を上げているねえ。

 


 

 今度は、シュリーさん(写真向かって右)とチャメリーさん(同左)との共同作業だよ。

 二人で永い棒を持ってご挨拶。

 


 

 こんどは起ち上がってぱおんをします。

 


 

 棒を持って、ぱおんをしながら、片足をあげるよ。

 


 

 上手だねえ。

 一方、隔離されているラスクマルさんは、二人でチームプレーを楽しんでいるのが羨ましくてなりません。

 


 

 深くお辞儀をしたりしています。

 


 

 お兄さんが降りるので、かがんで右前足をステップのように折り曲げて降りやすいようにするシュリーさん。

 


 

 頭が良いねえ。

 健康診断の時間だよ。

 前足を台に乗せ、診断を受けるチャメリーさん。

 


 

 後ろ足を台に乗っけて診断を待つシュリーさん

 


 

 ということで、3人ともとても大人しくて良く言うことを聞いて、仲良しさんです。

 (下)に続きますね。








大坂の堂島米市場跡だよ 【ファイルT167】2012.02.02 

【ファイルT167】2012.02.02 大坂の堂島米市場跡だよ

大坂は世界最先端の商業地域だったんだねえ。

 江戸時代の大坂(大阪)は天下の台所として栄えました。
 日本全国の年貢米がこの地に集まって、各藩はこれを売ったお金を参勤交代で詰めていた江戸で消費したのですね。

 当時はトラックがないので、米は船で運びました。
 昔の商都は大坂といい、ヴェニスといい、運河が発達していたのです。
 
 だから、大坂は運河が張り巡らされ、その結果橋がいっぱい架けられ、『八百八橋(はっぴゃくやばし)』って言われました。

 今はトラック輸送になったので、運河は埋め立てられ、道路になっています。

 江戸時代の大坂は経済の中心として重要だったので、大名や藩を置かずに、幕府の直轄地として幕府が直接支配をしていました。

 堂島川沿いには、堂島米市場がありました。

 ここが、堂島米市場跡の記念碑です。





 二人の子供が稲穂で遊んでいますね。





 この像は1953年(昭和28年)彫刻家横江嘉純氏により製作され、(昭和30年)堂島米市場跡建設により、寄贈されたものです。

 堂島米市(どうじまこめいち)の様子です【大阪歴史博物館】。





 ここでは春・夏・冬の三期に分けて取引が行われました。

 取引期間をまたがっての取引はできません。

 上の絵にはお米が描かれていませんね。

 それもそのはず、お米の現物をもちよらず、蔵屋敷(くらやしき)で発行された米切手(こめきって)を米仲買(こめなかかい)たちが売買するのが米市場(こめいちば)なのです。

 ここで決まった米相場は飛脚(ひきゃく)などで各地に伝えられ、全国の米価や物価に大きな影響力がありました。

絵では、男の人が柄杓(ひしゃく)で取引している人に水をかけています。失礼だねえ。


 『摂津名所図会(せっつめいしょずえ)』の絵でも柄杓で水をかけているし。







 これは何かというと、まず一日の堂島米市場の取引の流れを御紹介しましょう。

 取引は午前8時から午後2時まで開かれました。
 まず前日の火縄値段(後述)を元に寄付き値段(始値)を決めます。
 午前に取引を行い、正午に一旦引けます。

 午後に入って立合いを再開します。
 午後2時の終了時刻前になると長さ一寸ぐらいの火縄に火をつけて立合場の軒先に吊るし、それが燃え尽きた時点で取引終了としました。この時の値段を火縄値段といい、次回の始値となります。

 火縄が消えれば、場に集まった仲買は直ちに散会しなければならないのですが、なおも未練がましく売買を続ける者もあって、そのときは水方役が水を撒き追い散らしたのです。

 これが水方役という役職の名称の由縁です。 これには一番水、二番水、三番水があって、三番水のときの値段を「桶伏値段」といって相場触に記入されました。

 それにしても、取引が過熱してルールを守らなかったからとはいえ、水をかけるなんて酷いねえ。

 ということは、二人の子供の像も、本当は稲穂じゃなくて、水をかける様子を表しているているのかも。

 江戸時代、諸藩はこの中之島周辺に蔵屋敷を置き、領国から送られてきた蔵米や国産品を換金しました。

 広島藩蔵屋敷復元模型(1/50)です【大阪歴史博物館】。





 蔵屋敷の外観と中の様子の両者とも慶応2(1866)年の「大坂御蔵屋敷全図」をもとにしています。

 模型は広島からの年貢米の米俵を積み上げて乾燥させ蔵に収納する場面、蔵屋敷の役人や年貢米の販売を行う商人が米の落札者を決めている場面、御殿(ごてん)で藩主が出入りの大坂商人たちと面会している場面を設定しています。

 広島藩の蔵屋敷は近年発掘調査が進み、大きな船入(ふない)り跡や御殿の遺構などが発見されていて、更に遺跡・絵図・古門書などいろいろな側面から、その姿が浮かび上がりつつあるそうです。

 このような蔵屋敷の販売事務を町人(掛屋)が代わって行うようになり、町人蔵元が出現しました。


 蔵米の取引を最初に開いたのが、淀屋(よどや)の2代目淀屋个庵(よどやこあん)といわれ、そのため「淀屋の米市」と称されていました。

 ところが宝永2(1705)年、隆盛を極めていた淀屋が幕府から『町人の分限を超え、贅沢な生活が目に余る』と闕所(けっしょ:財産没収)所払いになった後、堂島の地に米市場が移転して堂島米市場が成立しました。

 その後江戸商人による公認の市場開設などありましたが、享保15(1730)年公認の帳合米市場である「堂島米市場」が発足しました。

江戸時代、大坂のほかに江戸、京都、大 津、下関にも米市が立っていましたが、堂島米市場で立った相場で取引がなされ、ここで立った相場が全国の米相場の基準とされたのです。


 当時大坂は全国の年貢米が集まる一大経済センターで、米会所では米の所有権を示す米切手が売買されていました。ここでは、正米取引と帳合米取引が行われていましたが、前者は現物取引、後者は先物取引です。

 帳合米取引は、米の値が上がったり下がったりして損をしないように、リスクヘッジのため予め売買価格の予約を行う先物取引(さきものとりひき)で、敷銀という証拠金を積むだけで、差金決済による先物取引が可能で、投機(とうき)的な性格を持った取引も行われていました。

ここの先物取引は、大阪証券取引所を始めとする、世界各地の組織化された商品・証券・金融先物取引の先駆をなすものであり、世界の先物取引発祥の地とされています。


 今は世界中で、やれ金融工学だ、リスクヘッジだ、レバレッジだとか言いますが、そもそもの元祖がここ大坂堂島の米市場だったのです。

 この頃の大坂は名実共に、世界一でかつ世界最先端の商業都市だったのです。

 凄いねえ。

 徳川吉宗の時代の享保16(1731)年2月、幕府は初めて米仲買株441株を許可し、米方年行司を定め、17年4月に521株、20年7月に351株を許可し、合計1313株となり、別に米方両替株50をも許しました。

 天保13(1842)年8月、幕府は天保の改革の一環として株仲間を解除することとなり、堂島市場組織も変革を余儀なくされました。

 これにより従来の仲買に限らず、誰でも米方年行司に届済の上、市場に出て払米その他の売買ができるようになりました。

 ただし従来通り市場の取締は、年行司がこれに任じられました。

 嘉永4(1851)年、株仲間再興の結果、堂島は仲間人員の検査取締のため、再び鑑札を下付されます。

 天下の台所として賑やかだった米市場でしたが、幕末になると国内が騒然とし、貨幣制度が乱れて米価が甚だしく変動したため、4ヶ月を1期間とする帳合米取引が困難になり、幕府の許可を得て石建米商を実施しました。

 しかしながら、財政難に陥った幕府や諸藩が極端な投機に走り、米がないにもかかわらず空手形を乱発したために米の価格は高騰して市場は混乱し、堂島米会所はその機能を喪失していきます。

 なんか、リーマンショックを連想しますね。

 その結果、幕府崩壊と共に、堂島米会所は明治2(1869)年に明治政府により廃止されました。

 それに伴い堂島周辺の諸藩の大名蔵屋敷も没収されました。

 その後、明治26(1893)年に堂島米穀取引所として再建されるのですが、過剰投機により米騒動を引き起こすなどしたため、これも昭和14(1939)年に廃止されました。


屋根の上で旗を振っている人が居るねえ【大阪歴史博物館】。






 江戸時代後期から、明治・大正時代頃まで、大阪堂島の米相場を各地に伝えるのに飛脚以外に、「旗振り通信」が使われました。ここから、見通しの良い櫓や山の上に設けた中継所を次々と連絡して、手旗信号によって伝えていたのです。その通信所が設けられていた山が「旗振り山」です。

 当時は堂島の米相場が諸物価の基本となっていて、商人たち は、米相場をいち早く知ろうとしていたのです。

 米相場は、一日に3~4回程度伝えられ、熟練した手旗通信手が通信にあたっていました。中継所の間隔は、地域によって様々ですが、望遠鏡を用いれば約24km先まで通信できたそうです。

 1回の手旗送信に要する時間はほぼ1分程度で済み、大阪の堂島から和歌山間が3分、京都 まで4分、大津まで5分、神戸まで7分、桑名まで10分、広島まで40分で伝わったというから、びっくりだねえ。

 手旗送信は電信(電話、電報)の発達によって次第に廃れて いきますが、大正時代頃まで残っていたそうです。

 大江橋から堂島川を望んだ風景です。





 堂島川に中之島ガーデンブリッジが架かっていますが、写真右のたもとのあたりが堂島米市場跡です。記念碑・記念像の上を覆い被さるような高架橋が阪神高速1号環状線です。

 堂島米市場跡の後ろの堂島川の風景です。





 昔はこんな堤防が無かったのですね。それにしても、今の堤防でも、大津波がきたら危ないかも。

 いまはビルが建ち並んで、大阪経済の中心であることは間違いないのですが、大阪本社だった企業が、どんどん本社を東京に移しています。

 首都移転とか副都とかいうんだったら、その前にまず東京に行った企業から大阪に本社を戻さないと。世界一の商都だった過去の栄光の思い出に浸るにはまだ早いねえ。

 日本の、そして地方の再生は大阪が先頭に立たなければならないと私は思います。





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