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大坂(大阪)長堀【島之内、鰻谷(うなぎだに)】の住友本宅跡だよ(その4) 【ファイルT171】2012.03.30 

【ファイルT171】2012.03.30 大坂(大阪)長堀【島之内、鰻谷(うなぎだに)】の住友本宅跡だよ(その4)

江戸時代の銅の概要について。

 (その1)から読まれる方はこちら。
 http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53064436.html

 若狭(わかさ:現在の福井県)の三幸銅山(さんこうどうざん)から送られてきた荒銅につけられていた荷札木簡(にふだもっかん)の写真。





 住友家は各地の銅山経営を請け負っていましたが、その中でも柱となったのが伊予(現在の愛媛県)の別子(べっし)銅山でした。上の写真は三幸銅山からの荷札ですが、各地からこうやって荒銅が送られてきたのですね。


 発掘された陶磁器の写真。





 遺跡からは、かなり上質の国産や輸入の陶磁器が多く出土しています。
 輸入品は支那清朝の青花磁器(せいかじき)が多く、これらは、同じ種類の食器が数十客単位であり、見学に訪れた幕府高官やオランダ人の接待のために使用されたものと考えられているそうです。

 
 銅吹屋の重要な立地条件に、水辺に近い場所というのがあります。

 それは、銅の運搬を船で行う必要があることと、精錬にあたって大量の炭と水を必要があるからです。

 大坂に新しく作られた島之内地区は四方が堀に囲まれていて、水運の便が良く、銅吹屋が必要とする水に恵まれ、火を使用するための広大な敷地も確保もできて格好の場所でした。

 江戸期の大坂の銅施設の分布図。





 こうやってみると、住友の銅吹所は、北に長堀川、東に東横堀川がある角地、水に恵まれた場所に立地していることが分かります。
  
 本宅の東を流れていた現在の東横堀川はまだありますが、北の長堀川は堀が埋め立てられて、現在は広い道路になっています。

 江戸期の銅吹屋の頂点を極めていた住友家の友以さんが、銅吹所をこの地に移したのは寛永十三(1636)年のことでしたが、そういう理由にもとづいていたのですね。

 工業というのは、結局何はなくとも水が必要なのです。水は冷却や洗浄に無くてはならないからです。

 例えば、サウジアラビアなんて、あれだけお金があるし、将来の石油の枯渇に備えて、工場を沢山建設して産業を興すべきだと思うのですが、それができません。

 肝心の水がないからです。他の資源は余所からの輸入で何とかなりますが、水だけはそこで手に入らなければどうしようもないのです。

 中華人民共和国も砂漠化が進み、工業廃液による汚染と相まって、恒常的な水不足に見舞われています。

 それで、ロシアのバイカル湖や日本の水資源に目をつけているようです。

 日本のメディアは頻りにその巨大なマーケットに幻惑されて、頻りに支那への進出を煽りますが、そんな与太話を信用するとろくな事がありません。

 銅の流通経路です。

 




 輸出用の棹銅(さおどう)は、インドや中国で銅銭や軍事用品・船具などに加工されました。国内用の銅(円形の丸銅(まるどう)や四角の丁銅(ていどう)は銅銭や鍋・釜(かま)・やかん・盥(たらい)、建材などに用いられました。

 鉱山の分布地図

 




 石見銀山(いわみぎんざん)は世界遺産に指定されていますし、佐渡の金山銀山も、世界遺産を目指しているようです。別子銅山も世界の銅相場に影響を及ぼすほどの影響力があったわけですから、世界遺産級の価値がありますね。

 銅のインゴットです。

 




 精錬炉の断面を剥ぎ取ったものです。

 




 坩堝(るつぼ)です。

 




 南蛮床前蓋です。

 




 この部分に使われました。

 




 ということで、次回に続きますね。







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防衛省市谷ツアーに参加したよ(その20) 【ファイルET60】2012.03. 26 

【ファイルET60】2012.03. 26 防衛省市谷ツアーに参加したよ(その20)

便殿の間は陛下の休憩所。

 (その1)から読まれる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52534735.html
 
 三島由紀夫氏の記事を一区切りして、市ヶ谷ツアーの記事を続けます。

 旧便殿の間(びんでんのま)です。





 士官学校時代、この部屋は天皇陛下の休憩所(御便殿の間)でした。その後は陸上自衛隊幹部学校長室として使われました。

 できた当時は冷房設備が無く、陛下が夏に涼しいように工夫されていました。

 ですから、送風口からは、地下から送られた自然の風が、柱の中の送風管を通って部屋に送られて来る仕組みになっているのです。

 送風口はこんな感じ。





 ここから涼しい風が吹いてくるのですね。

 それにしても、空調がなかった昔は、夏の陽で焼けた風通しの悪いコンクリートの建物は暑かったでしょうね。


 大正天皇より拝領の煙草盆が展示されています。





 これは内山小二郎大将旧三期が侍従式部官長当時大正天皇から拝領し、内山家の家宝としていたものです。大砲の形をしていますね。

 さすがは陛下直々の品なので、細工が細かくて精緻なのです。


 煙草盆を拝領した内山小二郎さんの胸像です。





 説明書きにはこうあります。
 陸軍大将 内山小二郎
 安政6年10月 鳥取に生る
 明治12年 砲兵少尉
 明治12年 陸大卒
 以後 露、仏各国公使館付武官
 第15.12師団長
 侍従武官長を歴任
 大正4年 陸軍大将87才で没
 砲兵の運用で有名 日清、日露戦役では、「内山砲兵」の勇名を博す

 内山閣下は砲兵として活躍されたので大砲の形の煙草盆を拝領されたのですね。大正天皇のきめ細やかなご配慮なのでしょう。


 特別大演習の写真が展示されています。





 昭和9年、群馬県下で行われた特別大演習です。

 中心に昭和天皇(大元帥陛下)がいらっしゃいます。





 1階の玄関には市ヶ谷記念館のシンボル『大時計』『桜』が展示されています。

 大時計です。





 『1号館』の大時計として、平成9年の解体まで波瀾万丈の時を刻みました。

 旧1号館の写真(再掲)。





 建物の天辺に掲げられていますね。

 桜です。





 陸上自衛隊東部方面総監部等が使用した『1号館』のシンボルとして、長い人々に親しまれました。

 三島由紀夫氏が、バルコニーで演説した時の写真にも、この桜の下の部分が写っています。





 総監室に展示されていた模型で大時計と桜の位置関係を示しました(再掲)。





 こうやって歴史を見つめ続けてきた遺品が保存されていることはとても良いことですね。

 ということで、次に続きますね。

大阪高麗橋(こうらいばし)の柴藤(しばとう)さんの大阪まむしを食べたよ 【ファイルF51】2012.03.23 

【ファイルF51】2012.03.23 大阪高麗橋(こうらいばし)の柴藤(しばとう)さんの大阪まむしを食べたよ

大坂風の腹開きの鰻(うなぎ)さんだねえ。

 江戸のうなぎは背開きで、大坂のうなぎは腹開きだと言われています。

 それは、

 江戸は武士の街ですから、腹開きは切腹に通じ、縁起が悪いから背開き。

 大坂は町人の街だからそんなの関係ないので、『腹を割って話せるように』腹開きという俗説がありますが、これは、あくまで『俗説』で本当の理由では無いそうです。


 第一、うなぎなんて江戸でも基本的に町人の食べ物だし、大坂商人は「腹を割って話す」というのが良く分かりません。商売には相手の腹を探って駆け引きする腹芸も必要だからです。

 そうではなくて、

 江戸の場合は開いてから蒸す工程があるので、腹開きにして脂分たっぷりの柔らかいお腹側が外になると、蒸されて更に柔らかくなったお腹の身が、いざ本焼きするときになったら、ぐずぐず崩れるから、堅い方の背中側が外に来る背開きなんだって。

 腹開きだとこんな風になるんだねえ。





 外側が柔らかいお腹になって、蒸し焼きすると身が崩れて外側に打つ串も外れるんだね。

 ところが、大坂は開いてすぐに焼く直火焼きなので、普通に腹が外側に来る腹開きというのが本当の理由のようです。

 東京(江戸)と大阪(大坂)の基本的なうなぎの焼き方を見てみましょう。

 江戸は背開きで、割いたうなぎの頭を落として半分に切って竹串を打ち、皮の方から一度白焼きしたものを、せいろで蒸して脂を抜いて柔らかくし、タレの中にうなぎをつけ込んで本焼きします。

 大坂は腹開きをし、頭をつけたまま金串を打って身の方から白焼きした後、タレをかけながら、じっくり本焼きし、焼き上がってから頭を落とします。

 ですから、一旦蒸す江戸のうなぎの方が蒸して脂を落とすので、柔らかく淡泊なお味。

 大坂のうなぎはパリパリで、脂がのって濃厚だと言われているそうです。


 ところが、なんか大阪でも大坂風(関西焼)の鰻屋さんが減ってきて、『竹葉亭(ちくようてい)』のような江戸風(関東焼)の鰻屋さんが氾濫しているようです。

 それは、大坂上方風の『まむし』、つまり腹開きの直火焼きで仕上がりを柔らかくするには、蒸しという工程が入る江戸風の鰻より高度な技量が必要なので、大阪でも、本来の『大坂風(関西焼)』の蒲焼きを出すお店が年々少なくなっているからなのだそうです。

 つまり、蒸せば柔らかくなるのは当たり前で、鰻独特の味を閉じ込めたまま、直火焼きだけで柔らかく仕上げる大坂風の鰻の高度な技術の継承がうまくいっていないのですね。

 大阪の人達は、口を開く度に『ぶっこわす』という橋下市長を支持している場合じゃなくて、こういう貴重で誇るべき文化を絶やさないように努力すべきだと思うねえ。

 鰻に限らず、今は東京では関西風の出汁のうどんが増えてるし、逆に大阪では江戸風のにぎり寿司が増えているようなのです。困ったもんだねえ。


 でも、大阪で鰻を食べるからには腹開き直火焼きの大坂風のうなぎに限るねえ。

 ということで、今回訪れたのは大坂風の鰻の代表格、大阪市中央区高麗橋(こうらいばし)2丁目の大阪うなぎ及び日本料理の老舗 享保年間創業十四代目本家柴藤(しばとう)さん。





 まだ準備中のお店です。





 和歌山の備長炭で焼いています。





 本日は宮崎産のうなぎを使用しているそうです。





 柴藤さんのうなぎは、昔と違って”産地うんぬん”ではなく、今日はどの産の鰻が“うまい”かを市場で判断して仕入れているそうです。


 お店に入ると、1階で夕刊をくれました。

 つまり、「焼くのに時間がかかるので、新聞でも読んで待っててね」ということみたいです。

 それで2階に案内されました。

 それで、せっかく大阪でうなぎを食べるので、奮発して『大阪まむし』の『蘭』4,350円也を注文しました。『柴藤流おひつまむし』というのも魅力的なんですけどね。 

 養殖鰻は、卵から育てる完全養殖は技術的にまだ不可能なので、シラスウナギという鰻の稚魚を海で獲って、それを育てます。

 ところが、最近このシラスウナギが不漁で、鰻の値段が業界始まって以来の高騰をし、柴藤さんも最近値上げをしたそうです。鰻価格の高騰のため、店を畳む鰻屋さんも出てきて、事態は深刻なのです。


 お汁は赤だしにするか、肝吸い(きもすい)にするか訪ねられたので、肝吸いをお願いしました。お店の方がとても気さくで丁寧に応対していただきましたよ。

 思ったほど時間がかからずに、『大阪まむし』の『蘭』が出てきました。





 うなぎさんがご飯の上を泳いでいます。
 




 この、ほんのりキツネ色の焦げ目とタレと脂の照りが美味しそうだねえ。





 さっそく山椒の粉を振りかけて食べるよ。
 
 焦げ目の付いた香ばしい皮に弾力がありますが、身は柔らかいねえ。

 鰻独特の風味が口に広がって鼻に抜けますが、脂はしつこくありません。

 焼かれて香ばしい香りの甘辛いタレが鰻とご飯の味を引き立たせて、山椒の粉のスパイシーさが味を引き締めます。

 このタレは、本たまり、本味醂、灘の酒が使われ、それが創業以来の製法を守り続けた柴藤さんの味なのだそうです。タレだけでもご飯が進むねえ。

 鰻はご飯の上だけでなく、ご飯とご飯の間にも入れてあって蒸されているので『間蒸し=まむし』なのですが、その名の通り、ご飯の間にも鰻が入っていて、これも美味しいのです(現在はごはんの間に小2切れ、上に大3~4切れのせてあるそうです)。


 肝吸いです。





 関西風の上品な薄口のお澄ましです。
 うな肝はぷにゅっと弾力があってつるんと喉を通りました。

 それで、ご飯が足りなければ、値段はそのままでご飯の増量が可能だそうですが、これだけでお腹いっぱいです。

 ごちそうさまでした。


 うなぎの蒲焼きはサキ三年、クシ八年、焼き一生といわれ、どれだけ手早く包丁で裁き、串うちをするか、その仕事次第でその後の焼きがうまくいくかどうか影響するんだって。


 本家柴藤さんは、享保年間創業です。

 創業者の初代治兵衛さんは将軍家に魚を献上する川魚商を営み、八代将軍 吉宗さんからの勧めで料理屋「柴藤」を大阪城付近で開業したのが始まりだと伝わっているそうです。

 享保の改革で有名な、暴れん坊将軍の出入りの魚屋さんなんて、凄いねえ。

 江戸武士の棟梁(とうりょう)である、八代将軍 吉宗さんからの勧めで開いたお店で出されるうなぎが『腹開き』だということだけでも、『江戸=武士=切腹を嫌う=うなぎは背開き説』は破綻していますね。

 そういえば、三代将軍徳川家光の時代に贔屓にされたという一心太助(いっしんたすけ)さんという魚屋さんがいましたね。太助さんは伝説上の人物なんだそうですが、将軍様は魚屋さんと縁が深いのかな?


 川の多い水都大阪の町では、屋形船でおいしい料理を楽しむのは風流とされ、柴藤さんもとても繁盛しました。

 しかし、ところがそれだけでは満足しなかった創業者の治兵衛さんはうなぎの美味しい食べ方を研究して、ついにうなぎの代表的料理の『間蒸し(まむし)』=鰻重(うなじゅう)を考案したんだって。

 間蒸しというのは、ご飯とご飯の間にうなぎを挟んで蒸すもので「ご飯の間(ま)で蒸す」というのが語源といわれています。

 また、まぶす(混ぜるということ)が言いにくいので、いつの間にか「まむし」と 言うようになったという説もあるそうです。

 蛇の蝮(マムシ)さんとは関係ないんだねえ。

 柴藤さんのお店は、創業享保年間御拝領の屋形船から土佐堀、淀屋橋、今の高麗橋へと時代とともに移り変わりましたが、治兵衛さんが発明した大阪まむしは上方鰻の代表として、280年経った今もみんなに愛されているんですね。

 ということで、今回は大阪風腹開きの鰻で有名な柴藤さんの『大阪まむし』でした。

 大阪の味を味わいたいという鰻好きの方はどうぞ。








金環日蝕(日食)・部分日蝕(日食)のお知らせ 【ファイルSI 03】2012.03.21

【ファイルSI 03】2012.03.21 金環日蝕(日食)・部分日蝕(日食)のお知らせ

雄大な天体ショーだねえ。

 3年前に部分日蝕の記事を掲載しました。

 【ファイルPho20】2009.07.22 部分日蝕
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/49037657.html

きたる平成24(2012)年5月21日(月曜日)の朝に日本で再び日蝕(日食)を観ることが出来ます。


ところが、今回は、九州南部・四国の大部分・紀伊半島から本州の関東付近にかけての地域などを通る「中心食帯」と呼ばれる帯状の地域の中で、金環日蝕(日食)を見ることができるのです。


 また、それ以外の地域では、日本全国で前回同様の部分日蝕(日食)を見ることができます。

 詳しい日時、場所については、こちら国立天文台 天文情報センター 広報室のサイト(下記)をご覧下さいね。
 
 日食のサイトはこちら。
http://naojcamp.mtk.nao.ac.jp/phenomena/20120521/

 『いつ、どこで見られるの?』のページ
http://naojcamp.mtk.nao.ac.jp/phenomena/20120521/about.html

 『暦要項 (各都道府県での状況を、一覧でご覧になることができます)』のページ
http://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/yoko/2012/rekiyou125.html

 『日食各地予報 (「2012/05/21金環日食」を指定して、任意の地点での状況を調べることができます)』のページ
http://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/koyomix/eclipsex_s.html


 金環日蝕は、月に隠れた太陽がドーナツ状になって、普段は光球の輝きに妨げられて見ることができないコロナや紅炎を見ることが出来ます。

 また、太陽がすべて隠れる直前と直後(より正確には直後のみ:直前はリングにあたるコロナが見えないので)には太陽の光が一ヵ所だけ漏れ出て輝く瞬間があって、これをダイヤモンドリングと言います。
 
 特にこのような金環日蝕はめったに観られるものではありませんから、見られる地域の方は必見です。

 前回日本の部分日蝕の時、金環日蝕を見るためにわざわざ海外まで行った人もいたくらいですからね。

 宇宙飛行士の毛利衛さんは、こう仰っています。

 『余市高校に入学した年の六三年夏、兄にさそわれて道東の網走まで出かけて見た、かいき日蝕の美しさ、神秘さは、宇宙へのあこがれと科学者をめざす気持ちをふくらませました』
http://www5.hokkaido-np.co.jp/kyouiku/kodomo/000513mouri/index.php3

 毛利さんは、昭和38(1963)年7月21日の皆既日蝕をわざわざ北海道を横断して見に行ったのです。

 子供さんは一生の思い出になりますね。 
 
 晴れるといいねえ。


 【注意!】
 太陽は直接見ると目を傷めます。日光には、有害な紫外線などが含まれるので、網膜のやけどや後遺症、ひどい場合には失明を引き起こすことがあるので、とても危険なのです。
また、煤のついたガラスや黒い下敷き、カラーネガフィルムによる遮光では不十分なので、観察には必ず日食グラス 日食メガネ等を使いましょうね。





多摩動物公園の水牛(スイギュウ)さんだよ 【ファイルC240】2012.03.20 

【ファイルC240】2012.03.20 多摩動物公園の水牛(スイギュウ)さんだよ

お水と泥が好きなんだねえ。

 今回は水牛さんです。
 水牛さんは沖縄にもいましたね。
 記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/45805773.html

 ということで、水牛さん家に行ったらば、奥さんのハルナさんが、土をスリスリしていました。

 




 なんか、こっちを向いてくれないねえ。

 




 一方、ご主人のアカギさんは、『水牛』さんだけあって、とっても寒い中、プールを楽しんでいます。

 




 やっぱり水が好きなんですね。

 気持ちよさそうだねえ。一度出てきてよ。

 




 うへえ、出てくれるどころか、逆に潜っちゃったよお!

 




  ということで、潜ったまま出てこないので他の子を観に行って帰って来たらば、水から上がっていました。

 




 でも、お顔が泥だらけです。

 




 水に浸かった体で土にスリスリしたら、泥だらけになるのは当たり前だねえ。

 水牛さんは、昆虫による皮膚への害を防ぐため、泥のなかでころげまわって全身に泥をすりつけたり、鼻だけを出して水中に全身を沈めたりするのだそうです。

 遊びで泥んこになっているわけではないんだねえ。

 奥さんのハルナさんも物陰からこっちを見ています。。

 




 ご主人のアカギさんは、泥だらけのお顔でこっちを見ていました。

 




 可愛いお顔だねえ。

 美大生のお兄さんが一生懸命スケッチしていたよ。格好良く描いてね。

 水牛さんは、ネパール、インド(ベンガル、アッサム地方)、ミャンマーなどの大きな川や沼の近くにお住まいです。
 体の大きさは、体長2.5~3m、体高1.5~1.8m、体重0.8~1t。

 えさとして、青草(牧乾草)、草食獣用ペレットを与えています。
 
 水牛さんはウシ科のなかで最大の種で、おおぜいで群れをつくってくらしています。日中は寝たり、反芻(はんすう)をしたりして休んでいて、早朝や夕方にえさを求めて活動します。アジア各地では古くから飼育され、家畜化されています。

 水牛さんは粗末な食べ物で成長して肉や乳を得られるだけでなく、ウシよりも沼地での行動に適応しているため水田での労働力としても貴重な存在で、とても役に立つ動物です。

 また、日本の沖縄県の由布島や竹富島では観光用に水牛車を牽いて活躍しています。

 野生種は現在主に東南アジアに生息していますがが、もともとの原産地は明らかになっていません。

 現在の野生種がもともとの野生種の末裔であるか、それとも以前家畜化されていたものが野生化したのかもよく分からないんだって。

 それで、野生の水牛さんが生息する例はまれで、少数がインド、ネパール、ブータン、タイで見られものだけなのだそうです。

 水牛さんの持つ角は平均1mほどで、生き物の中では最も長く、1955年に射殺された水牛さんの角はなんと4.24mもあったそうです。

 このような、大きな角を持つ野生の水牛さんが怒りだすととても危険なので、成長した雄牛にはトラなどの捕食者も滅多に襲いかからないほどです。

 ヒンドゥー教では瘤牛(こぶうし)さんは、聖なる動物としてあがめられていて、食べてはいけないのですが、水牛さんは悪魔マヒシャの化身のひとつで、死者の王ヤマの乗り物とされているため、瘤牛さんと違い、水牛さんは家畜として使役され、その肉も食肉として流通しているそうです。

 同じウシさんなのに、待遇がえらい違いだねえ。

 また、水牛さんの乳は、分布地で多くの人々が飲用や加工用に利用していて、脂肪分が8%程度と家畜の中で最も多いので、ギー(インドなどで料理に使われるバター状のもの)の主要な原料となります。

 鉄分、ビタミン類、乳糖なども、一般に、ウシの乳よりも豊富に含まれているのです。

 また、タンパク質も、チーズなどの伝統的な材料となっている。南イタリアカンパニア州のサレルノやカゼルタの周辺は水牛乳で作るフレッシュチーズ、モッツァレッラ・ディ・ブーファラ(Mozzarella di Bufala)の産地となっているんだそうです。

 さらに、インドやチベットなどでは乾燥させた糞が燃料として使われていて、土で作る家の材料とする例もあるそうです。

 水牛さんって、本当に役に立つ動物なんだねえ。

 この前、テレビでオーストラリアの水牛さんの大群を映していましたが、これは東南アジアから移入した水牛さんが増えて野生化したノラ水牛さんたちなのだそうです。

 他にオーストラリアは移入したヒトコブラクダが野生化して問題になっていますし、生態系が無茶苦茶です。
 
 こういうことする人達が、反捕鯨とか騒いでいるんですから、でたらめだねえ。

 鯨が食べられてかわいそうなら、ワンちゃん用のジャーキーにされるカンガルーさんも牛さんも鶏さんも豚さんも水牛さんもかわいそうだし、移入動物や環境破壊で絶滅したフクロオオカミ、タスマニアエミュー、ウサギワラビー等等の動物はもっと可哀想です。


 ということで、最後にアカギさんがごあいさつ。

 




 さようなら、元気でね。






大坂(大阪)長堀【島之内、鰻谷(うなぎだに)】の住友本宅跡だよ(その3)  【ファイルT170】2012.03.17 

【ファイルT170】2012.03.17 大坂(大阪)長堀【島之内、鰻谷(うなぎだに)】の住友本宅跡だよ(その3)

江戸時代の住友本家について。

 (その1)から読まれる方はこちら。
 http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53064436.html

 前回は明治期の住友邸についてお話をしましたが、今回はいよいよ江戸期の住友邸についてご紹介します。

 ここは江戸時代、こんな感じの場所でした。





 江戸時代の住友本店・居宅の部分【「日本唐土二千年袖鑑」大阪市歴史博物館蔵より)。

 長堀本宅跡の三井住友銀行事務センターの説明パネルにはこう書かれています。

 『元禄三年(1690)九月、住友(泉屋)は銅吹所(精錬所)の西隣約六〇〇坪を本邸・本店とした。すなわち、現在の敷地約一二〇〇坪の東半分が吹所、西半分が本邸となったのである。

 本店は、江戸時代における、住友の諸事業統括本部であった。絵図は幕末期の姿を表しており、手前の長堀川は現在長堀通りとなっている』

 昭和20(1945)年3月まで住友の別邸として使用されていたこの地は、その後住友銀行社員寮跡地として使用されていたのですが、銀行事務センターの建設計画が持ち上がり、平成2(1990)年から平成5(1993)年にかけて発掘調査が行われました。

 銅吹所部分の遺構(東から)主に妙知焼【(みょうちやけ)1724年】以前の江戸時代前期の遺構。





 南から望んだ発掘調査の現場(奧の道路は長堀通り)





 それで、当時の図面ではこうなっています。

 御本家様御吹様惣絵図【文久元(1861)年】住友資料館蔵





 御本家御居宅絵図【文化年間(1804~18)】住友資料館蔵





 出土した暗渠(あんきょ)と水溜(みずため)。





 銅吹所は加熱した金属を冷却するために、多量の水が必要でした。住友銅吹所では長堀の岸に水引場を設け、そこから暗渠で銅吹所の水溜に水を引いていました。

 精錬炉です。





 発掘調査では、いくつもの種類の精錬炉が重なるように出土し、何回もつくりかえられていったことがわかりました。精錬炉の多くは土を掘り込んだものですが、南蛮床(なんばんどこ)は箱状のものでした。この写真は、坩堝(るつぼ)で精銅を溶かして型銅をつくる小吹床(こぶきどこ)の炉であると考えられるそうです。


 穴蔵(あなぐら)です。





 住友家本宅の「勘定場(かんじょうば)」という部屋の下にあたるところから穴蔵から出土しました。
 東西5.2m、南北4.2m、深さ3.2mで底面は花崗岩(かこうがん)、壁には凝灰岩(ぎょうかいがん)が積み上げられた強固なつくりでした。この穴蔵は記録などから地下金庫として用いられたと考えられるそうです。

 大阪歴史博物館には、当時の様子がミニチュアの模型で展示されています。





 長堀に船が停泊していますね。

 長堀にあった住友銅吹所主要部分の1/20模型です。
 
 文久元(1861)年の「御本家様御吹様惣絵図」をもとにしています。住友長堀銅吹所は寛永13(1636)年に開設され、元禄3(1690)年には本店・居宅も併設されました。

 特に吹所場面の設定には、吹所の様子を描いた『鼓銅図録(こどうずろく)』や近年行われた発掘調査で発見された遺構や遺物等を参考にしたそうです。


 この模型はここの部分の様子を再現しているのです。





 ということで、

 『敷地約一二〇〇坪の東半分が吹所、西半分が本邸』だったのですね。

 
 手前が西の本宅、奥が東の銅吹所になっています。









 オランダ人が視察に来ていますね。





 住友家は海外に銅を輸出していましたから、当然オランダ人と商取引の交渉もしていました。それについては以下の引用を参考にしてください。

 【『すみとも風土記 銅が来た道』佐々木幹郎著 NTT出版 P87より】

 ※  ※  ※

 オランダ商館の一六五〇年代の記録に、住友家の二代目、友以(泉屋理兵衛)の名前が登場している。

 庄司三男の翻訳によってそれを示すと、商館長レオナルト・ウィンクスの「江戸参府日記」(『鎖国日本と国際交流』吉川弘文館刊)の一六五五年一月一七日、「泉屋理兵衛という日本人商人が、如何ほどの量の銅を、今年〔東インド〕会社が購入するだろうかを打診するために私の処にやってきた」という。

 このときの友以のことを商館長は、長崎奉行のお気に入りというふうに記している。つまり、友以はこれ以前に、すでに長崎にも出かけていたということだろう。この商談は大坂に滞在していたときのものだ。

 別の記録。これも大坂での商談だが、商館長ヨアン・ブーシェリョンの「江戸参府日記」〔鎖国日本と国際交流〕一六五八年三月二十五日の項には、「昼に最も有力な銅商人の一人、泉屋理兵衛が、われわれを訪ねて来たが、彼は真鍮の製造に力を尽している唯一の人で、彼と再び値段の交渉を行ない、最後に二十二テールの値を彼に対し提案したが、彼は二十五テール以下の値段で引渡しては、損失を余儀なくされることになるだろうと弁明した」とある。

 友以は、いや、彼に限らずこの後の三代目友信や、四代目友芳、また他の泉屋住友の輸出担当者達もそうだが、オランダ側の記録を通して想像しても、実に堂々と、値段の交渉をしていることに感心する。

 通訳を通して、丁々発止のやりとりをしていたのだろう。記録を読むと、オランダ商館側が姑息な駆け引きをしているという印象がやってくるのはなぜだろう。

 オランダは日本銅によって、海外で九割以上もの大もうけをしていたという実情を、現在のわれわれは知っているからだろうか。

 (中略)

 シーボルトは文政九(一八二六)年、長崎から江戸に参府したが、その帰途、大坂で住友の銅吹所を見学している。当時の住友の家長は、九代目の友聞(ともひろ)であった。

 彼はシーボルト一行に西欧風に接待し、オランダ風の食器で食事を供した。また銅の精錬過程を説明した『鼓銅図録』と、銅鉱石のサンプル箱を提供している。

 幕末が近づくにつれて、住友の民間外交は手慣れてくる。ただし、洋食器を使ったが、食事そのものは純日本風であったらしい。

 ※  ※  ※

 この『すみとも風土記 銅が来た道』については、今回の記事を書くに当たって、とても参考になりました。住友の銅に関心がある方はご一読くださいね。

 つまり、日本の銅の製錬技術は西洋人が視察に来るほど発達していたのです。

 だからこそ、日本は明治維新後の急速な技術革新、文明開化を推進することができたのです。

 日本は何でもかんでも西洋から学んだわけではないのです。

 だから、途上国が日本の明治維新の真似をしようとしても、それまでの社会的な技術、制度の蓄積が無ければ無理なことが分かりますね。


 銅吹所側の様子です。





 ということで、次に続きますね。

大阪の『北浜レトロ』でアフタヌーン・ティーだよ(下) 【ファイルS32】 2012.03.13 

【ファイルS32】 2012.03.13 大阪の『北浜レトロ』でアフタヌーン・ティーだよ(下)

文化財の建物を紹介するよ。

 前回はアフタヌーン・ティーの優雅な時間を記事にしました。
(上)はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53096604.html

 今回は建物と調度等を御紹介します。





 『1912』と書かれた大きなティーポットの看板です。





 こちらのプレートにも『1912』の表示が。





 北浜レトロビルディングは1912(明治45)年、株の仲買業を営む企業の社屋として建てられました。

 そりゃあそうですよね。証券取引所の真ん前ですから。

 ファザードの淡い褐色のタイルは積まれた煉瓦の上に張られているそうです。

 【『大大阪モダン建築』 橋爪紳也 監修 青幻社 P42より】

 ※   ※   ※

 戦後、建設資材を扱う商社の社屋を経て、1996(平成8)年に現オーナーの小山寿一さんが手に入れる。

 玄関先に「売却物件」と書かれ、不動産として売りに出ていたところを偶然見つけたそうだ。一目惚れして購入を決意したものの、長年使われていなかった内部は床が抜けそうなほど荒れ放題だった。

 しかし所々に残るディテールはほれぼれとする美しさで、小山さんは自ら重ねた時代考証を元に、オリジナルを活かした再生を決意する。照明や建築金物、家具などは全てイギリスのアンティークを自ら買い付け、ペンキの色は何度もテストを繰り返した。

 1997(平成9)年、本格的な英国紅茶とスイーツの店として「北浜レトロ」がオープン。本物にこだわった小山さんの店づくりが瞬く間に人気を獲得した。

(中略)

 開業10周年を迎えた2007年、大規模な改修・メンテナンス工事を終え、新たな時を刻み続けている。

 ※   ※   ※

 私はこの記事に惹かれて、ここに来ました。

 それにしても、法隆寺の例を引くまでもなく、建物というのは手入れと修理なんですね。

 小山さんがここまで徹底的にこだわって、リフォームしなければ、文化財の指定どころか、このビル自体存続していたかどうか分かりません。

 結局、文化というのは人が紡(つむ)いでいくものなのですね。

 こうやって綺麗にしてもらって、多くの人に楽しんで愛でてもらって、このビルもさぞかし嬉しかろうねえ。

 玄関のデザインも洒落ていますね。





 シンメトリーで構成されたデザインです。

 薔薇の花かな?





 英国王室の紋章です。





 紋章の意味については、以前記事にしましたね。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51743105.html

 玄関先には英国風の郵便ポストがおいてあります。





 それから、ステンドグラスの嵌っている窓です。





 こちら側の窓からは、土佐堀川越しに中之島公園のバラ園を臨むことができるのですが、この時は中之島公園が改修工事中で土を掘り返していたので、あまり良い眺めではありませんでした。

 以前、中之島公園のバラ園は記事にしましたね。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/42623601.html

 レトロな調度だねえ。





 並べてある革張りの古書も良い味を出しています。





 
 一階突き当たりの壁の飾りです。





 ケンブリッジ1902、オックスフォード1905ってどういう意味かな?

 創立はそれぞれケンブリッジ大学が13世紀、オックスフォード大学が11世紀なんですけど。

 この壁の右がトイレですが、さすがに撮影はできません。

 ここのトイレは木の便座で、フラッシュが、鎖紐を引っ張るタイプの欧米の漫画に出てきそうな典型的なこだわりのレトロ洋式トイレです。

 鍵はかかっているときが『ENGAGED』で、開いているときが『VACANT(空き)』と表示されていました。

 ENGAGE(エンゲージ)って婚約指輪のエンゲージ・リングのエンゲージですね。この場合は、約束するという意味なんでしょうが、鍵をかけるというのも、英語ではエンゲージなんだねえ。それとも、『使用中』という意味かな?

 そういえば、ラグビーのスクラムを組むときにレフェリーが『ホールド・・・・。エンゲージ!』ってコールしますが、この場合の『エンゲージ』は、スクラムをしっかりと歯車のように噛み合わすという意味なんでしょうね。

 大きなシャンデリアと、





 可愛い照明。





 お茶や雑貨を売っていたよ。





 銀食器が並んでいます。





 綺麗だねえ。

 ということで、優雅なティータイムを楽しめる北浜レトロでした。

 大阪は実利的で粉モンだけの街じゃないよ。贅沢で繊細で粋なモダン文化の街でもあるのです。

 機会があったら是非お立ち寄りくださいね。

防衛省市谷ツアーに参加したよ(その19) 【ファイルET60】2012.03. 10 

【ファイルET60】2012.03. 10 防衛省市谷ツアーに参加したよ(その19)

三島由紀夫事氏の訴えたかったこと(下)。

 (中)からの続きです。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53080813.html

 (上)から読まれる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53040110.html

 更に三島氏は訴えます。

この上、政治家のうれしがらせに乗り、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩まうとする自衛隊は魂が腐つたのか。武士の魂はどこへ行つたのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になつて、どこへ行かうとするのか。繊維交渉に当つては自民党を売国奴呼ばはりした繊維業者もあつたのに、国家百年の大計にかかはる核停条約は、あたかもかつての五・五・三の不平等条約の再現であることが明らかであるにもかかはらず、抗議して腹を切るジェネラル一人、自衛隊からは出なかつた。


 核拡散防止条約(NPT)は、1967年1月1日の時点で既に核兵器保有国(保持を許された核兵器国)であると定められたアメリカ、ロシア、イギリス、1992年批准のフランスと中華人民共和国の5か国と、それ以外の国(保持しておらず、また許されない非核兵器国)とに分け(第9条第3項)、5年毎に会議を開き条約の運営状況を検討すること(第8条第3項)を定めるというものです。

 その核拡散防止条約(NPT)という全くの不平等条約に日本は昭和45(1970)年2月に署名し、三島氏の死後、昭和46(1971)年6月に批准しました。

 三島氏は基本的に日本の核保有に対しては否定的な見解を持っていました。

 しかしながら、核保有の是非は主権国家として、日本独自に決めるべき事であり、それまで核保有している国は持っていて良いが、日本は持ってはならないという条約に批准するというのは、全くの売国行為以外のなにものでもありません。

 三島氏の怒りが良く理解できます。

 時代は下って2009年。

 オバマ大統領の主導で、米ロは1991年に締結され12月に失効する戦略兵器削減条約(START)の後継条約で、発効から7年以内に戦略核弾頭数を1500-1675、核弾頭運搬手段を500-1100に削減することなどを定めた共同文書に署名しました。

 オバマ大統領はなんと、『これっぽっちのこと』で『ノーベル平和賞』を受賞しました。

 最大限削減しても米ロ共に1500以上の核弾頭保有なんですよ!これでも何回も全地球を破滅に追い込むことができるのです。

 核弾頭というのは経年劣化をします。核の管理・更新は大いなる人的・財政的負担ですから、もともと核の削減は自国のための差し迫った課題だったのです。

 オバマ大統領は、それを削減して平和を唱えられるのですから、一挙両得だったのです。

 それと同時に、これは明白に『日本は核武装するな』というメッセージなのでした。

 そりゃそうでしょう。日本はアメリカの核の傘を外されたら、独立を保ち得ない脆弱な国家なのです。

 日本が核武装もせず、国家独立自尊のための軍隊を持ち得ないからこそ、日本はアメリカという暴力団の『みかじめ料』を永遠に支払い続けるATMでありつづけるのです。

 アメリカ人は自分の胸に手を当てて「もし自分が日本人なら、いくらなんでも核武装を考えるよな」と思って、日本の核武装を禁じる手を打ったのに、肝心の日本人は、お人好しというより、愚かにも、いまだに日本はアメリカの核の傘で守ってもらえると思っているのです。

 アメリカは、日本が先制核攻撃を受けても、ニューヨークやワシントンを危険にさらしてまで、報復核を撃つつもりなんてありません。

 それどころか、自国領でもハワイやアラスカなら、平気で見殺しにするでしょう。

 9.11のテロ以降、アメリカの戦略は内向きになっているのです。だからフィリピンから撤退したのですね。

 米軍の横田基地は、日本がアメリカに逆らいそうになったら、すぐに首都圏を制圧するための軍隊なのであって、日本防衛のための軍隊ではないのです。

 日本は今に至ってもアメリカによる被占領下にあるのです。

 まともな主権国家が、外国の軍隊による常時駐留なんて認めるわけはないのです。

 アメリカの恫喝下、TPPという、日本の制度改変による『乗っ取り』も日本が一人前の国でないから行えるのです。

沖縄返還とは何か?本土の防衛責任とは何か?アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう


 実際に、自衛隊は全く大義がなかったアメリカの対イラク戦争において、アメリカの家来でお調子者の小泉純一郎首相の『ショー・ザ・フラッグ』という号令一下、ほとんど丸腰の状態で、サマワのPKOに向かわされました。

 自衛隊は安全なのかという議論の中で小泉首相はこう発言しました。
【平成16年11月10日衆参両院国家基本政策委員会合同審査会- 2号 議事録より】

 ※   ※   ※

岡田克也君   じゃ、総理、お尋ねしますが、お尋ねしますが、その議論の前提としてイラク特措法における非戦闘地域の定義を言ってください。

内閣総理大臣(小泉純一郎君)   イラク特措法に関して言えと、法律上、いうことになればですね、自衛隊が活動している地域は非戦闘地域なんです。

 ※   ※   ※

『自衛隊が活動すれば、その瞬間その地域が非戦闘地域になる』って?このようにふざけた、自衛隊を馬鹿にした、愚かしくも答えになっていない答えに、メディアは賞賛の記事を書きました。

 この頃のメディアの小泉首相の持ち上げ方は常軌を逸していました。

 自衛隊は三島氏の言う『アメリカの傭兵』どころか、『アメリカの因縁付け戦争の正当化のためのパシリ兼人身御供(ひとみごくう)』に供されたのです。

 三島氏の予言はことごとく成就しているのでした。

生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまつた憲法に体をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。もしゐれば、今からでも共に起ち、共に死なう。われわれは志純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇へることを熱望するあまり、この挙に出たのである。


 三島氏の最期の叫びです。

 民主主義というのは、たかが、意思決定の方法です。政治手法に過ぎないのです。

 例えば、アインシュタインが1915年、一般相対性理論を完成させた時。この難解とされる理論を理解できる人は世界に10人とはいないだろうと言われていました。

 当時一般相対性理論を理解している人が仮に10人だったとして、全人類で正しいか正しくないか、民主的手続きに乗っ取って投票で決めるとしましょう。

 そうすると、10対(世界人口-10)の圧倒的多数で一般相対性理論は正しくないことになってしまいます。

 社会について考えるとき、民主主義手続きで決めましょうというのは、それで結果が悪くても、責任はみんなで負いましょうという政治的な解決法なのです。

 古代ローマ帝国は、『パン(=食糧)』と『サーカス(=娯楽)』を要求した愚衆民主主義によって滅びたと言われています。

 だから、極左暴力集団に属していた菅直人首相は民主主義のルールに則り、政権を執ることができたのです。

 ヒトラーの国家社会主義ドイツ労働者党(『ナチス』はこの蔑称)も民主主義ルールで政権を執って、さらに受任法という法律で“合法的に”独裁政権を敷くことが出来ました。

 そももそ、日本に憲法を押し付けたアメリカでさえ、『自由のない奴隷の生存よりも、むしろ死を』という国なのです。

 だから自分勝手な正義を世界中に押しつけて、戦争ばかりやっているのです。
 
 こんな国に、安全を保障されて付いていくと、待っているのは破滅の道です。

 『生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる』

 三島氏のこの檄文の意味は色あせるどころか、むしろ時を経るほど私たちにとって大きな重みをもって迫ってくるのです。

 三島氏の存在は、『命以上に価値があるもの』を唱える人間を『右翼』呼ばわりし、『軍国主義者』呼ばわりするメディアにとって、喉につかえた棘(とげ)なのです。

 だから、介錯された首の写真を公開するような、惻隠(そくいん)の情もなにもあったものではない、非礼で卑怯で愚劣なことを平気でやるのです。

 そもそも、これって明らかに彼等の日頃主張してやまない『人権侵害』じゃありませんか。

 アメリカのドルが基軸通貨であり続けるような価値をもちえるか疑問視され、帝国主義的侵略を今世紀に至るまで行っている中華人民共和国において、バブル崩壊の兆候が現れ、かつての近代化の栄光をもったヨーロッパEU圏が青息吐息の状態で大英帝国の名をほしいままにしていたイギリスも過去の栄光にすがる国に成り下がっています。

 皇紀2672年、平成24年、西暦2012年という世界的な危機のこの時代こそ、日本国の存亡がかかった判断を行うに際し、三島氏の命がけの訴えに真摯に耳を傾ける必要があるのだと私は思います(了)。

 市ヶ谷ツアーについては次に続きますね。

多摩動物公園のシフゾウ(四不像)さんは不思議な生き物 【ファイルC239】2012.03.06 

【ファイルC239】2012.03.06 多摩動物公園のシフゾウ(四不像)さんは不思議な生き物

野生下では大昔に絶滅したんだねえ。

 多摩動物公園に行ったのも随分と前のことです。

 それで、まだご紹介していなかった動物に、シフゾウ(四不像)さんがいるので、今回ご紹介しますね。

 若いオスのシフゾウさん。

 




 まだまだ角が短いねえ。

 




 メスのシフゾウさんもいますよ。

 




 




 1865年(日本では慶応元年)、支那、当時の清の北京に来てから四年目になる若いフランス人宣教師のダビッド神父は、北京南方既往外にある南苑という離宮に、清朝門外不出の珍しい獣が飼われているという噂を耳にしました。
 
 その年の秋、何とかその珍獣をみたいと思ったダビッド神父が南苑を囲む煉瓦塀の外を歩き回っていたとき、工事のために砂が塀の外に積み上げられているのを見つけました。

 人影の無いのをこれ幸とばかりに砂山に登って中をのぞき込むと、100mほど先に見たことがない大きなシカの一群がこちらを見ているのが目に入りました。

 ダビッド神父は、宣教の傍ら、支那の動物を調査し、パリの国立自然史博物館にその標本を送る仕事を引き受けていました。
 
 この三~四年後に、ジャイアントパンダをヨーロッパに紹介したのも、なにを隠そう、このダビッド神父です。

 ダビッド神父は何とかして、この珍しいシカを手に入れようと清国政府に頼んだのですが、あっさりと拒否されます。

 そこで南苑を警備している清の兵士を買収して、そのシカのオス1頭の毛皮と骨格を手に入れ、それをパリに送りました。

 まあ、このへんが世界に冠たる賄賂国家の面目躍如たるところです。

 それで、このシカは欧米では“ダビッド神父のシカ(英名:Pere David’s deer)”と呼ばれています。

 日本ではシフゾウ(四不像)という名前で紹介されました。

 四不像とは元来、支那の古い伝説上の動物で、四種類の獣に似ていながら、そのどれでもないという不思議な生き物の名前だったのです。

 シカのシフゾウに擬せられている四種類の動物としては「ロバ、ウシ、ラクダ、シカ」であるとか「ウマ、ロバ、ウシ、シカ」であるとかの諸説があるそうです。

 多摩動物公園の説明板では、

 




 『角はシカ、頭はウマ、体はロバ、ひづめはウシ』となっています。
 
種としての分類では、シフゾウさんは、ウシ目ウシ亜目シカ科シカ亜科シフゾウ属シフゾウです。

 支那では、このシカが麋鹿(ミールー)と呼ばれたにもかかわらず、日本では支那の想像上の動物とむすびついたシフゾウという名前で呼ばれるようになったのが面白いですね。

 清朝は女真族(満州族)の国家ですから、漢文化の知識は当時の日本人の方が豊富だったのです。なにが中国四千年の歴史ですか?

 ところで、シフゾウシの野生状態についてはまったく記録がなく、おそらくは揚子江と黄河の間にある淮河(わいが)流域の湿地帯に住んでいたものと考えられ、野生が絶滅したのは、1000年前とも2000年前とも言われています。

 つまり、野生のシフゾウさんはとうの昔に絶滅し、皇帝によって北京の南苑に飼われていたシフゾウさん達だけが、細々と生き延びていたのですね。

 いずれにせよ、この『ダビット神父のシカ』が紹介されるとヨーロッパの諸国は競ってこれを手に入れようとしました。

 最初に入手に成功したのは、安政6(1859)年から五年間、日本で公使を務め、この頃は北京駐在のイギリス公使だったオールコック卿で、1870(明治3)年、五頭のシフゾウをロンドンの動物園に送りとどけました。

 上野動物園が開園した明治15(1882)年に特命全権大使として北京に着任した榎本武揚(えのもとたけあき)は、シフゾウを英国に出したのであれば、我が国にもと交渉したのですが、清国政府はこれを聞き入れませんでした。

 この国は、アヘン戦争で国土をボロボロにし、公園に『犬と支那人は入るべからず』という看板を掲げ、香港を長期間租借したイギリスには文句を言わないどころか卑屈にペコペコする癖に、近代化に協力した恩人の日本にはいまだに、しつこく謝罪だ賠償だと金をタカり続けます。

 恥をかかされた形になった榎本武揚は、明治18(1885)年、天津条約の交渉で清に乗り込んできた伊藤博文にこのことを訴えます。

 伊藤首相が条約調印の傍ら、清国の李鴻章(りこうしょう)北洋大臣にシフゾウ問題の善処方を談じ込んだ結果、オス・メス二頭の珍獣シフゾウが榎本武揚を通して日本へ送られ、当時、宮内省所管の上野動物園に到着します。

 明治21(1888)年4月21日のことでした。

 こうやって届けられた上野動物園のシフゾウさん達ですが、明治39(1906)年にその子供が子孫を残すことなく死亡し、残念ながら絶えてしまいました。

 ところが、その頃には本家の北京でもシフゾウは死に絶えていたのです。

 まず、1894(明治27)年には汾河(ふんが)の洪水で南苑の壁が壊れ逃げ出したシフゾウが付近の農民に食べられ減少します。

その後1899(明治32)年、義和団の乱がおこり、欧米列強の連合軍に鎮圧された義和団が南苑に立て籠もり、ついにはシフゾウを食糧として食い尽くしてしまったのです。

 この民族は、戦乱の時に城壁都市に立て籠もって食糧が尽きると、最後の糧秣(りょうまつ)として、普通に人肉を食べる人たちなので、シフゾウが食糧になっても何ら不思議ではありません。

 清での絶滅の五年ほど前、イギリスのベドフォード侯爵が手に入れたシフゾウ18頭が、その居城ウォーバンの庭園に飼われ、繁殖に成功していたので、幸い『種』としての絶滅は免れることができました。

 その群れは、第二次世界大戦の終わった頃には700頭ほどにまで増え、欧米各地の動物園の協力で、その総数は順調に増え続けました。

 昭和38(1963)年には再び日本にシフゾウが送られてきました。

 これは、スイスのバーゼル動物園から送られてきたオス・メス二頭で、今回ご紹介した多摩動物公園に収容され、その後、さまざまな経過を経て、現在では順調に繁殖し、平成4(1992)年には新しい動物舎も建設されました。

これからも、元気に増え続けて欲しいものですね。

 【参考 『もう一つの上野動物園史』小森 厚著 丸善ライブラリー】

 この子のひづめは、確かにウシですよね。

 




 立派な角を持つオスのマックさんです。

 




 確かにシカの角で、ウマの顔、体はロバですね。

 一年に一回落角しますが、落角したマックさんの角が展示されていました。

 




 実際に持つととっても重いのです。

 こんな重い角を載っけてると、肩こりになるねえ。

 




 冬で寒かったのですが、よほど水の中が好きなのか、ずっとお池に浸かっていました。

 




 食性は植物食で、草、木の葉、水生植物などを食べます。

 繁殖期になるとオスは多数のメスと群れ(ハレム)を形成します。妊娠期間は288日で1回に1-2頭の幼獣を産むみ、生後2年3か月で性成熟するそうです。


 ところが、東京都のHP記事を見てびっくり。


 多摩動物公園情報
 さようなら、シフゾウ「マック」

 平成23年12月15日
 建設局   (公財)東京動物園協会

 多摩動物公園(園長 田畑直樹)では、飼育しているシフゾウの「マック」が死亡しましたので、お知らせします。

1.死亡したシフゾウ
 死亡日  平成23年12月14日(水曜)17時
 名前(性別) マック(オス)
 1993年5月10日 アメリカ生まれ 1994年3月7日 来園
 年齢 18歳 死因 老衰
 「マック」について
 1993年5月10日にアメリカで生まれ、1994年3月7日多摩動物公園に来園しました。マックは2頭のメスとの間で5頭(オス1頭 メス4頭)の繁殖に貢献しています。シフゾウのオスは年末年始の時期に落角するのですがマックは昨冬、角が落ちず、体つきも痩せてきて心配しましたが、その後回復し元気で過ごしてきました。12月14日、放飼場に出したところ、足元がふらつく等したため、寝小屋に収容し、治療をしましたが死亡しました。

2.当園での飼育状況
 6頭(オス1頭・メス5頭) ※今回死亡したマックを含みません。

3.日本国内の飼育状況(2009年12月末現在)
 3園館 14頭(オス5頭・メス9頭) ※資料:(社)日本動物園水族館協会

 それにしても、このHPでは、
 『その後内乱や洪水により中国のシフゾウは絶滅しましたが』と書かれていて、『シフゾウが支那人によって食べ尽くされた』という事実は隠蔽されています。

 この頃はまだ元気だったのに。

 謹んでマックさんのご冥福をお祈りいたします。







大坂(大阪)長堀【島之内、鰻谷(うなぎだに)】の住友本宅跡だよ(その2) 【ファイルT169】2012.03.03 

【ファイルT169】2012.03.03 大坂(大阪)長堀【島之内、鰻谷(うなぎだに)】の住友本宅跡だよ(その2)

今は史跡公園になっているんだねえ。

 長堀の『銅吹所跡』の史跡公園の続きです。





 その1はこちら。
 住友さんがここにお暮らしだった頃の写真が、公園に隣接する三井住友銀行事務センターのショーウインドーにパネル展示の中にありました。

 昭和初期の住友鰻谷(うなぎだに)邸





 ウインドーのガラスに景色が映り込んで見難いけど、ご了承くださいね。

 手前に映っている、川のようなのが長堀(ながほり)です。

 明治八年(一八七五)十二月、住友の本家・本店が分離し、住友本店が富島(とみじま)(のちさらに中之島・北浜へ)に移ると、当地は鰻谷本邸となり、同十二年には銅吹所跡地に付属洋館と庭園が設けられ、名実ともに本邸にふさわしい姿となりました。
 
 大正四年(1915)本邸が天王寺の茶臼山(ちゃうすやま)へ、次いで神戸・京都へと移ったのちは、この地は鰻谷邸と呼ばれ接待館となっていました。
 
 鰻谷邸は、昭和二十年(1945)三月の空襲によって焼失するまで、往時の姿をとどめていたそうです。

 それで、住友鰻谷邸の面影を唯一残している建物が、元住友家本邸内ビリヤード場(玉突場)です。










 案内板にはこう書かれていました。

『明治9年に銅吹所が廃止された後、この敷地は住友家の邸宅となった。
明治12(1879)年には洋館や庭園がつくられ、ビリヤード場はその東側に建てられた。
ビリヤード場玄関のアーチや円柱の飾りは洋風であり、壁は土蔵造り、屋根は瓦葺きである。洋風と和風がうまく調和しており、文明開花期に多く用いられた擬洋風とよばれる様式である。
ビリヤード場は、明治25年以前の建築と考えられており、独立建物のビリヤード場としては、わが国最古のものである』

 土蔵作りというのが、大坂の商家だった住友家の心意気を表しているんでしょうね。

 そういえば、以前、上野の不忍池の近くにある三菱の旧岩崎邸をご紹介したときも、撞球(ビリヤード)室の写真を掲載しましたね。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/48422151.html

 岩崎さんちも、住友さんちのビリヤード場が羨ましかったんだろうねえ。

 室内は、ビリヤードの台じゃなくて、会議室のテーブルみたいなのが置かています。





 園内にはレプリカのミニチュア銅橋がしつらえられています。





 『事業は石橋を叩いて渡るがごとく、確実を旨とすべし   広瀬宰平』

 幕末から明治にかけて住友家で采配をふるったのが、別子銅山の支配人、広瀬宰平(ひろせさいへい)さんでした。

 住友の広瀬宰平さん(住友グループ広報委員会HPより)。





 住友グループ広報委員会HPを参考に広瀬さんの残した足跡を振り返ってみると、
http://www.sumitomo.gr.jp/history/person/index.html

 広瀬宰平さんは、文政11(1828)年5月5日、北脇理三郎の次男として近江国野洲郡八夫村(現滋賀県野洲郡中主町)で生まれました。

 近江商人を生んだ近江の生まれなんだねえ。

 天保5(1834)年、別子銅山勤務の叔父・北脇治右衛門の養子となり、同7(1836)年九歳のとき、叔父に従って別子銅山に登り、その二年後、就業年齢に達してより住友家に奉公します。

 28歳のとき、住友家第10代当主・友視の推挙によって広瀬義右衛門の養子となり、慶応元(1865)年、38歳で別子銅山支配人となりました。

 江戸時代は身分社会で有意な人材は出世しなかったという偏見がはびこっていますが、見込みのある良い人材は、こういった形で抜擢されていったのです。

 広瀬さんが支配人になって3年目に大事件が持ち上がりました。

 明治元(1868)年、官軍側の土佐藩が別子銅山を差し押さえようとし、薩摩藩が大阪本店の銅蔵を封印しようという行為に及んだのです。

 このような住友家存亡の危機に直面した広瀬さんは、慶応4(1868)年2月、別子銅山の接収に訪れた土佐藩(現在の高知県)の新政府代表、川田小一郎さんにたいする誠心誠意の説得を行いました。

 『別子銅山は確かに幕府領であるけれども、住友家が発見し、独力で経営してきたものである。しかるに、新政府がこれを没収し、経験のない者に任せるというのであれば、それは国益に反することである』

 川田さんとて、立場は違っても同じく国のことを思う草莽の志(そうもうのし)ですから、広瀬さんの主張に心を動かされ、両者の出願によって同年三月、新政府から正式に住友家による別子銅山の継続経営が許可されました。

 川田さんは後に三菱の創設に参画し、日本銀行の総裁となった人物ですが、当時はまだ下級役人だったのです。

 その結果、広瀬さんは明治元(1868)年9月、新政府にその力量が認められ、鉱山司の役人に任命されました。

 そして、広瀬さんは生野鉱山・伊豆金山の視察を命じられ、生野鉱山でフランス人の御雇外国人・コワニエさんと出会い、黒色火薬を用いた近代的採鉱法を教わります。

 そこで広瀬さんは、別子銅山の再生には西洋技術の導入以外に途はないと確信し、フランス人技師・ラロックさんを広瀬さんの六倍にあたる月給は600円という高給で雇い入れて指導を仰ぐなどの近代化を達成し、住友の事業を別子銅山一本に絞り込み、鉱山経営の近代化を進めました。

 また、広瀬さんの住友への貢献は、住友の家政改革を断行したこととされています。

 明治10(1877)年2月、住友家第十二代家長・吉左衛門友親さんは、病気のため広瀬宰平さんを総理代人に指名しました。

 総理代人は「商法上一切の事務を総轄して、数多雇人を統御する」権限をもつとされ、広瀬さんは住友家の経営権限を委譲され辣腕を振るいます。

 そして、住友家の苦難を乗り越えた広瀬さんは明治12(1879)年、大阪鰻谷の住友本邸に別子銅山で採れた銅で製作した銅橋をかけ

 『事業は石橋を叩いて渡るがごとく、確実を旨とすべし』と慢心を戒めたそうです。

 また、広瀬さん未熟な民間資本を育成するため、財界でも活発に活動しました。

 大阪財界の立役者であった五代友厚(旧薩摩藩士)さんとともに多くの会社設立に関わり、明治11(1878)年大阪商法会議所の副会頭、同12年大阪株式取引所の副頭取、大阪硫酸製造会社の頭取、同15年関西貿易社の副総監、大阪製銅会社の社長に就任しています。

 さらに明治17(1884)年、外国汽船や三菱汽船と対抗するには、弱小船主の大団結が必要であると考えた広瀬さんは、西日本の弱小船主55名(現物出資船舶九三隻)を結集して大阪商船会社(現在の商船三井、資本金120万円)を設立しています。

 明治25(1892)年7月19日、広瀬宰平さんは、殖産興業につくした功績によって、渋沢栄一(第一銀行頭取)、古河市兵衛(足尾鉱山経営者)、伊達邦茂(北海道開拓者)といった、そうそうたるメンバーとともに、民間人として初めて明治勲章(勲四等瑞宝章)を受章しました。

 しかしながら、独裁的な権限を手中にするようになった広瀬さん対して、住友内部から批判の声が起こるようになったのです。

 その底流には、別子の近代化は成功したにせよ、広瀬さんのリーダーシップにより展開した事業の成績が、その後芳しくなかったこと、とくに実用化には早すぎた製鉄・化学事業が技術や採算性の問題から明らかに失敗であったということがあるようです。

 それに対して内部から強かった銀行設立の要望を広瀬がかたくなに拒否したことなど事業戦略上の不満が住友内部にわだかまっていきました。

 というのも、広瀬さんは当時火の車だった別子銅山経営を立て直すために明治3(1870)年、わが国最初の銀行であった大阪為替会社に出資し、融資の引き出しに成功したものの、この会社は政府と大阪の豪商たちが出資した半官半民の会社だったこともあって、多額の不良債権を抱えて倒産してしまったという苦い経験があったからねえ。

 また重任局での合議制を骨抜きにし、広瀬独裁体制を追認するような家法改革を断行したことに対する不満もありました。こうした厳しい局面を迎えて、広瀬さんは自ら退身する決意を固め辞表を提出し、明治27(1894)年11月、総理人を辞任しました。

 結局住友家が本格的な銀行業への進出が決定したのは、広瀬さんが退身した明治28 (1895)年5月、広島県尾道市で行われた住友家の重役会議でのことです。

 同年11月1日住友本店銀行部として、住友吉左衛門の個人経営による資本金100万円の住友銀行(本店は大阪市中之島)が開業しました。その後、初めての支店がその尾道市に開設され、尾道支店として現存しています。

 
 あと、園内には当時の 炉が展示されています。









 説明板にはこう書かれています。

 「『銅吹所の炉』銅の精錬に使用された小型の炉で、中に据えた『るつぼ』で銅を溶かす」


 こういう炉が江戸期の日本の輸出を支えていたなんて、感無量ですね。


 ビリヤード場の正面です。





 窓のデザインもすっきりしてモダンです。





 横から見たポーチ。





 今回は住友銅吹所跡の公園についてでした。

 ということで、次回はさらに、江戸期の住友家についてご紹介しますね。

 次に続く。

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