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天王寺公園内の住友さんが寄贈した大阪市立美術館敷地と、住友家茶臼山本邸庭園だった慶沢園(その4) 【ファイルT180】2012.09.24 

【ファイルT180】2012.09.24 天王寺公園内の住友さんが寄贈した大阪市立美術館敷地と、住友家茶臼山本邸庭園だった慶沢園(その4)

住友さんがせっかく造ったのに、すぐお引越ししたから素敵な大阪の人へのプレゼント

 住友家についての記事を最初から読まれる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53064436.html

 天王寺公園内の住友さんが寄贈した大阪市立美術館敷地と、住友家茶臼山本邸庭園だった慶沢園(その1)から読まれる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53462787.html

 ということで、記事のUPが遅れに遅れ、やっとこさ大阪の天王寺公園内にある慶沢園(けいたくえん)に到着しました。どうもすみません。





 このお庭は天王寺公園の入園料、大人150円也で自由に見ることが出来ます。

 ここから園内にある天王寺動物園に行く場合は、動物園入園料500円と天王寺公園の入園料150円の差額350円の追加で入園できますし、大阪市立美術館に入る時も、入館料からこの150円を差し引いた差額を支払えばOKです。

 とっても良心的だねえ。

 文化に狂気じみた憎悪を燃やす、今の大阪市長がこれに気がついたら値上げするか、勝手に民間に払い下げるから内緒ですよ。



 ここ慶沢園(けいたくえん)は、元来住友家茶臼山(ちゃうすやま)本邸内の庭園だったお庭です。

 木津聿斉(きづいっさい)の設計で、京都の名庭園師小川治兵衛によって明治41(1908)年から作庭が開始されました。

 全国から名石・名木を集め、完成までに10年もの歳月を費やし、大正7(1818)年に完成します。

 総面積は8000㎡。大小3つの島が浮かび、池の周囲の林間をめぐる林泉回遊式の近代日本庭園です。

 それで、江戸時代に島之内鰻谷(しまのうちうなぎだに)に240年もの長きにわたって住まわれていた住友家本邸は、大正4(1915)年にここ茶臼山(ちゃうすやま)に転居してきました。

 ところが、大正7(1818)年の慶沢園完成から3年しかたっていない大正10(1921)年に住友家本邸が神戸、京都と移転してしまいます。

 そして、大正11(1922)年に現在大阪市立美術館が建っている住友家本邸跡地とこの庭を含む茶臼山一帯の土地5万7750㎡が住友家から大阪市に寄贈されました。

 現在は昭和11(1936)年に住友家本邸跡地に建設された大阪市立美術館とともに天王寺公園に組み込まれ、このように一般に公開されています。

 それにしても住友さんは、造るのに10年もかけたこのお庭をたった3年しか使っていなかったんだねえ。

?H1>だから、ここは大阪の人のために住友さんが造ったようなものなのです。

 このように住友家に大きな恩があるのに、やはり住友家が大阪の文化振興のために建築してくれた大阪府立図書館を廃止するなんて、今の大阪知事市長は忘恩の愚か者です。

 『慶沢園』という名前の由来は、伏見宮貞愛親王(ふしみのみや さだなるしんのう)から賜ったもので、「照代え恩恵、祖先の余沢」の意ではじめは『恵沢』の名が用いられ、この庭園が完成した大正7(1918)年の5月に『慶沢』の字に改められました。


 さっそくお花がお出迎え。











 緑の小道を散策します。





 四阿(あづまや)では、年配の方のグループがスケッチ会を開いていました。





 四阿からこんな景色が見えます。





 睡蓮の花も咲いています。





 池の水面(みなも)に景色が映ってとっても綺麗。





 とってもいい景色なので、スケッチは素敵だねえ。
 
 大阪の人もアカデミックなのです。

  のどが渇いたので、四阿にあった自販機でミネラルウォーターを買おうとしました。

ところが、お金を入れたのに、うんともすんとも機械が動いてくれません。

 それで、書かれてあったトラブル時の電話番号に連絡したらば、代金分の郵便小為替を送るので住所を教えてほしいとのこと。後日送られてきた小為替を持って郵便局で換金して、百円ちょっとのことに、とんだ手間だったねえ。

 電話が終わったら、付近にいたおじさんが近づいてきて、「やっぱり出てこなかった?」だって。
 
 故障中だって分かっていたら見てないで教えてよお!

 ここに電話すると郵便小為替で払い戻しができるって教えてあげたら、「面倒くさいからいいわ」だって。まったく失礼しちゃうねえ。

 自販機のメインテナンスの人がすぐに修理に飛んでくるのでしょうが、それまでの間、他の人がこの自販機で飲料を買わないように見張っているわけにもいかないし、紙もマジックもセロテープも持っているわけもなく、故障中の張り紙も出来ないのでそのまま次に向かいました。

 石橋があります。





 苔むした岩が池に浮かび上がっています。





 お茶の水を汲む井戸かな?





 この時は皐月(さつき)の花が咲いていました。





 ということで、慶沢園お散歩中ですが、長くなったので次に続きますね。


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神田明神は江戸の総鎮守(6) 【ファイルET71】2012.09.18 

【ファイルET71】2012.09.18 神田明神は江戸の総鎮守(6)

まだまだ沢山神様がいらっしゃいますね。

 神田明神の摂末社と史跡についての続きです。
 最初から読まれる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53382446.html

 前回は【三天王 三の宮 小舟町八雲神社】についてご紹介しました。

 前回の記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53551989.html

 今回は、同じく、建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)=牛頭天皇(ごずてんのう)をお祀りした二の宮、一の宮についてもご紹介します。


【大伝馬町八雲神社】






 このお宮さんの説明書きは撮り忘れたのか、最初から無かったのか、写真が無いので、他の方のサイトを参考にさせていただきます。

 三天王 二の宮

 御祭神 建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)
 祭礼日  6月5日

 この神社は江戸時代以前に祀られていたと伝えられています。

 この二の宮大伝馬町八雲神社の天王祭は、6月5日明神境内を発輿し、氏子中を神幸し大伝馬町の御仮屋へ渡御して8日に還輿していたため、大伝馬町天王と称されていました。

 この祭は元和元年(1615)頃より行われて、江戸時代には他の天王祭と共に大変な賑わいの一つでした。

 今日でもこのお宮は、大伝馬町1丁目・本町3丁目東町会の有志諫鼓会(かんこかい:神田祭の一番山車大伝馬町諫鼓山車より命名)の人々の篤いご信仰があります。
 
 また東京の風物詩『べったら市』も、神田神社兼務社日本橋宝田恵比寿神社で諫鼓会とべつたら市保存会の人々により祭礼伝統文化行事として継承されているそうです。

 そもそも大伝馬町の始まりは、徳川家康の江戸幕府開府から三年後の慶長11(1606)年丙午(ひのえうま)の年に江戸城拡張のため、今の東京駅付近にあった『宝田村』が命ぜられてこの地に移ったことによります。

 その際に宝田村鎮守様も同時に引っ越されて、馬込勘解由(まごめかげゆ)名主邸内に祀られました。

 その後、家康公から恵比寿神を贈られたので宝田恵比寿神社となりました。

 広重が画いた浮世絵にあるような江戸一番に栄えた太物(木綿)問屋の店々が1月10月20日に恵比須講を大々的に祝った際に、その前夜祭として市がたち、これがべったら市の始まりなのだそうです。

 
 太物(木綿)問屋といえば、写真のお社の両脇に三つ巴紋の入った黒い天水桶が並んでいますが、これが太物(木綿)問屋仲間から奉納されたものだそうです。

 神田明神のHPにこう説明が書かれていました。

※  ※  ※

 大伝馬町八雲神社鉄製天水桶 一対

 千代田区指定有形民俗文化財(平成16年4月1日指定)

 この天水桶は、地上からの高さが1,4メートルほどになる一対のものである。寸法は高さ76,7cm、口縁部の周囲287,3cm、口縁部の内径82,5cm。八角形の基壇と四角形の台座は石製で、天水桶は鋳鉄製である。天水桶の口縁には「巴」が連続する文様が見られ、また台座は蓮弁(れんべん)を模した形にするなど、装飾も施されている。

 銘文によれば、この天水桶は、江戸深川上大島町(江東区大島)在住の御鋳物師(いもじ)である大田近江掾藤原正次(釜屋六右衛門、通称、釜六)が作成したもので、江戸の問屋仲間の一つ太物問屋仲間が天保10年(1839)6月に奉納したものです。

 太物問屋とは、反物などの流通を一手に扱う商人のことで、江戸でも日本橋界隈を中心に軒を並べていました。

 大伝馬町八雲神社の運営費用は、最初は、宮元である大伝馬町が伝馬入用から賄っていましたが、後に太物問屋仲間が賄うようになります。そのため天水桶には大伝馬町の名と共に太物問屋仲間の名前が刻まれている。

※  ※  ※

 神社の奉納品にもその時代に繁栄した職業の名残が見て取れるのですね。

 反物って儲かったんだねえ。

 

【江戸神社】






 例によってお社の横に立っていた説明書きから引用します。

※  ※  ※

 三天王 一の宮

 御祭神 建速須佐之男命(タケハヤスサノオノミコト)

 祭礼日5月14日

 大寶2年(702)武蔵国豊島郡江戸の地(今の皇居の内)に創建された大江戸最古の地主の神であります。古くは江戸大明神あるいは江戸の天王と称された。

 鎌倉時代には、江戸氏の氏神として崇敬され、その後江戸氏が多摩郡喜多見村に移住の後、太田道灌築城してより、上杉氏・北条氏等引続き城に祀ったが慶長八年(1602)江戸城の拡張により、神田神社と共に神田台に遷り、更に元和二年(1616)に当地に遷座された。

 江戸時代中期以後は牛頭天王(ごずてんのう)と称され、明治元年(1868)に須賀神社と改称、更に明治十八年(1885)に江戸神社と復称された。

 この神社は、江戸開府の頃幕府の食を賄う菜市が開かれその後、貞享年間(1684~)に神田多町一帯に青物商が相集い市場の形態が整った。こうした発祥の頃から市場の守護神として崇敬されてきました。こうした発祥の頃から市場の守護神として崇敬されてきました。

 現社殿は平成元年神田市場が大田区東海の地に移転するに当たり江戸神社翼賛会の人々により今上陛下御即位大礼の記念として、大神輿を御神座として再建鎮座された。

※  ※  ※


 そして、江戸神社本社の立派な千貫神輿が展示されていました。





◎ 三天王・一の宮江戸神社の祭について

 慶長十八年(1613)より始まったと伝えられる神輿の神幸は6月7日の朝、明神の境内を発輿南天満町二丁目に設けられた御仮屋に入り、氏子の町々を鍍御して14日還輿された。その神幸の様は実に勇壮厳粛な行列であったと伝えられる。

 現存する大神輿は、日本有数の華麗にして巨大な神輿で、通称「千貫神輿」として人々に親しまれ、神田祀りに担がれる凡そ二百基の神輿の象徴でもあります。

※  ※  ※

 この千貫神輿は、昭和33年、鹿野喜平さんの作。江戸神社奉賛会の人々により崇敬され2年に一度の神田祭の時に、江戸神社千貫神輿として宮入しているそうです。

 以前ご紹介した江戸東京博物館、神田祭りのミニチュア再現展示より神輿の風景。





 それにしても、『千貫神輿(せんがんみこし)』たあ、剛毅だねえ。

 1貫は、約3.75kgですから千貫で、なんと約3750kg(3.75トン)になりますが、これはそれほど重いという形容なのですね。

 太っている人が、375 kgなくても『百貫(ひゃっかん)でぶ』と呼ばれるのと一緒ですね。

 でも、これだけ大きなお神輿だと、担ぎ手の人たちはさぞかし重かろうねえ。

 

【力石(ちからいし)】です。





 千代田区指定有形民俗文化財

 指定 平成三年四月

 「力石」とは、一定重量の大小の円形または楕円形の意思で、村の鎮守、神社境内、会所や村境(今日の行政単位の村ではない)にあって、若者達が力試しに用いたと記録されている。

 古来、わが国民間信仰では石に係わる信仰は多い。石に神霊がこもる、あるいは石を依代(よりしろ)としている神々も多い。

 また、「力石」に於ける伝承の一つとして、「道切」説もあるが、「巨人伝説の大草鞋(おおわらじ)」同様と考えられる。しかしこれらは、石神等に関する伝承の変化であって、昔は、村々に疫病(えきびょう)の侵入を防ぐための神であり、呪(まじな)い等であったようである。(疫病は道を伝って来ると信じられていた。)

 境内にある「力石」の由来は詳(つまび)らかではないが江戸・東京の若者達の生活と娯楽の一端を知るうえで貴重な資料である。

 本力石は、その銘文から文政五年(1822)十二月に神田仲町二丁目の柴田四郎右衛門が持ち上げたものとされる。

 平成三年十二月

※  ※  ※

 力石は『ちからいし』と読みます。『りきいし』と読むと、明日のジョーの力石徹(りきいしとおる)になっちゃうねえ。

 それにしても、重いものを持ち上げる競争というのは、世界共通ですね。
 オリンピックの重量挙げなんて、その最たるものです。

 銀メダルを取った三宅 宏実(みやけ ひろみ)選手なら持ち上げられるかな?

 それにしてもこの石を持ち上げた柴田四郎右衛門さんは、この石があるかぎり語り継がれる力持ちなのですね。

 石も持ち上げてみるものだねえ。


 ということで、次回に続きますね。















よこはま動物園ズーラシアのホンドタヌキさんだよ【ファイルC250】2012.09.10 

【ファイルC250】2012.09.10 よこはま動物園ズーラシアのホンドタヌキさんだよ

日本人には身近な動物ねえ。

 ご紹介したい写真・記事が随分とたまっているというのに、最近は更に掲載の間隔があいて、古い写真ばかりです。

 今回も、かなり以前の話です。

 よこはま動物園ズーラシアにはホンドタヌキさんがお住まいです。

 のんびりと寛いでいるねえ。
 
 



 
 こうみえて日本のタヌキさんは、『ジャパニーズ・ラクーン(“Japanese raccoon”)』と呼ばれ、ユニークで可愛いので、欧米でも結構人気なのだそうです。

 信楽(しがらき)焼きのたぬきさんの置物も、珍しがられますよね。
 
でも、信楽のタヌキさんみたいに太鼓腹じゃなくてスリムです。

 



 
 何考えているんでしょう。なんがあどけない感じが可愛いねえ。
 
 こんにちは。

 



 
 なかなか精悍なお顔だねえ。

 私たちが普通におとぎばなしなどで知っているタヌキさん、つまりホンドタヌキさんは、ネコ目(食肉目)イヌ科タヌキ属タヌキ種の亜種、ホンドタヌキさんです。

 英名は冒頭お話したとおり、ジャパニーズ・ラクーンまたはジャパニーズ・ラクーンドッグ(Japanese Raccoon Dog)です。

 でも、ラクーン(Common raccoon)というのは、アライグマさんのことで、アライグマさんはネコ目(食肉目)イヌ亜目クマ下目イタチ小目アライグマ科アライグマ亜科アライグマ属アライグマで、同じネコ目(食肉目)で確かに似てはいますけど、別の生き物です。

 それで、ドッグつまりワンちゃん=イヌさんはネコ目(食肉目)イヌ亜目イヌ科 で、やはりタヌキさんと同じイヌ科ですが、タヌキさんは、タヌキ属という独立した属をなしているのです。

 日本人は“タヌキさん”は“タヌキさん”というようにあきらかにイヌさんやアライグマさんとはっきり区別がつくのですが、欧米人はタヌキさんを知らないので、区別がつかないんだねえ。

 日本人にはあたりまえのタヌキさんのことを欧米人は知らないので、珍しくって人気なんだねえ。

 生息地は日本の本州、四国、九州です。

 体長50~80cm、体重4~6kg。寿命は約5~ 8年です。指は、前肢が5本、後肢が4本。

 タヌキさんは日本、朝鮮半島、支那、ウスリー地方などの東アジアに生息し、日本には北海道にすむエゾタヌキとホンドタヌキの2亜種がいます。


 平地から亜高山帯(標高2,000m超)まで、多様な環境で棲息し、佐渡島や壱岐島、屋久島などの島に棲息するホンドタヌキさんは人為的に移入された個体で、北海道の一部に棲息するエゾタヌキさんは地理的亜種です。

 タヌキさんは、主に里山で似暮らしていて、そのせいで里山に親しんできた日本人には馴染みが深くって、おとぎ話に出てくるのですね。

 身を隠せる広葉樹林の下草が密生した場所も好み、エゾタヌキさんは冬籠りをするのですがホンドタヌキさんは冬籠りはせず、真冬でも起きて元気に活動します。


 食性は雑食性で、銀杏、果実、ネズミなどの小型の哺乳類や鳥、カエル、ヘビ、昆虫、サワガニ、ザリガニ、ミミズから、農作物や生ゴミまでなど何でも食べます。

 それで動物園では、馬肉、ドッグフード、鶏頭、煮たさつまいもなどを与えています。

 食べ物に好き嫌いがないというか、節操がないのは、人間と同じですね。

 パンダさんの竹とか、コアラさんのユーカリとか、しかも味にうるさい超偏食で、餌の確保の為にわざわざ栽培しないといけない人たちとは大違いだねえ。

 体型はキツネさんなどに比べると丸みがあってそれがご愛嬌なのですが、これは原始的なイヌ科の特徴の名残りだと考えられているそうです。

 夏と冬に毛が抜けかわる換毛(かんもう)があって、冬毛の方が太って見えます。

 夜行性で昼間は穴の中や木の上で寝ていることが多いのですが、人に対して警戒していないときや暖かい日は、日中でも歩き回ったり、人家の近くでゴミをあさったりします。

 巣穴の外の一定の場所に糞(ふん)をする“ため糞”の習性をもっています。

 よく、『狸寝入り』といいますが、実際にタヌキさんは、寝たふりというか死んだふり(擬死)をします。

 中川志郎さんの『動物と私の交響曲(シンフォニー) 魅せられて60年』という本の中に、タヌキ寝入りの話がでてきますが、中川さんが実際に見たタヌキ寝入りは、雷の音におどろいて気絶していたのだそうです。

 タヌキさんは簡単に気絶する動物なんだって。

 お客さんに失礼にならないように、向こうをむいてあくびをするタヌキさん。

 




 礼儀正しいねえ。


 退屈なのかな。

 




 さようなら、元気でね。


 ついでに、これもかなり前に撮った多摩動物園でお暮らしだったホンドタヌキさん。

 




 




 多摩なら動物園の外にもタヌキさんは普通に暮らしているねえ。
 
 最近、タヌキさんが山から下りてきて、東京23区内にまで進出し野良の猫さんと餌をめぐって仁義無き抗争を繰り広げているという報道を耳にしました。

 それに比べたら、動物園のタヌキさんは、自由が無い代わりに餌には不自由しません。

 この前も丸の内でタヌキさんが捕獲されて、大騒ぎだったけれど、これは自然豊かな皇居でお暮らしのタヌキさんだったようです。

 都会に自然が増えたというよりも、里山が荒れてきたから餌を求めて都会に降りてきたのかな。逞しく生き抜いているんだねえ。

 
 ところで、逞しい動物といえば以前コツメカワウソさんの記事の中で、絶滅危惧種として記事にしたニホンカワウソさんが、このたび、とうとう絶滅種になってしまいました。


 ※   ※   ※

 ニホンカワウソ「絶滅種」に 30年以上行方知れず 環境省

 国の特別天然記念物で「絶滅危惧種」に指定されていたニホンカワウソについて、環境省は28日、30年以上生息を確認できていないことから「絶滅種」に指定したと明らかにした。

 絶滅の恐れのある野生生物を分類したレッドリストの改訂で、ランクを変更した。

 ニホンカワウソは、昭和54年に高知県須崎市で目撃されたのを最後に、生息が確認されていない。

 ※   ※   ※

 当ブログのニホンカワウソさんとコツメカワウソさんの記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/45434982.html

 30年も、とんと姿を現さないので、もう絶滅したろうって。この前のさかなクンのクニマスさんの例もあるから、私は希望は捨てていないのですけれど。

 クニマスさんの過去記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51635842.html


 ニホンカワウソさんは、江戸時代には今の東京23区内にも普通にいたらしいのにねえ。

 野生の動物となんとか折り合いをつけてうまくつきあうことをしないと、人間も危なくなるのです。

 ということで、今回は愛嬌のあるホンドタヌキさんでした。
 





天王寺公園内の住友さんが寄贈した大阪市立美術館敷地と、住友家茶臼山本邸庭園だった慶沢園(その3) 【ファイルT179】2012.09.02 

【ファイルT179】2012.09.02 天王寺公園内の住友さんが寄贈した大阪市立美術館敷地と、住友家茶臼山本邸庭園だった慶沢園(その3)

貴重な旧黒田藩蔵屋敷長屋門

  住友家についての記事を最初から読まれる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53064436.html

 天王寺公園内の住友さんが寄贈した大阪市立美術館敷地と、住友家茶臼山本邸庭園だった慶沢園(その1)から読まれる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53462787.html

 天王寺公園内には彫刻が飾ってあります。

 でも、背景にはばったもんの大坂城が。





 うへえ。

 さらに進んでいくと、植物温室があってその前にストーンヘンジのようなモニュメントが設置されています。





 この植物温室は、和62年『天王寺博覧会』が開催された時のテーマ館の一つで、安藤忠雄氏が設計したものです。


 さらに天王寺公園の中を進んでいくと、

 ぽつんと旧黒田藩蔵屋敷長屋門が建っています(背後に見えているのが後日ご紹介する大阪市立美術館)。









 立派な造りだねえ。

 この旧黒田藩蔵屋敷の長屋門は、筑前(福岡県)黒田藩52万石の蔵屋敷の遺構の一部で、江戸中期の建築とみられ、『源蔵門(げんぞうもん)』『後藤又兵衛あかずの門』ともいいます。

 天下の台所となった江戸時代の大坂は水運の便利さもあって、元和年間(1615~)以降、大阪に設けた倉庫と管理事務所と詰役の宿舎からなる施設として、堂島、中之島あたりに各藩の蔵屋敷が建てられました。

 大坂に蔵屋敷を設けていた藩は、明暦元(1655)年には66を数えるに過ぎなかったのですが、元禄16(1703)年)には90に増え、1835年(天保6年)には103に達し、ピーク時には124に及んだということです。

 白壁の重厚なつくりは、「天下の台所」と称された近世大坂の繁栄ぶりと、米をはじめとする自国の諸産物を管理・販売する大名と豪商の富と力をうかがうことができます。

 明治4(1871)年の廃藩置県により、蔵屋敷は廃止されて官有になり、程なく民間に払い下げられました。

 この門は、もともと中之島の渡辺橋南西詰西側にあったのですが、昭和8(1933)年の中之島三井ビル建設に際して、当時の所有者だった三井が大阪市に寄贈し、ここに移築されました。


 屋根の上には、大黒様が。





 米俵の上に乗っかって、縁起が良いねえ。

 胸と俵に刻印されている栗のようなマークは、願いを意のままに叶えてくれるありがたい『如意宝珠(にょいほうじゅ)』の模様です。

 大黒様の前に左三つ巴(ひだりみつどもえ)の紋が。

 黒田氏の家紋は石餅(石持)と藤巴で、藤巴は左三つ巴と似てないこともありませんが。

 左三つ巴は武家の神様の八幡宮の八幡神が神紋として使用していて、これは古代の祭具である勾玉(まがたま)の形と共通する巴の形が日本人に好まれ、平安時代末から鎌倉時代前半につくられた八幡社でも、装飾に多く用いれられていたものだそうです。

 だから、この三つ巴は家紋じゃなくて、破邪の意味が込められているのかもしれませんね。


 門がこれだけ立派なら、蔵屋敷の立派さが偲ばれます。

 
 門の裏側です。





 柱も立派です。





 この門の先が慶沢園です。





 ということで、やっとこさ住友家茶臼山本邸(すみともけちゃうすやまてい)庭園だった慶沢園(けいたくえん)に通じる道にたどりつきました。

 慶沢園については、次回にご紹介しますね。


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