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池袋サンシャインの水族館の『水中パフォーマンス』を観たよ 【ファイルC253】2012.10.29 

【ファイルC253】2012.10.29 池袋サンシャインの水族館の『水中パフォーマンス』を観たよ

マダラトビエイさんとドクウツボさんがカッコいいねえ。

 今回ご紹介するサンシャイン水族館は、ブログのお友達のカンチョ先生こと中村元(なかむら・はじめ)先生がプロデュースされた進化系水族館です。えっへん!

 カンチョ先生が凄いのに、私がえばることはないねえ。

 カンチョ先生のブログはこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/kapaguy

 サンシャイン水族館については、カンチョ先生のブログの『★新サンシャイン情報』のお部屋を参考にしてくださいね。まさに"プロジェクトX"だねえ。

 昨年の7月リニューアル・オープンし、独自の新しい展示方法が素晴らしいので、マスメディアでもよく取り上げられて、昨年の東京の夏の話題を独占しました。

 プロデュースされたカンチョ先生もひっぱりだこ。

 まだまだ人気で、ついこの間も北野武さんの番組でここが紹介されていて、その時もやはりカンチョ先生が施設の説明をされていました。

 北野武さん、カンチョ先生の創意工夫にとっても感心していたねえ。映画ロケに使ったらいいと思うねえ。
 
 混雑が落ち着いたら行こうと思っていたのですが、なんやかんやでずるずると機会を逃して、やっと行くことが出来ました。遅くなってすみません。

池袋訪問自体が、巣鴨プリズン跡地にお参りして以来です。
巣鴨プリズンの記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/48477872.html
 
 ご紹介したいことが盛りだくさんなので、まず今回は、目玉の一つ、大水槽のサンシャインラグーンから、餌やりを兼ねた『水中パフォーマンス』です。

 ここは目玉が多すぎて、まるで百目妖怪だねえ。

 入り口のお魚をゆっくり見ていたらば、『水中パフォーマンス開始』のアナウンスがあったので、大水槽の前に行きました。

 サンシャイン水族館はビルの屋上にあるという構造上、巨大水槽の設置は建物の強度的な問題から、とても制約を受けるのです。

 そこをカンチョ先生がスタッフの方々とご苦労されて、いろんな創意工夫で巨大な水槽を作ったんだねえ。果てしなく続く海洋の雰囲気がたっぷり!

 普段ののどかなサンシャインラグーンの風景。
 




 大水槽の大きさももちろんなのですが、水槽がとても明るくてびっくりしました。底の白砂が巨大なレフ板になっていて、カラフルなお魚の姿が綺麗に浮かび上がっています。

 それで期待のなか、ショーが始まります。

 さっそうと美人のお姉さんが飛び切りの笑顔で登場!
 




 わーい。

 鮮やかなウエットスーツ、足ヒレの色彩がとっても水槽の感じとマッチしています。お魚さん達は餌がもらえることが分かっているのでお姉さんを追っかけます。

 はらぺこのみんなに、ごはんをあげるよ。
 




 マダラトビエイさんに餌を手渡ししています。
 




 なんか、表情がうれしそうで、ヒレをふりふりしている様子が、まるでシッポをふったワンちゃんのようです。

 こんどはドクウツボさんと遊びます。
 




 この黒ずんだ黄色が、いかにも凶暴そうで怖いのです。

 ドクウツボさんの毒は、ハブさんやコブラさんのような毒蛇のように、噛まれたら牙から毒液が射出され体中に毒が回るというわけではありません。

 ドクウツボさんを食べたらば、シガテラ毒という猛毒で食中毒を起こすのです。だからお姉さんが、余程いやしんぼうで、その場でぱっくんちょってドクウツボさんを食べないかぎり毒に関しては大丈夫です。

 でも、その鋭い歯で噛まれたら大怪我をするから、危険なことには変わりありません。

 お姉さんはそんなドクウツボさんと仲良く泳いでいます。美女と野獣だねえ。
  




 ドクウツボさんが、くるくるひらひら、まるで新体操のリボンみたい!





 このシーンを見るだけでも、ここに来る価値はあるねえ。

 姉さんはお魚さん達に大人気です。

 お魚が集まりすぎてお姉さんの姿が見えないよお!





 お姉さんが泳ぐと、魚たちが追っかけてきます。





 うへえ、サメのツマグロさんまで追っかけてきたよお!

 M・M・K(もてもて困っちゃう)だねえ。

 さしずめ、マダラトビエイさんが『お姉さんファンクラブの親衛隊長さん』でお姉さんを護衛しているといったところかな。

 このショーはラグーンのお魚の活溌な動きがよく観察できて、見ものですよ。

 普段は悠然と泳いでいるのに、この時ばかりはみんなごはんが食べたいから、一生懸命になるのは当然ですよね。

 この大水槽には、他にもいろんなお友達がお住まいなので、今後も続いてご紹介しますね。







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天王寺公園内の住友さんが寄贈した大阪市立美術館敷地と、住友家茶臼山本邸庭園だった慶沢園(その6) 【ファイルT182】2012.10.27 

【ファイルT182】2012.10.27 天王寺公園内の住友さんが寄贈した大阪市立美術館敷地と、住友家茶臼山本邸庭園だった慶沢園(その6)

大阪天王寺公園内の茶臼山古墳(ちゃうすやまこふん)は大阪の陣の古戦場。

 住友家についての記事を最初から読まれる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53064436.html

 天王寺公園内の住友さんが寄贈した大阪市立美術館敷地と、住友家茶臼山本邸庭園だった慶沢園(その1)から読まれる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53462787.html

 前回は慶沢園を訪ねました。

 今回は、慶沢園(けいたくえん)のすぐ裏にある、茶臼山古墳(ちゃうすやまこふん)をご案内します。

 茶臼山古墳は5世紀の豪族の墓と伝えられているのですが(墓の主は不明)、そうではなくて円墳または自然丘陵との見方もあるそうです。

 もしこれが、古墳だとすれば、全長200mの大阪市内では最大級の前方後円墳となるそうです。

 茶臼山古墳も住友邸の庭園で、大阪市に寄付したんだよ。

 茶臼山古墳は河底池(かわぞこいけ)にかかった和気橋(わけばし)を渡っていきます。





 橋を渡ると、ここには、碑が立っています。

 史跡 茶臼山 及 河底池





 その近くには、こんな味わいのある案内板が立っています。





 徳川家康が三つ葉葵(みつばあおい)、真田幸村の六連銭(りくれんせん)、すなわち三途の川(さんずのかわ)の渡し賃の六文にちなんだ家紋だねえ。
 
 冥土で支払う船賃の六連銭を旗印にすることは、『不惜身命』(ふしゃくしんみょう:仏法のために身命をささげて惜しまないこと)を意味するといわれているそうです。

 『不惜身命』って貴乃花 光司さんが、横綱への昇進伝達式で「謹んでお受けします。今後も『不撓不屈(ふとうふくつ)』の精神で、力士として相撲道に『不惜身命』を貫く所存でございます」と使者に答えたことで有名になった言葉ですね。

 布陣の図を拡大します。
 




 となりに立っている説明版にはこう記されていました。

 ※   ※   ※

 茶臼山古戦場跡

 慶長二十年五月七日〔1615年5月7日〕、紅の旗・吹貫(ふきぬき)であたかもつつじの花盛りのように群れなびかせた真田の赤揃が陣を構える茶臼山の真田幸村隊三千五百は、この日の正午過ぎ、徳川方最強の松平忠直率いる越前勢一万五千と激突し、真田の赤揃えと松平家の家紋のツマ黒が交互に入り乱れる大坂夏の陣最大の激戦が茶臼山周辺で繰り広げられた。(大坂夏の陣 天王寺口の戦い)

 数では劣る真田隊ではあったが、高い戦意と捨身の攻撃で越前勢を突き破り、徳川家康の本陣目掛けて一文字に三度の攻撃を仕掛け、あとわずかで家康の首に手が届くところまで攻めるも、数に優る越前勢が混乱から立ち直り反撃を開始、しばらく茶臼山に拠って抵抗を続けた真田隊も越前勢の猛攻によって奮戦むなしく壊滅し、真田幸村も激戦を戦い抜いて疲弊し茶臼山の北にある安居天神で休息しているところを越前兵により討ち取られる。

 ―真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由―「薩藩旧記」

 〔以上原文ママ〕

 ※   ※   ※

 それで、

 ここ茶臼山では、冬の陣では徳川家康が、夏の陣では真田幸村【さなだ ゆきむら:真田信繁(さなだ のぶしげ)】がそれぞれ陣を張っていたのです。

 なお、真田幸村という呼称は、江戸時代になってから広まったもので、史実としては真田信繁と呼ぶのが正しいそうです。

 豊臣秀吉の死後、豊臣家に代わって天下を取ろうとしていた徳川と豊臣の間に緊張が高まって天下分け目の関が原の戦いで徳川方が勝利。

 さらに豊臣方が建造した京都の方広寺鐘銘の『国家安康』『君臣豊楽』という文字に徳川が言いがかりをつけたことを引き金に、大坂夏の陣が起きました。

 牢人衆の真田幸村(信繁)さんは、野戦に打って出て、いざとなったら篭城しようと主張したのですが、それは入れられず結局豊臣家宿老の大野治長の主張の通り、最初から大坂城に篭城します。

 大阪夏の陣の布陣(画像クリックで拡大可)。【大阪今昔散歩 原島広至著 中経文庫より】





 画像下左の徳川本陣が茶臼山です。

 結局、豊臣方の劣勢で、徳川方も兵糧が不足してきたので和議が成立。

 和平成立後も徳川方は、国友鍛冶に大砲の製造を命じるなど、戦争準備を着々と進めます。

 慶長20年(1615)年3月15日、大坂に浪人の乱暴・狼藉、堀や塀の復旧、京や伏見への放火の風聞といった不穏な動きがあるとする報が京都所司代板倉勝重より駿府へ届くと、徳川方は牢人の解雇【関が原の時に父昌幸と居城の上田城に立てこもり、徳川秀忠の大軍を迎え撃ち、大坂冬の陣でも大活躍の真田幸村さんは牢人です】、豊臣家の移封を要求し、再度一戦を交えることになります。

 それで、大坂夏の陣で堀が埋められ、裸城になった大坂城に篭城するわけにもいかないので、豊臣軍は一転野戦に打って出ます。徳川家康は、城攻めが苦手だから思う壺です。

 ですから、真田さんの陣も南に張り出して、夏の陣では徳川家康が陣を張っていた茶臼山に陣を敷きます。

 大阪冬の陣の布陣(画像クリックで拡大可)。大阪今昔散歩 原島広至著 中経文庫より】

 




 今度は画像中央左の真田信繁(幸村)の陣が茶臼山です。

 茶臼山に陣取った真田幸村は、越前松平家の松平忠直隊を蹴散らし、毛利隊らに手一杯であった徳川勢の隙を突き家康本陣まで攻め込んで、屈強で鳴らす家康旗本勢を蹴散らしました。

 ちなみに、徳川が本陣に攻め込まれ、馬印が倒されたのは徳川家康が命からがら敗走した『三方ヶ原の戦い』以来二度目で、真田隊の猛攻に家康は二度も自害を覚悟したほどだったといいます。

 しかし、そこは多勢に無勢、次第に徳川軍に追い詰められ、ついに四天王寺近くの安居神社(大阪市天王寺区)の境内で、味方の傷ついた兵士を看病していたところを強襲され、忠直隊鉄砲組の西尾宗次にその首級(しるし)をあげられました。享年四十九。

 そして家康も、その翌元和2(1616)年4月17日巳の刻(午前10時頃)に駿府城において薨去します。まるで豊臣家を滅ぼすことができて、後顧の憂いが無くなり安心したかのように。享年75。

 安居神社南の広い道路(国道25号)沿いには碑が立っています。

 『元和元年五月七日 真田幸村戦歿地(大正9年大阪府)』の碑(安居神社境内にも更に新しくて立派な『真田幸村戦死跡之碑』が建っているそうです)。

 




 グレゴリオ暦の1615年9月5日(旧暦:慶長20年7月13日)から改元して元和元年となったということなので、元和元年五月七日じゃなくて慶長20年だと思うのですが。

 茶臼山と、真田幸村戦歿地の碑の位置関係はこうなっています。

 




 青い棒線で示したのが、河底池に架かっている和気橋です。

 それで、ゆるやかな石段を登って、

 




 日本庭園の築山程度の高さしかない(せいぜい標高数メートル)茶臼山の頂上には、いとも簡単に到着。

 山頂にはオブジェっぽい照明塔が立っています。

 




 周りには草木が生い茂っています。

 




 ここに、徳川家康も真田幸村も立っていたかと思うと、不思議な気分です。

 圧倒的な劣勢だった夏の陣において、死を覚悟して決戦にのぞんだ真田幸村さんの気分になって、徳川家康の本陣があった南のほうを臨みます。

 




 木々で視界がさえぎられていますが、ここは野原だったのですね。

 ふと地面をみると、野の花がひっそりとつつましやかに咲いていました。

 




 芭蕉の『奥の細道』から、有名な

 夏草や兵どもが夢の跡   (なつくさや つわものどもが ゆめのあと)

 という句が実感できるねえ。

 また、芭蕉が尊敬していて、『奥の細道』でもとりあげられている、唐の杜甫(とほ)の五言律詩(ごごんりっし)『春望』の冒頭も思い浮かびます。

 國破れて 山河在り (くにやぶれて さんがあり)

 城春にして 草木深し (しろはるにして そうもくふかし)
 
 時に感じて 花にも涙を濺ぎ (ときにかんじて はなにもなみだをそそぎ)・・・・ 


 大阪の真ん中で、緑深くて、こんなしみじみと歴史を実感できる場所があるなんてびっくりだねえ。

 大坂城を観光されるときは少し足を伸ばしてここも見学されることをお勧めします。


 次回に続きますね。

神田明神は江戸の総鎮守(8) 【ファイルET73】2012.10.25 

【ファイルET73】2012.10.25 神田明神は江戸の総鎮守(8)

神田明神は国学発祥の地だよ。国学の祖、荷田春満さんは忠臣蔵に関わった人物なんだねえ。

 神田明神の摂末社と史跡についての続きです。

 最初から読まれる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53382446.html

 ということで、神田明神の続きです。

【國學発祥之地(こくがくはっしょう)の碑】









 皆さんが何気なく通り過ぎているこの碑。

 神田明神HPにはこうあります。
 
 ※   ※   ※

 国学は、荷田春満(かだ の あずままろ:1669~1736)により江戸において始められた学問である。

 春満は伏見稲荷大社神職の出。有名な赤穂事件のとき、当時吉良邸に出入りしていた春満が赤穂浪士たちにひそかに情報を提供し討入をたすけたというエピソードもある。

 その春満に最初に入門したのが神田明神神主家の芝崎好高であり、邸宅を講義の場として提供するなど国学の普及・発展につとめた。

 また春満の弟子・賀茂真淵(1697~1769)も、神主芝崎家の邸に一時住んでいた。真淵は、御三卿・田安宗武に仕え、その一方で江戸在住の武家・町人層を中心に国学を広めた。

 碑は春満・真淵そして芝崎神主ほか明神神職による国学の発祥を記念して、昭和53年12月に建立された。題字は当時伏見稲荷大社宮司・守屋光春、撰文は直木賞作家・今 東光氏による。

【碑文】のおもて面にはこう刻まれています。


 國學發祥之地          今 東光(こん とうこう)撰文

荷田東丸(春満)は 京都伏見稲荷社家に生る 通称 羽倉斎(はくら いつき)本名信盛なり

元禄十三年三代将軍家光五十年祭に勅使として 
大炊御門(おおいのみかど)前右大臣経光(つねみつ)公 中仙道(なかせんどう)経由日光及び江戸に下向の砌(みぎ)り随行して江戸に出で 享保七年まで在府せり 

その間各所に講説し歌会を催し且つ多くの門人を養へり 

その講席は当社神主芝崎邸にて後に東丸養子在満【荷田 在満(かだ の ありまろ)】及び高弟浜松の人 岡部三四真渕【おかべそうしまぶち=賀茂 真淵(かものまぶち)】もこの邸を借用せり 

当時神主は芝崎宮内少輔(くないしょうゆう)好高 その男(むすこ)宮内大輔(くないたいふ)好寛その舎弟豊後守(ぶんごのかみ)好全の三代約百年に亘(わた)れり 
然(しか)も好全妻女は東丸の女(むすめ)直子なり 

されば芝崎神主は歴代自ら学ぶと共に能く師東丸のために尽瘁【じんすい:自分のことはかまわずに苦労すること】し学園の場を供して国学振興に寄与せり 
師東丸は門弟を訓(おし)ふる頗(すこぶ)る懇切(こんせつ)なりき

殊に元禄十五年門弟の宗偏流(そうへんりゅう)茶人中島五郎作宗吾(なかじま ごろさく そうご)等と密かに赤穂浪士のために計(はか)りて義挙を扶(たす)けしはその忠直の性を知るに足る 

この東丸出でて吾が国学は加茂真渕 本居宣長と伝統して今日に至る 

今その遺跡に記して後学の為に伝ふ

 ※   ※   ※

 【ふりがな・注は、眼とろん星人による】

 ここ、神田明神の神主家の芝崎好高さんが、荷田春満(かだ の あずままろ)さんの最初の門弟になって、邸宅を講義の場として提供して、国学はそこから始まったのですね。

 江戸の当時、支那は北の蛮族であった満州族(女真族)が支配する清の時代。漢民族は下層民として支配されていました。

 ところが、その漢民族すら、漢が滅亡後の混乱期に蛮族との混血が進み、すでに雲散霧消してしまっています。漢字を作り、孔子様を生んだ漢民族など、現在は存在しません。

『中国四千年の歴史』というのは全くのデタラメです。

 そういうこともあって、日本では支那の儒教やインド発祥の仏典の研究を中心とする当時の日本の学問を批判し、日本独自の歴史文化を見つめなおし、その意味と価値を問う国学を発展させました。

 そもそも日本の学問の神様である菅原道真公は、腐敗堕落した唐に、命の危険を冒してまで優秀な人材を唐に渡海させる必要ない、書物の輸入だけで十分だと遣唐使を廃止するという決定を行い、その後日本で独自に発展した国風文化の種をまきました。

 そこから古今和歌集、源氏物語、枕草子等々をはじめとする素晴らしい文化が花開いたのですね。

 ですから、そういう日本独自の文化を研究する学問が発展しない方がおかしいのです。

その国学の祖、荷田春満の第一の高弟がここ神田明神の神主さんだったなんて、びっくりです。

 この地はすぐ近くに湯島の聖堂(孔子廟)・昌平坂学問所がある学問の地ですから、学問の盛んな地区の神主さんの知的レベルが高かったというのは、当然といえば当然かもしれません。



 それで、荷田春満さんが、赤穂義士を助けたエピソードはこういうことです。

 赤穂義士が吉良邸に討ち入る時、そもそも吉良上野介(きらこうずけのすけ)さんが確実に在宅していなければ、全く意味がありません。それを探るため、いろいろな人脈をたどって情報収集がなされました。

 大石内蔵助(おおいしくらのすけ)さんは、茶人中島五郎作宗吾(なかじま ごろさく そうご)さんと義挙3年前からの学友でした。

 中島さんは、茶人山田宗偏(やまだそうへん)さんの門人で、茶道をたしなむ吉良上野介さんも同じく、山田宗偏の門人。つまり兄弟弟子です。


 その中島さんに神道、歌道を教授していたのが、まさに、ここでご紹介している国学の祖、荷田春満(東丸)【羽倉斎(はくら いつき)】さんでした。

 好都合なことに荷田春満さんの門人には、吉良家の家老・松原多仲(まつばらたちゅう)さんがいるので、吉良家の内情を探るのにもってこいです。

 荷田春満さんから、

 『上野介がみずからお茶を点(た)て、茶室の周囲には警護の武士がいた。上野介は上杉邸に滞在することが多く、そのためか茶室も粗末で、屋敷内には壁土が落ちている部分や、修理されていない場所もあり、これは上野介が住居としていないためと思われる』

 等々の情報がもたらされました。

 ということは、普段は住んでいない吉良邸でも、茶会が催行される日には自分でお茶を点てる吉良上野介さんは、必ず在宅するということです。

 それで、内蔵助さんは、大高源五(おおたかげんご)さんを『大阪商人・脇坂新兵衛(わきさかしんべえ)』と名乗らせて、吉良上野介さんの茶道の師匠、山田宗偏(やまだそうへん)さんのもとへ門人として送り込み、吉良邸茶会の日を探らせたのです。


 討ち入り前日の元禄15年12月13日。

 荷田春満(東丸)【羽倉斎(はくら いつき)】さんが大石三平(おおいしみつひら)さんに宛てた手紙が残っています。

※   ※   ※

 御頼みの候両品の事、とかく相知れ申さず候。そのうち承り合い申し上げるべく候。

(中略)

 なおなお、彼方(かなた)の儀は十四日のようにチラと承り候。以上。

                                  十二月十三日

                                  羽倉斎(はくら いつき)

※   ※   ※

 この手紙の解釈については、
 
① 彼方(かなた)の儀を上野介の予定とする説。

 前半部はダミーで、赤穂義士に同情する荷田春満(羽倉斎)さんが、十四日の茶会に吉良上野介さんが出席することを保障したという解釈。

② 彼方(かなた)の儀を討ち入りのこととする説。
  
 前半部は本当に十四日の吉良上野介さんの予定はわからないことの表明で、追伸部は十四日の討ち入りの予感を吐露したとする解釈。


 手紙を受け取った大石三平(おおいしみつひら)さんは、大石瀬左衛門(おおいしせざえもん)の従兄弟で、かつ大石無人(おおいしぶじん)の次男。父子ともに浪人生活を送っていましたが、堀部家と親交があって、堀部安兵衛さんが討ち入りを唱えると、堀部弥兵衛さんに同志を申し出るほどでした。

 大石三平さんは、吉良邸の情報探査に献身的に協力しました。

 いずれの説を採るにせよ、吉良邸の動静を赤穂義士に教えていた国学の祖、荷田春満さんは、忠臣蔵に大きく関わっていたのですね。

 凄いねえ。

 結局、【國學発祥之地(こくがくはっしょう)の碑】から、忠臣蔵の話になりました。

 長くなりましたので、次回に続きますね。

大阪道頓堀(どうとんぼり)の『大黒 (だいこく)』さんだよ 【ファイルF51】2012.10.20 

【ファイルF51】2012.10.20 大阪道頓堀(どうとんぼり)の『大黒 (だいこく)』さんだよ

『かやくご飯』が名物だねえ。

 大阪道頓堀『大黒』さんの創業は、明治35(1902)年。日露戦争より前なんだねえ。

 とても有名な老舗店です。

 作家の池波正太郎さんも劇団公演で来阪の際に愛用していたお店です。

 【『散歩の時に何か食べたくなって』池波正太郎著 新潮文庫P82より】

※   ※   ※

 朝食をすますと、道頓堀を歩いて新歌舞伎座へ出かけ、公演中の劇団の人たちと打ち合わせなどをするうち、昼過ぎになる。自分の出番を終えた辰巳(たつみ)隆太郎と共に昼飯に行くのが、御堂筋(みどうすじ)の西を少し入ったところにある〔大黒(だいこく)〕である。

名物の〔かやく飯〕に、熱々の粕汁(かすじる)か味噌汁。それに焼魚をとって食べるそのうまさは、旅に出ていることだからというのではなく、どこの家庭の日常にも食膳にだされるような変哲もないものが、これほどにうまいのは、やはり大阪の、“知る人ぞ知る”食べ物屋だからだ。

※   ※   ※

 現在の新歌舞伎座。





 仕事場の新歌舞伎座からほど近い便利な場所に、美味しいお店があって、池波正太郎さんも良かったねえ。

 もちろん地元吉本の芸人さんも利用していて、大御所の西川きよしさんも大のお気に入りなのだそうです。

 関西では『炊き込みご飯』、『五目飯(ごもくめし)』のことを、『かやくご飯』とか『かやくめし』と言います。

 そういえば、笑福亭仁鶴(しょうふくていにかく)師匠が噺(はなし)の枕に、「お茶碗にかんしゃく玉が入ったのを知らずに食べて口の中で爆発。ぱぱんぱんぱんぱ~ん!これが本当のかやくご飯や~。ちゅうたりしてね」というのがあったけれど、関東の人には分からないねえ。

 仁鶴師匠には申し訳ないのですが、この場合の『かやく』は『火薬』ではなく、『加薬』と書きます。

 本来は漢方薬の効果を高めるために補助的な薬を加えることや、その薬を表す漢方の用語なのだそうです。

 この補助的な薬から転じて、炊き込みご飯やうどんに入れる具(主材料を引き立たせる副材料)を『かやく』と呼ぶようになり、その後、炊き込みご飯のことを『かやくご飯』と呼ぶようになったそうです。

 そういえば、大阪には道修町(どしょうまち)という有名な薬問屋の町がありますからね。

 納得!

 食物に添え、料理の味を引き立たせる、香辛料や野菜などの総称のことも『かやく』と呼んでいたのですが、現在では『薬味(やくみ)』と呼ぶことが多いようです。

 大黒さんの場所は、観光地でもある道頓堀(どうとんぼり)はグリコの看板で有名な戎橋(えびすばし)の近くです。

 ロイヤルホストの路地を入って、





 この看板を目当てにするといいねえ。





 ということで到着。
 




 平日の開店前に到着して、開店と同時に入った時には私を含めお客さんが7名。


 お客さんが入りやすいように、暖簾の左端がわざと半分からげてあるのが粋だねえ。





 ところで、『粋』という字。東京は『いき』と読みますが、大阪での読みは『すい』です。

 屋号の『大黒』様は商売繁盛の神様だから、縁起がいいねえ。それで特に大阪の人は好きなんだろうねえ。

 近くの道頓堀川には大黒橋(だいこくばし)という名前の橋まで架かっています。





 店内は8名程坐れる大きなテーブルが2つ。

 結果、当然のごとく相席になります。

 椅子の背もたれに『大黒』の透かしが。





 こちらが、レギュラーメニューです。





 池波正太郎さんの頃にあった『粕汁(かすじる)』はメニューに見あたりません。

 大阪でお商売をされる人の必需品、今宮戎(いまみやえびす)の福笹(ふくざさ)の下にはおすすめセットと、季節のメニューが。





 私は、かやくご飯(中)450円と、さわら焼物600円と、白みそ豆腐300円+消費税外税の計1,410円也を注文しました。

 どうやらここのお店は、消費税10円未満切捨てのお会計みたいです。あとで、季節のサンマ焼物の方を頼んでも良かったなあと思いました。

 お魚を焼くのに少々時間がかかるので、店内を拝見。

 店名どおり、大黒様の置物がおいてありました。





 額に入った絵が飾ってあったよ。





 これは、美人画で有名な東郷青児(とうごうせいじ)画伯が、来店の折にその場で描いてくれたものなのだと、女将さんがおっしゃっていました。

 こちらにはキュービズムっぽい大黒様の絵が。





 この絵は中村真(なかむらしん)画伯が描かれたものだそうです。

 後で調べたら、画伯は洋画家でモダンアート協会運営委員。昭和44年5月14亡くなるまで、万国博日本政府館展示設計者として尽力。日本美術家連盟関西支部委員長、大阪芸術大学デザイン科主任教授でもあり、関西美術界で幅広い業績を残した偉い先生なんだって(間違っていたらすみません)。
 

 アカデミックで、さすがは老舗のお店だねえ。サランラップで包んだ芸能人のサイン入り色紙を画鋲で貼り付けるのとえらい違いです。


 ということで、おわんに香の物が乗っかった、かやくご飯(中)とさわら焼物が来ました。





 ふたを開けると、湯気とともご飯のいい香りが。









 薄口醤油の上品な味付けがされた、暖かいふわふわしっとりご飯と、細かくて歯に嬉しいかやくのアクセントがなんともいえません。『かやく』は、細かく刻んだこんにゃく、油あげ、ごぼう。


 やっぱり日本の甘くてもちもちおコメはお醤油味だねえ。

 さわら焼物は最初は何もつけずに。





 程よい塩味だったので、お醤油を少したらしていただきました。
 
 ここのお店は、看板メニューのかやくご飯に負けず劣らず、焼き魚が美味しいのです。

 ぷりぷりした食感で、焼き加減も丁度良く、さわら独特の淡白で上品な味わいが咬む度に口中に広がります。当然ぱりぱり香ばしい皮ごと食べます。

 それから、ここで忘れてはならないのが、白みそ豆腐のおみおつけ。





 私は白味噌独特の甘みがどちらかというと苦手なのですが、ここのおみおつけは、白味噌の甘みがコクに転換したみたいな感じの味で、その分関西風昆布かつお出汁の旨みが引き立ちます。
コクがあるのに後味にキレがあるねえ。なんかビールの宣伝みたいになりましたが、そうなのだからしょうがないのです。

 お豆腐がつるるんと入り、三つ葉の爽やかな味が利いています。

 池波正太郎さんがここでの食事を『どこの家庭の日常にも食膳にだされるような変哲もないものが、これほどにうまい』と評したように、シンプルなお料理を真面目にきちっとした仕事でちゃんと出すというのは本当に偉いなあと思いました。

 ごはんと焼き魚とお味噌汁という定番メニューで老舗を張り続けるというのはなんと凄いことでしょう。

 これが信用を重んじる大阪商人の誠実さなのですね。

 お昼食に1,410円で少し値が張りますが、この味ですから、とてもリーズナブルです。

 なにかというと揚げモン粉モンのイメージがつきまとう大阪ですが、あれは基本的には戦後のもので、この上品なお味が上方(かみがた)の特徴なのだと改めて思いました。









輸入盤のゲオルグ・ショルティ指揮『ワーグナー・オペラ・レコーディングズ』を買ったよ 【ファイルMU7】2012.010.16 

【ファイルMU7】2012.010.16 輸入盤のゲオルグ・ショルティ指揮『ワーグナー・オペラ・レコーディングズ』を買ったよ

今、クラシック音楽の輸入盤CDは投売り状態だねえ。

 輸入盤のゲオルグ・ショルティ指揮の『ワーグナー・オペラ・レコーディングズ』を買いました。全曲CD36枚組みという、とんでもないセットです。





 うたい文句が、

 ※   ※   ※

 半世紀に及ぶショルティのデッカ録音史に燦然と輝くワーグナー・チクルス

「ニーベルングの指環(全曲)」を含む、ワーグナー・オペラ録音集。

 当時の最高のワーグナー歌いを起用したこれらの録音は、どれもが圧倒的な名唱を引出した名演ばかりです。ウィーン・フィルと1982年に録音した「管弦楽作品集」。「トリスタンとイゾルデ」のリハーサル音源等も収録。

※   ※   ※

 ということで、このCDセット37枚(音楽CD36枚+CD-ROM1枚)の中には、史上初のスタジオ全曲録音の偉業である、楽劇『ニーベルングの指輪』全曲四部作も入っています。

 内容は、『さまよえるオランダ人』、『ローエングリン』、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』、
『パルジファル』、『タンホイザー』、『トリスタンとイゾルデ』、そして上述の『ニーベルングの指輪』全曲四部作で、リヒャルト・ワーグナーの代表作がここに網羅されているのです。

 36枚もあるので、まだ全部聴ききれていないねえ。

 これがタワー・レコードで、なんと!通常セット価格10,001円
 http://tower.jp/item/3131819

 音楽CD36枚ですから、一枚あたりに換算したら278円!

 オペラ・楽劇を含めた声楽曲をさほど聴かない私は、『ニーベルングの指環(全曲)』に関していえば、CDセットではカラヤン/ベルリン・フィル盤を、DVDではレヴァイン/メトロポリタン歌劇場盤を持っていて、この名盤については安くなったら入手しようと思っていたのですが、正直言って、ここまで値崩れしようとは思ってもいませんでした。

 これまで高額なCDセットを購入してきたワグネリアン(ワーグナー心酔者)諸氏の胸中はさぞかし複雑でしょう。

 楽天を覗いてきたら、
『ニーベルングの指環』全曲 14枚組みのみで、19,415円でした。これでも昔は確か4万円以上したのですから安い方です。

 それが更に、『ニーベルングの指環』全曲を含め、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』や『トリスタンとイゾルデ』他の代表作をあわせた36枚組みで、10,001円(セール価格はもっと安い)なのですから、唸ってしまいます。

 歴史的遺産とも言えるこのセット、音質もとっても良いのです。
 
 なんかジャパネットたかたさんみたいだねえ。でも、CDは発売当初一枚3500円ほどしたので、ついにデフレもここまで至ったかという感慨を持たざるを得ません。

 というより、歴史的名盤がこの廉価なのに、2,000円以上する新譜って果たして売れるのでしょうか?他人事ながら心配です。
 
 ただし、輸入版なので歌詞の日本語対訳は付属していません。
 
 37枚目のCD-ROMでは、パソコン上で原文のドイツ語とフランス語及び英語の対訳を見ることができますが・・・。
 
 通常、クラシック音楽の輸入盤の解説、ライナー・ノーツは、英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語が使用されている例が多いのです。

 ただでさえ世界的なマーケットの小さいこの市場で、決して小さくない日本市場。日本語訳も入れれば良いと思うのですが、これをされると国内盤のメーカーが完全につぶれてしまうので、それはできない相談なのでしょう。

 私の場合、別の盤の対訳を持っているので、無くても不自由はしないのですけど。

 もっとも、対訳を読みながらの音楽鑑賞なんて、辛気臭いので、ほとんどしません。

 普段聴きには、ネット等を利用して各幕のあらすじだけ頭に入れてリラックスして聴くのが良いでしょう。
 
 日本人が歌舞伎、文楽を鑑賞する時も日本語が必ずしも明瞭に聞き取れるわけではないので、予めあらすじを理解するのが良いのと同じです。
 
 西洋人だって、日本人にとっての歌舞伎、文楽同様、母国語のオペラ歌唱の場合、歌詞がちゃんと聞き取れるかどうかあやしいものなのですから。そのうえに今のオペラは多国籍化が進んで、外国人歌手が多いので、夫々のお国訛りで余計に聞き取りづらくなっているようです。
 
 ワーグナーやリヒャルト・シュトラウスの場合、形式上、歌劇(オペラ)じゃなくて、楽劇(がくげき)といいます。

 それで、膨大なこのセットのうち、北欧神話の英雄であるシグルズの物語を元にしたリヒャルト・ワーグナー畢生の超大作、楽劇『ニーベルングの指環(全曲)』に限ってご紹介します。

 映画で大ヒットした、『ロード・オブ・ザ・リング(原作:J・R・R・トールキン作『指輪物語』)』も、スペース・オペラのSF大作『スター・ウォーズ』も、明らかにこの楽劇の影響を受けています。

 この作品は西洋人の基礎的な教養になっているのですね。

 三島由紀夫氏の絶筆となった『豊饒の海(ほうじょうのうみ)』四部作も、この楽劇の構成を模したのでしょう。

 フランシス・コッポラの映画『地獄の黙示録』で使用された『ワルキューレの騎行』も、この楽劇の第一夜(2日目)より第 三幕の前奏曲として出てきます。

 『地獄の黙示録』で使用された『ワルキューレの騎行』に関連した記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53232477.html

 『ニーベルングの指環(全曲)』の録音に際して、筋金入りのワグネリアン(ワーグナー心酔者)でもあった豪腕プロデューサーのジョン・カルショーが、20世紀を代表するワーグナー歌手たちを集結させました。

 当初、稀代のワーグナー指揮者、ドイツ人のハンス・クナッパーツ・ブッシュ氏にこの企画を打診したところ、元来スタジオ録音嫌い、練習嫌いで有名な氏に「こんな面倒な仕事は嫌だ」と一蹴され、当時40代で脂の乗ったハンガリー出身の指揮者ゲオルグ・ショルティ氏に白羽の矢が立ったということです。

 なんせ、これが全曲演奏に17時間(CD14枚)を要するギネスブック級の長大な作品で、実演では、前夜祭、第1夜、第2夜、第3夜と合計4日間に分けて上演されるくらいなのですから。

 実際、ショルティ氏は、この曲だけで、録音に足かけ8年の歳月を費やしているのです。

 オーケストラは、ヴィリー・ボスコフスキー氏がコンサートマスターだった頃の香気溢れるウィーン・フィルハーモニー管弦楽団。

 『ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(ドイツ語:Wiener Philharmoniker:ヴィーナー・フィルハーモニカー、英語:Vienna Philharmonic:ウィーン・フィルハーモニック)』の名前は、別にクラシック音楽を聴かない人でも、一度は耳にしたことがおありでしょう。

 この楽団自体がヨーロッパの伝統を象徴する世界遺産的な存在だからです。
 

 最後にこのセットの白眉を飾る『ニーベルングの指輪』全曲四部作の配役を掲載します。錚々(そうそう)たる歌手陣です。

 なお、この音源のレコーディングに関わるドキュメンタリー映像を見つけたのでリンクを貼っておきますね(全9パート)。この録音がいかに大変なものだったか良く分かります。
http://www.youtube.com/watch?v=2qhmqOmAdGU&feature=relmf

 ※   ※   ※

 『ワーグナー: 楽劇 《ニーベルングの指環》 全曲』

※いずれも、ゲオルグ・ショルティ指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

前夜祭(1日目):楽劇 《ラインの黄金》
ヴォータン … ジョージ・ロンドン(バス)
ドンナー … エバーハルト・ヴェヒター(バリトン)
フロー … ヴァルデマール・クメント(テノール)
ローゲ … セット・スヴンホルム(テノール)
ファゾルト … ヴァルター・クレペル(バス)
ファフナー … クロト・ベーメ(バス)
アルベリヒ … グスタフ・ナイトリンガー(バス)
ミーメ … パウル・キューン(テノール)
フリッカ … キルステン・フラグスタート(ソプラノ)
フライア … クレア・ワトソン(ソプラノ)
エルダ … ジーン・マデイラ(メッゾ・ソプラノ)
ヴォークリンデ … オーダ・バルスボルク(ソプラノ)
ヴォルクリンデ … ヘティー・プリューマッヒャー(アルト)
フロスヒルデ … イーラ・マラニューク(メッゾ・ソプラノ)
【録音】
1958年9月24日~10月8日 ウィーン、ゾフィエンザール

第1夜(2日目):楽劇 《ヴァルキューレ》
ジークムント … ジェイムズ・キング(テノール)
ジークリンデ … レジーヌ・クレスパン(ソプラノ)
ヴォータン … ハンス・ホッター(バス)
フンディング … ゴットロープ・フリック(バス)
フリッカ … クリスタ・ルートヴィヒ(メッゾ・ソプラノ)
ブリュンヒルデ … ビルギット・ニルソン(ソプラノ)
ゲルヒルデ … ヴェラ・シュロッサー(ソプラノ)
オルトリンデ … ヘルダ・デルネッシュ(ソプラノ)
ヴァルトラウテ … ブリギッテ・ファスベンダー(ソプラノ)
シュヴェルトライテ … ヘレン・ワッツ(アルト)
ヘルムヴィーゲ … ベリット・リンドホルム(ソプラノ)
ジークルーネ … ヴェラ・リトル(アルト)
グリムゲルデ … マリリン・タイラ(アルト)
ロスヴァイセ … クラウディア・ヘルマン(アルト)
【録音】
1962年5月6日~18日、10月21日~11月5日 ウィーン、ゾフィエンザール

第2夜(3日目):楽劇 《ジークフリート》
ジークフリート … ヴォルフガング・ヴィントガッセン(テノール)
ミーメ … ゲルハルト・シュトルツェ(テノール)
さすらい人… ハンス・ホッター(バリトン)
アルベリヒ … グスタフ・ナイトリンガー(バス)
ファフナー … クルト・ベーメ(バス)
ブリュンヒルデ … ビルギット・ニルソン(ソプラノ)
エルダ … マルガ・ヘフゲン(アルト)
森の小鳥の声…ジョアン・サザーランド(ソプラノ)

【録音】
1964年5月下旬~6月上旬、10月26日~11月26日 ウィーン、ゾフィエンザール

第3夜(4日目):楽劇 《神々の黄昏(かみがみのたそがれ)》
ジークフリート … ヴォルフガング・ヴィントガッセン(テノール)
グンター … ディートリッヒ・フィッシャー・ディースカウ(バス)
アルベリヒ … グスタフ・ナイトリンガー(バス)
ハーゲン … ゴットロープ・フリック(バス)
ブリュンヒルデ … ビルギット・ニルソン(ソプラノ)
グートルーネ …クレア・ワトソン(ソプラノ)
ヴァルトラウテ…クリスタ・ルートヴィヒ(メッゾ・ソプラノ)
ヴォークリンデ…ルチア・ポップ(ソプラノ)
ヴェルグンデ …ギネス・ジョーンズ(ソプラノ)
第1のノルン…ヘレン・ワッツ(アルト)
第2のノルン…グレース・ホフマン(アルト)
第3のノルン…アニタ・ベルッキ(ソプラノ)

【録音】
1965年10月29日~11月19日 ウィーン、ゾフィエンザール





天王寺公園内の住友さんが寄贈した大阪市立美術館敷地と、住友家茶臼山本邸庭園だった慶沢園(その5) 【ファイルT181】2012.10.24 

【ファイルT181】2012.10.24 天王寺公園内の住友さんが寄贈した大阪市立美術館敷地と、住友家茶臼山本邸庭園だった慶沢園(その5)

慶沢園の後半です

 住友家についての記事を最初から読まれる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53064436.html

 天王寺公園内の住友さんが寄贈した大阪市立美術館敷地と、住友家茶臼山本邸庭園だった慶沢園(その1)から読まれる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53462787.html

 慶沢園の前半から読まれる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53629771.html

 皐月(さつき)越しに大阪市立美術館を臨む。




 
 こちらは、池越しです。





 もともとは、この美術館があるところに住友家本邸が建っていたんだねえ。お城みたい。

 なんか幽玄な感じがします。





 飛び石をわたると。





 滝があります。





 日本庭園には滝がつきものだからねえ。


 この時はちょうど花菖蒲(はなしょうぶ)が咲いていました。





 もう終わりかけだったので、少し寂しいねえ。


 花菖蒲と池越しに前回ご紹介した、自販機が故障していた四阿(あづまや)が見えます。





 四阿のでスケッチしている人たちが小さく写っていますね。
 
 皐月(さつき)と枝折戸(しおりど)のコントラストが風流だねえ。





 茶室もあります。





 草深い茶室の門です。





 この頃は、アジサイの季節だったのです。もう秋だから早いものです。









 ということで、とっても綺麗な慶沢園でした。


神田明神は江戸の総鎮守(7) 【ファイルET72】2012.10.08 

【ファイルET72】2012.10.08 神田明神は江戸の総鎮守(7)

神田はやっぱり江戸っ子の町。

 神田明神の摂末社と史跡についての続きです。
 最初から読まれる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53382446.html

【角田竹冷(かくた ちくれい)の句碑】






 うへえ、達筆すぎて読めないよお!

 これは、大正9年(1920)頃に建立された碑で、表面に、
 
 『白うをや はばかりながら 江戸の水』

 という句が刻まれているのです。

 『白魚(しらうお)もとれる神田川の水は、恐れおおくも、その昔将軍さまのお茶の水にも召されたという江戸一番の名水である』という意味なのだそうです。

 キュウリウオ目シラウオ科のシラウオさんは、昔は神田川でも獲れたんだねえ。

 春の産卵の時に遡上したのかな。

 白魚は江戸っ子になじみの深い魚で、徳川家康公がこの魚を大変好んだという記録があります。江戸前寿司でも昔から握られているそうです。

 そもそも、佃島(つくだじま)で白魚漁をさせたのが築地魚河岸のルーツなのです。
 
 女性の細くて白い指を『シラウオのような指』と言いますよね。

 霞ヶ浦付近ではシラウオの額に薄く見える紋様が葵(あおい)の御紋に似ている事からトノサマウオと呼ばれているのですが、これは野良仕事をしない領主(殿様)のきれいな手をシラウオになぞらえたものという説もあるのです。

 昔は、『シラウオのような指』を持つ女性というのは決して褒め言葉じゃなくて、働かない女性というイメージがあったんだねえ。ましてや主婦でマニュキュアなんかした日には、水商売と思われていたようです。

 なお、『しらうお(白魚)』と紛らわしいのが、博多の踊り食いで有名な、スズキ目ハゼ科の『しろうお(素魚)』。これは全く別の魚です。

 江戸のような大都市の場合、排水等で川が汚れて不衛生になるのが普通なのですが、白魚が獲れたなんて凄いことです。

 それでもって、御茶ノ水は文字通り、ここの水でお茶を入れたんですね。

 家康公は、江戸入城にあわせて神田上水を作らせました。

 それが江戸っ子の自慢の種です。日本一のシティーボーイだからねえ。

 江戸っ子の特徴について、山東京伝(さんとうきょうでん)が洒落本『通言総籬』(しゃれぼん、つうげんそうまがき:1787年)でこう記しています。

 『金の魚虎(しゃちほこ)をにらんで、水道の水を産湯(うぶゆ)に浴びて

  御膝元(おひざもと)に生まれ出ては拝搗(拝みつき)の米を喰(くらっ)て、

  乳母日傘(おんばひからかさ)にて長(ひととなり)、金銀の細螺(ささご)はじきに 

  隅水(すみだがわ)のしらうおも中落を喰わず、

  本町の角屋敷{かどやしき}をなげて大門を打(うつ)は、人の心の花にぞありける』


 『金の魚虎』は、江戸城天守閣が明暦の大火で焼け落ちる前の時代のことですね。

 『水道の水』。江戸の上水道は玉川上水と神田上水が有名ですが、神田っ子は、当然神田上水の水で産湯をつかったのですね。

 『拝搗(拝みつき)の米』というのは銀舎利、白米のことです。

 『金銀の細螺(ささご)はじき』というのは、小銭をおはじきにして遊ぶという意味で、貨幣の流通は、都会ならではのことでした。日本でもつい最近まで田舎の農家では、お金の必要はあまりなかったのですからね。

 『隅水(すみだがわ)のしらうおも中落を喰わず』って・・・、隅田川のしらうおが江戸の名物だったのですね。中落(なかおち)というのは、マグロの中落というように、中骨の周りに残った身の部分のことを言います。それにしても、しらうおのような小さな魚は、中落の取りようがないから、食べたくても食べられないねえ。このあたりが江戸っ子のユーモアなのですね。

 『本町の角屋敷をなげて大門を打は』は、日本橋本町の角地(当時の一等地)を売り払って大門(おおもん)のある吉原の遊郭に繰り出すという意味です。江戸っ子は宵越しの金を持たないのが粋だからねえ。

 ということで、


 この句碑の句を作った角田竹冷【かくた ちくれい:安政4年5月2日(1857年6月4日) - 大正8年(1919年3月20日)】さんは、本名を真平といい、静岡県富士郡加島村で生まれました。

 竹冷さんは、江戸っ子ではないのですね。よその土地の人の方が、江戸のことは客観的に見られるからねえ。

 竹冷さんは『代言人(だいげんにん:弁護士のこと)』を職業としていましたが、俳人としてもその高名を知られていました。

 明治二十八年十月、みずから発起者となり、尾崎紅葉(おざき こうよう)・岡野知十(おかの ちじゅう)・巌谷小波(いわや さざなみ)・川上眉山(かわかみ びざん)・戸川残花(とがわざんか)らの参加を得て秋声会を組織し、翌年十一月俳詩『秋の声『を創刊します。

 明治三十年六月『卯杖(うづえ)』を出し、後に『木太刀(きだち)』と改題主宰しました。

 正岡子規の日本派とともに、俳句革新運動の一勢力をなした時もありました。

 晩年は古俳書の収集に熱中し、それらは今『竹冷文庫』として東京大学図書館に保管されています。

 また、旧神田区(千代田区の一部)の初代区会議長・衆議院議員をつとめるなど政治家としてもその手腕を発揮しました。

 思いがけず角田竹冷さんの句碑で、シラウオや神田上水の話が膨らんでしまいましたので、次に続きますね。









八景島シーパラダイスのカクレクマノミさん 【ファイルC251】2012.10.02 

【ファイルC251】2012.10.02 八景島シーパラダイスのカクレクマノミさん

ニモを探せだねえ。

 ピクサー映画の『ファインディング・ニモ(Finding Nemo)』って、私は『ファイティング・ニモ』と勘違いしていて、てっきりニモさんという人がボクシングの世界チャンピオンを目指す話だと思っていました。

 『ファイティング原田』さんみたいだからねえ。

 子供向けの映画なんだから、輸入した配給会社も手抜きしないで、ちゃんと邦題をつけてほしいものです。面倒なら普通に『ニモ発見』とか『ニモを探せ』で良いと思うんだけどねえ。

 今なら往年の名画『風と共に去りぬ』も『ゴーン・ウィズ・ザ・ウィンド(Gone With the Wind)』なんてやらかすんでしょうね。『小さな恋のメロディ』も原題をそのままカタカナにした『メロディ(Melody)』だったら風情も何もあったもんじゃないねえ。

 原題の“Finding Nemo”って、つづりをみたら、『ニモ』じゃなくて、『ネモ』だねえ。

 なんか古典SFの巨匠ジュール・ヴェルヌの小説『海底二万マイル』に出てくる『ネモ船長』と同じだと思ったら、これがピンポン!の大正解。

 実際にネモ船長(Captain Nemo)からつけられた名前なんだって。ディズニーは、過去に『海底二万マイル』を映画化しているし。

 さすがアメリカ人の考えることは単純で分かりやすいねえ。


 ということで、近所の映画館のポスターを見たらば、ニモが3D映像になって絶賛上映中なのだそうです.

 それだけ可愛くて人気なのですね。

 二匹目のどじょうならぬ、二匹目のカクレクマノミだねえ。

 
 ということで、八景島のニモさんを探したらば、ちゃんと見つかりました。

 




 『クマノミたちのサンクチャリー(聖域)』というコーナーです。

 ファインディング・ニモだねえ。

 こんにちは。

 




 なんかころころしていて、愛嬌がありますね。

 こうやってみると、エンゼルフィッシュさんと違って、真正面から見ても、親しみの湧く丸みを帯びたお顔なので お魚の中でも擬人化されやすいのがわかりますね。


 こっちの人は体格が良いねえ。

 




 ニモ界の小錦関かな?

 
 カクレクマノミさんはメスのほうがオスより大きいので、この人はメスなんだろうね。

 一夫一婦制のクマノミさんは、メスが死ぬと、残されたオスがメスに性転換して、より小さいオスの若魚と再婚することがあります。

 これは、できるだけ沢山卵を産むために、大きいほうがメスになるように性転換の形態が進化したからだと考えられているそうです。

 もっともこの性転換も、ペアを組んでいたメスに死なれた後、他の大きなメスとペアになる機会が無くて、自分より小さいオスの若魚としかペアが作れない場合にやもめオスがやむなく選択を余儀なくされる次善の策のようです。

 だから、別に好きこのんで、無理して性転換するわけじゃないんだねえ。

 それでもって、子育てはもっぱらオスの役目。卵に新鮮な水を送ったり、卵を清潔に保ったりするのはオスで、メスは卵に近づく侵入者を追い払うのを手伝うくらいしかしません。

 
 空を飛んでいるみたいだねえ。

 




 カクレクマノミ(隠熊之実、隠隈魚)さんはスズキ目ベラ亜目スズメダイ科クマノミ亜科クマノミ属カクレクマノミで、学名Amphiprion ocellaris、英名Ocellaris clownfish, Common clownfish,False percula clownfishです。

 インド太平洋、特にフィジーやトンガなどのサンゴ礁で多くみられます。

 日本におけるクマノミ属の魚は、南西諸島のサンゴ礁域を中心に6種が生息し、そのうちカクレクマノミさんじゃない方のクマノミさんだけが千葉県以南の温帯域にまで進出しています。

 クマノミ属は、ある種のイソギンチャクと共生することで知られています。孵化してから数週間の浮遊生活を終え、体長1cmほどでイソギンチャクさんに定着して、その後はずっとイソギンチャクさんのそばで生活します。

 イソギンチャクさんの触手に“隠れる”からカクレクマノミ(隠熊之実、隠隈魚)さんなのですね。

 どうしてそういうことができるのかというと、カクレクマノミさんにはイソギンチャクさんの触手ににある刺胞(しほう)と呼ばれる毒針発射装置の毒から身を守る耐性があるからなんだって。

 そうやってカクレクマノミさんは、外敵からイソギンチャクさんの毒に守られて暮らしているのです。

 それでもって、逆にイソギンチャクさんは、クマノミさんが運んでくる餌の残りをお裾分けしてもらったり、クマノミさんがイソギンチャクさんの中で動くことで溜まったゴミをかき出して、体を清潔に保ってもらっているんだよ。良いお友達なんだねえ。

 当ブログでは、以前テッポウエビさんとハゼさんの共生をご紹介しましたね。
 記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52522840.html

 ただ、クマノミさんさんが共生ができるイソギンチャクさんの種類は限られていて、ハタゴイソギンチャクさん、シライトイソギンチャクさん、センジュイソギンチャクさんなど。

 八景島ではセンジュイソギンチャクさんと共生しているねえ。

 




 イソギンチャクさんの触手が白いふわふわの絨毯みたいで、気持ちよさそう。

 でも、他のお魚にとっては毒なんだねえ。


 ハナビラクマノミさんと一緒です。

 




 ここでややこしいのが、正確に言えば、映画のニモのモデルは今回ご紹介しているカクレクマノミさんじゃなくて、オレンジクラウンフィッシュさんだという話もあるそうです。

 オレンジクラウンフィッシュさん【学名:Amphiprion percula、英名:Orange clownfish】は、よく『ペルクラアネモネ』や『ペルクラクラウン』という名で流通しているクマノミノ仲間です。スズメダイ科クマノミ亜科クマノミ属なのはカクレクマノミさんと同じです。

 この種とカクレクマノミさんは、とてもよく似ているのですが別種だというのです。

 違いは背鰭(せびれ)にある棘条数【きじょうすう:鰭(ヒレ)にあるスジの数のこと】と分布域、体の模様。

 カクレクマノミさんの分布域は奄美大島以南からオーストラリア北西部ですが、オレンジクラウンフィッシュさんはニューギニアからオーストラリア北東部で、体の模様がカクレクマノミさんに比べると白い横縞のまわりの黒い縁が太く、中央の横縞の形が違います。

 カクレクマノミさんは、ニモさんのオレンジクラウンフィッシュほど鮮やかな色をしておらず、背鰭棘条(せびれきょくじょう)の数が11本です(オレンジクラウンフィッシュは10本)。

 ところが、これも絶対的なものではないそうです。

 また、オレンジクラウンフィッシュさんの虹彩は明るいオレンジ色をしているため目が小さく見えるのに対し、カクレクマノミさんのそれは黒いために目が大きく見えるそうです。

 ただし、オレンジクラウンフィッシュは色彩変異個体が多くて、中には中央の横縞の形をのぞいてカクレクマノミとそっくりという個体もいるんだって。

 また、オレンジクラウンフィッシュさんのほうがカクレクマノミさんより気が強く、攻撃的だともいわれているそうですが、これも個体差があるようだし。

 だから、研究者のなかにはカクレクマノミさんとオレンジクラウンフィッシュさんは同種なのではないかと主張する人もいるようです。


 作者の意図したもともとのモデルはどういうつもりだったか知りませんが、アニメーションはそんな厳密な絵じゃないので、カクレクマノミさんでも良いような気がするけどねえ。

 私は、ニモはオレンジクラウンフィッシュさんよりカクレクマノミさんの方に似ている思うし。


 そんなこと知ったこっちゃないカクレクマノミさんは小さなお魚と追いかけっこ。
 
 




 これだけ固まって泳がれると、誰が誰か区別が付きません。
  
 




 これが本当のファインディング・ニモだねえ。


 最後にご挨拶。

 




 さようなら、元気でね。
 
 ところで、ニモの映画を見て、可哀想でお魚が食べられなくなった子供が出てきたみたいです。気持ちは分かるけれど、お魚は美味しくて栄養満点だから、沢山食べて欲しいねえ。







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