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浅草六区のくじら屋 捕鯨舩(捕鯨船)に行ったよ 【ファイルF54】2012.11.30 

【ファイルF54】2012.11.30 浅草六区のくじら屋 捕鯨舩(捕鯨船)に行ったよ

浅草芸人さん行きつけのお店だねえ。

 浅草演芸ホールのほど近く、浅草六区のくじら屋 捕鯨舩(捕鯨船)に行きました。ここの常連さんでは、芸人さんのビートたけしさんこと、映画監督の北野武さんが有名です。

 店内にかざってあった、ご主人(というか店名が捕鯨船なので、船長さん?)と女将(おかみ)さんとたけしさんの写真。





 ビートたけしさんの名曲『浅草キッド』の歌詞に出てくる
 『煮込みしかない鯨屋で~♪夢を語ったチューハイの~♪』
 のモデルにもなりました。

『浅草キッド』
歌手:ビートたけし・たけし軍団、作詞:ビートたけし、作曲:ビートたけし


 うまく観られない時はこちら。
http://www.youtube.com/watch?v=CLTstAseupo

 ここは、たけしさんをはじめ、浅草芸人さんの行きつけのお店なのでした。

 そういえば、以前大阪の吉本芸人さん行きつけのお食事処、『千とせ』や『あずま食堂』を紹介したことがあったねえ。

 記事はこちら。
 『千とせ』
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/37752783.html
 『あずま食堂』
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52644905.html

 以前テレビでここのお店を拝見した時は、ビートたけしさんが「ここの料理は、とにかくまずいんだから」って悪態をついていて、ご主人が「あんたがまずいまずいって言うから、客が来なくなって困る」と応じていました。

 鯨一筋40年。
 ここのご主人は、何を隠そう六区で一世を風靡した『デン助劇団』の元座員、河野通夫さんなのです。

 だから、たけしさんも心安くて憎まれ口を叩くんだねえ。

 でも、ここは単にたけしさん思い出の店だから有名なのではありません。

 とっても美味しいんだよ。
 
 お店はこんな感じです。
 




 暖簾の捕鯨船の『船』の字は、『船』ではなく船の異字体の『舩(舟の右は公)』です。

 だけれども、看板の字は『船』なんだねえ。

 『船』という字は、活字の場合は『船』で、毛筆で書くと、『舩』と書かれることが多いそうです。『船』より『舩』の方が筆遣いも発揮できて、形も良いのですね。

 さすがにご主人が浅草の舞台を踏んでいただけあって、

 『鯨(げい)を喰って 芸をみがけ!!』
 っていう謳(うた)い文句が凄いねえ。

 『毎月9日 鯨の日』って初耳だねえ。

 ここのお店が適当に洒落ででっちあげたのかなと思って、念のために調べたらば、『鯨の日』は、大日本水産会や日本捕鯨協会等25団体によって、京都で国際捕鯨委員会年次総会が開催された平成5(1993)年に制定された記念日なんだねえ。

 これが『く(9)じら』の語呂合せなのは、すぐに分かりますね。

 なかに入ったらば、世代交代中らしく、お顔もお声もアニメのように可愛いお姉さんが、カウンターを切り盛りしています。厨房のお兄さんも若いねえ。

飲み屋さんなので、まず『名物チューハイ』450円を頼みました。

 お姉さんがその場で手際よく作ってくれます。氷もその場でかち割ってくれます。これは女将さんの得意技なのですが、それがちゃんと継承されていました。
 




 鋭角にそそり立った氷がカッコイイねえ。まるで南氷洋の氷山みたいだねえ。

 お姉さんに出てくるものの写真を撮らせてくださいとお願いしたらば、『だったらもっと上手に作るんだった』だって。若いのにとっても客あしらいが上手なのです。
 
 常連さんにも一見さんにも手慣れた感じで受け答えしています。

 梅シロップが仄(ほの)かに香るシュワシュワサワーのチューハイです。

ここは鯨のお店なのですが、『浅草キッド』でも有名な『牛煮込み』600円を注文します。

 




 これは、冷凍で出てくる鯨肉を溶かすのにかかる手持ちぶさたな時間、食べられるように考案されたメニューなんだって。
 
 牛は甘辛くてコクのあるスープでとろとろに煮込んであるのに、お肉の味がしっかり残っていて、ぷりぷりコラーゲンが嬉しいねえ。うわずみのような脂が思いの外さらっとしています。

 お豆腐には牛のエキスが染みこんでいて、はふはふと美味しいねえ。
 
 これぞ懐かしい庶民のお味です。
 

次はいよいよ鯨さん。さえずり(鯨の舌)1,360円です。

 



 




 『牛タン』じゃなくて、『鯨(げい)タン』だねえ。 

 これは、からし酢醤油でいただきます。

 舌のお肉は冷たくて柔らかいチーズのような弾力ととろみがあって、ほんのりと鯨特有の後味が残ります。

 皮の方は、サラミのような歯ごたえがあって、スルメをしがむみたいな感覚で噛んでいて、口が嬉しいのです。お酒のあてに丁度良いんだねえ。交互に食べれば余計に美味しいねえ。

お次は、くじらの竜田揚げ1,360円。

 




 お肉は柔らかくって、お箸で切れます。ためしに切ってみた断面がこちら。
 




 上等な肉のようで、鯨独特の臭みがありません。
 
 さくっとしたコロモを噛み切ったら、柔らかいビーフのような食感に、海の魚のけもの独特の鉄分を多く含んだ磯っぽいお味の肉汁が口の中に広がります。

 からしをつけて、ウスターソースと、お醤油を試してみたのですが、私にはソースの方が、これぞ洋食という味がして、合っているように思えました。美味しいったらありゃしない!

 でも美味しすぎて、却って庶民の味方の鯨という感じはしないのです。大昔食べた鯨は、もっとチープな味だったような・・・。

 お肉も上等なのでしょうが、急速冷凍技術などが格段に進歩していることもあるのでしょうね。

 この竜田揚げは大人気らしくて、他のお客さんも当然のように注文していました。

 ここでお腹がいっぱいになったので、今回はこれまた名物の『皮と刺身のミックス』までたどりつけませんでした。

 また次の楽しみにします。

 店内の壁には芸人さんや俳優さんをはじめとした有名人のサインがびっしり。

 ここにサインできるようになったら、芸人さんとして、一人前なんだって。みんながんばれ!

 私が坐っていた席のすぐ後ろに、ちばてつやさん直筆の『あしたのジョー』が!
  




 主人公の矢吹ジョーが所属していた『丹下拳闘クラブ』は、ここから北に行った、山谷(さんや)の思川(おもいがわ)という用水路に架かる泪橋(なみだばし)の下にあったという設定になっていました。現在川は埋め立てられ、泪橋もなくなって、今は『泪橋交差点』にその名をとどめるばかりです。

 永遠の若大将、加山雄三さんのサインもあります。
 




 加山さんは、自身で設計したヨット『光進丸』でクルージングする海の男だからねえ。

  くじらさんのアクセサリーとステッカーです。





 『おいしい鯨(くじら)は日本の宝』『鯨のお肉は健康食』『鯨食健美』『高たんぱく、低カロリー、低コレステロール』の文字が躍っています。

 鯨肉は脂肪の多くが皮下脂肪に集中しているため、赤肉は低脂肪(鶏ささみの約半分)でタンパク質が豊富で吸収されやすいヘム鉄も含まれているのです。

 だから、貧血やダイエット中の女性には特にお勧めです。

 更に、くじらの肉は安全で栄養価の高い動物性タンパク源であり、アレルギー患者やその家族にとって、一家そろって安心して食べられる頼もしい代替タンパク源となっているのです。

 それから、脂肪にもドコサヘキサエン酸(DHA)やドコサペンタエン酸(DPA)などの人体に有益と言われる脂肪酸が、鮪(まぐろ)や他の獣肉に比して豊富に含まれています。

 だから優れた健康食品なんですよ。
 ここは、【日本鯨類研究所HP】を参考にしました。
http://www.icrwhale.org/tomonokai-3.html

 共同船舶株式会社による捕鯨船の写真が貼ってありました。
 



 
 上が調査母船『日新丸』で下が調査船兼監視船『勇新丸』。

 当然、ここで出てくる鯨肉も調査捕鯨の貴重なお肉です。

 くじらのヒゲも飾ってあります。
 




 文楽人形のバネは、欧米の乱獲によって激減し、現在捕鯨が禁止されているセミクジラ(背美鯨)のヒゲでできています。早く数を回復させて捕鯨を再開しないと、この貴重な伝統芸能も絶えてしまうのです。

 以上で、お会計が3,770円也。

 まだ売れていない芸人の卵の方たちには少しきついお値段かな?お酒が好きな人がチューハイ一杯ってありえないし。

 商業捕鯨が禁止されていなければ、もっと安いはずなのにねえ。
 
 鯨肉は、本来は庶民の味方だったのに、今では好事家が食する高級な珍味になりつつあります。

 早く商業捕鯨が認められて、鯨資源の適正管理が図られ、鯨を増やして、再び庶民の味方になってもらいたいねえ。

 というより、ミンククジラは増えすぎてシロナガスクジラの頭数復元を妨げているから、生態系保全の観点からいうと、むしろ獲って食べないとまずいのです。だから、捕鯨に反対する団体は、環境保護団体でも何でもありません。単に白人の人種差別意識を利用して商売をしているだけです。

 ここ捕鯨船さんには、これからもがんばってもらいたいものです。



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上野動物園のパンダさんに会ってきたよ 【ファイルC255】2012.11.27 

【ファイルC255】2012.11.27 上野動物園のパンダさんに会ってきたよ

二人とも元気でなによりだねえ。

 上野動物園のでは、リンリンさんが平成20(2008)年4月30日に亡くなって以来のパンダさんが、平成23(2011)年2月21日に3年ぶりにやってきてから、随分と経ちますが、やっと会いに行けました。

 元気だった頃のリンリンさんの記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/39962965.html

 それで、今年の7月5日に、このリーリー君とシンシンさんの間に、男の子が生まれましたが、この子は7月11日に残念ながら短い命を終え、天に召されました。

 パンダさんが育つのが難しいですからね。それもあって、パンダさんは絶滅危惧種なのですね。

 赤ちゃんが元気だったら会うことができたのにね。

 それで、パンダ舎に入ってすぐのところで竹をむしゃむしゃ食べていたのがご主人のリーリーくん。





 ごきげんだねえ。

 あんまり美味しいごちそうなので、慌てて食べて喉につまったよお!





 うへえ!胸をとんとんしているリーリー君。気を付けて食べてね。

 それにしても、正面から見ると分からないけれど、こうやってみるとパンダさんの鼻の穴って大きいんだねえ。

 北島三郎さんみたいだねえ。演歌が上手そうだねえ。

 こんにちは。





 とっても良いお顔です。

 奥様のシンシンさんは、隣の運動場にいたのですが、奧にいて近くに来てくれません。





 良く見たらば、右のほっぺに竹の葉のかけらをくっつけたままでした。





 おべんと付けて何処行くの?

 せっかく美人さんなのに、近くに来てほしいものだねえ。





 再接近したシンシンさん。





 望遠で撮ったからこうだけれど、実際は離れています。

 まあるいお目目が可愛いねえ。

 リーリーくんの所にもどったのに、まだお食事中で、それからもずっとお食事中でした。





 時間がたって戻ってくると、二人ともぐっすりと寝てました。

 パンダはパンダらしく木登りとかでんぐりがえりとかしないと、運動不足になるのにねえ。

 でも二人ともとっても元気そうなので、今度は元気な赤ちゃんが期待できると思います。

 さようなら、これからも元気でみんなを楽しましてね。






天王寺公園内の住友さんが寄贈した大阪市立美術館敷地と、住友家茶臼山本邸庭園だった慶沢園(その8) 【ファイルT184】2012.11.24 

【ファイルT184】2012.11.24 天王寺公園内の住友さんが寄贈した大阪市立美術館敷地と、住友家茶臼山本邸庭園だった慶沢園(その8)

大阪市美術館だよ。

  住友家についての記事を最初から読まれる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53064436.html

 天王寺公園内の住友さんが寄贈した大阪市立美術館敷地と、住友家茶臼山本邸庭園だった慶沢園(その1)から読まれる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53462787.html

 今回は天王寺公園の中核施設の一つ、大阪市立美術館です。





 武田五一、片岡安の指導の下、大阪市建築課(伊藤正文・海上静一)によって設計されました。

 近代日本式建築で、長い両翼を持つ左右対称の古典的な構成に銀灰色のスパニッシュ瓦を載せています。









 もともと、この美術館の敷地は住友家の本邸があった所で、美術館の建設を目的に庭園(慶沢園)とともに大阪市に寄贈されたものだということは、この当ブログにおいて、折りにつけ御紹介してきたところです。

 おかげで、東京府、京都市に次いで日本で三番目に設立された立派な公立美術館ができました。

 そもそも、この記事自体が、大坂・大阪の経済史にとって重要な位置を占める住友家についての歴史探訪ですから、その寄贈の目的であった美術館にようやくたどりついたということなのですね。

 大阪市立美術館のHPを覗いてみると、
http://www.osaka-art-museum.jp/about/index.html

 現在の美術館は設立当初の本館と、平成4年に美術館の正面地下に新設した地下展覧会室からなります。地上2階、地下2階からなり、本館陳列室では、特別展覧会や平常展示を開催しています。

 平常展示では購入や寄贈によって集まった日本・中国の絵画・彫刻・工芸など8000件をこえる収蔵品と、社寺などから寄託された作品を随時陳列しています。

これらの作品には国宝や重要文化財に指定された作品も多く含まれています。また地下展覧会室では、常時様々な美術団体が主催する展覧会を開催しています。

 本館地下には美術館に付設されている美術研究所があり、素描、絵画、彫塑の実技研究を行っているということです。

 つまりは、ここが大阪市民の美術活動の拠点と言うことなのですね。

 この美術館の黎明期の沿革は、概略こうなっています。
           
大正9(1920)年3月30日、市議会の決議により美術館設立が議決される
        4月、設立のための調査委員会が設置される
大正 10(1921) 年12月、住友家が美術館建設を条件に茶臼山本邸寄付を大阪市に申し出る
昭和 4 (1929)年美術館上棟式
昭和 5 (1930)年鉄筋コンクリート工事が竣工するが、世界恐慌により工事中断
昭和 9 (1934)年美術館工事再開、外装工事が竣工
昭和 11 (1936)年5月1日、大阪市立美術館開館 落成記念展は「改組第一回帝国美術展」
昭和 17 (1942)年阿部コレクション中国絵画の寄贈を受ける陸軍による接収をうける
昭和 19 (1944)年住友家より関西邦画展出品作の寄贈を受ける
昭和 20 (1945)年第二次世界大戦敗戦連合国軍による接収を受け、事務所を移転する
昭和 21(1946) 年寄寓先の旧精華国民学校内に美術研究所を開く
昭和 22 (1947)年美術館接収解除される
昭和 23 (1948)年美術館での展示活動を再開する
昭和 26 (1951)年博物館法の制定により教育委員会に移管される

 ※    ※    ※

 上棟式催行後に美術館建設が中断した原因である昭和 4 (1929)年の世界大恐慌はデフレで世界中に失業者が溢れ、酷いものでした。

 それでも、昭和 11 (1936)年の開館にこぎつけることができたのは、大蔵大臣の高橋是清(たかはしこれきよ)が、支払猶予措置(モラトリアム)を行うと共に、片面だけ印刷した急造の200円札を大量に発行して銀行の店頭に積み上げて見せて、預金者を安心させて金融恐慌を沈静化させた上、さらに金輸出再禁止・日銀引き受けによる政府支出(軍事予算)の増額等で、世界恐慌により混乱する日本経済をデフレから世界最速で脱出させたためだということは、是非とも記憶に留めておくべきだと思います。

 日本のデフレ対策は、世界に誇れる偉大なる蔵相、高橋是清氏という模範的な前例があるのです。

 それなのに、今の政治家は小泉純一郎以下、構造改革などという高橋蔵相と全く逆の政策を行って、最悪の不況を長引かせています。

 その構造改革をマスコミが大絶賛しているのですから、この人達は余程日本を滅ぼしたいに違いありません。

 その小泉純一郎氏のことを『千年に一度の大宰相』と持ち上げ、構造改革の名の下に大阪市民の貴重な財産を食いつぶす命令を部下に下す一方、自分は大阪市長の仕事をほったらかして自分の権力欲のための政治活動に憂き身をやつし、ツイッター三昧の日々を送っている現橋下大阪市長は歴史にその汚名を留めるべき最悪の首長だと思うのですが、大阪市長って余程ヒマなのですね。

 大阪都構想という馬鹿げた政策一つだけでも本気でやろうとしたら、ただでさえ激務の大阪市長職なんて、徹夜の連続でも追いつかなくて過労死してもおかしくないのですが、あの市長、そんな気配は微塵も見られません。

自分の頭を踏み台に使われて、土足で踏んづけられている大阪市民はどうして怒らないんだろう?
 

 『昭和 17 (1942)年阿部コレクション中国絵画の寄贈を受ける』や昭和 19 (1944)年『住友家より関西邦画展出品作の寄贈を受ける』というのは、戦時下に置いて貴重な文化財を保管場所として、美術館が一番だという判断だったのでしょうね。

 この判断は戦っている相手がまともな順法精神を持っていた場合に限ります。

 野蛮きわまりない連合軍、特に米軍は文化財のことなんか全く気にかけていませんでしたから、ここが焼け残ったのは単なる僥倖に過ぎません。

 というより、米軍は、最初から大阪市立美術館を接収するつもりで攻撃目標から外したのでしょう。つまりは、無差別爆撃というのは大嘘で、非戦闘員虐殺を目的とした精密爆撃です。

 それから、米軍が京都奈良の文化財を守ったというのは、デマもいいところですが、いまだにマスコミはこのデマを垂れ流しています。

 京都は人体実験の原爆投下の第一候補地だったから、実験結果を明瞭にするため通常兵器の空襲は行わずに来るべき原爆投下までは無傷の状態でおきたかっただけ(原爆投下直前に第二候補地の広島に変更された)。

 奈良は小さな都市で軍事施設もなく人口も少なかったから、空襲の優先順位が低かったため、たまたま空襲の前に終戦が来だけで、戦争が続行していたら、いずれは空襲で文化財もろとも灰燼に帰すはずでした。

 これが大嘘だということは関西に限ってみても、四天王寺東大門、願泉寺の書院・茶室、全国えびす宮の総本山西宮神社本殿、和歌山城等等焼失し、世界遺産の姫路城は天守閣内に飛び込んだ焼夷弾が奇跡的に不発だったから残っただけだという有様をみても明白です。

 最初から非戦闘員の虐殺を目的にした、戦争犯罪というのも愚かな原爆投下、空襲によって、100万人殺されて、京都奈良の文化財が残ったから感謝するって、こういう人達は、どういう自虐意識の持ち主なのでしょう?

 それにしても、敗戦後直ちに美術館を接収し2年間も居座った連合軍ってなんなのでしょう?この間に戦争協力したと決めつけられた大阪市役所の職員も公職追放の憂き目にあったのでしょうけれど。

 戦勝国が負けた国に対して、法律をいじってこのような機構改革まで行うのは、国際法にも、ポツダム宣言にも違反した犯罪行為なのですけれどもね。

 
 美術館の正面玄関です。





 よく見たら、天辺に何か影が見えます。

 彫刻かな?

 拡大したら、カラスさんでした。





 こんな高いところから見下ろしたら、さぞかし良い気分だろうねえ。

 建物正面の窓の装飾も凝っています。

 ここはステンドグラスが嵌め込まれている大窓です。









 小窓の上が王冠みたいですね。





 裏の慶沢園側から撮りました。









 この角度から見る屋根の形がモダンだねえ。





 側面です。
 








 ということで、長くなったので次に続きますね。

神田明神は江戸の総鎮守(10) 【ファイルET75】2012.11.21 

【ファイルET75】2012.11.21 神田明神は江戸の総鎮守(10)

明神男坂と大銀杏だよ。

 神田明神の摂末社と史跡についての続きです。

 最初から読まれる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53382446.html

 それで、屋根の上にいた、金の鳥さん。





 金鳥の夏 日本の夏だねえ。蚊取り線香を焚きたくなるねえ。


明神男坂です。





 
 とても急な坂です。だから、一旦下に降りて下から見上げる写真を撮る気には、とてもじゃないけれどなりません。

 この坂を下りたあたりに銭形平次さんが住んでいたんだねえ。





 ビルだらけで平次親分の頃とは様変わりですが、狭い路地が下町の雰囲気を醸し出しています。

 この坂を一気に駆け上がれるのが江戸の男なのですね。

 こうやって、写真を撮っているときも、背広を着たお兄さんが、一気に駆け上がってきたよ。江戸っ子は凄いねえ。

  男坂の案内板にはこう書かれています。

 ※   ※   ※

 明神男坂(みょうじんおとこざか)
 
 この坂を明神男坂といいます。明神石坂(いしざか)とも呼ばれます。

 『神田文化史』には「天保の初年当時神田の町火消(まちびけし)『い』『よ』『は』『萬』の四組が石坂を明神へ献納した」と男坂の由来が記されています。

 この坂の脇にあった大銀杏(おおいちょう)は、安房上総辺(あわかずさあたり)から江戸へやってくる漁船の目標になったという話や、坂からの眺めが良いため毎年一月と七月の二六日に夜待ち(観月)が行われたことでも有名です。

 ※   ※   ※

 昔は海からここが、また、ここから海がよく見えたんですね。
 
 今、ここでお月見はできないこともないけれど、ちょっと雰囲気が違うねえ。

 それでもって、ここは観月だけではなく、初日の出、雪見、納涼の場としても江戸っ子の人気スポットだったんだよ。

 それで、ここは江戸の名所だったので歌川広重(安藤広重)さんが安政3(1856)年2月から同5(1858)年10月にかけて制作した連作『名所江戸百景』でもモチーフにしています。
 
 【神田明神曙之景(かんだみょうじんあけぼののけい)(春10景)】
 



  
 この絵は、正月元旦の早朝に若水汲みの儀式を終えた神官・巫子(みこ)・下男が、東の空が明けていくのを眺めている様を描いていると言われているそうです。

 今は、ビルが邪魔で、初日の出を拝むことができません。

 神田明神様は信仰の対象として崇敬されていたばかりではなく、江戸を代表する風流な場所だったんだねえ。


明神男坂説明書にもありますが、坂を登り詰めた脇には、

大銀杏(おおいちょう:大公孫樹)があります。





 
 ※   ※   ※

 明神男坂大公孫樹(おおいちょう)

 この公孫樹は、向かい側の男坂解説にもあるとおり江戸の昔よりこの地に育ちました由緒のある樹木です。

 大正時代、関東大震災により社殿をはじめ神社の諸施設がことごとく炎上し崩壊したなか、その焼け跡に唯一残されたのがこの公孫樹でした。

 震災で焼け残った公孫樹からひこばえが生え育ち、その後、昭和20年の東京大空襲による油脂焼夷弾が東京一帯を襲いましたが、昭和9年建立の鉄筋コンクリート造・総漆塗の社殿は当時としては日本初の耐火耐震構造をもつ神社建築であったため消失を免れました(国登録文化財・文化庁)。

 その一方、ひこばえは被災の憂き目にあったにもかかわらず立派な樹木となり親木を支えることとなりました。

 この度、親木のほうは枯木につき倒木危険防止のため上部を伐採し保存することといたしました。

 江戸時代、月見の名所に植えられた公孫樹は、大正・昭和の災害にも遭遇しながらも子孫を残し、この地の歴史を伝えてきた大切なご神木と言えます、

 災難除け・厄除け・縁結びのご神徳を持ち長い間この地を見守ってきたご神木として、今後とも後世にお伝えいたします。

 ひこばえの生育が後世までも受け継がれてゆくことを心より願うものであります。

 ※   ※   ※

 山本周五郎の『樅の木は残った(もみのきはのこった)』じゃなくて、『大公孫樹は残った』だねえ。この木はずっと江戸っ子を見守ってきたのですね。

 鎌倉の鶴岡八幡宮の大銀杏もこのあいだ台風で倒れたのですが、こうやって、銀杏の木は倒れてもひこばえによって継承されていくのですね。

 それで、広重さんは、天保5(1834)年から天保10(1839)年にかけて製作した『東都名所』では、ここ男坂の情景を描いています。

 【神田明神東阪】




 
 広重さんは、男坂のことを『東阪』と呼んでいたのですね。

 坂の字が『阪』になっているねえ。

 ゴッホやモネなど西欧の画壇に衝撃を与え、新たな潮流を生み出した世界的絵師、広重さんがこれほどまでに気に入っていたなんて、余程良い眺めだったのですね。

 画面右のまっすぐ立った木が明神男坂大公孫樹なのかな?

 この木がまだそれほど大きくないということは、

 男坂が献納されたのが、天保の初年ですが、天保年間は西暦1830年から始まっていて、この絵が制作されたのが、天保5(1834)年から天保10(1839)年にかけてですから、男坂が献納されたときに『大公孫樹』も一緒に植えられたのかな?

 赤提灯に書かれている屋号は『さの屋』かな?江戸を代表する絶景スポットだから茶店があったのかな?

 神田明神の正面鳥居脇の参道には、今も甘酒屋さんの老舗『天野屋』さんがあるからねえ。

 いずれにせよ、この坂をただの急な石段だと思ったら大間違いなのですね。

 由緒正しい石段なのでした。おみそれしました。

 ということで、江戸っ子の信仰厚い神田明神でした。

 まだまだ由緒あるお社(やしろ)、旧跡はあるのですが、神田明神についてのお話は、ひとまずここで終わります。ご拝読ありがとうございました。





新宿西口思い出横丁の『かめや』さんに行ったよ 【ファイルF53】2012.11.17 

【ファイルF53】2012.11.17 新宿西口思い出横丁の『かめや』さんに行ったよ

おすすめ『元祖 天玉そば 380円也』は美味しいねえ。

 今回は前回の『どん底』に引き続いて新宿です。
 前回はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53725310.html

 というより、昼にかめやさんに行って、どん底が夜だったのですが。

 『かめや』さんさんは西口側思い出横丁にあるのですが、東口に出ちゃったよお。

 でも心配はご無用。線路をくぐる細いトンネルがあるので、そこを抜けると簡単に西側の思い出横丁に行くことができます。良かったねえ。

 それで、立ち食いそばの名店、『かめや』さんに到着。

 立ち食いそばといっても、立ったまま食べるのではなくて、道からそのまんまのドアも壁もないお店のカウンターにスタンドに座っていただきます。





 写真右の歩いているお父さんのおつむりの、ぴっかり感がいい味を出しています。狭い横丁の路地のうらびれた感じがするこのお店の雰囲気にぴったりすぎて最高だねえ。

 お父さん、さぞかし苦労されたんだねえ。日本の経済の大きな部分はこういったお父さんの尊い努力に負っているのです。

 あまりにも神々しかったので、感謝を込めて、レタッチで後光を入れてみました。





 うへえ!ありがたやありがたや。なんまんだぶなんまんだぶ、あ~めんそ~めんひやそ~めん。あまりの有難さに思わずおがんじゃうねえ。

 今日は、ひやそうめんじゃなくて、お蕎麦を食べにきたんだねえ。

 お昼休み前だったので、一人しか並んでいなくて、すぐに座れました。


 食券自販機ではなく、カウンター越しに直接注文を言います。

 このお店で一番の高額メニュー!

 『おすすめ 元祖 天玉そば 380円也』を注文します。えっへん。

 ここは新宿の一等地にありながら、普通の立ち食いそば価格の『かけそば 230円』、『きつねそば290円』、『いなり寿司80円』、『鮭おにぎり100円』なのです。

 注文後、すぐに出てくるのは、普通の立ち食いそば同様です。





 卵は温泉卵ぎみの半熟。私はどろっとした完全な温泉卵は好きではないのですが、ここの卵は白身がちゅるるんで、黄身がとろろんで丁度良い感じです。

 しゃきしゃきおネギの載った、揚げたてのでっかい天婦羅かきあげの具はタマネギ、ニンジン、春菊。

 特にさくさくクリスピーな衣のなかに閉じ込められたタマネギの香りと甘さが何ともいえません。油とタマネギってとても相性が良いのです。

 そういえば、大阪の串カツ屋さんでもタマネギがとっても美味しかったし。

 無理に安い海老などを入れてないから、潔くって良いねえ。それに、私はお野菜がとっても好きだから大満足。


 お出汁は関東風のお醤油なんですけど、辛さにカドがなくまろやかで、関西よりのお味です。

 お蕎麦は更科系のつるつるぴちぴちではなく、おつゆがよく絡むようなそば粉独特の摩擦感が表面を被っています。ちゃんと腰があって、噛み応えも、のどごしも良好です。

 立ち食いそばの麺とは、とてもじゃないけど思えません。老舗のお高いそばの名店とも十分勝負できるお味です。それで380円とは!

 さくさく天婦羅も時間が経つにつれ出汁を吸ってしんなりしてとろとろになります。
 
 これもまた美味しいのです。

 でもお腹が膨れるねえ。

 とてもボリュームがあります。ワンコインで十分おつりが来るこの値段でこの量、美味しさは働くお父さん達の強い味方だねえ。

 ごちそうさま。食べ終わったら、いつの間にかおじさんたちが7人並んでいました。

 噂にたがわず人気なんですね。納得です。







池袋サンシャインの水族館はサンシャインラグーンのシノノメサカタザメさん 【ファイルC254】2012.11.13 

【ファイルC254】2012.11.13 池袋サンシャインの水族館はサンシャインラグーンのシノノメサカタザメさん

姿も名前もカッコいいねえ。

 前回池袋サンシャインの水族館のサンシャインラグーンでやっていた水中パフォーマンスの記事を書きました。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53714951.html

 それでもって、そのサンシャインラグーンにカッコいいシノノメサカタザメさんがお住まいなのでした。

 随分と以前、おたる族館にいたシノノメサカタザメさんの記事を書きました。
 記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/45919804.html

 小樽にいた子はまだ子供だったけれど、サンシャインにいるシノノメサカタザメさんは大きな大人です。わくわく。

 岩陰から悠然と身をくねらせながらの登場です。





 わ~い、こんにちは。





 いつ観てもカッコいいねえ。スマートで美しいフォルムがまるでスペースシップのようだねえ。

 この人は、自分のカッコよさをひけらかすかのように、近くまで泳いできます。





 ギュィーンと機首を上げて離陸します。





 急上昇中に見えたお腹側は楽しいお顔立ちだねえ。





 なんだか、ぷんすか顔文字の『\(*`∧´)/ 』に似ているねえ。

 横にいた、若い女性の二人連れが『シノノメサカタは・・・』って当然のように話していたのでびっくり。

 シノノメサカタザメさんは、それほど人気なんだねえ。

 それで、『シノノメサカタザメ』というのは、数あるお魚さんの名前の中でもとりわけ風流で綺麗なお名前です。

 おたる水族館のときの記事では、子供シノノメサカタザメさんの体全体が白い水玉模様だったので、坂田藤十郎の星梅鉢紋と関係があるのではということを書きました。けれど、シノノメの意味がよく分かりませんでした。

 おたるの子供シノノメサカタザメさんの写真(再掲)。





 それでもって、今回の大人のシノノメサカタザメさんのお顔をアップで見ると。





 ヒレは子供同様、白い水玉模様ですが、胴体は縞模様です。

 分かったよお!

『シノノメ』について

 シノノメというのは、日本の古語の東雲(しののめ)ですが、

 これは、どういった意味の言葉かというと、清少納言は枕草子の有名な冒頭から。

○春はあけぼの やうやうしろくなりゆく 山ぎは少しあかりて 紫だちたる雲の

 細くたなびきたる。

 上の文では『あけぼの』ですが、その前の時間帯はもっと紫の闇の色が深くて濃い情景が展開されます。

 つまり『東雲(しののめ)』というのは、『あけぼの』の少し前、夜の闇が朝の光に移行する夜明け前に、茜(あかね)色と深い紫色に染まった細い雲がたなびく空、もしくはその時間帯を意味するのです。

 私が以前旅先の海で撮影した、夜明け前の東雲(しののめ)の空をご紹介しましょう。





 茜色に紫がかった細い雲が幾重にも広がって、そのグラデーションがとっても綺麗。

 それでシノノメサカタザメさんの胴体の模様を拡大すると。





 ほら、にじんだ細い縞模様が、東雲(しののめ)の雲と似ているねえ。

 ちなみに、『東雲(しののめ)』の語源については、諸説あるのですが、その代表的なものに山の端が細く白むのを『篠(小竹)の芽』の細さに喩えたものだという説があるそうです。

 それで、昔の歌には、この『東雲(しののめ)』という言葉がよく使われています。

 昔、男が女の家を訪れる妻問婚(つまどいこん)、通い婚(かよいこん)の時代には、夜に女のもとに通って共寝(ともね)をした男が夜明けに去っていくので、『東雲(しののめ)』というのは、夜明けの男女の別れの情景に使われる例が多いのです。

 ですから『しののめの別れ』もしくは、『あかつきの別れ』という言葉さえあるのです。

 それで、必然的に『東雲(しののめ)』の出てくる歌は、朝の別れの歌、恋の歌になるのです。

○ いにしへも かくやは人の まどひけむ わがまだ知らぬ しののめの道(源氏物語・夕顔)

 昔の人もこのような暗い夜明け前の恋路をさ迷い歩いたのだろうか?私にははじめての恋の道行きだけれど・・・。恋にさ迷う様を暗い東雲にたとえた歌です。

○ しののめの ほがらほがらと 明けゆけば おのがきぬぎぬ なるぞかなしき 【よみ人知らず(古今集)】

 『きぬぎぬ』というのは、『お互いの衣(きぬ)を重ねて掛けて共寝をした男女が、翌朝それぞれ自分の衣を身につけて別れる。その衣』ですから、これも朝の別れを悲しむ歌ですね。

 それにしても、東雲は、『ほがらほがら(朗ら朗ら)』と明けていくんだねえ。夜が朗らかに明るく明けるのに、二人の心は別れのため暗く悲しいという対比なのですね。

○ 夏の夜の ふすかとすれば 郭公なくひとこゑに あくるしののめ

 紀貫之(きのつらゆき)が夏を詠んだ歌です。

 夏の夜は、横になったかと思うとすぐに、ほととぎすの鳴くひと声で明ける。つまり夏の夜は短いので恋人と過ごす時間が短いのを恨んだ歌なのですね。

○ 梅が香は まくらにみちて 鶯の こゑよりあくる 窓のしののめ(前大納言為兼)

 今度は、郭公(カッコウ)じゃなくて鶯(ウグイス)です、枕もとの梅の香りというのがとても艶っぽいねえ。この場合の『まくら』は、『枕』と『真っ暗』を掛けているんだねえ。枕元に梅の枝でも飾ってあったのかな?梅にウグイスたあ、風流だねえ。

 そういえば、七夕祭りの牽牛(けんぎゅう、彦星)と織女(しょくじょ:織り姫)も、年に一度、七夕の日の夜に会って、夜明けとともに別れるのですから、東雲が恨めしい妻問婚なのですね。

『サカタ』について


 有名なサカタさんといえば、吉本興業の漫才コンビ『コメディNo.1』アホの坂田こと坂田利夫さん・・・・。じゃなくて、上方歌舞伎の大名跡(だいみょうせき)の坂田藤十郎(さかたとうじゅうろう)さん。

 それで、おたる水族館の時にご紹介した説になるのですが、ここで坂田藤十郎さんの初代の絵をご覧ください。
 【初代坂田藤十郎 『鋸くず』(複製)東京都中央図書館加賀文庫蔵より】





 初代坂田藤十郎【さかたとうじゅうろう(1647~1709)】さんは、
 元禄(げんろく)時代の上方(かみがた)で活躍した立役(たちやく)で、和事(わごと)を完成させた俳優として歴史に名を残しています。

 かつてその名跡(みょうせき)は江戸の市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)と並んで梨園(りえん)で最も権威あるものでした。

 それで、安永2 (1774)年に三代目が仙台で客死した後は襲名する人がいなかったのですが、平成17 (2005)年、231年ぶりに扇千景(おうぎちかげ)さんのご主人としても知られる、三代目中村鴈治郎(成駒屋)さんが、四代目坂田藤十郎(山城屋)を襲名しました。

 上の絵で坂田藤十郎さんの着物の袖(そで)についているのが『五つ藤重ね星梅鉢(いつつふじがさね ほしうめばち)』の紋。





 坂田藤十郎の屋号(やごう)『山城屋(やましろや)』の家紋(かもん)は、定紋(じょうもん)がこの『五つ藤重ね星梅鉢(いつつふじがさね ほしうめばち)』で、替紋(かえもん・たいもん)が『向い藤菱(むかいふじびし)』です。

 一方、サンシャインラグーンのシノノメサカタザメさんの背びれの模様。





 やっぱり似ているねえ。初代藤十郎さんの着物の袖ならぬヒレに紋が付いているところがお洒落だねえ。

つまり、シノノメサカタザメ(東雲坂田鮫)は、胴の縞模様が夜明け前の時間帯である『東雲(しののめ)』の雲に、ヒレの水玉模様が『坂田藤十郎(さかたとうじゅうろう)』さんの屋号である山城屋の定紋(じょうもん)『五つ藤重ね星梅鉢(いつつふじがさね ほしうめばち)』にそれぞれ似ているから、そう名付けられたというのが、私、眼とろん星人説です。


 ジンベエザメ(甚平鮫)のジンベエも、ジンベエザメの白い水玉柄が着物の甚平(じんべえ)の柄に似ていることに由来するそうですから、シノノメサカタザメさんの名前の由来が体表の模様からきているという私の説はきっと正解だと思いますよ。えっへん。

 まさか、シノノメサカタザメさんに妻問婚(つまどいこん)の生態があるとも思えないし。

 それにしても、夜に恋する女性のもとに通って共寝をした男性が翌朝に帰る『しののめの別れ』と、上方歌舞伎の大名跡『坂田藤十郎』ですから、とても艶(つや)っぽくて粋(上方だから『いき』じゃなくて『すい』と読む)で風雅(ふうが)で素敵な名前だねえ。『藤十郎の恋』だねえ。

 命名した人は、よほど教養豊かで、感受性が鋭くて、そして何よりシノノメサカタザメさんのことがとても好きだったに違いないねえ。というより、シノノメサカタザメさんが好きな人って、センスが良いし。

 ちなみに英名は“Bowmouth guitarfish(ボウマウス・ギターフィッシュ)”つまり、『弓なりの口をしたギター形のお魚』という即物的な名前です。だんぜん和名の勝ち!

 最後に、ちゃっかり写りに来た小さいお魚さんと一緒にごあいさつ。





 さようなら、元気でね。姿も名前もカッコいいシノノメサカタザメさんでした。

 皆さんも会いに行ってあげてね。








天王寺公園内の住友さんが寄贈した大阪市立美術館敷地と、住友家茶臼山本邸庭園だった慶沢園(その7) 【ファイルT183】2012.11.10 

【ファイルT183】2012.11.10 天王寺公園内の住友さんが寄贈した大阪市立美術館敷地と、住友家茶臼山本邸庭園だった慶沢園(その7)

和気橋と第五回内国勧業博覧会の会場だよ。

 住友家についての記事を最初から読まれる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53064436.html

 天王寺公園内の住友さんが寄贈した大阪市立美術館敷地と、住友家茶臼山本邸庭園だった慶沢園(その1)から読まれる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53462787.html

 ということで、前回は茶臼山古墳(ちゃうすやまこふん)が大坂の陣の激戦地だったというお話をしましたね。
 前回はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53709931.html

 茶臼山古墳から再び、河底池(かわぞこいけ)にかかった和気橋(わけばし)を渡って大阪市立美術館に向かいます。
 

茶臼山側から和気橋を望む。






 和気橋から見た河底池。













 和気橋から対岸に見えるのが写真左から料亭阪口楼・茶臼山統國寺(旧:宝福寺)です。





和気橋は昭和12(1937)年に完成。河底池(かわぞこいけ、通称ちゃぶいけ)は、延暦7年(788年)に和気清麻呂(わけのきよまろ)公が、大和川や河内湖の排水と水運のために上町台地をここで開削しようとして失敗した跡地とも言われているそうです。


 だから、和気清麻呂公にあやかって、和気橋なのですね。

 以前、皇居の鬼門を守護している和気清麻呂の銅像について、記事にしたことがあります。
 記事はこちら。
 http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51435427.html

 ここは住友旧邸の庭だった場所ですが、住友さんと言えば、皇居前の楠木正成公の銅像を建てたのも住友さんでした。
 記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51551744.html

 和気清麻呂公といい、楠木正成公といい、皇統を守り、日本の文化を守護した英雄ですね。

そして、ここは、かつて日本で開催された最後にして最大の内国博である第5回内国勧業博覧会の会場だったのです。


 開催期間は、明治36(1903)年3月1日~7月31日。第5回内国勧業博覧会の入場者数は内国博覧会史上最高の4,350,693人という大盛況でした。

 当時の日本は、日清戦争(1894-95年)の勝利により市場が活況を呈し、鉄道網がほぼ日本全国にわたったことなどがあって急成長のまっただ中でした。1970年の高度成長期にやはり大阪で開催された万国博覧会の時と似ていますね。

 会場には、農業館、林業館、水産館、工業館、機械館、教育館、美術館、通運館、動物館のほか、台湾館、参考館が建設されました。

 第二会場として、堺に水族館も建てられました。

 将来の万博開催を見据えて建てられた参考館には、イギリス、ドイツ、アメリカ、フランス、ロシアなど十数か国からの出品があり、それまで日本人が見たこともない諸外国の製品が陳列されました。

 その中で入場者に新時代の息吹を感じさせたのが、アメリカ製の8台の自動車だったそうです。

 自動車は、未来の夢の乗り物だったのですね。各家庭が自動車を所有して、自由に移動でき時代が来たら、さぞかし素敵だろうなって思ったんだねえ。

 この5年後の1908年にT型フォード(フォード・モデルT)が発売され、アメリカのモータリゼーションを牽引していくのです。他方、中東では時を同じくして1908年にイギリス人ウィリアム・ダーシイがイランで油田を掘り当てました。

 この博覧会では、初めての夜間開場が行われ、会場には華やかなイルミネーションが取り付けられました。大噴水も5色の照明でライトアップされました。

 それで、各館は夜間は閉館していたにもかかわらず、多くの入場者はこれらのイルミネーションや余興目当てで来場したといいます。

 また、エレベーターつきの大林高塔も人気を呼び、これによって、日本における本格的な電力時代の幕開けが高らかに宣せられたのですね。

 その他に、アトラクションとして、メリーゴーラウンド、パノラマ世界一周館、不思議館(電灯や火薬を用いた幻想的な舞踏、無線電信、X線、活動写真などを見ることができた)、大曲馬などの娯楽施設が人気を呼びました。堺の水族館は二階建ての本建築で、閉会後は堺水族館として市民に親しまれました。

中でも一番人気だったのが、ここ茶臼山の池のほとりに設けられた『飛艇戯(ウォーターシュート)』でした。【第5回内国勧業博覧会図会(1906)より】






 ウォーターシュートが世界で初めて作られたのは1895年。

 アメリカはニューヨークのコニー・アイランドに開設された最初の遊園地のひとつ『シー・ライオン・パーク』の『シュート・ザ・シューツ』です。

 これは、12人乗りの平底のボートが水しぶきをあげて池に飛び込むというもので、大変な人気を博しました。

 これからわずか8年しか経っていない1903年に、当時世界最先端のアトラクションが大阪に登場したのです。

 8人乗りのボートには、海軍服の船頭さんが乗り組んで、12mの高さから95mの斜面を一気に下り川底池に飛沫をあげて着水。あまりの物珍しさと楽しさに、長蛇の列ができる大人気だったそうです。

 上の第5回内国勧業博覧会図会の絵は、この写真を参考にしたと思われます。





それで、この写真は、この角度から写したのでしょう。【現在の写真。(右端に写っているのが茶臼山)】






茶臼山古墳の川底池を挟んだ対岸、写真通天閣が見えているあたりの手前に、ウォーターシュートの坂が組まれたのですね。


 大阪市は、ここに『日本のウォーターシュート発祥の地』の記念碑ぐらい建てても良いと思うねえ。

 高速で坂を下り、水しぶきをあげて着水するウォーターシュート系のアトラクションは、今も根強い人気のようですからね。それにしても、アメリカ人は水でずぶ濡れになるアトラクションが好きだねえ。

第5回内国勧業博覧会が開催された後、95,000坪以上の会場跡地に美術館・茶臼山・天王寺動物園を含む天王寺公園や新世界ができたのですから、この博覧会は今の大阪独特の風景を作った一大イベントだったのです。


私の持っているDVDで、バスター・キートンの映画『コニーアイランド(1917年)』に本場の『シュート・ザ・シューツ』のシーンがありました。






 手前のボートをみると、着水時にかなりバウンドしているのが分かります。それにしても、大阪にウォーターシュートが入ってきてから14年たっても、本場アメリカではメインアトラクションであり続けていたのですね。

 キートン演じる主人公が憧れている女性が、恋敵の“ファッティ(デブ君)”と、シュート・ザ・シューツに乗っています。





 二人とも怖がりすぎだねえ。





 着水の反動で、二人とも舟から放り出されます。





 船頭さんは何とも無いのにねえ。

 そのまま池へドボン。





 二人ともぬれねずみです。

 これだから、私はウォーターシュートもジェットコースターも嫌いなんだよ!

 ということで、天王寺公園の茶臼山の記事でした。

 次回に続きます。










神田明神は江戸の総鎮守(9) 【ファイルET74】2012.11.06 

【ファイルET74】2012.11.06 神田明神は江戸の総鎮守(9)

銭形平次親分の碑だよ。

 神田明神の摂末社と史跡についての続きです。

 最初から読まれる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53382446.html

 ということで、今回は銭形親分の顕彰碑です。

【銭形平次の碑】






 舟木一夫さんが歌った

 お~と~こだったぁら~ ひとつにか~け~る~♪
 か~け~てもつれた 謎をと~く~♪
 誰がよんだか 誰がよんだか♪
 
 『ぜにがたへ~いいじ~♪の碑』が『寛永通宝(かんえいつうほう)の銭(ぜに:銅銭)』に建っています。神田明神のHPの説明にはこうあります。

 ※   ※   ※

 銭形の平次は野村胡堂の名作「銭形平次捕物控」の主人公である。
 
 平次の住居は、明神下の元の台所町ということになっている。
 
 此の碑は、昭和四十五年十二月有志の作家と出版社とが発起人となり、縁りの明神下を見下ろす地に建立された。
  
 石造り寛永通宝の銭形の中央には平次の碑、その右側に八五郎、通称「がらっ八」の小さな碑が建てられた。

 ※   ※   ※

 銭形平次は、作家、野村胡堂(のむら こどう)さんの代表作『銭形平次捕物控(ぜにがたへいじとりものひかえ)』の主人公で、架空の人物です。

 野村胡堂さんは音楽評論家としても有名で、『あらえびす』の筆名で、レコード評論等も執筆しています。





 平次親分が住んでいた神田明神下御台所町(かんだみょうじんしたおだいどころまち)は、今の行政区画でいうと外神田(そとかんだ)2丁目です。

 『もう少し詳しくいえば鰻(うなぎ)の神田川の近所、後ろは共同井戸があって、ドブ板は少し腐って、路地には白犬(しろ)が寝そべっている(銭形平次捕物控:嶋中書店文庫第1巻解説より)』

 外神田じゃなくて、御台所町の方がカッコ良いねえ。

 御台所町は、江戸の町が生まれた当初は、幸龍(こうりゅう)寺や万隆(ばんりゅう)寺などが軒を連ねる寺社地でしたが、明暦三(1657)年一月十八日に発生した『明暦の大火(めいれきのたいか:振袖火事)』により打ち出された『延焼を防ぐため、大きな寺社をなるべく市中の外側に移転させる』という幕府の方針により、寺社が移転立退き、城内の御台所御賄方(おだいどころおまかないかた)の武家屋敷として再建されて出来た町です。

 さらに寛文(かんぶん)十二(1672)年、この場所に住んでいた武士たちの希望もあって町内に『町屋(まちや:商人と職人の住まい)』も形成されて以降、御台所町は町人の町として発展をとげることになりました。

 文政(ぶんせい)七(1824)年の『江戸買物独案内(えどかいものひとりあんない)』には、町内に足袋屋(たびや)や呉服屋(ごふくや)、小間物屋(こまものや)があったことが記されています。

 時代が下って明治二年 (1869)には、神田明神下御賄手代屋敷(かんだみょうじんしたおまかないてだいやしき)を合併し、神田御台所町(かんだおだいどころまち)と呼ばれるようになりました。だから、御台所町は江戸っ子の町だったんだねえ。


 それで『銭形平次捕物控』では、テレビほど頻繁に『寛永通宝』の銭は投げません。もったいないからねえ。

 平次親分の必殺技の『銭は投げ』は、やっと嶋中書店文庫第1巻のP169に出てきます。

 ※   ※   ※

 三度、切ってかかる前に、隠居とみせかけた平次の腰はシャンと伸びました。懐に入った右手を抜くと、得意の投げ銭がサッと夜風を剪(き)って曲者の面上へ―――。
 「あっ」
 曲者は一等の背で辛(から)くも面をかこいました。ジーンと刃金を叩く銭の音。
 その刃(やいば)を返して、襲撃に移る前、平次の手からは、第二、第三の、第四の銭が、糸を繰り出すように曲者の面へ、肘へ、喉笛へと見舞います。

 ※   ※   ※

 境内にある銭形平次親分の観光パネルです。





 おそ松くんに出てくるイヤミのシェーのポーズだねえ。

 『銭形平次捕物控』は岡本 綺堂(おかもと きどう)著の『半七捕物帳(はんしちとりものちょう)』の影響の下、書かれました(第1巻解説より)。

 ※   ※   ※

 亡くなった菅忠雄君が、新聞社の応接間に私を訪ねて「雑誌を創(はじ)めることになったが、その初号から、岡本綺堂さんの半七のようなものを書いてくれないか」と持ち込んだのは、昭和六年のことである。「綺堂先生のようには出来ないが、私は私なりにやってみよう」と簡単に引き受けてしまったが、それから実に二十三年、銭形平次の捕り物を今でも書き続けている。・・・・・

 ※   ※   ※

 それで、創刊されたのが、文藝春秋社の『オール讀物(オールよみもの)』です。

 『オール讀物』は月刊娯楽文芸雑誌の老舗で、昭和42(1967)年からは、池波正太郎さんの『鬼平犯科帳(おにへいはんかちょう)』が連載されています。

 初代編集長は永井龍男さん。銭形平次の執筆を依頼した『菅忠雄(すが ただお)君』というのは、文藝春秋社の編集者で作家です。

 菅忠雄さんは、は菅虎雄(すが とらお)さんの二男です。

 お父さんの菅虎雄さんはドイツ語学者で、五高教授だった明治29年(1896)4月に親友の夏目漱石(そうせき)さんを五高に招いています。明治34年には一高教授に就任しました。

 能書家で漱石さんの墓碑銘を書いたのも菅虎雄父さんです。

 菅虎雄父さんの教え子には芥川龍之介、菊池寛らがいます。

 その縁で、菅虎雄父さんに頼まれた芥川龍之介さんが、息子さんの菅忠雄さんの家庭教師をしました。

 菅忠雄さんは上智大学を中退後、虎雄父さんを通じて久米正雄さん、菊池寛さんを知り、文藝春秋社に入社して野村胡堂さんの執筆依頼等、『オール読物』の創刊に関わり、後に編集長もつとめ、『文芸春秋』の編集長にもなりました。

 また菅忠雄さんは、大正13年川端康成さんらと『文芸時代』を創刊し、同人として執筆もしています。うへえ!生きた日本の文学史だねえ。

 夏目漱石さんの親友だという人の息子さんで、芥川龍之介さん、久米正雄さん、菊池寛さん、川端康成さんとも旧知の編集者に頼まれた仕事なら、野村胡堂さんも引き受けないわけにいかないねえ。

 それで、『銭形平次』のさきがけとなった、この『半七捕物帳』こそ、『捕物帳(とりものちょう)』ものの元祖にして本家です。





 この本はとっても面白いねえ。

 もちろん、これもフィクションなのですが、幕末期の江戸の風俗描写は細かく正確なので、歴史資料としても珍重されています。

 例えば、『半七捕物帳』に書いてある『捕物帳』の説明では、

 ※   ※   ※

 「捕物帳というのは与力や同心が岡っ引きらの報告を聞いて、更にこれを町奉行所に報告すると、御用部屋に当座帳のようなものがあって、書役(しょやく)が取りあえずこれに書き留めて置くんです。その帳面を捕物帳といっていました」

 ※   ※   ※

 さらに岡っ引きの制度については、こう続きます。

 ※   ※   ※

 「それから私どものことを世間では御用聞きとか岡っ引きとか手先とか勝手にいろいろの名を付けているようですが、御用聞きというのは一種の敬語で、他からこっちをあがめて云う時か、又はこっちが他を嚇(おど)かすときに用いることばで、表向きの呼び名は小者(こもの)というんです。

 小者じゃ幅が利かないから、御用聞きとか目明(めあか)しというんですが、世間では一般に岡っ引きといっていました。

 で、与力には同心が四、五人の手先が付いている、同心の下には岡っ引きが二、三人付いている。その岡っ引きの下には又四、五人の手先が付いているという順序で、岡っ引きも少し好い顔になると、一人で七、八人乃至(ないし)十人ぐらいの手先を使っていました。

 町奉行から小者即ち岡っ引きに渡してくれる給料は一ヶ月に一分二朱というのが上の部で、悪いのになると一分ぐらいでした。

 いくら諸式の廉(やす)い時代でも一ヶ月に一分や一部二朱じゃあやりきれません。おまけに五人も十人も手先を抱えていて、その手先の給料はどこからも一文だって出るんじゃありませんから、親分の岡っ引きが何とか面倒を見てやらなけりゃあならない。

 つまり初めから十露盤(そろばん)が取れないような無理な仕組みに出来あがっているんですから、自然そこにいろいろの弊害が起こって来て、岡っ引きとか手先とかいうと、とにかく世間から蝮(まむし)扱いにされるようなことになってしまったんです。

 しかし大抵の岡っ引きは何か別に商売をやっていました。女房の名前で湯屋をやったり小料理をやったりしていましたよ」

  ※   ※   ※

 とても具体的で細かい描写が、読者を江戸の世界に誘(いざな)ってくれます。

 だから、江戸情緒に浸りたいなら、『銭形平次捕物控』とともに『半七捕物帳』もお勧めだねえ。

 それで、半七親分も平次親分同様、家は神田で、三河町(みかわちょう)にお住まいだったのです。というより、平次親分の下敷きが半七親分だから、当然ですね。

 三河町は、徳川家康が入府したさいに帯同した三河の下級武士がこの地に移り住んだことにちなんで名付けられた由緒のある町名です。

 江戸でもっとも古い町の一つで、1丁目から4丁目まであり、明治時代には東京市神田区三河町となったのですが、昭和10(1935)年に1丁目が鎌倉町(かまくらちょう)と、2~4丁目が神田司町(かんだつかさまち)と合併したことによりこの由緒ある町名は消失しました。
 
 平次親分が住んでいた御台所町(おだいどころまち)も、半七親分が住んでいた三河町(みかわちょう)も今はもうありません。私は昔ながらの町名を変更するのは反対だねえ。

 ということで、銭形平次の碑について、あれこれ思いつくことを書きました。次に続きますね。





新宿三丁目の『どん底』へ行ったよ  【ファイルF52】2012.11.02 

【ファイルF52】2012.11.02 新宿三丁目の『どん底』へ行ったよ

新宿酒場の老舗だねえ。

 『どん底』は昭和26(1951)年、創設者・矢野智さんが新宿三丁目で始めた酒場です。

 『どん底』というのは、ロシア社会の貧困を描いた、マクシム・ゴーリキーの戯曲の題名で、お店のHPには店名の由来が書かれています。
http://www.donzoko.co.jp/

 ※  ※  ※

●店名『どん底』の由来

矢野が舞台芸術学院の一期生に在学時に、小山内薫追悼新劇合同公演が丸ノ内の帝国劇場(旧建物)で催された時、群衆の一人、馬車屋の役で出演し、その頃、生活の為、酒場を開く準備をしていて、学長の秋田雨雀先生に何かいい店名がないかと相談したところ、

「遊」び半分で商売をやれるものではないから、多分俳優の仕事が続くかどうか心配だ。『どん底』の舞台が最後の舞台になるかもしれないから『どん底』にしたらどうだ。最低から出発だからいゝ名前だと思うよ」ということでこの名前に決まりました。

<追記>
店をやりながら、一度だけ、北健二さんの「演技座」で故・三国一朗氏の最後の『厨房』で主役を演じましたが、私の俳優としての仕事もこれが最後となりました。(矢野 智)

 ※  ※  ※

 つまり俳優だった創業者の矢野さんが、酒場を開店しようとしていた時に出演した舞台、ゴーリキーの『どん底』に由来するのですね。だから文化的な香りが店内に充満しているんだねえ。

 お店は、新宿3丁目の新宿末広亭より一本西の路地に入った所にあります。





 三島由紀夫氏や黒澤明氏が常連さんだった新宿酒場の老舗です。

 そういえば、黒澤明さんの映画にも『どん底【昭和32(1957)年公開】』という作品がありますね。

 日本がまだ占領軍に支配され、主権を失っていたオキュパイド・ジャパンだった昭和26(1951)年2月に、和洋酒店『どん底』が創業しました。

 新宿で最も古いお店なのだそうです。黒澤明さんの映画『どん底』よりも古いねえ。

 店先に三島氏の写真と、氏が店に送ったメッセージがかかげてありました。





※   ※   ※

クノッフ出版社のストラウス編集長夫妻が、新宿へ遊びに行きたいというので、案内して。まず若い人の大ぜい集まるロシア風の酒場「どん底」へゆき、焼鳥キャバレー二軒をまわったところ、夫妻は大よろこびであった。

酒場「どん底」では、どん底歌集というものを売っていて、ある歌を一人が歌いだすと、期せずして若人の大合唱となる。喚声と音楽が一しょになって、なまなましいエネルギーが、一種のハーモニィを作り上げる。何ともいえぬハリ切った健康な享楽場である。夫妻はしきりにこれをアメリカの酒場と比較して、日本人の享楽がかくも友好的で、なごやかで、けんかっぽくないのにおどろいていたが、私も、ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジの酒場の暗い絶望的なふんいきを思いうかべた。

しかしワビだのサビだのといっていた日本人が、集団的な享楽の仕方を学び、とにもかくにも一夕(いっせき)の歓楽の渦巻きを作りうるようになったのは、戦後の現象で銀座の高級バアーでコソコソ個人的享楽にふけっている連中にくらべると。焼鳥キャバレーやどん底酒場のほうが、よほど世界的水準に近づいているように、私には思われるのであった。

                                            三島由紀夫

 これはご常連であった先生が生前、当店へくださったメッセージです。(原文まま)

※   ※   ※

 クノッフ出版社というのは、アルフレッドAクノッフ社Alfred A. Knopf, Inc.のことで、ストラウス編集長(Harold Strauss )は、日本文学を担当していた有力編集長でした。

 当然、三島氏の作品の翻訳出版の件で来日していたのでしょう。

 アメリカのamazonで検索すると、現在、『金閣寺(The Temple of the Golden Pavilion)』が、『ヴィンテージVintage/Ebury 〔a Division of Random (May 3, 2001)〕』から出版されていました。

 それにしても、『金閣寺』が『ゴールデン・パビリオンの寺』っていうのは一体・・・。


 ヴィンテージというのは、後にクノッフ出版社を買収したランダムハウス社のペーパーバック部門のようです。

 このメッセージからも、三島氏の義理堅さ、誠実さ、優しさが伝わってきますね。

 『どん底歌集』って、噂に聞くところの『歌声喫茶』のような感じの『歌声酒場』だったのかな?

 『世界的水準に近づいている』という言葉が、時代だねえ。まだ、ごく一部の金持ちが海外旅行に行くにしても、持ち出すドルの制限がかかっていた頃の文章なのでしょう。

 円高で、海外旅行も、海外に住む日本人も増え、東京のミシュラン三ツ星店舗数が、本場パリのそれを超え、欧米人が秋葉原のメイド・カフェや居酒屋ではしゃいでいる現代と隔世の感を受けます。

 お店に入ると、1階のカウンターに案内されました。

 私は、お酒は苦手なのですが、こういう場所でお酒を注文しないわけにいかないので、どん底オリジナルで元祖 酎ハイの『どん底カクテル』\650を注文しました。





 『どん底カクテル』の愛称は『ドンカク』。詩人の金子光晴さんの詩『ドンカクの唄』にも登場する名物カクテルです。

 ※   ※   ※

ドンカクの唄/金子光晴

ドンカクをなみなみ注いで
コップをまえにおくと
ふしょうぶしょうに
この世界はうごきだす・・・・・

※   ※   ※

 レモンの味がとてもすっきり爽やかです。

 とても飲みやすい口当たり。
 
 でも結構アルコールは強いねえ。

 金子さんにそういわれてみれば、世界がふしょうぶしょうに動き出したような気が・・・。

 というより、酔っ払って、目が回っただけだと思うねえ。

 突き出しのチーズが載ったウエハースと、生ハムの載ったフランスパン。これがテーブルチャージ料として\300。





 お腹が空いているので、牛肉とキャベツをソースで炒めたどん底オリジナルの人気者『林さんのライス』 ¥950を注文しました。









 これは『元祖カフェめし』なんだそうです。

 よく煮込んだ柔らかいビーフに、タマネギじゃなくてキャベツがあえてあるのが意表をついています。

 喩えて言えば、ハヤシライスのデミグラスソースをウスターソースにして、タマネギをキャベツにした感じ。

 それで、『ハヤシライス』じゃなくて『林さんのライス』なのかな?

 というより、牛肉たっぷりでキャベツが入った焼きそばのそば抜きライスと言った方が、手っ取り早いもしれません。

 だから紅ショウガが付いているんだねえ。

 店内は、年季の入った煉瓦の壁が歴史を醸し出しています。

 1階テーブル席です。





 少し早かったので空席でしたが、その後すぐにお客さんで埋まりました。

 ランプの向こうの鎖金具の棚に無造作に並んでいるボトルがお洒落です。





 こちらはカウンターにびっしり並んだボトルです。





 それで、これまた名物の『たっぷりチーズのミックスピザ』を注文しました。Mサイズ(2~3人前)\1,200円。









 ここのミックスピザは、昭和31(1956)年にイタリアンのシェフ富沢末男氏が入店して以来、メニューに加わったものだそうです。

 昭和31年ですから、当時は、ピザなんて知らない方が当たり前で、『どん底」で初めてピザを食べたというお客さんが多かったそうです。

 というより、日本人がピザなんか食べだしたのは、大阪万博の昭和45年以降だって聞いていているねえ。

 だからここのピザは、いわば日本のピザのパイオニアなのです。今は日本人シェフがイタリアのピザ大会で、世界チャンピオンになったりしているから、たいしたものだねえ。

 焼きたてで少しパリパリの焦げ目が付いた手作りのフワフワだけど腰のある生地の上に、クリーミーなとろとろチーズがたっぷり盛ってあります。

 これが美味しいのなんのって。

 写真では感じが伝わらないのですが、日本人好みの癖の無いチーズは、とても量が多くて、隙あらば生地から滑り落ちそうになるので、それを口ではふはふ言いながら受け止めなければならないのです。

 生地を咬むと、口からはみ出そうとするチーズの中のタマネギの甘み、ピーマンの苦みが嬉しくて、さらにアサリのむき身が入っていてこれがコクを深めています。あとマッシュルームの食感が良いねえ。

 これが結構ボリュームがあるのです。

 お腹いっぱいだよお。ごちそうさまでした。

 合計3100円でした。明朗会計だねえ。

 新宿の古きよき時代にタイムスリップしたような気分を味合わせていただきました。








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