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本ブログもやっと1000回を迎えることができました。 【ファイルG81】 2013.03.27 

【ファイルG81】 2013.03.27 本ブログもやっと1000回を迎えることができました。

皆さん、ありがとうございます。今後ともよろしくお願いします。

 最近はすっかり更新が滞ってしまって・・・。
 なんとか今回で1000回です。

 スジャータちゃんもひなちゃんもご無沙汰なので、ぼちぼちまた出てきてもらいたいと思っているのですが・・・。

 今後とも気長におつきあいお願いいたします。



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上野動物園のアンデスイワドリさんだよ ファイルC262】2013.03.21 

【ファイルC262】2013.03.21 上野動物園のアンデスイワドリさんだよ

とっても綺麗なペルーの国鳥だねえ。

 ペルーといえば、アンデス山脈。

 ペルーの鳥といえば、サイモンとガーファンクル(Simon & Garfunkel)が歌ったアンデス民謡原曲の『コンドルが飛んでいく』で、すっかりコンドルさんが有名だけれど、

ペルーの国鳥はコンドルさんじゃなくて、何を隠そう、このアンデスイワドリさんなのです。えっへん。






 こんにちは。





 鮮やかなオレンジがとっても綺麗だねえ。

 こんなに綺麗で目立つのはオスの方で、メスの色はオスとくらべるとくすんでいて、褐色の度合いが強く冠羽は小さいんだって。ここに暮らしていたのはオスだけでした。

 アンデスイワドリさんも、他の多くの鳥同様、オスが派手な色でメスにアピールするのですね。

よく考えてみると、綺麗で目立つということは、逆に天敵から見つけられやすいということですから、卵を産まなければならないメスを地味にして、オスを派手にした方が合理的ですよね。これを性的二形(せいてきにけい)といいます。


 アンデスイワドリさんは、スズメ目タイランチョウ亜目タイランチョウ小目カザリドリ(飾鳥)科です。

 英名がAndean Cock-of-the-rockですから、アンデスイワドリという和名はこれの直訳なのですね。

 お住まいは、ベネズエラ、コロンビア、エクアドル、ペルー、ボリビアにかけてのアンデス山脈一帯で、先述しましたように、ペルーの国鳥になっています。

 峡谷や小川が流れる林の中を好みます

 全長:30~32cm、体重:200~275g。

 ご覧のようにオスの冠羽(かんう、かんむりばね)はとても立派で円盤状になっています。





 群居性があって、単独行動の繁殖期以外には数百羽の群れをつくってねぐらにつくそうです。

 鳴き声がとても大きくて遠くまで届き、群れているので騒々しいのだそうですが、ここの人は啼いてくれませんでした。でも声が大きければ余計に目立つねえ。

 主食は果実や昆虫で、カエルやトカゲも食べるそうです。

 求愛場(レック)でオスがメスに求愛ダンスを披露して猛アピールします。

 なんといっても一夫多妻ですから、オスはこんなに派手な身なりでもって一生懸命ダンスでアピールしないとならないのでしょうね。

 そのかわり、オスは巣作りや雛の世話を一切手伝いません。その分、天敵から危険を惹きつけているからということでしょうか。

 メスは岩の表面に泥で出来た台形の巣を作って、巣の底に植物の繊維をほぐしたお布団を敷きます。そしてそこに2個の卵を産み落とします。

 小首をかしげた仕草がとても可愛いねえ。





 やっぱり、この冠羽が立派なほどメスにモテるんだろうねえ。

 真正面から見ると、なんか三角お屋根みたいで変なの。





 『巨人の星』に出てくる花形満選手の大きな前髪も、正面から見るとこんなかな?

 ということで、今回はとっても綺麗でペルーの国鳥にもなってるアンデスイワドリさんでした。

 さようなら、元気でね。

JR有楽町駅中央口附近にあった南町奉行所跡(その1) 【ファイルET81】2013.03.15 

【ファイルET81】2013.03.15 JR有楽町駅中央口附近にあった南町奉行所跡(その1)

大岡越前守忠相様のお裁きの場所だねえ。

 前回は北町奉行所跡のことを記事にしました。


 ならば、当然南町奉行所跡は何処だという話になります。

 前回の記事で、北町奉行所跡は、最初行ったときは見つからなかったと書きましたが、実は同じ日に南町奉行所跡の碑も探しに行ったのですが、同様に見けることができませんでした。

 有楽町駅前も再開発ですっかり様変わりしているのですね。

 それでいくら探し回ってもそれらしき物がありません。

 北町奉行跡同様、こちらも調べなおして、再訪して見つけたのがここ。

南町奉行所跡モニュメントです。






 うへえ!ただの有楽町中央口側駅前広場から地下街に入るための、エスカレーター円形屋根裏のベンチだと思っていたよ。

ここの前に大岡越前守の銅像でも建てたら、渋谷のハチ公みたいに待ち合わせスポットの名所になるのにねえ。


 それに前回はこんなことやっていて、関係者、支持者や有権者でごった返していたのも見つからなかったのです。





 再開発の際に発掘調査して見つかった下水溝の石組みを一部再現していて、右端に銅板の史跡プレートが設置されています。





 歴史を経た立派な石組みですね。





 史跡プレートには解説・資料が記載されています。それに沿って、ご説明しましょう。





 まず、史跡プレートの文面を、手を加えずそのまま書き写すと。

 ※    ※    ※

 東京都指定旧跡

 南町奉行所跡

 江戸町奉行は、寺社奉行、勘定奉行とともに徳川幕府の三奉行のひとつでした。その職掌は、江戸府内の行政・司法・警察など多方面に及び、定員二名で南北両奉行に分かれ月番で交替に執務していました。名奉行大岡越前守忠相は、享保2年(1717)から元文元年(1736)にかけて南町奉行としてここで執務をしていました。

 南町奉行所は、宝永4年(1707)に常盤橋門内から数寄屋橋門内に移転し、幕末までこの地にありました。その範囲は、有楽町駅および東側街区一帯にあたり、平成17年の発掘調査では、奉行所表門に面した下水溝や役所内に設けられた井戸、土蔵などが発見されました。また、「大岡越前守屋敷」と墨書きされた荷札も出土しました。
 
 再開発事業では、石組下水溝の一部をここに再現するとともに、石材を事業地内でベンチなどに活用しています。

 所在地 千代田区有楽町二丁目

 旧跡指定 大正7年4月    平成19年(2007)10月  千代田区

 ※    ※    ※

 大岡越前さんは、享保2(1717)年から南町奉行に任じられて、8代将軍・徳川吉宗(とくがわよしむね)公が進めた享保の改革(きょうほうのかいかく)の時に町奉行だったので、テレビドラマの『大岡越前』でも吉宗将軍が良く出ていましたね。

 それで、平成17(2005)年の南町奉行所跡地発掘調査の写真です。





 右奥に曲線のフォルムが特徴的な東京フォーラムが写っているので位置関係が分かります。

 さらに、史跡プレートには、江戸切り絵図も示されていました。





 お濠に架かった数寄屋橋御門(すきやばしごもん)を渡ったところに『南町御奉行御役屋敷 遠山左衛門尉』と書かれていますね。

遠山左衛門尉景元(とおやまさえもんのじょうかげもと:遠山金四郎)さんは、北町奉行を務めた後、1845年から 1852年の間、南町奉行にも任じられています。


大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ)さんがこの地に奉行として務めていたのは1717年から 1736年ですから、金さんの100年以上前です。


 江戸切り絵図と比較する形で有楽町駅前再開発工事着工前の航空写真に落とされた南町奉行所跡地の調査地点の位置をご覧下さい。





 外堀が埋め立てられてそのまんま外堀通りになっているので、位置関係がよく分かりますね。

 プレートには、南町奉行所の平面図と調査地点も記されています。





 つまり、裏門や、中間部屋、勝手用人長屋のあったあたりは、現在JR有楽町駅構内敷地になっているのです。


南町奉行所は大岡越前さんの設計だったと伝えられていて、火事で焼けて何回か増改築があったようですが、基本的な設計変更は無かったようです。


 それで南町奉行所跡地の東側が発掘調査の対象になったのですが、その部分を拡大しますね。





図面の右側中央やや下に『表門』があります。


 この『表門』には左右に小さな門があって、右(図面では上)は勝手に通じる小門ですが、左(図面では下)の小門は『囚人置所』に通じていて、ここから囚人(未決囚)が出入りします。

表門から真っ直ぐ正面に進むと玄関にあたる『式台(敷台)』がありますが、表門から式台までは十五間ほどの青板の敷石になっていて、その両側に那智黒(なちぐろ)の砂利石(じゃりいし)が敷き詰められていたそうです。


式台(玄関)の左側(図面下側中央)に『砂利敷』とありますが、これが俗に言う『お白州(しらす)』です。


 『砂利敷』が『お白洲』と呼ばれたのは、敷かれた砂利が白かったからで、もともとは土間がそのまま用いられていたのですが、後に白い砂利敷になりました。

 大岡越前さんが設計したと言われている南町奉行所ではすでに『お白州(砂利敷)』になっていたのですね。

 白い砂利を敷いたのは、白い色が裁判の公平さと神聖さを象徴する色だということに由来するそうです。『裁判で黒白(こくびゃく)を付ける』とも言うからねえ。

『砂利敷(お白洲)』の奧(図面左下)にあるのが『公事場』です。


『公事場』は、町奉行をはじめとする役人が座る座敷で、テレビドラマでは、遠山の金さんが、例の右の片肌脱ぎで『この、金さんの桜吹雪がすべてお見通しよ!』って、ここで啖呵を切ります。


庶民の原告・被告は『砂利敷(お白洲)』の上に敷かれた莚(むしろ)に座りました。


それで、浪人を除く武士や神官・僧侶・御用達町人などの身分を持った人々は『砂利敷』には座らず、2段に分かれた座敷の縁側に座りました。


 武士・神官・僧侶は上縁(2段のうちの上側の縁側)に座ることから上者、それ以外は下縁(2段のうちの下側の縁側)に座ったために下者と呼ばれました。

 一方、役人のうち与力は奉行より少し下がった場所に着座しましたが、同心は座敷・縁側に上がることは許されず、砂利敷の砂利の上に控えていました。

 それにしても、テレビドラマのお白州は屋外で、お裁きの時はいつも晴れているのはどうして?野球のように雨天順延になるのかな?と不思議に思っていたのですが、

史実として奉行所のお白洲には屋根が架けられるか、屋内の土間に砂利を敷いてお白洲として用いていたことが明らかになっていて、テレビドラマにあるような青天井のお白洲はフィクションとしての演出なんだって。


江戸時代の裁判には、『出入筋(でいりすじ)』と『吟味筋(ぎんみすじ)』とがあります。


 『出入筋(でいりすじ)』というのは、今の民事訴訟のように原告と被告で争う裁判で、双方を呼び出して紛争の経緯を調べて、落としどころを探って和解・訴訟取り下げを勧め、なるべく判決まで持ちこまないようにするのは、今の民事訴訟と似ています。

『吟味筋(ぎんみすじ)』というのが、今でいう刑事訴訟です。


 江戸時代の司法は役割分担が成されていて、捕り物の主役は『廻り方同心(どうしん)』ですが、取り調べの主役は『吟味与力(ぎんみよりき)』で、

テレビドラマのようにお奉行様はあんなに頻繁にしゃしゃり出てきません。


町奉行所の吟味筋(刑事事件)の場合、容疑者は町の自身番屋のなかでもとくに大きい大番屋(調番屋)で同心による取り調べを受けてから、奉行所のお白州でお奉行様の尋問を受けました。


 その後、軽微な罪で宿預(今でいう在宅起訴)になった場合を除いて、容疑者は奉行所の借牢に入れられます。

入牢証文が出ると小伝馬町の牢屋に移され、そこで吟味与力によって『吟味詰つまりの口書(ぎんみつまりのくちがき=供述調書)』が作成され、爪印を容疑者に押させます。当時は容疑者の自白が最重要視されましたから、厳しい牢問(ろうもん)が行われることもあります。


容疑者を責めさいなみ、自白に追い込むことを責問(せきもん)と言います。責問(せきもん)には、笞打(むちうち)、石抱(いしだき)、海老責(えびぜめ)がありました。


責問でも自白を得ることが出来なかった場合のみ、『拷問(ごうもん)』にかけられます。


 拷問というのは『釣責(つりぜめ)め』の一種類だけで、責問は拷問ではありません。

唯一の拷問手段である『釣責め』は両手を後手に縛り、その縛った縄で体を宙に吊るすのです。これは耐え難い激痛を伴い、死に至ることもあるため、老中の許可が無くては行えません。老中に拷問許可を請うのは、『拷問しないと自白を取れない無能な奉行』という烙印を押されることを意味しますので、滅多に行われませんでした。


 こうやって作られた『吟味詰つまりの口書(ぎんみつまりのくちがき=供述調書)』を元に、奉行所で裁判が行われます。

容疑者は『砂利敷(お白洲)』【身分の高い物は座敷の縁側】にひき据えられ、『公事場』に座った町奉行により一通りの取り調べを受けます。


その後、吟味与力により『吟味所【図面では砂利敷(お白州)の右上】』で怒鳴りつけるような厳しい取り調べがあった後結審します。


遠島(えんとう)以上の重刑の場合は、老中に書類一式提出して同意を得なければなりません。さらに老中の同意の上で将軍の裁決があって初めて刑が確定します。ですが、将軍は「そのうち見ておく」といってなかなか押印しなかったそうです。


 なんか、今の日本の法務大臣みたい。いくら凶悪犯とはいえ、自分の判断で人が死ぬわけだから、後生でどんな祟りがあるかわからないし、夢見が悪いからねえ。

遠島より軽い『追放』以下の判決の言い渡しはその場でお奉行様が行うのですが、遠島(えんとう)以上の重刑の場合は上記の手続きを踏んだ上で、伝馬町の牢屋敷で与力が判決を言い渡します。


ですから、映画やテレビドラマのように、奉行所でお奉行様がお白州にひきすえられた容疑者をこまごまと取り調べて、その場で『市中引き回しの上、獄門を申しつける!』と極刑を言い渡すことは絶対にありません。


浅草木村屋本店さんの人形焼だよ 【ファイルS35】2013.03.10 

【ファイルS35】2013.03.10 浅草木村屋本店さんの人形焼だよ

浅草土産の定番といえば、これだねえ。

 いまさらご紹介するというのもなんなのですが、仲見世でも浅草寺本堂に一番近い区画に店を構えている老舗和菓子店の木村屋本店さん。





 店頭では、お兄さんが鮮やかな手さばきで焼いています。これを観ているだけで楽しいねえ。実演販売だねえ。





 お土産は、かさばらない、常温で日保ちがする、職場で配る時みんなで分けられる、好き嫌いがはっきりと分かれない、どこのお土産かすぐ分かる。というのがベストです。

 木村屋さんの人形焼はこれらの条件すべて満たしているのですね。一週間日保ちがします。

 迷うんだったら、これを買っておけば外れはありません。

 創業明治元年元祖人形焼です。





 8個入り800円の箱詰めです。まとめてビニール袋に入っているので、撮影用にいったん出して箱に入れなおしました。





 形は浅草寺のシンボル、五重塔と鳩さんと、『仲見世』の刻印の入った大提灯。





 忘れてはならないのが、雷門(かみなりもん)の名前の由来である、雷鳴を轟かす雷太鼓を背負った雷神(らいじん)様。





 実はこの雷神様だけ、撮り忘れて後で別撮りしたんだよ。うへえ!

 これらの形を見るだけでうれしくなります。

 一本の鉄の鋳型プレートには、この四種類・四つの凹型が刻まれていて、一挙に4つずつ焼いていくのですね。





 切り口を接写するとこんな感じ。





 卵たっぷり、小麦粉・砂糖・ハチミツ・重曹のカステラ生地に甘い漉し餡。

 冷めた状態で食べると、カステラ生地の硬さと香ばしさと歯ごたえ、餡子のダイレクトな甘さが駄菓子感覚で庶民のお味。とっても懐かしい気分になります。

 レンジで少しあたためたら、ふわふわが戻って甘さが上品になって餡子のまろやかさが増します。

 どっちも好きだねえ。

 苦いお茶やブラックコーヒーが合います。

 久しぶりに食べたらとっても美味しかったので、また浅草に行ったらお土産にしたいものだねえ。

関一(せき・はじめ)市長は名大阪市長 【ファイルT189】2013.03.06 

【ファイルT189】2013.03.06 関一(せき・はじめ)市長は名大阪市長

大阪市役所のすぐ近くに銅像が建っていますよ。

 大阪中之島の大阪市庁舎東、中央公会堂と東洋陶磁美術館の間、大正13(1924)に焼失した大阪ホテルがあった場所に立派な銅像が建っています。

今の大阪の基礎を造り発展させた関一(せき・はじめ)第七代大阪市長です。










関一(せき・はじめ)第七代大阪市長は都市計画学者としても有名で、横には氏の業績を顕彰した『関市長顕彰碑』が建っています。






 少し摩耗している部分もあるので、判読できるうちに、ここに全文書き写しておきますね。

 ※    ※    ※

 関市長顕彰碑

 わが大阪市が戦後再建のことに力を致して一意復興の年輪を加えつつあるとき たまたま 故市長関一博士の二十周年忌に際会し往時を追憶して敬慕の情やみがたし ここに記念の像を建ててその偉業を顕彰し 遺徳を後世に伝える栞といたします

 博士は 大正三年七月迎えられて助役の任に就き 同十二年十一月選ばれて市長第七代の職に当り 爾後三選を重ねて 昭和十年一月関西風水害の復旧に奔走中はからずも病を得て六十三年の生涯を終るまで 実に二十年余の長きにわたつて 謹直精苦 この大大坂を育成することに その深い学殖と博い見識とを傾け尽されたのであります

 大正から昭和の初めにかけての大阪は 第一次大戦を機縁として急速な発展をたどり 近代都市としての態勢を整うるに絶好の機会を迎えました この時にあたつて博士のような明達の士を得て 躍進する市勢に向うべきところを示すことができましたのは 市民にとつてまことに仕合せであつたと言わねばなりません

 博士の業績は枚挙にいとまありません 市域の拡張を断行し 都市計画を樹立して 近代都市大阪の基礎をつくりました 市民病院市民館など社会事業の創設拡充につとめました 美術館の建設に着手し 大阪城天守閣を再建して 文化都市の面目を整えました 学区を廃止して義務教育の機会均等をはかり 商科大学を開設して市立大学制度の基礎を築きました また 中央卸売市場を設け 築港計画を拡張し 市営バスを創めるなどおよそ今日の大大坂に見る市営事業の根幹はおおむね博士の経綸に出ずるものであります 御堂筋を飾るいちよう並木の美しさと その下を通る地下鉄の便利とを考えてみるだけでも 博士の高邁なる識見と果断な実行力とが今なお生けるが如く市民の眼前に浮びあがつてまいります

 わが大阪が今日の大をなし得たのは 長い歴史に培われた自由の精神と古い伝統に養われた実践力行の美風によるものでありますが また市民とこれを代表する市会の博士に対する信頼が市政の運営に不動の基盤を築いたことも忘れてはなりません 大阪市民がその最も必要とする時期に置いて学徳ともに優れた関市長を得たことは われわれの喜びとして永久に銘記すべきであろうと思います

 故大阪市長関一博士遺徳顕彰会
 建立昭和三十一年(一九五六)六月

 ※    ※    ※(以上書きおこし終わり)

 関一(せき・はじめ)氏は明治六年、静岡県に生まれました。

 東京で育ち、東京高等商業学校(現一橋大学)に学んだ後、二十四歳の若さで母校の教授になり、交通論や工業政策などを専門とした新進気鋭の学者として注目を浴びます。

当時、大阪では第六代市長の池上四郎氏の命をうけた大阪市幹部が都市問題の専門家を探していました。


 関一市長と共に名市長の誉れが高い第六代大阪市長の池上四郎氏の銅像は天王寺公園に建っていて、当ブログでもその功績をご紹介しましたね。

 第六代大阪市長の池上四郎氏の記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53514053.html

 今、会津出身の新島八重さんが話題になっていますが、この池上四郎第六代大阪市長も気骨のある会津人でした。

池上四郎大阪市長は「大阪を大きく伸ばすために、交通、工業政策に明るい学業の人を助役に迎えたい」と都市計画による大阪の大改造を考えていて、そこで白羽の矢がたったの、関一氏だったのです。


 池上は自ら上京して関氏の大阪招聘を説得しました。

 突然の話に関氏はとまどいましたが、もともと氏は大阪にこういった印象を抱いていました。

《大阪の商業はあまり政府の保護干渉といふものを受けておりませぬ。大阪の空気は東京より遥かに自由…》(自著『大大阪の現在及び将来』から)


《この自由なる進取的の企業精神を活動せしむる根拠地として大大阪を完成すべきである》(同上)


 こうして関氏は助役として大阪市に迎えられました。

 そして八年後の大正12(1923)年11月、関氏は五十歳で第七代大阪市長に当選し、名市長の誉れが高かった池上四郎氏からその重責を引き継ぎました。

助役時代から、大大阪(だいおおさか)づくりに邁進した関氏ですが、その業績の中でもいまだに語り継がれるのは御堂筋の拡幅です。


 大正後期から昭和初期にかけて、大阪市は大大阪(だいおおさか)と呼ばれていた時代だったのです。

大正14(1925)年に大阪市は周辺の町村と合併。人口・面積で日本一、人口では世界第6位の大都市となり、商工業も日本一盛んだったので、大阪市は『大大阪(だいおおさか)』と呼ばれていました。



『大阪市統計書第25回』【昭和2(1927)年版】には、世界で最も人口の多い都市はニューヨーク(597万人)、以下、第2位ロンドン(455万人)、第3位ベルリン(403万人)、第4位シカゴ(310万人)、第5位パリ(290万人)、第6位大阪(225万9000人)と記述されています。


同年の東京市の人口は214万3200人です。当時の東京は1923年(大正12年)9月1日の関東大震災からの復興途上だったので、大阪は日本一の大都市だったのですね。


 ですから、大阪市の都市改造はただ単なる一都市だけではなく、日本全国規模の問題でもあったのです。

「梅田と難波という二大ターミナルを一直線に結び、大阪の心臓部をつくりたい」というという構想の下、わずか幅員5.4mという狭小な御堂筋を、一気に43.6mまで拡幅するという関氏の将来を見据えた計画に、当時の大阪市会(大阪の市議議会)では「飛行場を作る気か!」とやじが飛んだそうです。


拡幅前の御堂筋。






関市政による拡幅後の御堂筋。






いかにこの拡幅が大変だったか、これらの写真を見ただけで分かります。


当時日本一の大都市だった大阪のメインストリートの道幅がわずか5.4mなんて、今でこそ考えられませんが、当時の一般人の感覚としてこの拡幅は驚天動地の発想だったのですね。


関市長の先見の明には本当に頭が下がります。


関市長は昭和元(1926)年、御堂筋の拡幅工事が始まると同時に、地下鉄網を放射状に広げる『高速度交通機関計画』を発表して、さらに周囲を驚かせました。


 その大阪大改造とも言える工事は、住民も反発もあって大いに難航しました。

 地下鉄一キロ当たりの建設費は五百万円と莫大なもので、「市債償還のめどはたつのか」とマスコミも市長を叩きます。

 昭和8(1933)年5月、地下鉄梅田-心斎橋間(3.1㎞)が開通します。

開通した御堂筋と大阪市営地下鉄。










 保存されている開業当時の100型地下鉄車両。





 黎明期の大阪市営地下鉄路線図。





 関市長は

 「これやこの都市行政の権威者は知るも知らぬも大阪の関」【『都市風景百人一首』から】と詠まれ、全国にその名を轟かせます。

 その関市長も、昭和10(1935)年1月14日。関西風水害の復旧で奔走中に腸チフスに倒れました。

 「市長倒れる」との報に、市民からは輸血の申し込みが相次ぎ、生国魂神社には無事を祈る人々の列ができたといいます。

 しかしながら、二百九十八万市民の願いは届かず、1月26日、関氏は六十一歳の生涯を終えました。

 初の市葬として、天王寺公園でしめやかに営まれた葬儀には、八万人もの市民が参列したといいます。

 棺には黒白の碁石と謡曲本の「鞍馬天狗」、煙草「敷島」が納められました。

 残されたれた関氏の遺産は一万円たらずだったということです。

【参考:■産経新聞アーカイブ(1999年01月17日 大阪府下版に掲載)】


ところが、この伝説の関一市長の大業績をぶちこわそうとする大馬鹿市長がいます。


大阪市営地下鉄を民営化するんだって!


 大阪市民が巨額の税金を投じて、営々と努力して築き上げた都市基盤を民間に売り飛ばすそうです。

それもこれだけの大問題かつ大仕事を、大阪都構想と、自分の国政進出と、脳天気ストーカー・ツイッターの片手間に!今の大阪市長って、余程楽でヒマなんでしょうね。


要は大阪市民の莫大な財産の払い下げでしょ?


殆どが資産の償却が済んでいて、他都市からも羨望の眼差しで見られている模範的地下鉄の払い下げって!


払い下げには利権が付き物です。


この市長一体何をたくらんでいるのでしょう。


関市長の銅像を鋳つぶして、その跡に自分の銅像と顕彰碑でも建てる気じゃないのかな?


何度でも私は聞きます。大阪市民は一体何考えてるの?


 橋下大阪市長の大阪市営地下鉄の外資売り飛ばし計画の記事はこちら。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/54338602.html

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