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池袋サンシャインの水族館のアジア・アロワナさんだよ 【ファイルC269】2013.08.30 

【ファイルC269】2013.08.30 池袋サンシャインの水族館のアジア・アロワナさんだよ

赤い色が鮮やかだねえ。

 横浜・八景島シーパラダイスのアジア・アロワナさんの記事を書きました。アジア・アロワナさんの詳細については、そちらを参照して下さいね。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53256704.html

 連載第一回の池袋サンシャインの水族館のサンシャインラグーンでやっていた水中パフォーマンスから見られる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53714951.html

 八景島のアジア・アロワナの人は、紅尾金龍(べにおきんりゅう)さんらしかったのですが、

 池袋サンシャインのアジア・アロワナの人は、また別の種類のようです。





 身体が赤くて綺麗だねえ。スーパーレッド【辣椒紅龍(らっしょうこうりゅう)】さんほど赤くないから、

この人は、台湾では『黄金紅龍(おうごんこうりゅう)』と呼ばれる種類かな?

 こんにちは。





 二本のお髭が立派だねえ。このお髭が台湾で『龍魚(ロンユイ≒りゅうぎょ)』と呼ばれる由縁のひとつだそうです。

 光線の当たる角度によって、色が違って見えます。





 それにしても、ここの水槽は、『非常口の緑の矢印』が写り込んで、とても撮影には邪魔なのです。

 この写真も、写り込んでいたので、レタッチで誤魔化して消しました。


 胸びれのオレンジも綺麗です。





 尻尾は真っ赤だねえ。尻尾の付け根は銀色です。





 悠然と旋回する姿が優美です。





 水族館の水槽は大きいからゆったりと泳げるねえ。

 水面に姿が映って、良い感じに撮れました。





 “逆さ富士”ならぬ“逆さアロワナさん”だねえ。

 最後にご挨拶。





 さようなら、元気でね。この角度だとピンクがかったオレンジに見えるねえ。

 ということで、とっても綺麗な『龍魚』こと、アジア・アロワナさんでした。

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『日清のどん兵衛・きつねうどん』東日本用(E)と西日本用(W)。 食べ比べ徹底検証! 【ファイルF56】2013.08.27 

【ファイルF56】2013.08.27 『日清のどん兵衛・きつねうどん』東日本用(E)と西日本用(W)。 食べ比べ徹底検証!

一体どれだけ違うかな?

 最近の関東のおうどんは、関西風薄口になってきています。ネットで検索しても、関東風濃い口おつゆのうどんの名店が見当たりません。関東風のつゆは蕎麦に限るようです。

 日清食品のカップうどん『きつねどん兵衛』は、関東と関西の販売エリアで味をそれぞれ関東風、関西風に変えているというのは、有名な話です。

 手軽に関東・関西の味の違いを実感したければ、この比較が一番手っ取り早いのです。

 そこで実際に食べ比べてみました。購入して記事を書いてから時間が経っていますので、カップのデザインが少し古いのはご容赦下さい。

それぞれ関東と関西のコンビニで現地調達して比較します。

 なお日清食品株式会社のHPを覗くと、

東西『どん兵衛』の販売エリアのマップが見つかりました。

http://www.nissinfoods.co.jp/knowledge/madeby/donbee/soup.html





 関ヶ原附近が分かれ目なのは、東の角餅と西の丸餅。エスカレーターに立ち止まって乗る位置の東の左側、西の右側と同じだねえ。

味の違いは、西の昆布出汁がメインの文化と、東のカツオ出汁がメインの文化から来るようです。






まずカップの比較から。

 日本地図に合わせて、左が西版、右が東版に並べてあります(以下同様)。





 西版は、スタンダードな昔からのデザインです。つゆも伝統の粉末です。

 東版は少し前から、『液体つゆ仕上げ』を売り出したので、その金色の表示がなされていて、『どん兵衛』のロゴの緑と白が反転しています。最近東版の粉末つゆバージョンを、あまり見かけなくなりました。

 東版が液体仕上げのつゆバージョンを売り出してから、少し経つのに、西版がいまだに粉末なのは、西の昆布つゆが粉末と相性が良いからでしょうか。

 そういえば、インスタント袋麺の『日清焼そば』の粉末ソースってとっても美味しいねえ。あれは、昔一度粉末から、液体に変えて不評だったからもとの粉末に戻したって聞いたことがあります。

それで、西版と東版の区別の仕方を見てみましょう。

 一番有名なのは、スチロールのカップの『●合成保存料、合成着色料は使用しておりません。』の右に(W)の表示があるのが西版。





 その位置に(E)の表示があるのが・・・。あれえ?本来(E)の表示があった東版では、緑の四角で塗りつぶしてあるねえ!





 それからもう一つ、紙ぶたの剥がし口の耳のところの『NISSIN』の赤い地に白抜きロゴの左に(W)があるのが西版。





 そして、同じ位置に(E)の表示が・・・。あれえ?東版はこっちも(E)が無くなっているよお!





 日清食品さんのHPでは、ここの表示が(W)と(E)で区別できるって説明してあるのに。





これは『液体つゆ仕上げ』バージョンの東版だからなんだって。

どうやら関東のコンビニでは、通常液体つゆ版しか置いておらず、粉末版はスーパー等に行かないと売っていないようなのです。

手軽に入手できる、コンビニ販売分の比較だから、しょうがないねえ。


原材料名を比較します。


 西版。





 東版。





西版のスープでは、『魚介調味湯』が入っていて、東版ではそれが『かつおパウダー』になっているのが違います。当然、西版の方が『昆布エキス』の量が多いはずですから、各成分の配合も違うと思われます。

内容量は、西版が95g、東版が114gになっていますが、麺は共に74gなので、揚げの大きさと、つゆが粉末・液体であることからくる違いなのでしょう。


それで標準栄養成分表を比較します。


 西版。





 東版。





西版が合計、407kcal、塩分5.8gなのに比べ、 東版が合計、431kcal、塩分6.6gと、カロリー、塩分量共に、東版が多めです。


 蓋を開けて、小袋を取り出します。





 西版の方が若干お揚げの色が濃くなっています。

 それでもって、西版は従来通りの粉末スープで、東版は液体スープ+七味とうがらし付きです。





 西版は、粉末つゆを先に入れます。





 東版は液体つゆを蓋の上に載せて温め、後から入れます。





 お湯を注いで、5分でできあがりました。左が西版、右が東版。





 なんか、右の東版の方が、お揚げが大きいねえ。
 
 お揚げをどけて、麺とつゆはこんな感じ。

西版は、黄土色っぽい薄い茶色のつゆです。






東版は、焦げ茶色っぽい濃い茶色のつゆです。

 




 東版に付いていた七味唐辛子を振りかけます。





まずお揚げの比較から。

 西版 若干小さくて薄い。
 東版 若干大きくて厚い。
 噛んだときのつゆは、東版の方が大量に溢れます。
 猫舌の人は、東版の方が要注意かも。色は西版の方が濃いのですが、味の違いは分かりませんでした。どちらも上品な甘辛さのふんわりお揚げです。

麺は東西版による違いはないようです。

 発売当初より、麺に腰と滑らかさが出てきているのは、皆さんご存じの通りです。私は昔のふやけたようなチープな食感の麺も好きだったのですけれどね。

やはり大きな違いはつゆにあります。

西版

 癖のない上品な薄味で、薄口醤油と昆布主体でカツオが加わった関西風つゆは昆布独特の旨味というか、甘みが醤油の角をとって、まろやかな辛みになっています。
 
 この味を極端にデフォルメしたら、みたらし団子にかかっている甘辛いタレになると思います。

東版

 濃い口醤油とカツオ出汁独特の角のある辛みとえぐみがあって、これが独特の風味になっています。

 そうそう、浅草の大黒屋の天丼のタレや、草加煎餅のお醤油に共通する味です。

 この味を極端にデフォルメしたら煮込んだスキヤキの割り下になるんじゃないかな?

 西版同様、昆布のエキスも入っているのですが、あくまで隠し味のようです。
 以前食べた粉末つゆの東版どん兵衛のスープには、昆布が入っていなかったような記憶がありるのですが。

 とにかく、どん兵衛においては、関東風の味を留めているのが嬉しいのです。
 七味を加えることによって、逆に濃口醤油カツオ出汁の辛みが相殺されてマイルドになっているような気がします。スイカにかける塩みたいなものかな?

食べ終わった後、スープの色を比較します。

 麺やネギ等の具で、見栄えが悪く、濁っていてわかりにくいので、コーヒー用のペーパー・フィルターで濾して小皿に並べて入れました。

歴然と色が違うねえ。当然、左が西版で右が東版。






交互に食べ比べてみると、食べる前に想像していたより、これだけはっきりと味に違いがあるというのはびっくりです。私はどちらも美味しくいただけました。さすがにお腹いっぱいだよお!

 こういうカップ麺は、大量販売大量消費が目的なので、マーケティング上、違いと言っても、話題づくり程度で、無難にまとめて、あまり差がないとばかり思っていたのですが、日清食品さんは、誠実な仕事をしているのでした。

簡単に両方手に入れるには、ネット販売を利用する方法があります。

 http://shop.nissinfoods.co.jp/product/local/?p=2

 東版の粉末つゆや、北海道版もあるので、興味のある方は一度お試し下さいね。

それにしても、「東京の黒いつゆのうどんは辛くて食べられない」と言っている大阪の人が、東京に引っ越した場合、『きつねどん兵衛』を食べるときは、わざわざ通販で西版を取り寄せるのでしょうか?それとも、食べないのかな?不思議だねえ。

案外気がつかずに、平気で食べていたりして。

大阪倶楽部は歴史的建造物(下) 【ファイルT196】2013.08.24 

【ファイルT196】2013.08.24 大阪倶楽部は歴史的建造物(下)

新進気鋭の建築家だった頃の安井武雄氏の“自由様式”の代表作。

 前回の(上)からの続きです。
(上)から見られる方はこちら。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/54430419.html

 それでは、建物の細部を見てみましょう。
 南欧風の様式に東洋風の手法(インド風の正面列柱―高砂市の竜山石(たつやまいし/凝灰岩)が取り入れられていて、

 玄関とイスラム建築風のアーチ、





 玄関両脇のトーテムポールの天辺にある異形の妖獣の彫刻。









 トーテムポールの妖獣の彫刻の下の部分。





 トーテムポールの台座。





 4階南テラス上の富を象徴する甕、【写真左端】





これらを配した建築は、安井武雄氏の“自由様式”の代表例とされているそうです。


 この建物も、米軍による大阪大空襲(昭和20年3月13日夜半から14日夜明け)の翌日3月15日、大日本帝国海軍の接収により、大阪府を通じ「明渡し命令」を受け退去を余儀なくされます。

 恐らくこれは本土決戦に備えたものなのでしょう。海軍が陸の建物を接収するということは、戦局はもう末期的状況だったのです。

 帳簿、記録、備品の一部はようやく搬出することができたものの、殆んど凡ての什器備品が徴用されるに至ります。

 大空襲下で市内は大混乱状況であったものの、幸いなことに社員の加賀正太郎氏から東区高麗橋二丁目53番地の控家が提供されたことにより、倶楽部の活動は、一日も停止することなく続けることができました。

 空襲により、都心部を中心に大阪市の1/3が灰燼に帰しましたが、幸い大阪倶楽部は爆弾の直撃を免れたことと、窓に設けた鉄製シャッターの効果により延焼被害を受けることなく建設時の姿を保つことが出来ました。

 というより、アメリカは空襲の際、あらかじめ占領したときに接収する施設を選定していて、そこは攻撃目標から外す精密爆撃をしたのだと思われます。

 それで、敗戦に伴ってこの建物は、今度はGHQ(占領軍総司令部)に接収されることになりました。

 GHQによる接収の間、倶楽部は転々疎開先を変えました。加賀正太郎邸の次には朝日新聞社所有の朝日会館三階に、さらには朝日ビル9階に移転しつつ運営を続けてきました。

 昭和26(1951)年、サンフランシスコ講和条約が締結され、昭和27(1952)年4月28日、我が国は独立を回復。7年にわたる軍事占領が終結します。
 これに先立つ4月10日、ようやく会館の接収が解除されました。

 会館の接収は解除されたものの、記録類は散逸、エレベーターや照明具等内部の什器備品は見る影もない有様で、内部施設は倶楽部として到底使用に耐えない状態でした。

せめて現状復帰して返還するのが常識なのですが、米軍に常識なんてありません。接収した建物の備品や美術工芸品を盗むのも日常茶飯事でしたから。

 理事長の堀 新氏をはじめ役員及び各委員は、懸命に倶楽部復興に取り組みました。

 住友商事、関西電力、竹中工務店、日本銀行、富士銀行、第一銀行の6社からの400万円の寄付金提供や倶楽部債の発行(住友銀行の100万円を筆頭に87法人が引き受け)を通じて復興資金を調達。

社員の竹腰健造氏の設計監督、大林組の工事請負により同年秋、ようやく復興改修工事を終え往時の壮容に近づけることができました。

 なお、この建物の修復前の設計者である安井武雄さんは、当倶楽部竣工年に片岡事務所から独立。その後、野村財閥の総帥野村徳七の後援を受けて高麗橋野村ビル(1927年)や大阪ガス南館(1933年)などを手がけることになります。

 そのうち、この大阪倶楽部と大阪ガス南館(通称ガスビル)が文化庁の登録有形文化財に指定されています。

つまり、この建物は安井武雄さんが40歳になる前の新進気鋭の建築家として世に出た際に設計されたものなのですね。

  正面玄関の扉。





 アーチに施された植物の模様。





 洒落たデザインの窓。





 二階の窓は、窓枠のしつらえが凝っています。




 
 壁面は、ざらざらの表面のスクラッチタイルに櫛引された縞模様が入っているので、独特の風合いを醸し出しています。





 西側の窓の下の装飾。





 実は、この建物は、内装も凝っているようなのですが、紳士の社交場である大阪倶楽部なので、会員以外は入れないものかと思っていたら、公開見学会をやっているみたいです。
http://www.osaka-club.or.jp/shisetsu/index.html

 それから、ここで、古楽器演奏団体の日本テレマン協会(コレギウム・ムジクム・テレマン) がここで定期的にバロック音楽コンサートを開催しているようですから、機会が有れば一度観てみたいものです。
http://www.cafe-telemann.com/

 それで、最後に南東から撮った写真がこれ。
 




 それで、なにげなく大阪倶楽部の東隣の建物を見たらびっくり!

名菓『いただき』で有名な老舗和菓子店、『鶴屋八幡』の大阪本店だったよ。






 以前紹介した、『鶴屋八幡』の記事。↓
 http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/27928897.html

 この記事を書いたときはデパートで買ったのですが、鶴屋八幡大阪本店がこんなところにあったんだ!
 ここは、大坂商人(おおさかあきんど)の街、船場地区だからねえ。

 丁度三井住友銀行大阪本店営業部のあるブロックの真南のブロックの南に面した道に大阪倶楽部と鶴屋八幡大阪本店が仲良く並んでいました。

 ということで、さすが大阪は、伝統とモダンのまちなのでした。

 何度も言いますが、この建物も現役として活躍しています。需要がある現役の素晴らしい大阪府立図書館を廃館にして観光施設にしようという、おかしな市長は、大阪市役所から歩いてすぐの場所にある、この建物のことを知っているのでしょうか?

大阪倶楽部は歴史的建造物(上) 【ファイルT195】2013.08.24

【ファイルT195】2013.08.24 大阪倶楽部は歴史的建造物(上)

思いがけない場所に立派な洋館が。

 本ブログでは、三井住友銀行大阪本店営業部(旧住友ビルヂング)について書きました。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53879203.html
 
 三井住友銀行大阪本店営業部(旧住友ビルヂング)上記の建築のための本店臨時建築部が日建設計の源流なのですね。

 日建設計についての記事はこちら。
 http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53963411.html

 それで、住友の本店臨時建築部(日建設計)が黎明期に手掛けたのが、橋下大阪市長が目の敵にしている大阪府立図書館なのですね。
 http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53280603.html

 さらに、日建設計からブラブラ北上していたら、立派な煉瓦造りの建物が目にとまりました。




 
 私は、このビルの存在を知らなかったので、びっくりだよお!

 この建物は、一般社団法人大阪倶楽部(おおさかくらぶ)の会館で、登録有形文化財に指定されていて有名な建物なのだそうです。




 
 大阪倶楽部のHPを覗いて見ると、
http://www.osaka-club.or.jp/

大阪倶楽部のそもそもの歴史は遡ること大正元(1912)年、

大大阪(だいおおさか)にふさわしい、英国に範とった高い風格の倶楽部設立の必要性を感じた住友第三代総理事 鈴木馬左也氏は、同志を募り、同年8月に大阪商法会議所中興の祖といわれる第七代会頭 土居通夫をはじめ「綿の王」と呼ばれた大阪合同紡績社長 谷口房蔵、高山圭三、竹尾治右衛門、田中太七郎、中橋徳五郎、植村俊平、平田譲衛等の大阪財界の有力者により大阪倶楽部設立の発起がなされるに至りました。


 英国の倶楽部といえば、イギリスの文豪、チャールズ・ディッケンズの出世作に『ピクウィック・クラブ』というのがありましたね。

 設立趣意書にはこう記されています。

“…大阪市にありて社交と称せらるるものは旧套を脱せざると共にその範囲もまたすこぶる狭少なり是久しく世人の遺憾とせる所にしてつとに大規模の社交倶楽部設立の議を唱へられたる所以なり

…東洋に於ける商業の中心地たらんとする大阪は120万の人口を有し、郵便、電信、電話のみによって百事を処理し難きものあり、よって各方面の人士を網羅せる大阪倶楽部を組織し好適の位置を択みて部員の集会所に宛てなば百般の処弁に資益するところ莫大なるものと共に社交上益するところ頗る多きものあるべしと信ず…”

 この格調の高い、気概に溢れた趣意書の文章は、大阪府立図書館を寄附した住友家15代吉左衛門氏による巨大な銅板『建館寄付記』を彷彿とさせますね。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53325477.html

 大阪商人の心意気だねえ。

そして、大正元年(1912)11月26日。株式会社設立(大阪倶楽部創立)は実現しました。

 大阪倶楽部株式会社(資本金20万円)を設立することとし、大正元年11月26日創立総会を開催。
 発起人204名、株主数206名(住友吉左衛門の200株を筆頭、総株数2,000株、内法人は大阪商船株式会社と宇治川電気株式会社の2社)からのスタートでした。

 そして、大阪倶楽部会館の建設が始まります
 

大正元年12月30日、大阪市東区今橋五丁目11番地の角屋敷の用地買収を完了し、大正2年10月に会館建設に着工し、翌3年9月に竣工。

  




設計は当時住友の建築技師であった野口孫市氏(現 大阪府立中之島図書館設計-重文)、長谷部鋭吉(現 三井住友銀行大阪本店設計)。


 設計者の野口孫市氏(大阪府立図書館のものを再掲)です。





 延坪395坪の木造3階建て、大林組施工、総工費95,000円ですた。
 
 野口孫市氏の設計になる旧大阪倶楽部は、現在では、上のような写真でしか偲ぶことが出来ませんが、ハーフティンバー様式の船底天井の3階食堂は工夫を凝らしたものであったといわれているそうです。

 会館竣工を機に、現在も使われている倶楽部徽章(OとCの組み合わせ)が決まりました。

 それは、現在に至るまで使われています。

 現在の大阪倶楽部に掲げられた倶楽部徽章。





 大正5年1月15日、井上周、中橋徳五郎、松方正雄、鈴木馬左也等5氏連名で内務大臣に社団法人への組織変更を申請。同年6月7日、許可を取得し、6月15日から社団法人組織を確立しますが、

大正11年(1922)7月24日、3階からの思いがけない出火によってこの会館は烏有に帰します。

 これを機に、株式会社と社団法人に別れた2法人の合併が進められました。大阪倶楽部株式会社は大正11年8月31日をもって解散、9月1日以降その財産はすべて社団法人大阪倶楽部のものとなりました。

 ただちに会館を再建すべく、谷口房蔵委員長をはじめ財務委員の努力により70万円の社債を発行します。

そして、大正12年(1923)1月19日から大正13年(1924)5月19日にかけて建設されたのが、現在の大阪倶楽部。






 設計者は、片岡安(やすし)設計事務所の新進気鋭の

安井武雄さん、(1884年-1955年 千葉県佐倉市出身)






【上の写真は安井建築設計事務所HPより】
http://www.yasui-archi.co.jp/

施工は、大阪発祥の株式会社 大林組です。

竣工大正13(1924)年5月
階段地上4階 地下1階
延床面積約3,442m2(1,043坪)
構造鉄筋コンクリート造り(外壁 化粧煉瓦 テラコッタ)

屋上― ゴルフ練習場
4階― ホール
3階― 1号室、2号室、3号室、別室、和室
2階― 常食堂(「花外楼」直営)、談話室、図書室
1階― ロビー(喫茶・酒場)、受付・玄関、囲碁・将棋室、撞球場
地下― 理髪室

 やはり、この手の倶楽部には撞球場=ビリヤードが必須アイテムなのですね。

 建設途上の関東大震災の災禍から、当初設計に再検討が加えられ、防災を重視した構造とされました。

 屋根は洋瓦葺き、外壁は瀬戸産の素焼きタイルで、総工費55万円でした。


 次回(下)に続きます。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/54430454.html

四谷から溜池山王までお散歩したよ。(その1) 【ファイルET84】2013.08.21 

【ファイルET84】2013.08.21 四谷から溜池山王までお散歩したよ。(その1)

四谷見附の情景。

 以前、市ヶ谷の防衛省ツアーの記事を書きましたが、そこから溜池山王まで行ったときの写真が放置されたままなので、それについて記事を書きます。

 防衛省市谷ツアーに参加したよ(その1)はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52534735.html

 市ヶ谷から外堀通りを南下すると、四谷です。

 四谷の地名の由来は諸説有って、ここから内藤新宿までの惣名で四方に谷があるため、民家が4軒しか無かったため、一番目の谷である市ヶ谷がから数えて4番目の谷であったため、と様々な言われ方がされています。

四谷見附橋です。






江戸時代には、この橋の北側に四谷見附(よつやみつけ)がありました。


在りし日の四谷門の写真(東京都立中央図書館東京誌料文庫蔵)






見附(みつけ)というのは枡(ます)の形をした城門で外側に面する部分のことをいいます。


四谷見附は甲府へ至る甲州街道にあって、江戸城の西の玄関口として江戸城防衛の要所でした。


 そのため堅牢な門を築いて見張りの番兵を置いて城の守りを固めたのですね。

 四谷見附は外麹町口、四谷口門、四谷御門とも呼ばれ、寛永13年(1639)長州藩主毛利秀就によって石垣の工事が始められ、櫓門は寛永16 (1639) 年四谷口普請奉行室賀原七郎と大岡左衛門正清によって建築されました。

 江戸城は俗に三十六見附といわれますが、四谷見附・赤坂見附・牛込見附などが、今なお呼称として残っています。

枡形門は近代の城に特有の様式で、敵の進入を防ぎ易い構造の門であるとされていました。つまり外敵が侵入したときに桝の中に入って直角に曲がらなければ城内には入れず、そこを容易に攻撃できるのですね。


 暮れ六ツ(午後6時)に閉門し、夜間は通行出来ませんでした。

新宿に延びる甲州街道は、江戸城の防御のためコの字型に造られていたので、明治時代になるとこれが交通の障害になりました。


そこで東京市は、明治44年、外堀に架橋して街道を直進させる工事に着工。大正2(1913)年9月に竣工。10月5日に開橋式が行われました。これが『四谷見附橋』です。


四谷見附橋がなければこんな感じでした。(緑の枠が四谷見附の位置)






 青い矢印の通り、甲州街道(新宿通り)を一旦折れて北の四谷見附を通り、現在の新四谷見附橋の位置にあった四谷門を通って、また南に折れて甲州街道に戻っていたのです。

 四谷見附橋は、明治42(1909)年に完成した赤坂離宮(あかさかりきゅう)や付近の風景との調和をはかるよう、フランス風クラシック調のデザインに設計されネオ・バロックの装飾が高欄(こうらん)や橋灯(きょうとう)、橋名板(きょうめいばん)に施され、当時はモダンな橋として名所になりました。

なお、四谷見附橋は、平成3(1991)年10月に架け替えられています。


明治・大正時代の風格を漂わせる立派な橋灯(きょうとう)。






橋のたもとには明治・大正時代を偲ばせるレンガ造りの壁面が残っています。






新しい平成の四谷見附橋の橋名板(きょうめいばん)






 なお、旧四谷見附橋は、その文化的価値から、多摩ニュータウンに移設され、平成5(1993)年の10月5日に開通式が行われています。

 名前は長池見附橋(ながいけみつけばし)に変更されましたが、橋名板は大正時代の『四谷見附橋』のままになっています。

四谷見附橋から南を向いて見た四谷駅です。






左が中央線・総武線各駅停車のホーム。右が中央線快速のホーム。

 

右の中央線快速のホームの方が低くなっています。それは何故かというと。


大正時代の手彩色絵はがき、『四谷見附より士官学校を望む』をご覧下さい。






 先程の写真と逆で北を向いています。

明治22(1889)年、私鉄甲武鉄道(こうぶてつどう:現在のJR中央線)が立川・新宿間に開通。四ッ谷駅付近では 外濠の土手の斜面が削られて線路が敷かれました(現在の中央線・総武線各駅停車の線路)。


 外濠の向こうに見えている白い建物は陸軍士官学校で、その後の変遷を経て現在は防衛省がある場所です。

 その後、外濠は関東大震災の復興時に、処分した瓦礫(がれき)で埋め立てられてしまいました。

つまり、埋め立てられた外濠の上に、中央線快速のホームや線路、野球場などの運動施設、土木学会施設が建てられたため、低くなっているのですね。それにしても、関東大震災というのは、様々な形で爪痕を残しているのですね。



ということで外濠の土手を切り崩して作った各駅停車線路側は切り立った斜面になっているので、平成16(2004)年10月8日~10日に首都圏を直撃した巨大台風22号によってJR四ツ谷駅-市ヶ谷駅間で18時ごろ、線路脇の斜面の土砂が崩れ、線路を10m近くにわたってふさぐという被害があったことは、まだ記憶に新しいところですね。


 幸い、この土砂崩れでは怪我人等の人的被害はありませんでしたが、東京発高尾行きのJR中央線快速下り電車が一時運休となりました。

 この台風による人的被害は死者7人、行方不明者2人、負傷者166人。住家被害は全壊135棟、半壊287棟、一部破損4509棟と大きな爪痕を残しました。

 何度でも言いますが、このように東京ですら、東日本大震災で死傷者を出し、こういう風水害の被害があるのに、TPPで安易に外国のゼネコンを入れて日本の土建屋さんを潰しても良いのでしょうか?

ピアニストの巨匠ホロヴィッツの演奏だよ。 【ファイルMU8】2013.08.16 

【ファイルMU8】2013.08.16 ピアニストの巨匠ホロヴィッツの演奏だよ。

ショパン作曲:『英雄ポロネーズ』

 先日の記事で、白人の有色人種に対するヘイトスピーチである。
“The only good Indian is a dead Indian.”「唯一の良いインディアンは死んだインディアンだ」と“The only good Jap is a dead Jap.”「唯一の良い日本人野郎は死んだ日本人野郎だ」という言葉に関する記事を書きました。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/54408522.html

 それで、思い出したのですが、

 実は西洋人というのは、ヘイトスピーチではなくても、この手の、持って回った皮肉な言い回しが好きらしくて、以前当ブログでも、御紹介した世紀の大ピアニスト、ウラディミール・サモイロヴィチ・ホロヴィッツ氏【Vladimir Samoilovich Horowitz、1903年10月1日 - 1989年11月5日】もその一人です。

 以前紹介したホロヴィッツ氏の記事。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/44489380.html

 ホロヴィッツ氏は、こういうジョークを飛ばしています。

“There are Three Kinds of Pianists: Jewish pianists, homosexual pianists, and bad pianists."

『ピアニストには三種類しかいない。ユダヤ人のピアニスト、ホモのピアニスト、そしてヘタクソなピアニスト』

つまり、上手なピアニストは、『ユダヤ人のピアニスト』もしくは『ホモのピアニスト』の中にしかいないということです。

ということは、その2種類の範疇(はんちゅう=カテゴリー)に属さないピアニストは、全て『ヘタクソなピアニスト』ということですよね。

それで、当のホロヴィッツ氏は、自他共に認める偉大なユダヤ人ピアニストです。


 ホロヴィッツ氏の演奏動画を見つけたのでUPします。

フレデリック・ショパン作曲:『英雄ポロネーズ』(ポロネーズ第6番変イ長調 作品53)

Horowitz plays Chopin Polonaise Op. 53 in A flat major
 


 上手く見られないときは、こちら。↓
http://www.youtube.com/watch?v=KZGi49Bnghs

 会場はウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の本拠地、オーストリア・ウィーンにあるムジークフェライン・ザールのようなので、1987年5月31日。つまり晩年の演奏だと思われます。

 ホロヴィッツ氏は、指を伸ばして弾く奏法で、中村紘子さんが評するところの『ホバークラフトのように鍵盤を滑る指』から有無を言わさぬ圧倒的な音楽が紡ぎ出されます。

 フォルテッシモなんか、雷のようにピアノが轟いています。

これがなんと、御年83歳の現役ピアニストの演奏なのです!信じられません。


 若い頃はもっと凄かったのですから驚きです。

 画像では名器スタインウェイ=“STAINWAY&SONS”のロゴが確認できます。おそらく、晩年愛用していたニューヨーク・スタインウェイD型No.314503でしょう。

 先の記事で書いたように、普通、どんな名ピアニストでも、一般的にホールに備え付けのピアノで演奏をするのですが、ホロヴィッツ氏は例外で、海外公演の時も、愛用のピアノをニューヨークの自宅から運び込むのです。晩年二度来日したときもそうでした。


 ここで驚きのニュースが飛び込んできました!

 操業160年を誇る老舗一流ピアノメーカーのスタインウェイ社は、ホロヴィッツ氏が愛用していたアメリカのニューヨーク・スタインウェイとドイツのハンブルク・スタインウェイがあります。

ところが、2013年 08月 14日付けロイターは、米スタインウェイをヘッジファンドのポールソンが買収し非公開化する模様だと報じました。

http://jp.reuters.com/article/marketsNews/idJPL4N0GF2Z020130814

 ヘッジファンドって、リーマンショックの原因になったサブプライムローン問題の引き金を引いたことで有名な、利益追求至上主義のハイリスク・ハイリターンな投機的なファンドですよね。

 一流の技術者や調律師はいったいどうなってしまうのでしょう?伝統的な技が失われることがないよう、ただ祈るばかりです。

大東亜戦争に於けるアメリカ人の対日ヘイトスピーチ 【ファイルH32】2013.08.14 

【ファイルH32】2013.08.14 大東亜戦争に於けるアメリカ人の対日ヘイトスピーチ

歴史上連綿と続く白人による有色人種大虐殺とそれを隠蔽する日本の売国マスコミ

 毎年、敗戦記念日前後。この時期の日本のマスメディアは、『アジアを侵略した日本は反省しろ』という自虐キャンペーンを張るので、うんざりです。
 
 つい先程も、うっかりとザッピング中にNHK(通名)こと中国中央电视台日本支局(本名)の番組に突き当たってしまい、やはりというか、一瞬見ただけで内容が分かる反日番組をやっていて、すぐにチャンネルを切り替えたものの、あまりの愚劣さにとても気分が悪くなったところなのです。

それはそうと、以前、当ブログで、アメリカ=ライフ誌1944年5月22日号における、日本兵の頭蓋骨を送ってくれた米兵に礼状を書くガールフレンドの記事とその写真について記事を書きました。


 鬼畜米英って本当に『うそ』だったの?(上) 【ファイルH15】2008.08.14 ↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/44070110.html

 『日本兵の頭蓋骨を送ってくれた米兵に礼状を書くガールフレンドの写真』を再掲します。





実は、私はこの記事の英文で誤訳をしていたのです。


(原文)
When he said goodbye two years ago to Natalie Nickerson, 20 a war worker of Phoenix, Ariz., a big, handsome Navy lieutenant promised her a Jap. Last week Natalie received a human skull, autographed by her lieutenant and 13 friends, and inscribed:

"This is a good Jap - a dead one picked up on the New Guinea beach."

Natalie, surprised at the gift, named it Tojo. The armed forces disapprove strongly of this sort of thing."

(私の意訳)
大きくて、素敵な海軍中尉は、2年前にアリゾナ州フェニックスの勤労動員従事者ナタリー・ニッカーソン(20歳)と離別したときに、『ジャップ』を彼女に約束しました。
先週、ナタリーは、中尉と13人の友人のサインが寄せ書きされた人間の頭骸骨を受け取りました:

「これは状態の良い『ジャップ』です-ニューギニアビーチで死んだのを拾ってきました」

サプライズな贈り物にナタリーは、それを『東条』と命名しました。軍隊は強くこのような行為を戒めています。

↑私は、この“good Jap”という意味が分からず、「(頭蓋骨の)状態の良い『ジャップ』」と訳したのです。ところが、この“good Jap”には、鬼畜にも劣る残虐非道な意味が込められていたのです。


みなさんは“The only good Indian is a dead Indian.”「唯一の良いインディアンは死んだインディアンだ」という言い回しをご存じですか?


“The only(唯一の)”と強調されているので、生きているインディアンは全員悪いインディアンで、白人に殺されて死んだら白人に逆らうことができなくなるので、かろうじて、やっとこさ善人になれるという意味です。

だから、白人がインディアンを殺すということは、悪人のインディアンを善人にしてやる善行を施したことになるのです。


これって、サリン・テロを始めとした大量殺人を犯しておきながら、自らの行為を正当化したオウム真理教と同じ理屈ですよね。


オウム真理教を信じない連中は、このままだと地獄に落ちる。だから、殺して(『ポア』して)、その魂の煩悩を浄化してやると、やっとまっとうな人間として輪廻転生できる。そして『ポア』を実行した信者はそれだけ善行を積んだことになり、成仏に近づけるとして正当化したのですね。教祖の麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚や一部幹部以外はマトモにこれを信じていたのです。


この“The only good Indian is a dead Indian.”という言葉は、コマンチ作戦 (1867-1875) ミズーリ方面軍の指揮官フィリップ・シェリダン少将【Philip Henry Sheridan, 1831年3月6日 - 1888年8月5日】が1868年から69年の冬季作戦行動を指揮し、コロラド州、カンザス州、ニューメキシコ州およびテキサス州の境界地域に散在するコマンチ族やカイオワ族などのインディアン部族の掃討を企図した際に発せられた言葉とされています。

 

シェリダン自身は、この発言を誤解だと否定する声明を出したようですが、その真偽が不明にもかかわらず、これ以降、この言葉は、白人による有色人種虐殺を正当化する言葉として、使われ続けてきたのです。


それで、大東亜戦争【アメリカを含む英語圏では一般的に『Pacific Ocean theatre of World War II=第二次世界大戦太平洋戦域』と呼ばれる】においては、“The only good Indian is a dead Indian.”の“Indian”が“Jap”に置き換わって


“The only good Jap is a dead Jap.”「唯一の良い日本人野郎は死んだ日本人野郎だ」になったのですね。


ですから、このような歴史的背景を持つ言葉を知らなかったら、“good Jap”の意味が分かるはずがないのです!


つまり、ライフの記者も、日本兵の頭蓋骨をお土産に送った米兵も、その頭蓋骨に『東条』と名付けて令状を送ったガールフレンドも、ライフの読者も、全アメリカ国民も、“The only good Jap is a dead Jap.”という言葉のもとに、日本人の虐殺を正当化し、“good Jap”が『死んだジャップ(日本人野郎)』という意味だと知っていたということです。


これこそまさしく『鬼畜の所業』です。


ですから、『鬼畜米英』というのは、米英人に対する冷静且つ客観的な定義に過ぎず、決して軍人に騙されて狂気・錯乱状態になった日本国民の米英人に対する罵倒語ではないのです。

ということで、以前の記事の誤訳を訂正の上、お詫びいたします。


アメリカは東京大空襲という名の東京大虐殺および、主要都市で非戦闘員=民間人の大虐殺という戦争犯罪を計画的に実行し、広島長崎原爆投下という人体実験虐殺まで行いました。


大東亜戦争の戦没者は約310万人。

そのうち戦死した戦闘員は約230万人ですが、虐殺された非戦闘員=民間人は約80万人です。(厚生労働省)


 ちなみに、アメリカの英雄、リンドバーグ氏がアメリカ兵の日本兵に対して行った鬼畜の如き残虐非道な所業を告発したということを書いた記事はこちら。↓

 鬼畜米英って本当に『うそ』だったの?(下) 【ファイルH16】2008.08.14 
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/44070231.html

どうして、日本のマスメディアは、当時のアメリカ人の戦争観に関するこういった基本的で重大な史実は隠蔽して、特定アジア人や反日日本人のウソ、デマカセばかり報道するのでしょう?


麻生副総理の片言隻句(へんげんせっく)を国家社会主義ドイツ労働者党の肯定だと曲解してまで批判するメディアが、かつて歴史上最悪にして最大の虐殺を行った毛沢東をいただき、日本の尖閣諸島侵略を虎視眈々と狙い、現在もリアルタイムで虐殺を行っている中華人民共和国共産党を肯定する政財界人、官僚、そしてメディア自身の進退を全く問わないのが私には不思議でなりません。

そういえば、2009年12月10日から12月13日までこの大虐殺独裁国家へ送り込まれた国辱的大朝貢使節団である、小沢一郎民主党幹事長を名誉団長とする民主党議員143名と一般参加者など483名で構成された、いわゆる『小沢訪中団』の人達は、全く進退を問われませんでしたよね。


毛沢東が、虐殺も含め死に至らしめたのは、一説によると未曾有【『みぞうゆう』、おっと失礼、じゃなくて『みぞう』】の7000万人。あのスターリン、ヒットラーでさえ足元にも及ばない、歴史上最大最悪の大虐殺者です。

 その内訳は、大躍進4000万人、文化大革命1000万人、国共内戦1000万人、富裕層処刑200万人、その他800万人。

それから、バラク・フセイン・オバマ・ジュニア大統領が就任したとき、『原爆投下を指示したハリー・S・トルーマンと日本を開戦に追い込んだフランクリン・デラノ・ルーズベルトを生んだ狂気のアメリカ合衆国民主党』を熱狂的に大絶賛した人達の進退って問われましたっけ?


 私には日本の政財界人、官僚、マスメディアの人達の頭脳構造がどうなっているのか、理解できません。

 日本国のために、そして大東亜の開放のために戦死された英霊の方々及び、虐殺された非戦闘員の方々、すなわち今の日本の礎となられた方々に対する敬意と感謝と哀悼の意をここに表させていただきます。

上野動物園のミーアキャットさんだよ 【ファイルC268】2013.08.11 

【ファイルC268】2013.08.11 上野動物園のミーアキャットさんだよ

ちゃんと立ってくれたねえ。ついでにクララも立ったねえ。

上野動物園のミーアキャットは再訪です。

 ミーアキャットというのは、巣穴のそばに立って日光浴をするのが有名なのですが、以前観に来たときは、全然立ってくれなかったのです。

 それで、小学校低学年とおぼしき男の子が、呪いの言葉のように『たて~~~たて~~~』と暗い声で不気味につぶやいていたのに、この子の呪いの修行が足りなかったのか、結局のところ、全く立ってくれませんでした。

 それで、今回もダメもとで訪れました。

 こうやって見ると、なんか普通の狸さんみたいだねえ。









 ミーアキャットのいう名前から、私はタモリさんのモノマネする名古屋のヒトのようにみゃあみゃあ鳴く猫さんだと思っていました。

 この人達の和名は、ミーアキャットまたは、スリカータ。
 英名のスペルだとMeerkatまたはSuricate。

 ミーアキャットは、Meer『kat』で、Meer『cat』でないから猫と関係ないのかな?と思ったらば、英名はオランダ語で「Meerkat」と名付けられたところに由来していて、「Meer」は湖、「Kat」は猫で『湖の猫』なのだそうです。

 しかしながら、なぜ『湖の猫』と名付けられたかは明らかになっていません。
 魔法使いに猫にされたお姫様が湖の畔に穴を掘って、お腹を突き出して日向ぼっこりしても様にならないねえ。

 『湖の猫』だから、猫の仲間かと思いきや、哺乳綱ネコ目(食肉目)ではあるのですが、マングース科マングース亜科スリカータ属なので、ミーアキャットは猫さんじゃなくて、マングースさんの仲間なのでした。

ミーアキャットさんは猫の仲間ではなくて、沖縄でハブと決闘するマングースさんの仲間だったんだねえ。


 人は見かけによらないねえ。と思っていたらば、思いの外あっけなく立ってくれたよ。





 こんにちは。





 優しいお顔立ちだねえ。

 地下のトンネルに暮らしていて、見張りのために立つ習性があるというのは、以前ご紹介したプレーリードッグさんに似ているねえ。

上野動物園のオグロプレーリードッグさんの記事はこちら。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/50672202.html

神戸市立王子動物園のプレーリードッグさんの記事はこちら。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/49623418.html

 プレーリードッグさんもドッグだけどワンちゃんではありません。ネズミ目(齧歯類)リス科プレーリードッグ属の動物です。そこのところもミーアキャットさんに似ていますね。

ミーアキャットさんが立つのは、周りを監視したり、日光浴をするためです。

 野性では巣穴のそばで何匹ものミーアキャットがみんな同じ方向を向いて立っている情景も見られますが、これは太陽に向かって、ぽんぽこおなかを暖めているためなのだそうです。日向ぼっこりが好きなんだねえ。

 ここのミーアキャットの人達は、大サービスで次々立ってくれるのですが、やはりずっと立っているのは辛いらしくて、まるでモグラ叩きのように立ってはしゃがみます。だから、写真を撮るのに右往左往。

 普段は普通に四つん這いです。





 時々、気まぐれに立ってくれます。





 後ろ姿は達磨さんみたい。





 ミーアキャットさんのお住まいは、南アフリカ、アンゴラ、ナミビア、南ボツワナの乾燥地帯です。灼熱のアフリカなのに、暑い思いをしてまで日向ぼっこりするんだねえ。

 体の大きさは、頭胴長25~35cm、尾長17~25cm、体重626~797gです。

 ミーアキャットは乾燥した平原に生息しています。高度な社会性をもち、ふつう2~3家族、合計10~15頭で生活しています。

 家族は夫婦とその子どもで構成されます。群れはたえず鳴き交わし、排泄も共有のトイレでおこないます。

穴を掘るのが得意で、地下のトンネルを巣穴にしています。

 ミーアキャットの群れは複数の巣穴を利用して、それぞれを行き来するのです。

 巣穴はトンネルと部屋が連なる大規模な構造となっていて、アフリカの灼熱の下でもひゃっこい涼しさを保っているのです。

 レッサーパンダの風太君に限らず、大抵の動物は敵を警戒するために立つことが多いのですが、ミーアキャットさんも日光浴だけが目的ではなく、うしろ足で立ち上がり周囲を警戒するのです。また、お母さんが立ったまま子どもにお乳を与えることもあるんだって。

常時グループ内の数匹は上空を見張り、天敵である鷲や鷹などの猛禽類(もうきんるい)に注意を払います。

 上野のミーアキャットさんも、室内にお住まいなのに、お空の警戒に余念がありません。





 室内のここに、猛禽類が飛んでくることは永久になかろうにねえ。

 天敵を見つけた見張り役は、鋭く甲高い音を発し、それを合図にみんな急いで巣穴に退避するのです。

 通常は数匹の個体がグループが見はって、その間、残った人達がエサをあわただしく食べます。

 主なエサは、ヤスデやクモなどの虫や、ヘビ、トカゲ、鳥、などの小動物や卵、果実等で、ヘビや小型の鳥を捕えるときは、ゴロゴロとノドを鳴らす音でコミュニケーションをと取りながら協力して狩りを行います。

 上野動物園ではミールワーム、鶏肉、馬肉、バナナ、リンゴ等をあたえているそうです。

 ミーアキャットさん達は狩りが上手く、その優秀なハンターとしての腕を見込まれて、齧歯(げっし)動物の捕獲のために人工飼育されることもあるほどです。

 日中に活動し、日の出と共に活動を開始して、日の入りと共に巣に戻に戻るという、江戸時代のお百姓さんのような健康的な生活を営んでいます。人間もこうありたいものだねえ。

 メスは、巣穴で年に1度、2~4匹の子どもを産みます。

 オスや若いミーアキャットが育児を助け、遊び方やエサの探しかた、常に上空にある危険への警戒の仕方を教えるんだって。偉い人達だねえ。

 経験が未熟で若いミーアキャットは、鳥を極度に怖がるので、飛行機が上空を飛んでも、巣穴にスタコラ逃げ出してしまうそうです。

 だらりと下に垂らした手が、円谷怪獣のピグモンさんみたいだねえ。





 またまた上空を見上げます。





 立つのはやはり疲れるので、最後に腰を下ろしてご挨拶。





 さようなら、元気でね。

 ということで、上野の人気者ミーアキャットさんでした。機会があったら、会いに行ってあげてね。可愛いよ。

福沢諭吉さんの生誕地跡だよ(その3) 【ファイルT194】2013.08.07 

【ファイルT194】2013.08.07 福沢諭吉さんの生誕地跡だよ(その3)

齋藤孝氏は何故福澤諭吉さんが『中華思想』差別と『四つ足の畜類』差別を批判したという事実を隠蔽する?

第一回から読まれる方は、はこちら。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/54253241.html

そもそも『学問のすすめ』自体が、旧弊な封建主義差別のプロテストの書でもあるので、『中国』の名のもととなった『華夷秩序(かいちつじょ)』に基づく『中華思想』は最も憎むべきものであり、しかも、福沢諭吉の時代には『支那』と呼ばれていた国のことを『中国』と呼ぶなんて、時代錯誤も甚だしい、悪意のある捏造改竄(ねつぞうかいざん)です!


私は、メディアがキャンペーンをはっている『支那という呼称は差別語だ』というのが大嘘だと言うことを分かっていました。『学問のすすめ』で福沢諭吉が『支那』と呼んでいるのを知っていたからです。

封建的差別を憎んでいた福澤諭吉さんが『支那』と呼んでいる以上、『支那』が差別語であるはずがないからです。

慶應義塾の在学生、卒業生の人達は、あなたがたの福澤諭吉先生を『支那という差別語を使った差別主義者』と上から目線で決めつけ、勝手に『中国』に改めるという無礼を働いた東大出の明治大学文学部教授齋藤孝氏に断固として抗議すべきです!


それにしても、福沢諭吉さんの『反封建思想』と『時代考証』をねじ曲げてまで、『支那』という歴史的呼称を『中国』という語に改竄する齋藤孝氏というのは一体どういう了見なのでしょう?

この人、『声に出して読みたい日本語』という本がベストセラーになって有名になった人だと記憶しているのですが、齋藤氏にとって『支那』という呼称は『声に出して読みたくない差別語』にしたい、中華人共和国共産党のプロパガンダ(政治宣伝)のお先棒担ぎの反日日本人なのでしょうね。まあ、マスメディアでちやほやされるということは、とどのつまり、そういうことなのです。


 清代後半になると、近代化を果たした欧米諸国の圧倒的国力が中国周辺にも波及し、清は諸外国と対等な国際社会の一員として近代国民国家としての名称を名乗る必要が生じてきました。

そういった近代的な主権国家=国民国家の概念での『中国』という国名が使われたのは、1842年阿片戦争の敗北で清朝がイギリスと結んだ南京条約で、漢文の「中国」が使われた事例が最初なのです。


1689年に調印されたネルチンスク条約では、清朝の外交使臣が自らの身分を称する時に、「中国」という用語を『満州語』で使いましたから、漢字で『中国』と表記なんて南京条約よりずっと後なのです。

かたや、『学問のすすめ』の初編 が発行されたのは、1872年(明治5年)2月ですから、日本において、支那を近代国家として『中国』と呼称するという発想は定着しておらず、福沢諭吉が支那のことを『中国』と呼ぶはずがないのです。


中国人と訳していますが、ここは絶対に支那人でなくてはならないのです。


それから同じ文章で、もう一つの許せない改竄があります。

岩波版では『四足にてあるく畜類のやうにこれを賎しめこれを嫌ひ』になっている箇所。

ところが、齋藤孝氏の現代語訳という名の改竄では、この部分が『動物のように扱い、これを嫌い』に、

つまり齋藤先生が現代語に訳すと、『四足にてあるく畜類』 が『動物』に、『賎(いや)しめ』が『扱い』になるのだそうです!


あのですね。福澤諭吉さんは、旧弊な封建的差別を嫌っていました。だから、『四足にてあるく畜類』を不浄として忌み嫌う差別的偏見を憎んでいました。


 その証拠に、福澤諭吉さんは若い頃から平気で四足の肉を食べていたのです。福澤さんの自叙伝である『福翁自伝』(講談社学術文庫)のP69には緒方洪庵の適塾生時代の様子がこう書かれています。

 ※    ※    ※

 さてその飲みようも至極お粗末殺風景で、銭の乏しい時は酒屋で三合か五合買って塾中でひとり飲む。それから少し都合のよい時には一朱か二朱もってちょいと料理茶屋に行く、これは最上の奢(おご)りで容易に出来かねるから、

まずたびたび行くのは鶏肉屋(とりや)、それよりモット便利なのは牛肉屋だ。

そのとき大阪中で牛鍋(うしなべ)を喰(く)わせるところはただ二軒ある。一軒は難波橋(なにわばし)の南詰(みなみづめ)、

一軒は新町の廓(くるわ)のそばにあって、最下等の店だから、人間らしい人で出入りする者は決してない。文身(ほりもの)だらけの町のごろつきと緒方の書生ばかりが得意の定客(じょうきゃく)だ。どこから取り寄せた肉だか、殺した牛やら病死した牛やらそんな事には頓着(とんじゃく)なし、一人前百五十文ばかりで牛肉と酒と飯と十分の飲食であったが、牛はずいぶん硬くて臭かった。


 ※    ※    ※(引用終わり)

つまり、福澤諭吉さんの頃から学生は蛮カラなのでした。それにしても、『町のごろつき』と『緒方の書生』を同格にならべるなんて、福澤さんは偉いねえ。


 それどころか、さらに、同書P73にはこう書かれています。

 ※    ※    ※

 豚を殺す

 あるとき難波橋(なにわばし)のわれわれ得意の牛鍋屋(うしなべや)の親爺(おやじ)が豚(ぶた)を買い出してきて、牛屋商売であるが気の弱い奴で、自分に殺すことが出来ぬからといって、緒方の書生が目指された。

 それから親爺に逢って、「殺してやるが、殺す代わりに何をくれるか」-「さようですな」-「頭をくれるか」-「頭ならあげましょう」それから殺しに行った。

 こっちはさすがに生理学者で、動物を殺すに窒塞(ちっそく)させればわけはないということを知っている。幸いその牛屋は河岸端(かしばた)であるから、そこへ連れて行って四足を縛って水に突っ込んですぐ殺した。そこでお礼として豚の頭を貰(もら)って来て、奥から鉈(なた)を借りて来て、まず解剖的に脳だの眼だのよくよく調べて、さんざんいじくったあとを煮て喰ったことがある。

これは、牛屋の主人からえたのように見込まれたのでしょう。


 ※    ※    ※(引用終わり)
 

福澤先生は人間は平等だと思っているから、自分が当時の被差別階級だった『穢多(えた)』と思われても全然平気だったのです。

 

ちなみに、牛肉食のススメである仮名垣魯文(かながきろぶん)の『牛店雑談(うしやぞうだん)安愚楽鍋(あぐらなべ)』は明治4~5(1871~72)年刊です。


『学問のすすめ』の初編 が発行されたのは、同時代の明治5年(1872)2月ですから、四つ足不浄差別の払拭、牛肉食の奨励にこの二書が大きな影響を与えたのに違いないのです。


『牛店雑談(うしやぞうだん)安愚楽鍋(あぐらなべ)』
○西洋好(すき)の聴取 (きゝとり)より引用





 ※    ※    ※

 「モシあなたヱ牛(ぎう)は至極高味(しごくかうみ)でごすネ此肉がひらけちやアぼたんや紅葉(もみぢ)はくへやせんこんな清潔なものをなぜいままで喰(く)ハなかつたのでごウせう

 西洋(せいやう)では干六百二三十年前から専(もつぱ)ら喰(く)ふやうになりやしたがそのまへハ牛や羊(ひつじ)はその国の王か全権(ぜんけん)と号(い)ツて家老(かろう)のやうな人でなけりやア平人の口へは這(は)入りやせんのサ追々(おひおひ)我国も文明開化(ぶんめいかいくわ)と号(い)ツてひらけてきやしたから我々(われわれ)までが喰(く)ふやうになつたのは実にありがたいわけでごス

 それを未だに野蛮(やばん)の弊習(へいしう)と云(い)ツてネひらけねへ奴等(やつら)が肉食(にくしょく)をすりやア神仏(しんぶつ)へ手が合(あは)されねへのヤレ穢(けが)れるのとわからねへ野暮(やぼ)をいふのは究理学(きうりがく)を弁(わきま)へねへからのことでげス

そんな夷(ゑびす)に福澤(ふくざは)の著(かい)た肉食(にくしょく)の説(せつ)でも読(よま)せてへネモシ西洋(せいやう)にやアそんなことはごウせん・・・・



 ※    ※    ※(引用終わり)

上記にある『福澤(ふくざは)の著(かい)た肉食(にくしょく)の説(せつ)』というのは、福澤諭吉が明治3(1870)年に腸チフスにかかり牛乳を用いて回復した後、牛乳を提供した築地牛馬会社のもとめに応じて書いた宣伝文で、肉食の効用を説いたものなのです。つまり、仮名垣魯文の牛肉食のすすめである『安愚楽鍋』にも、福澤諭吉さんは大きな影響を与えたのです。


冗談じゃありません。『学問のすすめ』から『四つ足』という言葉を狩ったら、福澤諭吉さんが『四つ足不浄差別』、『穢多(えた)差別』に異議申し立てをしていた事実も、文明開化時の、日本のスキヤキブームの風俗的な時代背景も分からなくなってしまいます。

 齋藤孝氏は、福澤諭吉さんの思想よりも、マスコミ界における自分の保身が大切なとんでもない学問と無関係な俗物なのでした。

学問と無関係な俗物が『学問のすすめ』の現代語訳という名の捏造改竄するという皮肉な現象を目の当たりにするに付け、現代がいかにイカサマで、欺瞞に満ちた時代かと言うことが分かろうというものです。


【追記】

齋藤先生って、朝鮮焼酎広告で数度に亘り『日本海(東海)』と併記したあげく「ふ~んわいりわりい」と開き直り、『クレヨンしんちゃん』著作権問題や、上海万博テーマソングにおける日本楽曲盗用問題で揉めている最中に日本の名曲をわざわざ支那語に訳して歌ったパクリ奨励CMを流し続けた

特定アジアのエージェントS社のサプリメント広告で小銭稼ぎ(大銭稼ぎ?)をなさっていたのですね。道理で・・・。納得しました。

↓↓齋藤先生のS社東大自慢広告の、詳細記事はこちら↓↓

福沢諭吉さんの生誕地跡だよ(その2) 【ファイルT193】2013.08.07 

【ファイルT193】2013.08.07 福沢諭吉さんの生誕地跡だよ(その2)

現代語訳という名の歴史改竄!何故そこまで支那に媚びなきゃならない?

前回は福沢諭吉さんの生誕地と、『学問のすすめ』では諭吉さんは『天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず』なんて言っていないというお話しをしました。


 それで、私がもともと持っていたのは岩波文庫版です。





 ところが、この本は格調高いと言えば聞こえは良いのですが、旧字体でしかも漢字にフリガナ(ルビ)がふっていないのです。

 再読しようにも、そのへんがしんどいのです。

 それで、福澤諭吉さんの生誕地跡に行ったこともあって、じゃあ大意だけでもつかめればいいので現代語訳でも読んでみるかと思って、評判でこの出版不況時に10万部突破したという齋藤孝氏の読んでみてびっくり!

現代語訳ということを良いことに、とんでもない改竄・捏造がされているのです。

『現代語訳 学問のすすめ』福澤諭吉 齋藤孝=訳(?)






 初編の岩波版P14で諭吉先生は、日本が外国と付き合うにあたっての心構えについてこう書きます。

 岩波文庫版の叙述ではこうなっています。(変換できない字は現代の字にしています)

 ※    ※    ※

 『(前略)日本とても西洋諸国とても同じ天地の間にありて、同じ日輪に照らされ、同じ月を眺め、海を共にし、空氣を共にし、情愛相同じき人民なれば、こゝに余るものは彼に渡し、彼に余る物は我に取り、互に相教へ互に相学び、恥ることもなく誇ることもなく、互いに便利を達し互いに其幸を祈り、天理人道に従って互いの交を結び、理のためには「アフリカ」の黒奴にも恐入り、道のためには英吉利、亜米利加の軍艦をも恐れず、国の恥辱とありては日本国中の人民一人も残らず命を棄てゝ国の威光を落さざることこそ、一国の自由独立と申すべきなり。』

 【それで、反面教師として、こうならないようにという例を挙げます。】

『然るを支那人などの如く、我国より外に国なき如く、

外国の人を見ればひとくちに夷狄(いてき)々々と唱へ、四足にてあるく畜類のやうにこれを賎しめこれを嫌ひ、

自国の力をも計らずして妄(みだ)りに外国人を追払はんとし、却て其夷狄に窘(くるし)めらるゝなどの始末は、実に国の分限を知らず、一人の身の上にていへは天然の自由を達せずして我儘放蕩(わがままほうとう)に陥(おちい)る者と云ふべし。』

 ※    ※    ※

 ところが、齋藤孝氏の現代語訳(?)P15では、ここがこうなっています。

 ※    ※    ※

『中国人のように、自国よりほかに国がないように思い、

外国人を見れば「夷狄夷狄(いてきいてき=野蛮人め!)」と呼んで動物のように扱い、これを嫌い、

自分の力も客観的に把握せずに、むやみに外国人を追い払おうとして、かえってその「夷狄」に苦しめられている〔アヘン戦争など〕という現実は、まったく国として身のほどを知らないところからきていいる。個人の例で言えば、自由の本質をわきまえないでわがまま放題におちいったものといえるだろう。』

 
 ※    ※    ※

日本はこの頃、支那のことを中国なんて呼んでいないのです。


 清朝の支那という意識しかなかったのです。

 しかも、清朝というのは満州族(女真族)の支配する漢民族とは関係がない国だったのです。

福沢諭吉が支那のことを中国なんて言うわけがないのです!


例えば銭形平次が『江戸八丁堀』のことを『東京八丁堀』のと呼ぶはずがないように。


 諭吉にとって、『中国』とは、広島岡山鳥取島根山口の一体のことをさします。あと、山鹿素行の『中朝事実』に従えば、『中国』とは『中つ国(なかつくに)』である『日本』を指すはずです。

諭吉が書いた『支那』は『支那』なのであって、断じて『中国』ではないのです。歴史的文書の現代訳での歴史的呼称の言い換えは犯罪的な捏造改竄(ねつぞうかいざん)です。


それは、あとの「夷狄夷狄(いてきいてき)」という言葉が表す差別意識にも繋がるのですが、支那人は古来より中華思想という支那の文明の及ぶ首都以外の生物学的なヒト=ホモ・サピエンスに対して、やっかいで強固な差別意識を持っていました。


支那の歴代皇朝は、自らが人類で唯一の皇帝であり、それ以外は中華世界における辺境に過ぎないという態度を取っていました。対等な国が存在しないのだから、対等な外交関係は存在せず、周辺民族との関係は全て朝貢という形式となるのです。



支那の属国は朝貢の際に『三跪九叩頭の礼(さんききゅうこうとうのれい)』という屈辱的な行為を強要されます。

 
「跪(き)」の号令で跪(ひざまづ)き、
「一叩(または『一叩頭』)」の号令で手を地面につけ、額を地面に打ち付ける。
「二叩(または『再叩頭』)」の号令で手を地面につけ、額を地面に打ち付ける。
「三叩(または『三叩頭』)」の号令で手を地面につけ、額を地面に打ち付ける。
「起」の号令で起立する。
これを計3回繰り返すので、合計9回、「手を地面につけ、額を地面に打ち付ける」ことになるのです。

こういう考え方を華夷秩序(かいちつじょ)といい、これに基づいた体制を冊封体制(さくほうたいせい)といいます。


それで中華思想による呼称の『中国』は、西戎(せいじゅう)、東夷(とうい)、南蛮(なんばん)、北狄(ほくてき)といって、自分達人間の住む都(みやこ)以外は妖怪・化け物・魑魅魍魎のたぐいが住む異界だったのです。したがって、「夷狄夷狄(いてきいてき)」というのは、東夷(とうい)・北狄(ほくてき)のことですから、支那人以外を見下した表現なのです。

だから、孫悟空の出てくる西遊記なんかは、唐の城壁都市である長安の都を出た途端に妖怪・化け物・魑魅魍魎(ちみもうりょう)のたぐいに襲われるのです。


『中国』というのは支那人の皇帝や中央官僚が自分たち『人間』の住む都会のことを中華と見なし、『俺様たち人間の住むところ』=『中国』と威張って呼ぶことはあっても、当時の日本人が支那のことを中国なんて言うことはありえないのです。

 
 ですから、いまだに中華人民共和国は都市と農村部の戸籍が別で、『盲流(もうりゅう)問題』というのが存在するのです。

 中華人民共和国では元来戸籍に「農業戸籍」と「都市の戸籍」の二種を分けて、人口移動を厳しく制限していたため、国営企業しか存在しない純粋な共産主義だった改革開放前には大きな人口移動は起こらなかったのですが、経済の自由化によって農民にとっての戸籍の重要性が低下すると、内陸部の人々が政府の許可無く沿岸部に職を求めて移動するようになったのです。これを盲流というのです。
 盲流によって都市部に流れた移住者を「民工」と呼ぶようになり、80年代後半以降、移動の人口が都市部での雇用需要を上回り、都市部に出たものの仕事に就けない者も現れます。
 2005年の時点で1.5億の民工がいるものと推測され、主に建築業、採鉱業、第三次産業および労働力密集型産業に従事しているのですが、低い賃金、劣悪な労働環境の下、いまだに差別貧困の問題を抱え支那の政情の不安定要因として問題になっているのです。

つまり『中国』という呼称のもとになった『中華思想』という差別思想は、まだ生きている現代的問題でもあるのです。


そんなバカバカしい国の冊封体制に組み込まれた属国はいやだから人類唯一の『皇帝』であるという夜郎自大な誇大妄想を持った支那の皇帝に対抗して日本は『天皇』をいただいているとし、支那の冊封(さくほう)から脱したのが聖徳太子。

有能な人材を遭難の危機を冒してまで汚職腐敗した鮮卑(せんぴ)系の皇帝の唐に派遣し、帰った留学僧がいっぱしの支那風を吹かした官僚になるのが有害だと、遣唐使を廃止して、書物等の文物だけを輸入した学問の神様菅原道真。


つまり、『中華思想に基づく中国』という名称は他国を差別する究極の差別語ですから、封建的差別を憎んだ福沢諭吉が支那のことを中国なんて呼ぶわけがないのです。


しかも、外国を『狄(いてき)々々と唱へ』と支那人を批判しているのですが、その批判のターゲットは『中華思想』なのですから、支那のことを『中国』なんて捏造改竄したら、福沢諭吉さんが化けて出ます!


 ということで、現在のところお勧めの『学問のすすめ』は講談社学術文庫版かな?

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