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大阪北浜の大阪証券取引所ビルだよ。 【ファイルT203】2014.01.28 

【ファイルT203】2014.01.28 大阪北浜の大阪証券取引所ビルだよ。

前身の大阪株式取引所の発起人、五代友厚像が建っているねえ。

 前回は五代友厚さんについて記事にしました。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/54717262.html

前身である大阪株式取引所の発起人、五代友厚像が建っている大阪証券取引所ビル(再掲)。






本体は背後に見えている地上24階の高層ビルなのですが、正面の特徴のある円筒型エントランスホール『アトリウム』は、昔の外観を今に留めています。






大阪証券取引所ビル

用途事務所、店舗
設計者三菱地所設計、日建設計
施工竹中工務店、大林組、その他JV
建築主平和不動産
敷地面積4,721 m²
延床面積53,932 m²
階数地上24階・地下2階
高さ116.8 m
着工2002年5月22日
竣工2004年12月1日

それで、今回は、円筒型の旧市場館について御紹介しましょう。

円筒型の旧市場館は昭和10(1935)年長谷部竹腰建築事務所の設計で竣工。施工:大林組

 構造・規模:鉄骨鉄筋コンクリート造6階建、地下2階

(大阪名所)水都難波橋畔に聳(そび)ゆる大阪株式取引所の偉観(『絵ハガキ帖』より)






大阪証券取引所ビルは、江戸時代の寛保3(1743)年に大坂高麗橋筋から移ってきた金相場会所【きんそうばかいしょ:主に金為替・銀為替の売買を行うために大坂に設置された取引所。ここでの交換比率が標準相場となった】以来、大阪経済の中心であり続ける北浜(きたはま)のシンボルです。

明治11年(1878)。大阪株式取引所の創立・取引開始から約130年。大阪証券取引所と、その名を変えながら、広く親しまれてきました。

 株式会社大阪証券取引所(おおさかしょうけんとりひきじょ、英語:Osaka Securities Exchange Co., Ltd.)は、株式会社日本取引所グループの子会社で金融商品取引所です。

東京証券取引所、名古屋証券取引所と共に、日本の「三市場」の一つで、略称は大証(だいしょう)です。

大阪証券取引所は、所在地の大阪府大阪市中央区北浜一丁目にちなんで『北浜(きたはま)』とも呼ばれ、東京証券取引所の日本橋の『兜町(かぶとちょう)』と並び称されていました。

白亜の円筒型のレトロな建物は北浜のランドマーク的存在で、付近には多くの証券会社が立ち並んでいます。

この建物の建て替えにあたっては、建物を所有する平和不動産(株)と設計者、証券界の代表者や商業コンサル、そして、学識経験者で構成された委員会によって昔の姿をいかに留めるか、計画について検討されました。

大阪の人達の大きな思いが、どれだけこのビルにこもっているかが分かります。

その結果、正面玄関にあたる円筒型の旧市場館部分をオリジナルのまま残し、その他の部分は新たに立て替え、オリジナルの部分と背後の高層部分は視覚的に切り離し、旧市場館の姿が以前と違和感のないものになるよう設計されました。

建物正面から、五代友厚さんの銅像の背中が見えます。






円筒型のドーム屋根が特徴的です。外壁は当時のものが保存されています。






実は、元の外壁部分は、経年で微妙に傾いていたので、新築高層ビルとの接合部もその角度に合わせて造られたそうです。

窓枠の金属格子の模様も綺麗です。昔の写真から推測して復元されたそうです。










大阪証券取引所のプレートです。






旧市場館正面玄関から中に入ります。






旧市場館玄関ホール『アトリウム』の床です。






 使用された新しい石張りは、オリジナルと同じ産地から取り寄せ、目地幅も同じに合わせたというこだわりです。

『アトリウム』の壁面の曲線と大きなステンドグラスの窓が美しいねえ。






 アトリウムのシャンデリアや既に失われていたディテールも昔の写真から推測して復元されたということです。

 ホールの明るさに露光を合わせて撮影すると、ステンドグラスの模様が光って飛んでしまいます。

ステンドグラスに露光を合わせて撮影します。ステンドグラスはオリジナルの再利用です。










アトリウムのシャンデリアのアップです。






玄関側からアトリウムの奥を臨みます。






玄関から入った1Fアトリウムの左側のエレベーター大証直通エレベーター(2基)です。






エレベーター扉もオリジナルのものが再利用されています。






 このエレベーターに乗って、4階に行くことができます。

 ということで、今回は、大阪証券取引所の建物についてでした。

 次回は、このエレベーターに乗って、4階展示コーナーと5F大証マレットを見学します。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/54769515.html
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エアギターを弾くオオカミさん 【ファイルC278】2014.01.24 

【ファイルC278】2014.01.24 エアギターを弾くオオカミさん

多摩動物公園のタイリクオオカミさんだねえ。

 今回も、以前に多摩動物公園に行ったときの蔵出し記事です。

 今回はタイリクオオカミさんです。

 というか、なんでこの記事を掲載し忘れていたのかな? 

エアギターを弾くオオカミさん。


 




 自己陶酔で完全に自分の世界に入り込んでいます。

うへえ、お客さん、寝ちゃだめだよお!


 




 これが、立川談志師匠なら、「寝るんだったら、帰れ!」って怒っていたところだねえ。

こんにちは。


 




 とっても笑顔が良いねえ。

こっちでは、子オオカミさんがお母さんに甘えんぼ。


 




 以前も書きましたが、『一匹狼』と良く言いますが、オオカミさんは集団生活をする動物です。だから群れの中で序列がちゃんと決まっています。

つまり、オオカミさんの群れはパックと呼ばれ、パックの中の成体のオオカミは全て順位が決まっているのです。

オオカミさんの子孫のワンちゃんが、ご主人様に忠実なのも、ご主人様が最上位の順位にいると思っているという性質を利用しているのですね。

 最も高い順位のオスをアルファオス、同じく最も高い順位のメスをアルファメスと呼びます。
  
 アルファオスとアルファメスがつがいになって子供を産みます。出産期は春で、一回に一頭から十一頭、平均六頭産まれます。

 子供が産まれるのは、土に掘った巣穴の中です。子供は五週間ほど母親の乳を飲んで育ち、秋の初めくらいになるとパックの成体達に混じって、狩りに出かけられるようになります。

狩りは集団のチームプレイで行いますから、その中での経験が大切なのですね。

 ですから、オオカミの群れの絆はとても強くて、狩りや子育ては群れ全体で協力して行なわれます。イクメンどころではなくて群れで育てて、絆が強くなるのですね。

大人のオオカミさんは、やっぱり凛々しいねえ。


 




 でも、野生の狼さんはペットではありません。あくまで野生動物だから、とても厳しい掟があります。

ここ多摩動物公園のオオカミさんはタイリクオオカミさんです。

お住まいは、ヨーロッパ中部~北部、シベリアです。

人間のペットとして、また猟犬や橇犬、番犬、救助犬として親しまれているイエイヌは1万5千年以上前にタイリクオオカミを飼い慣らした動物であるという説が有力なのだそうです。

タイリクオオカミ(大陸狼)さんの別名は、ヨーロッパオオカミもしくはハイイロオオカミです。

オオカミさんは大きく分けて、タイリクオオカミさんとアメリカオオカミさんの2種に分けられています。

かつて日本にもいた「エゾオオカミ」と「ニホンオオカミ」はタイリクオオカミさんの亜種です。

 タイリクオオカミさんは、一頭のオスと一頭のメスを中心とする七~十三頭の群れで生活します。

 時には三十頭以上の大きな群れを成すこともあるようです。

 本ブログでは、以前オオカミさんについて記事にしたので、そちらも参照にしてくださいね。

 日本は、シンリンオオカミさんの住んでいる動物園が多いのかな【カナダのオンタリオ州南東部とケベック州南部の小さな範囲に分布】。

 北海道旭山動物園のシンリンオオカミオカミさん。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/47128596.html

 札幌市円山動物園のシンリンオオカミさん。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/47804827.html

 神戸市立王子動物園の白いシンリンオオカミさん、
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/48502083.html


それで、やっぱり、ご飯は骨付き肉に限るねえ。


 




 この辺は、ワンちゃんと同じです。沢山食べて大きく強くなってね。

学研の学習図鑑に載っていそうな、プロポーションが分かりやすい正しいポーズです。


 




 背筋がしゃんとしていて、きっと真面目な人なんだろうねえ。

最後にのんびりこオオカミさんがご挨拶。


 




 ようなら、元気でね。

 イエイヌ=ワンちゃんも可愛いけれど、やはり野性のオオカミを身近に見ることができる動物園というのは、いろんなことを学ばせてくれますね。

 群れで暮らすタイリクオオカミさんを見るなら、多摩動物公園がお勧めだねえ。

マンガ『ひな鳥ひなちゃん』(つくねちゃんシリーズ83~86) 【ファイルMZ41】2014.01.21 

【ファイルMZ41】2014.01.21 マンガ『ひな鳥ひなちゃん』(つくねちゃんシリーズ83~86)


なんかご用?(つくねちゃんシリーズ83)


 




反省ひなちゃん?(つくねちゃんシリーズ84)


 




いたずらすると(つくねちゃんシリーズ85)


 




つくねちゃん大好き(つくねちゃんシリーズ86)


 


四谷から溜池山王までお散歩したよ。(その9) 【ファイルET92】2014.01.17 

【ファイルET92】2014.01.17 四谷から溜池山王までお散歩したよ。(その9)

かつては東京一中と呼ばれた名門。東京都立日比谷高校だねえ

 (その1)から読まれる方はこちら。↓

『ホテルニュージャパン』跡地のプルデンシャルタワーの角を左に折れ、坂道を登ると。


 




そこにあるのが天下の名門校、旧制の『東京一中』で、現在の東京都立日比谷高等学校です。(通用門側)

 
 




昔のエリートコースと言えば、一中(現日比谷高校)一高(駒場にある現東大教養部)東京帝国大学(現東大学本郷キャンパス)法学部を卒業して大蔵省(現財務省)に入省し、官僚のトップの大蔵省事務次官(現財務省事務次官)、国会議員、国務大臣を経て、内閣総理大臣というのが本流でした。


蔦の絡まった校舎が名門校の雰囲気を醸し出しています。

 
 




背後に覆い被さるように建っているのが、前回御紹介した、1982年の大火災で炎上した旧ホテルニュージャパン跡地に建つ『プルデンシャルタワー』。

 前回のプルデンシャルタワーの記事はこちら。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/54689388.html

さっき登ってきた坂を日比谷高校通用門側から見おろします。


 




 この坂には、由来を書いてある説明柱が立っていて、そこにはこう書かれています。

 ※    ※    ※

この坂を新坂(しんざか)といいます。

 新しくできた坂ということでその名がつけられています。明治九年(1876)の地図には道が入っていませんが、同17年(1884)参謀(さんぼう)本部の図では現在に近い道路がみえています。おそらくその頃にできた坂でしょう。

また、別の名を遅刻坂(ちこくざか)ともよばれていますが官庁街にむかう役人、投稿を急ぐ学生がカバンをかかえてかけあがる風景から呼ばれたともいいます。

 ※    ※    ※

 ということで、結構急な坂なのでした。

日比谷高校と言えば、作家の庄司薫(しょうじかおる)さんの『赤ずきんちゃん気をつけて』を始めとした赤白黒青の四部作の舞台になっていて、作品中に70年安保当時の世相が活写されています。

主人公の(かおる)青年は、日比谷高校生で東大志望だったのですが、東大紛争による昭和44(1969)年度の東大入試中止で、その年の受験を諦め、浪人生活を余儀なくされているという設定です。

この時代の若者の気分や当時の世相を知るには絶好の名著です。

 ちなみに、庄司薫さんは、ピアニストの中村紘子さんのご主人です。

それで、『新坂』=『遅刻坂』について、庄司薫さんの著した『さよなら怪傑黒頭巾』には、こういう叙述があります。【中公文庫版P44】

 ※    ※    ※

 ぼくはやがて横断歩道をたった三人の人と一緒に渡り、渡りきったところで右に折れて、まだ工事中の東急ホテルの板囲いに沿ってゆっくりと歩いて行った。

考えてみると日比谷高校ってのは実に変な場所にあるのだ。

国会と山王神社とホテルニュージャパンに三方を囲まれた星陵(ほしがおか)という静かな高台にあるのだが、ちょっと足をのばすとミカドとかムゲンとかいったサイケな「アカサカ」の街と、中川とか長谷川とかいったおなかの出たオジサンたち御愛用の「赤坂」の料亭街があるんだから。

兄貴たちの話だと、昔は地下鉄の駅から出ていくとすぐ、びっしりとツタに覆われた古めかしいお城のような日比谷高校が、高い崖の上にそそりたっているのが見えたそうだが、今じゃこのへんは道の両脇にズラリと大きなビルが立っているから、特にホテルニュージャパンがバッチリ邪魔しちゃって下からじゃ全然見えないのだ。

 ぼくはブラブラと山王ビルの前まで歩いてきてちょっと立ちどまった。ヒルトンへ行くとすれば、まっすぐ行って左に曲がって日枝神社の鳥居をくぐり、山王さんの男坂を登ってからヒルトンへ降りるのが一番きれいで近い道なのだが、なにしろ時間がまだずいぶんとあったわけだ。

 そこでぼくは、ちょっと思い出したことがあって、「ニューラテンクォーター」と「ホテルニュージャパン」の二枚の看板の前まで行って、そこから丁寧に左へ直角に曲り、ブラブラと山王ビルとニュージャパンの間の坂道を学校の方へ登っていった。

きのうクラス会に出るので友達の小林や中村と連れだってやってきてみんなで笑ったのだが、考えてみるとぼくたちは、この遅刻坂って仇名のある坂道をきっと千回やそこらは登っているくせに、およそゆっくりブラブラと登ったためしなんてあまりなかったってわけなんだ。

つまりこの遅刻坂を登る時っていうのは、朝学校へ急いで行く時か、それとも昼休みに(お弁当のあとで)おそばなんかつい食べに出かけて大あわてで帰ってくるといった場合が多いわけで、まあ大ていは、息をはずませてセカセカ登るんだ。

 だからそのコースにしても、「ニューラテンクォーター」と「ホテルニュージャパン」の標識につきあたってから丁寧に直角に左折するなんてことはめったになくて、つい、手前の山王ビルの軒先をかすめて「三角形の斜辺」を行くというタンラク反応を示すことになる。でもぼくはきょうはちゃんと直角に曲がってやったぞ……。

 ぼくはブラブラと遅刻坂を登っていき(実際にこの坂は、上に行くほど急になるような感じの相当な坂で、身体の弱いやつなんかは、途中で一回休んだりするほどなのだ)、それから通用門の鉄柵のくぐりをくぐって学校に入った。

 ※    ※    ※

ということで、この高校は、歴史があって、政官財界はもちろんのこと、各界に多くの人材を送り込んでいます。



文学界で活躍したOBだけをざっとみても、こんな感じです。


幸田露伴(中退) - 小説家、文化勲章 / 家計逼迫にて中退
尾崎紅葉(中退) - 小説家
夏目漱石(中退) - 小説家、英文学者 / 一中を中退して二松学舎へ
山田美妙(1884年) - 小説家、国文学者
川上眉山(1885年) - 小説家
岡本綺堂(1889年) - 小説家、劇作家
武島羽衣(1890年) - 歌人
蒲原有明(1892年) - 詩人
大佛次郎 - 小説家、文化勲章
山本有三 - 小説家、文化勲章
小山内薫 - 劇作家
谷崎潤一郎(1905年) - 小説家、文化勲章
小林秀雄(1920年) - 文芸評論家、文化勲章
河上徹太郎 - 文芸評論家
矢内原伊作 - 詩人、哲学者 / 矢内原忠雄の子
児島襄 - 作家、横綱審議委員会委員長
江藤淳 - 作家、評論家、芸術院賞 / 湘南中学より編入
塩野七生(1957年) - 作家、紫綬褒章
庄司薫(1956年) - 芥川賞作家 / ピアノ中村紘子は妻
古井由吉(1956年) - 芥川賞作家 / 第一学年の九月に獨協高から転校
加藤周一 - 評論家
蔵原惟人 - プロレタリア文学評論家
いいだもも - プロレタリア作家
斎藤緑雨 - 作家、評論家
高見順 - 作家 / 高見恭子の父
岩波雄二郎 - 岩波書店初代社長・会長(岩波茂雄二男)、岩波書店二代目店主
吉井勇(中退) - 歌人 / 中退して日本中学へ

これを見ただけでも、思わずうなってしまいます。


 ということで、次に続きますね。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/54755021.html

五代友厚さんは、大阪経済近代化の功労者。 【ファイルT202】2014.01.12 

【ファイルT202】2014.01.12 五代友厚さんは、大阪経済近代化の功労者。

「東の渋沢、西の五代」と称された大阪の大立て者だねえ。

 前々回に今の難波橋について記事にしました。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/54652587.html

その際に、大阪証券取引所が写っていたのですが、今回はその前に立っているのが、五代友厚さんの銅像です。

難波橋のライオンさん越しに見える五代友厚像。





 

大阪証券取引所ビル前に、大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)初代会頭五代友厚さんの銅像が建っています。





 



 
 右足を半歩前に、右掌を上に一寸前へ出していますが、これは示現流【じげんりゅう:、薩摩藩を中心に伝わった古流剣術。流祖は東郷重位】の使い手がいつでも拔刀できるポーズなのだそうです。

 この五代さんの人物と業績を知る人は、今日大阪でもごく少ないのだそうですが、この五代さんこそが近代大阪の育ての親であり、忘れがたい大阪の恩人なのです。だから、こんな立派な銅像が建つんだねえ。

五代 友厚【ごだい ともあつ、天保6年12月26日(1836年2月12日) - 明治18年(1885年)9月25日】さんは、日本の武士(薩摩藩士)、実業家です。【※以下、日付は明治5年までは旧暦】

 『三国名勝図会』の執筆者で記録奉行である五代直左衛門秀尭の次男として薩摩国鹿児島城下長田町城ヶ谷(現鹿児島市長田町)に生まれました。幼名は徳助。通称才助。

 質実剛健を尊ぶ薩摩の気風の下に育てられ、8歳になると児童院の学塾に通い、12歳で聖堂に進学して文武両道を学びます。

14歳のとき、琉球公益係を兼ねていた父親が奇妙な地図を広げて友厚少年を手招きました。そこにあったのは、藩主・島津斉興がポルトガル人から入手した世界地図でした。友厚少年はお父さんからこの世界地図の複写を命じられます。

そこで、友厚少年はそれを2枚写し、1枚は藩主に献上し、1枚は自分の部屋に掲げ、日がな一日ながめていたということです。


幕末の五代さんの経歴は以下の通りです。

 安政元(1854)年、ペリーが浦賀沖に来航し天下は騒然となりました。その折、五代さんは「男児志を立てるは、まさにこのときにあり」と奮いたったということです。

安政4(1857)年、藩の選抜で長崎海軍伝習所へ藩田習生として派遣され、オランダ士官から航海術を学びます。

安政6(1859)年 水夫として幕府艦千歳丸に乗船し上海に渡航、藩のために汽船購入の契約をします。

文久3(1863)年 生麦事件によって発生した薩英戦争では、3隻の藩船ごと松木洪庵(寺島宗則)と共にイギリス海軍の捕虜となり、横浜で釈放されます。

 国元ではイギリスの捕虜となったことが悪評となったため薩摩に帰国できず、しばらく潜伏生活をし、長崎で出会った同じ薩摩藩士の野村盛秀さんの取り成しによって、ようやく帰国を許されることとなりました。

慶応元(1865)年 藩命により寺島宗則・森有礼らとともに英国留学に出発し、欧州各地を歴訪。ベルギーのブリュッセルでモンブランと貿易商社設立契約に調印、これは薩摩藩財政に大きく寄与するものとみなされたのですが、諸事情により失敗に終わりました。

しかし、この時の経験が、のちの五代さんの経営手腕に大きな影響を与えることになるのです。

慶応2年(1866年) 長崎の小菅に日本初となる近代ドッグ(小菅修船場)建設に着手し、その後、長崎製鉄所(現・三菱重工業長崎造船所)を設立します。

御小納戸奉公格に昇進し薩摩藩の商事を一気に握る会計係に就任。

長崎のグラバーと合弁で長崎小菅にドックを開設するなど実業家の手腕を発揮し始めました。ここでいうドックというのは俗にそろばんドックと呼ばれるもので、いまだに現存しています。

慶応3(1867)年 幕府が崩壊。御納戸奉公格という商事面を担います。

慶応4(1868)年 戊辰戦争が勃発し五代は西郷隆盛や大久保利通らとともに倒幕に活躍しました。

 薩摩藩時代から、波瀾万丈の人生を歩んできたのですね。

明治維新で、幕藩体制は終結しましたが、五代さんはこのような経歴と欧州留学経験を持ち、外国事情にあかるいことから、明治元年(1868年)に明治新政府の参与職外国事務掛に任用されました。

そして外国官権判事、大阪府権判事兼任として大阪に赴任し、堺事件、イギリス公使パークス襲撃事件などの重大事件の外交処理にあたりました。

また、大阪に造幣寮(現・造幣局)を誘致。初代大阪税関長となり、大阪税関史の幕を開けることになります。

これらが、五代さんが大阪と関わるきっかけとなります。

江戸時代の大坂は全国の藩の蔵屋敷が建ち並び、年貢の集積地として、全国の米相場の基準を発信する、まさに『天下の台所』として繁栄しました。

 それについては、以前書きましたね。

 大坂の堂島米市場跡の記事はこちら。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53022987.html

 大坂の豪商だった淀屋の栄枯盛衰にもついて記事にしました。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/54547552.html

このように、大坂は江戸の幕藩体制における商業の中心として、大いに栄えたのです。

ところが、降って湧いたような明治維新。

廃藩置県によって、藩が消滅します。従って大坂の各藩蔵屋敷も無用の長物となり、大阪独自の銀主体の商取引の廃止や藩債の整理による富豪や両替商の資産消失も大きな打撃でした。

明治2(1869)年 五代 友厚さんは新政府の参与という要職に任ぜられていたのですが、当時、「まさに瓦解に及ばんとする萌し」(五代さんの言)といった感のあった大阪経済を立て直すために、官を辞し実業界へ。商工業の組織化、信用秩序の再構築を図りました。

五代 友厚さんの肖像写真です。





 
 なかなか押し出しのあるハンサムさんだねえ。

退官後、大阪へ再び戻り、手始めに本木昌造の協力により英和辞書を刊行。また硬貨の信用を高めるために金銀分析所を設立。紡績業・鉱山業(奈良県天和銅山・福島県半田銀山など)・製塩業・製藍業(朝陽館)などの発展に尽力します。順を追っていくと。

明治4(1871)年 大蔵省、造幣局(現・大阪造幣局)設立。

明治6(1873)年 弘成館(全国の鉱山の管理事務所)を設立し日本の鉱山王となります。

 明治7(1874)年 半田銀山(福島県)の経営を開始。

 明治8(1875)年 朝陽館(染料の藍の製造工場)を設立。

明治9(1876)年 堂島米商会所を設立する(堂島米会所の復興)。


明治11(1878)年 大阪経済の低迷打開策として、五代さんを筆頭とした財界指導者の有志15名が明治11年7月に大阪商法会議所設立の嘆願書を政府に提出。これが今日の大阪商工会議所の礎となりました。

 嘆願書の集め方は、交渉手腕に長けた五代さんらしい強引な勧誘で、その決め台詞が「万が一、後に会へ加盟を申し込んでも拒絶、もしくは巨額の入会費を徴収する」というものだったようで、結果的に60人の同志を募ることができました。

初代会頭が、後に銅像になった五代友厚さん。

大阪商法会議所を設立した目的は「大阪の実業家の相互扶助によって新時代の潮流に棹差し大阪商人の伝統である信用第一主義に則り以って自己の利益を増すと同時に大阪の繁栄を軸に国富の増強に資する」というものでした。

大阪商法会議所設立趣意書





 

大阪商法会議所開業免状





 
 ↑いずれも、大阪証券取引所HPより。
http://www.ose.or.jp/profile/758

役員の構成は、五代さんを初め計11人が創立委員となり鴻池善右衛門、三井元之助(後の三井財閥)、広瀬宰平(後の初代住友総理人)らの150株を筆頭とした、当時の大阪財界を代表する蒼々たる顔ぶれでした。

この時、五代さんは「大阪が日本の産業と金融機関の中枢になるのはすぐだ」と呟いたということです。

明治12(1879)年 大阪商業講習所(現・大阪市立大学)を創設。


明治13(1880)年 東京馬車鉄道、東京電気鉄道(現・東京都電車を)創設。

明治14(1881)年 大阪青銅会社(住友金属工業)、関西貿易社を設立。

明治15(1882)年 共同運輸、神戸桟橋(川崎汽船K-LINE)を設立し大阪湾を近代化させます。

明治16(1883)年 汽船会社を合同で設立。

明治17(1884年)年 大阪商船(旧・大阪商船三井船舶→現・商船三井)、大阪堺鉄道(南海鉄道)を設立。

 大阪北中之島1丁目26番地に初めて自邸を新築。

明治18年(1885年)9月、鹿児島より籍を大阪に移します。東京に於て日本郵船会社を斡旋。勲四等に叙せられ旭日小綬章を賜わります。


このように、五代友厚さんは、近代大阪の経済発展に多大な足跡を残し、まさにこれからという、明治18(1885)年に51歳の若さで亡くなりました。

当時東京において東京商法会議所(現・東京商工会議所)等を設立した渋沢栄一氏と比肩する人物として、『東の渋沢、西の五代』と称され、今なお語り継がれていますが、当時は、市井のおかみさん達までが、「五代はんは大阪の恩人や」と、その死を悼んだということです。

それにしても、51歳という短い生涯でこれだけの業績を成し遂げたのですから驚きです。

大阪を愛し、大阪のために尽力をされた五代さんは、遺言により大阪の土となりました。

 墓所は大阪阿倍野斉場にあります。

 その後大正3(1914)年。大正天皇が演習のため大阪行幸の際、特旨を以て正五位を追贈されました。

 ということで、次回に続きますね。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/54747542.html

ヴィンス・ガラルディ・トリオの『ライナス&ルーシー』はジャズの名曲 【ファイルMU10】2014.01.09 

【ファイルMU10】2014.01.09 ヴィンス・ガラルディ・トリオの『ライナス&ルーシー』はジャズの名曲

スヌーピーやチャーリー・ブラウンの出てくるアニメ版『ピーナッツ』の音楽だねえ。

 以前記事にした、ゲオルグ・ショルティ指揮の『ワーグナー・オペラ・レコーディングズ』全曲CD36枚組をやっとこさ聞き終えることが出来ました。記事はこちら。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53684146.html

 いろいろと他の音楽にも手を付けながら、長い間放置したりして、ようやく一通り聴き通せました。
 
 普段からこういう超大作ばかり聴いているかというと、そうでもないわけで、今回はジャズのナンバーから御紹介します。

ヴィンス・ガラルディ・トリオの『ライナス&ルーシー』です。

といってもピンと来ない人もいらっしゃると思うのですが、これは、スヌーピーやチャーリー・ブラウンの出てくるテレビ・アニメーション『ピーナッツ』に使用された音楽なのでした。

『ピーナッツ』については、『SNOOPY.co.jp :スヌーピー公式サイト』をご覧下さい。

http://www.snoopy.co.jp/

というか、原題は『ピーナッツ』のはずなのに、日本では原題には馴染みが無くて、公式サイトは『スヌーピー』なんだねえ。


『ライナス』というのは、チャーリー・ブラウンの親友で、ルーシーの弟です。

 本名は、ライナス・ヴァン・ペルト。いつも冷静沈着でチャーリー・ブラウンの相談相手にもなるのですが、安心毛布が手放せなくて、指しゃぶりも止められず、ハロウィンには「カボチャ大王」が現れると本気で信じているという変わった一面を持っています。

ライナスのお姉さんの『ルーシー』の本名はルシール・ヴァン・ペルト。

 口うるさく、わがままな性格で、ライナスには、日頃から毛布のことを始めとして、なにかと口やかましく文句を言います。空き地に基本料金5セントのカウンセリング・コーナーを開き、チャーリー・ブラウン達の悩みに、無責任で断定的なアドバイスをして料金を取ります。

 ルーシーは、天才ピアニストのシュローダーにお熱なのですが、彼の尊敬するベートーヴェンには全く興味が無く、シュローダーの迷惑顔にもお構いなしに、演奏中の彼に一方的に自分の言いたいことを喋りまくります。

 ということで、前口上が長くなりましたが、サウンドトラックの動画を見つけたので貼っておきます。

ヴィンス・ガラルディ・トリオの『ライナス&ルーシー』

“Linus and Lucy”




 うまく観られないときはこちら。↓
https://www.youtube.com/watch?v=JgoPl35n_AY

パーソネル(Personnel):ヴィンス・ガラルディ(p)、モンティ・バドウィッグ(b)、コーリン・ベイリー(ds) /1965年。

日本では、CD『チャーリー・ブラウン オリジナル・サウンドトラック』ビンス・ガラルディ, Peanuts (Related Recordings) が音源として入手できます。






 とても楽しいCDです。

私はこのアニメーションが昔から好きだったのですが、その1つの大きな要因が、バックで流れているセンスの良いジャズ・ミュージックだったのです。

 この曲は、後にデヴィッド•ベノワやジョージ•ウィンストンがカヴァーしています。

 というより、私がこの曲をアニメ以外で最初に聴いたのが、デヴィッド•ベノワのピアノ演奏で、その次はジョージ•ウィンストンのピアノ演奏。御本家のヴィンス・ガラルディ・トリオのサウンドトラック盤CDを入手したのは、一番最後でした。

アニメーションの『ピーナッツ(英: Peanuts)』は、アメリカの漫画家チャールズ・M・シュルツさんによる漫画が原作です。

 漫画は、1950年10月2日から連載開始(1947年から1950年まで本作の前身である『リル・フォークス』が連載された)。最後の掲載は、デイリー版が2000年1月3日、日曜版は作者シュルツさんが死去した翌日の同年2月13日でした。

 掲載された雑誌は2000誌を越え、世界75カ国・21言語で3億5500万人以上の読者を持ち、コミックの総発行部数は3億部を越える人気作品です。

 『ピーナッツ』というタイトルは、ユナイテッドが作者のシュルツさんに相談せず、勝手に決めたことが明らかになっています。

 英語の peanuts(ピーナッツ)は「つまらないもの、取るに足らないもの」といった意味があり、シュルツさん自身はそのため、「だから、私はこのタイトルに決まった時は不満だった」と語っています。

 彼自身はタイトルを『Good Ol' Charlie Brown』(後年になってから、このタイトルも併記されていた時期あり)もしくは『Charlie Brown』とするか、でなければ、この作品の前身・原型である『Li'l Folks(小さな国民)』をそのまま使いたかったという意向でした。

 本作は、数多くの賞を獲得し、またキャラクター商品は到底数え切れないほど発売されています。

さらに、1969年には、チャーリー・ブラウンとスヌーピーの名前がアポロ10号の指令船と月着陸船の名前に採用されましたた。

日本でも(特にスヌーピーの)人気は高く、『ピーナッツ』のキャラクター商品市場は、日本がアメリカを凌(しの)ぎ、世界でも最大とされているそうです。

 日本では1968年に、例のサンリオがライセンスを受けてキャラクター商品の製造・販売を開始したのが始まりで、それ以前はアメリカ旅行の土産や、キディランドの輸入商品により日本に入ってきたものを購入するしか入手方法がありませんでした。1970年にはファミリアがスヌーピーのぬいぐるみを販売開始します。

 ユナイテッド・メディア株式会社の岩淵秀俊氏によると、日本におけるスヌーピー人気は、キャラクター商品と単行本が共に良質な形で日本に入ってきたことが大きいということです。

しかしながら、私は日本でのこの作品の人気は、スヌーピーのシニカルで飄々としたキャラクターと相俟って、アメリカではネガティブに評価されがちの、チャーリー・ブラウンのナイーブで不器用な性格が、日本人の心を掴んだからだと思っています。

 テレビ放映短編(Charlie Brown & Snoopy Show)は、約30分の放送枠の中で、一話5分前後のショート・ストーリーを数話前後に束ねて、一つの回を構成しています。

 全18回。オープニングテーマの曲名は「LET'S HAVE A PARTY!」。

 カートゥーン・ネットワーク放映を通じ、日本で初公開された回もいくつか存在するそうです。

アメリカ本国での放映は低視聴率しか得られず、結局、打ち切りられました。

日本でのアニメ放映は、『チャーリー・ブラウン=谷啓さん吹き替え版』がNHK総合テレビで製作・放送されたのが初めてです。

 原作者のシュルツ氏はアメリカでのアニメ放送が始まる際、より子供らしさを演出するために同年代の子役を吹き替えにあてるべきだとスタッフに述べて受け入れられ、アメリカでは子役達が声を当て、声変わりをすると交代していました。

 日本でも原作者の死後、原作者の生前の意向に配慮して、子役を当てることになっていたと言われていたのですが、最も新しい吹き替え版(チャーリー・ブラウン役=くまいもとこさん)では、再びかつてのように成人声優を充てています。

記念すべき『NHK第一期:谷啓さん吹き替え版』放送は、札幌オリンピックの開催された1972年。この作品を移入したNHKスタッフに拍手です。

 チャーリー・ブラウンは谷啓さん、ライナスは小宮山清さんと野沢那智さん、ルーシーはうつみ宮土理さんが演じました。その時のキャスティングは以下の通りです。

声優
チャーリー・ブラウン(声: 谷啓)
サリー・ブラウン(声: 加藤みどり)
ルーシー・ヴァンペルト(声: うつみ宮土理)
ライナス・ヴァンペルト(声: 小宮山清)
シュローダー(声: 肝付兼太)
ペパミントパティ(声: 林洋子)
ピッグペン(声: 八代駿)

特に、谷啓さん【チャーリー・ブラウン】の人の良さそうな、独特の柔らかい雰囲気の台詞回しと、うつみ宮土理さん【ルーシー・ヴァンペルト】の饒舌で、時としてヒステリックで噛みつくようなものの言い方が秀逸だったのですが、ビデオ化・DVD化はされておらず、現在では視聴がほぼ不可能だということです。

 現在販売されているDVDは、日本の子役の台詞がたどたどしく、アラが目立たない英語に切り替えて聴こうとすると、たたでさえブロークンなアメリカ人の、しかも子供の英語なんて聴き取れないし、日本語の字幕がついていないので、全く不親切な出来映えです。

 この字幕の制作料もケチった非常識なDVDを観ると、あえて子役で吹き替えし直したのは、谷啓さんやうつみさん等、一流のプロの声優に放映料・使用料を払うより、ギャラが安上がりだからという事情が丸わかりなんですけど。

 ということで、ヴィンス・ガラルディ・トリオの『ライナス&ルーシー』でした。

 『NHK第一期:谷啓さん吹き替え版』のDVD化はなんとか実現できないものでしょうか?返す返すも残念でなりません。

今度はモウコノウマさんがご挨拶。 【ファイルC277】2014.01.05 

【ファイルC277】2014.01.05 今度はモウコノウマさんがご挨拶。

『蒙古の馬』じゃなくて、『蒙古・野馬』なんだねえ。

 今回も、以前の蔵出し記事です。
 
 新年のご挨拶を多摩動物公園のグレービーシマウマさんにお願いしたのですが、今回も多摩動物公園で、今度はモウコノウマさんの登場です。

こんにちは。


 



 
 競馬馬のスマートで繊細なフォルムのサラブレットと違った、なんか安心感のあるお姿です。

それで、横の壁をみたらば、こんな張り紙が。

 
 




モウコノウマは 蒙古(もうこ) の馬ではなく、

蒙古『野』馬=そう、野性の馬 なのです。と念押ししていました。

 普通に読んだら、出雲神話で大黒様が助けた『因幡の白兎(いなばのしろうさぎ)』みたいに、『蒙古の馬』って勘違いしそうだからねえ。

 そういえば、似た例に、日本(奄美大島、徳之島)の固有種でアマミノクロウサギ(奄美野黒兎)さんがいますね。

 この人達も、『奄美の黒ウサギ』じゃなくて、『奄美』に住む、『野』性の『黒ウサギ』という意味で『奄美・野黒兎(あまみ・のくろうさぎ)』さんなのですね。 

どうして、こんなことをくどくどと書くかというと、モウコノウマさんは世界で唯一の野生馬だからです。

つまり、モウコノウマさん以外の世界中のお馬さんは、全て野性じゃなくて家畜なのですね。

 お馬さんは、人や荷物を運んだり、農耕のために畑を耕やしたり、古くから人間と深く関かかわってきた動物です。そのため、より速く走るように、より重いものを運べるようにと、目的に応じて、人間による種の改良がなされてきたのです。

それで、そのモウコノウマさんは世界で唯一の野生馬なのですが(シマウマ、ノロバを除く)、野生下では一度絶滅してしまったのです。しかし、現在、動物園で増やした個体を再導入し、野生復帰を遂げているのです。


動物園というのは、こういう大切な役割も担っているのです。


そういった知識を持つと、なんか小さめの普通のお馬さんに見えたのが、また違った有り難さが付加されて見えてしまうのが不思議です。


 




 モウコノウマさんは、ウマ目ウマ科ウマ属ノウマ種モウコノウマ亜種で、英名は、Przewalski's Wild Horse(プルツェワルスキー野馬)です。

 ロシアの探検家プルツェワルスキー大佐によって1879年にモンゴルで発見され、西洋諸国に広く知られるようになったから、英名は『プルツェワルスキー野馬』なのですね。

 また英語圏での別名は"Asian Wild Horse"、または"Mongolian Wild Horse"です。

 かつての原産国モンゴルでは「魂」を意味する、タヒ、またはタキ("Takh"あるいは"Takhi")と呼ばれています。


 筋肉質で胴は短く、家畜馬の種と比べると、最も小さい部類に入ります。

 腹部は青白く、毛色はベージュや赤茶で、夏毛は短く、冬毛は厚く長くなります。色の濃い鬣(たてがみ)は常に直立していて、家畜馬のように倒れません。

 口先に白いポイントがあって、背中に「鰻線(まんせん)」と言う濃い褐色の帯があります。

 




 肩までの体高は120~140センチで、頭胴長は220~260センチ、体重は200~340キロです。

 通常一産一仔で、妊娠期間は330~350日。

 仔馬は全体に白っぽく、たてがみと尾は縮れています。

 なんか用?とこっちに来る仔馬さん。

 




 こんにちは。

 




 元気いっぱいで、意味もなく駆け出します。

 




かつては、アジア中央部、特にモンゴル周辺(アルタイ山脈周辺)の平原からヨーロッパにかけての大草原や低木地、野原で草などの植物をエサに、広く分布していたのですが、乱獲などにより個体数が激減しました。

そしてついに、1966年にハンガリーの昆虫学者によって目撃されたのを最後に野生下での目撃情報が確認されなくなり、おそらく1968年頃に野生下では一度絶滅したと見られているのです。

しかしながら、発見以後多くの個体が欧米諸国の動物園に送られていて、その子孫が生き残っていた事から、飼育下での計画的な繁殖が始められ、再野生化が試みられました。

現在は、ここ多摩動物公園も含めた世界各地の動物園で1000頭以上が飼育されています。

そして、モンゴルのフスタイ=ヌルー保護区で再野生化が行われ他結果、百頭以上に回復しています。また、東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)の自然保護区等で、再野生化の目的で飼育個体の一部の導入が行われています。


 野生に戻された群れを観察すると、仲間とのきずながとても深い動物であることが分かります。

 




 若いメスだけの群れがある一方、母馬と子馬の群れはボスである1頭のオスとともに家族で行動します。

現在、モウコノウマさん達にとって最大の脅威は個体の減少に起因する遺伝的多様性の喪失ですが、狩猟や生息域の消滅、また家畜に水源を奪われることによる絶滅も危惧されています。


 後ろ姿も愛嬌があるねえ。

 




 最後にのんびりと草を食むモウコノウマさん。

 




 さようなら、元気でね。

 ということで、沢山増えて、野性で暮らすお友達も多くなったら良いねえ。

お正月早々、お餅をのどに詰まらせた、ぴこりんさん。 【ファイルE56】2014. 01.02 

【ファイルE56】2014. 01.02 お正月早々お餅をのどに詰まらせた、ぴこりんさん。

応急処置についてまとめてみたよ

ということで、ひなちゃん、つくねちゃん、ぴこりんさんは、相も変わらず、わいわいがやがや楽しくやっています。


ところが、お正月早々の昨日大事件が発生!


ぴこりんさんが、お餅をのどに詰まらせて、おおさわぎ。


慌てた、ひなちゃんとつくねちゃんが、お餅を吸い出そうと、iRobot ロボット掃除機『ルンバ』をぴこりんさんの口に突っ込んだからさあ大変。






うへえ!ぴこりんさんが目を回しているよお!


危険だから良い子のみなさんは、くれぐれもマネしないでくださいね!


ぴこりんさんは、ルンバごとお餅を吐き出すことが出来て、一命をとりとめました。


あぶないねえ。


ということで、お餅をのどに詰まらせたら、ルンバは置いといて、普通の掃除機で吸ったら良いということを聞きます。本当のところはどうなんでしょうか?


ところが、テレビを観ていると!


お年寄りが窒息したときに素人が掃除機を使うと、逆にお餅を喉の奥に押し込んで更に状態が悪くなる畏れがあるから注意がいるってテレビでやっていました。

だからその時は掃除機で吸わずにお医者さんを呼べって・・・。


でも、そんな悠長なこと言っていたら、救急車なりお医者さんなりが来る前に死んじゃうよお!


それで公的機関の見解について調べました。


『埼玉西部消防組合』のHPにこうあります。

http://www.saisei119.jp/faq/kyukyu/000446.html

『実際に掃除機による異物の除去例もあります。しかし、掃除機を準備している間に救命のチャンスを逃がしてしまう恐れもありますので、協力者がいれば掃除機の準備をしてもらい、その間に背部叩打法や腹部突き上げ法(ハイムリック法)を実施してください。

【掃除機の使用は消防署としては推奨はいたしません】


↑つまり、掃除機による異物の吸引で助かった例は実際にあって、それ自体は否定しないのですが、他の人に掃除機を探してもらう間に、先にやるべき有効な手段があるだろうということなのですね。


 それで、下記の資料を基に参考に、まとまてみると。

↓↓↓【参考資料】

家族で出来る応急処置。

http://www.geocities.co.jp/SweetHome/3948/oukyuusyoti.html

消費者庁のお知らせ

http://www.caa.go.jp/safety/pdf/121225kouhyou_1.pdf

①意識の確認

まず、声をかけたり、肩を叩いたりして意識の状態を確認します。返事が無くても、顔の表情や手足の動きなどの反応が ないかを観察します。乳児の場合は、足の裏を叩いて反応を見てください。

何も反応が無いことを、意識が無いといいます。意識が無い場合は、緊急な場合が多いので、助けを呼びます。

また、すぐに119番へ通報します。このとき必ず意識が無いことを告げてください。


この場合、他に人がいれば、例えば、「○○さん、この方の意識が無いので119番通報をお願いします!」というように、119番通報を依頼します。


119番通報を依頼された方は、

『急病です。50歳くらいの男性で、意識がありません。場所は○○駅の3番出口付近です』といった具合に患者の状況と場所について具体的に連絡してください。

  

②口の中の確認


口の中に、気道(空気の通り道)をふさぐような異物はないかを確認します。

口を開けない場合は、がま口の財布を開ける要領(人差し指を下の歯、親指を上の歯に当て、指を交差させて)で、開けます。

むやみに傷病者の頭を動かさないで、自分の顔を動かしながら口の中を確認します。

口の中に、異物(嘔吐物など)があったら、傷病者の顔をそっと自分の方(横)へ向けさせ指でかき出します。

口の中は、卵の白身のようにぬるぬるしていますので、指にハンカチなどを巻いて、ほほに沿ってのの字を書くようにかき出します。


● 傷病者が咳をすることが可能であれば、できるだけ咳を続けさせます。咳ができれば、それが異物の除去にもっとも効果的です。


●今回の場合は餅ですから、それで取り除けたらいいのですが、とれない場合は、以下のことを試みます。

 

① 腹部突き上げ法






● 傷病者を後ろから抱えるように腕を回します。

● 片手で握りこぶしを作り、その親指側を傷病者のへそより上で、みぞおちの十分下方に当てます。

● その手をもう一方の手で包むように握り、すばやく手前上方に向かって圧迫するように突き上げます。


② 背部叩打法(はいぶこうだほう)






● 背中をたたきやすいように傷病者の横に回ります。

●手の付け根で肩胛骨(けんこうこつ)の間を力強く、何度も連続してたたきます。


ポイント

●【※注意!!!】 妊婦や乳児に対しては、①の腹部突き上げ法は行ってはいけません。②の背部叩打法のみを行います。

●横になっている傷病者が自力で起き上がれない場合は、②の背部叩打法を行います。

●腹部突き上げ法と背部叩打法の両方が実施可能な状況で、どちらか一方を行っても効果のない場合は、もう一方を試みます。

● 腹部突き上げ法を行った場合は、腹部の内臓をいためている可能性があるので、実施したことを到着した救急隊に伝えてください。また、119 番通報前に異物が取れた場合も、医師の診断を受けてください。


※※※ それでもとれない場合は、掃除機で吸う方法もあります。(のどの奥に異物が見えている場合)に登場するのが例の『掃除機』による吸引です。 ※※※


これは、素人が乱暴にやると、逆にお餅を喉の奥に押し込んで更に状態が悪くなる畏れがあり、掃除機を探している時間で、上記のような有効な他の手段で異物を除去するチャンスを失う可能性への惧れから、この方法は公的機関では積極的に推奨はしていません。


ただ、実際にこれによる救命事例は存在するので、上記の方法で状況が改善されない場合は、人の命に関わることですから、あらゆる可能性を試してみない手はありません。あくまで自己判断、自己責任で行ってみる価値はあるでしょう。


※※※ まず、『スイッチOFF』の状態で、異物のところへ、掃除機の先(細いノズルにする)入れます。※※※

【注意!!!】 ※※※  最初からスイッチを入れてしまうと、舌やほほを吸い込んでしまい、異物を取ることができません!!!!  ※※※


ホースに真空の調整穴がある場合は、最初は穴を大きくあけておきます。そして口の中へノズルを入れてから、調整穴を閉じながら吸引の強さを調整します。


現場で以上のような応急措置を施してから救急隊員に処置を引き継ぐと、生存率は、かなり向上します。


なお、心配停止に至った場合の、人工呼吸・心臓マッサージ等の応急措置については、下記を参考にしてくださいね。

http://www.geocities.co.jp/SweetHome/3948/oukyuusyoti.html

なお、この記事は、ネットで調べた範囲でまとめた対処法なので、厳密には、引用元のURLをクリックして、確認されるなり、さらに検索で専門サイトを探して読むなり、専門の医師に相談してくださいね!

平成26年新年明けましておめでとうございます。 【ファイルG82】 2014.01.01 

【ファイルG82】 2014.01.01 平成26年新年明けましておめでとうございます。

今年の干支(えと)は、『甲午(きのえうま・こうご)』だねえ。

新年明けましておめでとうございます。


今年は平成26年。皇紀2674年です。


 今年の干支(えと)は『甲午(きのえうま・こうご)』で、
 十干(じゅっかん)が『甲(木の兄:きのえ)』
 十二支(じゅうにし)が『午(ご)』のうま年です。

 ちなみに本日は
 西暦だと2014年
 イスラム暦だと1435年
 ユダヤ暦だと5774年
 チベット暦だと2140年です。

ということで、多摩動物公園のグレビーシマウマさん【再掲】。






おめでとうございます。

記事はこちら。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/49174945.html

ということで、今年の干支(えと)は『甲午(きのえうま・こうご)』ですが、

『甲午』という干支といえば、まず思い浮かぶのが、120年前の明治27(1894)年に朝鮮で起きた甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう)です。この朝鮮農民による内乱は関与者に東学の信者がいたことから東学党の乱(とうがくとうのらん)とも呼ばれます。


暦は60年周期で一巡して元に戻ります。だから60歳になったら還暦を祝うのです。

甲午という年も、当然60年ごとにやってきます。60年×2で、暦の2周前の120年前も干支が甲午だったというのはそういうことです。


これに驚いた朝鮮閔氏(びんし)政権は、自国で乱を収集することもできず、清国に援軍を要請します。

天津条約にもとづき、清は朝鮮出兵を日本に通告しなければならないのですが、それをせず、日本は公使館警護と在留邦人保護のために派兵を余儀なくされ、漢城近郊に布陣して清国軍と対峙することになります。


反乱が収束し、日清両軍は撤兵することになるのですが、清軍はそのまま居座って朝鮮を侵略しようとします。

日本は清に対し朝鮮の独立援助と内政改革を共同でおこなうことを提案し、イギリスも調停案を清へ出すのですが、朝鮮を占領侵略したい清は「日本(のみ)の撤兵が条件」として拒否。

日本は朝鮮に対して、「朝鮮の自主独立を侵害」する清軍の撤退と清・朝間の条約廃棄(宗主・藩属関係の解消)について3日以内に回答するよう申入れました。この申入れには、朝鮮が清軍を退けられないのであれば、日本が代わって駆逐する、との意味も含まれています。

当然のことです。清が朝鮮を侵略すれば、その余勢をかって、朝鮮と共に日本に攻めてくる『元寇』という例が歴史上厳然として存在するからです。

これに朝鮮政府は「改革は自主的に行う」「乱が治まったので日清両軍の撤兵を要請」と回答。


ところが、一方朝鮮国内では大院君がクーデターを起こして閔氏政権を追放し、金弘集(きん こうしゅう)政権を誕生させました。

朝鮮がまさに清国に侵略されつつあって、国家が団結しなければならないときに、これをチャンスとばかりに、おのが権力のためにクーデターを起こすという神経が私には分かりません。

金弘集政権は甲午改革(内政改革)を進め、国家存亡の危機に関わる清への対応は自国では何もせず、無責任にも、日本に対して牙山の清軍掃討を依頼しました。

そして豊島沖海戦、成歓の戦いが行われた後、8月1日に日清両国が宣戦布告をし、日清戦争が勃発したのです。


朝鮮は、甲午農民戦争=東学党の乱を自国で解決できずに清に援軍を頼み、清に侵略目的の居座りを許し、それどころか本来朝鮮が行うべき清の朝鮮侵略軍の撤兵のための実力行使=戦争を日本にさせたのです。

こんな卑怯なことをしておいて、現在に至るまで、朝鮮人は恥知らずにも『日本は朝鮮を侵略した』などと世界中に大嘘を触れ回っているのです。


 ところで、

今年の干支(えと)は『甲午(きのえうま・こうご)』ですが、どういった年になるのでしょう?

『甲』の文字は亀の甲羅から来ており、固い殻、つまり種を意味するものになります。

一方の『午』は、「つきあたる」「さからう」の意味を表す忤から来ています。これは、植物の生育が止まり、衰退の兆しを見せている状態とされます。


安倍政権が、消費税増税とTPP締結に亀の甲羅のように固執し、これが種となって、外資の蚕食による日本の本格的な衰退の始まりとなり、120年前のように、朝鮮で動乱が起き、中華人民共和国の領土的野心が顕著にならないように、ただ祈るばかりです。


新年元旦早々で申し訳ないのですが、私は、本年は日本人にとって、試練の年になると思っています。だからこそ、逆にそうならないことを願ってやみません。

 

本年もよろしくお願いいたします。


本年が皆さんにとって幸多き年でありますように。


 平成26年。皇紀2674年 元旦

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