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大阪ガスビル食堂でビーフカレーとギリシャ料理のムーサカを食べたよ 【ファイルF57】2014.02.24 

【ファイルF57】2014.02.24 大阪ガスビル食堂でビーフカレーとギリシャ料理のムーサカを食べたよ

創業昭和8年の老舗のお味だねえ。

 先日、安井武雄氏が設計した大阪ガスビル(大阪瓦斯ビルヂング)について書きました。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/54793872.html

 その中で、創建当初から営業している8階食堂についても触れました。

私はこの食堂の名物、ギリシャ料理のムーサカに興味があったのです。





 

ガスビル最上階の8階が大阪ガスビル食堂です。(再掲)





 
 写真では、カーテンがかかっていますね。

 私は増設北館の入口から入ったので、フロアをずっと奥の南側エレベーターホールまで進んで、そこにある8階食堂レストラン直通エレベーターに乗りました。

 エレベーターを降りたところにクロークがあって、ここでコートを預けることが出来ます。

 平日ランチオープン時間直後に行ったのに、窓側の席は予約で既に満席だということで、手前の狭い方の部屋に通されました。

※注意!

ここは、土日祝がお休みです。つまり大阪ガスの食堂で、ビジネスマン用の食堂なので、平日しか開いていません!

営業時間 11:30~21:30(L.O.20:30)ランチ営業

定休日土曜・日曜・祝日

TEL・予約 06-6231-0901:詳細については、直接ご確認ください。

 私に案内された席の隣にある窓際の席には、案の定『予約』のプレートが置いてありました。

先ほどのビルの写真で、最上階のカーテンがあった場所です。





 

それにしても、ランチで昼一番に行っても予約ですでに窓際席が埋まっているって、どれだけ人気なのでしょう?

窓際席を希望の方は是非予めご予約を!

 こっちのほうが広い部屋よりおちついた感じです。

 それで、席に案内されて、椅子をボーイさんに引いてもらって、腰をかけました。

 『荷物を向かいの席に置きましょうか?』と言われ、置いて貰いました。

 完璧なホスピタリティーです。ただし、お料理の10%のサービス料が取られますが、これだけ気が利いている応対をされれば、サービス料を取るのは当然だと思います。海外のチップよりよほど合理的です。

 ここの名物は、冒頭写真のムーサカというギリシャ料理と、ガスビル食堂の伝統メニューであるカレーとだということなのですが、両方一度に食べても量は大丈夫か尋ねました。

 ライスの量は希望に応じて調節できるけれど、カレールーはちゃんと一人前の量が出てくるとのことです。

ちょっと大変だとは思いましたが、どっちも捨てがたいので、誘惑には勝てず、ビーフカレーとムーサカの両方を注文しました。

カレー類では他に、チキンカレー、小海老のカレー、シーフードフライのカレー、ハヤシライスがありますから、牛肉の苦手な人でも大丈夫です。どれも美味しそうだねえ。

先に写真左から、らっきょう、福神漬、セロリのピクルスが運ばれてきます。





 
 ウェイトレスのお姉さんが、ライスを運んできて、トングでお皿によそってくれるのですが、丁度良いと思った量のところで、ストップをかけてくださいといわれました。

 量はあっても、カレールーが余るときついし、ムーサカもあるので、標準的な一人前の量のごはんをよそってもらいました。

 ご飯はおかわり自由だと言うことです。

それでカレーが出てきました。





 

それでスプーンで底をもちあげたら、沈んでいた牛肉の塊が現れました。





 
 海底から浮上した『そうりゅう型潜水艦』みたいだねえ。

ご飯の上にルーをかけると、お肉の存在感がさらに際立ちます。





 

10種類以上のスパイスを配合して仕込んだふくよかなカレーソースに、角切りビーフが入った特性ルーなのだそうです。角切りビーフというより、ほとんどサイコロステーキです。

 それが、ごろごろと無造作に8個ほど入っています。

 お肉は噛むとさくっと言う感じで歯が入り肉汁が出てきます。肉汁を閉じ込めておくために軽く表面を炒めているんだねえ。ひょっとしてミディアムレアかな?

 カレーソースの中にいろいろ溶け込んでいて、原形を留めているのは牛肉だけです。

こんなに牛肉がごろごろと入ったカレーは初めてです。さすがは牛肉文化大阪の老舗レストランです。


 このカレーは口に入れた瞬間、ほの甘くフルーティーな味が口中に広がって、あとから辛みが出てきます。

 このへんは、以前ご紹介した大阪名物のインディアンカレーと同じ感じなのですが、こちらの辛さの方がピリピリ感が幾分抑えられてまろやかです。

 インディアンカレーの記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53048081.html

 それから、肉が多いので当然ながら他店のそれよりビーフの味が前面に出ていて、ビーフシチューの方向に味が歩み寄っています。

 パサパサ外米じゃなくて、普通のもちもち日本米によくあった洋風カレーだねえ。

 インドの人は、多くがヒンドゥー教徒だから、聖なる牛肉は食べないので、これは正統的な欧風洋食ですね。

 薬味は、セロリのピクルスの青臭い酸っぱさが爽やかでした。

カレーの写真を撮っていたタイミングで、ムーサカが運ばれてきました。






鉄板が熱いので、触らないように気を付けてくださいと言われました。

 



 

ムーサカはギリシャの家庭料理に由来するメニューです。

 三代目の料理長さんが本場の羊肉を牛肉フィレに代え、創業当時からの伝統のドミグラスソースにトマト、ピーマン、ナス、マッシュルームなどを加えて煮込み、マッシュポテトでおしゃれにアレンジしオーブンで焼きあげたものだそうです。

 焦げ目のほんのり付いた、マッシュポテトの壁の中に、デミグラスソースに浸かった具が入っています。

 ソースの中にはワラのような、ほぐれた繊維状のフィレ牛肉が入っています。

 これがデミグラスソースとよく馴染んで柔らかく煮込まれているのです。カレーの中のステーキのようなサクジュワ肉と違って、こちらは肉の線維が口の中でほぐれてデミグラスソースと混ざっていく感じが嬉しいねえ。

 お野菜は、トマトがとろりとして酸っぱくて、茄子はくたっとして良く味が染みこんでいます。カリフラワーがしゃきしゃきしていて、マッシュルーム・ピーマンも歯ごたえがあって、ニンジンは柔らかく甘くコクがあります。

デミグラスソースの池の周囲を取り囲む、もんじゃ焼きの土手のようなマッシュポテトは、裏ごしした和菓子みたいな滑らかさで、ポテトコロッケのポテトを上品にしたようなジャガイモ独特の風味がなんとも言えません。





 

ジャガイモ料理が好きな人はこれだけでも食べる値打ちがあると思います。

 焦げ目が香ばしく、これが時間がたつとともにデミグラスソースと混ざってシャバシャバした部分もまた別の食感が楽しめます。

ガスビル食堂は、大阪における最も近代的で美しいビルディングと称されたガスビル八階に、昭和8(1933)年3月の竣工と同時に誕生しました。

 開業当時は、本格欧風料理を提供し、モダンシティー大阪を代表するレストランとして市民の人気を集めたということです。

関東大震災を逃れて関西に移住していた小説家の谷崎潤一郎さんが、大正13(1924)年その随筆「洋食の話」で、「京都にも大坂にも洋食らしい洋食は殆んどない。(中略)上方の人たちは洋食の味を知らないらしい。そのくせ洋食を食うのが好き」だと書いたように、確かに居留地を中心に発展した西洋料理の普及は、大阪ではやや遅れていました。

 本格的な洋食が食べたければ、神戸に行けば良かったからねえ。

 しかし昭和初期には、世界恐慌で不況が続くのを横目に大阪はますます活況をみせ、ハイカラな洋風好みが広まっていきました。

昭和3年(1928)、北浜にレストランアラスカができました。その本格西洋料理は財界人に愛され、昭和六年には中之島の朝日新聞ビルに本店を移し、やがて関西の西洋料理をリードしていきます。

また昭和4年、小林一三氏(阪急グループ創始者)が日本初のターミナルデパート阪急百貨店を開店し、大食堂の20銭のライスカレーや30銭のランチが大評判になりました。

そういった中、昭和8年、「大大阪」のシンボルである御堂筋に片岡直方氏(当時大阪瓦斯会長)がガスビル食堂を開業します。

昭和10年には関一市長の強い要望を受け、大阪の財界人が協力して新大阪ホテル(現リーガロイヤルホテル)を開業します。こうして大阪の西洋料理は昭和初期に大いに発展します。こういった経緯から、その発展には美食家谷崎潤一郎氏も一役買ったと考えられるようです。


昭和8年開業のガスビル食堂は、初代の料理長を帝国ホテルから招聘しました。

 大正11年(1922)、当時築地精養軒にいた彼は、日本を訪れたエドワード・アルバート英国皇太子【後のウインザー公、シンプソン夫人との結婚のため王位を捨てたことで有名】の日本周遊に同行しました。

 皇太子から「本場にも負けない」と、コンソメの味を誉められたことを、料理長は終生の誇りとしていました。ガスビル食堂には、初代料理長のコンソメやドミグラスソースなど、正統派フランス料理の伝統が今も受け継がれています。

『自由軒』の記事にも出てきた小説家の織田作之助さんは、昭和15年(1940)「夫婦善哉」で文壇にデビューします。将棋好きであった作之助さんは、ガスビルにあった学士会倶楽部の将棋会に加わるようになりました。

当時傾倒していた大阪文壇の第一人者藤澤桓夫氏に連れられての参加でした。学士会倶楽部の将棋会はハイカラな雰囲気の ガスビル食堂で催され、モダンな酒場や本格西洋料理が当時の文化人にもてはやされたということです。


 【大阪ガスビルHP『大阪ガスビル食堂物語』参照】↓
http://www.osakagas.co.jp/gasbuil/

それにしても、またもや関一市長が出てきます。まさに公と民間が協力して大阪を発展させたのです。

先にも書いたように、土日祝が休みのビジネスマンのための食堂です。

 先ほどの窓際の予約席には、上品な異業種とおぼしき二人のサラリーマンが和やかに商談前の雑談をしていました。

 そのへんが大阪商人の粋(すい)なのでしょう。

しつこく繰り返しますが、メディアの垂れ流す吉本風大阪のイメージは歪曲されすぎて悪意さえ感じます。

 この日の料金は 
    ムーサカ   2,100円
    ビーフカレー 1,785円 
――――――――――――――――――
    小計     3,885円
    サービス料    388円
    消費税5%    203円
――――――――――――――――――
    合計     4,270円
 でした。

※ 注意!消費税5%時の料金です。料金については、ご利用のつどご確認ください。

 おの雰囲気でこの手間と食材・味、ホスピタリティーなら、とてもリーズナブルだと思います。

 大阪庶民のカレーなら自由軒の相席で肩を寄せ合ってたべる名物カレー。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/39052286.html

 大阪モダニズムの近代欧風カレーや洋食をリッチに味わいたいなら、ここ大阪ガスビル食堂だと思いました。

 ごちそうさまでした。2品はさすがに多かったよお!
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大阪ガスビルは大阪文化の拠点 【ファイルT206】2014.02.22 

【ファイルT206】2014.02.22 大阪ガスビルは大阪文化の拠点

これも安井武雄氏の円熟期の代表作です。

以前、新進気鋭の建築家だった頃の安井武雄氏の“自由様式”の代表作である大阪倶楽部の記事を書きました。


 記事はこちら。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/54430419.html
 
 大阪倶楽部は大正3(1914)年に竣工したのですが、大阪にはほかにも安井武雄氏の建築があります。

それから約20年の時を経て昭和8(1933)年に竣工した大阪瓦斯ビルヂング(おおさかがすビルヂング)も、その代表的なものです。






 大阪瓦斯ビルヂングは、大阪市中央区の船場(せんば)、御堂筋(みどうすじ)沿いにある建築物で、通称は「大阪ガスビル」または「ガスビル」。

大阪ガスの本社のビルです。

竣工当初の大阪瓦斯ビルヂングの姿。






昭和41(1966)年には、安井氏の後継者で、安井建築設計事務所社長(当時)の佐野正一氏による設計で北館増築部分が竣工。

写真右側の色の黒っぽい部分が後に増築された部分です。






大阪瓦斯ビルヂング(大阪ガスビル)の概要は以下の通りです。

用途事務所

設計者安井武雄(南館)、佐野正一(北館増築部分)

施工大林組(南・北館とも)
構造形式鉄骨鉄筋コンクリート構造、鉄筋コンクリート構造
敷地面積2,466.561平方メートル(竣工時)
建築面積2,064.903平方メートル(竣工時)
延床面積18,422.908平方メートル(竣工時)、46,897.11平方メートル(南・北館の合計)
階数地下2階、地上8階建、塔屋付
高さ軒高100尺、塔屋高120尺
エレベーター数乗用4台、貨物用1台、自動車用1台、料理用1台(何れも竣工時)
竣工1933年(昭和8年)3月17日
改築1966年(昭和41年)北館増築
所在地大阪府大阪市中央区平野町四丁目1番2号

文化財指定登録有形文化財

指定日2003年(平成15年)3月18日

 竣工当時最新式のモダンな建物と言われ、建物内には事務所のほか、ガス用品陳列場、講演場、美容室、理髪場、ガス料理講習室、食堂などが設けられ、一般に開放されていました。

 なお、地下2階には自動車駐車場も設けられています。

 ガスビル2階の講演場は、当時最新の設備を誇る約600名収容のお洒落なホールでした。

 講演場では、当時デビューしたばかりの新進気鋭の指揮者、朝比奈隆氏によるコンサート、映画評論家淀川長治氏企画の名画試写会、ガスビル趣味の会では上方しゃべくり漫才の元祖エンタツ・アチャコの漫才などが行われ、いつも大勢の方々で賑わい、大阪における文化活動のひとつの拠点となっていきました(講演場は1965年に廃止)。

 一歩ガスビルに足を踏み入れると、各種の催しが開催されており、食事、喫茶、美容にと、ガスが開くモダンでハイカラな都市生活と文化を併せて楽しむことができました。ガスビルは、まさに近代文化の殿堂として広く市民に親しまれました。

 ガスビルは当時のモダンな最新のビルというだけではなく、広く地元に愛され、文化をはぐくんできたのですね。

8階の食堂は本格欧風料理を提供することで評判になり、現在も竣工当時の雰囲気を留めた食堂として営業を続けています。






 写真の最上階、カーテンが見えている部分が8階食堂です。ビルの南東角、御堂筋沿いです。壁の曲面が美しいですね。

下層部分はこうなっています。






 1,2階の外壁には、勿来(なこそ:福島県いわき市の南部)産黒御影石(花崗岩)と稲田産白御影石が張られています。

2階の横連窓(よこれんそう)は、都市生活に適した実用的でシンプルな直線と円弧を組み合わせたデザインで構成され、サッシは竣工当時まだ珍しかったステンレススチールをドイツから輸入したものだそうです。






陳列場玄関とデッキガラスのはめ込まれたコロネード(柱廊)は、バリアフリーでビルと歩道を一体化し、気軽に入れる設計になっています。






 雨でも濡れずに通れますね。

建物南西角です。






昔の写真には非常階段非常階段が写っています。(大阪ガスHPより)

https://www.osakagas.co.jp/gasbuil/leaflet/leaf_09.htm





 2階講演場の非常時の避難経路として、講演場内部より直接屋外に避難できるよう、道路に面してバルコニーと非常階段が設けられ、安全面にも万全の配慮がなされていました。

 それで、建物内部のエレベーターホールを撮影してもいいかと守衛さんに聞いたらば、防犯カメラが作動しているから、撮らないほうが良いということなので、大阪ガスHPの写真を載せておきます。

エレベーターホールの写真






 エレベーターホールの一部(4階~地下1階)は、壁にイタリア産のトラバーチン(大理石)を張り、床には沖縄産トラバーチンが敷かれていて、現在も昭和8年(1933)竣工当時の面影を残しているということです。

張り出した部分がおしゃれです。






おしゃれな街灯が。






 大阪ガスビルの街灯だから、きっとガス灯だったのでしょうね。

見上げると壮観です。






なお、大阪ガスが野村財閥の中核企業だったことから、1階には大阪野村銀行の後身であるりそな銀行の御堂筋支店が入っています。

 野村財閥(のむらざいばつ)は、野村徳七により設立された十五大財閥の1つです。小規模両替店から証券業務に参入。日露戦争、第一次世界大戦の好景気において財をなし、他業種へ参入していきました。

 1918年(大正7年)に、大阪野村銀行を設立【後の野村銀行(大和銀行):現在のりそな銀行】。1922年(大正11年)に、野村合名会社を設立。

 1925年(大正14年)に、大阪野村銀行の証券部を分社、野村證券を設立。

 金融を中心に貿易、保険、工業、紡績などにも進出していきましたが、戦後占領下のGHQによる財閥解体で野村財閥は解散されました。

 とにかく、アメリカ=GHQは、占領下で国際法もポツダム宣言も無視し、日本の主権を骨抜きにする憲法を押し付けたのを始め、制度を変えて日本を徹底的に弱体化しました。

 財閥解体もその一環として行われたのです。

 昭和20(1945)年の大阪大空襲では、周りが焼け野原になる中、被害を免れたと言われています。

罹災後の御堂筋と黒く迷彩塗装されたガスビルの風景(大阪ガスHPより)






 実は、アメリカは日本の都市を爆撃する際に、予め占領後に日本を統治支配するために接収して利用できるビルは残すようにしたのです。

 だから、東京丸の内のビルは爆撃されませんでした。

 きっと、このビルも奇跡的に残ったのではなく、接収するために残されたのでしょう。

 ですから、アメリカの予定通り、日本敗戦後の同年10月4日には、占領軍が2階講演場ならびに6階以上などを接収し、1952年(昭和27年)5月22日の接収解除まで第2宿舎として占拠されました。

 ということで、近代大阪文化の象徴、大阪瓦斯ビルヂング=大阪ガスビルでした。

 次回はガスビル食堂についてご紹介しますね。↓

南紀白浜アドベンチャーワールド&多摩動物公園のムフロンさんは角がぐるぐるだよ。 【ファイルC280】2014.02.18 

【ファイルC280】2014.02.18 南紀白浜アドベンチャーワールド&多摩動物公園のムフロンさんは角がぐるぐるだよ。

ヤギさんの祖先なんだねえ

 今回も、以前の蔵出し記事です。
 

まず、南紀白浜アドベンチャーワールドのムフロンさんから。

ご家族で和むムフロンさん。


 




こんにちは。


 




 立派な角だねえ。

こちらはご夫婦です。


 




なんか、ご主人がこっちを威嚇に来ました。


 




 うへえ、危害は加えないよお! 

ムフロンさんは警戒心が強く、特に完全に成熟した雄は気が荒く、ほかの雄としばしば争うことがあるのだそうです。

 なんてったって、この角だからねえ。

 ムフロンさんは、偶蹄目、ウシ科です。英名もMouflonさん。

野生のヒツジにはたくさんの種類がありますが、ムフロンはそのなかでも体高が70~80cm程度で、最も小型です。

ムフロンは地中海のコルシカ島、サルジニア島あたりの島が原産の野生ヒツジで、原産地からヨーロッパ本土にかけての草原や砂漠などが混在しているような山岳地帯に生息し、標高3000mに達するような高地でも姿が見られます。

 これはオオカミやヒョウなどの外敵を避けるためで、冬には標高の低いところに降りてきます。

 野生では草や木の葉を食べています。動物園では、青草、乾草、草食獣用ペレット、さつまいも、にんじんなどをあたえているそうです。

貴重な家畜として世界中で広く飼育されているヒツジは、紀元前6000年ごろにムフロンを改良してつくられたといわれています。

 ということは、北海道で食べたジンギスカンもムフロンさんの子孫なのですね。

 さっぽろジンギスカン本店の記事はこちら。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/47380195.html

 ムフロンには雌雄ともに角があるのですが、雌のものは痕跡程度か、あっても非常に小さいものしか見られません。ただでさえ小さなムフロンですが、メスはオスよりもさらに一回り小ぶりです。

 ところが、御覧のように成獣の雄の角は渦巻状にひと回りし、大きなものでは1メートル近くに達します。

ふつうは50~100頭程の群れで生活していますが、普段は雌雄が別のグループをつくっていて、雄のグループ内では角の大きさが順位を決める大きな要素になっています。


 群れのリーダーになるには重い角を持っていないといけないのですね。大変だねえ。
 
 日中は休んでいて、早朝と夕方に活発に活動する傾向が見られます。

 平均的な妊娠期間は5ヵ月程で、1産1~2子、普通は1子を出産します。
 
 雌は2~3年、雄は4年程で性成熟し、野生での寿命は雄で8~10年、雌では少し長く10~12年程度と考えられていて、飼育下での寿命は15~20年程度と言われています。

近年では生息地の開発や家畜の放牧地の拡大などによってムフロンの個体数は減少している上に、家畜種との交雑なども懸念されています。


 ムフロンの分類は複雑で、パキスタンやインド、トルコの一部にも亜種が分布しているとも言われているそうですが、国際自然保護連合(IUCN)の保存状況評価では、ムフロンを1種として扱い、絶滅危惧種(VU)としてレッドリストに指定しています。

 家畜のヤギの祖先を守ることは、種の多様性を保つためにとても大切なことです。

堂々と背筋をしゃんと伸ばしています。


 




お次は多摩動物公園のムフロンさんです。

ちょうどお食事の時間でした。


 




小さい子もむしゃむしゃ。


 




ご飯を咥えてお散歩です。


 




 小さい子は元気だねえ。

エサ籠から落ちたご飯もむしゃむしゃ。


 




 角が重なると迫力があるねえ。でもこの重い角でこの姿勢は肩が凝りそう。

最後にご挨拶。


 




 さようなら、元気でね。

四谷から溜池山王までお散歩したよ。(その10) 【ファイルET94】2014.02.13 

【ファイルET94】2014.02.13 四谷から溜池山王までお散歩したよ。(その10)

日比谷高校に関連して、日本のエリートコースとノブレス・オブリージュ。

 (その1)から読まれる方はこちら。↓
 前々回から、かつては東京一中と呼ばれた名門。東京都立日比谷高校のお散歩記事を書きてきました。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/54727318.html

東京府第一中學(現東京都立日比谷高校)【再掲】


 




 それで、昔のエリートコースと言えば、一中(現日比谷高校)一高(駒場にある現東大教養部)東京帝国大学(本郷にある現東大学部)法学部を卒業して大蔵省に入省し、官僚のトップが大蔵事務次官。国会議員、国務大臣を経て、内閣総理大臣というのが本流だったということも書きました。

旧制中学生が目指したのが、旧制高校です。

 昔の旧制高校と言ったら、今の大学の教養課程にあたり、昔の旧制中学は、今の高校のようなものだと大雑把に言われています。

だから、今の『全国高等学校野球選手権大会』いわゆる『甲子園の高校野球』は、昔は『全国中等学校優勝野球大会』として始まったのですね。

今は6.6.3(ろく・さん・さん)制といって、戦後間もなく占領下の日本で、アメリカが日本の民主化(というより愚民化)のために押し付けた小学校6年、中学校3年、高校3年、大学4年(医学部は6年)という新制ですが、旧制の学制では、小学校6年、中学校5年、高校3年、帝国大学3(医学部は4)年ということになっていました。

但し、四修(よんしゅう)という制度があって、旧制中学4年生で旧制高校を受験することができ、そこで合格した優秀な生徒は、中学5年生をすっとばして1年飛び級が出来たのですね。

それで、旧制高校というのが、エリートの教育機関でした。

今のエリートは一応東大生と言うことになっていますが、東大生の年間合格者数は3,100人程度です。

ところが、昔の国立の高等学校(これが俗にいう旧制高校)は全国で35校ありましたが、その全国35校の年間合格者の総合計数が、たった9,000人程度だったのです。

いかにその頃の旧制高校がエリートだったかが分かろうというものです。その中で更に旧制第一高校というのですから、今の東大生とエリートの度合いが各段に違っていたのです。

 しかも、昔は尋常(国民)小学校卒というのが普通でしたから。

そういった意味で、川端康成の『伊豆の踊り子』の主人公である旧制の第一高校の学生さんと、旅芸人の踊り子の娘との関係は、私たちには実感ができないのです。

 それで、旧制一中を出た秀才は、旧制一高を目指します。

旧制第一高等学校は、現在東京大学の東京大学駒場地区キャンパスとして使われています。【第一高等学校本館 時計台(現東京大学 駒場教養学部1号館):設計は内田祥三氏と清水幸重氏】


 




 それで、旧制高校から東京帝国大学に入ります。

東京帝国大学が今の東京大学本郷地区キャンパスです。【帝国大学安田講堂(現東京大学安田講堂):設計は内田祥三氏と岸田日出刀氏】


 




それにしても、『第一高等学校本館 時計台』と『東京帝国大学安田講堂』はそっくりで、ぱっと見に区別がつきません。と思ったら、どちらも内田祥三氏が設計に携わっていたのですね。

 
 旧制高校生なら、学部にさえこだわらなければ、無試験で帝国大学に入れました。

このへんの事情については、平成14(2002)年にニュートリノの観測によってノーベル物理学賞を受賞された小柴 昌俊(こしば まさとし)博士の著作より引用しましょう。

『心に夢のタマゴを持とう』小柴 昌俊著:講談社文庫P16より


※   ※    ※

◆ 一高(いちこう)へ

 それからさっき校長先生がご親切に、昭和十九年に卒業したとだけご紹介くださいましたが、私は昭和十八年の四年生のときに高等学校を受けに行って落っこちて(当時、旧制高校は中学四年生のときに高等学校を受けることができた。これを四修という)、五年生のときにまた高等学校を受けて落っこちて、一年間浪人したあとで第一高等学校(一高)というところに、ようやく受かったわけです。

 受かったときは、私は案外、成績は悪くなかったらしい。その頃、第一高等学校に理科の生徒が二百何十人ぐらい入った中の三番ぐらいで入ったそうです。

 ところが、入ってすぐ日本は戦争に負けてしまいます。

 第一高等学校というのは自治の学校で、自治寮というのがあって、全生徒がみんな同じ寮で暮らすわけです。私は寮の自治会の副委員長に選ばれました。なんだかんだとたいへん忙しいのです。だから講義にもほとんど出なかった。

 当然(?)、成績はどんどん落っこちて、卒業するときには、理科の卒業生のちょうど真ん中ぐらいでした。その頃、私は物理に行くという気持ちは全然持っていませんでした。興味を持っていたのは、ゲーテとかハイネ、ヘッセなどドイツ文学で、文学部でドイツ文学をやろうかなということを漠然と考えていました。

 けれども、ある日、とてもくやしいことがありました。

 私がお風呂に入っていたら、声が聞こえてきたんです。

◆ どこへ行くか知らないけども、物理に行けないことだけは確かだよ

 あなた方には想像もつかないことだろうけれども、戦争が終わって間もないですから、お風呂のあるところなんてないわけです。

 それで周りの焼け跡を捜しまわって、焼け残りの、まだ使える変圧器をさがしてきた。これを寮のお風呂に銅線を巻いたのを入れて、高圧線から変圧器へ入れて、その変圧器で電圧を落として電流を流してお風呂をわかした。

 このお風呂がすっかり有名になりまして、寮に住んでいる学生ばかりではなくて、先生や先生の家族も入るようになりました。窓ガラスが破(やぶ)れて寒い風が入ってきますから、お風呂の湯気がもうもうとたつわけです。だから、すぐ先に入ってる人が、誰であるかは見えない。

 その当時、第一高等学校で理科の生徒に物理を教える先生が三人いました。力学とか電磁気学とか演習とか。そのうちのいちばん年配の先生が、私に落第点をつけました。もう一人の先生というのは、私のクラスの担任の先生で、その先生は私にいい点をくれました。
 
 両方を平均して、ようやく落第しないで済みました。

 聞こえてきたのは、私に落第点をつけた先生の声で、話している相手は、その先生が非常にかわいがっている、その先生に言わせると、物理のよくできる生徒でした。

 そしたら先生の、

 「どこへ行くか知らないけれども、物理に行かないことだけは確かだよ。あいつはたぶん、インド哲学かどっかへ行くんだろう」

 という声が聞こえてきた(笑)

 私は恥ずかしいから、そっと部屋へ帰ったけれども、なんとも悔しくてしょうがない。そこで考えて、それなら物理へ入ろうと思った。

 戦争中は東大の各学科の中でも、航空学科というところが希望者が多くて入るのが難しかったのです。ですが、戦争が終わって航空学科は、全然魅力がなくなったものだから、こんどは物理に入るのがたいへん難しくなった。全体で二十九人しか採らないから、理科の中で十番以内ぐらいに入っていないと駄目だというのに、こっちは九十何番ですから、こりゃあ、ちょっと難しい。

 そこで私は覚悟を決めて、仲のいい、理科の勉強もよくできる男に頼んで、一カ月間、猛勉強をやりました。

 試験の当日も、フェリシアン化カリか、フィロリシアン化カリはどっちがどっちだというのはわからないので、そいつに教わったりなんかして、試験場に出て、ようやく入れたわけです。

 ※   ※    ※(引用終わり)

 この部分は、小柴博士の神奈川県立横須賀高等学校創立九十周年記念講演を元にしたものですが、本書は、ほかに神奈川県立横須賀市立諏訪小学校創立百周年記念講演や東京大学卒業式における式辞とともに、よく噛み砕いた小柴博士のニュートリノ物理学の研究や小柴博士の時代の学制についての解説もついているので、お勧めです。

 とにかく、とてもユーモアがあって、円満で柔和な小柴博士のお人柄がよく伝わってくるのです。

『戦争中は東大の各学科の中でも、航空学科というところが希望者が多くて入るのが難しかったのです。ですが、戦争が終わって航空学科は、全然魅力がなくなったものだから、こんどは物理に入るのがたいへん難しくなった』とありますが、戦争中は戦闘機の設計が理系の花形職業で、戦後日本を占領したアメリカが、零式戦闘機を作るほど優秀だった日本の航空産業を潰し、民主化の名のもとに、飛び級もあるエリート養成教育制度を潰したのですね。

それで、理系のエリートは、すでに長岡半太郎博士、湯川秀樹博士、朝永振一郎博士を輩出し、世界的なレベルにあって、しかも終戦直後のお金のないときは紙と鉛筆さえあればできるということで理論物理学に向かったということなのだそうです。

それにしても、『焼け残りの、まだ使える変圧器』を再利用して寮のお風呂をわかしてご近所さんにも開放したなんて!「さすがは一高の学生さんはエリートだ」って、ご近所さんは感心したでしょうね。

東京帝国大学法学部を卒業した文科系の秀才は、高文官試験【こうぶんかんしけん:正式名称は「高等試験」≒現在の国家公務員Ⅰ種試験】を受けて大蔵省(現財務省)に入省します。


 




 とても地味な建物ですが、日ごろから他省の予算を切りまくって恨まれているので、あまり派手な建物にできないのでしょうね。

 官僚のトップは、事務次官ですから、大蔵事務次官が公務員のエリートでした。

それで、国会議員になります。


 




そして、首相になって、首相官邸で執務をします。


 




 上の建物は、現在の首相官邸ですが、以前の首相官邸の建物は、現在ここから南東の隣に移築されて首相専用の内閣総理大臣の官舎=首相公邸として再利用されています。

それでもって、現在の首相公邸(旧首相官邸)です。


 




 ということで、いくら民主主義だといっても、今も昔もこういった人たちによって私たちの暮らし向きが大きく変わっていくので、国会議員を国民が選ぶ以上、無関心ではいられないのです。

 『ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)』というフランス語は、『高貴さは(義務を)強制する』という意味で、日本語では『位高ければ徳高きを要す』ということになるのだそうですが、現代の日本がそういう人たちを生みにくいような世の中になっているような気がしてなりません。

 昔は頭の良い子がいたら『末は博士か大臣か』って羨ましがられていたようですが、今は博士はともかく、大臣は昔ほど尊敬されていないようですからね。

 次に続きます。次回は日枝山王神社の記事です。

大阪北浜の大阪証券取引所ビルを見学したよ。 【ファイルT205】2014.02.09 

【ファイルT205】2014.02.09 大阪北浜の大阪証券取引所ビルを見学したよ。

個人だと飛び込みで資料を見学することが出来るねえ。

 前回は大阪北浜の大阪証券取引所ビルについて記事にしました。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/54747542.html

 今回は、ここで見学をします。

 詳細については、大阪取引所見学のサイトをご確認ください。↓
http://www.jpx.co.jp/learning/tour/ose/

 私は個人で行ったのですが、個人の場合は予約なしで正面玄関から入ってすぐ左の大証直通エレベーターで4階に上がり、降りたところにある受付に住所氏名を書いたらそれでOKです。

 特にHPに書かれているような見学者用のバッジは、渡されませんでした。

 個人の場合見学できるのは、4階の展示コーナーと、5階の大証マレットのみでした。

まず、4階の展示コーナーから。

株式取引所設立趣意書です。発起人の五代友厚さんの名前が記されていますね。






 大阪証券取引所前に銅像が建っている五代友厚さんの記事はこちら。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/54717262.html

大阪株式取引所創立株主人員姓名便覧(株式名簿)です。






大阪株式取引所の発起人、五代友厚さんが、筆頭に書かれています。

五代友厚さんのみが士族ですが、その後に控えているのは、平民とはいえ、鴻池善右衛門【こうのいけぜんえもん=江戸時代を代表する富豪=鴻池家により1877年5月に設立された第十三国立銀行が、三和銀行の前身。現在は三菱東京UFJ銀行に統合されている】、三井元之助、住友吉左衛門、という江戸時代の豪商から近代財閥に繋がるビッグネームです。

実力主義の実業界で、五代さんがこんれほどの豪商をまとめたのは、いかに五代さんの能力とリーダーシップが凄かったかということが分かります。


株式会社大阪株式取引所株券 拾株券(10株券) 金五百圓(金五百円)です。






 大正拾年壹月拾五日(大正10年1月15日)とあります。10株500円ということは、一株50円だったんだねえ。

ところで、この証券に描かれている証券取引所のビルが、円筒形ドームじゃありません。

実は、円筒形ドームの証券取引所ビルは2代目で、初代株式取引所は、こんな形をしていて、下の絵はがきの左に写っています。






 それから以前当ブログでも御紹介した、今『北浜レトロ』という、お洒落なティールームとして使われている『株仲買商の商館』も写っていますね。

 『北浜レトロ』の記事はこちら。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53096604.html

ついでに、オリジナルの絵はがきも掲載しますね。






立会場内の場電席(証券会社が注文を受ける場所)で使用していた電話、レシーバーです。






活況時商いを一時中断させる際、合図に使用していた笛です。






 今でも、値幅制限(ねはばせいげん)というのがあって、株価の異常な急騰・暴落を防ぐために、株価の1日に変動できる上下の範囲を制限して売買を中断します。この制限値幅の限界まで上昇することをストップ高、下落することをストップ安といいます。

立会開始の合図に使われていたハンドベル(振鈴)です。






 なんか、昭和初期の映画で、小学校の授業が始まるときに、小使いさんがカラカラ鳴らしていた鐘みたいですね。

 ニューヨーク証券取引所では、今でも、立会開始と終了の合図として鐘を鳴らしているそうです。こういう歴史の浅い国ほど、案外と昔の慣例を大切にします。

札掛け当時の札です。






 上のような黄色の札は、特定銘柄(銘柄府だが一般名柄より大きい)及び貸借銘柄なのだそうです。

 『平和』ということは、大阪証券取引所の建物を所有する平和不動産(株)の特定銘柄・貸借銘柄札なのかな?

かつての立会取引(たちあいとりひき)の情景です。






かつての証券取引所のイメージはこんな感じだったんだねえ。東京築地のマグロの競り(セリ)みたいに、立会場で証券会社の売買担当者が、ハンドサインで株の売買をしていました。

大阪証券取引所のハンドサインです。

数字





業種






ハンドサインは、立会場における証券会社の売買担当者の主要な情報伝達の手段で、売買注文の内容や売買結果を正確・迅速に表すとことができます。これは取引所によって違うようです。


ところが、平成11(1999)年、売買の全面システム化によって売買は全てコンピューターによる電算処理で行われ、このような情景を見ることができなくなりました。

そのお陰で、今では昔のように証券会社の社員を通さずに、一般の人でも、直接パソコンから株の取引ができるので、東証(兜町)だ大証(北浜)だという区別をする意味が無くなってしまいました。


そもそも北浜(大阪証券取引所)の地盤沈下は、関西の人でも電話で兜町(東京証券取引所)の取引ができるようになってから始まったと聞いたことがあります。

株式の取引は売買量の多い市場に集中するのは理の当然です。


それで、北浜(大阪証券取引所=大証)は、江戸時代の堂島米会所(どうじまこめかいしょ)時代の原点回帰により経済都市の座を復権しようとします。


大坂は堂島米会所で行われた帳簿上の差金(さきん)の授受によって決済を行う『帳合米取引(ちょうあいまいとりひき)』が、世界で最初の公設の商品先物取引(しょうひんさきものとりひき)だということを以前記事に書きました。↓

http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53022987.html

つまり、今経済アナリストや経済評論家が『リスクヘッジ』とか『リバレッジ』とか『デリバティブ』と能書きを垂れていますが、それらの世界発祥の地が江戸時代の『天下の台所』=大坂だったのです。

この伝統から、大阪株式取引所では、草創期から帳合米取引をベースにした定期取引(および後の清算取引、現行法でいう先物取引(futures)の方法にあたる)が行われていました。

ただし敗戦後、証券業界では証券取引法に基づく証券取引所開設の際に証券業界で清算取引の再開を求めていたのですが、GHQにより清算取引の禁止を求められた経緯もあり個別株式の先物取引の復活は、今日に至るまで実現されていないようです。

前後の大阪証券取引所の沿革をみてみます。(【 】内は証券業界に関係する事象)。


昭和62(198)7年6月9日 - 「株先50」の取引開始(日本初の株価指数先物市場)。






昭和63(1988)年9月 - 日経225先物市場開設。

平成2(1990)年 - 世界最大の株先物市場に発展。

【平成10(1998)年 - 外国為替及び外国貿易法が改正され、ダイワフューチャーズ(現・ひまわり証券)、豊商事などがFX(外国為替証拠金取引)取扱いを開始、ブロードバンドの普及も手伝って市場が急速に拡大する。】


平成11(1999)年売買の全面システム化による立会場廃止。


平成19(2007)年12月4日 - デリバティブの売買高が国内で初めて年間1億枚を突破。


【平成20(2008)年9月15日-アメリカ合衆国の投資銀行であるリーマン・ブラザーズが破綻し、これが世界的金融危機の大きな引き金となったいわゆるリーマン・ショックが発生。】


平成21(2009)年7月21日 - 国内の証券取引所では初めて、外国為替証拠金取引(FX)市場である「大証FX」を開設。

平成25(2013)年1月1日 - 大阪証券取引所(初代)より取引所運営部門を承継し、現商号に社名を変更。大阪証券取引所(初代)は東京証券取引所グループを吸収合併し、社名を日本取引所グループに変更。


そして、ついに!


平成25(2013)年7月16日 - 現物市場(第一部・第二部・ジャスダック)を東京証券取引所へ統合。


これにより、以降、大阪証券取引所は、デリバティブ(金融派生商品)特化型の取引所となります。


4階の資料コーナーを見終わって、5階の大証マレット(売買監視ルーム)を見学します。






 フラッシュは禁止ですが、職員の顔が写らなければ撮影はOKということです。

株の売買は、コンピューターがやっているので、ここでは、株の不正取引が行われていないか監視業務をしているということです。

 活気の漲(みなぎ)る立会(たちあい)があった時代と様変わりです。

 ということで、大阪経済の中心、北浜の大阪証券取引所についての記事でした。

エボシカメレオンさんはしっぽぐるぐるだよ。 【ファイルC279】2014.02.05 

【ファイルC279】2014.02.05 エボシカメレオンさんはしっぽぐるぐるだよ。

ポールダンスをしていたねえ

 今回も、以前の蔵出し記事です。
 
 例の名古屋市東山動物園の爬虫類コーナーです。

今回御紹介するのは、天井の金網にぶら下がっていたエボシカメレオンさん。


 




 こんにちは。

 




 尻尾を木に巻き付けて、ポールダンスをやっているねえ。

エボシカメレオンさんは、頭の大きな帽子のようなでっぱりが特徴です。

それで、和名の『エボシカメレオン』というのは、頭の形が『烏帽子(えぼし)』を被っているように見えることに由来するのだそうです。


烏帽子(えばし)を被った吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ/よしなか)さん。


 




 元禄14年(1701年)3月14日午前10時過ぎ、城内松之大廊下において、吉良上野介(きらこうずけのかみ)さんは、播州赤穂(ばんしゅうあこう)藩の浅野内匠頭長矩(あさの たくみのかみながのり)さんから背中と額を斬りつけられました。

 『忠臣蔵』で有名な『刃傷松の廊下(にんじょうまつのろうか)』ですね。

 烏帽子というのは、中に鉄の輪が入っているので、浅野さんが額に切りつけた殿中差(でんちゅうざし)の小サ刀(ちいさがたな)はこの鉄の輪にあたって、一命を取り留めたともいわれています。

吉良上野介さんは烏帽子(えぼし)を被っていたお陰で命拾いしたんだねえ。

 エボシ(烏帽子)カメレオンさんも、殿中松の廊下で浅野内匠頭さんに切りつけられても大丈夫だねえ。

 でも、そのせいで赤穂義士に討ち入りで斬り殺されて、歴史に残る悪者にされたんだから、たまったもんじゃないねえ。

 吉良上野介さんは領地の三河国幡豆郡(みかわのくにはずぐん)では、領民に優しい名君として慕われていたそうですから、諸説入り乱れて、事件の真相はよく分かりません。

 それで、エボシカメレオンさんは、爬虫綱、有鱗目、トカゲ亜目、イグアナ下目、カメレオン科、カメレオン亜科、カメレオン属、カメレオン亜属、エボシカメレオンという種です。

 英名は“Veiled chameleon”。つまり、『ベールをかぶったカメレオン』です。

 これなら、和名の『エボシカメレオン』の方が、センスが良くってぴったりな名前ですね。

エボシカメレオンさんは、中東のアラビア半島南の高原地帯にお住まいのイエメン固有種です。

最大全長65cm。メスよりもオスの方が大型になり、メスは最大でも全長45cm程で、体色は環境や気分、体調によって変化するのですが、基本的には緑色にオレンジ、黄、褐色、白の帯模様が入ります。

 背面と腹面の正中線上に棘状の鱗(クレスト)が並んでいます。

オスの成体は頭部が上方へ高く伸び、幼体やメスの成体は頭部があまり高くなりません。また、オスの後肢の踵には突起があります。ということは、この人は、オスですね。


 




 メスは妊娠すると体色が黒く変色するそうです。

 高地にある湿度の高い森林に生息します。危険を感じると体を大きく膨らませて体色を変化させ、口を大きく開けて警戒音を出して威嚇行動を取ります。

 食性は動物食傾向の強い雑食で、昆虫類、節足動物等を主に食べますが、カメレオンとしては珍しく植物の葉や果実等も食べます。

 エボシカメレオンさんの生息地は降雨量が少ないため、植物質を取ることで水分を摂取するという環境に適応しているとされているんだって。

 繁殖形態は卵生。1回に20-72個の卵を地中に産み、卵は150-200日程で孵化します。

 幼体は生後1年で成体と変わらない程の大きさに成長し、寿命は5年前後と考えられているそうです。

 どのカメレオンも野生では絶滅の危機に瀕していて、エボシカメレオンさんもその例に漏れずワシントン条約附属書IIに記載されているのですが、カメレオンの中でも比較的病気に強く飼育しやすいこともあり、野性じゃない飼育下繁殖個体が日本にも輸入されて多く流通していて、カメレオン飼育の入門種と紹介されることもあるようです。

すっかりと、背景の緑に溶け込んでいるねえ。さすがはカメレオンさんだねえ。


 




最後に高い所からごあいさつ。


 




 さようなら、元気でね。

 とはいえ、寿命は約5年だそうですから、まだご存命なのか気にかかるところなのですが、飼育だともう少し長生きするのかな?
 

四谷から溜池山王までお散歩したよ。(その9) 【ファイルET93】2014.02.01 

【ファイルET93】2014.02.01 四谷から溜池山王までお散歩したよ。(その9)

『赤頭巾ちゃんきをつけて』庄司薫著から読み取る、東京都立日比谷高校における学校群と東大学園紛争での東大入試中止。

 (その1)から読まれる方はこちら。↓
 前回は、かつては東京一中と呼ばれた名門。東京都立日比谷高校のお散歩記事を書きました。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/54727318.html

東京都立日比谷高校【再掲】


 




一中一高東大というエリートコースに異変が起きたのが、ちょうど高度成長期の日本だったのですね。

アジアで最初の東京オリンピックが大成功裏に終わった翌年の昭和40(1965)年。

戦後民主主義の時代風潮や、受験戦争と言われたベビーブーム世代の競争激化。

それから中ソといった共産圏から支援・影響を受けた左翼運動・学園紛争に迎合した形で、進学指導を中止する『小尾通達(おびつうたつ)』がなされ、補習科の廃止や進学指導を中止する動きが広まって、公立教育のゆとり化がなされたのです。

さらに昭和42(1967)年には従来の学区合同選抜制度を廃止して学校群制度を導入し、三田・九段と3校群を形成しました。

そのため受験者の地域が限られたことで都立校の教育レベルというか、受験進学校とそうでない学校の受験技術レベルが平準化します。

だからといって、東大始め、有名大学の進学志望者が減るわけでもなく、そういう生徒達は日比谷高校から国立附属や私立難関校へどんどん流れだします。

旧制東京一中だった名門日比谷高校は、ちょうどその頃東大合格者数で躍進いちじるしかった関西の私立、灘高校から東大合格者数トップの座を奪われ、同じ都立校である西・戸山などと比較しても急速に東大合格者数の順位を下げることになります。


それは、『ゆとり世代』を生み出したと言われる、平成14年(2002)年度(高等学校は2003年度)学習指導要領による教育(『ゆとり教育』)の先例だったのです。


政治家というのは、選挙で目新しいことをアピールするため、前任者の逆の政策を打ち出しますから、反対の反対で結局元に戻り、同じ過ちを周期的に犯します。


そのあたりのことが『赤頭巾ちゃんきをつけて』庄司薫著:中公文庫版で活写されています。


前回も書きましたが、主人公の(かおる)青年は、日比谷高校生で東大志望だったのですが、東大紛争による昭和44(1969)年度の東大入試中止でその年の受験を諦め、浪人生活を余儀なくされているという設定です。


※   ※   ※(P65より)

 ところが、ついてない時はあくまでついてないので、由美にバッタリどころか、ぼくは、ぼくがわが家の周辺一里四方のなかにいる全PTA的奥さんの中で最も警戒するべきひとに、とっつかまってしまった。つまり彼女は、その高校二年生を頭にする二人の息子をみんな附属に入れていて、つまりなんていうか、教育問題というか大学問題にいまや興味最高潮といったタイプの女性なのだ。
(中略)P67
 彼女は、東大あるいは大学というタイトルの見える全雑誌・週刊誌を読破したんじゃないかと思うほどの豊富な知識をバックに、(なにしろサンパ・ミンセーなんて言わずに、いちいち性格に反代々木系・代々木系なんて言うのだ)大学紛争を論じ続けていたが、ぼくはその彼女の、変な言い方だけれど、ほとんど幸福そのものみたいな顔を眺めながら、いったいこれはどうなっているのだろうとつくづく考えたものだ。
(中略)P71
 ところで彼女は、やっと一とおりの大学紛争批判を終っていよいよ本題に入ってきた。
 しかしさすがに専門家(?)だけあって、強烈な角度で入ってきたものだ。

「あたしはね、そりゃ受験生はみんな可哀そうだと思うけれど、でも特に日比谷のみなさんはお気の毒だと思うのよ。特にさんたち。だって去年灘に抜かれたんでしょお?

一人だけだけど。今年こそ首位ダッカンっていうのですごかったんでしょお?」

 「いいえ、とりわけどうってことはありません。」

「あら、とぼけてる。だって来年じゃもうだめですもの、ね? 学校群ってだめでしょお?」

 「それは考え方によると思いますが。」

「そりゃまあそうでしょうけど、でも、あたし思うんだけれど、はっきり言って、日比谷もさんたちで最後みたいなもんでしょお?」

 「………。」

「あたし思うんだけど、ほんとにさんたち気の毒だと思うのよ。せめて東大へすんなり入れればいいのに、下からは学校群だし、東大はだめだなんて、ね? 板ばさみね。」

 「ああ、それはそうかもしれません。」

「大体あたし思うんだけど、この世の中に頭のよい子と悪い子がいるのは、どうしょうもないことじゃない? それを無理に一緒にしようなんて、おかしいと思うのよ、ね?」

 「………。」
 あ~あ、ぼくはこの学校群の問題には全く弱いところがあるのだ。というのは、彼女のちょっと挨拶のしようもないほど明らさまな見解は、ある意味で事実そのものであって、この学校群やなんかのことでぼくが考えたり感じたりしたことの枝葉の部分を(実はここがぼくにとっては大事なのだが)うっかり刈り込むと、まさに彼女の意見に要約されかねような気がするのだから。

つまり、ぼくは確かにいわゆる「学校群以前」の日比谷の最後の生徒で、学校群によって、まさに見事というかなんというか、すっかり変わってしまった日比谷の姿をいわば砂かぶりで眺めていたわけなのだ。

(中略)

要するにまず以前の、つまりぼくが一年生だったころの完全に学校群以前の日比谷高校というのは、或る意味あんなにもいやったらしい学校はおよそどこ探してもなかったといっていい。それも、よくみんなが考えるような、受験第一の優等生が勢揃いしたいやらしさなんて、そんな可愛げのあるものじゃないのだ。

つまり、当時の日比谷といえば東大受験競争の総本山みたいなものだってことは分かりきったことなのに、入ってみると試験なんて年に二度っきりで、成績の発表なんてものもないから、誰ができて誰ができないのかという優等生にとって肝心なこと(?)すらさっぱり分からないような仕組みになっている。

 その上授業そのものも、ほとんど生徒が交替で勝手な講釈をやっているなんてわけだ。そして馬鹿でかいオーケストラがしょっ中演奏会をやってたり、おかしな雑誌がボコボコ出たり、とにかくクラブ活動が滅多やたらとさかんで、生徒会活動の方もいつも超満員の生徒総会を中心に猛烈に活溌で、といったありさまで、

これを要するに、なんてことだ、学校中が受験競争なんて全く忘れたような顔をして、まるで絵にかいたような戦後民主主義の理想みたいなものを演じていたってわけなのだ。

 まさに欺瞞的というかキザというかいやったらしいというか、どうしようもないインチキ芝居を学校全体で足なみ揃えていたといっていたといってもいい。
 そして生徒たちときたら、下級生にやたらと丁寧でやさしい上級生を初めとしてみんなそろいもそろって礼儀正しく、女の子には親切で(女の子は数も男の三分の一で、それに他を落ちて「日比谷に廻されちゃったの」なんていう可愛い足弱さんがいっぱいいるってな、ちょっとした西部劇の雰囲気なんだ)、とにかく上から下まで一人前の紳士面をしてやっていたし、先生も先生で、息子同然の思春期のニキビ生徒たちが一人前の顔をするのを寄っていたかって持ち上げる、つまり生徒の主体性を尊重するというお芝居を一生懸命やっていたわけだ。

なかでも傑作なのは、学年の変わり目に、なんと生徒の方に、その年とる講義と先生を選ばせる儀式で、これはもう先生も生徒もキザが過ぎて気が狂ったみたいなものだった。

つまりぼくたちは、或る朝一学年全員が校庭に集まってきて、それぞれの思惑に従って、一課目ごとに好きな先生を選び、そして好きなクラス担任を選んでその旗のところに集まる(先生の方は、昔の茶店のおやじよろしく、ほんとうに旗を立てて、どうぞ私の店へってな調子で待っているんだから呆れちゃう)。

(中略)
 つまりこれは、例の生徒の主体性を尊重するという名のもとに行われるお芝居の典型みたいなものなのだが、(中略)そしてここにさらに例の芸術派の大活躍が加わる。芸術派は文学派にしろ音楽派にしろ美術派にしろみんな大天才みたいな顔をしていて、あっちこっちでしょっ中雑誌は出るわ音楽会はあるわ展覧会はあるわで、それに他の連中もみんないっぱしの評論家面をしているのだからそのまあいや味といったらたまらない。
(中略)

そして実際問題としてこの学校群制度は、この日比谷のいやったらしさを実に見事に一掃したものだ。要するに、インチキお芝居は終わった何もかも、ということになったのだ。

(中略)

年二回の試験なんてカッコよさもぼくたちを最後に終わりとなり、実力テストが繰返されるようになり、もちろん例の旗立てて先生を選ぶなどという大インチキ儀式もかっきりぼくたちで最後となった。

(中略)

みんな小サラリーマンのように受験受験で明けくれて、上級生が生徒総会に誘っても、勉強がありますから、と平然と断る生徒が入ってくるようになったのだから。

要するにお芝居はやめよう、キザなインチキはやめて、受験生は受験生らしく率直に受験勉強に邁進しようということなのだ。


※   ※   ※(以上引用終わり)

考えてみると、東大全共闘というのは、国家独占資本主義体制を打倒するためにエリート養成機関の東大を破壊すると言っていたようですが、そういった行動は、このように進歩的な民主主義という名の偽善の下に育った学生が引き起こしたのですね。

それで、やっていたことといったら、結局は、支那共産党毛沢東の組織した紅衛兵の真似事だったわけですが。


後年、自民党をぶっ壊すと言って総理大臣になった慶応の卒業生や、大阪府大阪市をぶっ壊すと言って大阪府知事、大阪市長になった早稲田の卒業生が出てきたのですが、これは“大衆受け”をする結構根が深い問題なのです。

英語の『リ・ストラクチャリング(restructuring)』、ロシア語の『ペレ・ストロイカ(перестройка)』、日本語の『リストラ=再・構築(というより、今では従業員の馘首という意味になっていますが)』という言葉がずっと流行りましたね。いずれも同じ意味です。

進歩的であることを標榜するマスメディアは、改革というのを絶対的な真理だと思い込んでいる、おかしな宗教に染まっているようですが、彼らが絶賛した改革がなされる度に世の中悪くなっています。

そういえば、アメリカをぶっ壊すとは言いませんでしたが、「チェイジ(Change)!」といってアメリカ大統領になった人もいます。この時も、外国の出来事なのに、日本のメディアはその大統領とアメリカの民主主義とやらを褒めちぎっていました。

実は、エリート校ほどリベラルなのは、弊衣破帽(へいいはぼう)の蛮カラ旧制高校生の時代から、いやそれ以前の福澤諭吉がいた頃の緒方洪庵の適塾の頃からそうだったのですね。

大東亜戦争の際も、最後まで長髪が許されていたのが一高東大生だったのです。

今もエリート校ほど校則が緩くて早くから制服を廃止して自由だったりします。

というか、受験という目的があるから、別に落ちこぼれるのは本人の勝手だからご自由にということで、教育指導なんてしなくてもみんなそれなりにエリート意識でもって自分を律するのですね。

こういう学校で育った世間知らずのエリートが、世の中のあり方や、いわゆる底辺校の教育方針まで決めるのですから、これは結構怖いことなのです。

本当に「この道はいつか来た道」なのでした。

 次に続きます。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/54777740.html

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