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首相公邸(旧首相官邸)の幽霊にまつわるお話(下)。【ファイルET102】2014.09.27 

【ファイルET102】2014.09.27 首相公邸(旧首相官邸)の幽霊にまつわるお話(下)。

幽霊が出るか出ないか国会質疑になったねえ。

(上)の続きです。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/55216609.html

前回ご紹介したように、最初は、鳩山由紀夫首相の首相公邸の贅沢改築の話だったのが、安倍政権になって、安倍首相がなかなか首相公邸に移らないのは、幽霊の噂があるからではないかという話になってきたのですね。

最初は、くだらない子供のような質問から始まりました。

※   ※   ※

「そういう子供っぽいことやめて」首相、民主・小西氏にあきれ顔

 2013.3.29 22:20 産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130329/plc13032922230023-n1.htm

 




 参院予算委員会で質問に答える安倍晋三首相=29日、国会・参院第1委員会室(酒巻俊介撮影)

 「そういう子供っぽいことは、やめましょうよ」

 安倍晋三首相が29日の参院予算委員会で、憲法の条文に関する細かい質問を続けた小西洋之氏(民主)をたしなめる場面があった。

 小西氏から「包括的な人権規定といわれる憲法の条文は何条か」などと執拗(しつよう)に質問され、首相は「クイズのような質問は生産的ではない。聞かなくても調べればいいじゃないか」と不満顔。首相を指さして「知らないとは内閣失格だ」と挑発する小西氏に、「大学の講義ではない」「このやりとりに何の意味があるのか」とあきれていた。

 直後に質問した中西健治氏(みんな)が「第何条かという質問はしません」と宣言すると、首相は「予算委員会にふさわしい質問だ」と笑顔を見せた。

※   ※   ※

“決められない”公邸引っ越し、原因はアノ人の意向?

 2013.4.6 07:00 産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130406/stt13040607000000-n1.htm

 「100日前、われわれは政権につきました。その時は進まぬ復興、そして長引くデフレ、行き過ぎた円高、冷え込んだ日米関係、時計の針が止まったような状況でした。『この状況を変えよ』との国民の声でわれわれは政権につきました」

 「この100日間、何とか時計の針を動かすために、結果を出すために、懸命に頑張ってきました。国民の皆さまが少しでも時計は動き始めたと、そのように思っていただければ本当にうれしい限りでありますが、まだまだこれからわれわれ本格的な結果を出していくために、さらに努力をしていかなければならないと思っています」

 政権発足100日を迎えた4日午前、首相官邸に入る際に記者団から感想を問われた安倍晋三首相は、神妙な表情でこう語った。政権発足から100日までは「ハネムーン期間」と言われ、マスコミも政権批判を控え気味だ。“アベノミクス”の好調ぶりを背景に高い支持率を維持する首相だが、夏には参院選も控え、改めて気を引き締めているようだった。

 大胆な金融緩和、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)交渉参加入り表明、米軍嘉手納基地以南の施設返還計画策定など、この100日間でさまざまな政治決断をしてきた首相が、いまだに決め切れていないのが公邸への引っ越しだ。

 現在の公邸は延べ床面積約7000平方メートル。昭和4年に完成した旧官邸を、新官邸の建設に伴い約50メートル南へ移築して大改修し、小泉純一郎政権時代の平成17年4月から公邸として使用している。

 第1次政権では首相就任から62日目に公邸へ引っ越した首相だが、今回は100日を超えても、その兆候はない。渋谷区富ケ谷の私邸から約15分かけて官邸まで公用車での通勤を続けている。今月22日までに引っ越さなければ、現在の公邸で首相就任から公邸入りまでの期間が一番長かった麻生太郎元首相(現副総理兼財務相)の118日を超える。

 公邸入りのメリットとしては、官邸までの移動時間が省けるほか、首相を狙ったテロ行為に対しても万全の警備ができる。公邸は24時間態勢で情報収集できるなど官邸に準じた執務機能を有しており、非常事態への即時対応も可能だ。

 そんな公邸の危機管理上の利点を熟知する首相だが、首相周辺の1人は「首相から力強く『公邸に引っ越しする』という話を聞いていない」と説明する。4月中は土日のどちらかに公務があり、大型連休前半もロシア、中東訪問の日程が入っている。引っ越しのためのまとまった休みが取れず、首相が積極的に引っ越そうという気分にならないのも分からなくはない。

 さらに、引っ越しが決まらない大きな原因といわれているのが昭恵夫人の意向だ。首相の地元の山口で米作りに携わったり、東日本大震災の被災地支援に取り組んだりと、首相に引けを取らないほどの多忙ぶりで、「引っ越しにあまり乗り気ではない」(官邸関係者)という。第1次政権時にも話題になった昭恵夫人がかわいがるミニチュアダックスフントの愛犬、ロイの世話をどうするかという問題もある。

 その昭恵夫人の交流サイト「フェイスブック」には、モンゴル訪問から帰国する政府専用機の中で“爆睡”する首相の写真がアップされている。昭恵夫人が「総理大臣といえども一人の人間です」と書き込むなど、首相も陰では少しお疲れのご様子。公邸は「部屋が広すぎて落ち着かない」(首相経験者)との指摘もあり、体調管理に気を使う首相としては、昭恵夫人の意向も踏まえながら、慎重に公邸入りの時期を考えざるを得ないようだ。(桑原雄尚)

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公邸に幽霊?「承知していない」政府、答弁書を閣議決定 民主の追及に

 2013.5.24 12:33 産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130524/plc13052412340009-n1.htm

 政府は24日、首相公邸に幽霊が出るとの噂について「承知していない」とする答弁書を閣議決定した。

 昨年末の就任以来、安倍晋三首相が公邸に引っ越さないことを踏まえ、「幽霊の噂は事実か。首相が公邸に引っ越さないのはそのためか」とした民主党の加賀谷健氏の質問主意書に答えた。

 公邸は昭和11年、旧陸軍の青年将校が起こしたクーデター「2・26事件」の舞台となっており、犠牲者の幽霊が出るとの噂話がある。答弁書は「危機管理については遺漏のないよう万全を期している」とした上で、首相の入居時期について「諸般の状況を勘案しつつ判断されるものと承知している」とした。

※   ※   ※

首相公邸:「幽霊は出ない」 政府答弁書

 毎日新聞 2013年05月24日 14時30分(最終更新 05月25日 00時40分)
http://mainichi.jp/select/news/20130524k0000e010273000c.html

 首相公邸に幽霊は出ない--。政府は24日、首相公邸にまつわる「怪情報」を打ち消す答弁書を閣議決定した。「2.26事件等の幽霊が出るとのうわさがあるが事実か」という加賀谷健参院議員(民主)の質問主意書に答えた。ただ、菅義偉(よしひで)官房長官は記者会見で「幽霊が出そうな気配はあるか」と問われ、「言われればそうかな、と思いました」と思わせぶりに答えた。

 公邸は旧官邸。1936年の2.26事件では陸軍の青年将校らが官邸を占拠し、岡田啓介首相の義弟で秘書だった松尾伝蔵大佐を射殺した。

 安倍晋三首相は就任以来、東京都内の自宅から通勤しており、官邸を公邸として使うようになった2005年以降、入居までにかかった日数の最長記録を更新している。加賀谷氏は「幽霊が理由か」とただしたが、答弁書は「承知していない」とにべもなかった。【中島和哉】

※   ※   ※

首相公邸で幽霊の気配? 「言われれば」と菅氏

 2013.5.24 19:58 産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130524/plc13052420010020-n1.htm

 菅義偉官房長官は24日午後の記者会見で、首相公邸に幽霊が出るとのうわさ話をめぐり「気配を感じるか」と問われ、「いろんなうわさがある。言われればそうかなと思う」と述べた。午前の閣議では、うわさについて「承知していない」とする答弁書を決定したが、これに冗談めかして“反論”した形だ。

 菅氏は、安倍晋三首相が21日夜、全閣僚を集めた食事会を公邸で開いた時に、出席者から幽霊の話題が出たことも明らかにした。

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公邸の幽霊話再び 「おはらい」提案も

 2013.5.27 22:34産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130527/plc13052722440029-n1.htm

 安倍晋三首相が27日夜、首相公邸で開いた食事会で、幽霊話が再び持ち上がった。公邸に幽霊が出るとのうわさは、政府が24日に閣議決定した答弁書で「承知していない」と否定したばかり。ただ「政府見解」を信じ切れないのか、参加者から「おはらいをしましょう」との提案も出た。

 首相が公邸に招いたのは各府省の副大臣。出席者によると首相はそれぞれの労をねぎらい、参院選への協力を要請。自らが案内役になって公邸内の旧閣議室などを見学した。その際にまた幽霊話が出たため参加者がおはらいを進言すると、首相は笑って聞いていたという。
 幽霊話は今月21日夜、首相が全閣僚を公邸に集めた食事会でも出ている。

※   ※   ※

安倍首相「森元首相は足を見た」=自身は都市伝説と否定的-公邸の幽霊話

 (2013/06/01-11:34)時事ドットコム
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2013060100154

 「森喜朗元首相がお化けの一部を見たという話も伺ったことがある。(幽霊には)足がないと言われているが、足の部分だけを見たと(聞いた)」。安倍晋三首相は1日放映の読売テレビ番組で、首相公邸に幽霊が出るとのうわさに関してこんなエピソードを紹介した。
 もっとも、自身がうわさを信じているわけではないようで、番組で首相は「都市伝説」と指摘した。公邸に引っ越さずに私邸暮らしを続けていることと、幽霊のうわさ話との関係については「全く無い」と語った。

※   ※   ※

公邸入居しない首相「幽霊が出るから嫌。一緒に住もうよ」

 2013.7.30 23:07 産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130730/plc13073023070024-n1.htm

 「幽霊が出るから嫌なんです。一緒に住みませんか」。安倍晋三首相は30日夜、自民党幹部を公邸に招いた会食で、就任から7カ月経ても公邸に入居しないことについて「怪談話」を持ち出して笑いを誘った。

 かつて首相官邸だった公邸は昭和11年の「2・26事件」の舞台で「犠牲者の幽霊が出る」との噂話が絶えない。

 首相は6月、「都市伝説」と分析し、公邸に入居しない理由との関連性を否定していたが、「森(喜朗元首相)さんがお化けの一部を見たという話は聞いたことがある」と明かしたことも。

 同居を勧められた出席者は即座に返答した。「嫌です」。

※   ※   ※(以上引用終わり)

ということで、どうでも良いことなんですが、本当に悠長なものです。

幽霊はいません。もしいたとしても全然怖くありません。

幽霊がもしいたとしたら、無茶苦茶な構造改革や労働法改悪でデフレを悪化させた小泉純一郎元総理や、第6代 総務大臣をつとめ、思いっきり派遣社員増大施策を推進して、その論功行賞で、現在、賄賂職のパソナグループ取締役会長を務めている竹中平蔵氏なんかは、過労死者の怨霊によって、とっくの昔に、呪い殺されていないとおかしいのですから。


為政者の悪政は幽霊よりずっと悪質で恐いのです。


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首相公邸(旧首相官邸)の幽霊にまつわるお話(上)。 【ファイルET101】2014.09.27 

【ファイルET101】2014.09.27 首相公邸(旧首相官邸)の幽霊にまつわるお話(上)。

幽霊が出るか出ないか国会質疑になったねえ。

 前回までは、『四谷から溜池山王までお散歩したよ』という記事を連載してきました。
(その1)から読まれる方はこちら。↓
 http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/54423550.html

その中で、旧山王ホテル(現山王パークタワー)が昭和11(1936)年)2月に、青年将校を中心としたクーデター、すなわち二・二六事件では、この山王ホテルが反乱軍に占拠されて、クーデター側の司令部となったという生々しい歴史があったということについて書きました。

http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/55189493.html

二・二六事件は、基本的に皇道派(こうどうは)と、統制派との派閥争いがあって、その中で、政財界(皇道派がいうところの『君側の奸【くんそくのかん:君主の側で君主を思うままに動かして操り、悪政を行わせるような奸臣】」』を排除して天皇親政による国家改造を目指す皇道派の中にあって、国体原理派を自認する青年将校を中心に1483名の兵を率い“昭和維新”と称して政府中枢を襲ったクーデター未遂事件です。

といっても、事件そのものの背景は複雑で、未解明な部分もあって、軽々には語れません。


まず、内閣総理大臣・退役海軍大将の岡田啓介氏は天皇大権を掣肘(せいちゅう)する「君側の奸」として襲撃の対象となりました。


全体の指揮を栗原安秀中尉が執り、第1小隊を栗原中尉自身が、第2小隊を池田俊彦少尉が、第3小隊を林八郎少尉が、機関銃小隊を尾島健次曹長が率いました。

反乱部隊が総理大臣官邸に乱入する際、官邸警備に当たっていた村上嘉茂衛門巡査部長(官邸内)、土井清松巡査(林八郎少尉を取り押さえようとする)、清水与四郎巡査(庭)、小館喜代松巡査(官邸玄関)の4名の警察官は拳銃で応戦しました。

4名は襲撃部隊の圧倒的な兵力により殉職されたのですが、この応戦の隙に岡田総理は女中部屋の押入れに隠れることができました。

その間に岡田総理の義弟で総理秘書官兼身辺警護役をつとめていた松尾伝蔵予備役陸軍大佐は、反乱将校らの前に自ら走り出て銃殺されました。松尾予備役大佐はもともと岡田総理と容姿が似ていた上、銃撃によって前額部が大きく打ち砕かれ容貌の判別が困難になったため将校らは岡田総理と誤認し、目的を果たしたと思いこみ岡田総理は危うく難を逃れました。


『二・二六事件 太平洋戦争研究会平塚 柾緒 著 (河出文庫)』より、P73から引用しましょう。

※   ※   ※

岡田大将記録編纂会編『岡田啓介』によれば、当の岡田首相は、この“首相殺害”場面を一部始終目撃していた。

【写真は、岡田首相(左)と間違われて反乱軍に撃たれ、壮絶な最期をとげた松尾予備役大佐:同著より】


 




「松尾は天皇陛下万歳を唱えて倒れた。この四、五人の一隊は中庭に出て、『これだ、これだ』と松尾の死体を自分の寝室に運び、自分のベッドに仰臥(ぎょうが)せしめた。この報告を聞いて、十五、六人の一隊が集まっていたようである。

自分は、この間に浴室を出て洗面室の電灯を消し、壁に倚(よ)りかかって、先方からは見えないようにし、自分の寝室を覗いた。十数人のものが集まっている。

一人が銃剣で寝室に次ぐ大広間に掲げてある自分の写真(夏の背広姿にて外務省の写したるもの)をとりはずし、これを松尾と見較(みくら)べ、『これだ、これだ』と松尾を自分と思い込み、みな、どこかへ立ち去った」


岡田首相がお手伝いさんの部屋に逃げ込み、押し入れの中に潜むのはこの後である。

しかし栗原中尉をはじめ襲撃部隊は、殺害したのが松尾大佐とは知らない。だから栗原の“首相確認”が終わった時、誰からともなく万歳が怒り、兵士たちは栗原が買って来させた清酒の四斗樽を車回しに運び上げて勝利の乾杯をしたのである。

※   ※   ※(以上引用終わり)

当時の首相官邸の見取り図。【同著より:現在は警備のためにレイアウトは変更されていると思われます】


 




それ以前にも、五・一五事件がありました。昭和7(1932)年5月15日、午後五時半頃、海軍や陸軍の軍人九名が総理大臣官邸に侵入し、応接間に招じ入れて話し合いで説得しようとした内閣総理大臣犬養毅(いぬかいつよし)氏を狙撃したのです。犬養首相は弾丸二発を頭部に受けて危篤に陥り、帝大の監田博士による治療、輸血の効もなく、同日午後午後十一時二十六分に亡くなりました。

この時に犬養総理が暗殺者に『話せばわかる』といった言葉は有名です。


事件のあった旧首相官邸は、現在南東隣に移築され、現在、首相公邸として使用されています。それで、旧首相官邸跡には、新しい、首相官邸が建っています。


『首相公邸』というのは、国家公務員宿舎法の規定に基づいた設備で、いわば、内閣総理大臣専用の国家公務員住宅、つまり居住スペースですね。一方首相官邸は、内閣総理大臣の執務室です。


首相官邸と、首相公邸が隣接しているのは、緊急事態があった時に、即座に内閣総理大臣が執務を行うことができるための配慮です。


ということで、旧首相官邸(現首相公邸:再掲)


 




 旧名称総理大臣官邸
 設計者下元連(しももと むらじ:大蔵省営繕管財局工務課第二製図係長、のち工学院大学教授)
 施工 清水組(現在の清水建設)
 構造形式鉄筋コンクリート構造
 延床面積7000平方メートル
 階数地上3階、地下1階
 竣工1929年3月18日
 改築2003年10月-2005年4月
 所在地東京都千代田区永田町2丁目3番1号

最初、この公邸については、鳩山由紀夫首相が、行政改革だ事業仕分けだと言っていた時に、贅沢改築をしたということで、問題になりました。

※   ※   ※

「公邸の浴室改修」…実は寝室改装

2010.2.12 23:02 産経msnニュース 
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100212/plc1002122304019-n1.htm

「風呂場と、それから洗濯機を変えたかもしれない。そのくらいかもしれない」

 鳩山由紀夫首相は12日の衆院予算委員会で、自民党の与謝野馨元財務相から昨年10月末に 首相公邸に入居した際の改修費について、「どこをどのように、どの予算で直したのか」と問われると、
こう答えた。
 
 ところが、首相は12日夜、記者団に対し、「調べたら風呂は改修していなかった。実は、和室を洋風に して寝室にしている。そのための改修費がかかっている。洗濯機もそうでもなかったみたい」と述べ、改修した個所を訂正した。

 首相は記者団から改修総額をたずねられても、「今、出す必要もない」と一蹴した。それどころか「毎年、公邸の主が代われば毎年、改修しなければならない。毎年のように首相が代わること自体を変えることが経費を節減する道だ」と開き直った。

 首相側近は「(民主党は)野党暮らしが長いから、国会で追及されるかどうかの基準で考えている。

改修費は過去の例と同じ水準に収めている」と強調したが、改修費の合計金額については明らかにしなかった。

※   ※   ※(以上引用終わり)

「麻生さん入った風呂はイヤ」 首相公邸改修乱れ飛ぶ憶測

 J-CASTニュース2010年02月24日20時17分
 鳩山幸首相夫人が「麻生前総理が入った風呂に入りたくない」というので、1千万円の税金を使い首相公邸の風呂場を改修工事したのではないかーー。自民党の高市早苗衆議院議員がこんな内容の質問主意書を提出した。これに対し鳩山由紀夫首相は風呂場の改修工事はしていない、との答弁書を出したが、幸夫人が公邸設備への不満を漏らしていたことなどから、「本当は改修したのでは」などとさまざまな憶測が乱れ飛んでいる。
内装補修や床改修には413万円かけた

 事の発端は10年2月12日の衆院予算委員会。自民党の与謝野馨衆議院議員が鳩山首相に対し、09年10月末に公邸に入居した際の改修について質問した。首相は「公邸のお風呂を改修した」と述べたが、同日の記者「ぶら下がり」では、「調べてみたところ、寝室は改修したが風呂は改修していない」と修正発言。「どのようにして、公邸を改修したか、という理解をしていなかった節がある」などとあやふやな答えだった。

 高市議員はこの日、「総理大臣公邸の風呂場改修工事について」の主意書を提出した。幸夫人が「麻生前総理が入った風呂に入りたくない」という理由から風呂場を改修。風呂場は05年3月に作られたまだ新しいものにもかかわらず、費用は内閣官房報償費(機密費)から捻出した。こうしたことは複数の国家公務員が証言しているものであり、「真偽をはっきりさせるため」政権交代後に行われた公邸の工事や新たに購入した全ての備品の名前、金額、代金支払いの原資を明らかにしてほしい、というものだった。

 鳩山首相は10年2月23日付けで答弁書を衆議院議長に提出。風呂場の改修工事の事実はない、とした。ただし、「経年劣化」に伴い内装補修や床改修は実施していて、合計で413万円。また、洗濯乾燥機2台を購入、61万円かかった。これらの経費は(項)内閣官房共通費(目)総理大臣官邸業務庁費から支出している、と書いている。

 ネットでは鳩山夫妻が風呂場を改修してもおかしくはない、という見方も結構目立つ。幸夫人が公邸に不満を持っていると報じられていたからだ。

 「週刊文春」(12月31日・1月7日新年特大号)によれば、

 「『広すぎてお化けが出そう』『誰かにみられている気がする』『4年間これが続くのね』などと、愚痴をこぼしています」という鳩山家知人のコメントが掲載されている。特に気に入らないのが台所だ、としている。

 ネットでは、「麻生総理が使った風呂場ならば、もっと毛嫌いしているのではないか」といった推測も出ている。

 風呂場改修に機密費1000万円を使ってしまった??

 鳩山首相も風呂場には関心が高いようで、「お風呂でマントラ(呪文)を唱える」習慣がある、と民主党の幹事長時代に受けたインタビューで答えている、メディテーションで何も考えない時間を持つとリフレッシュできるため、無になるためにお風呂でマントラを唱えるのだそうだ。そんな首相夫婦だから風呂場を改修してもおかしくないのでは、ということのようだ。

 高市議員は、2010年2月24日付けの自身のホームページ上のコラムで、「すっきりしない答弁書でありました」と書いた。風呂場改修の情報は09年12月に複数の官僚から提供されたもの。鳩山首相が機密費情報の公開を進める、とかねてから言っていたにも関わらず、機密費非公開に一転したのは、公邸の風呂場改修に機密費1000万円を使ってしまったからだ。こんな背景を官僚達から聞かされた、というのだ。

 ちなみに、安倍晋三元首相に官邸の風呂場について聞いたところ、小泉元首相から麻生前首相まで風呂場の改修は行っていなかったという。

 「風呂場の改修の有無については、麻生前総理大臣や安倍元総理大臣が視察することができたなら、すぐに判明することだろうと思います」

 とも書いていて、「風呂場騒動」の真相はやぶの中だ。

※   ※   ※(以上引用終わり)

 【先代:麻生太郎氏→ 第93代鳩山由紀夫内閣総理大臣:2009年 - 2010年→次代:菅直人氏】です。本当に馬鹿気た騒ぎでした。

 (下)に続きます。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/55216635.html

日本軍に助けられた名古屋市東山動物園のゾウさんの話(その4) 【ファイルC287】2014.09.20 

【ファイルC287】2014.09.20 日本軍に助けられた名古屋市東山動物園のゾウさんの話(その4)

敗戦後の東山動物園(北王園長の著作から)続き

現在の名古屋市東山動物園(東山動植物園)のいかにも人の良さそうなインドゾウさんの人。といっても随分前に撮った写真(再掲)。


 





 前回は、『敗戦後の東山動物園(北王園長の著作から)』という記事を書きました。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/55178692.html

日本軍に助けられた名古屋市東山動物園のゾウさんの話(その1)から読まれる方はこちら。↓

http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/55075328.html

今回は、その後の北王園長の日記から敗戦直後の様子について引用しましょう。希望にあふれながらも、とても苦労なさったことが分かります。


※    ※    ※

P237 

動物園日記(戦後抄)


九月二十日

朝夕は大分涼しくなつた。季節に敏感なのは動物どもだ。殊(こと)にワニ(鰐)はあの鈍重な躰に似ず、水の冷えたのが、めつきりこたえるものとみえて、食欲が衰えてくる。だから今の間に好きなイワシでも十分に与えて、栄養をつけておいてやらないと、冬が耐えられない。

そこで今日は市役所の水産課長さんを訪れて、その由(よし)を訴(うった)えたところ、すぐ解つて頂けて、大切な動物を死なせては、市民の損だからと、魚四貫目【よんかんめ=1貫が3.75 kgだから、15㎏】の特配券を下さつた。これで明日は鱈腹(たらふく)食わせてやろう。


九月二十一日

朝早くから、係員は熱田の魚会社へ、例の特配券を持つて、魚を買いにいつた。そしてバケツ一杯イワシを下げて帰った。

 それやれというので、直ぐワニ君の池を訪れる。ガバと音を立てて水から這い出してきて、大きい口を開ける。棒の先のイワシをぶらさげて、口の傍へつきつけてやると、パクリと食いつく。そしてグッと鵜呑みにする。また口をあける。

 何しろ不器用な奴で、落ちた魚を中々よう拾わないから、一々棒の先で口まで持つていつてやらねばならない。かれこれ十五、六尾も呑みこんだ頃、漸く満足したらしく水の中へもぐりこんでいつた。

 次は仔ワニ二頭の番だ。これは小さく切つたのを、池の石の上に置いてやると、パクリと食べる。

 余る位十分にやつたが、それでも魚は半分程残つたので、これを熊や、大鷲や、ジンゴ犬【ディンゴ(オーストラリア大陸とその周辺に生息する、タイリクオオカミの1亜種)のことか?】や、狐、狸などにそれぞれ分けてやつたら、皆久し振りの御馳走に舌鼓(したつづみ)をうつた。

九月二十二日

先月、宝塚動物園(たからづかどうぶつえん)から大鷲(おおわし)を貰つたので、その返礼に、日本熊の仔を二頭あげることになつて、今日受け持ちの木造君が持つて行く日だ。小さな丈夫な箱にいやがる仔熊を無理矢理に押し込む。仔熊は怒つて、箱の金網にがりがりと食いつく。

 途中の食料にと、ふかし芋を沢山ほうりこんでやる。無事について元気で大きくなれよと、丸々と可愛らしい熊公に暫(しば)しの名残(なごり)を惜しんでやつた。

九月二十三日

宝塚に使した木造君が戻つてきた。そして先方から送られた桃色インコをさげて帰つた。これは豪州産で、全身が淡紅色の羽に被われた、美しいインコだ。これで見せるものが一つ増えたと早速小鳥舎に収容する。


九月二十四日

自給農園で栽培している甘藷(かんしょ=サツマイモ)をぼつぼつ掘り出して、空腹粗食の動物どもに少しずつでも配給してやれるようになつたのは嬉しい。第一に喜ぶのは、黒猩々(くろしょうじょう=チンパンジー)のバンブー。

それに猿の連中。ついで熊、カンガルー、現来は食肉性であるジンゴ犬、狐、狸までが近頃は大喜びで、蒸し芋をぱくりつくようになつた。

困れば何でも食えるものだと感心する。

ゾウは甘藷が大好物だが、何しろ分量がえらいので、ここまではまだ廻らない。しかし近い中に、うんと食わせてやる積りだ。


四月一日

チビ公の練習が今日も始まつている。チビ公というのは、本年二歳になつたばかりの日本猿の仔だ。

チンパンジーのバンブーが年とるに従つて、だんだん気分が荒つぽくなり、演芸のときに係の者に咬みついたりして、あぶなくて仕方がないので、担任の柴田君が、その代役として選んだのがチビ公である。

 1月の初めから訓練にかかつて、寒い北風の日も休みなく繰返したお蔭で、近頃はやつと一人前になり、バンブーがやつた芸当を一通り覚えてしまつた。ただ竹馬乗りだけは直ぐ腰を落してしまつて、うまくゆかない。赤い『でんち(ちゃんちゃんこ:名古屋や関西地方ではこう言う)』を着て、正(しょう)ちゃん帽をかぶり、先ず小さな机に向かつて行儀よく食事をする。

 それから綱渡りを、あぶなそうな足どりで二度いつたりきたりする。次は車ひき、これは梶棒を持つて、ガラガラと挽き回るところは却々(なかなか)うまいものだ。

 その次が球乗り、これもどうにか卒業した。

一芸がすむごとに、一きれのお芋やせんべいなどを、ごほうびにもらうのがとてもうれしそうだ。


四月二日

東京の上野動物園から、オスのカンガルーと、メスの猪と、鷲が贈られてきたので、そのお礼として、乳牛の仔を送る事になつた。十時半に運送店からお迎えのトラックが来た。

 恐がる仔牛を、みんなしてトラックに乗せて、係のおじさん達が付添つて笹島駅へ一走り、ここで貨車に積み込んだ。

 仔牛は動物園をはなれる頃から、モーモーとなき続けて、とても可哀想だつた。しかし東京へ着けば、また新しい友達が出来て幸福になるだろう。元気でいけよ、みんなで見送つてやつた。

四月三日

今年はいつまでも寒いので、チンパンジーのバンブーが、また少し風邪気味で、咳をしたり水洟をたらしたりしている。乱暴者に似合わず寒さには全く意気地なしだ。室温を高くして蒸気をたたせてやる。

これでじきによくなるだろう。

隣室の鰐(ワニ)公は長らくの冬眠からさめて、久し振りにのつそりと陸にあがつてきた。春の日ざしがなつかしくなつたのだろう。これからお前たちの天下だ。

 ※    ※    ※(以上引用終わり)

敗戦直後の食料物資が不足している中で動物園の方々が、懸命の創意工夫で動物たちの餌を工面して、他園とも連携を密にして、動物のやり取りをして、少しでもお客さんに楽しんでもらおうという努力をなさっている様子が、読んでいてとても感動的です。

人の食料もままならないとき、北王園長が市役所の水産課長さんに餌の工面をお願いしたら、大切な動物を死なせては、〝市民”の損だからと、二つ返事で魚四貫目の特配券を都合した話とか、自給農園で作った甘藷を餌として与えた話などは、とても清々しい話です。

水産課長さんの、いみじくもおっしゃるとおり、動物園は、『〝市民”の財産』なのです。

それから、チンパンジーのバンブーもそうですが、お猿さんというのは、野生なので決してペットにはならず、ニホンザルも芸をやっているのは殆どが若いお猿さんで、大人になると野性を取り戻して芸が出来なくなるそうです。

そのことについては、ここ東山動物園の人気者だった3頭のゴリラ、オキ(メス)、プッピー(メス)、ゴン太(オス)の記事にも書きました。↓

http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/45503191.html

文中にある、大鷲や桃色インコを貰い、日本熊の仔を二頭譲ったという兵庫県宝塚市の宝塚動物園というのは、阪急電鉄が経営していた遊園地『宝塚ファミリーランド』内の動物園で、阪急宝塚本線の終点、宝塚駅の東側にありました。

阪急宝塚駅から続く『花のみち』の南側に宝塚歌劇で有名な『宝塚大劇場』と、大浴場を備えた『宝塚大温泉』があり、北側に動植物園と遊園地がありました。

しかし、ユニバーサル・スタジオ・ジャパンを始めとした大型アミューズメントパークの開園や、レジャーの多様化、少子化などの影響もあって、次第に入園者数は減少し始め、施設の老朽化もあって、阪急電鉄は2003年4月7日をもって宝塚ファミリーランドの閉園を決定します。

このニュースは大きく取り上げられ、閉園を惜しむ声というか、廃園反対の意見が多数寄せられた事から、2003年4月29日からガーデンゾーンを『宝塚ファンタジーガーデン』として期間延長して営業再開したのですが、それも2003年8月31日をもって営業終了し、宝塚新温泉から数えて90年以上の歴史に幕を閉じたのです。


小林一三(こばやしいちぞう)翁が築いた偉大な遺産である『阪急ブレーブス』も『宝塚ファミリーランド』も今はありません。

戦争をかいくぐって生き延びた、このような名門の動物園がなくなってしまったことが、私には残念でなりません。


今はワシントン条約もあって、動物の輸入もままならず、動物園同士で動物をやり取りして繁殖させるブリーディング・ローン等の試みもあるのですが、動物園の動物の高齢化が深刻な問題になっています。

森林伐採等の開発で野生の動物が激減し、下手をすれば、動物園がノアの方舟になってしまう恐れもある世界的な状況の中、種の多様性を体感できる動物園は私たちにとって、とても重要な施設です。


幸いなことに、名古屋の東山動物園は、今なお人気動物園として多くのお客さんが訪れていますが、こういう困難を乗り越えてきたということは、知っていて良いでしょう。

ということで、皆さんも地元の動物園を大切にしてくださいね。

 次回に続きます。 ↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/55232919.html

大阪にある大林組旧本店ビル【現ルポンドシエル ビル】だよ(その2) 【ファイルF64】2014.09.15 

【ファイルF64】2014.09.15 大阪にある大林組旧本店ビル【現ルポンドシエル ビル】だよ(その2)

中にある大林組歴史館を訪ねたよ。

 前回は大阪にある大林組旧本店ビル【現ルポンドシエル ビル】の風格がある外観について書いていたのですが、↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/55168456.html

 大林組旧本店ビル【現ルポンドシエル ビル】中にはテナントの高級フレンチレストラン『ルポンドシエル(LE PONT DE CIEL Resturant Francais)』以外にも、

大林組歴史館という無料の博物館があります。

http://www.obayashi.co.jp/company/rekishi/

それで、さっそく中に入って行ってみました。






エレベーターで3階に上ります。






エレベーターの上のレリーフもデコラティブでお洒落です。






 人面犬(じんめんけん)とかいたけれど、人面鳥(バードマン?)の人が向かい合わせに羽ばたいています。

 ぱたぱた。

3階に到着。






 ご自由にお入りくださいと書いてあるので、お言葉に甘えて、ご自由にお入りすることにします。

大林歴史館の玄関正面に鎮座ましましているのが、鬼瓦です。






この鬼瓦は、創業当時【明治25(1892)1月~明治38(1905)年】、大阪市西区靭(うつぼ)南通り四丁目六十二番屋敷(現在の西区西本町(にしほんまち)2丁目5番24号)に在った「大林店」店舗の土蔵屋根を飾っていたものだそうです。


大林組歴史館に展示してあった大林店店舗の模型。(矢印の部分にあった鬼瓦だと思われます)。店舗は住居を兼ねていました。






同展示の大林店の位置図。






現在の地図におとしてみると、靭公園(うつぼこうえん)南西側のⒶと表示したあたりのようです。(グーグルマップより)






歴史館の入り口では、大林組の創業社主、大林芳五郎(おおばやしよしごろう)さんの大きなパネルがお出迎えです。

社員の方々にとっては、本当に神様みたいな存在なのでしょうね。世界に冠たるスーパーゼネコン大林組の礎(いしづえ)を築いた立志伝中の人ですから。






以下、大林組歴史館のHPの文章を参照して、補足解説しながら、大林芳五郎さんの足跡を辿っていきます。

http://www.obayashi.co.jp/company/rekishi/yoshigoro.html

 ※    ※    ※

創業者大林芳五郎(おおばやしよしごろう)さんは、元治元(1864)年生まれの、大阪人です。

その出自は、代々、帯刀(たいとう:武門の証である武具等を腰に帯びること)を許された淀川過書船(よどがわかしょぶね)の元締(もとじめ)・林家の家系で、その父親徳七さんの代に分家し、「林」に実家の屋号「大和家」の「大」を冠して「大林」という姓とし大林家の始祖となりました。

 淀川過書船(よどがわかしょぶね)というのは、大坂と京・伏見の間の貨客を運んだ特権川船のことをいいます。

 語源は過書(通行手形)を所持する船の意と思われますが、豊臣秀吉から1598年(慶長3)河村与三右衛門、木村惣右衛門が朱印状をうけ、徳川家康も1603年これを再認しました。
 
 享保初年において、乗客を主にした三十石船671艘、貨物運送した二十石船507艘が生業を営んでいました。ところが、元禄11(1698) 年伏見船の新設にともなって大きな打撃を被り、のち在方船の進出により両者とも衰退したそうです。

大林家は、江戸期以来、海産物の市場として賑わった靱永代濱(うつぼえいたいはま)において、『大徳』と称して塩・干鰯(ほしか)の問屋を営んでいて、幕末動乱の商人受難期にもかかわらず、間口15間(27m)の店舗をはるに至ったといいますから、父・徳七さんの持つ商才の高さをうかがい知ることができます。

ですから、大林芳五郎さんは、当時としては恵まれた環境に生まれ育ったと言えるでしょう。

由五郎さん、つまりのちの芳五郎さんは、幼児より眼光炯々(がんこうけいけい)、眉太く、丸顔で豊頬(ほうきょう)、際立った腕白ぶりであったといわれているそうです。

11歳の由五郎少年は大店の呉服商『麹屋(こうじや)又兵衛』さんの店に丁稚見習(でっちみならい)となりました。

明治6(1873)年に父・徳七さんが没し、同9年にお兄さんが僧籍に入ったため、由五郎【よしごろう:大林芳五郎さんの初名(しょ めい)】さんが家督を継ぐことになります。

芳五郎(由五郎)さんは家督は継いだものの、麹屋での奉公を続け、父譲りの周到綿密さと母譲りの果断機敏によって主人に認められ、13年16歳で三番番頭に抜擢されて徳助の名を与えられるほどに出世します。

主人夫妻に男子がなく、娘婿にと望まれたほどだったのですが、明治13年に生家『大徳』は人手に渡っていて、家名再興を期す芳五郎(由五郎)さんは明治15年、18歳になると、この申し出を断って麹屋を去ります。

このときの同僚福松こと福本源太郎さんは、後に大林組四天王の一人となります。

 

ところが、麹屋を去り小売り呉服商を自営するものの、折悪しく西南戦争直後の極端な緊縮政策下に、大阪の町は火が消えたような不景気で、事業は不首尾におわりました。

呉服小売りに失敗した芳五郎(由五郎)さんは、一転して請負師(うけおいし)を志します。「小売商売は自分の性格に適さない。かねてから有望視していた請負業こそ自分の性格からしても魂を打ち込んでやれる仕事だ」と思い定めたと、後に芳五郎さんは述懐しています。


それで、土木建築請負業の修行をしようと、上京し、遷都(せんと)にともなう皇居造営を請負っていた砂崎庄次郎(すなさきしょうじろう)さんの膝下【しっか:自分を庇護(ひご)してくれる人のもと】に入ります。

砂崎庄次郎さんは慈父(じふ)のごとき大人(たいじん:徳の高い立派な人)とされ、芳五郎さんは、この人の下で、造営から、工事や技術のことばかりでなく指導者としての在り方についても、学ぶことが多かったと記しています。


宮内省出入の請負人であった砂崎さんは当時のいわゆる請負人とは選を異にした紳士で多芸多趣味。詩歌、俳諧に長じ、茶も師匠格、画も齢玉と号して一家をなす程の教養人でした。

大林芳五郎さんの恩師、砂崎庄次郎さん。






大林芳五郎さんの、ダンディーな身だしなみも、師の砂崎庄次郎氏に大きな影響を受けたことであろうことは、想像に難くありません。

ダンディーな大林芳五郎さん。






当時の芳五郎(由五郎)さんは、もちろん何らの建設技術をもたなかったので、出面【で づら:建築などの現場に出た大工・左官など職種別労働者の一日当たりの人数。また,その労働者に支払われる日当】、帳付け、そろばんなどの人事管理、庶務、会計などを担当したのですが、これは後に経営者としての管理に役立ち、工事現場の荒くれ男たちとの付合い法も会得しました。持ち前の融和性と侠気、堂々とした態度は彼らを心服させたのです。

芳五郎(由五郎)さんは、砂崎さんのもとで、本格化した皇居造営工事に従事しました。すでに土木、建築の基礎知識をもった芳五郎(由五郎)さんは、砂崎氏の不在中、女官部屋の敷地盛土と地ならし工事の見積りを命じられ、積算して見積書を提出するまでに成長していたのです。

皇居は明治22(1889)年1月に完成し、歴史的な憲法発布式典がここで行われました。規模においても、材料、施工の面でも、木造建築では当時空前のものといわれ、この模範的大工事の体験が芳五郎(由五郎)さんに与えた収穫は大きいものがありました。現在の大林組に至るまで継承されている材料の精選と入念な施工は、ここに発しているといわれています。


このころ大阪鉄道会社の初期工事を請け負っていた水沢新太郎さんは、芳五郎(由五郎)さんの力量を耳にし、友人の砂崎さんに芳五郎(由五郎)さんの借用方を頼み、砂崎さんももこれを承諾したため、芳五郎(由五郎)さんは明治20年、4年ぶりに郷里大阪に帰ってきました。このときから芳五郎(由五郎)さんの大阪を地盤とした活動が始まったのです。


この鉄道工事は大阪と奈良を結ぶ難工事でだったのですが、工事もさることながら、多くの部屋の寄合い世帯である土工たちの紛争の調停、統制には大いに悩まされることになります。ところが、芳五郎(由五郎)さんは偶然この地で再会した麹屋時代の旧友、野口栄次郎(「木屋市」として知られた顔役)さんの有形・無形の援助を受けて、この仕事をやり遂げることができました。

もちろん、これは芳五郎(由五郎)さん自身の人物、力量によるところが大きかったのはいうまでもないのですが、土木請負が労働力の供給を主体としていたこの当時、こういった『顔役』の発言力は強く、彼らとつながりをもつことは力強い後楯をもつことでもあったのです。

土木作業こそ人が協力して初めて成り立つわけですから、こういった一筋縄ではいかない現場人たちの人心掌握術というのは、事業においてとても大きな役割を持ちます。


明治21年夏には、水沢さんの命により、呉軍港の築造に従事し、約3カ月の後、部下の労務者と技師長との衝突事件を機に帰京し、これを契機に砂崎氏の許も去り、大阪に帰ることになりました。

やはり何の世界でも人間関係というのは難しいものです。

芳五郎(由五郎)さんは、このようにして請負業者として独立するに至るのですが、砂崎家との交情は終生変わることはありませんでした。

砂崎さんの下での修行を終えて戻った大阪は、様々の事業の勃興期(ぼっこうき)にあたり、上京した頃とはすっかり様変わりして、建物や工場の新増設が相次いでいました。


明治25(1892)年1月18日、芳五郎(由五郎)さんは、近江出身の豪商阿部一族の総煉瓦(そうれんが)造り、阿部製紙所工場新設工事一式の落札に成功しました。請負金12万1,000円という大型工事でした。

阿部製紙所工場(明治25年8月竣工/大阪府)






同業者間でもほとんど名を知られていなかっにもかかわらず、落札に至ったのは、東京で当時最先端の工事を学んでいたため、一頭地(いっとうち)を抜(ぬ)いていたからだといわれています。

これを機に、芳五郎(由五郎)さんは『土木建築請負業』として『大林店』の名を掲げ旗揚げします。明治25(1892)年1月25日、齢(よわい)にして弱冠(じゃっかん)27歳でした。


四谷から溜池山王までお散歩したよ。(その17) 【ファイルET101】2014.09.09 

【ファイルET101】2014.09.09 四谷から溜池山王までお散歩したよ。(その17)

山王パークタワーは、旧山王ホテルがあった場所。2.26事件の舞台にもなったんだねえ。

 四谷から溜池山王までお散歩したよ。(その1)から読まれる方はこちら。↓
 http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/54423550.html

 前回までは山王日枝神社についての記事を書きました。

山王さまの山王日枝神社は江戸城の裏鬼門を守っているよ(日枝神社その1)から読まれる方はこちら。↓

 http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/54811826.html

ということで、今回は、山王神社の神門側階段を降りてすぐの溜池山王(ためいけさんのう)にある山王(さんのう)パークタワーです。


 




上の写真右上隅に一部分写っているのが、

お隣さんのキャピトル東急ホテル(東急キャピトルタワー)です。【写真を撮り忘れたので、『東京・大阪 都心上空ヘリコプター遊覧飛行』のサイトよりお借りしました】

http://building-pc.cocolog-nifty.com/helicopter/2011/03/post-6eee.html

 




 左下に山王様の鳥居が写っています。

 下記はキャピトル東急ホテル(東急キャピトルタワー)の説明です。

東急キャピトルタワーの概要

所在地-東京都千代田区永田町二丁目10-3
階数-地上29階、塔屋3階、地下4階(法規上 地上28階、地下5階)
高さ-最高部120.30m(法規上 119.06m)
敷地面積-7,938.25㎡
延床面積-87,428.28㎡
構造-(地上部)鉄骨造、(地下部)鉄骨鉄筋コンクリート造、鉄筋コンクリート造
用途-ホテル(1~3階、14~15階、18~29階)、共同住宅(16~17階)、オフィス(4~13階)、店舗
総戸数-14戸
建築主-東京急行電鉄
設計・監理-東京急行コンサルタント、観光企画設計社
施工者-清水建設
竣工-2010年07月
オープン-2010年10月22日(ザ・キャピトルホテル東急)

それで、このビルの正式名は「東急キャピトルタワー」です。

 ホテル及び関連施設約38,000㎡、オフィス約31,000㎡、共同住宅約3,000㎡、駐車場他約16,000㎡となっています。

メインテナントの「ザ・キャピトルホテル東急」は2010年10月22日(金)に開業しました。客室数は251室で、1階~3階、14階~15階と18階~29階を占めます。

共同住宅の「ザ・キャピトルレジデンス東急」は総戸数14戸となっています。

家賃は月額105万円~240万円の超高級賃貸マンションです。

 

少し脱線しますが、キャピトル東急ホテルは、旧称の『東京ヒルトンホテル』時代に1966年6月30日から7月2日にかけて、東京・日本武道館において行われたザ・ビートルズの来日公演時に宿泊したことで有名で、ビートルズファンにとっては、聖地のひとつです。

公演会場の日本武道館からも近いからねえ。

 日本武道館の記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51479562.html

 ザ・ビートルズ宿泊当時は、大勢のファンがホテルの周りを取り囲んで、もしかしたら、窓が開いて、メンバーの顔を一目見ることが出来るんじゃないかと、ずっと待ち構えていたそうです。

羽田のJAL便からタラップを降りるビートルズ。


 




建て替え前の、営業最終日のキャピトル東急ホテルの写真。旧称の『東京ヒルトンホテル』の時代にビートルズが宿泊していたビル(Wikipediaより)


 




それで、お隣の山王パークタワーに戻ります。


 




名 称     山王パークタワー

 所在地 東京都千代田区永田町二丁目11-1
 階 数 地上44階、塔屋2階、地下4階
 建物高さ 最高部194.45m、軒高183.5m
 敷地面積 14,981.00㎡
 建築面積 6,075㎡
 延床面積 219,216.00㎡
 構 造 S造、一部SRC造
 用 途 オフィス、店舗
 建築主 永田町二丁目地区開発協議会(8社)
 設計者 三菱地所設計
 施工者 清水建設、鹿島建設、大林組、東急建設JV
 着 工 -
 竣 工 2000年01月
 オープン 2000年02月

首相官邸のすぐ西隣にある超高層ビルです。

こんなところに超高層ビルがあったら、首相は、ビルの窓から、ゴルゴ13のようなスナイパーの標的になります。

さすがに治安上ここでの超高層ビル建設計画が持ち上がった時、それが大問題になって、結局そのような事件が起きないように、ビルの方向を変更することによって、決着したということです。

というのも、ここの土地には以前は、山王ホテルがあったのですが、首相官邸のすぐそばにあるため、昭和11(1936)年に起きた二・二六事件では、この山王ホテルが反乱軍に占拠されて、クーデター側の司令部となったという生々しい歴史があるのです。


二・二六事件当時の山王ホテル(Wikipediaより)

 昭和11(1936)年)2月

 




山王ホテルは、 昭和7(1932)年、自動車・燃料関連企業である安全自動車の経営者であった中谷保によってこの場所で創業されました。

 建物は、地下にアイススケート場まで備えた近代的なもの、当時は日本を代表する高級ホテルのひとつであったとされています。開業当初の部屋数は80室でしたが、以後増築されて149室となりました。また、欧州風の鉄筋コンクリート建築の「本館」と、和風建築の「日本館」が併設されていました。

山王ホテル概要

 正式名称山王ホテル
 設計小笠原建築事務所
 階数地下2 - 4階
 部屋数149室
 敷地面積 13,000m²
 開業昭和7(1932)年
 閉業昭和21(1946)年9月
 床面積: 150,000平方フィート]
 初代支配人: 中谷保
 レストラン、喫茶、バー
 アイススケート場

 ここが舞台の一つになった二・二六事件は、戦前の歴史の転換点となる大事件なのですが、あまりにも大きな事件なので、ここでの説明は省きます。

また、戦前の山王ホテルは、リヒャルト・ゾルゲや、マックス・クラウゼンなど、帝国日本で暗躍した外国人スパイにも利用されました。

 ゾルゲは、祖国のソ連に、日本は南進戦略を取っており、北進してソ連を急襲することはないという重大機密情報を得、そのことによって、スターリンは、戦力を対ドイツ戦線に集中することができたのです。

スパイのゾルゲによる機密漏えいが無ければ、第二次世界大戦の戦局は大きく変わっていたでしょう。その舞台が、ここにあった山王ホテルだったのです。

山王ホテルは、戦後連合国軍に接収され、昭和21(1946年)年9月にホテルを閉業。その後も、なんと昭和58年(1983)年までの長きにわたって、在日アメリカ軍の施設として占拠され続けました。


昭和26(1951)年、サンフランシスコ講和条約が締結され、日本が主権を取り戻し、アメリカ軍によって接収されていた多数のホテルの大半が返還され、通常の商業ホテルとしての営業を再開した中、唯一山王ホテルだけは、その後もアメリカ軍の専用施設として供与され、日本政府が所有者(安全自動車ら)に、土地・建物の使用料を支払い続けたのです。

つまり、米軍が占拠している山王ホテルの使用料は、日本政府が日本国民の税金で肩代わりして、本来の所有者に支払い続けていたのです。

日本政府は昭和50(1975)年12月に在日アメリカ軍との間で、5年以内に山王ホテルを所有者に返還することを骨子とする合意を得たのですが、返還後アメリカ軍に供与予定の代替物件(ニュー山王ホテル)は、港区南麻布の安立電気本社跡地を敷地として確保した 昭和56(1981)年6月に至るまで着工されませんでした。

昭和58(1983)年、アメリカ軍向けの新施設が完成、旧山王ホテルは昭和58(1983)年10月5日をもって閉鎖されました。

昭和60(1985)年頃より、三菱地所と安全自動車、さらに隣接する日枝神社などの共同での再開発計画が持ち上がったのですが、平成8(1996)年頃の建設着工に至るまで、ホテル跡地は暫く更地のまま放置されていました。

そして、今建っているビルが、平成12(2000)年1月に山王パークタワーとして漸く竣工し、もとの民間施設として日の目をみます。本当に馬鹿馬鹿しい限りです。


それで営団地下鉄銀座線・南北線の駅名にもなっている溜池山王(ためいけさんのう)という地名のうち、山王(さんのう)は、勿論、これまでご紹介した日枝山王権現社(ひえさんのうごんげんしゃ)から来ているのですが、

溜池(ためけ)という名は、文字通り、ここに溜池(ためいけ)があったのです。


現代の地図に昔の位置関係を落としたもの(再掲)


 




 これをみると、今の山王パークタワーの南から外堀が膨らんで首相官邸の南あたりが溜池だったことがわかります。

歌川広重(うたがわひろしげ)の『名所江戸百景』から『赤坂桐畑(あかさかきりばたけ)』【夏52景】です。


 




『-江戸切絵図で歩く― 広重の大江戸名所百景散歩 -嘉永・安政 江戸の風景119- :堀 晃明著 人文者社』より、この絵の解説を引用させていただきます。

 ※  ※  ※  ※

日枝山王権現社(ひえさんのうごんげんしゃ)のある山王台地の西麓を取り巻くように、赤坂から虎の門まで、ひょうたんのように長い池があった。

もともとこの池は、麹町(こうじまち)、鮫(さめ)ヶ橋、清水谷の辺りから出る湧水【ゆうすい:後注1】や清水が溜(た)まって出来た天然の池であった。

江戸時代に入って、徳川家康に恩義を感じていた和歌山藩主浅野幸長(よしなが)が、この池に江戸城の外堀の役割を果たさせるため、慶長11(1606)年に、虎の門に堰(せき)を築いて水を堰き止め、この池の拡張を行った。そしてこの池が後に溜池(ためいけ)と呼ばれるようになった。

承応3年(1654)年に玉川上水(たまがわじょうすい)が完成し、その水が虎の門まで伏樋【ふせひ:後注2】で運ばれるようになるまでは、この溜池が上水の役目を果たしていて、ここより南の市中へ水を供給していた。

溜池の西岸、赤坂田町の先の空地には池の土手を補強するという理由で、桐(きり)の木が多く植えられ、桐畑(きりばたけ)といわれていた。広重はこの桐畑にあった桐の木2本を全景にして、赤坂方面から、東南方に広がった溜池の景色を描いている。

左手に見える岡が山王台地で、その麓(ふもと)には武家屋敷や寺の末寺が並んで立っていた。

溜池は、二代将軍秀忠(ひでただ)が琵琶湖の鮒(ふな)や淀川(よどがわ:琵琶湖から大阪へそそぐ琵琶湖淀川水系)の鯉(こい)を取り寄せて放したので鮒や鯉の名所になったといわれている。

また蓮(はす)が多く植えられていて、不忍池と並ぶ蓮の花の名所ともなっていた。

さらに池の洲には、白膠木(ぬるで)の木があって、楓(かえで)に先き立って美しく紅葉したという。


 ※注1) 湧水 【ゆうすい:地下水が地表に自然に出てきたもののことである。湧き水(わきみず)や泉(いずみ)、湧泉(ゆうせん)ともいう】

 ※注2) 伏樋 【ふせひ:土の中や水流の底に埋めて、水を流す樋(ひ)。「ふせどひ」とも。「ふせ樋は、久あらしめむとおもはゞ、石をふたをゝいにふすべし」〔作庭記〕「ふきわたしたる虹すごき梅/少(さ)々にごる伏樋に春の雫して」〔辰歳旦惣寄〕】

 ※  ※  ※  ※(以上引用終わり)

溜池は深くて広かったため、河童小僧が住んでいたとか、内藤家の屋敷の裏手で、幽魂が夜な夜な立ち現れるというので、溜池小舟を出して探ってみたら、荒縄で手足を縛られた年頃二十三四とも見ゆる町人風の男の水死体が上がったという話が残っているそうです。

この場所は、江戸時代において、それほど妖気の漂う怪しく、寂しい場所だったのですね。


その後、上記の説明にも触れていますが、承応(じょうおう)二(1653)年に玉川上水がひかれ生活用水が確保されるとともに溜池はその機能を失って、すでに承応年間(1652~55)にその一部の埋め立てがおこなわれています。

 明治5(1872)年正月には永田町と田町四丁目との間に渡船場ができ、交通の便が図られます。その後、明治八、九年ごろから排水して残された溜池のうち二万坪ほどを埋立、明治21(1888)年には埋立地の中の4000坪程度を中心として溜池町がつくられます。

そして、いろいろな計画があったようですが、結局明治37~42(1904~1909)年の工事によって、溜池は細流となるだけでなく、暗渠【あんきょ=地下に埋設された,あるいは地表にあっても蓋(ふた)をした導水路】となり、人々の前から姿を隠してしまいました。


 ということで、ここでひとまず、『四谷から溜池山王までお散歩したよ』を完結いたします。ご拝読ありがとうございます。

本当に歩いてもそれほどかからないこの一帯に、こんな濃密な歴史があるのです。江戸・東京という街の懐の深さを改めて思い知らされました。

 江戸・東京の部屋はさらに続くのでした。↓

日本軍に助けられた名古屋市東山動物園のゾウさんの話(その3) 【ファイルC286】2014.09.02 

【ファイルC286】2014.09.02 日本軍に助けられた名古屋市東山動物園のゾウさんの話(その3)

敗戦後の東山動物園(北王園長の著作から)

現在の名古屋市東山動物園(東山動植物園)のインドゾウさん。といっても随分前に撮った写真(再掲)。


 




↑ 他の動物園から移ってきて訓練中のゾウさん。飼育員さんのいうことを聞いているふりをして、飼育員さんが持っているおリンゴを、くすねようと、ちゃっかり鼻を伸ばしているねえ。


 前回は、『戦時中の東山動物園の真実 猛獣殺処分の国の命令なんてなかった!(北王園長の著作から)』という記事を書きました。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/55151064.html

日本軍に助けられた名古屋市東山動物園のゾウさんの話(その1)から読まれる方はこちら。↓

http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/55075328.html

それで、今回も『動物の四季』北王英一著:文芸春秋新社のご紹介から、いろいろと考えてみたいと思います。

今回は敗戦直後の復興期の記述をご紹介します。

 ※    ※    ※)
P234

動物園再開


 戦争の末期、動物園は軍に徴用(ちょうよう)されていました。そして悉(ことごと)くの獣舎は檻といわず通路といわず、軍需品が立錐の余地(りっすいのよち)もない程ぎつしりと詰め込まれていました。園内の花壇は畑に掘り起こされた儘(まま)手入れもされないで、雑草の蔓(のび)るに任せているし、ヒマラヤ杉の並木が、此処彼処(ここかしこ)に倒れたままになつています。

 ドラム缶や焼トタンや破れ硝子(ガラス)などが至る所に散乱しています。ペンギン鳥の周囲の美しいパーゴラ【つる性の植物を絡ませる木材などで組んだ棚】の円柱は、空俵(からだわら)と筵(むしろ)の山に埋もれているし、舞台前の広場には炭俵とボロ屑が、うず高く積まれています。アスファルトの園路はトラックの轍(わだち)に踏み砕かれて凸凹になり、所々に水が溜つているという始末です。

ああ見る影もなく荒れ果てた東山動物園。終戦後二ヵ月を経た十月の半ば、動物園の復興を命ぜられた私は、この荒涼たる景色の中に茫然として佇(たたず)んでいました。

嘗(かつ)ては賑やかだつた動物の群も飼料の不足と寒気の為に大方は死んでしまいました。殊(こと)に哀れだつたのは猛獣です。獅子(しし=ライオン)、虎(トラ)、豹(ヒョウ)、白熊、羆(ひぐま)などの人気者が、何も知らないのに、何の罪もないのに、むざむざと射殺されてしまつたのは何としても残念でなりません。

 それにしても、よく残ってくれたなあと、私は今更のように淋しくなつた動物共を顧(かえり)みました。広い園のあちこちに、空檻と荷物の間に挟まれて、ぽつりぽつりと生き残つた動物が忘れられたように蠢(うごめ)いているのに、一つ一つその頭を撫でてやりたいような気持でした。

中にも二頭の象が小山のような巨躯(きょく)を悠然(ゆうぜん)と構えているのを見ては、実に頼母(たのも)しい限りです。

「よく生きていて呉(く)れたなあ。これからは何をおいても食べさせてやるぞ。そしてよく肥(ふと)つて此(こ)の冬を頑張つて呉れ。春になつたら開園だ。お前の天下が又来るのだ」といいきかせてやりました。

黒猩々(くろしょうじょう=チンパンジーの異名)のバンブーも実に奇跡的に残りました。黒猩々は至(いた)って寒がり屋で、完全な暖房なしには絶対に冬を越させることの不可能な動物です。忘れもしない二月十五日の昼の空襲でした。

バンブーの室(へや)だけは戦争中にもかかわらず、ぬくぬくとストーブを焚いてあたためてやつていたのでしたが、それが正門前に一度落下した十数発の爆弾で、一瞬にして硝子戸(ガラスど)いう硝子戸は、滅茶々々(めちゃめちゃ)になつてしまいました。さあ暖房も何もあつたものではありません。零下何度という寒風は容赦なく縦横(じゅうおう)から吹きこんで、バンブーはブルブルと震え出しました。

この時ばかりはもうバンブーも助からないと思いましたが、やつとの事でこれを園の一隅の狭い部屋に避難させて漸(ようや)く冬を越させたのでした。

象に黒猩々、これだけでも今の日本では何処(どこ)でも見られない天下一品者です、それにカンガルーもおれば角馬(ツノウマ=ヌーの別称)もいる。猿の連中も相当に残つているし、鳥では、冠鶴(かんむりづる)といつた名鳥や孔雀(くじゃく)。鸚鵡(おうむ)もいます。これら残党を掻き集め、動物園は秋から冬にかけて急に活気づきました。

復興だ!復興だ! と園を挙げて三月の開園を目ざしてひた向きに進んだのです。今や駘蕩(たいとう)たる春風の中に、東山動物園は往年の姿もその儘に再開のスタートを切りました。依然として押しよせる大供子供(おおどもこども)、弁当をさげた家族達、男の子も女の子も皆嬉しそうです。


動物は少なくても、この平和な風景は、長い戦争に荒(すさ)み果てた人々の心を次第に解きほぐして行く事でしよう。


春だ! 平和だ! もう戦争はないのだ! ゆつたりとした心を取戻し新日本人としての教養を培(つちか)おうではありませんか。

 ※    ※    ※(以上引用終わり)

前回の文中にあった戦時中の苦難をしのぎ、敗戦を境に、動物園が人々の荒(すさ)んだ心を和ませる大切な施設として人気を取り戻し、復興に向けた北王園長の喜びと意気込みが伝わってきます。

『終戦後二ヵ月を経た十月の半ば、動物園の復興を命ぜられた私は』とありますが、これは、猛獣殺処分を心から残念に思った、市長の強い決意の表れでしょう。

昭和17(1942)年2月21日~昭和21(1946)年11月1日の間、第14代名古屋市長の職に就かれた、佐藤正俊市長ですね。この方が、いかに名市長だったかということが、このことだけでも分かります。

北王園長の文章を読んでも、『戦時中日本人は、軍国主義の狂気に染まっていた』というのがいかにデタラメな歴史認識であるかが分かります。


それにしても北王園長の『春だ! 平和だ! もう戦争はないのだ! ゆつたりとした心を取戻し新日本人としての教養を培(つちか)おうではありませんか』という文章。

古い日本人は軍国主義の悪い日本人で、新日本人は民主主義の教養を培(つちか)おうと努力する良い日本人だという、GHQが日本人に戦争の贖罪意識と自虐史観を植え付けた『ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(War Guilt Information Program)』の効果が、すでに北王園長ほどの知識教養人にまで浸透していたという事実に、私は暗澹とした気分を禁じえません。


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