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四谷から溜池山王までお散歩したよ。(その12) 【ファイルET96】2014.04.05 

【ファイルET96】2014.04.05 四谷から溜池山王までお散歩したよ。(その12)

山王さまの山王日枝神社は江戸城の裏鬼門を守っているよ(日枝神社その2)。

 四谷から溜池山王までお散歩したよ。(その1)から読まれる方はこちら。↓
 http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/54423550.html

 山王さまの山王日枝神社は江戸城の裏鬼門を守っているよ(日枝神社その1)から読まれる方はこちら。↓
 http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/54811826.html

ということで、山王様の神門の内側です。


 




 

境内説明板の説明を書き写します。


※  ※   ※

鎮座地 東京都千代田区永田町二丁目十番五号

御祭神 主祭神 大山咋神(おおやまくひのかみ)
     相殿神(あいどののかみ)・国常立神(くにのとこたちのかみ)、
     伊弉冉神(いざなみのかみ)、足仲彦神(たらしなかつひこのかみ)

例祭 六月十五日(十日から十六日まで祭典行事多彩)


由緒・御神徳

 祭神大山咋神(おおやまくひのかみ)は近江国(おおみのくに:今の滋賀県)の日枝山(ひえのやま)【仏語(ぶつご)で比叡山】に鎮り、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の孫神であります。

 大山咋神は、「鳴鏑(なりかぶら)になりませる神」といわれ、山城国風土記(やましろのくにふどき)によれば「丹塗(にぬ)りの矢」とされております。この丹塗矢は、又破魔矢(はまや)ともいわれ、厄除け、魔除けのほか、縁結び、子授けにもご利益(りやく)があり、八方円満の徳を有しております。

 当社の始源は古く、鎌倉初期、秩父重継が江戸貫主を名乗り、その館(やかた)に山王社を勧請し、文明年中太田道灌(どうかん)が城内に、更に天正年間徳川家康が入府に際し城内の鎮めと崇められ、武蔵野を開拓し、大江戸の鎮護としてあがめられ、明暦の大火のあと萬治二年(一六五九)当地星が岡に移遷されました。

 江戸時代の日枝・山王まつりは、日本三大祭りの一つに数えられ、時の将軍家が城内に自ら奉迎せされ「天下祭」「御用祭」とも称され、広く世に知られ、江戸市民に親しまれました。現在も隔年に執り行われる六月の山王まつり「神幸祭」は氏子各町内(七十二ケ町)を巡幸し、古式ゆかしく盛大に行われています。(平成は偶数年)

※  ※   ※

 ということで、日枝山王神社の由緒はこういうことなのですが、以下、山王日枝神社のHPを参考にしながら、その概要を説明していきたいと思います。
http://www.hiejinja.net/index.php


御神徳

大山咋神(おおやまくひのかみ)の「咋(くひ)」は「主」という意味で、大山の主であると共に広く地主神として崇められ、山・水を司り、大地を支配し万物の成長発展・産業万般の生成化育を守護し給う御神徳は広大無辺だということです。

 又、近年は厄除け・安産・縁結び、また商売繁盛・社運隆昌の神として崇敬されています。

社格

日枝山王神社は江戸城の鎮守として徳川家の崇敬は特に篤く、将軍世嗣(せいし)、子女及諸大名等の社参は絶えることなく、毎年正月・六月には必ず使いを遣わして幣(へい、ぬさ、みてぐら)を奉り、国家事ある時には必ず祈祷(きとう)を修し、崇敬他に異なるものがありました。


東京奠都(てんと)の後明治元年十一月八日准勅祭社に、同二年七月二日祈年奉幣(きねんほうへい)の列に入り、同五年五月八日府社に定められました。


山王日枝神社のHPには、このようにさらりと書いてありますが、基本的に江戸幕府を守護する神社ですから、明治新政府にとっては面白くありません。それで山王日枝神社の社格を官幣大社(かんぺいたいしゃ)じゃない、府社(ふしゃ)にとどめたのです。


明治元年(1868年)11月の東京奠都の際にまず准勅祭社(じゅんちょくさいしゃ)に指定されます。その後明治3年(1871年)に神祇官(じんぎかん)直下から東京府管轄に移され、明治5年(1873年)の官国幣社の選定時にも漏れ、そのまま東京府の府社となりました。

このあたりの事情は、明治維新に際し、江戸城の鬼門を守護する『神田明神』の主祭神が『朝敵』だった『平将門公』だったことから平将門公が主祭神からはずされ、明治初期の神仏分離により『権現』『八幡大菩薩』などの称とともに『明神』の公用が禁止されたため、『神田神社』に改められたというのと同様、とてもデリケートな問題なのでした。


神田明神も山王日枝神社同様、明治時代に入って官幣大社から外され、『准勅祭社』『東京府社』に定められたのです。

『神田明神は江戸の総鎮守』の記事はこちらから。↓

http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53382446.html

社格というのは、神社のランクですから、とても重要なのです。

1881年(明治14年)に、氷川神社宮司で日枝神社の祠官(しかん)を兼ねていた平山省斎(ひらやませいさい)が、皇城鎮護(こうじょうちんご)の神社が府社であっていいはずがないので、官幣大社にしてほしいと願い出ました。


この時は官幣大社への昇格は果たせなかったのですが、皇城の鎮護たる故を以て、東京府・内務省の賛成を得て1882年(明治15年)1月9日に官幣中社になりました。


それから、官幣大社に昇格するのにはさらに時を経なければなりませんでした。


大正天皇御即位にあたり、氏子区域内に御降誕せられたる故を以て、1912年(大正元年) - の大正天皇御即位の当日、ついに日枝神社は宿願の官幣大社に列せられました。

大東亜戦争の敗戦と共にGHQの越権行為によって社格を廃せられたのですが、宗教法人として都民の尊信を専らにしてかわることなく今日にいたっています。


社号


慶応四年(明治元年)六月十一日以来、日枝神社の称号を用いる事となりましたが、古くから「日吉山王社」「日吉山王大権現社」「江戸山王大権現」「麹町山王」ひろく「山王社」と称され、氏子にとっては「お山」であり、一般には常に「山王さん」の名で親しまれて来ました。


由緒


日枝神社は武蔵野開拓の祖神・江戸の郷の守護神として江戸氏が山王宮を祀り、さらに文明十年(1478)太田道灌公が江戸の地を相して築城するにあたり、川越の無量寿寺(現在の喜多院・中院)の鎮守である川越日枝神社を勧請したのに始まると伝えられています。


やがて天正十八年(1590)徳川家康公が江戸に移封され、江戸城を居城とするに至って「城内鎮守の社」「徳川歴朝の産神(うぶがみ)」として城内の紅葉山に遷座します。

皇居の一般参観をしたときに撮影した紅葉山。


 





江戸時代、紅葉山には、家康を祀る東照宮をはじめとして、歴代将軍の霊廟が営まれていました。


慶長9年(1604年)からの二代将軍徳川秀忠による江戸城改築の際、社地を江戸城外の麹町隼町に社殿を新築して遷座遷祀され、この時から別当神主を定め、庶民が参拝できるようになり、江戸市民からは「江戸郷の総氏神」「江戸の産神」として崇敬されるようになりました。


世に元山王と称する地は今の隼町国立劇場附近です。


今の隼町国立劇場附近は、江戸城天守閣から、南西の『裏鬼門』と言えなくはありませんが、少し中途半端な位置にあります。


社地は家康により5石、元和3年(1617年)に秀忠により100石、そして寛永12年(1635年)に徳川家光からの寄付を加えて600石と増加していきます。


明暦3年(1657年)、明暦の大火により社殿を焼失したため、万治2年(1659年)、将軍家綱が赤坂の溜池を望む松平忠房の邸地を社地にあて、現在地に遷座しました。家綱は結構善美を尽くした権現造(ごんげんづくり)の社殿を造営・遷祀して、天下奉平、万民和楽の都を守護する祈願所として崇敬しましたが、この地は江戸城から見て明確な裏鬼門に位置します。



その後、明治元年東京奠都と共に勅使奉幣が行われ、御西下御東幸に際しては御途中御安全の御祈祷を修せしめられ、明治二年七月天下水患にあたり勅使祈晴の御事があり、宮妃御懐妊の際は御安産の御祈祷を修せられ、皇室典範帝国憲法の制定を始めとして開戦及び平和回復等の重大事に際しては、常に勅使参向御奉告が行われ、畏くも大正天皇儲宮にまします時、御参拝があり、明治天皇は御愛蔵の御太刀一振(長光)を御進献あそばされたということです。


ということで、現在日枝神社は、皇統と東京を守護する神社ということになっています。



ですから、山王様の神門の内側の額には、『皇城之鎮』と書かれています。


 




さらに拡大すると、『神宮祭主 房子謹書』と読めます。


 




『神宮』というのは当然『伊勢神宮』のことで、明治天皇第七皇女北白川房子(きたしらかわ ふさこ)様の御揮毫(きごう)です。


房子様は戦後、伊勢神宮祭主となり、皇籍を離れ、神社本庁総裁、伊勢神宮奉賛会総裁となられました。これは、伊勢神宮の斎王・斎皇女である斎宮の伝統にのっとったものなのでしょう。

斎王(さいおう)または斎皇女(いつきのみこ)は、伊勢神宮または賀茂神社に巫女として奉仕した未婚の内親王または女王(親王の娘)のことを言います。厳密には内親王なら『斎内親王』、女王の場合は『斎王』『斎女王』と称されましたが、一般に両者をまとめて斎王と呼びます。


伊勢神宮の斎王を斎宮(さいぐう/さいくう/いつきのみや/いわいのみや)、賀茂神社の斎王を斎院とも称し、斎宮は古代(天武朝)から南北朝時代まで、斎院は平安時代から鎌倉時代まで継続しました。


『源氏物語』では前東宮と六条御息所(ろくじょうのみやすんどころ、ろくじょうみやすどころ)の間に生まれた姫宮(後の秋好中宮)が「葵」帖で斎宮となったため、六条御息所がそれに同道することになるというくだりがありますが、このように、皇族関係の女性が伊勢神宮の祭主に就任されるのはこういう伝統があるからなのですね。


現在の伊勢神宮の祭主は池田厚子様【いけだ あつこさま:旧名、順宮 厚子内親王殿下(よりのみや あつこないしんのうでんか)天皇陛下の姉宮】ですが、ご高齢のため、紀宮清子内親王殿下(のりのみやさやこないしんのうでんか)であられた黒田 清子様(くろだ さやこさま)が2012年(平成24年)4月26日 - 伊勢神宮臨時祭主に就任され、伊勢神宮 第62回式年遷宮をなどの神事を司られたことが記憶に新しいところです。


伊勢神宮の祭主であられた明治天皇第七皇女北白川房子様から『皇城之鎮』という御揮毫を賜るということは、正式に、日枝神社が皇居を鎮護する重要な神社だというお墨付きをもらったということなのですね。


 ということで、江戸城・皇居の裏鬼門の守りとしての日枝神社については、次回に記します。

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コメント

No title

眼とろん星人スジャータさん、この記事2回読ませていただきましたが、私にはお話の内容が難しくてぜんぜんわかりません。
スジャータさんが分かりやすくわかりやすくと、念を入れて書いてくださっているのはよくわかりますが、私には、神様のお名前も、登場人物のお名前もぜんぜんわかりません。
どうぞ、この不徳と致すところをお許しください。

No title

ありがとう!どうしても東京の神社というと格というものを無視して浅草ばかりが注目されてばかりで悲しかったの。しかも、浅草寺と浅草神社とごっちゃにしてる人が多すぎるし・・・なんか、胸がす~~っとしました!立地場所が良いとかっていう問題ではないのにねぇ・・・格を無視する人が多すぎますもの。凸

No title

トマトさん、2回もお読みいただいてありがとうございます。そして申し訳ありませんでした。
神様のことなので、山王様の解説をあまり触るのもどうかと思って、祝詞(のりと)のような、文章になってしまいました。

この記事では、まず、山王様が江戸城・徳川幕府の守護する裏鬼門として重要だったということ、

それゆえに明治新政府に冷遇され、社格を下げられたこと、

しかしながら、東京になっても庶民に親しまれているため、こんどは帝都の皇居と皇室を守護するための神社として、再び重要な神社として、官幣大社に格上げされ、現在に至っているということをご理解いただいたら、それで十分です。

次回は、どういうふうにこの神社が重要なのか、書かせていただきます。
いましばらくおつきあいくださいね。

No title

むにゅさん、浅草神社や浅草寺も重要なのでしょうが、おっしゃる通り、どちらかというと、あちらは、江戸時代から、芝居小屋や新吉原等、庶民の集まる場として有名ですね。

まず、江戸は江戸城があって、神田明神と日枝山王神社ですね。
浅草寺や浅草神社も記事にする予定ですが、このペースだと先になりそうです。

ポチありがとうございます。
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