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【ファイル3】 ドブロクスキー博士との邂逅 2006.07.30

 
【ファイル3】2006.07.30 ドブロクスキー博士との邂逅

 疾風のようなスジャータ嬢の来訪から、しばらく私は茫然自失としていた。

 それにしても、地球人の女性というものは恐ろしいものだ。
 私たち眼とろん星人には、生来、他者の知性を測定する能力が備わっている。ところが、その能力が、地球人の美女に限っては無効となることは極めて不思議なことだ。ことにあのスジャータ嬢においては、その傾向が顕著になる。果たして、彼女には知性なるものが存在しているのであろうか。もちろん、そのへんをうろついている犬猫や、動物園の猿などはある程度の測定ができるのであるから、彼女の知性がゼロというわけではないはずだが。

 最近の私は散歩がてら、地球人の知性について調査することを日課としている。
 先述の理由から、知性が測定できるのは、美女のカテゴリーから逸脱する女性、ないしは男や子供、老人などだ。散歩に疲れると私は喫茶店でメイプル・ティーを飲みながら休息をとる。このひと時が私にとって至福の時間だ。
 大判の雑誌のページをゆっくりとめくりながら、店先を行きかう通行人を観察する。大概は普通の社会生活を慎ましく送っている一般人だ。私には彼等の姿が一番近しく、好ましいものだと思える。
 テレヴィジョンという一方通行のメデイアには、自己顕示欲で肥大し、押し付けがましいスローガンを棍棒のように振り回す化け物のような人間が百鬼夜行している。夜の繁華街の客引きのように、ザッピングで通過しようとしている視聴者の足を引きとめようと、口角泡を飛ばして泣き叫び笑い、あるいは不必要に神妙な顔で、この世の一大事を語りかける風を装っている。
 馬鹿な連中が馬鹿なことをしでかすのは、同義反復であるから私には少しも気にかからないのだが、私にとって残念なことは、その傾向が街を行く一般人にも感染しているということだ。

 それは、事件が起きる度に、一般人が街頭インタビューで待ってましたとばかりに愚にもつかない意見を大根役者の身振り手振りで得々と話す様を見ても分かる。
 その意見はその放送局が大衆に押し付けたがっているステロタイプの意見か、さもなくば、それに反対する人間はどれだけ品性下劣であるか知らしめるための予定調和的な傍証として用いられている。

 彼らは一体何が不安で、何を確認したがっているのだろう。

 そう考えていると、何やらヒートアップした調子の会話が私の耳に飛び込んできた。
「それで、親権を家庭裁判所で争っているんだけど、子供にどっちに行きたいか聞かなきゃなんないの」
「ふーん。そうなんだ」
「離婚も大変よね」
「それで、彼ったらね・・・・」
 それから、ついこの間まで夫だった男の悪口が延々と続くのだった。
私は含みかけたメイプルティーを噴出しそうになった。
 声の主は隣席の20代後半とおぼしき女性二人だ。
 地球人には離婚という愚かしい風習があるようなのだ。それについては、長くなるのでここでは論じないが、そのようなプライベートな話題をオープンスペースで話されると、私達眼とろん星人は、ぎょっとするのだ。

 私は彼女たちの肥大した欲望の波動によって、しばらく思考を攪乱された。

 彼女たちの深刻にもかかわらず、どこか他人事のような会話は結局小一時間程続いた。

 彼女達が店を出た頃には、私は疲労困憊していた。私は聴覚に施錠をほどこし彼女たちの会話を遮断したが、二人の心の奥から噴出する感情のうねりの急襲は防ぎようがなかった。
地球上ではこのような他人の通り魔的な感情の噴出によって、私の繊細な感受性が痛めつけられるということが頻繁に生じるのだ。

 私は、さすがにぐったりとして、そろそろ店を出ようと思い立ち上がりかけた。

 まさにその瞬間だった。背中にただならぬ気配を感じたのは。
 私は驚きとともに、ゆっくりと後ろを振り返った。そこには白髪の老人がテーブルに肘を突いて座っていた。眼を瞑った赤ら顔は、あきらかに西洋人の風貌をしており、よれよれの垢じみたシャツは、所々ボタンが外れていた。明らかに老人は泥酔しているのだった。
 老人の皮膚から蒸散されるアルコールが陽炎となって、背景を揺らめかせている。
 私は直ちに彼の知性を値踏みした。
 ところが、驚嘆すべきことに、泥酔による意識の混濁で形成されている暗雲の切れ間から漏れ出す曙光は、紛れもない最上質の知性のみが発する光だったのだ。それは、明らかに意図的に、その知性をカモフラージュするための泥酔状態だった。
  私は不躾を承知で彼の座っているテーブルの反対側の席に腰掛け、老人に話しかけた。
「すみません。少しばかりお話をさせていただきたいのですが・・・・」
老人の頭が前のめりに傾ぎ、テーブルに頭を打ち付けんばかりの姿勢から持ち直し、大きく旋回してふんぞり返った姿勢になった。
 老人は3回ほどしゃっくりをして、つばを飲み込み半眼を開けた。
 その刹那、老人の眼光が鋭く私を捉えた。間違いなく彼は天才だ。私の確信は揺らぎの無いものとなった。
 しかしその知性の光は、物音に驚いた鳥のように瞬時に暗雲の影へと飛び去っていった。あきらかに老人は私の存在に狼狽していた。
 老人は泥酔の不快感に名残りを告げるかのようにゆっくりと口を開いた。
「どなたじゃな、ワシのような老いぼれの酔っ払いの話を聴きたいという物好きは」
「私がどのような者か、ご存知のはずですが」
「確かに。大体のところはな。貴方は常人離れをした人物とお見受けするが、どこか遠方からいらした客(まれびと)かな」
「ご明察のとおりです」
「それで、なにやら込み入った事情から、ここにいることを余儀なくされたのじゃな」
「そこまでお見通しとは、恐れ入りました」
「一見したところ貴公は、こんなところにいるべき人間ではないからな。もっとも、人間と申し上げて良いかどうかは別として・・・・。それ以上の詮索はワシはせぬ。他人との関わりはまっぴらじゃからな」
「貴方こそ、その知性に相応しい地位と名誉と賞賛と敬意が付与されてしかるべき方でしょう」
「地位と名誉と賞賛と敬意じゃと。くだらん。まったくくだらん。そんなものは犬にでもくれてやれ。
 ワシはメートル=イラチッチ=ドブロクスキーと申すものだ。ワシの一族は祖父の代に白系ロシア人として日本に亡命してきた。祖父は帝政ロシア政府の有能な高官だった。
 日露戦争後、共産党勢力すなわち、赤色ロシアが勢力を拡大し、それに抵抗する帝政ロシア側の皇族・貴族・高官すなわち、その当時のロシアの知性とも呼ばれるべき人たち、所謂白系ロシア人は度重なる迫害を受けた。
 そしてあの赤色革命だ。あれは酷かった。なにしろロマノフ朝の方々は一族すべて、愛犬まで含めて全員アカに虐殺されたからな。そのような愚劣極まりない蛮行が、科学を僭称するマルクス主義の名の下に行われたものなのだから、笑わせるじゃないか。全体、科学とか理性とかがしゃしゃり出てくると、決まって人間は残虐非道になるものだ。その結果は見てのとおりだ。歴史が実証しておる。
 祖父は当時まだ子供だった父を伴って、作曲家のプロコフィエフと同じ船に乗って日本に来た。プロコフィエフはアメリカに渡り、祖父はこの地に留まった。みんなとても暖かく迎えてくれたからだ」
「戦争の時は、さぞかしご苦労をなさったでしょう」
「確かにな。しかし、そのことは言うまい。アカのスターリンが中立条約を交わした日本に対してやった火事場泥棒のことを考えると、心が痛む。特に満州や千島樺太でやったこととか、戦争終結後の日本兵シベリア強制連行のことなどだ。それにしても、どうして日本の連中は、国際法違反の戦争終結後の捕虜強制連行の事を『抑留』と言い換えて誤魔化すのじゃな。
 ただ、ワシ達がワシ達を迫害したアカの連中と同一視され、憎悪の対象にされたことは、とても辛かった。
 大東亜戦争敗戦後、GHQによるパージで屈折した反米感情と、独裁政権に一般的に見られる黎明期ソ連の目覚しい経済発展に勘違いした日本知識人の連中は雪崩をうって社会主義、共産主義思想のもとに走った。ワシのことを面と向かって『露助』と罵倒し、石を投げた連中がじゃ。てきめんに馴れ馴れしく声を掛けてきよってな。ワシを罵倒し石を投げたことよりも、その変わり身の早さのほうがよほど軽蔑に値するわい。何が進歩だ革新だ。へそで茶を沸かすわ。地位と名誉と賞賛と敬意なら、そのような下種な連中でも手に入れることができる。そんな下らんもの、ワシは唾棄する。

 それ以来、結局ワシに残された抗議の手段は沈黙しかなかった。ワシは既に父の代で日本に帰化しているからして、日本人じゃ」

 老人の話がまともだったのはここまでで、話し続けるうちに支離滅裂になっていき、執拗に私に絡みだした。
 私は老人を宥めるのに苦労した。店の者も、迷惑だから出て行ってほしいと言い始めた。
家まで送ろうと申し出たが、それは謝絶された。
 私は自分のことを眼とろん星人と名乗り、老人のことをドブロクスキー博士と呼ばせてもらうことを許してもらった。私はアトモス部屋の住所と連絡先を書いた紙を博士に渡し、再会を約した。ただ、彼が泥酔状態にあるだけに、その約束はとても心もとないものだった。博士の存在が、この地球で私が生活していく上で、とても貴重なものになるであろうことは明白だった。
 博士の千鳥足の後姿を見送りながら、地球人の上質な知性に対する恩知らずな扱いを目の当たりにして、私は激しい憤りを感じた。

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