碑がある京阪交通社。写真左隅の細長いのが遭難の碑
京都の繁華街のど真ん中。四条河原町北西角北側のファッションビルBAL(いつの間にこんなビル建ったのよお!ここって倒産した駸々堂書店の隣らしい)の更に北、京阪交通社の前にある坂本龍馬・中岡慎太郎遭難の碑。
この碑は普通の人は気がつかないよ。写真を撮ってたら、通行人に怪訝な顔をされます。
坂本さんと中岡さんは、ここで温泉旅行パックの申し込みをしているときに何者かに暗殺されました・・・・。そんなわけないか。
ここは近江屋という宿屋(兼醤油屋)のあった場所で、そこの2階が事件の現場です。
下手人は、諸説あるらしいんですが、
(新選組犯行説。薩摩藩陰謀説等。海援隊のいろは丸が紀州藩の船と衝突した際、賠償金を支払らわされたので、紀州藩が逆恨みの仕返したのだという説も聞いたことがあります)
見廻組実行説が一応、史家の定説みたいです。真相は分かりません。
龍馬さんは11月15日、七五三の日に、享年32歳になった日に亡くなりました。本当に若いねえ。
生年月日は1835年(天保6年)11月15日、命日は1867年(慶応3年)11月15日です。
死んだその日が誕生日。
ど根性ガエルのピョン吉君みたいな人なんだけど、お墓は京都を見下ろす、京都霊山護國神社参道中腹にあります。墓前には全国から来る龍馬ファンが手向けた花が添えられています。
(ただし、この11月15日という日付が、新暦なのか、旧暦なのか、調べているうちに分からなくなりました。ご存知の方はご教示ください。私としてはこの『ピョン吉ギャグ』が言いたいだけなので、どちらでもかまいません)
南北に走る河原町通りは、今は広い(100万都市の大通りとしては無茶苦茶狭いけど)のですが、維新の頃の道幅は、道を挟んだ向こう側の歩道の幅しかなかったんだって!
だから、この碑のあるのは、実際は当時の近江屋の敷地の真ん中ぐらいになります。
道を挟んだ北東斜め向かいには高知藩邸がありました。龍馬さんたちは命を狙われているのが分かっていたので、高知藩から、『危ないから、高知藩邸にいらっしゃい』って勧められてたんだけど、龍馬さんは元脱藩者なので、遠慮して三条の酢屋という旅館に投宿して、近江屋で、中岡さんと相談していたところを襲われたんだねえ。(NHKのテレビで紹介していた説)
龍馬さんは勝海舟さんの口利きで、既に脱藩の罪は許されていたので、遠慮しなけりゃよかったのに!
司馬遼太郎の『竜馬が行く(司馬さんは龍馬ではなく竜馬と表記)』では、龍馬さんは、いまわのきわに『俺は脳をやられてるからもうだめだ。もういかん』といって、こと切れたそうです。
京都は歴史の街です、ちょっとした路地に沢山石碑が建っています。
坂本龍馬さんの業績としては
亀山社中という今の商社の元みたいな組織を作った。
イギリスの商人、グラバーから小銃を買い入れ、長州藩に納入したりしています。(後の海援隊。そういえば三菱の創始者、岩崎弥太郎も土佐藩《阪神タイガースがキャンプする安芸出身》ですね)
イギリスの商人、グラバーから小銃を買い入れ、長州藩に納入したりしています。(後の海援隊。そういえば三菱の創始者、岩崎弥太郎も土佐藩《阪神タイガースがキャンプする安芸出身》ですね)
桂小五郎や西郷隆盛を説得して、薩長連合のお膳立てをした。
伏見寺田屋のお龍さんと結婚して、鹿児島へ日本人初の新婚旅行をした。(業績じゃないって?)
五箇条のご誓文のもとになる船中八策を書いた。(五箇条のご誓文の「万機公論に決すべし」の語句は、龍馬さんと親交のあったご誓文起草者の由利公正が船中八策《慶応三年六月》に「万機宜しく公議に決すへし」とあったのを採用したということです)
等があって、明治維新の立役者です。
司馬遼太郎の『竜馬が行く』はとても面白く読みました。
面白すぎて、少し眉唾なんだけど、彼の人となりを理解するには絶好の入門書です。史実はこうだったって調べるのも楽しいんだね。
なお、暗殺時に龍馬の返り血を浴びたと言われる掛け軸(淡海槐堂が暗殺当日に誕生日祝いとして贈った「梅椿図」という作品)が京都国立博物館に収蔵されていて、特別展で見たことがあります。
これが血かなっていうシミみたいなのがあるにはあったけれど、良く分かりませんでした。なんか悪趣味ですよね。
龍馬さんが泊まっていた酢屋。今は木製工芸品のお店になっています。すぐ近くに池田屋事件の池田屋があります。
ヒロシ君のTシャツに貼り付いた『ど根性龍馬』君。
「日本の夜明けは近いぜよ!」
「日本の夜明けは近いぜよ!」
全国の龍馬ファンの方々ごめんなさい。ノレン君が悪いんです。
次回に続きます。
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