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皇居東御苑(こうきょひがしぎょえん)=旧江戸城本丸を探索するよ(その3) 【ファイルET7】2010.09.19 

【ファイルET7】2010.09.19 皇居東御苑(こうきょひがしぎょえん)=旧江戸城本丸を探索するよ(その3)

大奥方面に北上するよ

 最初から読まれる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51135519.html

 前回の松の大廊下跡から本丸跡を北上します。
 
 茶畑もあります。





 芝生の中央にある『ドンの午砲台跡』です。
 




 江戸城本丸跡地は気象台発祥の地でもあります。

 明治期から昭和30年代まで気象庁の官舎も建っていました。

 午砲(ドン)というのは、明治四(1871)年9月、正しい時刻を知らせるために設置された午砲台のことです。

 天文台からの信号合図で、近衛兵が正午の時報の大砲(もちろん空砲です)を撃ちました。

 当時はラジオもテレビも電波時計も携帯電話も無かったから、遠くまで音が届く大砲が時報だったんだね。さぞかし、うるさかったろうねえ。

 これは昭和四(1929)年4月1日に廃止されるまでの58年間、『ドン』の愛称で東京府民に親しまれました。

 午前中に業務・授業が終了し午後が休みの早期終業のことを『半ドン』といい、週休二日制導入までは、土曜は半ドンでした。

 この『半ドン』の語源が、「正午の大砲の『ドン』という音より一日の半分が休みなので『半ドン』と呼ばれるようになった」という説があります。

 あと半ドンの由来には、
 ○ 江戸時代末期、長崎県出島よりオランダ語で日曜日または休日を意味するzondagという言葉が伝わり、訛ってドンタクになり、半分のドンタクなので「半ドン」と呼ばれるようになった。

 ○ 明治時代において半分休みの土曜日と言う意味で「半土」と言う言葉が生まれ、それが徐々に「半ドン」と言われるようになった。

 という説があるようですが、私は午砲説を採りたいと思います。


 富士見多聞(ふじみたもん)です、





 富士見多聞も皇居の一般参観のコース(要予約)から見た方が遙かに立派だねえ。

 皇居の一般参観のコース(要予約)で、表からみた蓮池濠(はすいけぼり)越しに見た富士見多聞はこちら(再掲)。




 
 多聞とは、防衛と装飾を兼ねた長屋作りの櫓(やぐら)の一種で、中には鉄砲や弓矢が納められていました。江戸城本丸には15棟の多聞がありましたが、富士見多聞は、その中で唯一の遺構です。

 蓮池堀から、富士見多聞までの石垣は、約20mもあります。


 石室(いしむろ)です。





 石室は富士見多聞の北側にあります。

 入り口には扉を取り付けた穴があります。

 暗い内部は20㎡ほどで、伊豆半島産の安山岩、「伊豆石」の切石で、隙間無く壁が組まれています。





 これは、江戸城の抜け穴とか、御金蔵(ごきんぞう)という説もありますが、大奥御主殿・御納戸(ごなんど)の脇という場所柄から、非常時に大奥の調度品や文書類など、貴重品を納めた富士見御宝蔵の跡と考えられているそうです。

 なお御金蔵は実際には富士見櫓の近くにあったようです。


 石室の先には竹が植わっています。





 このような、竹やバラ園の野生種のバラは、今上陛下(きんじょうへいか=今現在の天皇陛下)のお考えから、入園者が楽しめるように、吹上御苑から移植などにより植えられたものだそうです。
 

 このあたりや天守石垣前の芝生広場が大奥の御殿でした。




 
 武家社会では、表(おもて)と奥(おく)の区別が厳格になされていました。

 高い身分の武家の妻子は奥御殿に住み、みだりに男が立ち入ることは許されませんでした。

 奥様、奥方というのは本来、武家社会での呼び方です。

 奥の一番大きな役割は将軍の世継ぎを生むことです。

 徳川家康が天下を取り、代々の将軍が江戸城に住むようになると、大奥の制度が生まれます。

 大奥は正妻の御台所(みだいどころ)をはじめ、女性だけが住む御殿で、中奥と大奥は御鈴廊下(みすずろうか)のみで結ばれていました。

 大奥は、さらに御殿向(ごてんむき)長局向(ながつぼねむき)と広敷向(ひろしきむき)の3つに分かれていました。

 御殿向(ごてんむき)は御台所(みだいどころ)の居室が中心で、上臈(じょうろう)などの奥女中たちは長局向(ながつぼねむき)に居室がありました。

 広敷向(ひろしきむき)は大奥の食料や着物などの調達窓口です。女性ばかりの大奥の中で、例外的に広敷役人という男性の役人が詰めていた場所です。

 この広大な空間に、御台所を筆頭に、年寄、上臈などの奥女中が数百人、総勢3000人の女性だけの世界が広がっていたなんて、凄いですね。

 有名な春日局(かすがのつぼね)も、天璋院篤姫(てんしょうひんあつひめ)も、皇女和宮(こうじょかずのみや)もここで暮らしていたのです。きらびやかなお姫様の御殿だったのです。

 本当に信じられないねえ。

 中でも、三代将軍家光の乳母(うば)のお福(後の春日局)は家光が成人してからも側(そば)につかえ、家光の生母お江与の方(おえよのかた)の死後、『大奥総取締役』を命じられました。

 そもそも、二代将軍秀忠の長男が夭折し、次男の竹千代(後の家光)が生まれたものの、その弟の利発な国松(後の忠長)を生母のお江与の方が溺愛し、そのことに危機感を持った竹千代の乳母のお福が駿河城の家康に直談判して、結局長幼の序列を崩すことなく、家光が三代将軍になったという経緯があるのです。

 後水尾天皇が、無位無冠のお福(春日局)が宮中に参内したことに憤り、退位されたという話をお夏清十郎の話に絡めて先日書きましたね。

 お福さんが参内するときはさすがに、三条実条(さんじょうさねえだ)の妹として、緋袴(ひばかま)を許し、春日局(かすがのつぼね)という名前を付けてのことだったのですが、後水尾天皇からすれば、許し難い非礼だったのですね。

 夏清十郎と後水尾天皇の記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51212476.html

 以後、大奥は幕政に隠然たる影響を与えていました。

 将軍吉宗が紀州家からはいって八代将軍をついだのには、家宣(いえのぶ)夫人の天英院の推挙が大きな力になっていたと言われます。

 江戸時代の女性は強かったんだねえ。

 ということで、長くなったので、次に続きます。

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コメント

No title

時刻を知らせる空砲の装置は、私も「午砲説」が一番的を得て居るような気がします。
かの有名な「大奥」が今の皇居のこのような場所にあったなんて、驚きです。しかも3000人もの女性が集まっていたんですね。
こうなると、男性ばかりの外の世界にも、それなりの影響があったことはまちがいないでしょうね。
でも、考えると、いささか、気味が悪いです。

No title

トマトさん、やはり大砲でしょうね。東京一円の人が聞き親しんでいたのでしょうから。でも空きっ腹に大砲の音は響くでしょうね。
高層ビルに囲まれている野原が大奥って実感が湧きませんよ。それだけにここに来て良かったと思いました。
11代将軍の徳川 家斉の時は、もっといたかもしれません。
将軍の母親になったら勝ちですから、ライバル心の火花が飛び散っていたでしょうね。

No title

私も正午に大砲でどーんと合図したのがわかりやすくていいなぁって思います(*^^*)
しかし3000人の女性の世界ってすごいですね。

No title

みゆりんさん、こういうのは一般の人に広まった言葉ですから、半日でド~ンの方が明快なので、この説が一番有力だと思います。官庁街もオフィス街も集中しているから、多くの人が聞いていたのでしょうね。
でも、となりの吹き上げ御所の天皇陛下はさぞかしうるさかったでしょうけどね。
『奥女中が数百人』と書きましたが、1000人以上いた説もあって、だとすれば、おつきの女官は更に増えて、総勢3000人じゃすみませんよね。

それも、正真正銘の『お局さま』でそれも、男に生まれたら、大名になっていたような人ばかりですから、本当に凄いと思います。日本の政治より、大奧をまとめる方が大変だったりしてね。

No title

うん、アタシも半ドンは大砲だと思う。だって、三菱重工爆破事件の時、あの丸の内の爆発音が秋葉原のうちの方まで聞こえたのよ。
不謹慎なたとえかもしれないけど、それを考えても大砲の合図だと思うわ。昔だったら、もっと音が響いたでしょうしね・・・でも、今、半ドンって言わなくなったねぇ・・・凸

No title

むにゅさん、こういう広く親しまれている愛称は難しい理屈は無いはずですから、単純に半日で大砲がドンっていうのが一番素直な解釈ですよね。
そうですか。
丸の内から秋葉原って東京、御徒町、神田、秋葉原って結構距離がありますからそうとう大きな音ですね。
確かあの爆破事件は、通行人も巻き込んだ無差別テロでしたよね。
あの事件がオウムのサリンにつながったような気がしてなりません。
そうですね。私は半ドンっていう言葉は好きなので、使われなくなって寂しい気がします。でも土曜は一日休んだ方が良いですね。
ポチありがとうございます。
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