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靖国神社にお詣りしたよ(その2) 【ファイルET29】2011.05.09 

【ファイルET29】2011.05.09 靖国神社にお詣りしたよ(その2)

大村益次郎さんの銅像だよ。

 最初からご覧になられる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52046335.html

 靖国神社には大きな銅像が建っています。

 日本陸軍の創始者で、靖国神社を創建に尽力した大村益次郎(おおむらますじろう)さんです。





 大村さんは、「トコトンヤレ節」(宮さん宮さん)の作曲者としても有名です。
 作詞は品川弥次郎さんです。

 品川弥次郎さんの記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51657940.html

 銅像の高さは12m。銅像の足下には、三条実美(さねとみ)の撰文か鋳刻され、弓矢をデザインした鉄柵と大砲8門が配置されていましたが、それらは昭和18(1943)年に撤去され、金属供出のため陸軍省に献納されました。

 現在も、基壇にはその鉄柵の跡が残っています。

 東京招魂社(現在の靖国神社)の建立を献策し、社地の選定を任された大村さん達は、急遽候補地の選定にあたります。

 当初は、政府参与だった木戸孝允(きどたかゆき)の案で上野が候補地に挙がったのですが、大村さんは、上野は東京城の鬼門にあたるばかりか、新政府を敵とした彰義隊との戦いの跡がなまなましいなどの理由から、自らが選んだ九段坂上のこの地に決定したのです。

 上野戦争の新政府軍の指揮を執っていたのが、他ならぬ大村さんだったので、さすがに上野に東京招魂社を建てるわけにはいかなかったのですね。

 大体、江戸っ子は田舎者の成り上がった新政府軍を嫌っていて、彰義隊贔屓でしたからね。

 上野の彰義隊の記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/48584057.html


 大村益次郎さんは、日本陸軍の創設者ではありますが、もともと武士ではありません。

 文政7年(1824)年、長州の町医者の家に生まれました。

 23歳で蘭学者緒方洪庵(おがたこうあん)のもとで学び、1853年、宇和島藩に洋式兵学の専門家として招かれました。

 その後、幕府講武所教授になり、それから長州藩で士官養成に当たりました。

 益二郎さんの頭脳は明晰(めいせき)で、合理的な思考の持ち主でした。

 それは、大村益次郎さんの肖像画を見れば一目瞭然です。





 大きな頭だねえ。

 いかにも、この頭の中に脳みそがびっしりと詰まっていそうですね。

 長州藩ではその風貌から「火吹き達磨(ひふきだるま)」のあだ名を付けられたそうです。酷いあだ名だけど、的を射ていて笑っちゃうねえ。

 このあだ名は同じ長州出身の周布政之助(すふ まさのすけ)さんが付けたとも高杉晋作(たかすぎ しんさく)さんが付けたとも言われているそうです。口が悪い人達ですね。

 銅像の益二郎さんの頭も大きいのですが・・・。





 さらに大きな頭の肖像画がこちら。





 私は昔、歴史の参考書か何かでこの肖像画を見て余りに大きな頭にびっくりして、ずっと忘れられませんでした。私の頭の中では、こんなイメージで記憶されています。

 私に脳内変換された大村益次郎さんのイメージ。





 偉人のお顔で遊んじゃだめだねえ。

 大村さんは、頭が良い分合理的で冷徹な思想を持っていました。

 志士のことも「ただのゴロツキ」と馬鹿にしていて、性格もドライで、情に篤い西郷隆盛さんとはソリが合わなかったとされています。

 長州藩で大村さんは藩の軍政を改革、軍隊の近代化をめざし、新式銃購入のため、自ら上海へ出向いたりもしました。

 その時、イギリスに侵略・植民地支配され、酷い目に遭っていた清の実情を把握したのでしょうね。このままでは、日本も清のようになってしまいます。

 1866年の第二次長州征討(せいとう)に際して、大村さんは長州軍の参謀として参加、軍事的才能を発揮しました。

 さらに1868年5月、寛永寺を拠点として新政府軍に対抗していた彰義隊(しょうぎたい)に、アームストロング砲を撃ち込んで圧勝しました。

 この彰義隊を1日で壊滅させた上野戦争で、大村さんの名は更に高まりました。

 上野戦争に際して、最激戦が予想された黒門口に薩摩兵が配備されると知った西郷隆盛さんは「薩摩兵を皆殺しにするつもりか」と聞くと、大村さんは「さよう」と答え、西郷さんは沈黙したという逸話が残っています。

 そもそも西郷さんは、江戸城下を戦火に巻き込みたくなかったから勝海舟さんの江戸城無血開城に応じたわけですから、勝海舟さんともども、新政府軍と彰義隊との摩擦に頭を悩ませていたのです。

 銅像の大村さんは左手に双眼鏡を持っています。





 これは上野戦争の時、江戸城の富士見櫓で指揮を執っていた大村さんの雄姿を現しているのだそうです。

 江戸城の富士見櫓の写真(再掲)






 後ろ姿はこんな感じ。





 勝海舟さんの『氷川清話(ひかわせいわ)』には「大村益次郎などといふ男がおれを悪(にく)んで酷くいじめるので」と、この頃の事が少し触れられています。
(講談社学術文庫 勝海舟『氷川清話』P378、P54)

 長州側は、江戸城無血開城を果たした薩摩と勝海舟の癒着を疑っていて、彰義隊の上野戦争のときには、大村指揮下の新政府軍の一隊が海舟の家を荒らしたのです。

「ちやうど彰義隊の戦争の日だったが、官軍二百人ばかりで、おれの家を取り囲んで、武器などはいつさい奪ひ去つてしまつた。しかし、おれが幸に他行(たこう)して居たために、殺されることだけはまづ免れた」


 明治新政府では、大村さんは兵部大輔(ひょうぶたいふ)となり、近代陸軍の建設に着手します。

 徴兵制を敷き、民主的国民軍の創設を目指す一方、藩兵の廃止、帯刀の禁止など武士の廃絶を目論みました。

 そのため士族から恨みをかい、1869年に京都で同郷の元長州藩士の団伸二郎ら8名の刺客に襲われ、その後、搬送先の大阪で蘭医ボードウィンによる左大腿部切断手術を受けましたが、治療もむなしく敗血症で亡くなりました。

 享年45歳でした。

 大村益次郎さん遺志を引き継いだ山縣有朋(やまがた ありとも)の時に、明治6年(1873年)に国民皆兵を謳った徴兵令が制定され、それによって組織された明治政府軍は、西南戦争で活躍し、明治10(1877)年に西郷隆盛さんを自決に追い込んだというのは、皮肉な運命です。

 ということで、大村益次郎さんは、どうも歴史ファンに人気がある偉人と敵対している場面が多くて、旗色が悪いのですが、近代日本の建設に大いなる貢献があったのは間違いありません。こういう有能な実務家も国家には必要なんですよね。

 これで大村益次郎像、楠木正成(くすのきまさしげ)像、西郷隆盛(さいごうたかもり)像という東京の三大銅像が揃いましたので、改めて紹介します。

 皇居外苑の楠木正成像(再掲)





 楠正成公の記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51551744.html

 上野の西郷隆盛像(再掲)





 西郷隆盛さんの記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/48529624.html


 ということで、頭が大きくて頭脳明晰な大村益次郎さんの記事でした。

 次に続きますね。

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コメント

No title

情に厚い人の方が、親しみやすいですもんね。
ドライな人は正しい行いをしていても反感を買いそう・・・。
写真のお顔、妖怪のぬらりひょんに似てますね(^^;) ポチ☆

No title

みゆりんさん、人間は最後には情とか人間関係ですからね。
情の人と、ドライな人が上手く協力できたら、一番良い政府ができるのでしょうが、歴史は上手く行きませんよね。
妖怪ぬらりひょんも頭が大きいですよね。
火吹き達磨って仇名、結構本人は傷ついていたりして・・・。
戦死者の慰霊施設を献策したくらいですから、情がなかったわけでもないのでしょうが。
人物の評価って、判断が難しいですね。
ポチありがとうございます。

No title

そういえば、大村さんの像は上野を向いていて、彰義隊を封じてるって聞いたことあるわ・・・あれは、誰の本だったか??で、西郷さんは彰義隊のお墓を背にして、やはり彰義隊を封じてるって・・・でも、今考えたら西郷さんは、合わす顔がない・・・とかって思って背中を向けてたのかもね・・・凸

No title

むにゅさん、この銅像は上の戦争の時の大村さんなので、上野の方を向いているのでしょうね。
西郷さんも、彰義隊も江戸っ子に人気があるし、西郷さんは彰義隊に同情的だったみたいなので、逆に彰義隊を庇うように立っているかもしれません。
大村さんも西郷さんも彰義隊も今の東京を守護してくれているのは間違いなさそうですね。ポチありがとうございます。
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