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横浜港の散策だよ(その11) 【ファイルT156】2011.07.01 

【ファイルT156】2011.07.01 横浜港の散策だよ(その11)

『赤い靴はいてた女の子』考だよ。

 その1からご覧になられる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51882527.html
  
 横浜港には童謡「赤い靴」の彫刻が立っています。
 




 横には歌詞と由来を書いた立て札が寄り添っています。
 




 『この曲は横浜港を舞台に作られ、大正10(1921)年に発表された童謡です。女の子の像はこれを記念し、多くの人に親しまれる彫刻となることを願って、ここに置かれています』

 大正10(1921)年といえば、大正12(1923)年の関東大震災の二年前です。

 時はまさに大正デモクラシーの時代で、大正6(1917)年にロシア革命が起き、皇帝ニコライ2世の一家7人、ニコライの専属医、女中、一家の料理人、従僕から飼い犬まで虐殺され、世界中が共産主義の残酷さに恐怖しました。

 その革命自体が血塗られた権力闘争と陰謀の連続で、共産党(赤色ロシア)に反対するロシア貴族(白系ロシア人)や、抵抗勢力が革命の過程で粛正虐殺され、亡命者も多数出しました。

 大正6(1918)年には連合国(大日本帝国・イギリス帝国・アメリカ合衆国・フランス・イタリアなど)が「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」という大義名分で革命の世界拡大の抑止のためシベリア出兵を行いましたが、日本国内でも社会主義者の扇動により米騒動などの争議が頻発しました。

 それはともかく、改めて歌詞を見てみましょう。

 ※  ※  ※

 1.赤い靴(くつ) はいてた 女の子
   異人(いじん)さんに つれられて 行っちゃった

2.横浜の 埠頭(はとば)から 汽船(ふね)に乗って
  異人さんに つれられて 行っちゃった
 
3.今では 青い目に なっちゃって
  異人さんの お国に いるんだろう

4.赤い靴 見るたび 考える
  異人さんに 逢(あ)うたび 考える

 ※  ※  ※

 歌はこちらで聴くことができます。
http://www.youtube.com/watch?v=EAR3PIe80rM

 埋め込み不可なのでリンクを貼りました。

 アコーディオンの音とマンドリンのトレモロが哀しいねえ。

 私はこれを人さらいの歌だと思っていました。

 横浜には人さらいの異人さんがいて、親の言いつけを守らずに、一人で遊んでいたらば、さらって行かれて、曲馬団(きょくばだん=サーカス)に売られてしまうんだねえ。

 なんか、『安寿と厨子王』の山椒大夫のハイカラ版のようなイメージなんですよね。

 チョコレートかなんかに釣られて誘拐されたのかな?

 それにしても、アメリカでアメリカの食べ物ばかり食べていると、目が青くなるんだねえ。
 
 などと子供心にとても怖い思いをしました。

 本当にミステリアスな歌詞です。
 
 物悲しく美しいメロディと相俟って、この歌詞も人気の秘密なんですね。

 
 発表はされなかったものの、1978年になって発見された草稿には、以下の5番もあったそうです。

5.生まれた 日本が 恋しくば
  青い海眺めて ゐるんだらう(いるんだろう)
  異人さんに たのんで 帰って来(こ)

 
 この曲は大正10年(1921)に野口雨情によって作詞され、翌大正11年(1922)に本居長世が作曲したものです。

 この赤い靴の女の子にモデルがいるという説が浮上したのは、昭和48年(1973)11月、北海道新聞の夕刊に掲載された、『岡その』さんという人の投稿記事がきっかけでした。

 話の概略はこういうことのようです。

 「雨情の赤い靴に書かれた女の子は、まだ会ったこともない私の姉です」。

 この記事を元に、当時北海道テレビ記者だった菊地寛氏が、義妹である岡そのさんの母親の出身地静岡県静岡市清水区をスタートに、そのさんの父親の出身地青森県、雨情の生家のある茨城県、北海道各地の開拓農場跡、そして横浜、東京、ついにはアメリカにまで渡って幻の異人さん、宣教師といった具合に5年あまりの歳月をかけ「女の子」のについて執念の取材をし「赤い靴の女の子」が実在していたことを突き止めたというのです。
 
 女の子の名は『岩崎きみ』ちゃん。

 きみちゃんは明治35年(1902)7月15日、日本平(にほんだいら)の麓(ふもと)、静岡県旧不二見村(現 静岡市清水区宮加三)で生まれました。

 きみちゃんは生まれてまもなく、いろいろな事情で未婚の母親「岩崎かよ」に連れられて北海道に渡ります。

 母親に再婚の話がもちあがり、かよさんは夫の鈴木志郎さんと社会主義運動の一環として作られた平民農場(現北海道、留寿都村)に入植することになります。

 当時の開拓地の想像を絶する厳しさから、かよさんはやむなく三歳のきみちゃんを義父の佐野安吉の仲介によりアメリカ人宣教師チャールス・ヒュエット夫妻の養女に出します。

 やがて、ヒュエット夫妻はやがてきみちゃんを連れてアメリカに帰国したという便りがかよさんの元に届きます。

 かよさんと鈴木志郎さんは平民農場で懸命に働きますが、静岡から呼んだかよさんの弟「辰蔵」を苛酷な労働の中で亡くし、また、開拓小屋の火事などもあって失意のうちに平民農場から引き上げます。 明治40年(1907)のことでした。
 
 鈴木志郎さんは北鳴新報という小さな新聞社に職を見つけ、同じ頃この新聞社に勤めていた野口雨情と親交を持つようになります。

 明治41 (1908) 年、小樽日報に移った志郎は、石川啄木とも親交を持ったことが琢木の「悲しき玩具」に書かれています。
 
 「名は何と言いけむ、姓は鈴木なりき、今はどうして何処にゐるらむ」

 雨情は明治41年(1908)に長女を生後わずか7日で亡くしています。

 おそらくそんな事情から、かよさんは雨情に幼かった自分の娘をアメリカ人夫妻の養女に出したことを話したのでしょう。

 その話が、詩人野口雨情が創作意欲をかきたて「赤い靴の女の子」のイメージが膨らんでいったのだと思われます。

 また、雨情は 、また夭折した長女への思いを「生まれてすぐにこわれてきえた」という『シャボン玉』の歌詞に託したのだと言われています。
 
 後年、母かよは、妹のそのさんに「雨情さんがきみちゃんのことを詩にしてくれたんだよ」と話して聴かせたと言うことです。 

ところが意外な事実が分かります。

 赤い靴の女の子は、実は異人さんに連れられてアメリカに渡っていかなかったのです。

 母かよさんは、亡くなるまできみちゃんはヒュエット夫妻とアメリカに渡り、幸せに元気に暮らしていると信じていました。

 ところが、ヒュエット夫妻が任務を終えアメリカに帰国しようとしたとき、6歳だったきみちゃんは不幸にも当時その時代不治の病といわれた結核に冒され、身体の衰弱がひどく長い船旅が出来ず、東京麻布のメソジスト系の鳥居坂教会の孤児院に預けられたのでした。

 治療の甲斐も無くきみちゃんが9歳の短い生涯を閉じたのは、明治44年(1911)9月15日の夜のことでした。
 

 この説については、異論反論が出されてるようです。

 永六輔氏は、「『赤い靴』の赤は実はソ連のことで、「そのソ連、社会主義がどこかへいっちゃった」という挫折感を、治安維持法による検閲を逃れるため隠喩を用いて訴えたのだというトンデモ説を出しています。

 治安維持法の成立は大正14(1925)年で、『赤い靴』が作詞されたのは大正10年(1921)ですから、話になりません。

 作家の阿井渉介氏も、その著書『捏像 はいてなかった赤い靴』で「雨情の『赤い靴』は社会主義的ユートピア運動の挫折の隠喩と解すべきだ」という論旨を主張しているようです。永六輔氏への応援ですね。

 また、平成21年(2009)年8月、北海道函館市に『きみちゃん像』が建てられた際に、毎日新聞は「平民農場開拓を指導した幸徳秋水らによる社会主義ユートピア運動の「挫折」を歌ったものとする指摘もあり、野口の親族らからは「実在のモデルはなかった」との主張もされている」と報じているそうです。

 毎日新聞は永六輔氏や阿井渉介氏の説を根拠も示さずに紹介することで、『きみちゃん像』にイチャモンをつけているのですね。

 反日左翼の毎日新聞が、否定したがっていると言うことは、『岩崎きみ』ちゃんモデル説が正しいのでしょう。

 第一、既にソビエト社会主義共和国連邦の崩壊で失敗が証明された社会主義デオロギーで出来た童謡なら、今も幅広い層に受け入れられるはずはありません。

 それに、外国人に里子に出された子供が海外に渡航するというシチュエーションにイデオロギーの介在する余地なんてあるわけないでしょ!

 例えば、寺山修司氏が「花いちもんめは、吉原の遊郭に売り飛ばされた幼なじみを身請けに行く歌だ」という珍説を述べていたという記憶があるのですが、とにかく左の人はなんでもかんでも『権力に抑圧された民衆』の話に持っていきたいようです。

 私は国語教師が『シャボン玉の歌は遊郭に売り飛ばされ、外界と途絶された遊女が外に出たいという願望を表した歌だ』などという珍説を自慢げに開陳していたのを聞いたことがあります。

 これって、ソ連で多くの文化人芸術家が、社会主義リアリズムの名のもと、ロシア・アヴァンギャルドや西欧の前衛的な手法が、徹底的に排除され大弾圧を受けたというスターリン体制の悲劇の歴史を全く無視しています。

 体制に批判された人たちは転向を強いられたり、シベリアへ流刑されたり、処刑されたり、欧米へ亡命していったりとんでも無い目にあいました。

 この人達って全く反省しないのですね。

 そういえば、吉本ばななさんのお父さんの吉本隆明さん(よしもとたかあき・詩人・新左翼の思想家)の『共同幻想論』は、政治が詩や文学に介入する事を徹底的に批判したことから発想されたものです。

 話の真偽はともかく、『赤い靴』が、欧米人に里子に出され横浜港から海を渡った幼い女の子の歌だと言うことは確かなようです。
 




 人さらいの歌じゃなかったんだねえ。

 9歳で結核で亡くなった岩崎きみちゃんに合掌。

 次に続きます。

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コメント

No title

私は、この歌を母が良く歌っていたのを聞いて、時々哀しい思いになったことを思い出しました。「赤い靴を履いていた女の子」が人攫いに遭ったのだとは思いませんでしたが、決して幸せな状態でアメリカに渡ったのだとは思えませんでした。子供ながらに、何か公には出来ない事情が裏側に隠されているのだろう、と思っていました。
ただ、アメリカに渡ったら、青い目になって、元気で幸福ににアメリカで暮らしているのだろう、とは想像していました。
が、実は、「赤い靴を履いていた女の子」はアメリカに渡っていなかったのですね。
その事実は、今の私にはショックです。
赤い靴を履いて、アメリカに渡って、幸せに暮らしていて欲しかったです。

No title

この歌は一度聴いたら忘れられない名曲ですね。
今は海外に行くなら飛行機でひとっ飛びですが、この時代は何十日もかけて船で行ったのですね。
今の人にとって、アメリカなんか、若い人でも気軽に出かけますが、それこそ、洋行は覚悟の要る冒険だったのですね。ましてや小さい女の子が海外行くなんてどれだけ不安だったのでしょう。胸が締め付けられそうですよね。
アメリカは豊かな夢の国だったのですが、黄禍論と言って、日本差別が酷くなっていた時代でした、作詞家の野口雨情さんも、渡米=幸せとは思っていなかったのだと思います。
アメリカに行けたら、幸せだったか、行かなかった方が良かったか分かりません。
でも、お母さんのかよさんは、亡くなるまできみちゃんはヒュエット夫妻とアメリカに渡り、幸せに元気に暮らしていると信じていたのは、きっと良かったのでしょうね。
孤児院でひっそりと9歳の短い生涯を閉じたきみちゃん。幸せで笑顔になることはあったのでしょうか?そうあって欲しかったと願わずにはおられませんね。

No title

私はこの歌…ひい爺さんに連れられていっちゃったって思ってました。
でも野口雨情はシャボン玉や赤い靴を思うと
良いお父さんだったのでしょうね。ポチ☆

No title

みゆりんさん、本当に異人さんなんて言葉が分からないですからね。
ひいじいさんが孫夫婦からひ孫を連れて行くって、余程、孫夫婦の育て方に不満だったのでしょうね。
野口雨情さんの亡くされたお子様に対する思いはとても強かったそうです。
シャボン玉も赤い靴いなくなった空虚感と寂しさが感じられますよね。
ポチありがとうございます。

No title

これ、ものすご~く怖い歌だとおもってました・・・・個人的にはドナドナと同じくらい悲しいって思ってたけど違うんですね・・・結果的には幼くして亡くなってしまて悲しいんだけど・・・・凸

No title

むにゅさん、私は人さらいの怖い歌だと思っていました。
外国に行って西洋料理を食べると、目が青くなるんだって・・・。
体まで変わるなんて、怖いですよね。
岩崎きみちゃん、結核でたった9歳でなくなったのですが、今なら結核は治る病気ですからね。本当に悲しいお話ですね。
ポチありがとうございます。
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