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防衛省市谷ツアーに参加したよ(その14) 【ファイルET55】2011.12.25 

【ファイルET55】2011.12.25 防衛省市谷ツアーに参加したよ(その14)

勲一等瑞宝章正章、御名御璽、千人針、軍票

 防衛省ツアーの市ヶ谷記念館大講堂の記事の続きです。

 その1から読まれる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52534735.html
 
 今村中将(当時)が着用していた勲一等瑞宝章正章と副章です。





 この勲章を着用していた今村 均(いまむら ひとし、1886年6月28日 - 1968年10月4日)閣下は、大日本帝国陸軍の軍人で最終階級は陸軍大将。

 今村閣下は、その人柄や軍人としての能力、軍政は今日でも旧占領国のみならず、敵国であった連合国側からも称えられていた名将でした。

 大東亜戦争開戦に際し、今村閣下は第16軍司令官としてオランダ領東インド(インドネシア)を攻略する蘭印作戦を指揮。

 帝国陸軍の最精鋭空挺部隊である挺進連隊や、一式戦闘機『隼』配備の飛行第64戦隊・飛行第59戦隊の活躍により、パレンバンの油田地帯を制圧(パレンバン空挺作戦)。

 わずか9日間で約9万3千のオランダ軍と約5千のイギリス軍・アメリカ軍・オーストラリア軍を降伏させました。

 その際に今村閣下は、オランダによって流刑とされていたインドネシア独立運動の指導者、スカルノとハッタら政治犯を解放し、資金や物資の援助、諮詢会の設立や現地民の官吏登用等独立を支援する一方で、軍政指導者としてもその能力を発揮し、攻略した石油精製施設を復旧して石油価格をオランダ統治時代の半額としたり、オランダ軍から接収した資産で各所に学校の建設を行い、日本軍兵士の軍規の保持や治安の維持に努めるなど現地住民の慰撫に努めました。

 かつての支配者であったオランダ人についても、民間人は住宅地に住まわせて外出も自由に認め、捕虜となった軍人の待遇を良くするなど寛容な軍政を実施しました。

 また、オランダ統治下で歌うことが禁じられていた独立歌『インドネシア・ラヤ』が、ジャワ島で盛んに歌われていることを知った今村閣下は、東京でそのレコードを作らせて住民に配り喜ばれたといいます。

 その後1942年(昭和17年)11月20日、今村閣下は第8方面軍 (日本軍)司令官としてニューブリテン島に位置するラバウルに着任。

 今村大将以下の第8方面軍は、草鹿中将以下の南東方面艦隊と共に、孤立しながらも奮戦。アメリカの猛攻に耐えながら、終戦までラバウルを確保しました。

 1945年(昭和20年)8月15日、日本が降伏し第二次世界大戦は終結。

 今村閣下は戦争指導者として戦争犯罪者の容疑により軍法会議にかけられます。

 第8方面軍司令官の責任を問われたオーストラリア軍による復讐裁判では、一度は死刑にされかけますが、現地住民などの証言などもあり禁錮10年で判決が確定しました。
 他方、第16軍司令官時代の責任を問うためのオランダ軍による裁判では、無罪とされました。

 その後、今村閣下はオーストラリア軍の禁錮10年の判決により、1949年(昭和24年)に巣鴨拘置所(巣鴨プリズン)に送致。

 しかしながら、今村閣下は「未だに環境の悪い南方で服役をしている元部下たちの事を考えると、自分だけ東京にいることはできない」として、1950年(昭和25年)には自ら多数の日本軍将兵が収容されているマヌス島刑務所への入所を希望し、妻を通してマッカーサーに直訴したといわれています。

 その態度にGHQ司令官のマッカーサーは、「私は今村将軍が旧部下戦犯と共に服役する為、マヌス島行きを希望していると聞き、日本に来て以来初めて真の武士道に触れた思いだった。私はすぐに許可するよう命じた」と言ったといいます。

 その後刑期満了で日本に帰国してからは、東京の自宅の一隅に建てた小屋に蟄居し、軍人恩給だけの質素な生活を続ける傍ら「回顧録」を出版し、その印税はすべて戦死者や戦犯刑死者の遺族の為に用いられました。

 今村閣下は1968年(昭和43年)10月4日死去。享年82歳でした。

 このような名将の存在を、戦前戦中、自らさんざん戦争を煽ったメディアは、徹底的に隠蔽し、日本軍がいかに残虐非道だったかということを口を極めて喧伝します。


 金鵄勲章(きんしくんしょう)の授与を証した賞状です。





 日本国皇帝であられた明治天皇の『睦仁(むつひと)』の御名(ぎょめい)と御璽(ぎょじ)が刻まれています。

 御名御璽(ぎょめいぎょじ)というのは、本来、君主の名前(の署名)及び公印を意味します。

 金鵄勲章はかつて大日本帝国陸軍と大日本帝国海軍の軍人軍属に与えられた日本の勲章です。

 『金鵄(きんし)』という名前の由来は、神武天皇の東征の際に、神武の弓の弭【ゆはず:弓の末端にあって、弦の端をひっかける金具。また、弓の末端部】にとまった黄金色のトビ(鵄)が光り輝き、長髄彦(ながすねひこ)の軍を眩ませ、降参させたという逸話に基づいたものです。

 賞状には金鵄勲章の図案があしらわれていますが、これは印刷じゃなくて手書きなのだそうです。とても細かい仕事でびっくりです。





赤色七宝の旭光の上に金色の霊鵄(れいし)を配し、下に大神宮の盾、矛、剣を配しています。

功級により金鍍金の範囲が異なりますが、ほとんどの等級で意匠は同一で裏面の装飾はありません。

功一級の副章及び功二級の正章のみ、斜めの旭光部分に黄色の七宝が用いられています。

綬(じゅ)は浅葱色(あさぎいろ)と呼ばれる鮮やかな緑色を織地に白の双線が配されています。佩用式(はいようしき)は旭日章(きょくじつしょう)などと変わりませんが、功一級の大綬は日本の勲章では唯一、左肩から右脇に掛けました。


 千人針(せんにんばり)です。





 千人針は、大東亜戦争まで日本でさかんに行われていました。

 出征兵士の武運長久を願うお守りとして、多くの女性が一枚の布に糸を縫い付けて結び目を作ります。

 1メートルほどの長さの白布に、赤い糸で千人の女性に一人一針ずつ縫って結び目をつくってもらうのですが、寅年生まれの女性は特例として自分の年齢だけ結び目を作る事が出来ます。

 これは虎が「千里を行き、千里を帰る」との言い伝えがあるからです。

 同じ理由で、ただ単に縫い目を並べるのではなく、虎の絵を刺繍で描いた例も多く見られるそうです。

 また、穴の開いていない五銭硬貨や十銭硬貨を縫いこむことも行われました。

 これは「五銭」は「死線(しせん=四銭)」を越え、「十銭」は「苦戦(くせん=九銭)」を越えるという事に由来しています。

 他に、神社などの護符を縫いこんだ例もあったようです。

 兵士は、この千人針を銃弾よけのお守りとして腹に巻いたり、帽子に縫いつけたりしました。

 千人針は、日露戦争の頃から、行われるようになりましたが、この頃には「千人結び」や「千人力」などの名でも呼ばれていたそうです。

 その後、支那事変から太平洋戦争にかけて日本全国に普及していく過程で、呼び名も「千人針」で統一されていきました。

 戦時中は、街頭で通行中の女性に縫い取りの協力を求める光景が良く見られたそうです。

 大東亜戦争の後は、日本が戦争を経験しなかったことから、千人針が行われることもなくなりましたが、自衛隊イラク派遣での第4次復興支援群派遣に際しては、出動する自衛隊員に千人針が贈られたことがあったそうです。


 軍用手票(ぐんようしゅひょう)です。





 軍用手票(military currency、military payment certificate)は、戦争時において占領地もしくは勢力下にて軍隊が現地からの物資調達及びその他の支払いのために発行される擬似紙幣(ぎじしへい)です。

 一般的には『軍票(ぐんぴょう)』とよばれます。

 日本が敗戦したので、この軍票は何の価値も無くなってしまいました。うへえ。


 ということで、次に続きますね。







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コメント

No title

ニューブリテン島に司令官として着任した今村閣下は軍人としても、そうでない一般人としても、腹の据わった凄い人ですね。
今の世代にもこういう方がどこかにおられるのかなぁ、と考えてしまいます。
「ラバウル」と聞いて、ふと思い出した歌があります。ほんの一部ですが・・・

”さらば、ラバウルよ、また来るまでは、
しばし別れの涙が滲む
恋し、懐かし、あの山見れば・・・”後の歌詞は忘れましたが、メロディだけは今も最後まで覚えています。

No title

トマトさん、今村閣下が一般人としても立派だったのは本物の武士だったからなのでしょうね。
人間の真価は逆境の時にこそ発揮されますよね。結局人間は発言よりも身の処し方なんですね。
最近の例で言うと、ご体調が悪いにもかかわらず、精力的に罹災地をまわられ誠実に慰問された今上陛下は別格として、福島第一原発の吉田所長が、良く頑張っておられたと思います。
でも今はそういう人が上に立てる仕組みになっていないようにも思えるのですが。
『ラバウル小唄』ですね。
”さらば、ラバウルよ、また来るまでは”までのメロディーは知っていました。
googleの動画検索で調べてみたら、春日八郎さんの歌がありました。
http://www.youtube.com/watch?v=bcLzbSlE-eM
初めて全曲を聴いたら、ラバウルの風土、人情に対する愛情に溢れた名曲ですね。
私でもほんの一部とはいえ知っていたということは、いかに当時の兵隊さんに共感を持って受け入れられていたかということの証明ですね。
私は、日本の兵隊さんにとって戦地は左翼の人達の言うような侵略搾取の地だったとは全く思えません。

No title

やはり、この方は生まれながらの将なんでしょうね・・・上に立つ人はこうでなくては・・・花は桜に、人は武士・・・そんな言い方もありましたっけね・・・凸

No title

むにゅさん、やはり天職というのはあるのでしょうね。人間の器というのは生まれつきなのかな?
今は激動期だと思うのですが、みんなでよってたかって人材を潰しているようにしか思えないのですよ。
武士道というのは、平時においても必要だと思いますよ。
ポチありがとうございます。
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